【長野県 ██町】
祖父の葬式の為に久しぶりに足を踏み入れた町は、予想通りによそよそしかった。
遺体の状態が酷いと言うことは聞いていたし、きっとそのせいだろう、参列者は少なかった。お別れの時間も余り取られず、妙に手慣れた係の人達が万事を執り行ってくれていた。それでも受付を無人にする訳にもいかず、ずっと泣いている母を妹に任せ、僕は入口の脇でじっと立っていた。
この辺りの思い出は極僅かしかない。僕と妹は東京で生まれ育ったし、母の生家も今はもうない。祖父は山奥の神社に一人で暮らしていたのだという。代々継いできた神主としての仕事をこなしつつ。
祖父と最後に会ったのはいつだったろう。幼い頃は、地域で開かれるお祭りに何度か来ていた。
祭りの始まり。日が沈んだ頃に町中の明かりが落とされるなか、祖父が装束に身を包んで人々の前を歩く姿。子供ながらに手伝いに交ぜて貰って近所の子と遊んだこと。名札のようなものを書く練習をしたような時間。そんな記憶はあるが、ぼんやりしている。
中学生にもなると足が遠のいて、それ以降は来たこともなかったのではないか。
「失礼する。遅くなった。」
背の高い初老の男性だった。帽子を取ると高い鼻と太い眉の間に上がり気味の目が光っている。激しさを隠し切れない人のそれだった。それでも自分の名を書く筆遣いは滑らかで、思わず見惚れてしまう。御霊前の表書きも自身で書いたのだろうか。
「柳沢やなぎさわ」達筆な文字で、帳面に男性の名前が記される。
「君は、高橋の孫かな」
「ええ、惟臣ただおみと言います」
頷き、その人は部屋の中へと消えていった。かと思うと、直ぐに出てきて僕にメモを渡した。
シンプルな、名前と電話番号だけのメモ。そして彼は有無を言わせない、静かな口調で言ったのだ。
「我々は君を必要としている。明日、そこに連絡をして欲しい。君が見てこなかったあいつについて、話がある。」
出棺を済ませ一息ついた叔母に見せると、顔色が変わった。奴には近づくな、そう何度も繰り返して、叔母はそそくさと帰ってしまった。
今から考えると、祖父の関係者の殆どは、あれと関り合いになって亡くなっていたのだろう。あれとずっと向き合って、そして亡くなった祖父。同じ時期に柳沢さんの仲間も犠牲になったのだと聞いた。その殆どが帰ってこられなかったとも。
そう。
僕はその番号へと連絡を取った。
あれから三年、僕は祖父の後を継いで神主をしている。あれを祀り鎮めるお役目。残念なことに実力はまだまだ足りないけれど、世の中には超常的な脅威と戦い、何も知らない人々を守る存在がいることを知った。祖父もまたその一人だった。柳沢さんも、そしてその沢山の仲間たちも。
闇の中で異常存在を捜査収容する組織。僕は財団の協力者になった。
これは、そんな職員たちの物語だ。
【エリア81JH 諜報員談話室】
エージェント・応神いらがみのもとに一通の手紙が届いたのは、そろそろ夏が始まろうかという頃の昼下がりだった。
一見なんの変哲もない茶封筒に、「応神 薙 様」と宛先がプリントしてある。差出は財団内から。
財団による確認の完了を示す判を一瞥し、応神は僅かに警戒の色を滲ませながら封を開けた。
丁寧な時候の挨拶のすぐ下に載った「サイト8135」の文字を確認し、応神の表情が剣呑なものになる。
「仕事ですか」
「仕事──まあそうだな。そんなもんだ。」
隣でキーボードを叩くアイランズ調停官に言葉を返し、応神は手紙を読み進めた。
仕事の内容、サイトまでの交通費は経費で負担、日程───必要事項が記された無機質な文字列の最後に、『手筈は例年通りです。よろしくお願いします。』と、万年筆の几帳面な文字が綴られている。
送り主の名は「柳沢」。
「………今年も来たか…」
「随分と不穏ですね。職務の内容を聞いても?」
「祭りの運営のアドバイザーだ。場所は長野。」
長野の祭りと聞いて、アイランズにも思い当たる節があったらしい。ああ、という顔をしたあと、一度確認するように応神の方を向いた。
「例の祭りは、サイト8181でしたね」
「あれじゃない」
「夏祭り…でもないですよね」
「違う。開催地は8135だ。」
「やはりそれですか。なんでも、毎年一般の方も招いて、大規模に納涼祭を行うとか。」
「ああ」
サイト8135で毎年行われる「納涼祭」。
納涼祭と銘打ってはいるが、ここのものは夏祭り的な要素も兼ねている。
近隣の神社と協力しつつ、サイト総出、かつご近所動員のこのイベントは、ちょっとした地方の名物でもあった。
財団内でも毎年、各サイトから実行委員と一般参加者共に募集がかかる。財団職員が一般人に紛れて羽を伸ばす貴重な機会として、職員からは「楽しい夏の風物詩」だと認知されていた。
「俺は去年から運営として参加だが、まあ祭りとしては楽しいぞ。屋台も出るし酒も出る。年によっては野外ライブもやるらしい。」
「一度行きたいと思っていました。──しばらくは無理そうですが。」
エンターキーが叩かれる音がする。どうやら作業の区切りがついたらしい。
後半の含みのある言い方に、多忙な職務への恨み言の気配を察し、応神は気まずげに咳払いをした。
「という訳で、俺はしばらく出張だ。その、準備が色々あってな。」
「貴方のアドバイスを仰ぐ必要のある祭りなんて、どうせろくなものじゃないんでしょう。8181のアレじゃありませんが、まあ何か深い事情があるのでしょうね。」
かちりと音が鳴ったのは、アイランズがマウス操作をしたからだろうか。
蒼色の目がちらとこちらに流され、また画面に戻る。
「察しがいいのは悪いことじゃないが、過ぎた推測はやがて自分の身を滅ぼすぞ」
「ええ、知っていますよ。これはただの当て付けです。どうせ貴方のことですから、運営と一緒に最大限祭りを楽しむんでしょう。食べ物の屋台全制覇!なんて、今から息巻いているのではありませんか。」
図星を突かれた応神が黙り込む。それを一瞥し、アイランズがため息混じりにPCをログアウトした。
「まあ、せいぜい私の分まで楽しんでください。土産はいりません。その代わり、購買で出される夏の新作デザートと、ただ楽しかっただけの祭りの話を。」
「おう」
任せとけ、と手紙を封筒にしまった応神に、アイランズもわずかに口元を綻ばせる。
デスクの上に置いたアイスコーヒーを飲み干し、応神はふとアイランズの手元を見た。
「パソコン落としていいのか。それとも、今日は一度上がりか?」
「いえ。PCを使うのは一度終わりです。次はこちら。」
バサリと重たい音を立ててデスクに乗せられた紙の束に、応神があからさまに嫌げな顔をする。
万年筆の蓋を開けたアイランズが、もう片手で応神に向かって空のマグカップを差し出した。
「という訳で、私はもうしばらく手が空きません。よければ、これ洗っておいてください。」
「お、おう…」
「現場主義とかなんとか抜かして、結局書類仕事デスクワークを手伝ってくれないのは知っています。ついでですが、貴方の出張についても事前に話を聞いていました。"応神を外に出すから、それに伴う雑事が増える。すまない。"だそうです。良いご身分ですね。」
外に出れば汗が出る気温だが、アイランズの言葉は絶対零度だ。
(饒舌なだけマシか、本気で怒ってはねえな)応神は内心で思うが、それでも一応の気まずさはある。若干目を逸らしながらカップを受け取ると、アイランズは無言で書類の一枚目をめくった。
「あと少しすれば、出張に関しての正式な沙汰があるでしょう。頑張ってくださいね、エージェント殿。」
「毎度のことだが、あれこれ任せてすまねえな。調停官殿。」
「冷蔵庫で新しいコーヒーが冷えているはずです。適当にどうぞ。」
「書類仕事を任せきりなのは、素直に悪いと思ってるが」
「行動の伴わない罪悪感を示されても執行猶予はつきません。とりあえず、気をつけて行ってきてくださいね。」
「お気遣いどうも。とりあえず、洗ったカップはいつもの棚に置いとくからな。」
心なしか温度が下がった空気を振り切り、応神が部屋の扉を開ける。
「どんな仕事かわかりませんが、変なこと考えないで、ちゃんと帰ってきてくださいねー?」
「ああ、わかってる!」
投げるように言って、後ろ手に扉を閉める。
「これもまた俺の役目、か」
どこかの声は、扉が閉まるバタンという音に紛れ、やがて沈黙に霧散していった。
【サイト81██ 談話室】
エージェント・西塔さいとうは、ここしばらくで一番の難所に、じりじりと思考を焼かれていた。
「西塔さま」
「着ないぞ」
「西塔さま」
「着ないって」
「絶対に、似合うと思うのですけど」
「絶対に着ない」
「私の見立てに誤りがあるとでも?」
「正しくても着たくねえ!」
ばん!と、西塔が机を叩く。その衝撃で、机の上に広げられたパンフレットが軽く跳ね上がった。
パンフレットの発行元は、明らかに格式の高そうな呉服屋。
その中の見開き、色とりどりの浴衣や小物が載ったページに、可愛らしい犬の付箋が貼ってある。
「西塔さまは服選びがお得意ではないようでしたので、私の方から候補を選ばせていただきました」
めくれてしまったページを元に戻しながら、雨矢あまや服飾技師が言った。
色鮮やかな冊子はところどころページがよれていて、何度もめくり返して確認したのだとわかる。
一番最後のページに挟まれた「サイト8135 納涼祭」のポスターが、西塔が机を叩いた衝撃で顔を出していた。
本当は、私が西塔さまの浴衣を作らせていただければよかったのですけれど。雨矢が残念そうにため息をつく。
「まあ、西塔さまがお祭りに行けることになったのも急なお話でしたし、今回は仕方がありませんね。それでも、私おすすめのお店で、西塔さまに似合いそうなものを選ばせていただきました。」
この店の職人とは長い付き合いなのです。腕は確かだと思ってくださいませ。無害そうな顔で笑う雨矢をよそに、西塔は必死でこの場を切り抜ける方法を考える。
正攻法で攻めたとて、何かにつけて自分を飾り立てたがるこの服飾技師が頷いてくれるはずはない。
かといって、ここで素直に頷くという選択肢は、自分にはない。
半ば怯えたような目で、付箋の貼られた浴衣に視線をやる。
全体は緋色や紅で染められ、生地全体に舞うのは大輪の花。足元の方にかけて黒のぼかしが入っており、鮮やかな色を使っていても、決して幼い印象ではない。
絶対無理。西塔は小さく喘いだ。
こんなものを着ている自分なんて想像できないし、正直、想像したくもない。
祭りに行くにしても、特段普段と変わりのない私服で行こうとしていた西塔にとって、雨矢の行動は正直、ありがた迷惑とも言うべきものだった。
雨矢によって貼られた犬の付箋が、黒い目でじっとこちらを見ている。
古今東西──文字通り、あらゆる服飾に精通した雨矢は、もちろん浴衣も守備範囲に入っている。
今まで西塔も何度か雨矢の力に頼ってきたし、西塔がかれこれ言葉を連ねようが、その実力への信は揺るぎない。
だけど。
だけども。
「あのなー、雨矢サン」
「はい」
「雨矢サンのセンスを疑ってるわけじゃないし、選んでくれた店のことを疑うわけでもないけどな」
「はい」
「似合う似合わない以前に、わたしは浴衣なんて着たくな──
「あら、西塔さん、雨矢さん」
「串間くしまさま!ちょうどいいところにいらっしゃいました!」
──…は?」
串間保育士が、西塔と雨矢に向かってふわふわと笑う。
その笑顔が、西塔には死刑囚の前に現れた死神のように見えた。
「随分と楽しげにお話しされていましたから、声をかけてしまいました。どうしたのですか?」
「串間さまから、援護射撃をお願いいたしますわ。西塔さまが8135のお祭りに行かれると言うので、私、浴衣を選んだのです。ただ、西塔さまはそこまで乗り気ではないようで。」
「その祭りなら、兄さ──差前さしまえさんも行かれると言っていました。いいと思います、浴衣!」
串間の邪気のない援護射撃に、西塔はくらりと目眩のようなものを感じる。
一番来て欲しくない人間が来てしまった、と西塔は内心で叫んだ。
王手をかけられている。
逃げ道はない。
「西塔さん。もしも差前さんにお会いできたら、串間が『私の分まで楽しんでください』と言っていたと、伝えておいてください。」
「あ、」
「串間さま、ご覧ください。これ、西塔さまに選んだ浴衣ですわ。」
「素敵!小物も合わせるのですね。さすが雨矢さん、西塔さんにとても似合う浴衣だと思います!」
「ふふふ、そうでしょう?実は、草履もこのように…」
(──助けてくれ──!)
もともと劣勢だったのに、二対一でかかられては、確実に西塔の勝ち目はない。
西塔は目の前が暗くなっていくのを感じながら、この未来を思考できず、うっかり祭り行きを申請してしまった過去の己を呪った。
【サイト8135 特殊収容第三試験室】
桜田さくらだ博士はのしかかってくるような空気の中、正座の姿勢を変えることで居心地の悪さを胡麻化そうとしていた。隣ではスーツの男女が微動だにせず座っている。いかにも、霊的存在へ対抗する人員達といった印象だ。
自分の頭部のことを、つまり桜田の首が胴と独立して動くという事実を、彼らは把握しているのか。もしもそれを知らず、何らかの最悪な形でそれを知ってしまったら、彼らはどうするのか。──頭をもたげた不安感を振り払い、桜田は前方を注視する。この場の主役はそこにいた。
部屋の前方に設けられた祭壇、その前で正に行われている儀式。
それを、目付きの鋭い初老の男性が見つめている。
「いかがかな、しぃカウンセラー」
呼びかけられたのは水色で、全長20cm程の小動物のような存在である。生物学上の分類は不明だったが、彼には成人した人間と同程度の知能があった。じっと目を閉じ、祭壇の前で体をぴんと張っている。集中した時に彼が見せる様子だ。
『桜田さん、おねがいできますか』
「はい。柳沢さん、カウンセラーからの言葉をお伝えしますね。」
テレパシーで呼ばれた桜田が進み出る。それは一度に一人の人物とのみ通じるもので、この場での彼女は伝言役を仰せつかっていた。
祭壇からひょいと飛び降りたしぃカウンセラーと並び、彼女はこのサイトの特殊収容責任者である柳沢と向き合う。
「残念ながら、波長が合いません」
「それは、何も感じなかったということかね」
「いえ、存在は感じています。けれど、何か重たいものに妨害されているような、そんな合わなさがあります。」
柳沢の様子は冷静に制御されているようで、その実、落胆と失望を露わにするものだった。
「そうか。ではここまでにしよう。対策会議があるものでね、失礼する。」
言うが早いが、立ち上がった柳沢はこちらを一瞥もせずに立ち去ってしまう。
その後ろ姿を見ながら、桜田はぷくっと頬を膨らませた。
「うー、なんですか、そっちが呼んだんじゃないんですか!失礼ですよ、あの態度は。」
『きっとお忙しいんでしょう。私は気にしてませんよ。』
憤慨してみせる桜田を、しぃカウンセラーは穏やかに宥めた。スーツ二人が近づいてきて頭を下げる。
「申し訳ありません、ご足労頂いたのに」
「明日までサイト内にお部屋を用意してあります。どうぞお使いください。」
差し出された鍵を受け取り、しぃカウンセラーは体をぴょこりと曲げた。
会釈を返して二人も退出していく。扉が閉まると同時に、しぃカウンセラーはペタンと畳の上に体を投げ出してしまった。
『つかれました。声がきこえるような気もしたけど、わかりませんでしたね。』
「お疲れ様です。仕方ないですよカウンセラー、こういう仕事が専門な訳じゃないんですし。」
『それは、そうですね』
額にしわを寄せ、ゆっくりと体を脈打たせるしぃカウンセラーを掌で包み上げ、桜田は敢えて明るい声を上げた。
「カウンセラー、綿あめって知ってますか?砂糖をふわふわの綿みたいにして食べるお菓子ですよ。」
『え、綿っておふとんにはいってる綿ですか?おさとうが綿に?』
「お祭りではね、絶対食べられますよ。必須です。お祭りイコール綿あめです。だからね、お部屋で休憩して、お店に寄って帰りましょう。」
『え、え、すごい。楽しみです。』
少し元気が出たようなしぃカウンセラーをポケットに収め、桜田も祭壇に背を向けて歩き出す。
その刹那。鈴の声がした。
一瞬、目の端に白い布がひらめいた気がした。
振り返る。勿論誰もいない。ないはずの首筋が冷える感覚。桜田は急ぎ足で廊下に出る。
その上着の内側で丸まったしぃカウンセラーは、先ほど向かいあった柳沢のことを考えていた。
随分と焦燥していた。祭りというものをあまりよく分かっていないしぃカウンセラーだったが、どうやら何か、人知の及ばぬ事態が起こっていることは察せられた。自分のような、本職ではない存在にまで声が掛かるのだ。
あの人のために、何かできることはないか。思いを巡らせてみるも、良い案は浮かばなかった。
【祭り会場 "スーパーボール"屋台】
しゃらん、と、軽やかな鈴の音が鳴る。
「お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
「まあ、このくらいは世話ないけどな」
口調はぶっきらぼうながら、大人しく指示に従ってくれた的屋の青年に、エージェント・神舎利かんざりは軽く頭を下げた。
設営を終えた屋台の端には、小さく揺れる鈴が取り付けられている。それがきちんと結ばれていることを確認し、神舎利は小さく頷くと、手に持った鞄の中から一枚の紙を渡した。
「なんだこれ」
「ビール引換券です。宴会場に持っていけば、缶ビール一本と引き換えられます。…引き換えに行くお時間、ありますか。」
「俺は相方がいるから大丈夫だが。もしも時間がないって言ったらどうするんだ?」
「町内長に話をつけてあります。祭り終了三日以内でしたら、連絡してビールと交換できます。」
「手回しが上手いな」
「…恐縮です」
「褒めてねえよ」
青年は神舎利を軽く睨んでいたが、神舎利はただ僅かに眉をひそめただけで、何も答えようとはしなかった。
「俺はこの祭り来て二年目だけどな、アンタら一体何がやりたいんだ」
「我々は祭りの運営委員です。祭りが万事つつがなく進むよう、こうしてあなた方にも助力を頼んでいるのですが。」
乱暴に切り出した青年とは対照的に、神舎利の態度は至極冷静だ。
冷徹な態度が癪に障ったらしい。青年の語気が荒くなる。
「この鈴付けることが、助力だって?本気で言ってんのか?」
「至極大真面目に、本気で言っているのだとしたら、どうしますか」
──ここでようやく、神舎利は、的屋の青年と目を合わせた。
やや長い前髪の間から、黒橡色の凪いだ目が、じっと青年を見ている。
二人はしばらく睨み合っていたが、やがて青年の方が肩の力を抜いた。
「ああ、わかったよ。あんたらの指示に従う。」
「恐れ入ります」
二人の間に張られていた緊張の糸が、音もなく緩まっていく。
言っておくが、あんたらを信用した訳じゃないからな。僅かに瞬きをした神舎利に対し、青年が念を押すように言った。
「もちろん、祭りが成功して欲しいのは俺たちも同じだ。売り上げにかかってるし。」
「…」
「ただな、同じとはいえ、信用するわけじゃない。」
「…」
「…まあ、あんたらが何考えてようが、俺たちには関係ない話だよな。お互いひと時だけの仕事だ。最大限うまくやれるようにできりゃ、それでいい。」
青年が、吊られた鈴を指で軽く押す。
しゃらりと軽やかな音を立てて、小さな鈴が微かに揺れた。
「なあ、この鈴の深い意味は言わなくていいから、何がどうなったらどうしたらいいのかくらい教えてくれねーか?こっちも相応の対応するから。」
「そうですね」
空気を変えるように言った青年に対し、神舎利が少し、言葉を選ぶような風を見せる。
「鈴の紐、硬く結んだでしょう。その紐が切れたら」
「切れたら?」
「逃げてください」
──結局、その後青年が何か言うのも聞かぬまま、神舎利は鈴を一瞥もせずに立ち去っていった。
【サイト8135 周辺蕎麦処 "鈴舞"】
出張の醍醐味。
すなわち、ご当地グルメ。
「はい、お待ちどうさまです」
「わーい」
やってきた料理に素直な歓声をあげたエージェント・太郎たろうを見ながら、応神はテーブルに頬杖をつく。
「細いのによく食うな、お前」信州名物戸隠そば定食、天ぷら付き──を前に手を合わせた太郎に、応神がため息まじりに言った。
「いや、俺もわりと食べる方だと思ってますけど、言うて応神さんもかなり食べますよね」
「食べものが俺の動力源だ。切れたら死ぬ。文字通り。」
「まあ、旨いものをおいしく好きなだけ食べられるなら、それが幸せってもんですよ」
「そうだな」
サングラスに隔たれてはいるが、太郎の紅い目が輝いているのが手にとるようにわかる。
普段もちいと軽薄な印象だが、今日はいつもよりテンションが高いな──呆れまじりの目で観察しながら、応神も自分の頼んだ蕎麦粉おやきを手元に引き寄せた。
目の前で注がれていく酒に眉をひそめるが、結局何も言わず、応神は目の前のおやきをかじる。
ふわふわした食感の生地に、信州みそで味付けされた茄子が入ったおやき、税込165円。当店自慢と銘打っているだけあって、生地も中身もいい味をしていた。
あっという間に一つ目を食べ切り、二つ目のひき肉おやきに手を伸ばす。
「ところで、応神さんはもちろん、祭りに参加するんですよね」
「え?ああ、そうだな」
「祭りグルメ、たくさん堪能するんでしょうね」
「おう。アイランズさんにも同じこと言われた。」
「『食べ物の屋台全制覇!なんて、今から息巻いているんでしょうね。せいぜい、今年も行けない私の分まで楽しんできてください。』──こんな感じですか。」
「正解。言葉遣いはそっくりだが、声真似はそこまで似てねえな。お前さんの思考トレースも、そこまでは保証できねえか。」
「正確に言えばトレースじゃなくて、相手への共感と振る舞いの想像。芸術的想像力エンバスって言ってください。」
「似たようなもんだろ」
「ニュアンスの違いってやつです」
喋る間も絶え間なく手が動く。既に応神の注文したおやきは残り一つを切っており、太郎の天ぷらは姿を消していた。
「昼から酒飲んで飯食って。いいご身分だな。」食べればあとはのんびり過ごすだけの太郎に対して、自分の夜はこれから長い。少し皮肉も込めたつもりだったが、太郎は少しも堪えない顔をして蕎麦をすする。
「自費ですし。相応の労働はしてるので、たまには許してもらえるかなって。」
「どうせ今日は外泊なんだろ」
「近所の旅館予約しました」
「そうかよ」
俺はサイトに泊まりだ、とため息まじりに応神が呟く。
「寝心地悪いんですか」
「寝心地っつーか、どうにも落ち着かねえな。夜中にしょっちゅう目が覚めるし。」
「枕が変わったからでは?」
「というか、あのサイトにいること自体が落ち着かねえ。」
「おおう、冗談に無反応だと寂しいですね。それと、いくら『こいつは俺の仕事の関係にも深く関わっていて、一緒に仕事をしたことも多い。それなりに信頼がおけるし、なんとなく近いものを感じている。』とはいえ、あっさり自分の弱音や不調を見せるのは如何なものかと思いますけど?」
「…勝手に"共感"するな」
「祭りですよ。必然的に色々な人が来る場所ですよ?俺が本当に、応神さんが知ってるエージェント・太郎かもわからないのに、そう易々と弱さを晒すのは良くないなあって思いますが。」
二人の間の音が途切れる。
応神は、目の前の存在をじっと見た。──銀髪、サングラス、いつも着ている長袖のパーカー────見た目だけならば、記憶の中のエージェント・太郎そのままだ。
黙り込んでしまった応神をじいっと見つめ返していた太郎が、寸分の時を経て愉快げに笑い出す。
「やだな!そうまじまじ見んなよ。冗談ですって。」
「お前…実は結構酔ってるだろ」
「大丈夫大丈夫。俺はちゃんと応神さんの知ってるエージェント・太郎。太郎白子ですって。まあ、俺の認識以外で証明できるものが何もないですけど。」
「悪酔いしてるな。旅館に行ったらとりあえず寝とけ。」
「まあ、俺が魑魅魍魎の類なら、応神さんが気づかないはずないですしね。はは、おっかし。」
笑いが止まらない太郎に代わり、応神が出された蕎麦湯を受け取ってやる。
「────はー…おもしろ」
「おら蕎麦湯だ。これ飲んで落ち着け。俺は先に店出るからな。」
「何を思ってるのか知りませんけど、今日の応神さんいつもより精神が不安定ですから、ちゃんと地に足つけた行動した方がいいと思いますよー」
「それも共感の結果か?」
「何思ってるか知らない、って言ったじゃないですか。これは単なる俺の勘と、観察と、お節介です。」
「どうだか」
「本当ですよー」
蕎麦湯を注ぎ始めた太郎を見ながら、応神は財布を持って立ち上がる。
「あ、ここの店蕎麦クッキーが有名なんです。帰り際どうですか?」
ついでのように言った太郎の言葉を聞き届け、応神は伝票と共に、ふたつ分のクッキーの袋をカウンターに置いた。
【サイト8135 談話室】
自販機の中から転げ落ちてきたペットボトルを拾い上げ、エージェント・船坂ふなさかはため息をついた。
「お疲れさまでした、神山かみやま博士。」
「いいえ。あなたもお疲れ様でした、エージェント・船坂。お付き合いいただきありがとうございます。」
「博士レベルの方にそこまで気使われると、なんというか…変に肩が凝りますね」
「気に障ったなら申し訳ありません」
「別に、いいんですけど…」
オレンジジュースが船坂の喉に流し込まれていくのを見ながら、神山も購買で買ったサンドイッチをつまむ。
思ったよりも用が長引き、ろくに昼食を取れなかった。空いた腹に冷えたカツサンドを収めていると、飲みかけのペットボトルを持った船坂が神山の前に腰を下ろす。
「このサイトはAnomalousアイテムが多いって聞きましたけど、本当量が多かったですね」
「そうですね。私としては、他サイトの管理方法を見られるのは新鮮でしたが。」
特殊なAnomalousアイテムを数多く収容するサイト8135は、その手の職員たちには注目の高い場所だった。
Anomalousアイテムを管理するために敷かれた設備や人材は非常に充実しており、それ目当てで視察に来る職員も多い。
某サイトでAnomalousアイテムの定期確認を行う神山も、上司に言われて視察のため8135にやってきたのだった。
「ここでお祭りをしているのは聞いていましたが、日が被ってしまうとは思いませんでした。貴重な人手を割いていただいたのですから、せっかくだから何かお礼がしたいですね。」
「いや、日が被ったのはたまたまというより、いつもサイトから出たがらない上サイト内でもいいように使われてる神山博士にたまには息抜きでもさせてやろうという上層部の粋な計らいで──いえ、なんでもないです。適当に祭りと購買で金落とせば喜んでくれるんじゃないでしょうか。」
「私は何も聞いていませんから安心していいですよ、エージェント・船坂」
気まずげな顔で残りのジュースを飲み干した船坂の横で、神山がもすもすとカツサンドを食べる。
「しかし、祭りに参加するなどというのも久々です。やるべきことも終えました。ご厚意に甘え、ここは全力で祭りを楽しむとしましょう。」
「やっぱり聞こえてるじゃないですか!」
「エージェント・船坂。申し訳ありませんが、先方にそのように伝えてきていただけませんか。」
「あ?ええまあ、構いませんよ。またここに戻ってきますから、ちょっと待っててくださいね。」
立ち上がった船坂が、空になったペットボトルをゴミ箱に投げ捨て、廊下を早足で歩いていく。
「パンの味は、このサイトの方が美味しいですね」
ひと気のなくなった談話室。サンドイッチの最後のひとつを食べ終えた神山が、付属のおしぼりで手を拭きながら言った。
【祭り会場 北部山中】
青い空を、鳥の形の影が横切っていく。
空の中を広く飛び回っていたその影は、やがてふわりと旋回すると、まっすぐこちらに向かってきた。
慣れた調子で腕を差し出すと、ひとつ大きく音を立ててその羽を収める。
悠々と───どこか誇らしげにその腕に止まるものは、一羽の鳩。
それも、体に器具を取り付けられた姿の。
「ありがとう、エンリケ」
調教師である波戸崎はとざき研究員は、鳩エンリケに付けられたカメラを外してから、一度軽く頭を撫でた。
サイト8135で行われる納涼祭。そこでは、毎年1週間程度の出張として、各サイトから運営の人員が集められる。今年からそれに呼ばれた波戸崎は、運営委員会に携わる間中、意識して精力的に動いていた。
大切なのは、きちんとした印象付けに伴う円滑な仕事環境だと、波戸崎は財団生活の中で学んだ───地道な苦労の甲斐あり、波戸崎は委員会内でそれなりの信頼を得ている。
数々の委員会の仕事の中で、波戸崎が請け負う仕事の一つが、伝書鳩の扱いだった。
よく躾けられ、信頼を築いた動物は、人間にとって大きなサポーターとなる。
カメラを着け、指示をし、飛ばす。鳩は波戸崎にとっての高性能なドローンであり、今回の役職でもそれは遺憾なく発揮されていた。
机代わりのパイプ椅子を用意し、エンリケが持ってきてくれた映像をノートPCに繋げる。少しの自分の声のあと、ぶわりと映像の中の視点が上がり、人間にはない目───俯瞰した、空の中からの景色になった。
仕事なので真剣に確認するが、もともと鳥瞰図を見るのは嫌いではない。それらを元に、サイトを含めた会場と周辺の地図を手早く作成していく。委員会から依頼された仕事の一つだ。
詳細な地図など勿論存在している筈なのに。
まるで、それが偽造される恐れがあるかのような。
あるいは──。
(…流石に考えすぎ、か…)
気になる場所を時々巻き返しながら映像を見ていると、隣に立った木の葉がカサリと揺れる。
「様子はどうですか?」
「うひゃぁ!?」
ガサっという音と共に、人の形の影が、波戸崎の隣に立つ樹木の中から半身を出した。
おおよそ人が出てくるところではない場所から声が降ってきて、波戸崎から素っ頓狂な声が飛び出す。
「あ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたか。」
微かな風と共に、人影が音もなく着地する。
その姿を見て、波戸崎は少し納得のような安心のような顔をした後、一度肩で息をした。
「こ、東風浦こちうらさん…。いつから木の上に…?」
「波戸崎さんが鳩を飛ばしてから少し経った頃です。鳩が戻ってきたようだったので、確認のためにお声がけしました。」
「そうですか…」
エージェント・東風浦は"神出鬼没"であり、波戸崎も同じ委員会メンバーとしてその様子を度々見てきた。机の下、棚の影、大抵出てくるのは予想がつかないところである。
見てきた、が。まさか自分が当事者になるとは思わず、また登場の仕方も予想はつかない。びっくりした、と呟いた波戸崎の横で、東風浦がPCの方に目を向けた。
「作業途中にお声がけしてしまい、申し訳ありません。実は私も先程まで敷地の様子を見て地図を作成してきたのですが、やはり地道な人の目では限界があるということで、波戸崎さんの方の映像も確認できないかと。」
「そうだったんですか」
女性はやや苦手であり、普段はうまく会話ができない波戸崎だが、愛用のピジョンヘッドを被れば通常通りに話すことができた。息を整えた波戸崎が東風浦を促し、パイプ椅子前の空間を二人で共有する。
「ああ、すごいですね。空を飛んでいるようです。」
「映像揺れますけど、酔ったりはしませんか?」
「いいえ、大丈夫です。──あ、子供。鳩を見つけたのですね。」
「カメラ付きの鳩は珍しいですからね。…今のところ僕の目では、さしたる異常は見られませんが。東風浦さんが何か見つけたら言ってくださいね、映像止めるので。」
「ひとまずありません」
やがて再生が終わり、液晶画面が暗くなる。
手際よく道具類を片付けてから、波戸崎は東風浦を椅子に座らせようとした。──丁重に断られたが。
エンリケに褒美の餌をいくつか与えてから、波戸崎が改めて東風浦に向かい合った。
「確認を手伝ってくれてありがとうございます。…でも、本当びっくりしました。まさか木の上から出てくるなんて。心臓に悪い…。」
「普段から人目につかない移動を心がけているのです。もしご迷惑ならば、祭り開催中くらいはなるべく普通の人間らしい登場を心がけますが。」
「いや、大丈夫です。東風浦さんもその方が慣れてるでしょうし。」
「ありがとうございます。波戸崎さんはお優しいですね。」
「え、いや、優しいとかそういうのでは全然…」
ピジョンヘッドの下で口ごもる。
軽く目を逸らした波戸崎を気にした様子もなく、東風浦は「お礼に、醤油唐揚げが美味しい屋台をお教えしますね。」と軽く言う。
「あの、東風浦さ」波戸崎が言葉を継ごうとしたとき、ポケットにしまった携帯が音を立てた。
「波戸崎さん、プランBになりました。」
「プラン、B」
「対策会議が30分後に始まります。よろしくお願いします。」
「向かいます」
なるべく冷静な声で電話を切ってから、思わず東風浦と顔を見合わせる。
プランB。彼らが対応している怪異への、最も強硬な対応策だった。
【祭り会場 南東部 公民館(表実行委員会)】
住宅地を抜け鳥居をくぐると、そこは祭り準備で賑わっている広場だった。それを見ながら、エージェント・桂木かつらぎは早くも「来てよかった」などと考える。
グラウンド幾つ分もの空間。正面にはちょっとした規模の神社があり、参道の両脇には屋台が一斉に組まれているところだった。横で地図を広げるエージェント・四宮しのみやが指をさしていく。
「左手の奥にサイトがあるな。手前に野外ステージ。って、後醍醐ごだいご姉弟が来るのか!」
あいつら財団エージェントとはいえ、普通に世間で有名なアイドルだぞ。わざわざ呼んだのか、こんな地域限定の祭りで。驚嘆の声をあげた四宮の横で、エージェント・飯沼いいぬまが桂木を呼び止めた。
「桂木、俺もう疲れた。飲み物欲しい。」
「飯沼くん、これ飲みさしでよければ。お茶だよ。」
「お、サンキュー」
友人である飯沼と、彼が連れてきた恋人の、微笑ましいやり取り。桂木は「四人で来てよかった」と、自分の考えを修正する。
今はサイト8135に勤務している、機動部隊時代の後輩に誘われてやってきた夏祭り。一人ではもったいないと思い、四宮上司と飯沼友人に声を掛けたのは正解だった。
「フン。まあ休憩所なるものもあるな。公民館か、どうやら運営の拠点も兼ねてるらしい。──よかったら休憩に行きますか?随分歩きましたし。」
四宮が、後半部分を飯沼の彼女に向かって言う。それを聞いて、相手は丁寧に頭を下げた。
「俺の後輩もそこにいる筈です」
「そうか、ならさっさと向かうぞ。──そういやお前、今のサイト来る前はここに勤めてたんだったか?」
「はい。ここを拠点とする機動部隊に所属していました。…もう、遠い昔のことのように感じますね。」
桂木の先導で、参道を中ほどまで進み、右に曲がって少し行く。
最初に見えた三階建ての建物が、目当ての場所だった。一階部分は解放されており、天幕へと繋がっている。
四人はひとまず、一番広く人の出入りの活発な部屋に入った。
「おっと、ちょっと待った!そこのお嬢さん、ここ関係者以外立ち入り禁止だぜ。」
「おう、亦好またよし。その人、俺の部下の彼女。出向中の職員だ。」
「四宮ちゃん!心の友!久しぶりじゃん。」
「相変わらずよく動く口だな。ちょっと休憩したくて寄ったんだが、うるさくてろくに休む気にもなれん。」
ふんぞり返る四宮、内心で「人のこと言えないだろ」とつっこみを入れる飯沼。その後ろから、桂木が言葉を継ぐ。
「あと、運営委員に五井いつい、居ますか。後輩なんですが。」
「おっけおっけ。そこの天幕の中、普通に宴会場だよ。自由に飲み食いしてって。五井ちゃん、五井ちゃんは確か裏実行委員の方だね。」
「裏実行委員?」
「そそ。ただね、今あっちはピリピリしてるからさ。まあその内会えるよ。」
亦好がちらりとやった視線を察知して、目配せし合った二人は大人しく退場することにする。
「飯沼くん、私、ちょっと座りたいな」
「いいともハニー!じゃあ、俺たち宴会場とやらに行ってくるわ」
ごゆっくりー、と手を振った亦好は、ふと声を低くして、四宮と桂木を隅の方へ引っ張っていった。
階段の陰。ひと気はない。
「ここだけの話だよ。実はこのお祭り、裏があるんだ。ぶっちゃけ異常物絡みなんだよね。んで、こっちは割と普通にお祭りの運営手伝ってる」
「そりゃまあ、サイトを挙げて協力してるってんだから、そうだろうとは思ってたが」
「でも結構ヤバいよ。神社は見た?噂ではね、あそこで祀ってる神様をさ、お祭りで楽しませて鎮めてたらしくて。それがここ数年、どんどん効き目が落ちてるんだとか。」
四宮の表情が険しくなる。
「被害が出てるのか?」
「良く分からない。ま、以前からその傾向はあったらしいんだけどね。出店に変な品が混じる様になったりとか、言動がおかしくなる人がいるとか。ただ、発生件数っていうか、周期がどんどん狭まってて、調べたとこじゃ特に神主さんが交代してからはその影響が顕著で」
「そこまでにしてもらおうか、エージェント亦好」
背後から突然制止の声が掛かる。
四宮は少なからず驚いた。無意識に確認していたのだが、そちらは通路などなかったはずだ。まるで、壁から生えてきたような。
「部外者は気楽でいいものだな。まあ、この男が使えないという点には同意をするが。」
亦好を睨むように立つ男の後ろで、無表情にこちらを見る人影がいる。「この男」とは、おそらくこの人物を指すのだろうと桂木は思った。
「あー、すみません、柳沢さん。旧友でして。」
「どうも、四宮です」
「桂木です」
「柳沢だ。特殊怪異の収容責任者をやっている。」
眼光の鋭い男だ。だが、それ以上にどこか焦燥している様子が伺えた。
「開始時の行列の準備はどうだ。油を売っているということは、さぞ完璧なのだろうな。」
「そりゃもう!ご説明しますよ。高橋さんにはその間お着換えを」
亦好と柳沢が去っていく。残された男は力なく笑っていた。
「高橋です。すみません、僕の力が及ばないばっかりに。」
話に出ていた、現在の神主だろう。妙に自信が無さげなのが気に掛かったが、亦好の部下を名乗る人間がすぐに連れて行ってしまった。
すこし困ります、と。
僕を連れ出したその人は、小さいが良く通る声で、僕の方を見ないままにそう言った。
とりどりの提灯や、恐らく屋台に使うのであろう金属製の骨組みなどを運び込む人々の流れに逆らうように、僕たちは歩を進める。
「これだけ人が多いのですから。行先を仰らないままにあまり出歩かれますと、私共としてもあなたを見つけるのが難しくなります。もうあまり時間もありません、申し訳ありませんが、すぐ控室に戻って頂かねば」
「は、はい。ごめんなさい、ここに来てからずっと、困らせてばっかりで」
「いえ。この程度の面倒事なら、慣れていますので」
上司の影響で、とその人は付け加えた。
返答も特に思いつかない。柳沢さんに説教ついでに雑事をやらされていたとは言えない。はは、と無理矢理に笑みを浮かべながら、やや口ごもりつつ、僕は何とか会話を繋げていた。
今年の祭りの準備を手伝ってくれている、財団職員たち。直接会話することはあまりないけれど、何か月も前から始まっている複雑な準備にも彼らは疲れの色すら見せず、整然と作業を進めていた。
きっと皆、とても優秀な人なのだろう。
色んな人から頼りにされ、認められてきた人たちなのだろう。
僕とは違って。
「用意はお済みですか」
「あ、え。えっと」
考え込んでいたせいで、反応が遅れてしまう。
「高橋さんの、種々の用意は既に終わっていますでしょうか。祭りの開始が近付くと、あまり一人でいる時間も取れなくなってしまうかと。」
「あ、はい。大体は、大丈夫です。」
そうですか、という声。相変わらずこちらを振り向くことは無く、僕のすこし先を歩いている。その足取りは、いつのまにか目の前に見える、神社に向かっていた。
「それでは、別の準備がありますので、私はこれで。『裏』の宴会場なら構いませんが、もしそれ以外で何処かへ出向く際には、付近の職員に一声かけてからお願い致します」
僕は慌てて頭を下げ、きびきびとした足取りで何処かへ向かっていくその人の後ろ姿を、ぼおっと眺めていた。
はあ。
誰にともなく溜息をついて、僕はのろのろと寝起きに使ってる離れへ向かっていった。畳張りの寂れた一部屋が、僕の住まいだった。
机の上には硯や筆、そして和紙が置かれており、その紙は文字でぎっしりと埋め尽くされていた。僕は座布団に正座し、考える。
やつには、絶対に近付くな。
まだ神主になるなんて思ってもいなかった頃。柳沢さんと知り合って以降に地元の色んな人から、僕は何度も何度もそう言われていた。
大人になり、都会に出て暮らしていた僕には、訛りのきつい彼らの話は、今となっては思い出しても何を言っているか分からないものばかりなのだが。その言葉は、よく覚えている。
そして。
あれはもう、ほとんど手に負えなくなってきていた。
騙し騙しで祀り上げたところで、恐らく限界だろう。
神主の成り損ないのような僕でも、それは分かっていた。
あれの穢れを根本から絶ち、祓わなければ。きっと、取り返しのつかない事になってしまう。
だとすれば。
僕は、目の前にある紙を見た。
はらえことば。あらゆる罪と穢れを祓い清める、まじないの言葉。
この言葉は、いったい何の罪を清めるのだろうか。
【神社】
夕刻、いよいよ祭りが始まる時間になる。
次々と灯が落とされ、辺りは日が沈み切る寸前の、幻想的な色合いに染まっていた。
伝統の神主装束に身を包んだ高橋はそっと息をついた。もうすっかり柳沢に嫌われているのは分かっている。いや、違うか、と独り言つ。
あの人は、自分に失望しているのだ。経験も実力もなく、なんとか学んだままに儀式をこなしてはいるものの、力不足は明らか。せっかく声を掛けてもらったのに、十分に応えきれなかった。
それでも、やるべきことをやるしかない。祭りの開始を告げ、柳沢たちの行う作戦の支援としての祈祷を行うのが、高橋に残された務めだった。息を整え、丹田に気を溜める。烏帽子の位置を調整し、背筋を伸ばす。
参道を端まで歩く第一歩を踏み出す心持は、静かに澄んでいる。
厳かな行列が、静かに鳥居をくぐった。
静謐な空気が緩やかにほどけていき、酒気と熱気に満ちた、朱夏のまつりが幕を開ける。
「ふうん。あの神主、なかなかやるじゃないか。」
参道に面した屋台の奥で行列を眺めていたエージェント・黒陶こくとうは、少し驚いたように、感心したように笑った。その手には、事前に購入したチョコバナナの串がしっかりと握られている。
「妙に自信がなさげだし、あの柳沢とかいうのにも完全に軽んじられているし。こりゃ期待できないなあと思ってたんだ。なんだ、ちゃんとできるじゃないか。」
けたけたと笑いながら、黒陶がチョコバナナをかじった。「甘い」と一言呟いたあと、口の端についたチョコを舌で舐めとる。
「参道を歩く姿は毅然としてたし、新参にしてはよくできてたな。あとはどのくらい力を持ってるか、だが」
風で頬にまとわる濡れ羽色の髪を払い、黒陶が愉快げに口の端を吊り上げる。
横で聞こえた微かな咳払いに、黒陶はおや、と声の方を見上げた。
「なんだ薙坊。何か言いたげな顔をしてるな?」
「…」
「言いたいことがあるなら、はっきり言っていいんだぞ」
黒陶の横に立ち、仏教面でベビーカステラの大袋を持つ応神に、黒陶はニヨニヨしながら声をかける。
応神ははあ、とため息をついたあと、不愉快げに眉根を寄せた。
「…言いたいことは色々ありますが、まずはその"薙坊"って言い方、やめていただけるとありがたいです」
「折角の祭りなのに不機嫌だな。もっと楽しい顔をしないか、薙坊。」
「…」
「お前もバナナ食べるか?一本くらいなら奢ってやるぞ。」
「結構です」
──どうにも、この人といると調子が狂う。応神は舌打ちをしたい気持ちを必死で抑えて、代わりにベビーカステラを口に放り込んだ。
そんな応神をよそに、チョコバナナの串をゴミ箱に投げ捨てた黒陶の足は、わたあめの屋台に向かっている。キラキラした目でわたあめを持つ黒陶は、低い身長も相まり子供のようだった。
その中身が子供どころか、おそらくここにいる人間の誰よりも年嵩であることを、応神はよく知っている。
「ここずっと機嫌が直らんなあお前は。何か気がかりでもあるのか?」
「別に」
「知ってるか?お前がその顔してるときは、大抵ろくなこと考えてないんだぞ。」
「どんな顔ですか」
「人斬りの妖刀を、自分の後ろの床の間に丁寧に飾っているときの顔だな」
「…」
どんな顔だ、と応神は思ったが、少し頭を回せば言わんことは察せてしまう。そこまで解せると見込まれるほどの付き合いになった自分が恨めしい。
「腐れ縁」という言葉が応神の脳内に浮かぶ。その文字に、応神家と黒陶が関係を持ち出すきっかけを作ったという亡き大叔父が、笑顔で花丸を付けてくれた。
「あの柳沢とかいうの、ついに強硬手段に踏み切ったそうだな?」
「だそうですね」
「他人事のような口ぶりだな」
「ノーコメント」
「ところで、そのことはあの神主は知ってるのか?」
「知らないと思います。──どうしてそんなことを。」
「んー?まあなんだ。向いている方向が同じでも、目的地が同じでも、道を違えればそこには、どうしようもない不和が起こる。できてしまった溝を埋めるのは容易いことではないから、無理やり道を埋めてならすか、それともお互いに相談して道を繋げるか、さっさと踏み切らないといけないというわけだ。」
「…」
納得したようなしていないような顔で、応神が中身の減ったベビーカステラを口に入れる。
それを見ながら、お前もまだまだ浅いな、と黒陶が笑った。
「まあ、お前が何考えてるかは知らないが、とりあえず祭りを楽しんだらどうだ?ほら、屋台だってたくさんあるし。」
「そういう貴女は随分と楽しげですね」
「それなんだが、私の出番がまだ来なくてなあ。暇を持て余している間、折角ならとこうして全力で満喫しているわけだ。」
だってほら私、ここに来るのは今年が初めてだろう?黒陶が言った。
「祭りがまだまだ素直に楽しめる頃合いのうちに、しっかり味わっとこうと思ってな。」
「…まるで、祭りが楽しめなくなるときが来る、とでも言いたげな口調ですね」
応神が黒陶を冷えた目で睨んだ。
一瞬、黒陶がしまった、というような顔をする。
──だが、すぐに口の端を吊り上げ、パチリと瞬きをした。
応神を上目遣いで見やる姿は、人畜無害な少女のそれだ。
「…今の私の発言、なかったことにして?」
「祭りを祭りだと楽しめるよう計らうのが裏委員会の役割だって、委員長が言ってましたが」
「チッ…嫌なところで勘のいい。薙坊の血縁はみんなそうだな。」
「表と裏の委員会どちらとも違うところで、こそこそ動いてるのに気づかないとでも」
「やっだな〜私は祭りを運営と参加両方楽しむただの可愛い妖術師だぞ〜?」
はぐらかすような言葉と共に、黒陶がわたあめに顔を寄せる。それから目を離し、応神は黒陶に見えないようため息をついた。
黒陶が裏委員会のさらに陰で何かをしているのは、委員会招集の初期から気づいている。ただ、応神一人の力では、その内容や規模までは把握できていなかった。
お願いだから、自分にとって吉と転んでくれ、と応神は思う。
応神にとっての黒陶は、言葉を並べ、真意をはぐらかし、さりとて自分のことは何もかも知るような口ぶりで、ふわりふわりと一歩先を進む食えない先人だったが、つまらない言葉で見当違いの方に導くようなことも、浅慮で無駄な労をすることも、目先にとらわれて真相を見誤ることも決してしなかった。
だからこそ、自分と道を違えたときが、心底恐ろしい。
「別に何やっててもいいですが、計画進行の邪魔立てだけはしないでくださいね」
「もちろん。──ところでお前は、いっそ空恐ろしいくらい何もしてないな。」
途端に黙りこんだ応神に、黒陶がふと口をつぐんだあと、一瞬の間を置いてけらけらと笑い出した。
「なんだ。腹に一物あるのは薙坊も同じじゃないか。」
からからと。少女の声で、形で、黒陶が応神の横で笑っている。
応神は、コートの下の日本刀を無意識に押さえた。
まだ使わない。
できれば、これは使いたくない。
「ふふ──そろそろ戻るぞ。お前も、運営の最終会議があるだろう?」
くるりと踵を返した黒陶は、その後公民館に着くまで、一言も喋ろうとはしなかった。
「構えだけは立派なものだ。ご苦労だったな。」
「いえ」
「私は、高橋が嫌いだった。力のある癖に、それを行使する様子を人からは秘匿した。だからお前にも伝えることが無かったのだろうと想像がつく。」
「柳沢さん」
「だが、それも今日で終わりだ。あの怪異さえ封じてしまえば、お前だって都会に帰って好きに生きればいい。役にも立たない神職など続けなくてもな。だから、最後の務めと思って、祈祷の方をしっかり頼むぞ。」
言い捨てて去っていく背中に、高橋は頭を下げた。
【祭り会場 南東部 公民館(宴会場)】
炭酸に命が吹き込まれる音がする。
乾杯!と声が揃い、ひりついていた空気が一気にほどけた。
公民館脇、天幕の張られた広場。賑わう祭りの一角で、飲めや歌えやの大宴会が始まる。
空のビール缶を床に転がし、飯尾めしお博士は機嫌良さげにフライドポテトを摘んでいた。
「あっ、真北まきたんに亦好たよしーじゃん!来てたんなら連絡してよ。」
「こんにちは飯尾さん。その呼び方今すぐやめてくれませんか。」
「ノリが悪いなあまきたん。祭りだぞ?宴会だぞ。騒がんでどうするよ。」
「楽しげで何よりだよ飯尾ちゃん。すまないけど、いつも君の隣にいるの、ちょっと貸してくれない?」
「座布田ざぶたのこと?あいつ今どこいるか俺も知らんの。ごめん亦好さん。あと、座布田はいつも俺の隣いるわけじゃないからな。」
祭りの開催中は常に酒が供給される手筈になっており、地元の人々も祭りの参加者も財団からの人員も思い思いに交流を深めていた。
ただ、アルコールの場というのは中々良い密談場所でもある。
「飯尾ちゃん、裏の会議出てたんでしょ?」
「話さないよ」
「えー、いけず」
飯尾はまた新しいビール缶を開放する。さっと奪い取りお酌をする亦好は、にじり寄って耳元に口を寄せた。
「あの神主と柳沢ヤナギンのことなんだけどさ」
「話さないってば」
「飯尾ちゃん、アルコール飲んだ人間は真実を語らないといけないんだ」
「だってこれノンアルだし」
「うわ言いやがった」
「まだ仕事あるしねぇ。雇われの辛いところだ。」
さて、と飲み干した缶を潰し、飯尾は立ち上がった。
「外来組だから裏方だけどね。亦好さんはこの後どうなのよ。」
「んー、しばらくはいいかな。なに、面白いとこ?」
「そそ、そろそろステージが始まるんだ」
「真北ちゃんもつれてこう。────ってあれ、いないな。」
「飯沼くん、大丈夫?」
「らいひょうぶ、らいひょうぶ。ただ眠い。すごく眠い。」
私は飯沼くんの背中をさすってみた。でも、これはどちらかというと気持ち悪がってる人にやるべきことだろう。飯沼くんは酔うと割とすぐ寝てしまうから、今回もそんな感じなのだとすると、寝かしつけた方がいいのかもしれない。
黙々と飲み物を運んでいて通り掛かった桂木さんに手伝ってもらって、公民館の二階にある仮眠室に飯沼くんを移す。
さてどうしようか。やることがなくなってしまった。桂木さんが申し訳なさそうな顔でこちらを伺っている。
「なんか済みません、俺が誘って折角来たのに、飯沼のやつ」
「いえいえ、楽しいですよ。地元の人も財団の人もたくさん来てるんですね。後輩の方には会えましたか?」
「それが、結局まだです。ローカルネットでメッセージは送ったんですが、」
桂木さんは、また次の用事があるとかで行ってしまった。屋台を一回りして、飯沼くんを起こすかどうかを決めることにしよう。私はひとまず宴会場には戻らず、公民館の裏からお祭りの会場に出ようとした。表から見えない通路だからビールケースや資材が置かれていて、通りにくいけど近道だ。出口のすぐ脇は休憩所になっている。
と、その壁に、黒いマントを着ている男の人がもたれていた。出ようか迷っているうちに、向こうからもう一人やってきているのが見えた。二人は何か話し始める。聞き耳を立てるようだと味が悪いので、大人しくUターンすることにする。
財団に出向してきたけど、この感覚は慣れ親しんだものだった。聞いてはいけない事、入ってはいけない場所。深みにはまることは怖かった。もし知ってしまったところで、結局は同じ処分が下されるのだとしても、今の私は私のままで過ごしたい事情があるのだ。
「まあ、本人は寝てるんですけどね」
なんだか急に寂しくなってきて、私は来た道を戻り、表口から祭りを目指すことにした。
そっと耳に触れる。飯沼くんがくれたオレンジのピアス。きっと、私がここで手に入れることになる唯一のもの。だめだ、考えないようにしていたことがこみあげてくる。先のこと。飯沼くんと私は。
鈴の声が聞こえてくる。
視界の端に、何か白いものがはためいた気がした。
真北は屋台の並ぶ通りを歩いていた。騒がしいのは嫌いではないが、なんとなく外の空気を吸いたくなって宴会の場を抜け出した。
中々の活気だ。一般客もいれば、サイトで見たような顔もいる。軽食を摘まんでいたこともあって、食べ物の屋台に寄ることもなければ、射的という気分でもない。
一周もすると行く当てもなくなり、結局宴会場へ戻ることにした。
その途中で、裏口の方に回ったのは偶然だった。
雑然と置かれた資材に埋もれるようにしてベンチと自販機、灰皿が置いてある手狭な空間。ライトが照らしている円状の範囲から少し外れたところに、黒いマントの男が壁にもたれていた。
それが何故だか気になったので、真北は挨拶しておくことに決める。
「すみません、暑くないんですか?」
「日は落ちていますからね。夜は冷えるでしょうし。」
「隣、いいですか」
「どうぞどうぞ」
特段、何を話そうという訳でもなかったが、男は真北の胸元を凝視している。方位磁針がそんなに珍しいだろうか。
「あの、片道燃料って呼ばれたことありますか?」
「はい?」
「こう、行って帰って来られないような」
「えっと、片道切符と呼ばれることはあります。いや、そう望んだことはないけど!」
驚いて返答すると、男は柔らかい笑みを見せた。
「なるほど、真北向さんですね。お噂はかねがね。」
失礼しました、癖みたいなもので。そう言う男は、今田いまだと名乗った。
「今田、博士?」
「修士です。なるほど、確かに本質を突く方なんですね。」
何やら納得した今田に真北はため息を吐く。喧騒を遠く聞きながら、二人は少しずつ言葉を交わしていく。
【神社参拝者専用駐車場】
駐車場のブロックに座り、冠城かぶらぎ検死官はぼんやりと祭りの喧騒を眺めていた。
祭りを共に楽しむ知り合いにあまり心当たりはないが、かといって1人だけで入っても馴染める気がしない。
屋台にも宴会にも手を付けず、なんとなく彷徨うこと十分ほど。結局は慣れない騒ぎによる精神の磨耗と共に、冷たいコンクリートに座り込んだったのだった。
「おい」
「え」
力なく吐いたため息を夜に溶かしたところで、突然降ってきた声と気配に驚き顔を上げる。
真っ先に目に飛び込んできたのは、自分に向かって突きつけられた竹串だった。そしてその奥にある、不機嫌そうに自分を見下ろす見慣れた顔。
「八岩はちがんさん」
「何してんですか」
冠城は少しだけ息を吐く。
「祭りを見てます」
「見てるだけですか」
「参加の仕方がわからなくて」
正直な答えには露骨なため息を返された。ぐいっと押しつけられた串をとりあえず受け取り、冠城は困惑した様子で八岩を見る。
「ソーセージ…」
「串焼きソーセージ」
「お幾らですか」
「俺の奢りです。経験しないとわからないだろうけど、こういう場で食べるジャンクフードは死ぬほどうまいんですよ。」
八岩が自分の分の串にかぶりついたので、冠城もそれに倣ってソーセージを口に入れる。夜風に当たって少し冷えてはいたものの、齧るとじゅわりと熱い油が出てくると共に、微かな炭と肉の匂いがした。
「美味しい」
「でしょう?」
あっという間に食べ切った八岩が、ペットボトルの水を口に流し込む。そのままポケットをまさぐると、冠城に一枚の紙切れを渡した。
「"お楽しみ抽選会"…?」
「財団主催だから、まあ景品は悪くないと思いますよ。8時からステージでやるそうです。」
「楽しそうですね」
「二人分申し込んだから、忘れず行ってくださいよ」
「…あの、私は」
「まさかここから動かない、とか言いませんよね?」
手の中の紙を見つめたまま口を開かぬ冠城に、八岩がため息を吐いた。
「楽しみ方がわからない、なんて言いましたけど。別に楽しみ方なんて何でもいいんですよ。食うでも飲むでも遊ぶでも。」
「私のこれ、楽しみ方の一つとしては入らないですか?」
「どう見ても楽しそうに思えねえんだよ」
「…」
反論を封じられた冠城が黙り込む。
2人の間に風が流れ、冠城の食べかけのソーセージを冷やした。
「……ソーセージ食って、うまいって思いましたよね。お楽しみ抽選会、面白そうって思いましたよね。いいんですそれで。適当に歩いて、気になった屋台に立ち寄って、野外ライブとかも見に行って、知らない奴とも話してみて、酒飲んで、いい感じに酔って、笑って。」
「…」
「祭りにルールなんてない。──そりゃまあ、公序良俗に則ったマナーはありますけど。」
「…」
「自分がいたらだめなんじゃないかとか。祭りを正しく楽しめてないんじゃないかとか。細かいこと考えてんでしょう。全部無駄ですよ。酔って騒いでるバカ共はそんなこと気にしてねえので。」
「あんま難しいこと考えず、今この瞬間を最高だと思う。そのために祭り運営は頑張ってるし、参加者たちもそう思って参加してます。」
「…」
痛む足も、酔った頭も、軽い財布も、それはそれでご愛嬌だと八岩は小さく笑った。
「最後の花火を見た時に、ああ楽しかった、来年も来たいと思えれば、それでいいんですよ。」
祭りの明かりに照らされて、浮かんだその笑顔がとても良い顔だったので、冠城も思わずつられて笑った。
「似合いますか」
拙く歩く下駄の音を響かせ、金崎かなさき研究員は待ち合わせ場所に来ていたエージェント・上波うえなみの方を向いた。
青や緑系を基調とし、柄がざっくりと入ったモダンなデザインの浴衣。帯は文庫結びをアレンジしたもので、中央には花の形の帯留めが煌めいていた。
「すごい…素敵です」上波が呟いた言葉に、金崎がうっすら顔を赤く染める。
異常性により、周囲の認知により性別が変化する金崎だが、今回は上波の強い希望によって女性用の浴衣を着ていた。
金崎の中性的な顔立ちと、女性と見るにはやや高めの身長は、すらりとした浴衣のシルエットに良く合う。
「かわいいし、かっこいいです」上波の賛辞に、金崎は小さく礼を言った。
「僕のわがままで女性用着てもらいましたけど…すごくお似合いです。正直、僕の方がドキドキするくらいですよ。」
「良かった、ありがとうございます。帯留め着けてみたんですが、どうでしょう。似合ってますか?」
「綺麗です。贈って良かった。」
おぼつかない足元で歩く金崎を支えるようにして、上波が手を差し出す。二人の背には15cm以上の差があったが、優しく握ってくれたその手が、金崎には何より安心できた。
「じゃあいよいよ、お祭りに参戦ですね。金崎さんは何か、食べたいものとかやりたいこととかありますか?」
「そうですね…。あ、あれが食べたいです。かき氷。」
「かき氷!僕も好きです。金崎さんは何味が好きですか?」
「実は私、かき氷食べたことがないんです。ずっと財団内にいたので。お祭りというのに参加するのも、今日が初めてで。」
「そうだったんですか。じゃあ、金崎さんの人生初のお祭りが最大限楽しくなるよう、僕がエスコートしますね!」
自分を見上げて笑顔を作った上波に、金崎も頷く。
「よろしくお願いします、上波さん」
小さく呟いて、上波と二人で繋いだ手に、少しだけ新たな熱をこめた。
喧騒の中で祭りを楽しむもの、宴会場で酒を飲むもの、それらを外れて静かに語り合うもの。それぞれのやり方で祭りを楽しむ者たちの中に、しかし緊張に身を少し硬くしているものたちが混じっている。
表の祭りは無事に始まった。では裏の方はどうか。
屋台に着けられている鈴が鳴り響いた。風も吹いていないというのに、一斉に。それと同時に、少女のような笑い声が、四方八方から響く。
【サイト8135 第三会議室兼『少女』収容作戦司令室】
「はじまったか。収容プロトコルを発動する。鈴による位置特定から、誘導を開始しろ」
「了解しました」
柳沢は額ににじんだ汗を拭った。エージェント・亦好の言葉に偽りはなかった。本当はもっと以前に財団が主体となって、あの少女を収容しておくべきだったのだ。それが、先代神主の力を頼ってばかりで、いざそれが無くなった途端に怪異の抑えが効かなくなった自分たちに、柳沢は心底腹を立てていた。
「後醍醐君、準備はいいかね」
マイクに声を吹き込むと、力強い返事が返って来た。
「コウたちは準備万端☆ ヤナギンも、ちゃんと楽しんでくれよ♡」
「善処しよう」
改めて、柳沢は統括する裏実行委員に号令をかける。
「このサイトの長きにわたる因縁に決着をつけるぞ。領域型怪異の実体化、及び物理収容作戦を開始する。」
もう一つの祭りが、今幕を開けた。