人妖大戦: PROLOGUE
評価: +38+x
blank.png

追想


西暦二〇〇六年 四月三〇日

 温かい陽気の桜舞い散る午後だった。三週間の時間は、高校生たちが仲良くなり、グループを作るのには十分である。京都府の某所にひっそりと立っている白い校舎は無表情に古ぼけていた。家格の問題か、それとも本人の社交性の問題か。ともかく、応神いらがみなぎは友人の輪に混ざることに失敗した。
 晩春の空気にピンボケした白い校舎は、まるで壁のようにそこに存在しているだけだ。薙は裏庭の桜の木の下で、いつも通りに一人で弁当を食べていた。ふと、前方から何かが二重になっている妙な気配を感じる。

「あっれぇ 。ここ、空いてると思ったんだけどなあ」
「別におれが独占してるわけじゃない」

 警戒して損した、と薙は思った。一瞬止めた手を、弁当を消費するために再び動かす。目の前の女は金髪で、その他は至って普通の女子学生の格好をしていた。セーラー服を着ていて、ローファーを履いている。妙だと思ったのは、その制服がジャストサイズなことであった。彼女はさも当然かのように薙の横に座り込む。甘いアプリコットがふわりと香った。

suger5.png

「そんなんだから友達出来ないんでしょ、応神薙」
「お互い様だろ、稲羽いなば杏子あんず

 クスクスと彼女は笑った。そういえば、と薙は職員室で見た去年度の卒業生の写真に、よく似た顔がいたと思いだした。おそらく彼女の姉か何かだろう。暗い雰囲気の姉とは対象的に、稲羽杏子は明朗快活である。ちょうど今の陽光のように。

「稲羽家の次期当主に妹がいたとは、初耳だ」
「酷いじゃない。そんな。あたしたち、幼い頃に一回会ったでしょ」

 稲羽家と応神家はもともと一つであったという説がある。平安時代の深謀遠慮の策によって、力を持ちすぎたとある家が二つに分けられたそうだ。応神家は体術を、対して稲羽家は法術を主に継承している。もともとは一つだった技法が、分かたれたのだ。
 薙は「会ったことなど……」と回想しながら、最後の一個の唐揚げに箸をつけようとした。そう試みた瞬間、法術の行使を感知する。唐揚げは無情にも薙の箸をすり抜け、稲羽杏子の口に吸い込まれてしまった。薙は弟や妹に作った料理を強奪されることにすでに慣れているため、特に何も思わない。

「罰金。あたしのことを覚えてなかったから。 美味しいね、これ。薙くんが作ったの?」
「皇室御用達の材料を仕入れているそうだ。だがおれが作ったことには間違いない。おれたち二人で家庭科部にでも入るか?」
「いいね、それ」

 しばらくお互いの身の上の話などをしながら徒然なるままに時間を過ごしていると、不意に杏子が薙の顔をじっと覗き込む。見つめられたのでそのまま見つめ返していると、彼女は実のところサングラスの方を見ていると気づいた。

「そのマッカーサーみたいなサングラスさ、外さないの?」
「家伝の体術を継承する時に目をやっちまってな、医師から光の刺激を抑えるように言われている」

 少しだけサングラスを外すと、杏子は「カワイイ顔してんじゃん。あたしカワイイの好きだよ」と言い放った。薙は「そうか」と短く返して、再びサングラスをかける。幼い頃に初恋をめちゃくちゃにされて以来、年頃の女子と接したことがなかった彼は、頬の熱さを感じる。よく見てみると、杏子の体には、妙な境界がいくつも走っていた。少し不気味だ。

「なにか妙なものが見えるとかじゃないんだ、つまんない」
「その術は練習中だ」

 試しに観見の術を使う。視界は即座に水墨画に埋め尽くされる。しかし稲羽杏子のことを認識しようとした瞬間、頭に強い負荷がかかったような気がした。術式は自動解除され、いつも通りに淡桃色の桜が舞う。

「今、薙くんの目がちょっと金色になった気がした」
「気のせいじゃないか?」

 杏子は唇を尖らせる。胡乱げに細められた彼女の目から、薙はコミュニケーションの失敗を悟った。キーン、コーン、カーン、コーン チャイムの音があたりにこだまする。薙は、次の授業が遅刻に厳しい歴史教師の担当であることを思い出した。稲羽杏子は静かに立ち上がり、そして童謡を歌う。

「しゃーぼんだま、とんだ。やねまでとんだ 

 彼女はそのまま浮き上がり、教室の窓に吸い込まれていった。薙は最短距離で教室まで行くと決心し、校舎の壁のパイプに手をかける。身体能力にまかせて、次々と壁の取っ掛かりに手をかけ、足をかけた。彼が猫のごとく窓に体を滑り込ませたのと、歴史教師が教室のドアを開けたのは同時だった。

「おれ、遅刻じゃないですよね」


西暦二〇一三年 九月五日

「ざっとこんなもんかな」

 上り坂にかかったので、34型GT-Rのアクセルを少しだけ踏み込む。踏み込む量に注意しないと、すぐに五〇キロかそこら増速してしまう。二人は高速道路を一二〇キロ程度で流し、薙の実家へと向かっていた。

「どうりで料理が上手いわけだ」
「あんたが聞きたかったのはそこじゃねえだろ」

 無線越しに谷崎の皮肉が聞こえる。大阪までの道もようやく終わりに近づいた頃、谷崎は急に稲羽杏子と薙の出会いを聞いた。くつくつと笑う谷崎の声が一旦途切れる。薙の車内には重厚なエンジン音とタイヤノイズのみが響き渡った。がらんどうの高速道路を、西日が照らしている。

「いや、十分だ。彼女に対してキミが奇妙に感じた点を教えてくれたからね」

 二人は高速道路を降り、羽曳野の閑静な住宅街でゆっくりと車を転がす。迂闊にエンジン音を出してしまえば、近隣住民の迷惑になる。獣の唸り声のような音を出しながら約十分、二人は応神の屋敷の前に着いた。気がつけばすっかり夜である。
 世界の最初からあると言われても不思議ではない威容。誉田御廟山古墳にほど近いその屋敷は、うすい紙を何枚も積み重ねたような灰色の雲に覆われていた。城のような金属門に薙が手を当てると、それは思うよりも軽快に開く。車が屋敷の門をくぐると、二人の目の前には狩衣姿の青年が現れた。「お車は私が預からせていただきます」薙は躊躇なく車のキーを渡した。横の谷崎を見てみると、彼は少し気圧されている様子だった。

「式神かい? 便利なのはいいことだ」
「そうだ。こいつに預ければたとえ家が燃えても無事でいられる。ウチの蔵を管理してる式神だ」

 谷崎が車のキーを渡すと、それは式神の中の手で消える。そして車が自動で動き出す。二台とも何処かへと消えたあと、式神も一礼して、瞬きの後に露となる。明かりがないにも関わらず、応神邸内はぼんやりと明るかった。

「今日はもう遅い。あんたは離れを自由に使ってくれ。おれは母屋のほうに用がある」
「親子同士、積もる話もあるだろう」

 谷崎は別の式神に導かれて、離れ それでもかなり大きい へと歩みを進めていった。

 母屋の引き戸を開ける。薄暗い廊下はかなり狭く、体格の良い者なら二人は通れないほどだ。その代わり、部屋はかなり広い。居間の襖を開けると、まず目に飛び込んできたのは変わらない水墨画。三本脚の烏が松の木からまさに飛び立とうとする絵だ。そして、己の父。

「応神薙、ただいま戻った」
「よく戻った」

 応神風路はいつにも増して仏頂面であった。応神薙が彼の正面に着座すると、夕飯が空間からにじみ出る。会話もなしにそれを黙々と食べながら、薙は早々に谷崎の作る菓子が恋しくなった。可能な限り工程を簡素にして、それでなお味はいい。少しジャンキーであるくらいの油と砂糖の味だ。毒されたかと思いつつ、静かに箸を進める。
 材料と調理法にはたしかにこだわっているのだろう。文句なしに旨い。しかし、風路の出す有無を言わせぬ圧のせいで、味がよくわからない。昔からこの食事の時間は好きになれなかった。

「少なくとも、腕は衰えていないようだな」

 手早く和御膳を片付け、最低限の清祓の術をかけて食器を綺麗にする。食事を始めたときと逆に、食器が再び異界に放逐された頃に、風路はようやく口を開いた。最初から気配探知で母屋には風路しかいないことがわかっていたが、念のため観見の術も使って確認する。母屋どころか、本邸にいる応神の血縁者は薙と風路だけだった。

「衰えていたら大問題だ。 きょうこうは修学旅行、母上は出張ってとこか。タイミングが悪かったな」
「偶然だ。お前も多少は推理と政治がうまくなったんではないか? あの友人の影響かな」
「友人だなど 。今日はもう遅いし、その谷崎も疲れてるだろう。だから、詳しい話は明日に」

 風路は短く同意した。薙はそのまま立ち上がり、軋む階段を慎重に登って自室まで向かった。昔から変わらない部屋だ。畳敷きの十畳の部屋で、その辺に花が活けてあったり、香が焚かれていたりする。些か非人間的な静けさすら感じる部屋だった。
 荷物の詰まったボストンバッグが真ん中に鎮座しているのを横目に、楽な格好へと着替える。普段から使っている家具などは、ほとんど東京に運んでしまった。がらんどうの部屋の中で一息ついた彼は、連絡先から稲羽杏子の項を探し出した。

 少し霧がかかっていて、朝露の香りがする。一夜明けて、応神薙は谷崎と合流した。彼は庭の四阿で何となしに空を見上げていた。朝食を問題なく平らげた様子の谷崎は、まだ眠気が抜けきれていない様子である。薙は懐から嗅ぎ薬を取り出し、簡単な法術を行使した。

「ありがたい。この家にはコーヒーないのかい? 緑茶でも目が覚めんことはないけどね……朝は苦手だ」
「頼むからシャキッとしてくれ。おれ一人じゃどうも重い話題になりそうだからな」

 少しは脳の靄が晴れたのだろう。心なしか姿勢も良くなった谷崎を連れ、母屋の客間の襖に手をかける。僅かな躊躇を感じ取ったのか、薙が襖を開く前に谷崎が一息に引き開けた。昨日と変わらない様子で、仏頂面の応神風路がそこにいる。

「ぜひとも足は崩して座ってくれ」

 谷崎は一礼ののち、あぐらを書いて座る。薙はどうも足を崩す気に離れず、習慣的に正座で座り込んだ。刀は自室に置いてきたので、いまは丸腰である。なぜ実家に帰ってまで武装のことを気にせねばならぬのかと、薙は頭を振った。谷崎の視線を感じる。薙は自分の口が引きつっていることを自覚した。

 谷崎は素早く応神親子の顔を見比べた。やはり同じ色の目をしている。黒を基調として、金色の光が朝露のように輝いていた。しかし、その輝き方は違う。応神風路は、肉体的にも精神的にも死線を何度もくぐったであろう目。対して薙は、枯山水のように奥ゆかしさを維持しながらも、挑戦的な目。歯車が致命的に噛み合ってない。助け舟を出そうと谷崎は口を開いた。

suger4.png

「風路さん、このような歴史ある場にお招きいただき、感謝します。 おそらく築七〇年ほどでしょうか。それでいて、しっかりと現代的なモチーフも取り入れられているご様子で」
「先の大戦の空襲で一度燃えた時に建て直したものだ。その前にも明治維新の時に燃えている。つまり、七〇年ごとに屋敷が建て直されているということだ。この屋敷もそろそろ寿命かな」

 谷崎は若干の皮肉が皮肉で返されたことに満足げな笑みを浮かべ、再び薙に視線を向けた。薙は聞こうとしたことがすべて頭の中から飛んでしまい、口を半開きにする以上のことができなかった。あたりに静寂が響いた。

「薙。掟は破っておらんだろうな」
「『力なき者に刃を向けるべからず』『己の刃を白日の下に晒すべからず』『名と奉ずるものは明かすべからず』 破ってたらおれは今頃対処に追われてるだろうさ」

 薙は家訓をよどみなく諳んじる。三人は目の前に出現した冷たい茶を飲んだ。谷崎と風路は唇を湿らせる程度、薙はありったけ。思い出したかのように薙はコートを脱いで、壁のハンガーまで飛ばした。いくらか室内の空気がかき回された。「あのような力押しは、義手の寿命を縮める。そろそろ替え時ではあるが、今後は控えるように」風路はすべてを把握している様子だった。

「それで、誉田ほんだ椿熙つばきとは誰だ。応神の関係者だろう」
「分家にそのような名の男がいたような覚えがある。数年前の例の件以降、行方知れずと聞いているが」
「そいつ、多分生きてます」

 谷崎が推測を言う。薙と風路の視線は彼に集まった。谷崎は飄々とした雰囲気で重い視線を躱す。彼の常套手段であった。

「天月千春から怪異を切除する直前、ぼくは彼女の感情を刺激しました。その時に彼女は急に固まり 逃走・闘争反応のひとつです そして、誉田椿熙の名をつぶやきました。その時の彼女は瞳孔が広がって、心拍数が 

 ガラリ、と勢いよく襖戸が開けられる。谷崎は一瞬体を固め、思わず言葉を止めてしまった。急に少し大きな音が立てられたからだ。その奥から現れた人影を見て、谷崎は再び驚愕に目を見開いた。そこには、男物のシャツとスラックスを身にまとった天月千春がいた。薙が風路の方を見ると、彼はさもありなんとでも言いたげに茶を飲んでいた。谷崎は「あの、これって」とつぶやいた。

「ここは並の病院よりかは安全だろう。 念のために補足しておくが、検査は夜のうちに式神によって行われた。サイズの合う服が、薙の古着しかなかったことに関しては、お詫び申し上げる。淑女のお召し物を取り替えぬ訳にもいかないのでな」

 天月千春は応神薙の隣に座り、目の前に出現した茶を飲んだ。茶畑をそのまま飲んだような味がした。客間には静寂が満ちている。天月千春が立ち入ったことによるものだ。それを彼女は打破すべく、粛々と口を開いた。

「確かに、誉田椿熙とは一時期恋愛関係にありました。ですが、いまはもう関係ありませんし、そもそも彼がどこにいるのかも存じ上げません」
「同じ隊内で恋人関係が生まれるのは規律違反だ。見抜けなかった我々にも非はあるがね」

 谷崎は深呼吸をした。雨の日の寺院じみた香りが彼の鼻腔から肺を満たした。座布団がやけに硬い。運動不足が祟ったかと別のことを少し考える。こうすると、彼は少しだけ楽になる。再び谷崎は風路に視線を向けた。仏頂面の彼からは、確かに慈愛の雰囲気が漂っている。

「向こうさんの目的は何だとお思いなんです?」
「分からない。だが、こちらも大っぴらに動くわけにはいかない」

 谷崎は再び押し黙り、両手の指の腹を顔の前で合わせた。
 応神薙はサングラスに映し出された連絡を認めた。同時に、家に張られた結界をすり抜ける人物を知覚する。それは風路も同様のようで、薙に胡乱げな視線を向けた。薙はそれを努めて知らない振りをする。そして、客間の襖は再び開けられた。稲羽杏子であった。

「対処するなら、戦闘要員がおれだけでは心もとない。だから杏子にも助力を願った」
「この件には、できるだけ余人を関わらせるな。これは家族の問題でもある」

 渋い顔をして、応神風路が抗議する。薙はサングラスを外し、刺すような視線を風路の方に向けた。二人の視線が交錯する。辺りに火花の音が響いた気すらした。稲葉杏子は気づいた。記憶の中よりも二人の仲は険悪らしい。たらり、と彼女の背中に冷や汗が垂れる。

「家族の問題だからだ。だからおれは二人を呼んだ」
「ちょいちょい、風路さんも薙くんも、ちょっと頭冷やそうよ、ね? あたしはそこの谷崎 タニショーと話があるみたいだし、薙くんは千春さんと」

 いかにも慌てた様子で、稲羽杏子は薙と風路の間に割って入った。誰かのため息の音がする。詰まったみたいな空気の部屋では、話し合いもまともにできないだろう。息を入れるにはいい具合だった。

 谷崎は言われるまま、母屋の裏手に入った。いつの間にかに昼が近くなっており、空は晴れきっていた。秋の空だ。のっぺりとした空に、無表情な太陽が浮かんでいた。壁に寄りかかって無為に空を眺めていると、稲羽杏子が彼の隣に現れた。谷崎と同じくらいの背丈だった。彼女は金髪を腰まで伸ばし、若干オーバーサイズなオレンジ色のパーカーと、ダメージの入ったデザインのショートパンツを身にまとっていた。

「いやあ、ごめんごめん。急に話に割り込んじゃって」
「いいんだ。しかし薙くんも、嬉しいことを言ってくれる」

 谷崎は杏子の顔を覗き込んだ。全体的に造形が丸く、かわいげのある印象を受ける顔立ちだ。ダークブラウンの瞳が、金髪と調和している。それでいて、日向というよりも日陰のほうが似合う印象を、谷崎は抱いた。

「家族の問題だから、あたしらを呼んだってこと? まあ、あたしは薙くんの友達だからね」
「友達ね」
「そう。あいつの居るところにあたしは居るし、あたしの居るところにあいつが居る。そういう関係」

 二年間の同居で、谷崎は努めて薙とは友人関係になろうとはしなかった。代わりに、良き相棒であろうとした。役割をはっきりと分け、己のそれに薙を立ち入ろうとはさせなかった。同居を始めた頃の薙はまだ十代であったこともあり、可能な限り殺伐とした陰謀の世界からは遠ざけていた。

「つまり彼は、ぼくらのことを大なり小なり信じてるってわけだね」
「応神家の言う『信じる』とは質が違うと思うけど、そういうこと。あなたってもしかして結構バカ?」

 谷崎は面食らった。杏子は「冗談だよ」とケラケラ笑う。彼女はどこからか、長い杖のようなものを呼び出した。それは、中心部が木製でいくらか自然な湾曲を見せており、対してそれ以外のパーツはチタン合金とカーボンファイバー製の直線的なデザインだった。杖を横にして宙に浮かせると、彼女はそこに腰掛ける。谷崎も隣に座るかと誘われたが、彼は首を振って、そのまま立っていることを選んだ。谷崎はうつむく。そして、ため息をひとつついた。

「ぼくも昔から変わってないな。確認しなければ、信じることの一つできやしない」
「そんなもんでしょ。あたしは無条件に誰かを信じれるって人、信じらんないな」

 二人は視線を交差させ、そして笑った。「禅問答みたいだ」谷崎は言った。穏やかな表情とは裏腹に、二人は確かに渦巻く陰謀の気配を感じていた。


 気晴らしに、応神薙は庭にポツンと立っている四阿に向かった。後ろから天月千春がついてきている。薙が適当なベンチに腰掛けると、天月は一つ座席を開けて座った。秋のぬるい風が吹く。薙はコートを着ないまま外に出たことに気づいた。少し面映ゆい気分だった。

「それで、調子はどうだ」
「良好だよ。記憶もだんだんと戻ってきてる。ぼくと、ぼくの知らないわたしの記憶が混ざって、気分はよくないけどね」

 天月千春は力なく笑った。彼女の新月みたいな視線が地に向けられる。秋の日陰に暗く覆われたコンクリートの床があった。そこを何の気無しにコツコツと履いた靴で叩く。真夏のサイレンみたいに、辺りに空虚に響いた。

「ずっと気になってたんだけど、その左腕。どうして失ったんだい?」
「おれが一五のときの夏に、うちの家伝体術の最終試験みたいなので失った。ちょっとした事故だ」

 薙は何でもなさげに言った。その間じゅう、彼は左腕の義手をガチャガチャと動かしていた。手の甲から薄い布や紐のようなものを出したり、手首から短刀が飛び出たり、袖口から小さい銃口が覗いたり。確かに色々な機能があるようだった。

「でも、良いもんでもない。この義手はたしかに多機能だし、前よりできることは多くなった。でも、おれがどんどん削れていく感覚は、好きになれないな。正気を失いそうだ。その点、あんたは幸運だった。物理的に失ったものはない」
「ぼくも聞いたことくらいはあるさ。調子に乗って機械で全身を強化しまくった結果、ある日突然ばらばらになって、物言わぬ鉄くずになったって話」
「だから、杏子とかの術師はサイバネを使わないんだよ。魂が削れるからな。で、おれは格闘と射撃を主としているから重サイバネでも大きな問題はないというわけだ」

 天月千春は応神薙の我の強さを感じた。ふと、かつての恋人もそうだったことを思い出す。その強さは時に導きとなったが、別の時には横暴にすら感じた。常に太陽みたいに光っていればいいというわけではない。休む夜も必要なのだと天月は学んだ。ふと、脈絡のない疑問が一つ湧き上がる。

「じゃあさ、もし君が応神薙であることをやめて、例えば機械に呑まれたり、人じゃなくなったりしたらどうなるの?」
「叔父貴がおれを殺しに来る。もしその頃に叔父貴が死んでるなら、冥府から戻っておれを終わらせる。応神は人であることがまず求められるんだ。極力そうはなりたくないな」

 「うへえ」と天月は顔を歪ませた。一二〇〇年も続いている家だとは知っている。比較的に裕福だとも聞いていたし、文化資本などもかなりあるとは容易に予測はできる。しかし、重圧どころではない義務が課せられているようだった。次代に子を残すことも含めて、予め役割ロールが決められているのだ。

「だからな、普通も悪くない。おれも谷崎のやつと同居してから普通を実感して、体験した。これがずっと続けばいいと思ったときもあった。それでも、与えられた役目から目を背けることはできないんだよな。この前、あなたを助けた時に、谷崎にそんなことを言われた。だからおれは 

 穏やかで、どこまでもやさしい声だった。薙は立ち上がり、天月の前まで来る。太陽はまだ高いはずなのに、彼は北に背を向けているはずなのに、薙の背中から光が差し込んだような錯覚を得た。そして、天月はたしかに視認した。薙の背中からは積層ホログラムめいた透明な翼が生えだしており、彼の頭上には同じような輪っかが浮かんでいる。なにかの光に照らされ、それらは黄金に輝いた。

「おれは、谷崎を信じてみてもいいと思った」

 彼は極限まで力が抜けていた。格闘術の素養のある天月にはわかる。隙のない完璧な立ち方だ。ふと、薙の目に視線が向く。彼の星空のような両目は、半分閉じられている。全部任せても問題はないかと思うくらいには、強く輝いていた。

 やがて息抜きも終わったのか、薙は天月千春を連れて母屋の玄関まで戻る。ちょうど、谷崎と稲羽杏子もそこに着いたようだ。谷崎が応神薙のことを確認すると、彼は少し驚いた様子で、薙と自分の手を交互に見た。

「薙くん。キミ、なんかやった? なにやらやけに気張ってるみたいだけど」
「それこそ気のせいだろう。さ、みんな行くぞ。為すべきことはまだ残っている」


 ぞろぞろと客間に入る。先程の剣呑とした雰囲気はいくらか和らいでいるようだ。四人ともに早々に足を崩した。風路氏はにやりと笑みを浮かべ、扇子で机を一度叩く。すると、壁の隅などに巧妙に隠された投影機が空中に青いホログラムを浮かべた。ここ二〇年ほどの応神家の資料だった。

 薙はそれらにざっと目を通す。そこには応神薙の生誕からヴェール崩壊、そして風路の携わった数ある陰謀のいくつかがクリアランスに触れない程度に記されてあった。薙の母が、彼の誕生と同時に急逝したとは、谷崎も初めて知る事実だ。それによると、誉田家は明治維新の辺りに応神家内のいざこざを解決するために生まれた分家とされていた。しかし、それ以上に薙には気になることがあった。そこに必ず書かれているはずの名前が消されていたのである。

黒陶こくとう由倉ゆくらの記述がないな」

 応神薙は言った。その言葉に場にいる全員が集中する。風路は再び資料に釘付けになった。谷崎は少し何かを考えている様子で、天月千春と稲羽杏子は何がなんだかといったふうにきょとんとしていた。薙はホログラムキーボードを呼び出し、応神家の書庫を検索する。<黒陶由倉>、<天之尾羽張>、<黒コート 非定命>などといったワードを打ち込んでも、出てくるのは関係のない情報ばかりだった。

「確かに、消されている」

 風路は言う。まるで今気づいたみたいな口調だった。彼は口に手を当て、目が少し開かれた様子で、いくらか冷や汗も出ているようだ。薙はこれほど憔悴した父を初めて見る。如何な謀りごとを脳内で繰り広げているのかは知らないが、これが異常事態であるらしいことは知った。

「谷崎、プロトコル-105の制定はいつだったか」
「二〇〇八年。アイリス・トンプソンの名誉除隊と自主退職を皮切りに、軽微な異常性を持つ職員に対して職業選択の権利が与えられた。黒陶由倉は 薙くんから聞くところではあるんですが のっぴきならぬ女だそうですね。薙くん、最後に彼女と会ったのはいつだい?」
「二〇〇五年だ」

 谷崎は「失礼」と言っておもむろに立ち上がり、手首に装着された情報端末と応神本邸客間の拡張現実装置を直結させた。彼は風路のデバイスに管理権限レベル二を要請し、そして承諾を得る。瞬時、客間が白いポリゴンに覆われたかと思えば、そこは谷崎と薙の住んでいる東京のマンションのリビングに変化した。式神が気を利かせたのか、家具の配置なども完全に再現されている。大きな窓には、南へ伸びる大通りが映し出されていた。二人は定位置に座り、まるで誘導されたかのように、風路は依頼人の席に。そして、杏子と天月はダイニングテーブルに備え付けられたイスに座っていた。

「出張探偵事務所、ってね。薙くん、黒陶由倉との思い出を話してくれ。覚えている範囲でいい。そして風路さん。このような陰謀はぼくの専門範囲外です。現場に出ないと何もわからないもので……。ですから、アイランズに任せてみてはどうです?」
「ジョシュア・アイランズ……彼を内監部に推薦したのは正解だったか」

 応神風路は大きくため息をつく。薙は部屋の中を少し見回して、訥々と語り出した。


 いっそのことこの曇った夜空が全部石油になって落ちてくればいいのに、と少年は素直に思った。一九九一年に大阪にて母の胎内から吐き出されて、およそ十一年。小学校五年生といえば、下世話な話をして馬鹿みたいに盛り上がるお年頃である。しかし、彼にそのような行動はできなかった。許されなかったと言うべきだろうか。彼の家は何やら一〇〇〇年も続いているらしい。少年は「せんねん」が何かよくわかっていなかった。何かの義務があると厳格な父親は口酸っぱく言っている。少年にはその言葉の音だけが、同じくらいに古い家の柱に反響しているように聞こえた。だから彼は『ちびまる子ちゃん』が好きだったのかもしれない。何年みても変わらないクラスメイト、変わらない年齢、そして、変わらない家。九八年の一件を過ぎてから、少々毛色の変わった生徒がまる子のクラスに転校してきたのには少々面食らったが、彼は彼なりに、何かが変わっても、その先には新しい「かわらない」があるのだと結論付けた。

 逼塞しきった屋敷の空気に嫌気がさした彼はどこへと行く宛もなかった。ただ漠然と北へ行きたいとの思いを抱いて、なけなしの小遣い五〇〇〇円を握りしめ、通っていた近所の小学校から大阪市の猥雑な区域までおよそ四時間ほど歩く。日々の鍛錬のおかげで、疲れは一切感じなかった。それでも否応なく腹は減る。家にいれば食器の音だけが聞こえる食卓で味のぼやけた食品サンプルと変わらないような料理を食べているくらいの時間だろう。高級な材料を使っているらしいが、少なくとも彼はそれよりも学校の給食のほうが好きだった。

 ネオンに照らされる雑踏に紛れる彼は、塾帰りの中学生に見えなくもない。彼は警察に見つかってしまうと面倒であることを理解している。だから警察署や交番が目に入りそうになると、群衆の中に紛れるように、歩調をあくまで同調させて、全体のなかの一部として振る舞うように意識した。そうやって適当なコンビニでおにぎりとフライドチキンを買い、適当に食べながら今夜はどうするか考えてみる。家に帰るか? いや、今帰れば怒鳴り声とともにゲンコツが落ちてくるのは確定事項だろう。それは避けたかった。このまま野宿か? 不可能ではない。選択肢の一つとして保留する。ネットカフェにでも泊まるか? 仮にも自分は小学生である。細工をすれば不可能でもなさそうだが、面倒なので保留。思考そのものも、面倒なので保留。今の彼にふりかかるすべての問題を保留しつつも、足裏に伝わってくるアスファルトの硬い感触だけは保留にできないなと感じる。少年はただひたすら歩いていた。最も原始的で、体一つでどこまでも行ける。そんな気がした。

 薙坊か?」

 だから、彼に近寄るよく知った気配を感じ取ることができなかったのだろうか。本来は調和するべきでないだろう二つの香り 一つは白檀であることは知っているが、いつもより強く感じるもう一つの方に馴染みはなかった を漂わせた少女が彼に歩み寄る。少年は金色の簪を挿しているセーラー服の彼女の名前を知らなかった 家にたまに来るよくわからない大人に「ラーストチカ」と呼ばれているのは知っていたが、どう考えても本名ではない。 知らずとも、彼女のまとっている二つの香りが彼女を示し、識別するに不足ない記号となっていた。否応なく家の漂わせる雰囲気を想起した少年は逃走を試みたが、しかしどうすることもできず、手を掴まれてしまった。自分と同じくらいの大きさの手で、自分のそれよりもずっと柔らかかった。このとき、自分よりわずかに低い背丈の彼女の瞳を、少年は初めて見た。秋の赤色だった。


 彼女に手を引かれるまま、少年は胡乱げな雰囲気の漂うホテルにやってきた。受付の人間が何かを言う前に、少女は左手で複雑な印を結び、「一泊」とぶっきらぼうに告げ、千円札を八枚叩きつけると、極めて自然なふうに部屋番号を告げられ、鍵を渡された。部屋は存外広かった。見たこともない大きなベッドに、ホテルにしては大きなお風呂。少女の言うままに先に手早く入浴を済ませ、ベッドに腰掛ける。掛け布団をいじりながら、浴室から聞こえるシャワーの音に耳を傾ける。一回途切れ、もう一回。夜目は効くほうだったから部屋の電気はつけていない。少年は座っていても仕方ないと思ったので、諦めて布団の中に潜ることにした。

 ふと、気がつくと後ろから柔らかな感触を感じる。セーラー服は脱いでいるようだった。彼女がいま、どのような格好をしているのかはあえて考えないことにした。その代わりに出てきたのは、帰らねばという思考。今が何時頃かはわからないが、さすがにほとぼりも冷めただろう。

「おれ、かえらないと、ちちうえに 
「その時は私もいっしょに怒られよう」

 後ろから腕を回される。それも、わざわざTシャツの下に。ジーンズは寝るのに鬱陶しいからすでに脱いでしまった。少年はその選択を少し後悔した。Tシャツも、二人の境界を定めるにはあまりにも頼りなく、すでに少年にはどこまでが自分で、どこからがそうじゃないのか判然としなかった。首元に顔を埋められる感覚がする。同時に、わずかに脳髄を走る痺れ。

「あの、なんて呼んだらいいですか」
「ゆくらって呼んでくれれば、文句はないかな」

 自分を包む、自分だけの香り。自分だけがこの香りを識別子として認識している。少年は、今までで一番深い眠りを経験した。


 あさ、というよりも昼というべき時間帯だ。窓から流れる暖かい風が髪を撫でる。布団に残る香りに名残惜しさを感じつつも、少年は起き上がる。すでに起きて、身支度も済ませたらしい少女は少年と同じくらいの年齢にみえるが、果たして本当にそうなのだろうかと少年は脈絡もなく疑問に思った。ゴキゲンな様子で彼女は40秒で身支度を終えた少年の手を取る。

「酔いたくなければ、目を閉じておけ」

 彼女はそうぶっきらぼうに告げると、およそ少女とは思えないような力で彼を引っ張り、窓の外へと躍り出た。少年は至って冷静だ。自由落下の風圧って強いんだなと余裕で感じられるくらいには安心していた。目を開けると、少年は自分の屋敷の、それも父親の部屋の前に立っていた。無論、横には少女もいる。引き戸を開けようとする少年を「先に怒られてくる」と制し、一人で父の部屋の中に入っていった。

 一〇分もすると、ちょっと困ったような顔で、少女は父の部屋から出てきた。「怒られた?」と少年が聞くと、「ああ、こってりとね」と返される。「次はお前の番だよ」と空いた引き戸に体を押し込まれる。苦虫を噛み潰したような父親の顔は初めて見る。その表情を一切崩さずに「出かけるときは、一言残せ」と言われた。ちょっとスッキリしたような気がした。


 それから黒陶由倉は一ヶ月に二度か三度、応神邸にやってきた。彼女のために、薙は学校の勉強も、家伝体術の稽古も地道にこなすようになった。黒陶由倉の不意をついて襲いかかっても、気づかぬ内に地面に転がされて、彼女の血に漬けた白バラの色の赤い瞳に見つめられる。その時の彼女は困っていて、少し笑っていた。誰よりも美しい笑みだと思った。

 その流れで、薙と黒陶は大阪の町に繰り出す。彼女に連れられて初めて行ったUSJは楽しかったし、稽古をサボって食べるマクドナルドは美味であった。大量生産された糖質と脂質の固まりの暴力に少し固まってしまったほどだった。その後に勢いよくがっつく彼を見て、黒陶由倉は大笑いした。

 黒陶の体術は古い形の応神家伝体術だ。会うたびに河川敷などで組手をした。それで汗を流したあと、例の胡乱げなホテルに泊まり込むか、あるいは薙の部屋で一緒になって、黒陶由倉が話をする。その時間のために、薙は日々を過ごしていた。

 薙が十四歳になってしばらく経ったある日、いつものように黒陶由倉との一日を過ごし終わった夜。いつになく、彼女は暗い表情を見せていた。電気を消して、防音の結界などを張った薙の自室で、二人はいつもどおりに薄着になって、体を寄せ合っていた。いまは薙のほうが黒陶より頭一つ分背が高い。だから、彼は黒陶のことを、彼のあぐらの上に乗せるようにしてやわらかく抱いていた。

「なあ、薙坊」
「いつになったら『坊』を外してくれるんだ、由倉さん」
「おまえが太陽を直視できるようになったらだな」

 サングラスを外して、太陽を直視しようと思えばできる。しかし、彼は友達の言うように黄みがかった白い丸を見ることはなかった。その代わり、太陽にはその時々の色があり、形があった。白、赤、紫、丸、四角、三角。太陽は常にその姿を変えていた。薙は、それを常に正しくないと思っていた。サングラスをかけていれば、みんなが見ているのと同じ太陽を見ることができる。だから、彼は年中サングラスをかけている。最近は黒陶に影響されたのか、地までつくかというほどのロングコートを小遣いで購入した。ますます風貌が怪しくなっていっているが、薙はそれを気にしなかった。

「どうしたら、それができるの」
「何か信じるものを見つけたら、そうなるんじゃないのか? それよりもおまえ、昔みたいに『由倉ねーちゃん』って呼んでくれよ。お姉さんは寂しいぞ」
「やめてくれよ、恥ずかしい」

 黒陶由倉の香りが色濃く漂った。彼女は薙の腕の中でくるりと身を翻し、薙と視線を合わせる。いつもの不敵な笑顔はどこへやら、黒陶の顔はいつになく険しかった。その作りものめいた美しさに、薙は少したじろいだ。

「私と一緒に来いって言ったら、来てくれるか」
「卑怯だよ、由倉さん。何も言わずにそんなこと」

 正直なところ、薙は黒陶に憧れめいた感情を抱いていた。もしかすると、恋情かもしれない。彼にはその区別がつかなかった。だから、彼女と離れるのはなんとなく嫌だということは知っていた。黒陶もそれを感じ取っていたのだろう。そうでなければ、彼女はこんな質問をしないことにも気づいていた。

「少し大人になったな。じゃあ、教えてやる」黒陶は地獄めいて低い声で言った。それでも、少女然とした鈴を転がすような声であることには変わらなかった。

「私らが、血反吐を吐いて彼岸に押し込めた泥が、いまや文字通り大通りを大手を振って歩いている。この意味がわかるか? 向こう側に閉じ込めたはずの夜の澱が、帳を超えているんだよ。血反吐を吐いて、四肢がちぎれて、腹に穴を開けてまで切り離した世界が、いま再び繋がったんだ。もう一回世界を断ち切らないか? 私と、おまえで正しい世を取り戻そう」

 彼女はまるで初恋相手に浮気でもされたみたいな声で言った。黒く長い髪が濁流めいて畳に広がる。薙は彼女の香りのうち、白檀じゃないほうがひときわ強くなっているのを感じた。

「それでも、おれに期待されている役割は違う。父上はおれのことを信じている。それを裏切るわけにはいかない」
「ほんとうに大人になったな。三年前とはまるで違う。おまえの体も、心も、鍛え上がった。『燕の試練』を通過する日も近いだろうな」

 そう言って、彼女は薙の腹に手をそわせた。腹がとてつもなく熱くなったかと思うと、黒陶は手首くらいまでを薙の腹に埋めていた。薙は驚愕するも、それが非常に心地よいものだったため、抵抗することはなかった。黒陶の開いているほうの手が薙の頬にあてられる。

「ならば、私のすべてを永久に覚えていられる呪いをおまえに授けよう。おまえと私は一番深いところで繋がっている。もし、私が彼岸の者共を連れて世に仇なすならば、おまえが私を止めろ」
「ゆくら、さん」

 薙の意識は暗転した。長い夢を見ていたような気もしたが、彼は見たものをすべて忘れてしまった。唯一覚えているのは、強い悲哀と憧憬。燃え残りめいてくすぶるその感情が、黒陶由倉のものであるとは容易に理解できた。
 次の日の朝、起き上がってみると、そこには薙の他に誰も居なかった。彼女の匂いも、まるで昨日が嘘だったみたいに全部消えてしまっている。その日を最後に、薙は黒陶由倉と会うことはなかった。もう会えないのかと父親に聴いてみると、彼女は仕事をやめたと聞いた。その日に薙は初めて拳銃を握り、黒陶由倉のもう一つの香りの正体をつかんだ。硝煙の香りだった。

 それから薙は一五歳になり、高校の夏季休暇のとき。彼は応神家の所有する南アルプスのどことも知れぬ山の中に短刀一本と発信機とともに置き去りを食らった。不思議と殺意の高い罠だらけの山だった。これが黒陶の言っていた「燕の試練」だと薙は直感した。
 出発地点に近いほど罠は古く、それでいて丈夫なものだった。草木に隠れて矢が放たれたり、自然の落とし穴に竹槍が敷かれていたりするものだ。ひどく失敗すれば致命傷となりうるだろうが、薙の目にはそれらすべてがハイライトされたみたいに映っていた。
 何日かかけて、適度に食料と水を調達しつつ、頂上を何個か超えた頃。突破した罠は数えて三一個。先に進むに連れて、罠の威力は上がっていく。しかし、最近設置されたものが多いのか、判別がしやすかった。どこからともなく降ってくる手榴弾を遠くに投げたり、時には小口径の銃弾を法術で防御したり、そして撒かれる煙の中、観見の術を起動して見通しを良くしたり。
 次が最後の罠だと直感した。赤外線センサーによって複雑に区切られた小径だ。試しに適当に石を投げてみると、法術の光によってそれが砕ける。当たったらひとたまりもないだろうなと何度目かも知らない思考を巡らせ、注意してセンサーを避ける。匍匐で入り、少し開けたところでは全力で走る。万が一に引っかかっても、弾に当たる確率を下げるためだ。
 終わりが見えてきた頃、薙は目の前の赤外線センサーが目まぐるしく動いていることに気づいた。多数のセンサーが光を発しており、それが円を描いている。その円が鼓動みたいに大きくなったり、小さくなったりしていた。円が最も大きい時でも、到底薙が一人通れる大きさではなかった。狙いをつけて、そしてタイミングを合わせる。ここだ、という瞬間に地面を蹴り、そして飛び込み前転で罠を超えた。
 地面に手をつけた瞬間、薙は痺れを感じた。それは直ちに全身に伝播し、前転の勢いのまま、薙は地面に仰向けになる。目の前には空間から脈絡なく現れた銃口があった。やけに大きく見えるそれは彼の左胸を狙っている。薙は身を捩らせて銃口を心臓から外し、そして気休めに法術の壁を張った。
 瞬間、爆音とともに発砲。薙は左腕にとてつもない熱さを感じた。どくどくと流れ出る血が土に染み込む。おそらく銃弾は貫通したのだろう。壁でいくらか威力を削がれたとしても、大怪我には変わりない。そのまま薙は自身に賦活の術をかけ続け、そしてヘリコプターの音が聞こえた瞬間に、意識を暗闇の中に落とした。


 語り終わった薙を見つめる視線は、四者四様だった。風路は両手で頭を抱えているし、杏子はあからさまに眉をひそめている。天月千春は理解に時間を割いている様子で、谷崎は今にも笑い出しそうだといった表情だ。静寂を破ったのは谷崎の声だった。

「キミ、もしかして 
「若気の至りだ。からかうなよ」

 薙は己の髪を撫でた。谷崎は風路の方に視線を向け、彼がいくらか落ち着くのを待った。薙は一瞬だけ稲羽杏子の方を見る。やがて部屋に深呼吸の音が響き、風路は再び姿勢を正して、いつもどおりの無表情に戻った。

「風路さん、『燕の試練』の名がついたのはいつです? 応神家は烏がモチーフでしょう」
「明治時代中期だ。その頃の当主が、過去から漠然と存在していた試練を整理した。家伝体術の技法を整理して、公開して良い技法のみを烏羽二神流として公開したのも彼だよ。おそらくあなたがご存知だろう家伝体術の技法の名前は、すべてその時につけられた」
 二つのものを一つとして理と為す体術。なかなかネーミングセンスがおありで」

 谷崎は言った。癖なのか、彼は椅子から立ち上がり、キッチンに向かおうとする。しかし、その瞬間にここが東京でないことを思い出したのか、何もなかったかのように座る。薙はそんな谷崎を横目に、風路に向き直った。

「燕の試練の最後の、おれが左腕を失う直接の原因となったアレは、おやじの罠の一部じゃないよな」
「おまえに誓って、私はアレを知らない。何度か調査をさせたが、仕掛け人は不明のままだ」

 いつの間にかに出現した鉄観音を飲む。東京で飲む味と非常によく似ていたが、香りの立ち方は谷崎のほうが上手だった。茶葉はだいたい同じクオリティだろうが、日本茶と中国茶では、少しだけ淹れ方がちがうらしい。谷崎は少しメモを取りながら、風路に質問を飛ばす。

「風路さん、その天之尾羽張ってのはなんです? 黒陶由倉がもともと所属していた部隊らしいことは薙くんから聞いてますが」
「蒐集院時代からの高危険度オブジェクトに対する決戦部隊だ。身を挺して行動することが求められていた」
「現状を嫌いそうな連中ですね。ある種超常に対して諦めた上で融和を図る財団を見たら、裏切られたとでもいい出しそうな勢いだ」
「そうだ。薙、おまえの話を聞く限り、黒陶由倉は……彼女は危険人物だ。ヴェール崩壊後の新秩序を乱す、テロリストになりかねない女だよ」

 風路は苦々しく言った。彼の記憶によると、黒陶由倉が応神家と関わり出したのは明治初期のことだった。彼女は古い因習が残る村の生まれで、生贄になりかけたところを当代の応神が裏技めいた外法を使って救出したらしい。そのせいで、彼女は名もないような神にストーカーじみて付き纏われていたとは薙も知るところだった。

「しかし、親父。だとしたら指名手配でもしないとまずくないか?」
「どういう理由をつけるという」
「まあまあ、そう焦らないでください。きっと向こうから会いに来ますよ。ぼくはそう思います」

 谷崎が口を挟む。風路氏はすぐに得心した。しかし、薙は変わらずに釈然としない顔を谷崎に向けている。谷崎は二人を見比べ、なんとも言えない表情をしたあと、少しため息をついた。

「薙くぅん、いつもの鋭さはどうしたんだい? つまり、はじめはキミが黒陶由倉に接近していた様子だったが、いつの間にかに精神の主従が逆転して、黒陶由倉のほうがキミに近づきにいっているということだ。理由は分からないが、彼女の行動にはそういう気配が見られる。我々が集結したこのタイミングで、彼女はキミに会いに来る。武装はしておけ」

 薙はそそくさと自室に戻り、すぐに彼自身の装備を回収した。谷崎は風路に要請したレベル二の権限を使って、屋敷の防衛設備を閲覧する。魔術的なものから物理的なものまであるが、どれもが古いものだった。随所に隠されている機関銃はおよそ冷戦初期くらいの代物だし、魔術的な防御もヴェール崩壊後の世界に対応しているとは思えなかった。

「確かにこの程度の防御兵装なら、気休めにもならないでしょう。察するに、この屋敷はガワもいいところじゃないんですか? 本気で守らねばならぬものは、それ相応の隠蔽がされていると見えます。お客は積極的に招いて、迎え入れるべきではないでしょうか?」
「それによるリスクはどうする。薙や我々に危害が加わったとあれば、責任をとるのは谷崎、あなただ。黒陶由倉の行動は読めた試しがない。己の命を盤面に乗せる覚悟はおありか?」
「ぼくの命をベットするのは初めてじゃありません。黒陶由倉はひとまず応神薙を傷つけないし、おそらくその仲間となっている誉田椿熙は天月千春を傷つけません。そして彼女は曲がりなりにも応神に恩があるので、あなたも大丈夫です。稲羽杏子に関しては、そもそも家が応神と関わり深い上、危害が加わったとあれば稲羽家の執念深さが発揮されるでしょう。気がかりなのはぼくのことですが、それはどうにでもなります」

 谷崎は薙の方をちらりと見る。薙はどうしようもない喉の渇きを感じる。それにどうも耐えられず、目の前のマグカップをつかんで、一息にあおるようにして飲んだ。不思議なことに、全く同じタイミングで谷崎も茶を飲み干す。ほらね? とでも言いたげな彼は、風路に力強い視線を向けた。

「指名手配をする理由がないならば、彼女に作ってもらえばいい。なんにせよ、彼女らの目的は、次の事件でわかります。ご検討の程を。 さて、ぼくは天月に謝る必要があります。いたずらに心を弄んでしまいましたからね……」

 谷崎は軽く頭を下げてから立ち上がる。そのまま、彼はそそくさと笑い声の絶えないダイニングテーブルの方に歩いていった。


 部屋がホログラムに塗り替えられる。天月は「探偵と依頼人」の位置に座り込む三人の男を冷ややかな視線で見つめていた。深い色の一枚木の冷たい感触を感じる。彼女の視線は、対面に座った稲羽杏子に誘導された。今の彼女は、渋谷での彼女とは違っていた。渋谷ではいくらか大人な印象を得たが、今は少なくとも応神薙と同じくらいに年相応だと感じた。彼女は薙の古着をまとっている天月を見て、余裕ありげに口角を上げた。

「ねえ、千春さん。千春さんは美人だし、薙くんの古着じゃなくて、もっとおしゃれをしたら?」
「そう言われても。ぼくは服飾に疎いよ。あなたが教えてくれるというのなら、人並みくらいの興味は出るかな。稲羽……杏子さん、その服はどこで手に入れたんだい?」

 暑くなったのか、稲羽杏子は大きめのパーカーを脱ぎ、それを畳んで隣の椅子に置く。今の彼女は薄手の橙キャミソールとショートパンツから惜しげもなく健康的に肉が詰まった四肢と臍をさらけ出していた。知識のない天月から見ても、彼女の服は上等なものであるとわかる。長い肢体を畳み、左足首を右の太ももの上に乗せ、さらに左膝に片肘をついて手中のコップを弄んでいる姿は、どことなく自由に見えた。

「あたしが作ったの。小さい頃、病気でなかなか外に出られなかったから、暇な時間を使ってね」
「手づから作ったものには思いが籠もると言う、ってやつね。ところでさ、その格好大丈夫なの? 応神風路さんと谷崎はたぶんアレだけど、応神薙には毒なんじゃないか? あなたが気にしない性分だと言うなら申し訳ないけども、その……露出が」
「風路さんは妻子持ちだし、タニショーはよくわからないけどなんか経験豊富な気がする」

 杏子は少し顔を赤らめて、しかし萎縮した様子はなく、逆に天月に顔を近づけた。アプリコットのような秋の果物の香りが心地よく漂う。丸みを帯びた彼女の顔と目は、いたずらっ子のような純真な笑みを見せていた。アイシャドウに混じっている細かいラメがキラリと光る。

「あたしは小さい頃に薙くんと夢の中で会って、それから十年後くらいに現実でも会った。薙くんは覚えてなかったけど、イチから積み上げたんだよ。薙くんはあたしのことをよく知ってるし、あたしも薙くんのことをよく知ってる。だから大丈夫なの」
「夢の中? 不思議な話だ」
「たまにあることなんだよ。運命の知らせっていうのかな」

 薙が黒陶について語りだしたのとほとんど同時に、杏子は彼女の覚えている出会いの一幕を想起した。


 夢を見ているらしい。少女は自覚した。病弱で家を出ることが殆どできなかった自分の隣に、対照的に健康な姉が笑顔を向けて立っていたからだった。姉とは数えるくらいしか顔を合わせたことがない。その時は決まってすごく疲れて、すぐに眠ってしまう。だから、元気なまま姉と会える夢が、彼女は好きだった。

 いつもとは様子が違って、空には月だけが浮かんでいた。二人とも裸足で河原に立っている。足の裏を刺激する砂利が心地よい。ふと前を見てみると、そこには少年が一人、座り込んで何かをしていた。彼に気づかせるように、少女は歌う。

「しゃーぼんだま、とんだ! やねまでとんだ!」

 少女の声に少し驚いたのか、少年は一瞬だけ固まり、そしてがしゃりと音が聞こえる。彼は少女の方に向き直った。幼いが、少し厳しさのある表情を見せている彼は、およそ少女と同じくらいの年齢だと思えた。彼の手足には、光の輪が枷となって巻き付いていた。

「ねえさま、遊んできてもいいかな?」
「いいわよ、遊んでらっしゃい」

 少女は思わず笑顔になり、大きくうなずいたあと、少年に向かって駆け寄る。少年は少女の方に歩みを進めようとする。しかし、彼は足枷に囚われて、転んでしまった。少女は彼のもとにたどり着き、そして手で輪っかを作ったと思えば、それに向かって息を吹きかける。いくつものシャボン玉が生まれ、少女の髪と同じ色の月へと吸い込まれていった。

「シャボン玉、好き? あたしは好き。だってカワイイもん」
「おれは、そんなに」

 シャボン玉は悠々と宙に舞う。しかし、そのどれもがすぐに消えてしまった。一つが消えるたびに、少女は悲しみに襲われていく。全部が消える頃、彼女はもはや泣きそうになっていた。ふと、頭に温かさを感じる。見上げると、少年の手首にある光が見えた。彼はやさしい顔で少女のことを見下ろしていた。

「そんな顔をされると、おれまで悲しくなってくるな」

 少年はまっすぐ立ち上がり、腕全体で大きく輪を作った。彼は少女に背を向け、彼女に目配せをする。少女は意図を理解した。彼女は同じように立ち上がって、そしてその輪に息を吹きかけた。今までで一番大きいシャボン玉が生まれ、彼の纏う光に包まれ、天高く登る。
 そのシャボン玉も、天高く上った後に消えた。他のすべてのシャボン玉と同じように消えた。生まれてからすぐに、消えてしまった。

「そうだ、こっち来てよ」

 少年は少女の手を引き、少年の積んだ石に案内した。少女は不思議そうな顔で積み石を見る。少年はまるで代表作を見せびらかす芸術家のような顔で胸を張って仁王立ちをした。

「ケルンって言うんだ。ここにいる時間はけっこう長いから、ひまつぶしになるんだぜ。」

 少女は少年の作った積み石と自分の足元とを見比べ、おもむろに座り込んだ。彼女は棒状の石と平らな石を二個ずつ拾う。まず棒状の石を二つとも向かい合って斜めに立て、その途中に平らな石を挟みこむ。平らな石によって、棒状の石が支えられる形だ。もう一つの平らな石を上に乗せると、鳥居の完成。彼の手足の光が少し薄くなった気がした。
 鳥居を見上げれば見上げるほどに大きくなる。少年の作った積み石も同じだ。はるか向こうから水の砕ける音が聞こえる。この時、少女は少年の目をはじめて見た。少年の瞳は夜よりも黒く、そして金の粉が散っていた。

 水に溺れて、彼女は目を覚ました。


 語り終えた杏子を呆然と見ていた天月に気づいて、彼女はわざとらしく大きく息を吸い、丸い目を更に丸くして、口元に両手を当てた。「もしかして、千春さんって結構ウブだったりするのかな? オトナな雰囲気なのに、結構カワイイところあるじゃない!」そう言い切って、杏子は少しバツが悪そうに深く椅子に座り込んだ。先程の明るさとは打って変わって、今の彼女は朧月めいて翳っていた。

「ねえ、千春さん。四年前はほんとうにごめんなさいね。あの時のアレは強すぎて、当時のあたしじゃどうしようもなかったんだ。あなたが思い出してくれて、結構助かったよ。薙くんもやりやすかったと思う。今になって、被害者の側であの事件を本当に覚えているのはあなたとタニショーだけ。だから、もし千春さんがいいと思うなら、あたしと友達になってくれないかな」

 天月は内側からこみ上げる笑いを感じ、それに任せるままにたっぷり五秒ほど笑った。目の前の稲羽杏子が自分のことをからかったと思えば、急にしおらしくなって謝罪をはじめて、昔話をしたあと、友達になりたいと申し出たからだ。この行動の多面性が、天月には耐えられないほどに面白かったのである。

「いいよお! ぼくらは今から友達さ! 私の問題もぜーんぶ解決されたからねえ!」
「やった! じゃあ、千春さんは今度から『ちはるん』ね!」

 ふと、椅子を立ってこちらに歩いてくる谷崎に気がつく。天月は無性に彼の脇腹に肘打ちを入れたくなり、実際に行動に起こした。軽い痛みを感じた彼は少し呆れた形で口を開け、その次の瞬間に目的を思い出したのか、真面目そうな表情を作った。

「ぼくからも謝罪をする。必要だったとはいえ、キミの感情を弄んだのは悪かった」
「おいおい、この子から聞いたぜ。 どうせ他の女の子の心も弄んでるんだろ? 所詮ぼくはきみに泣かされた一人の内に過ぎないんだ! あ~あ! 悲しいねえ! 実に!」
「キミ本ッ当にいい性格してるなあ! このぼくが誠心誠意謝っているというのに!」

 谷崎は天月に一切の悪意がなく、むしろ自分がくよくよ悩まないようにこのような言い方をしたのだと瞬時に理解した。だから谷崎は皮肉に皮肉で返す。それは、数日前の険悪な雰囲気ではなく、むしろ気安さすら感じ取れた。二人の間にそれとなくあったわだかまりは、いまここで解消された。応神邸には、久しぶりの笑い声が響いた。
 次の瞬間、エンジンの爆音とともに、全てが瓦礫となって崩れ去った。

「会いたかったぞ。薙」

供花

 無人のハイウェイは錆びた匂いのする赤褐色の靄に包まれていた。それを切り裂くようにして、轟轟と低いエンジン音が鳴り響く。真紅のハーレー・ダビッドソンの二〇〇〇ccエンジンだ。その上には対照的な二人の人影が見える。

「なあ、黒陶よ。いささか早すぎはしないか? 応神の嫡男もようやく大学を卒業するような年齢だろう」

 男が女に問うた。朱鷺のお面をつけた男は比較的に背が高く、白いコートに空気を含ませてバイクを自在に駆っていた。まるでそれが自分の体の延長であるかのように、流れ星みたいに自由に。

「男児三日会わずれば刮目してみよ、と言うではないか。私はあの子ともう七年とそこら会ってないんだ。体全部が裏返っても可笑しくない。契約をそろそろ全うしたいと言ったのはお前だろう。怖気づいたか?」

 素っ気なく女のほうはパッセンジャーシートに横座りになり、黒いセーラー服から長い黒髪をはためかせていた。二人とも、ヘルメットはつけていない。オービスに写真を撮られても、二人は意に介する素振りを見せない。靄が瞬く間にそれを覆い隠し、そして時間を早回しさせたように腐食させるからだった。
 男はその女の態度が気に入らないようだった。しかし、何かを言える立場でもない様子で、バイクのスロットルを開け、ギアを一つ落とす。低い唸り声は瞬く間に甲高い叫びに代わり、爆発的にバイクが加速する。

 瞬く間に時速三〇〇キロを叩き出す。軽い車体を巨大なエンジンが前に推し進める。住宅街も何も気にせずに疾走し、そして少しの時間も経たないで、応神邸の正門前にたどり着いた。女は息をするように防音の結界を辺りに展開し、そして邸の防衛装置が起動していないことに気づく。
 誘い込まれているのかと思いつつも、彼女は辺りに三〇ミリ砲を数門出現させた。そのどれもが冒涜的な異空間につながっている。女は門を見た。次の瞬間、辺りの空間を音もなく数百の砲弾が切り裂く。鋼鉄製の重い扉は、瞬く間に溶け去った。
 そのままバイクを進める。母屋の前にたどり着いた頃、女は進路上にスロープを出現させた。バイクはそれに乗って宙を舞い、そして母屋の屋根を貫く。女は屋根の向こうの部屋を見て少し悲しそうな顔をしたあと、来る着地に備えてバイクから身を翻す。男もそれに続き、バイクから飛び降りた。

「会いたかったぞ。薙……髪の毛を伸ばしおって、色気づいたな」

 応神薙にとって、その声は最も聞きたくなかったものだった。目の前には黒陶由倉がおり、その横には白コートの男が居る。視線をそのまま横にずらし、谷崎の方を見る。彼の後ろには黒い穴が空いていた。薙はゆっくりと立ち上がる谷崎を制止しようとするも、彼の視線に押し留められる。いつになく強い視線だった。圧される者の目には変わりないが、それを跳ね除けてやるという意思を強く感じる。谷崎は何かを言う。その唇を読み取り、薙は小さく頷いた。そのまま谷崎は穴に飛び込んだ。

「黒陶由倉……この期に及んでのこのこと顔を出すか」
「安心しろ、風路。私はいまここに居る人間を傷つけるつもりはない。……ここに居ない人間もな」

 風路はすぐさま懐からS&Wの五〇口径を引き出し、黒陶由倉に三発、そして白コートの男に二発撃ち込んだ。しかし、二人ともその場に残像めいた影を残し、一〇センチばかり移動する。それで、弾丸はあらぬ方向へと飛んでいった。しかし、隙を作るには十分であった。薙は膝を抜いて地面を滑るように、二人の間に向かって移動。すれ違いざまに抜刀して黒陶由倉に一太刀浴びせかける。

「速くなったなあ。速度自体はそう変わらんが、認識しづらくなった」

 真綿を切ったような感触を振り払い、その流れで反対側の白コートの男に斬りかかる。烏羽二神流では十文字と呼ばれている技法だ。二人の敵に同時に斬りかかり、少なくともいくらかの隙を生じさせる。うまくいけば、どちらとも地に伏せる。人殺しの剣だった。
 白コートの男が抜刀する。ガキンと甲高い音とともに、刀がぶつかった。二人はその瞬間に全身の力を緩める。結果として刀同士が触れ合ったまま静止した。

「同門だ! 親父は退避してくれ! 守りながら戦う余裕はない! 親父の腰が痛いって知ってるんだぞ」
「同門……わかった。私の場所は常におまえに送信し続ける」

 風路は強い隠蔽の術を自らにかけた。水に垂らした一滴の墨のように、彼の姿は掻き消える。しかし、黒陶はゆっくりと彼が居るであろう場所に視線を向け、そして薙に向き直った。彼女の顔は昔と変わらず、瞳も血染めの赤黒だった。

「のう空亡よ、おまえはいま穴に飛び込んで行った二人と話があるんじゃないのか?」

 黒陶は興味なさげに白コートの男に対して言った。彼はなおも薙と刃を合わせたままだ。空亡とは天中殺。天の守りがなくなる時期のことだ。応神薙は、その不吉な名前をつけられた存在の執着心を感じていた。触れ合った刀を通じて、彼の身に電撃のように走ったのだ。空亡が口を開く。地獄から吹く風のような声だった。

「……甘えるなよ、応神薙。おまえは自分のことを唯一無二だと思っているようだが、それも崩れ去った。おまえの人生におれが現れたことでな」
「おい空亡、無駄話はよせ。まだその時期じゃない」

 何かを言う前に、黒陶からの制止が入った。薙は腹に異様な不快感を覚える。刀に感じる圧は変わらぬまま、空亡が前蹴りの動きに入っている事を確認した。当たれば内臓が破裂して倒れることは確実。黒陶と空亡は壁を背にしており、入り身で避けられない。仕方がないので後ろに大きくスウェーして回避。空亡の長い脚は空を切った。黒陶がなにかの呪文を唱える。ずぶ、と空亡の後ろに穴が広がり、そして彼はそれに吸い込まれていった。

「一応聞いておくが、由倉さん。どうしてこんなことをする?」

 薙は己の体に少し力みが走ったことを自覚する。硝煙とわずかな白檀がふわりと香った。黒い髪をゆっくりとはためかせ、黒陶が黙って近づく。その足取りに攻撃の意思といったものは見られない。やがて彼女は薙の懐まで入り込み、彼の右腕をやさしく取った。まるで子供と手を繋ごうとする母親のように、やさしく。黒陶の顔には笑みが浮かんでいた。

「薙。おまえは変わらないな。いつでもよく干したあとの布団のような香りがする。ああ、七年六七日と一八時間ぶりだな」

 薙の至近。顔を彼の腹に埋めて、黒陶は深呼吸をした。薙はなにもできない。実際、黒陶に取られた右腕はピクリとも動かせなかった。力を入れられて押さえられているわけではない。まるで動かし方を忘れたとか、例えるならそんな感じだった。懐かしい温もりが、体の中心を支配している。
 ざり、と立ち上がる音がした。先程まで地に伏せていた杏子が幽鬼のように杖を構えている。彼女の服はところどころ破れ、煤けてしまっていた。それでも力ある瞳をこちらに向け、彼女はたしかに立っている。

「離れてよ……なぎくん……!」

 絞り出すような言葉。しかし、たしかにそれは力を持っていた。杏子の杖が反応し、辺り一帯の生気を吸い取る。杖は梢へ、そして枝、幹、大樹。生命の奔流とも呼べるものだ。無数の枝葉に薙と黒陶は飲み込まれ、応神邸の外に放り出された。

 応神邸の中庭。節立った古い松と、丸く切りそろえられた躑躅の茂み。地面には漣模様に美しく整えられた花崗岩の白い砂と、ぽつりぽつりと点在する島のような黒い岩。普段ならば完璧な調和をもって整えられているはずのその場所は、黒陶由倉の不意打ちによって荒れてしまっていた。漣は波濤となり、十五メートル四方の庭は戦場となった。殺伐とした戦の予感が匂う。
 姿勢を整え直した薙が目にしたのは、宙に浮いて苦しむ杏子と、どこからか取り出した槍で彼女を弄ぶように突いている黒陶だった。それを見て、薙は手持ちの武器の中で最も長い獅子斬を背中から抜いた。黒陶が薙に顔を向ける。彼女はいつもどおりにケラケラと笑い声を発した。

「おまえの女、嫉妬に狂って迂闊をしたぞ」
「そういう物言い、昔から嫌だったぜ」
「本当か? だとしたら悲しいねえ。昔は私が何をしてもおまえは喜んで後ろについてきた。アレは嘘だったのかい?」

 薙は歯ぎしりをした。嘘であるはずがなかったからだ。それを如実に見抜いた黒陶は、極めて不愉快だと言わんばかりの表情を顔に浮かべ、無造作に槍を振った。杏子の体が力なくこちらへと飛んでくる。薙は彼女を危なげなく捕らえ、黒陶から守るようにして自身の背中側に寝かせた。ゆっくりと、獅子斬の刃を黒陶に向ける。隕石のような幾何学模様が刀身に浮かんだ。彼が持つ武器の中で、最も長く間合いをとれるものだ。

「おいおい、そう早まるなよ。なんだっけ? ここに来た理由か。私はおまえに斬られに来たんだ」
「は?」

 薙の疑問を待つ間もなく、黒陶はセーラー服の胸の部分をはだけさせる。そこには赤黒く脈動する塊があった。ちょうど、心臓の真上の位置だ。黒陶がそれを愛おしく撫でる。薙は瞬時にそれが外法の産物であると理解した。黒陶を獅子斬で斬れば予想だにしないことが起こるかもしれない。しかし、今更になって持ち替えようにもその瞬間を文字通りに突かれるのは確か。

「これは私の親だよ。私に力を与えた作り物の神とも言うね。ヴェール崩壊で、それまで死にそうだったのが嘘みたいに元気になって、油断しきってたから私の体に埋め込んだ。それだけだから、まだ調和していないのさ。だからおまえに斬られ、残ったこいつの自我を削り取って純粋な力とする……私の目的だ」

 黒陶は親が子に聞かせるように言葉を紡いだ。その語調に圧はなく、むしろ慈愛すら感じ取ることができた。薙は力なく切っ先を地面に向ける。彼の顔は、悲しみに歪んでいた。

「それで、おれが納得すると思ったか」
「しないね」

 薙は己の迂闊を悟る。黒陶から膨れ上がる殺気に彼は再び刀を構え直した。黒陶は槍で渾身の突きを放つ。その軌道は下に向いていた。薙はその突きの方向を変えて後ろに流そうとした。しかし、後ろには杏子が居る。瞬時に彼は状況を判断した。義手の最も頑丈な拳の部分で黒陶の槍を叩き、止まった瞬間にそれを掴む。久方ぶりにやる力勝負は、対等だった。

「だから、私はお前を殺す気でかかる。そうすればお前は、それで私を斬らざるを得ない。……おまえのことを信頼している。だからこんな事ができるんだ」

 あまりにも一方的に告げられる。薙には選択肢はなかった。長柄武器を相手にするなら長巻か何かがほしいところだが、贅沢は言ってられない。普段なら逃げの一手を打っているところだが、それもできない。守るべき相手が彼の後ろにいる。左手で槍を掴んだまま、右の獅子斬を黒陶の首に向かって突き出した。


 黒陶由倉が応神邸に突入した時。谷崎は一瞬の失神から立ち直ったあと、辺りを見回した。ホログラムはすでに剥がれ落ちている。辺りには石やら木やら畳の欠片やら何やらが散らばっていた。青い空が見える。そして近くに赤いバイクが落ちていることにも気がついた。次の瞬間、バイクが異空間に放逐される。カチャリ、とわざとらしい音を捉える。額に銃口の冷たさを感じた。
 天月千春は彼の足元で転がっていた。目立った外傷はないし、息も正常だ。ただ気絶しているだけだろうと彼は当たりをつけて、薙の方をみた。戦闘要員と非戦闘員を区切るようにして見事に強固な結界が張られているようで、いつものように守ってもらうことは出来ないと察知した。後ろを振り返ると、そこには空虚な穴が空いていた。
 そして、そこには二人、谷崎の知らない人間が居た。片方は女で、もう片方は男。男の方は、薙と全く同じ背格好で、よく似た服装をしていた。薙の方に進もうとすると、銃口が邪魔をする。しかし、後ろに下がろうとすれば、邪魔されることはなかった。穴に飛び込めということだろうか。
 谷崎は足元の天月を横抱きにし、静かに立ち上がった。薙がこちらを向く。彼は少し焦った様子で、何かを言おうとした。しかし、谷崎と目があった瞬間、彼は気圧されたみたいに黙り込んだ。圧された者の目。しかし、その重圧には決して屈せぬ意思を感じさせる目。

「いいかい、薙くん。ぼくらは落下そのものによって死ぬのではなく、着地に失敗するから死ぬんだよ。ぼくを単純に殺そうとするならば、こんなまどろっこしいことをする必要はない。道が一つしかないならば、ぼくは迷いなくそれを進む」

 腕の中で天月が身じろぎをした気がした。谷崎はその彼女に少し気を遣いながらも、虚空に広がる穴に飛び込んだ。気分はまるで聖人だった。

 ふと。谷崎は見覚えのないマンションの部屋で目を覚ました。近くに天月はいない。部屋を見渡す。調度品はどれも落ち着いた色合いで質がよく、かつあまり高価でないもののようだ。六畳ほどのその書斎らしき部屋には、何故か座布団とちゃぶ台が置かれていた。耳を澄ませる。ジジ……という機械音が聞こえた気がした。谷崎が座布団に座り込むと、ドアが開かれる。

「察するに天月もここに居るんでしょ、空亡」

 谷崎が目を細めて言う。空亡はいま上着を脱ぎ、灰色のノースリーブのインナーと白いスラックスを纏っていた。筋肉と脂肪が理想的なバランスでついているその体を、惜しげもなく晒している。しかし、顔には変わらず朱鷺のお面。いささか異様な出で立ちだった。

「で、結局何なんなんだ? 黒陶由倉の目的は」

 ここで無惨に殺されるとは考えにくい。かといって過剰に萎縮するのもよくない。眼の前の空亡に躍りかかってもせいぜい八秒しか保たない。谷崎はそう判断し、逆にふてぶてしく出ることにした。空亡は少し面食らったような表情を見せる。

「……言うわけない、と言いたいところだが、結局あの女のことだから自慢げに応神薙に語っているだろうな」

 山頂、雪原、あるいは晴天のように乾いた声だ。取り付く島もない。谷崎はしばし沈黙し、話に聞いた薙と黒陶のやり取りを思い出す。薙の記憶の中の彼女の言葉は曖昧だ。谷崎はそれを咀嚼し、解釈する。

「世直し、ね。恐れるべきものを正しく恐れるべきだというのはわかる。わからないのは、あなたが黒陶についている理由だ」

 座りながら、長身の空亡を見上げる。ちょうど朱鷺のお面が影になっており、表情は伺い知れない。手足の動きから読み取ろうとも、微動だにともしない。よく訓練されているのだろう。谷崎はこめかみを揉んだ。声の調子に耳を傾けても、感情はわからない。

「おまえに教える義理はあるか?」
「参ったねえ。そう言われると黙るしかない」

 空亡は切って捨てるように言い放った。谷崎は辺りを再び見回す。どこぞに応神邸にあったのと同じような投影機があるのかもしれないが、妙に生活感のある部屋だと思った。谷崎は立ち上がり、空亡と視線を合わせた。彼の目の色は伺い知れない。

「黒陶からはおまえをもてなせと言われている。ついてこい、冷蔵庫の停時室には温かいものもある」

 有無を言わせない口調に、谷崎はついていく他なかった。ここで拒否をすれば何をされるかわからない。ふてぶてしく、かつ従順に。谷崎にとって、囚われた時の鉄則だった。
 書斎から出る。いくつか締まりきった扉がある廊下を抜け、十分な広さのリビングルーム。その端にあるキッチンには、冷蔵庫が鎮座していた。谷崎と薙の住処にあるものと同じ型のものだ。空亡にエスコートされるまま、谷崎は停時室を開く。赤く煮えたぎる麻婆豆腐や担々麺、トムヤムクンをかき分けて存在しているのは、真空パックされた薄橙色の棒状の物体。それの血の気は完全に引いているが、まだ暖かさはある。谷崎はその先端を見た。人の手である。そのうえ、谷崎はこの手の形に見覚えがあった。薙の左腕に違いない。

「おいおい、早く閉じてくれ。鮮度が落ちたとなると、黒陶さんから怒りの雷が落ちる」
「これって、薙くんの……」

 後ろから投げられた抗議の声に対して、谷崎は力なく呟くしかなかった。人体のパーツがバラバラになっているのを見たことがないわけではない。しかし、日常のような風景の中、このようにして登場することはあまりに想定外であった。谷崎は自身からサッと急速に血の気が引いていく事を自覚する。失神寸前だ。深呼吸。谷崎は後ろを向く。そこには変わらず空亡が立っていた。

「何も取り出さんなら閉じろと言ったはずだ」

 空亡はその声に僅かな怒気を含ませて言う。彼は努めて普通に停時室を閉じた。谷崎は再び空亡の方に向き直る。そろそろ血も巡ってきた頃だ。

「……これは、何に使う、いや、使ったものか?」
「おれは知らん。黒陶が持ってきたものだ。……もう一つ、仰せつかっていることがある」

 谷崎はリビングとキッチンを観察する。今度は明白だった。ほとんどすべての日用品が二つで一つのセットになっており、片方は落ち着いた色でシンプルなデザイン、もう片方は生気に満ちた色で可愛さが見えるデザイン。おおかた男女が同棲しているのだろうと谷崎は当たりをつけた。谷崎は空亡に目を向けた。その研ぎ澄まされた視線に、空亡はすこしたじろいだような気がした。

「今ここで何もできずとも、いずれはあなた方を捕まえる」

 その宣言を聞いてから、空亡の身が沈む。彼の右拳が谷崎のみぞおちを捉えた。その直後に彼は谷崎の耳と顎を同時に強かに打つ。大型トラックに衝突したような衝撃を受け、谷崎の意識はブラックアウトした。

「ベラベラと要らんことを喋るのはおまえの悪い癖だと聞いている。もてなしは終わった。時が来るまでおまえを寝かせておけとのことだ」

 空亡は地に伏せた谷崎を残して、書斎とは別の部屋に入った。


 同時刻、応神邸の中庭。まっすぐ首に向かって突き出された獅子斬は、不可視の壁に阻まれ黒陶に届かない。彼女は薙に掴まれたままの槍を振り払い、距離を取って構え直した。二人は見合う。黒陶がどのように来るかわからない以上、薙はただ静かに正眼の構えを取るしかなかった。じり、じりと摺り足で二人の距離が縮まる。薙は間合いを測った。どう考えても槍のほうが長い。しかし、先端に刃が集中しているという武器の構造上、中に入りきってしまえば薙の獅子斬のほうが有利だ。

「おまえもこの武器の恐ろしさは知っているだろう」
「あなたの恐ろしさも、身と心に沁みている」
「言うようになったじゃないか。昔の口下手なおまえはどこに行った?」

 煽られても間髪入れずに言葉を返す。黒陶との日々で無意識に鍛え上げられた技能であると、薙は自覚した。本意ではない。しかし、使えるものを使わないのは愚かである。薙は間髪入れずに言葉を紡ぐ。紡ぐだけで相手の間合いに入ってしまっては元も子もない。同時に複数のことに気を配らなければ行けない現状、薙の精神は疲弊を始めていた。

「あなたのおかげだ。あなたのおかげでおれは今ここに立っていることができる」

 黒陶は無感情に槍を袈裟に振った。薙はそれを獅子斬の刀身で迎撃することで一瞬だけ止める。その瞬間に彼は槍の柄を掴み、反対側の黒陶もろとも合気杖の要領で遠くに投げ飛ばした。枯山水の白砂が浪花となって舞う。失策だ。遠くに投げれば、また受け身を取って向かってくるからだ。しかし、悪いことばかりではない。このおかげで、薙と杏子の距離は大きく空いた。

「らしくないじゃないか。確実に止めを刺すように訓練したはずだが?」
「状況によると父上には訓練されている!」

 言葉を口に出し、ハッと気づく。精神がまだ訓練をしていた頃の自分に戻っている。黒陶由倉に乗せられているのだ。よく考えてみれば、彼女との生活で身につけた舌戦で、その彼女に勝てるはずがない。たらり、と冷や汗が背中に走った。薙は懐から拳銃を抜く。その隙をついて黒陶は槍を突き出す。薙は反射的にその刃の根本を踏みつけ、黒陶に向かって銃を適当に撃った。しかし、さも当然かのように彼女は銃弾を回避する。
 お返しと言わんばかりに、黒陶は槍を霧のように消してどこからか彼女の体格に合わせて短く切り詰められたライフルを取り出す。好機と言わんばかりに、薙は黒陶に向かって全力疾走を始めた。彼女は薙によく照準を合わせて数発、弾丸を射出する。薙はそのすべてをことごとく回避し、黒陶に肉薄した。

「私らのような者にとって銃弾は意味をなさぬと教えたはずだ!」
「……余裕を言って! 昔からずっと 

 薙は再び黒陶の首に向かって突きを放つ。しかしそれはライフルによって止められ、次の瞬間には槍と長刀の鍔迫り合いが始まっていた。いつの間に持ち替えたのか。薙は少しだけ面食らった。武器二本のすぐ先に、黒陶の顔がある。頭一つ分以上は体格差があるだろうか。それでも、如何なる奇術か。膂力は拮抗していた。左腕の義手が軋む。無理をさせすぎたか。薙の心臓が早鐘を打つ。
 ふ、と黒陶は力を抜き、体を回転させる。槍の石突が薙の頭部に迫った。姿勢を崩された薙は仕方なく前転で回避をする。二人の位置が入れ替わった。薙の眼前には崩れ去った母屋の壁。黒陶の眼前には、地に倒れ伏す稲葉杏子。薙は致命的に行動を間違たのである。薙は一瞬の逡巡とともに、駆け出す。誤った行動をするよりも、何もしなかったほうが後悔する。薙はそれをよく知っていた。
 義手が唸り、内部に納められた八咫烏の欠片と共鳴する。薙の神経に、熱い泥のようなものが注入されたようだった。この感覚はあまり好きではない。時は緩慢となり、空気は粘りを帯びる。薙の踏み込みは枯山水の白砂を抉り、白い欠片が宙に浮かぶ。邪悪な笑みを浮かべた黒陶は、鈍化した時間の中、未だに目を覚まさない杏子に槍を突き出そうとしていた。
 時が動き出す。薙は獅子斬で黒陶の槍をはたき落とし、訓練されたままにがら空きの胴体に向けて三度突きを放った。訓練されたままに、肉を裂く感触が刀を通じて伝わってくる。瞬きの間に、起こったことだった。黒陶は、すべてを受け入れたような、諦めたような笑みを浮かべていた。失敗した。あまりに訓練されすぎていたが故に、薙は彼女の目論見にまんまと乗ってしまったのである。
 獅子斬は、黒陶の肋骨の隙間から心臓をきれいに貫いていた。よく集中すれば、心臓の鼓動すら伝わってくる。それは早鐘をうち、黒陶の顔を紅潮させた。彼女の白くやわらかい肌は湿り気を帯びている。薙はただ呆然とするしかなかった。獅子斬を抜こうにも押し込もうともびくともせず、まるで鞘に収まっている時のようですらある。黒陶の傷口からにじみ出た血が、彼女の黒いセーラー服を赤黒に染めた。血液は重力に逆らって、獅子斬を登っていく。

「わたしが私になったその日から、ずっとこの瞬間を待っていた……」

 ずっと分かれていた恋人にかけるような声だった。気がつけば、薙は獅子斬から手を離している。彼はよろよろと後ろに数歩下がり、力なく座り込んでしまった。義手から小さな爆発音が聞こえ、黒煙がもうもうと立つ。今やピクリとも動かせないし、左手の指先には通電した万力で挟まれるような痛みがある。幻肢痛だ。失ったもの、過去に置いてきたものが、泣き声を上げているのだ。いま、自分が直面している問題は、自分だけの問題ではない。自分から遡って何世代かの間、無視され続けていた問題が龍のごとく首をもたげたに過ぎない。薙は直感で理解した。
 黒陶由倉の幼い体躯に、獅子斬が沈み込んでゆく。刀身から柄まで、すべてを飲み込んだ彼女からは、慈愛とともに威圧が発せられる。居間までに感じたことのない重圧に、薙は立ち上がることができない。黒陶が視線を薙に合わせる。夕焼け時に満天の星が散っているような色だった。

「薙よ、私と共に来い。……これが、最後の誘いだ」

 あまりにも、激しい誘惑だった。彼女の声は鼓膜を通じて薙の脳を心地よく揺らしている。酒に酔うとは、このような感覚のことを言うのだろうか。薙が反応できないでいると、彼の後ろから、誰かが立ち上がる音がした。

「駄目だよ。薙くん」
「杏子、か?」

 薙の口から、無意識に声が出る。いつもの杏子より、いくらか大人びた声だった。黒陶が反応をする前に、杏子は黒陶に右手を向ける。その指先には、黒と金色の糸がより合わさってできたような球体が浮かんでいた。彼女はいつになく、果断な雰囲気を漂わせている。

「変身に集中しすぎて、精神があけっぴろげになってるわよ、黒陶由倉。味わいな……脳みそのシワ一つ一つを撫でられるような苦しみを……」

 杏子が手を握った瞬間、何かが折れるような音とともに、黒陶の首があらぬ方向に折れた。彼女は短い悲鳴を上げて、地に伏せる。黒陶の首から上は、次第に赤と金の炎に舐められるように覆われていった。

「あれで死に切るようなタマじゃないわ。応神薙」
「……あなたは?」

 杏子のことをよく知っている薙だからこそ、いま対面している者の中身が杏子以外の何者かであることを確信できた。彼女は少し焦った様子で、黒陶と崩れた応神本邸のことを交互に見ている。

「私は紗依。杏子の姉よ。この子からの助けの声を聞いて、遠方から精神を投影して助力をしているわ。 杏子、あなたと黒陶由倉に怒り心頭よ。すぐ戻すから、覚悟しておいて」

 選択肢を与えない声だった。薙はそれに頷くほかになかった。杏子の体はから一瞬だけ力が抜ける。戻ってきた杏子の顔は、紗依なる者が言ったとおりに、怒りに燃えていた。

「昔好きだったからって……ずっと会えなかったからって、さっきの薙くん、ダサかったよ」
「……すまない」

 絞り出すように言う。杏子は手を高く振り上げ、薙の頬を力いっぱい叩いた。薙にはそれを避ける気力は残っていない。ぱちん、と高らかに音が鳴り、頬が痛む。サングラスが飛んでいった。剣戟の音も去って静かな中庭に、サングラスの落ちる音が響く。杏子は薙の顔を両手で挟んだ。

「そうやって下向いてる暇、ないでしょ。いくら過去が手をこまねいたって、あなたは応神で、薙くんなの。どっちか片方なんてありえない。もう、あたしにこんなこと、言わせないでよ」

 杏子は続ける。二人の視線が交差した。杏子は久しぶりに薙の目を見た。いつになく、綺麗だと思った。

「姉さんはあの女を黙らせてくれたけど、それも長くは保たないの。早く、ここから離れなきゃ。どこか、目の届かないところに」
「蔵、まで行けば多分大丈夫。だと思う」

 杏子に引かれて薙は立ち上がり、二人は肩を組んでゆっくりと歩き出した。二人とも、そうでもしなければ足を踏み出せないくらいには疲弊している。杏子は薙の首元に顔を埋め、深く息を吸う。たしかに、干したあとの布団のような香りがあった。

「でも、さっき守ってくれたのはありがと。薙くんのそういうところ、好きよ」

 杏子は呟くように言った。


 黒陶は目覚める。してやられた、という感情とともに、彼女は薙の居場所を探った。どこにもいるようで、どこにもいない。曖昧な感覚だ。黒陶は彼女のそばに転がっているサングラスを手に取り、自分の顔にあてがった。少しだけ、大きい。次の瞬間、彼女の姿は掻き消えた。


 応神本邸の蔵は至って普通だ。杏子はそう思った。塗り壁と床に六方を囲まれ、灯りが一つもなくてどことなくかび臭い。応神薙の昔の教科書や、誰のものともしれぬ着物、それと乱雑に積まれた木箱が、六畳程度の空間を埋め尽くしていた。薙はその中からやけに綺麗な試し切り用の畳巻を探り当て、それに顔と手を当てる。高度に偽装された生体認証システムだ。

「離すなよ」

 薙は杏子に短く告げる。二人は肩を組み合ったまま、目を閉じた。なにかに強く引っ張られるような感覚とともに、二人の視界は回転する。
 次に目を開けると、そこは全体的に白くて広い空間だった。天井は蛍光灯のパネルで埋め尽くされており、壁は打ちっぱなしのコンクリートでできている。部屋の端には車が何台か止まっていた。薙と谷崎のものも含まれている。真ん中には枯山水の庭園と、それに臨むように存在する小さな円卓と椅子が存在していた。応神風路も、そこにいた。稲羽杏子は、如実にここが異空間であると感じ取っていた。現世とは隔絶して、人が出入りするときのみに緩やかにつながる。世界で一番安全なシェルターと言っても過言ではなかった。たとえ外界がすべて炎で包まれようとも、半永久的に生活ができるような設備が整っているとのことだった。

「お気に召しましたかな、稲羽のお嬢様」
「やめてよ、風路さん。そんな仰々しい言い方なんか」
「上の屋敷があれ程に派手なのは、ここを隠すためだよ。屋敷にかかった金など、ここと比べれば端金もいいところだ」

 風路は笑って手を振る。すると、地面から閉架式図書館もかくやといった具合で、古書がみっちり詰まった棚がせり出して来る。彼が二度手を振れば、今度は何冊かの資料が抽出される。どれも天之尾羽張や黒陶由倉に関するものだ。本来は電子化がされているはずだが、何らかの理由で消されていた。しかし、原本は残っている。

「そして、薙。やってくれたな」
「やってくれたもなにも、あれは何だ。黒陶は、あの空亡とかいう男は。獅子斬もだ。親父は、何を知っている」

 風路の皮肉に対し、薙は反射的に噛みついた。風路はどこか悲しそうな顔を浮かべる。まずい、と薙は思った。しかし、辺りに緊張はない。杏子が固唾をのんだ音が、薙の耳に届いた。

「私の口から、それをおまえに教えることはできない……。そうしたい気持ちは山々だが、職務上の理由から許されていない」
「すまない、親父。取り乱した。……獅子斬も失った」

 薙は直ちに冷静になる。家宝のごとく大事にされ、守られてきたはずの獅子斬の喪失に、風路の反応は驚くほど淡白だった。

「あれはそもそも、我々が持つべきものではない。元の鞘に収まったとも言える。……ある種の皮肉だがな」

 薙はため息をついた。そして杏子とともに席に座り、プロテインを飲みたいと願った。すると、目の前に緑白色の液体が大きいマグカップに入って現れる。ほのかに温かいそれからは、抹茶の香りが強く漂っていた。薙は液体に口をつける。戦闘で傷ついた体に、栄養が直ちに染み渡る。ほのかに苦く、そして甘い。美味い。

「それで、今後はどうする。我らの手に残されているのは、我らだけとなった」
「おまえも、もう二二歳か。世間一般なら、就活に追われている頃だろうな」
「何の話だ?」

 つっけんどんに返す薙をいなす様子で、風路は手元で何かを操作する。円卓が地面に吸い込まれ、そして何かの機械音が静かに響いた。杏子は、そんな二人の様子を固唾を飲んで見守っていた。今朝の険悪さとは、何かが決定的に違う。

「守られる子から一人の大人になり、誰かを守るようになるということだ。私は今日、それを実感した。おまえに授けることのできる教えは、私の中ではすでに尽きている。 おまえが私のことをほのかに嫌い、そして黒陶由倉に母を求めていたとは、昔から知っていた」

 その言葉を聞いた瞬間、薙は内側から熱いものが溢れ出るのを感じた。目の前が一瞬にしてぼやけ、自分が泣いているのを知る。この感情はなんだ、と己に問う。寂しさと嬉しさが混在して、自分でもわけがわからなくなっていた。風路の顔を見る。慈愛に満ちている笑みだった。
 杏子の方にちらりと視線を向けると、彼女はわざとらしく目に手をあてて首を横に振っていた。それに思わず吹き出してしまうと、余計に滂沱の涙がさめざめと降った。数少ない友人に守られ、唯一の親に守られ、かつて恋い焦がれた女にも守られていた。今は、彼女を狩りに行く立場だ。

「いずれ、おまえはすべてを探り当てる。しかし、おまえは今までの応神とは違う。考えてみれば、当たり前な話だ。世は変わる。組織も変わる。我が家の訓は変わらない。しかし、それを体現する人間は、代を超えて様々だ。お前は早々に家を飛び出し、あの谷崎という男のもとに行き、実績を生んだ。寂しいが、誇らしくもある」
「親父も狡いことをする。そのように押し付けられれば、断りようがない」

 地面から飛び出たガラスケースに収まっていたのは、漆のような光を放つ義手だ。黒を基調として、端が赤い。二層の違う色の塗料が塗られているようである。どこからか生えてきたロボットアームが薙の義手から八咫烏の欠片を取り出し、新しいものにはめ込む。すると、手の甲に金粉のように応神の家紋が浮いた。そのまま古い義手を取り外し、そして肩と赤黒の新しい義手が装着される。昔に見た映画アイアンマンのワンシーンにこんな画があったことを思い出した。肉の手と、非常によく似た感覚だ。

「ようやく、おまえに普通の父親らしいことができる。いままでは谷に突き落としてばかりだったが……」

 薙は複数のホログラムが自分の身体をスキャンしたと気づいた。厳重な生体認証システムだった。義手の感覚を体になじませながら、薙は自分が砂まみれでボロボロの服を着ていることに気がついた。直ちに近くの空間から新しい服装がハンガーに掛けられて出現する。薙はすぐに自分に清祓の術をかけ、新しい一張羅で身を包んだ。いままでの黒無地とは違い、要所に応神の家紋がさりげなく刺繍されていた。サングラスも、真新しいものに変わった。

「それでいい。これで応神家の全てをおまえの一存で動かせるようになった。当初の予定よりかは少し早いが、そうも言ってられんのでな」
「わかった。……こんな時にする質問でないのはわかるが、おれは何をすればいい」

 風路は少し笑い、杏子の方を見た。彼女はまるで歴史的名場面を目撃したかのようにその場に固まっていた。応神親子が揃って肩をすくめると、風路は声高に宣言するように言った。

「応神家三二代当主たる応神風路が、三三代当主となる応神薙に、最後の教えであり、最初の助言を授ける。為すべきと信じることを、為せ。……それと、止めを刺すべきときには迷いなく刺せ。おまえは優しすぎる」

 付け加えるようにして、風路は「正式な儀式は後日執り行う」と言った。薙は完全に武装した状態で座禅を組む。

「杏子、今からおれは谷崎のところに行く。おれが転移したら、その痕跡を辿っておまえも来てくれ」
「わかったよ、薙くん」

 杏子はいつになく気張った様子だった。彼女も杖を手中に呼び出して薙の様子を伺った。しばらくしてから、薙は目を見開いた。「繋がった」そう言い残した彼は嘘のようにその場から消え去った。

隔世

 今まであったすべてのことはもしかしたら夢なのではないか。天月千春はそう思った。なぜなら自分は着慣れた白いワンピースでダブルのベッドに寝ており、目に入る風景はどう考えてもかつて二人で住んでいたマンションに違いないからだ。調度品も、全部がそのままだった。明るい色合いの床に、暖かい色の電灯。壁には朱鷺の仮面と刀が長短二本、柄を右向きにして飾られている。窓には、ベージュのレースカーテンがかかっていた。
 天月は混乱した。今は何年の何月かすら、わからない。外で足音がして、寝室の扉が開かれる。天月は反射的に警戒して戦闘態勢を取ろうとするが、はて。自分は何に「反射」したのだろうか。天月はそこまで考えて、不思議な気分になった。
 天月の目の前には、誉田椿熙の姿がある。彼はいつもどおりに売れないマジシャンのような白いスーツを着ていた。いい加減、それ似合ってないよ。黒のほうが似合うんじゃない? そうやって言おうとして、何かを忘れているような気がした。カーテンを開く。そこには、渋谷の街並みが広がっていた。警鐘。サイレン。音。知らないはずの記憶が、その断片を主張し始める。天月は頭を振って、誉田の方に近づいた。

「よく眠れたか」
「とても。つくづく、このベッドはいいものだね」
「変わった喋り方をするな」

 誉田は顔に優しい笑みを浮かべている。天月には、それがどこか空虚なものに思えてならなかった。沈黙が辺りを支配する。天月は軽く首をかしげた。

「わた、しは昔からこの通りだったぜ」
「いつになくぎこちない。もう何ヶ月もしたら、おれたちは冬の山で星を見てるんだ。千春が元気じゃなかったら、事故が起こるかもしれない」

 思いやりのセリフ。茹だるような夢。どこへ行くかもわからない歩みを止めて、幸せだった後ろばかり見て過ごす。永遠にそのままだと思っていたヴェールすら剥がれて、自分だけを置いて世界は加速していく。一人で先に進むには、あまりにも辛い。しかし、一度止まってしまえば、動き出すことは難しい。天月千春は、意を決して目の前の男に問をなげかけることにした。

「……今から変な質問をするよ。きみは、何を目指しているんだい? 光は、信じているものは?」

 誉田は意表を突かれたような表情を浮かべる。それはまるで、小春日和に吹く妙に冷たい北風のようであった。天月は誉田のことをじっと見つめる。彼女の瞳は、腐りかけのレモングラスの香りを思わせる、期待と失望が入り混じった色を浮かべていた。

「そのような視線、懐かしい」
「質問に答えてくれよ」

 処刑人のように無慈悲だ。誉田は曲がりなりにも誇り高い男で、武の道に通じている。天月はそんな彼が暴力的手段に出ることはないと知っていた。だから強気に出られるのだ。誉田の表情は元通りの優しい笑みに戻った。その顔のまま、彼は天月の頬に手を添えた。大きく、触れ心地が悪く、タコまみれの手。それでも、天月の記憶の中にある愛おしい手だ。天月は、拒絶できない。

「たとえ天から月が落ち、千の春が巡ろうとも、おれにとっての唯一の光はおまえだ……暗闇の中、右も左もわからずに彷徨っていたおれに手を差し伸べてくれた。これが終わったら、今度こそ山に行って、綺麗な空で星を見よう」
「……調子のいいことばかり。なら、あの黒陶とかいうやつは、きみの何なんだ?」

 天月は目をそらす。彫像のような誉田の顔を、これ以上見つめていたらどうにかなってしまいそうだった。天月と出会ったばかりの時の空亡は、小綺麗な見た目こそしていた。しかしその目はまるで地に落ちた野鳥のようであり、果てしなく自暴自棄になっていた。その彼をどうにも他人に思えず、人間に戻したのは、紛れもない天月だ。その頃の記憶が、ありありと蘇る。

「あの女は……おれがとてつもなく困窮していたときにたまたま一宿一飯を恵んでくれた。狙いすましたような出現ではあったが、逆らえなかった。おれがいまこんな事をしているのも、契約のせいだ……それももうすぐ終わる」
「渋谷も、そうなのだと言うのか」

 彼の顔を視界に入れることができないまま、天月は問うた。誉田は苦々しく頷く。天月は財団に入ってからというもの、このような契約を破れば死ぬよりも恐ろしいことになる可能性が高いと理解していた。たとえ契約を守ったところで、その泡立つような恐怖は先送りにされるに過ぎないのではないか。特に黒陶由倉のような存在を相手にした時は。天月はその想像を止めることができなかった。

「ならば、責任はとってくれ。きみの行動で少なくない……損害を受けた」

 木の砕ける音とともに、ドアが蹴り破られる。底から躍り出た人影は、紛れもない谷崎のものだ。彼はリボルバーを構え、誉田の頭に照準を合わせていた。天月の頭の中で、何かが砕けたような音がする。窓の外を見ると、そこは真っ暗な洞窟だった。何かの催眠を掛けられていたと悟る。

「ずいぶん早いお目覚めだな。谷崎翔一」
「気絶するのには慣れてるんでね」

 彼は誉田から視線を外さない。誉田は谷崎の姿勢を観察する。そこからは、自分や応神の一門が使う体術の気配がわずかに漂っていた。

「……応神薙との訓練は苛烈なようだな」

 誉田は直ちに壁にかかっていた装備を引き寄せる。誉田は空亡となった。天月は呆然としたまま、彼らのやり取りを見るほかない。谷崎がちらりと天月に視線を向ける。その目からは、疑念が色濃く感じられた。

「他人の感情に踏み込む奴なんか、馬に蹴られてしまえとぼくも常々思ってはいるがね、天月。そうは問屋が卸さんだろうな。ぼくらにも果たすべき責任というものがある。空亡、大人しく投降してくれ」

 空亡は一瞬だけ抜刀の構えを取る。しかし、彼は刀を抜くことなく、あくまで自然体に立った。天月は瞠目した。彼女は一瞬だけ悩み、そして谷崎の方へと静かに歩みを進めた。谷崎と空亡は動かない。

「すまない、椿熙。今は、彼の側につくほかない」
「千春、おまえ、おれを 

 谷崎は空亡の声に悍みを感じ取る。何かに介入されているようなノイズが、彼の冷えた声に混じっているのだ。谷崎は警戒を強める。自分の横にいる天月にちらりと視線を向けた。ドアに耳をそばだてて聞いていた限り、まだ空亡と黒陶の間にはまだ契約が残っている。思い返す。空亡は応神薙に強い執着を見せていた。その理由はまだ分からない。黒陶も同様だ。谷崎の懐に入っている式神の風切羽がわずかに熱を帯びた。薙に来てもらうのが最善か。

「誉田椿熙、空亡。この加速する世界の中で、停滞とはすなわち後退だ。後ろばかり見ているならば、何も始まらない」
「そうやって、みんなしておれのことを否定して……」

 地雷を踏んだ。谷崎は直感する。空亡は顔に手を当てて、体を震わせていた。殺気を感じ、谷崎は反射的に銃を撃つ。軽い反動と引き換えに弾丸が宙を切り裂き、そして空亡はそれを避けた。何かが、致命的にずれている。空亡の認識と、自身の観測している現実。

「ひとたび信頼の味を知ってしまえば、それを恐れる……失ったものは二度と戻らない……その恐怖に、おれは」

 空亡は呪文を唱えるように、不気味に言い放った。そして、彼は顔を谷崎に向ける。仮面の奥の目は、赤黒に輝いているようだった。谷崎は果断にトリガーを五度引き、残りの弾を適当に発射する。それをすべて回避した空亡は、居合の構えを取った。一秒。谷崎は自分がきっかり八秒だけ空亡を食い止められると、今までの経験で理解していた。殆どの戦闘が六秒以内に終わることを考えれば、実際十分な時間ではある。彼は天月を抱えて、彼女もろとも壊れたドアに飛び込む。二秒。狭い廊下では、刀は振りにくい。牽制として銃を空亡に投げつけるが、それも難なく手で払われる。三秒。谷崎の一寸先まで距離を詰めた空亡は、無慈悲な当て身で谷崎の意識を刈ろうとする。谷崎はその拳をほぼ当て勘で回避し、未だ勢いのある腕を肘でブロックする。四秒。そろそろ限界が来ると谷崎は悟った。ブロックした方の手を軽く掴まれ、体を崩される。五秒。彼はそのまま盛大に後ろに転がり、空亡とたっぷり二畳半の距離をとった。六秒。谷崎がリビングに入ったのを好機と見て、空亡は打刀の鯉口を切る。七秒目と八秒目は彼らのためではなかった。谷崎は懐から黄金に発光するカラスの羽を取り出し、目の前の地面に叩きつけた。

 太陽そのものを持ってきたかのような、まばゆい光と熱。

suger6-2.png
suger6-1.png

 応神薙が、その場に現れていた。彼の背中からは黄金に輝く積層フラクタルめいた羽が生え、そして頭には同じような光輪が浮かんでいた。次の瞬間、それは直ちに火焔となって辺りに広がる。

「応神、薙……」
「すまない、遅くなった」

 空亡の恨み言に耳を貸さず、薙は仲間のことを慮った。あたりの風景は、最早先程までののどかなマンションではない。応神薙の出現とともに出現した炎によって、拡張現実装置は破壊された。虚飾は剥がれ、ドーム状の薄暗い洞窟の中。応神薙と空亡は畳五枚分の距離を開けて見合っていた。二人とも鞘に手は添えているが、刀は抜いていない。谷崎と天月は、薙の背中をただ見つめていた。そうして暫くしていると、今度は稲葉杏子が現れる。薙に加勢しようとする杏子を、谷崎は引き止めた。

「これは、彼らの問題だ。悔しいが、我々の出る幕ではない」
「果たし合いというわけね。……くだらない、と言いたいけれど」

 杏子は悲しげな表情を浮かべる。しかし、薙からも同様に制止が入る。見合っている二人は、動かない。そのまま空間全体を震わせるような声で、空亡は言葉を発する。

「羨ましかった。ずっとおまえのことが」

 薙は、ただ黙って聞いているだけだ。炎の勢いは弱くなり、辺りが暗闇に包まれる。ぼう、と壁や地面に生息していた発光菌類の淡い光が浮かんだ。幻想的な光に照らされて、二人の影が揺らめく。

「仲間に恵まれ、家に恵まれ、生まれに恵まれたおまえのことが、おれには眩しすぎた。顔も、声も、使う技も、全てが同じならば、違いはきっとそれ以外にある……おれはおまえだ。おまえの影だ。おれは太陽が沈み、人々がものの輪郭をわからなくなる時間に、ろうそくの揺らめきが生む幽霊に、おまえが割った鏡の破片の中におれはいる」

 空亡の独白は続く。何の合図か、二人は同時に抜刀した。正眼に構えられた一対の刀。二人の圧にあてられて、どこからか軋むような音が聞こえた気すらした。

「そうやって迷い込んだ終わりのない泥濘のなか、おれはようやくおまえと相まみえ、直視することができた。深い深い穴の底からでも、空さえ見えれば太陽には手がとどく。おれはそう思うことで、正気を保っていた……それももう終わりだ。沈まぬ陽はない。いまのおれには、躊躇いもない」

 空亡の独白が終わる。薙は深呼吸をし、そして空亡のことを見据えた。淡い光に照らされるばかりで、彼の表情は見えない。しかし、薙には空亡の表情が簡単に想像ができた。彼はきっと、慈悲深い求道者のごとく涙を流しているのだろう。二人だけの間で、何かが交わされた。

「だが空亡、おまえはすでに社会の秩序を乱した」

 応神薙は全てを切り捨てた。空亡の葛藤から、彼自身の家に根付く問題までも。今すぐに解決することは無理だ。ならば先送りにする。薙は一人ではない。

「おまえは黒陶由倉にその身と技を貸した。既に表立って動いた以上、我々も見ているだけにはいかない。黙ってお縄につけ。……ただ、おれたちのような者どもにとって、譲れぬ矜持があることには同意する」
「思考停止など、笑止千万」

 いつの間に二人の距離は縮まり、切っ先どうしが触れる。しかし、動かない。二人とも、動けないのだ。薙は空亡が自分より概ね三年程度年上だろうと見当がついていた。つまり、三年先に訓練を始めているということだ。対して空亡も、薙の技量を侮ってはいない。薙の実戦経験は豊富であり、義手の性能も未知数である。しかし、どちらかが地に伏せない限り、この勝負は終わらないことも理解していた。

 空亡が先に動く。彼は触れ合った切っ先から、薙の刀の根本まで刃を滑らせながら刀身を回転させて弾く。空いた胴体に突きを入れようとするが、薙は入身で回避し、そのままがら空きの背中に一太刀浴びせかける。しかし、空亡はまるで背中に目がついているかのようにそれに反応する。彼は自身の刀を頭上で回し、薙の一撃を逸らした。流れで空亡の体はその場でターンし、薙のこめかみに向かって白刃が食らいかかる。それはまるで、踊りのように優雅だった。熟達した同門どうしの果たし合いだからこそ見ることができる、遥かに高度な読み合い。この場にいる誰もが、二人に見惚れていた。
 しかし、応神薙は唐突にその均衡を崩した。突然、刀を大上段に振り上げたのである。美しく均衡の取りながら回転していた歯車の間に、突如大岩を差し込まれたかのように、空亡は数瞬固まる。反射的に、彼は大上段に振り上げられた薙の刀の柄頭を突いた。想像よりも軽い感触。薙の打刀が、闇の中に飛んでいく。空亡の刀が止まったその一瞬。薙は左腕を振り下ろし、その刀を上から叩く。甲高い音とともに、空亡の姿勢はつんのめり、その顔面に右のアッパーが入った。薙は空亡の刀を踏んで地面に落とし、左の義手の手首から短刀を引き出す。それは闇の中でも淡く光り、水に濡れているような艶めきがあった。立ち直ろうとする空亡の肩口にその短刀が深々と突き刺さり、そして左腕を飛ばす。生暖かい血液が吹き出す中、空亡は倒れ込んだ。

「杏子。止血を頼む」

 薙がそう短く告げると、天月は「あっ……」と力が抜けたような声を出し、倒れ込む空亡に駆け寄ろうとした。谷崎はそれを再び止める。彼が横を見ると、杏子が杖の先から光る球体のようなものをいくつか出し、洞窟を照らしている姿があった。杏子は空亡に向かって何らかの術を行使する。傷口が塞がろうとするその瞬間、空間がひび割れた。

「だからおまえはいつも甘ちゃんなんだよ、薙」

 再びの、黒陶由倉であった。この世の全てを持ってきたかのような重圧を引っ提げて、彼女はこの世ならざる空間から姿を現したのである。


「薙くん、止めを刺すんだ!」
「おれに情けは無用だ! 応神薙!」

 必至の形相で、谷崎と空亡は叫ぶ。その言葉が薙の耳に届くか否かといった速さで、薙は素早く状況判断をして短刀を空亡の喉に突き刺そうとした。しかし、その左手が動かない。目をやると、水のようななにかが絡みついている。黒陶は高慢な足取りで横たわる空亡のもとまで歩み寄った。

「この期に及んで何をするつもりだ、由倉さん」
「みておれ、薙。世界が変革をする、その第一歩を。お前らは証人となるのさ」

 そう無造作に告げた黒陶は、薙と近くにいた杏子を、谷崎と天月が控えている方まで吹き飛ばした。逆再生をするかのように、空亡の傷口に血液が集まる。はじめは激しい抵抗をしていた彼も、血が流れ出るとともに体力が尽きたのか、力なくうなだれていた。そのまま二人は宙に浮き上がる。黒陶からははまるで人形師のように、微かに赤黒く発光する糸が流れ出ていた。十字架に掲げられる聖人のように腕を広げている空亡の頭を、黒陶はやさしく抱える。まるで、長く会っていない恋人同士、あるいは母が子に向けるような慈愛をもって。
 ガタリ、と音がする。四人が揃ってその方向を向くと、冷蔵庫の停時室から例の腕が飛び出し、空中で包装が剥け、空亡の方へと進んでゆく。黒陶は、中庭で回収した薙のサングラスを空亡に掛けた。その瞬間、天月は空亡と視線が合ったことを自覚した。その目からは全てに対する諦念と、彼女に対する申し訳無さが読み取れた。空亡の唇が動く。しかし、それが音になることはない。しかし、天月には読み取れた。「またあおう」
 谷崎は、薙の壊れたサングラスを掛けた空亡と応神薙を見分けられない。二人はあまりにも似通っていた。薙の腕が空亡と接合された瞬間、彼は苦しみに悶える。黒陶はなにやら冒涜的な呪文を唱えた。谷崎には空亡の心臓が激しく動き、その腕に必死に血を巡らせようとしている音を聞いた。
 稲葉杏子には、いま行使されている術の理屈が何一つとして理解ができなかった。薙の腕と空亡が接続される。いささかサイズの合っていない腕だ。黒陶は小さく首を傾げて思い出したように何かを追加で唱えた。すると、左腕は瞬時に膨張し、その表面に雷のような赤黒の模様を走らせる。杏子は確信する。応神家の力ある血を代償にして、何かをしようとしている。
 空亡の体を、半透明の球体が包み込む。それは光を放ち、粘り気があり、ほのかに暖かい。まるで、糖蜜の太陽のようだった。地べたで見ている四人は、それに触れたい衝動を感じた。狂気の澱が、精神の内に沈殿してゆく。やがて、その太陽は陰り、固まり、宙に浮かぶ穴となる。空亡の姿は、もう見えなかった。
 その穴の向こうから、水音が聞こえる。杏子の夢に出た、河原だ。彼女は夢で会った子供は薙ではなく空亡であると気が付いた。甘く、根源的恐怖をもたらす臭気が、穴の奥から漂ってくる。それに屈服して、精神を開放したい衝動に駆られつつも、四人はじっと耐えていた。黒陶の外法の術と応神の血液を燃料にして、夜から追いやられたはずの、文明の時代から追いやられてきたはずの、科学の光に照らされたはずの「何か」がいま、目を覚まそうとしていた。

 西暦二〇一三年、九月六日。草木も眠る丑三つ時。日本は、その有り様を永遠に変えた。

夜陰

西暦二〇一三年 九月八日

 それでは次のニュースです。今朝未明、池袋にてまた暴行事件が発生しました。被害を受けた男性は命に別状はございません。犯人は、現在も逃走中であると思われます。昨日から同様の事件が、日本各地で多発しています。その多くは夜のうちに起こっている模様です。視聴者の皆様も、十分にお気をつけください 

 その日の東京には、雨が降っていた。狂ったスネアドラムのように雨が窓ガラスを叩く中、谷崎はリビングルームでテレビを見ていた。とりとめのないニュースが流れる。時刻は概ね八時。応神薙は、会議に出席していた。外は既に暗い。谷崎は一昨日から、夜に根源的恐怖を覚えるようになっていた。一人でのうのうと用心もなしに出歩くなど、できないと確信している。窓を見る。自分の顔は、記憶の中とは違いない。少しやつれているようにも見えた。冷蔵庫の停時室には、薙が作ってくれたカレーが入っている。しかし、谷崎に停時室を開ける気はなかった。
 玄関が開く音がする。谷崎は一瞬だけ身を強張らせ、続いて聞こえる音が薙のものだとわかると、一気に脱力する。夜の闇が、部屋の中に入ってこないとは限らない。薙はそそくさとリビングまで入り、冷蔵庫からカレーを二人分取り出して机に並べた。

「谷崎。飯は食えよ」
「もちろん」

 二人の間に会話は少ない。二人は黙々とカレーを口に運ぶ。無水調理で作られたそれは、本来なら脳に直接喜びをもたらすような味をしているはずだ。しかし、どうにも何かがずれているような気がしてならなかった。空亡はあれから陰も形も見ない。薙に聞いても、何かを感じることはないそうだ。全てが分からずじまいに終わるのは、気持ちが悪い。

「それで、天月の調子はどうだ」
「今日の昼も見舞いに行ってきたんだけどね、ありゃ復帰には暫く掛かるな。治りかけだったPTSDが再発してる……キミは?」
「おれは大丈夫だ。夜陰に乗じて襲われようと、木っ端妖怪どもはおれに触れることすらできん」

 薙は断言した。その言葉からは自信がにじみ出ていたが、以前のように溢れ出してはいなかった。薙も谷崎も、身の程を知ったのである。谷崎は思い返す。全員、あの場からどうやって脱出できたかを説明ができなかった。報告のためにすり合わせようにも、記憶が矛盾してしまっているのだ。それが何の作用であろうと、報告書は面倒なことになるだろうなと心のなかでひとりごちた。精神の奥底に、鈍痛を主張する狂気を感じる。

「……と言っても、おれはこれから一週間は会議に次ぐ会議だ。体が鈍ってしょうがない」
「まあ、訓練には付き合うさ」

 薙は短く感謝してから、二人分の皿を回収した。彼が食器を洗い、谷崎が本棚の裏から酒を取り出している間。ふと、水の音が止まる。

「そういえば」

 薙が声を出す。

「そういえば、おれは転勤するらしい。群馬県のサイトの、管理職だ。 今すぐではない。二〇一六年の、四月だそうだ」
「それまでに黒陶由倉を狩れってことだね」

 薙は頷く。谷崎はグラスを二つ出し、それらに飴色の液体を注いでいく。海の煙を凝縮したような香りが、部屋の中に広がった。谷崎の意識の隙間から、インターホンの音が滑り込む。

「おれが出る。グラスはもう一つ用意しておいてくれ」

 谷崎は首肯し、グラスをもう一つ出す。玄関口からは、二日ぶりに聞く声が響いた。薙に導かれ、その声の主 稲葉杏子がダイニングテーブルに座り込む。

「薙くんとタニショーの助けがしたい、って上に願いを出したらさ、驚くぐらいあっさり通っちゃって」

 杏子ははにかむ。

「というわけで、十三階に越してきました。これからどうぞよろしくお願いします!」

 たとえ虚勢であろうと、杏子の明るい雰囲気はいくらかの清涼剤となる。三人はグラスを掲げ、琥珀色を飲み干した。


 もはや、夜は安寧の時ではなくなった。ヴェールが静かに上げられた世界の中、人間と「何か」の最後の舞台の幕も、また上がる。


特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。