【██ █"████"】
村から山を分け入って、十数分の所に男の住処はある。
そこに至るまで舗装もなにもないが、目を凝らせば草の生え方の違いから、人の行き来がごく稀にあることが見て取れた。
この辺りの植生に覚えのあるものならば、草木の中に通った一本の筋を周囲から隔てているのが、彼岸花であることに首を傾げるかもしれない。秋頃には一斉に、その幼子の指のような赤い花弁を広げて咲くだろう。
視界が開けると、ささやかな石段が待っている。少し留守にするだけでも草が生い茂り、あるいは落ち葉や雪によって埋もれてしまう。ここでは人間などほとんど無力な存在だ。
だが、今日の石段は掃き清められ、抜いた草などが脇にまとめられていた。男は口髭に手をやり、のっそりと最初の段に足を掛ける。
鳥居を抜け、本殿を回り込んだところに小さな庵がある。
縁側では、客人が勝手に茶を飲んでいた。
「職務を放り出していいご身分だな、高橋たかはし」
第一声からして悪びれる様子もない。想像するに、表の掃除の対価とでも思っているのだろう。
「次期管理官候補の柳沢やなぎさわ様に言われると、なんだかこそばゆいね」
「王将は譲らんぞ」
男は手早く手を清め、奥から盤と駒を運んでくる。
数十年に及ぶ彼らの付き合いだが、こうして盤を挟む様子を知っている者は、今では殆どいなかった。古い仲間は、任務で命を落とすか、あるいはそれに類する怪我を心身に負い離脱してしまっていたから。
柳沢は茶を一口飲み、飛車先の歩を進めた。高橋は角道を開けて応じる。
「で、どうだった」
「母子ともに健康。おかげさんでね。」
柳沢は直線的に銀を繰り出して攻めを狙う。攻め口に種類はあれど、昔から積極策を好む。
対して、高橋は当たりを避けつつ柔らかく駒を運んでいく。
「孫が出来るというのはどういった気分だ」
「あの子の代には残したくない、と思ったよ」
局面は拮抗しつつ、戦場を少しずつ中央へと移していった。停滞しかかった攻めを丁寧に繋いでいく柳沢の指し口に、高橋は内心で舌を巻く。昔はもっと分かり易い性格であったのに、今では負かすのに一苦労だ。あるいは、自身が衰えたのだろうか。
抑え込まれかかった大駒を叩ききって、高橋は柳沢陣に上から迫っていく。俄かに早くなった流れに合わせて、形勢も何度も入れ変わる。読み切れぬまま、高橋は柳沢玉を包囲し、次の手を相手に委ねた。詰みがあれば負け、無ければ勝ち。ちらりと伺うと、柳沢の口がへの字に曲がっている。やはり、分かり易い男だ。
「ないな、負けだ」
「うん」
手短に感想を言い合い、柳沢は席を立つ。
「高橋、早まるんじゃないぞ。俺達にも力はある。あんな祭りだけじゃなく、もっと他にやれることがあるはずだ。」
「何度も言うがね、ご先祖様から引き継いできたお仕事なんだ。うちらだけで、そういう決まりなんだよ。まあ、安心してくれ。無茶をするにしても、せめて孫の成長位は見守ってからにするから。」
柳沢は黙って帰っていった。掃除の礼を言い忘れていたことに気付き、軽く顎に手をやると、不意に視線を感じる。振り返ると、少女が立っていた。日の差さないうす暗がりの中で、白い着物が揺れている。
帰るまで待っていたのだろう、と高橋は思った。
「大丈夫だよ、俺はここにいるから。急ぐことはねえ、そのうち相手にしてやる。」
なるべく落ち着いた声で、少女に声をかける。それを聞き届け、ふっと少女の姿が消えた。
祭りの準備が始まっている。
【祭り会場 イベントスペース"特設ステージ"】
「夏祭りでステージ、久しぶりだなぁ☆ って思ってたらさ、まさかまさかの怖い案件かよ♪」
「まあまあ、手当もデカいですし」
「ちょっとナマナマしいよ、キョウ!でも、大事なことだね♡」
「なんか久々にユニット組む気がする」
舞台袖。衣装のチェックも終了。打ち合わせも万端。仕上げのルーチンとして、後醍醐ごだいご姉弟は雑談で気分を高めていく。
「私たちはいつも通りやるだけです。楽しく、ね。」
「そうだね☆ ステージ上は絶対安全だし!」
「コウ繋がりとはね。すげえ作業風景だった。」
「後醍醐さん、そろそろ時間になります」
「了解♡じゃあ、みんな頑張ろうね☆」
「うん。姉ちゃんもね。」
「精一杯やりましょう」
キューが飛ぶ。会場の照明が落ち、ざわめきが減衰していった。
タイミングは主役後醍醐勾に一任されている。ヘッドセットに触れる。調整は完全。
歌と踊りで怪異に立ち向かうとは、中々刺激的なシチュエーションだ。
息を吸って、吐く。観客の満ちた場を感じる。興奮が爆発寸前になる。
気が充ちた瞬間、地面を蹴り、アイドルが飛び出した。イントロが追いかける。
「始めるよ!Summer Live、いきなりだけど遅れないでね☆ Three sacred !!」
【サイト8135 第三会議室兼『少女』収容作戦司令室】
後醍醐姉弟のライブが始まる、少し前。
自分の道で行くと言った東風浦こちうらと別れ、波戸崎はとざきは一人歩を進める。
日の光を闇がじんわりと覆い、だんだんと足元が不確かになっていく。
夏らしくずるずると居座る太陽から目を逸らし、波戸崎は高揚した様子の参道をやや急ぎ足で歩いた。
「どこ曲がるんだったかな…ええと…」
微妙に心もとない記憶を辿りながら、屋台と人をかき分けて進む。
人ごみを抜け、展示場やステージの横を通り過ぎる。先に見えたサイトの入り口に安堵のため息をつき、波戸崎はさらに歩調を早めた。
「失礼しまーす…波戸崎です。すみません、遅れました。」
結局、約束の時間から数分遅れてしまった。
おそるおそる部屋の扉を押すと、一番手前にいた人影が中からノブを引く。
「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます。」
にっこりと微笑んだ顔を見ながら、波戸崎は脳内に羅列した顔見知りの職員リストを漁った。
「ええと、小沼こぬまさん、でしたっけ」「覚えていてくれたとは。光栄だよ。」運営として関わったことのある人は、大抵顔と名前を一致させるように努力しました───喉につっかえた言葉を、謙遜の声で飲み込む。
広い職場だが、人付き合いは案外狭い。しかも今回は同じ場で協力しながら密接に関わる人々だ、少しの努力で、他人からの印象は簡単に操作できる。
小沼研究員。波戸崎は脳内のリストを一度更新してから、扉を閉めてくれた小沼に軽く感謝を述べておいた。
「時間遅れてすみません。会議、まだ始まってないんですね。」
「それが、まだ代表が姿を見せなくてね。始めようにも始められないんだ。」
「柳沢さんが…?何か、他の用事でもあるんでしょうか。」
「開始前の最終会議を押してまで優先したいことなんて、そうそうないと思うけど。」
「そうですよね」
「わざと会議に遅れるような質でもないだろうし。」
「なんなんだろうね」と小さく呟き、物思いを巡らせるように、小沼が眼鏡の奥の目を細める。
沈黙の気配を察し、波戸崎が別行動の東風浦のことを考え始めた時、すぐ側の扉が忙しなく開いた。
「遅れた。すまない。」短い謝罪とともに姿を現したのは、柳沢である。
声こそ落ち着いていたが、その目にはどこか不安定さのある色が滲んでいた。
波戸崎は少しだけ訝しんだが、自分の仕事のため、すぐに思考を切り替える。
──本番前、いよいよ対処方針の最終決定。
波戸崎は、先だって受け取った通信の内容を思い返した。
「プランB」広域に及ぶ現実改変を想定した、霊的実体の強制実体化を伴う物理的な収容手順。
今年初参加の波戸崎には、例年の祭りの様子はわからない。
ただ、周囲の緊迫した様子から、もうあまり余裕はないこと、柳沢の意思と覚悟はかたいことがわかった。
「諸君の中にすでに聞いている者もいるだろう。対象との交信の試みはついに成功せず、今宵我々は打って出ることになる。まずは作戦の骨子について。──飯尾めしお博士。」
呼ばれて、ポニーテールの職員がタブレットを持って立ち上がった。
スクリーンに会場周辺を示す地図が浮かびあがる。波戸崎の作成した立体モデルだ。
「会場周辺の領域、えっと、ヒューム値は現状規定値を維持しています。例年の各種データから推測した結果、異常性の発露はやはり祭りの開始以降でしょう。」
飯尾博士はモデルにカラーマップを重ねる。全体が赤く染まった。
「このように、サイト一帯が極めて異常なポテンシャルを示します。そこで本作戦では、高橋さんの祈祷をモデルに、エージェント・後醍醐姉弟のステージを利用、これに対抗します。」
飯尾がタブレットを操作した。
紫色の点が、赤い領域の中にポツポツと現れる。
「シミュレーションの結果、会場内にスピーカーを設置してパターンを変調することでポテンシャル勾配を形成。対象の出現予想ポイントを以下に絞り込めます。」
ライブステージと神社を中心に、緑の円が広がっていく。
赤の領域と拮抗し、色合いが薄れる。最終的には、地図の一部に帯のような赤い領域が残った。
「要所に設置した検知システムを元に、対象を捕捉。実体化ポイントへ誘引し、スクラントン現実鋲で存在を固定します。」
「結構だ。本作戦の前段の重要点は、如何に目標を誘導するか───」
「はいはーい、しっつもーん☆」
場違いな明るい声に、驚くメンバーはもう居ない。
「何かな、後醍醐勾コウ君」
「祈祷は分かるとしてさ♪ なんでアイドルのステージが効果あることになってんの?コウは年齢不詳なだけで普通の女の子なんだけど♡」
飯尾博士が手を挙げる。
「過去のデータからの傾向です。理由は不明ですが、対象は『歌と踊り』に類する概念に対して明確に負の走性を示します。」
「おっと難しい言葉分かんないぞ☆ つまり、アイドルにお任せってわけだね♡ でもさ、そいつがステージを嫌がるとしたら、コウ達襲われたりしない?」
柳沢がそれを受けた。
「対策済みだ。赤村あかむら修理工。」
呼ばれて、リュックサックを背負った女性が立ち上がった。
「黒陶こくとうさんの監修の元、ステージは完全除霊仕様でお作りしましたぁ。音響素材に呪符を入れて、会場を半閉鎖っぽくグルっと囲んでます。」
背中で微妙に揺れるリュックサック。
中には、彼女の相棒である三本の作業用アーム「紀伊きぃ」、「空くぅ」、「K」が収められている。
「なんでも、よくないものは絶対に入れないそうです。自慢の妖術ですって!妖術なんて初めて見ましたよぉ。」
「ふーん☆ ちなみにー、ご本人はどちらに?」
「次の出番まではブラブラしてるって仰ってましたぁ。だいじょうぶです、予備の建材はお預かりしてます。」
柳沢が咳ばらいをした。
「飯尾博士、続けてくれ。誘導に当たる隊は、佐久野さくの君のものだね」
「はい。対象由来のものと思われるAnomalousアイテムを用いた誘導を行います。」
8135所属機動部隊"廃品業者"構成員、佐久野機動部隊長が応じる。
頷いてみせる柳沢に、飯尾博士がスライドを切り替えた。
マップの範囲が広がっていく。およそ倍の面積を示したあたりで、ある境界に沿って、深紅で示された領域が広がっていた。
初めて見る職員も居たのだろう、どよめきが上がる。
「最後に、北西部の進入禁止区域『禁域』について。これまで最も多くの犠牲者を出したエリアです。ご覧の通り、完全に異界化したと考えられてきました。今回の作戦の前段階として内部調査が提案されていましたが、外部からのあらゆる調査の試みは失敗に終わっています。田村たむらさん。」
佐久野の隣に座っていた白衣の男性が腰を上げた。
学者然とした風貌を裏切らず、民俗学系の有識者による調査部隊の代表である。
「残念ながら、現状成果はあがっておりません。しかし、当該領域へは祭りの開始時には入口が生じると報告されております。柳沢さん、もう少し時間を頂けないか。」
外部から招集されてきた田村に対し、柳沢が敬遠気味なのは周知の事実であった。
「分かった。作戦と並行して調査の続行を許可しましょう。ただし、追加の人員は割けない。最早我々には時間が残されていないのだ」
飯尾は手元のデータを確認する。納涼祭プロトコルの制定以降、怪異を原因とする異常の件数は年々増加している。そして付け加えれば、納涼祭の開催時期の間隔がどんどん狭まっているのだ。
屋台にいつの間にか紛れ込んでいる、有害な異常物。警戒や収容に当たった職員の行方不明事例と、祭り終了後の発見。
その際に引き起こされている精神錯乱と、少女に会ったという目撃証言。
極めつけは、先代神主の怪死。
柳沢は詳細を語らなかったが、少女に対する何らかの働きかけがあり、その失敗による犠牲だったという。
うかうかしてはいられないのは分かる。
それでも、例外的な現象が気になっている。柳沢はそれを敢えて無視し、蓋然的な正しさに囚われているきらいがあった。
とは言え、飯尾自身も外部からの参加組である。早々に一悶着を起こして表委員会へ飛ばされた亦好またよしが、この時ばかりは羨ましかった。
「収容手順の骨子は以上だ。担当各員は事前準備を怠るな。最終会議までに、休息を取れるものは取っておくように。解散。」
号令と共に、席を立つ職員たち。その流れに逆らって、勾が柳沢の元へやって来る。
「どうした?」
「あのねヤナギン。コウは、ステージの上ならいつだって楽しいよ☆ 夏祭りで歌うのも久々だし、張り切っちゃってる♡」
「ああ、頼む」
「でもね、ヤナギン。ヤナギンは楽しい?せっかくコウが歌うんだから、ちゃんと楽しまなきゃ☆」
柳沢はなにも答えない。
「お仕事が大変なのはわかるけど、全部終わったらコウたちのステージにも顔を出すこと♡お祭りなんだから、ヤナギンも少しはハメ、外すんだぞ☆」
にっこりと笑ったアイドルは、衣装を翻して今度こそ去っていった。
【祭り会場 北西部 進入禁止区域『禁域』周縁部】
田村は、祭り会場に対してやや標高が高い地点から、眼下の光景を見渡していた。
ざわめきが途絶え、人工的な光が一つ、また一つと落とされていく。
黄昏時、日が沈み切る前後、夜と昼の境目に祭りを始める。その意味について、田村は考えるたびに体が少し震えるのを感じていた。
境界だ。境界を曖昧にするように、この祭りは作られている。
参道の端から、人が歩くほどの速度で明かりが灯されていくのが見えた。
高橋が歩き始めたのだろう。彼が通過した場所から電灯を付けるのが習いだった。
「田村さん、道が現れました」
声に振り向くと、目の前に一直線に赤い花が並び咲いている。森の奥へ続く細い道。つい先程まではなかったそれは、確かに記録通りだった。
薄暗がりの中でも見える、赤い花がちらちらと咲く細道の向こうには。
僅かに、鳥居が見えた。
「分かりました。では、行きましょう。」
田村はそう呟くと、ひとつ深呼吸をして。ざく、ざく、と、乾いた土の上を歩いていく。
平歩、と呼ばれる歩き方であった。一呼吸に二歩ずつ、ゆっくりと、ゆっくりと足を進める。
神道を学ぶ者が最初に教わるその歩き方は、神に近い場所へ向かう時の移動方法だと言われていた。
田村は、すこしずつ鳥居へ近づきながら、事前に読まされた記録を思い出していた。
この鳥居を抜けた先に、ちいさな祠がある。怪異を鎮めるために嘗ての村民たちが作った、石造りの小堂。
それらとの境界を示すために、あの鳥居は建てられているのだろう。
この禁足地は、鈴鳴リンメイ神社の敷地からは少しばかり離れたところに在る。ここから祭りの会場が一望できる程度には標高も違っており、高橋家の所有する土地ではあるようだが、神社の中に祠を造営しているという訳ではなかった。
普通、禁域や禁足地と言われるものが存在する場合、その周囲を囲うか、もしくはその地への入口に接するようにして神社などが形成されることが多い。そうすることで部外者が誤って禁域を侵してしまうことを防ぎ、神聖性を守ろうとしているのだ。
では何故、彼らはわざわざ禁域とは離れた場所に新たな神社を作り、管理しているのか。
神社の敷地内に、それを入れることの出来ない理由があったのだろう。
神社とは、神道における聖域の象徴である。そのため、「穢れている」とされるものを立ち入らせることは出来ない。
例えば。
死の穢れ、のような。
「田村さん」
後方から声がした。ふと後ろを見ると、同行していた職員たちがこちらを向いている。
いつの間にか、私たちは鳥居の下まで来ていたようだった。
ここまで来れば、僅かに見えていた鳥居も、その向こうにあるものも、はっきりと見える。
数メートルほど先に建っている、幼児の高さほどの小さな祠。苔生した石造りのそれには、稚拙な造りの扉が附けられていた。そして、その横には。
高橋家之奥津城、と刻み付けられた、墓石が。
祠をじっと見つめるように、建っていた。
作戦が始まる前の、高橋との会話を思い出す。
「父が入っている墓もありますので、禁域に入ること自体は何度かあったのですが……あの祠を開ける、ということまでは私もしたことが無いので」
田村さん。あそこに行く時には、十分に気を付けてください。
あの時の高橋の声音からは、不安と緊張を押し殺していることが、嫌でも伝わってきた。
それでは、入りましょう。
誰ともなくそう呟いて。田村は、禁足地に、足を踏み入れた。
【祭り会場 参道】
頬を撫でる熱い風。ご機嫌な空気。
行き交う人々、飛び交う品物。祭りの喧騒。
人混みの浮ついた熱気に反し、雨霧あまぎり拷問官の気分は最低を這っていた。
一緒に来た千日せんにち寮監の後ろにじっと隠れ、気配を殺し、無表情を面で覆う。
「雨霧ちゃん、見て、たこ焼き屋さん。そろそろお腹が空いたし、何か食べる?」
「…」
「雨霧ちゃん、ほら、ヨーヨー釣りとか。やってみない?」
「…」
「雨霧ちゃん、お面で顔隠したら、見えるものも見えないわよ」
シャイねえ雨霧ちゃんは。
くすくすと笑った千日に対し、返事の代わりに強く着物を握った。
そもそも雨霧にとって、祭りの喧騒はそこまで得意なものではないのだ。いつも冷たい壁の中にいる雨霧は、こうして多くの人間と空間を共にする事に慣れていない。目の前に千日がいなかったら、今すぐ踵を返して部屋に閉じこもっているところだ。
千日が選んでくれた、躑躅色と白の着物も、自分には派手すぎるのではないかと疑ってしまう。
「雨霧ちゃんの目と髪の色みたいね。素敵よ。」そう言って満足げに笑っていた千日が纏うのは、紫系の生地に金糸をあしらった、クラシカルな浴衣だ。
「あ、雨霧ちゃん。りんご飴があるわよ。一緒に食べない?」
「…りんご飴…」
今までよりもやや上向きな声音に、千日は内心にっこり笑う。
大の甘いもの好きの雨霧ならば、道に立ち並ぶ魅惑的な甘味を放っておけるわけがない、という千日の読みは当たった。
「美味しそうね。奢ってあげるわよ。」
「別に、そこまで気使ってもらわなくて良いです…」
「年上からの気持ちには素直に感謝するの。お兄さん、りんご飴二つ。」
二人分の飴を受け取り、千日が雨霧にひとつを手渡す。無言で受け取った雨霧に、千日はつとめて優しく声をかけた。
「雨霧ちゃん、お面外した方が食べやすいわよ」
「…いいんです、別に…」
「なんで。せっかくおめかしもしてきたのに、顔が見えなくちゃ勿体ないじゃない。」
しばし躊躇っていた雨霧が、少しだけ面を横にずらす。
普段飾り気のないピンで止められていた前髪は、涼やかな空色の髪飾りに代わっていた。これは千日が着物に合わせて見繕ったものでも、ましてや雨霧が自分から買い求めたものでもない──雨霧と仲が良いという職員が、少し前にプレゼントしたものだ。しばらくは使われる事なく箪笥の中にしまわれていたが、今回ようやく日の目を見る事になった。
「あの人にもらったんでしょう?それ、すごく似合ってるわよ。せっかくだから自慢しちゃいなさい。」
「別に、そんなんじゃないですし…今隣にいるのは千日さんですし」
「ふふふ、可愛いわねえ雨霧ちゃんは。似合ってるのは事実よ。嫌味なくらいセンスがいいわ。」
「…」
良い言葉が見つからず、雨霧は黙ったままりんご飴に口をつける。新鮮な果実を、とろりと甘い砂糖にそのまま閉じ込めた祭り限定の菓子は、舐めると記憶よりも甘ったるく、雨霧の口の中で後を引いた。
「千日さん」
「ん、なあに?雨霧ちゃん」
今日はじめて、雨霧の方から千日に声をかける。
雨霧の拙い語彙は、どうにも彼女自身の心情に嵌まらない。所在なさげに千日の浴衣を引いた雨霧に、それでも千日は嫌な顔をせず次の言葉を待っていた。
「千日さん、私は」
「ゆっくりでいいわよ」
そのまま言葉を選ぶような様子を見せがら、辿々しく。
雨霧が言葉を継ぐ。
「私、は」
「うん」
「千日さんと」
「なあに?」
「千日さんと、祭りに、来られて」
良かったです。
最後は本当に小さく、喧騒に消え入ってしまいそうな声だったけれど、千日の耳はその大切な音をしっかりと拾い上げた。
「うん、ありがと。実はね、正直私も心配してたのよ、雨霧ちゃんは人混みとか苦手だから、それでまたきつくなっちゃったらどうしようって。」
「千日さんが、側にいてくれたから…」
「そう言ってもらえると、連れてきた甲斐があったわ」
千日が柔らかく笑う後ろで、耐えきれなくなった雨霧が面を深く押さえた。
顔に熱が上がるのを自覚し、雨霧の足がもつれかける。
「普通に、はしゃいだりとかは、できないかもしれないけど」
「うん」
「私なりに、は、楽しいので」
「良かった」
「その、もう少し、一緒にいたいです…」
「うんうん。一緒に花火、見ましょうね。」
だから、その仮面は外しちゃいなさい。
くるりと振り返った千日が、雨霧の着けていた狐面を上げる。
目を見開いた雨霧の顔が朱に染まっていくのを見ながら、千日は愛おしげに瞳を眇めた。
【公民館 一階裏口 休憩所】
目をつむって喧騒に耳を澄ませている今田いまだと並び、真北まきたは何となく星を探していた。
山奥なだけあって、天の川が見えるのが嬉しい。見付けにくいとされるわし座をしっかりとなぞって満足したのか、再び視線を今田の方に戻した。
「祭り、なんで来られたんですか?」
「装備開発課から回ってきた勉強会絡みで。このサイト、面白いAnomalousアイテムを多く収蔵してることで有名なんですよ。真北さんは?」
「亦好さんに声掛けられて。…いや、待てよあの野郎……?」
真北は、ある可能性に思い至って拳を固めた。さては、この状況を狙ったのか、と疑ってみる。
一度答えに行きつけば、あれこれ腑に落ちることが多かった。
ぶん殴ってやる。呟いたのに対して今田は、物騒ですねえ、と微笑んだ。まあ分かる気はしますが、とも付け加える。
その落ち着きに、真北は少し調子を狂わされてしまう。よく考えると職位は同じであるのに。直観に反しているからだ、と考える。
「直観に反しています」
「よく言われます」
「言われるんですか。じゃなくて!──あの、片道切符って誰から聞いたんですか。」
さっきから何度か聞こうとしていたことだった。知ってか知らずか、やはり今田は穏やかに答えた。
「友人です。だからすぐに分かりました。お気に障ったのなら申し訳ない。」
「そんな気はしました。別に構いませんが、どんな話を?」
「そうですねえ。片道切符と名乗りを上げようとした、とか。」
「ぐ、そんなことが、ありましたか。あったかな。あったような気がする。」
遠くからライブの喧騒が僅かに聞こえてくる。
然程距離は離れていない筈だが、流れてくる曲に真北は首を傾げた。
「一曲目から"Three sacred"。気合入ってんなぁ。」
今田は興味深げに真北を見る。
「お好きなんですか?」
「まあ、有名ですし。あとはちょっと、専門分野が、芸術の心理学的見地からの分析なので。いや、造形芸術と認識災害が専門だから関係はないと言えばないんですが。」
「僕のことはお気になさらず。いいですよ、行かれては?」
真北は珍しく逡巡しているようだった。
「今田博士、もう少しここにいらっしゃいますか?」
「僕は修士です。はい、そのつもりです。もしいなくても、人の少ないところを探してもらえれば。」
「すぐ戻ります」
走り去る真北に手を振り見送った後、今田も星を探すことにした。
かつて友人が教えてくれたこと。明るい七つの星、その一つの傍にはもう一つの星があるという。五等星であり、古代アラビアでは視力検査に用いられたとか。
「君の視力じゃ厳しいかもね。wikipediaで確認するといい」
意地悪く笑った顔が浮かんで消える。彼にも、そんな話をしたのだろうか。妙に懐かしくて、見えない星を探し続けた。
【祭り会場 "射的"屋台】
「そこの君」
声がかかる。
「君だよ、君」
とん、と、肩が叩かれる。
それが自分に向けられたものだと気づくまで、僕は少しの時間を要した。
ふり返ると、黒いサングラスに、つばの付いた帽子を被った人が僕の前で笑っている。
「あ、ええと…」
どちら様でしょうか。僕はそれを聞こうとし、少し考えて口を閉ざす。
たとえ僕が過去に会ったことがある人であったとしても、僕にとってはいつでも"はじめまして"だ。
もしも僕が会ったことのある人だったら、突然初対面の体で話されると失礼かもしれない。
ついこの間記憶処理で更地にされた頭を回して、僕は曖昧な笑顔で「こんにちは」と言った。
「ああ、そんな警戒しなくていいから。ちょっと君の写真を撮りたいだけなんだ。」
「シャシン」
「初めて聞いたみたいに発音するなあ。そ、写真。俺は撮影技師なんだ。名前は甘梨あまなし。甘梨和明かずあき」
甘梨さんが、自分の首にかけたカメラを持ち上げる。
「普段はオブジェクトとか真面目な人間とか撮ってるが、今回は縁日で職員を撮影してる。」
「そうなんですか。別に、写真くらいなら構いませんけど…。」
「お、ありがとな。いくぞ、3、2、…
…待った。」
カメラの向こうから、甘梨さんが顔を出す。
「おいおい。もうちっと楽しそうな顔できねえか?」
「楽しそうな顔、ですか…。僕はお祭りを楽しんでいるつもりですが。」
「俺からするとな、棒立ち愛想笑いはそこまで楽しんでる様子が見えねえんだ」
「すみません」
「あとに残る記録が、あとで見る写真が、つまらなげだったら、そこまで楽しくなかったんだなって思うだろ。」
「それは、そうですね」
「写真を見て、その中の自分が楽しげな顔してたら楽しかったんだなって思うし、つまらなそうな顔してたらつまらなかったんだろうなって思うもんだ。俺もそうだ。だから、例え記憶が消えても、あとあとの記録に残るものとして、最大限楽しかったアピールみたいなのしといた方がいいと思うんだが。」
甘梨さんが腕を組む。
「んーと、どうするか。あ、ちょうどいいところに射的屋があった。あそこでなんかひとつ取ってくるんだ。」
「え」
「なんでもいい。取ったら、戦利品掲げて笑顔でピースだぞ。」
有無を言わさない口調で、甘梨さんが射的屋を指差した。
ぐいぐいと押されるようにして、僕は射的屋の前に立つ。
「一回、お願いします」背中に子供たちの視線を感じながら、僕はおぼつかない手つきで小銭を出した。
風がゆるりと頬を撫でて、僕は思わず風上の方を見る。
視線の先には鈴が吊るしてあったが、先ほど風が吹いたにも関わらず、音もしなければ動いたような様子もなかった。
木、一部が鉄でできたコルク銃が一丁。僕がいつも持っている銃より大きいが、よほど軽く感じる。
先手を取らなくていい。おもちゃは動かないから。
細かいことを考えなくていい。状況の余裕はあるから。
僕は銃を構えた。
引き金に指をかける。
狙うのは一番奥。少しぶさいくな、黄色と青の色をしたねこのぬいぐるみ。
発砲音。
コルクの弾はぬいぐるみに吸い込まれて、やわらかい布に当たり、音もなく落ちていった。
僕はめげずに二発目を装填する。
弾が落ちる。
三発目。
ぬいぐるみは落ちない。
あと一発。
僕はぬいぐるみを見た。
くるりと丸い黄色い目。藍色に染まった体。
やわらかい綿が詰まったそれは、抱えればさぞや抱き心地がいいんだろう。
そうだ。女の人の部屋なんかに置いてあれば、さぞや素敵かもしれない。
「のぞみ?」
ちりん、と鈴の音がした。
「たいせつなひとに、贈りたいの?」
どこかで、声が聞こえる気がする。
「夜空に浮かぶ月。それか、ねこみたいな。」
そうだな、と僕は思う。
確かに、いたずら好きな猫に似た人かもしれない。
気まぐれな図書館の主の領域テリトリーに、これが置いてあったら、なにもかも忘れた次の僕も、もしかしたら素敵だと思うかも。
「楽しそう」
楽しいよ。
少なくとも、この銃は娯楽だ。
「とくべつ。かなえてあげる。」
「たいせつな人。まもりたい人。わかるよ。」
「わたしができるのは、いっかいだけ。ね?」
鈴の音に合わせて、からころと、少女のような声が聞こえる。
とん、と背中を押された気がした。
今だ。
僕は躊躇いなく引き金を引く。
先ほどより大きい発砲音が、僕の体を痺れさせた。
「────はい、撮影完了!」
甘梨さんがそう言って、僕に笑いかけてくる。
「よし、いい顔になったな。サイトに帰ったら完成した写真が購買に出るはずだ、ぜひ買ってくれ。」
「ありがとうございます」
僕は一礼し、甘梨さんは機嫌よさげに去って行った。
にしても。
あの時聞こえた、女の子のような声はなんだったんだろう。
最後の一発。背中を押したやわらかな感触と、明らかに重たくなった引き金を思い出す。
発砲時の記憶を脳内でなぞっていた僕の思考の糸は、最後に聞こえた、射的屋の盛大な舌打ちによって切り落とされた。
【サイト8135 地上偽装搬入口】
「完全に迷った。音を辿れば大丈夫と思ったのにな。」
真北向はサイト8135の偽装搬入口で、恨めし気に頭上のスピーカーを睨みつけた。
今まさに後醍醐姉弟の代表曲が終わろうとしている。まさか、こんな中途半端な方法で中継しているとは思いもよらず、完璧に騙されてしまう形になった。あいにく地図も持っておらず、ここからライブ会場を目指すのも、今田の元へ戻るのも困難である。片道切符の異名は伊達ではない。
しかし、考えようによっては運がいいともいえる。サイトにならば当然会場の地図もあるだろうし、何ならライブの映像中継もしているかもしれない。みたところ標準的な入口であったので、真北は自身のパスを通してみた。
認識、開錠。ますます運がいい。真北は意気揚々と地下へと続く通路へと足を進める。
彼は異常に気付かなかった。
背後でライブを中継しているスピーカーの音が突如ひび割れ、ブツリ、と途絶える。火花が散ったかと思うと、配線と基部が物理的に破断し、椿の花弁のようにして地に落ちた。
疎らに配置されていた仮設の照明が一つ、また一つとショートする。
サイト8135の周辺に、闇が満ちる。
【祭り会場 休憩用テントスペース周辺】
生ぬるく体を吹き抜ける夜風を感じながら、小沼は大きく伸びをした。
「運営の手伝いとして、弊サイトの祭りに参加していただきたいと思っています。」おおよそこのような文面の書類と共に、仕事の命令がやってきたのが一ヶ月ほど前。
肩書は付いたものの、小沼がやることなどあまりなかった。雑用をし、書類を読み、時々会議に参加する。
数年前から参加しているが、思っていたよりも仰々しくはない。だが、思ったほどには遠ざけられている。そう感じていた。
自分の知らないところで、何かが動いている。
──少し考えれば、職員ならば皆同じ答えに辿り着くはずだろう──なにもない場所で、財団がわざわざ金と人をかけてイベントなどするはずがないのだ。それも、他サイトからも盛大に人を呼び集めて。
(誰も不思議に思わないのか。毎年やっているのに。毎年、少しずつ規模が大きくなっているのに。)
カバーストーリー?何かの収容プロコトル?行き着くはずの答えを誰も口にしない。
全てが終わって日常に戻れば、ただ楽しかった祭りだと、皆が口を揃える。
「お兄さん、たこ焼きひとつ」
「鰹節は?」
「多めで」
じゅうじゅうとたこ焼きが焼ける音、的屋の手際のいい作業を見ていた小沼は、ふと視界の端に見覚えのないものを見つけた。
「お兄さん、なんだいこれ?鈴?」
「ああ、それかい。なんでも、ここの屋台は全部鈴付けなきゃいけないそうなんだ。」
「へえ…鈴、ねえ。理由は何か言ってなかったのか?」
「いんや?聞いてない。ただ俺はもうここに出て長いがな、人も多いし、ビールの引換券ももらえるんだ。鈴のひとつやふたつ、付けろと言われたって気にしねえよ。」
「そうか」
「出来たてだよ」「ありがとう」底の熱いたこ焼きパックを受け取り、ついでに横の店からはノンアルビールを購入する。どちらの店も、よく見えるところに鈴の飾りを付けていた。
どうせあまりやる事はない、中で暇をするより、祭りを満喫した方が有益だと小沼は自分に向かって呟いた。
休憩用テントの椅子に腰掛け、パックを開ける。上がった湯気に曇る眼鏡を外してから、たこ焼きのひとつに爪楊枝を突き刺した。
違和感はあったが、その正体を突き止める術がないのもまた事実。
舌を火傷しないように気をつけながらたこ焼きを口に入れる。美味い。
夏の暑さと祭りの熱気に火照った体をビールで冷やし、熱いたこ焼きを飲み込む。ノンアルコールを選んだのは、祭り管理側の立場ゆえだ。本部を抜けてきたとはいえ。
道行く人を眺めながら口を動かす。順調に中身が減っていくパックとビールにもの寂しさを感じながら、喉を這い上がる不快感を食べ物と共に押し込んだ。
純粋に能力を頼られることは嫌いではない。むしろ好ましく思うほどだ。何の分野も突出せず、しかしあらゆる分野を修めた自分は、それゆえ広い見方でものを見られる。専門性に偏りがちな研究職では、決して悪くない力だと思っていた。
ゆえ───それゆえ、今回の依頼にはひどい違和感があり、同時に不快感をおぼえる。
形骸化した書類。おざなりな礼。いなくても回る実行委員会。
自分が本当に頼られたのではなく、何かのために、何かをカモフラージュするために、呼ばれたのではないかと。
(馬鹿馬鹿しい)
例えそうだったとしても、仕事は受けるし、運営として籍は置く。人には言えないことも、裏で回る隠仕事かくしごとも、ここではよくあることだ。
───切り捨てるには違和感が強いが、断定するには証拠がたりない。回転していた頭を一度止め、ビールの残りを飲み下す。
最初の刺激を失ったビールは、最早つめたいなにかでしかなかった。
(…しばらく祭り散策したら、適当に戻るか)何にせよ、必要とされているなら応えなければ。空になった缶を持って立ち上がり、最後の一つとなったたこ焼きを口に放る。
だいぶ熱も抜けたそれを噛んだところで、小沼はこれだけ、口の中の感覚が違うことに気づいた。
「………………これ、蛸がふたつ入ってるな」
少し得した気分になりながら、空き缶と空パックをゴミ箱に放る。財布と携帯が手元にあるのを確認してから、小沼は一人、祭りの人混みの中へと溶けていった。
【祭り会場 イベントスペース周辺】
桜田は早足でサイトを抜け出すと、隣の空き地に建てられた特設ステージの脇を通り、屋台の通りを目指した。
日が落ちて、一般客の流れが落ち着く頃合いを見計らっていたら、遅くなってしまった。
しぃカウンセラーは急がなくていいと言ってくれていたが、どこかそわそわとしていた様子から、お祭りの食べ物をすっかり楽しみにしているのだと桜田は思う。自然と急ぎ足にもなる。
「綿あめの他に、なにがいいかなぁ。意外とカウンセラーは何でも食べるから、甘そうなのを色々買おうかな」
思えば、桜田自身も祭りは久々である。途中にはちょっとした催事会場が設けられていて、空気を入れた巨大な風船のような構造物に入って遊ぶものや、工芸品を並べて展示するテントがあった。
そして、そこそこ立派なお化け屋敷も。
少し浮かれていたのかもしれない。物珍しくて、それらを気にしつつ歩いていた桜田は、前から歩いてきた女性と軽くぶつかってしまった。その人の提げていたポシェットから小物が落ちる。
「あ、ごめんなさい!」
「いえ、こちらこそ」
咄嗟に拾うのを手伝おうと屈んだ時、桜田は視界がゆらりと傾くのを感じた。
「あ、しまっ────」
手で押さえようとして、逆に付き飛ばす格好になる。桜田の頭部が、ごろりと地面に転がった。上を向く格好になってしまい、いい塩梅に目が合う。
下から観察すると、フワフワの髪の毛に細い顔だちをした女性だった。耳にオレンジ色のピアスが光っている。ローアングルなのにずるい、等と、桜田は混乱した頭で考えていた。
残った体で呆然と立ち尽くしていると、女性がおっかなびっくり頭を拾い上げてきた。
髪から土を払い、適切な位置に据えてくれる。幸い、周囲の注目は集めていないようだった。安定したところで手を放し、心配そうな顔で何かを言おうとする。先手を取らねばならない。
「あの!びっくりしましたか?」
「そ、それは、もう。お怪我はありませんか?」
口を動かせ。頭を回せ。
桜田は咄嗟にお化け屋敷を指さす。
「あのですね!私はあそこでお化けの役をやっています!すごいでしょ」
「えっと、はい!本物みたいでした」
女性は乗ってきてくれた。いける。桜田は畳みかける。
「そんじょそこらのお化け屋敷とは一味違う仕掛けがあります!よかったらどうですか?」
「あんまりリアルなのはちょっと苦手で…あの、よければ一緒に入ってくれませんか?」
「大丈夫です!さあ!一緒に行きましょう。一名様ご案内です」
ごめんなさい、しぃカウンセラー。心中で友人に手を合わせ、桜田は女性の背中を押した。どこのどなたかは分からない。
お化け屋敷の係員と、上手く口裏を合わせられるといいのだが。
金崎かなさきと上波うえなみは、参道を離れた。一通り食べるものを食べ、見るものを見た。
金魚すくいで水が跳ねたのに慌てる金崎。カッコいいところを見せようと型抜きに挑戦する上波。
たこ焼きの屋台を見て、目の前でそれらが均一な球形になる様子に目を丸くする金崎。
念願のかき氷を食べて頭が痛くなった金崎に、容器を額に当てるようアドバイスする上波。
人生初のお祭りを、最大限楽しくなるように。その言葉は確かに真実になっていた。
少し涼みたいと、どちらからともなく言い出して。イベントスペースの方へと移動する。
そこでは地元の民芸品が展示されていたり、近くの高校生が吹奏楽を披露する小さなステージがあった。近くの後醍醐姉弟のステージに比べれば小さいが、こちらでも祭り中イベントを行っているらしい。
寄っていこうと提案する上波だったが、金崎がどこか違う方を見ているのに気付く。
「あれ、どうかしました?あ、お化け屋敷だ。行きたいですか?」
「え、あ、ごめんなさい。違うんです、あっちで女性が転んで。」
「おや、大丈夫でしょうか」
「はい、きっと見間違えです。行きましょう!あ、着ぐるみですよ!」
金崎が指さす通り、ステージにちょうど怪獣のようなものが登場していた。疎らな観客の中にいる子供に向かって威嚇したりしている。
演者のガタイの良さを連想させる怪獣だった。その妙に生真面目な動きを、二人はどこかで見たことがあった。顔を見合わせる。
「皆、悪い怪獣がいるよ!どうするー?」
「やっつける!」
「ヒーローを呼ぶ!」
「そうだね!じゃあ、皆で声を合わせて!アルプスマンー!」
声援にこたえ、続いて飛び出してきたのは、神聖なる山の力を纏って戦うご当地ヒーローだ。こちらは、どこか粗暴で切れのいい動きをしている。やはり、同様に見たことのある動きだった。
「えっと、あの二人、太田おおたさんと十為といさんですよね」
「そうですね、私もそう思います。ご挨拶に行きましょうか!」
「よーし、応援しましょう!負けるな、アルプスマン!」
笑顔でステージへと歩いていく二人の背後を、白い着物姿が通り過ぎていく。
【祭り会場 イベントスペース"お化け屋敷"】
エージェント・差前さしまえは、ここしばらくで一番の驚愕に、しばらく思考を止めていた。
「──………はぁ……?」
「なんすかー差前サン」
「は、なんで、お前」
「言っとくけど、私は反対したし抵抗した。だから、似合わないとかわざわざ言わなくていい。」
どこか拗ねたように、西塔さいとうが原色ピンクのかき氷を口に入れる。
その上から下を装うのは、いつものシワのついたシャツではなく、丁寧に整えられた浴衣だ。
──これ、絶対高いよな…。
差前は内心で思ったが、口には出さない。うっかり零そうものなら、目の前の女はその数倍の言葉と語気で圧してくる。
「誰の差し金だ?それ」
「ア?」
「お前じゃこんなの選べないだろ」
「あー、雨矢あまやサンだよ。嫌だったけど結局押し切られた。くっそ、あそこで串間くしまサンが来なければ…。」
「…」
丁寧だが有無を言わせない態度の服飾技師と、おそらくそれに笑顔で乗ったのであろう保育士いもうとのことを考える。
「馬子にも衣装」という言葉がちらりと差前の脳裏によぎったが、すぐに霧散した。目つきが悪く、身なりに気を使わないこの女は、逆にそれさえなんとか出来れば悪くない素材だ。
「なーにじろじろ見てんだよ」
「別にじろじろ見てな…おい、かき氷をそんな風に持つのはやめろ!浴衣が汚れるだろうが!」
「うるせえ!今まで愛想よく祭りやってのによ、人の姿見た途端硬直しやがって!」
「そりゃ、お前みたいな自堕落を絵に描いたような奴が突然浴衣と化粧でめかしこんできたら誰だって驚くだろが!」
「なーにが自堕落だ!おら、さっさと案内。私はテメーじゃなくてその後ろのに用があるんだよ。」
後ろの、と指を指され、差前も自分のすぐ後ろを振り返る。
「納涼! 財団お化け屋敷」おどろおどろしい文字で書かれた看板が、風もないのにゆらりと揺れた。
「コレ、サイト8181でお前が計画したやつの焼き増しだろ」
「入りたいなら入りたいってさっさと言え。あとあの話はもうやめろ。白衣を着たゴリラに殴られる悪夢はもう見たくねえ。」
「入場料350円だ。」手を伸ばした差前に、西塔は露骨に顔をしかめた。
「金取るのかよ」
「当たり前だろ」
「職員割引」
「ねえな」
「へいへい。払いますよっと…あ、串間サンがお前によろしくって言ってたぞ。」
「ああそうかよ。──はい毎度。入り口そこだ。」
「かき氷、どうすればいいと思う?」
「出口回れ。諸知しょち博士がいるから、預かって貰えばいい。」
差前が奥の方を指さす。それをちらりと見て、西塔が自分の後ろを示した。
「差前サン。なんか客。と、客じゃなさそうなのが来てるぞ。」
「あ?」
差前が、西塔が示した方を向く。そこに立つ、二人組の女性。
「参加者か?入場料は350円だが」
「あ、払います」
片方の女性が財布を取り出す。もう一人の女性は少し躊躇うように視線を動かしていたが、やがて「あっ、あの!」と切り出した。
「お客さんを連れてきました!それで、ご希望で一緒に回りたいんですが……」
「──は?」
差前が、一瞬ぽかん、と口を開ける。
だが、女性──桜田の様子を見て、差前は何かワケアリなのだろうと察した。
もう片方の女性は、出で立ちがどうも一般人らしい。
「桜田、ど、同伴、お願いします!」
どこで聞いたのやら、微妙にニュアンスの怪しい台詞を叫びながら勢いよくお辞儀をした拍子に、その首が地面に転がった。
西塔も、差前も、首を落とした本人も、「あっ」という顔をしている。
ただひとり、財布を持った女性が、落ち着いた手付きで首を拾い上げた。
(あー…。こんなんならまあ、キャストだと誤魔化すしかねーわな…)
「よくやった、ええとその、桜田…?」
「すみません、私、ほんと、あの、その」
「うちのルールは頭に入ってると思うがよ、一応説明しとくぞ。中のあちこちに鈴が隠されてるから、五つ集めて、出口で係員に渡すんだ。真っ黒くて歯がやたらと綺麗な奴が裏口にいるからな。」
「はっ、はい!」
「────というわけだ、お嬢さん。うちのが迷惑かけなかったか?お代はサービスしとくから、楽しんでくれ」
気遣うような。少しだけ気まずいような。
そんな顔で、差前が言うと、女性はにっこりと笑ってお礼を言った。
【祭り会場 参道脇】
持ち場、抜け出してきちゃった。
そう言って笑った先輩に対し、真っ先に浮かんだのは驚きや怒り、呆れより、焦りだった。
「何やってるんですか」ふわふわと笑う先輩の腕をきつく掴んで引っ張る。「さっさと戻ってください」
うん、と曖昧に笑った先輩は、しかしそこから動く気配は見せなかった。
本来ならばこの先輩は、自分と同じように、Anomalousアイテムを使った怪異の誘導をしていたはずだ。自分たちの所属部隊が、そうだったのだから。
なのになぜ、と。
ため息すら出てこない。
「久賀くがさん、アンタ何やってるんですか」
「何、って。お前の顔見に?」
「冗談言ってる場合じゃないですよ」
「冗談だよ」
「戻ってください。何かあってからじゃ遅いんです。今まさに、俺たちのもとに怪異が迫ってきて」
「山岸やまぎし」
急かす気持ちで口を回す山岸の目の前に、久賀がついと指を伸ばす。
「あげたいものがあるんだ。だから黙って。」
「あげたい、もの」
「そう」
困惑した様子の山岸をよそに、久賀が浴衣のたもとを漁る。
「あった!」と声をあげて山岸に渡したのは、手のひらに乗るほどの大きさの、守り袋だった。
「────は?」
おまもり?
呆然とする山岸に、「あとこれも」と久賀が赤い紐を解く。
「手出して」差し出された右手に載せられたのは、黒く艶かしく光る日本刀だった。
「は?」
「あの、ごめんね山岸。あんまり事情説明してる暇はないんだ。」
「説明してください。というかこれ、久賀さんの家に伝わる大事な刀だとか昔言ってませんでした?」
「うーんまあ広義で言えばそうだね。今は財団所有のAnomalousアイテムだけど。」
「俺、日本刀の扱い知りませんよ」
「大丈夫。誰もお前にこれを振れとか言ってないから。」
使って欲しいのは、お前の"前任者"。
どこか遠い目をしながら、久賀が刀の鞘に軽く触れた。
「詳しく説明する時間も意味も権限もないから手短に言うけど、これ割と由緒正しい妖刀なんだよね。」
「妖刀、ですか。…村正みたいな?」
「あれは人間特攻。これは、どちらかというと人を切るためじゃなくて、人に害をなす人じゃないものを切るための呪いだね。」
「人じゃないもの…怪異?」
「うんまあ、大体そう。怪異とか、あと妖怪とか霊とかあれこれ言われてるものを断つための刀だよ。」
ひとつ振れば、縛られた命を。
ふたつ薙げば、代々の呪いを。
みっつ穿てば、地の信仰を。
切り、薙ぎ、穿ち、まじないを断つ刀とならん。
「これをね。『桂木宗真』って人に渡してほしいんだ。」
「…俺、ここから離れられないんですけど」
「だめだめ。お前はちゃんと逃げて、これ渡してもらわないと。」
邪気のない笑顔で笑う久賀が、その笑顔のままぐいぐいと刀を押しつける。
「渡す人の、場所は?」諦めの色を滲ませ言った山岸に、久賀があ、という顔をした。
「わからない」
「どうしろと」
「頑張って探して」
「だから俺、ここから離れられないんですよ」
「今から逃げるんだよ、お前は」
「逃げません」
「逃げるんだよ。与えられた役目を放棄するんだ。みっともなくても、あとからどれだけ非難されて軽蔑されようと、お前は逃げるの。」
「もしそんな事態になったら、久賀さんに全責任なすりつけますよ」
「うん、いいよ。この刀をお前に預けるのも、私の独断だもん。」
「なんでそんな」
「いいから持っていくんだ。何かあった後では遅いって、さっき自分で言ってただろう。」
久賀の声が不意に落ち、前髪を隔てた目が、山岸を静かに睨んでくる。
いつもと違う真剣な声に、山岸が微かに息を呑んだとき、通信機器から音が零れた。
【サイト8135 第三会議室兼『少女』収容作戦司令室】
誘導要員を示す起点が全体マップの一つ一つから消失していく様子を、柳沢は悄然と見つめていた。
人員は総出でライブ会場の安否確認と、そのラインの確保に動いている。しかし、スピーカー類や通信の中継設備が物理的な損害を被っている事実に、柳沢は激しく動揺した。
実体に影響を及ぼすなど。何らかの外的要因──例えば要注意団体の襲撃──が頭に浮かぶが、警戒網には何ら兆候が見られなかった。
そうなると、これもまた少女の引き起こしたことと考えて然るべきだろう。柳沢は先代の神主のことを思い出す。
霊体である少女に干渉し、問題の根源を断とうとした彼。
「お前も、こんな気持ちだったのか」
柳沢は、高橋の元へと人員を送るよう指示を出していた。現場での祈祷により、とにかく人員を守らなければならない。
ぞくりと、背筋が粟立つ。
人の気配に振り向くと、そこには少女が立っていた。
「お前が、そうだったのか。皆をどこへやった」
「たのしくないひとは、お祭りにいちゃいけないの」
たのしいところへ、妾わたしがつれていくの。
柳沢は少女に銃を向けた。何かを話そうとするのに構わず引き金を引く。
外れる。
もう一撃を加えようとした刹那、少女の姿は先代神主のものにとって代わっていた。
「よう、怖い顔をして。お前は変わらんな。」
動揺したつもりはなかった。だが、心に隙を作られたのも分かった。
「来るな」
「柳沢」
「やめろ」
「みんなが楽しむお祭りなんだ。さあ、お前も──」
気が付くと、少女の黒目がちで大きな目が、視界一杯に広がる。
「祭り、楽しまなきゃ」
「私、は。俺は…」
際限なく拡大したそれは、柳沢を飲み込んでいく。
「たかは、し」
「あの、銃声がしたような気がしたんですが」
自分以外の声に、少女はゆっくりと振り返る。
入室してきた男は、なぜか、首から方位磁針を提げていた。
【祭り会場 イベントスペース"お化け屋敷"内部】
お化け屋敷で鈴を探すのは、想像以上に楽しいアトラクションだった。薄暗い中に所々スポットライトが灯っていて、その周辺から鈴を探すというもの。
言い訳のためにやってきていた桜田博士も、途中から夢中になって楽しんでいた。キャストに驚かされて悲鳴を上げてみたり、ギミックに飛び上がってみたり。
「ドキドキします。でも、最初に首が落ちるのを見てるからかな、なんだか安心ですね」
「あ、あはは。サービスし過ぎましたね。」
「あ!見つけました。これで5個揃ったかな。」
「じゃあ後はゴールするだけです!」
足元を探りながら歩いていた桜田は、つま先に何か固い物が当たるのを感じる。
拾い上げようにも、さっきの二の舞になるのはごめんだった。同じ轍を踏まぬよう、慎重に腰を落とす。
「もう一個見付けちゃったかも。あれ、なんか違いますね。」
拾い上げた鈴は、しかし集めてきたような小さい鈴よりも一回り大きい、しっかりした作りの物だった。隣の女性も不思議そうに覗き込む。
「よく見えないからはっきりとは言えないけど、屋台に飾ってあったのに似てますね」
女性が呟いた。
途端に。
シャラン、シャラン、シャララララララララ────
桜田の手の中、鈴が鳴り響いた。
風もなければ揺らしてもいない。咄嗟に警告しようとして、桜田は異変に気付く。
体が言うことをきかない。金縛りにあったような。
白い着物の少女が、俯き加減に立っている。おかっぱの髪が幾条にも分かれて、揺れていた。
ゆっくりと顔を上げていく。前髪の陰から、黒くて大きな目が覗く。
「お祭り、たのしい?」
感覚がなくなっていく。それを庇う様に女性が立ち、後ろ手に桜田を突き飛ばした。首と胴が離れる。鈴の音と共に、暗がりの中へ転がっていく。
────咄嗟に突き飛ばしてしまったけど、あの人は大丈夫だろうか。
「お祭り、たのしい?」
私は、目の前に現れた少女の目を見ないようにして、答える。
「楽しいよ」
「ほんとうに?一人なのに?」
聞いてはいけない。その筈なのに、言葉が私の胸に刺さる。
「一緒にいたい人、いないのに、たのしい?」
「それは」
少女の姿が、ふわり、とぼやけた。輪郭が曖昧になり、形を変えて。
私が瞬きをする。
目を開けたそこには、さっきの少女の代わりに、浴衣姿の飯沼くんが立っていた。
「行こうか、██。浴衣、似合ってるよ。」
見下ろすと、さっきまで着ていなかったはずの浴衣を着ていることに気付く。
「ほら、お祭りだよ。さ、手を出して。」
そこはもう、お化け屋敷の中などではない。屋台の立ち並ぶ通りに、私と飯沼くんは立っている。
いいか。
そう思った。
なんでもいい。偽物だっていい。
飯沼くんと居られるなら、それで。
私は飯沼くんの手をそっと押しのけて、彼に抱き着いた。
【祭り会場 参道沿い 屋台】
機動部隊員のものと思しき装備を拾いながら、今田は参道から少し外れた屋台の裏手を見て回っていた。このサイトで日中開かれていた装備開発課の勉強会で何度か話に上がった鈴の飾り。その現物が落ちている。他にも、よく偽装されてはいるが、一般人に紛れてエージェントが用いる武装や通信機類。それらを手際よく判別し、今田は一つの結論を出した。何らかの異常に対抗して、収容プロトコルが走っている。或いは、この祭り自体が収容手順なのかもしれない。そして、いずれにせよ現在進行形で失敗しつつある。
「お祭り、たのしい?」
白い着物姿の少女が立って、こちらを見ていた。今田は柔らかくその視線を受け止め、見つめ返した。
「ええ、楽しませてもらっています」
少女はその輪郭をぼやけさせた。白い靄のような何かが、ある一つの形を取ろうとする。丁度、今まさに今田が着ているマントを写し取ろうとするように、何度か伸長と収縮を繰り返す。今田より少し背の低い、人型を目指して。
そこで、少女だったものは、戸惑ったような動きを見せた。形が決まらないのだ。今田はその様子を見守る。形を整えようとすればするほど、影は中心からかき乱され、ひときわ大きく収縮した後、弾けて霧散していった。
「────たのしいなら、大丈夫」
最後の言葉が負け惜しみのように聞こえたのは気のせいだっただろうか。少女の気配が完全に消えたのを確認し、今田は止めていた息を大きく吐いた。よりによってあいつを真似るとは。いずれにせよ、万能とはいかない存在らしい。
今田はひとまず休憩所に戻ろうと、参道に戻った。嫌な予感がして辺りを見回し、眉をひそめる。屋台に吊るされた鈴飾りの紐が急速に劣化し、千切れようとしていた。いや、既にちぎれたものもある。その店の周囲には、目に見えるまでに密度が高まった、黒い瘴気のようなものが漂っている。内部で何かが変質しているかもしれない。今田はそれとなく一般客の誘導を始めながら、真北の無事を祈った。
隣町から祭りに参加していたその女性は、きょろきょろと辺りを彷徨していた。
とりどりの玩具が並ぶ当たり籤の屋台。アニメキャラクターのお面が連なった出店。
「ゆきちゃん、ゆきちゃあん。」
きゃあきゃあと祭りを楽しむ親子連れや小学生の一団の中に、つい先ほどはぐれてしまった娘の姿を探していた。
人気の祭りであるだけに、人の往来も激しい。だから。
「だから、ちゃんと手も繋いでいた筈なのに──」
まだ幼く、好奇心の強いあの娘の事である。ふらりと何処かへ姿をくらましてしまう可能性に関しては、当然気を付けていた筈なのだが。人ごみの中で足をとられそうになり、ふと横を見ると、
さっきまで一緒に歩いていた筈の娘の姿が、忽然となくなっていた。
もう十分近くは、こうしてぐるぐると会場内を彷徨っている。あの子の体力を考えると、それほど遠いところへ入っていないと思っていたのだが、それにしても全く見当たらない。
慣れない地を散々に歩き回っていた事もあってか、じんわりと汗が滲む。
もしかしたら、良からぬことに巻き込まれているのかもしれない。警察か。いや、その前に運営テントか何処かに迷子の連絡を入れるべきだろう。そういう時のアナウンスを入れてもらえるところが会場のどこかにある筈だ。でも場所が分からない。あれ、そういえば私は今どの辺りにいる。ええっと、あそこにたこ焼きの屋台があるってことは──
疲れと共に、思考が纏まらなくなっていく。
その時。
「あ、おかあさあん」
耳慣れた、少女の声がした。
思わず振り向くと、ちょうど笑顔の娘が、ぱたぱたと、こちらに向かって走り寄っているところだった。
その表情にも、着ている赤い浴衣にも、変わったところはない。
どうやら、何かに巻き込まれたという様子ではないようだった。
私は、深く、溜息をつく。安堵と疲れが、一気に襲ってきた。
「ゆきちゃん。ねえ、どこに行ってたの。お母さん心配したでしょ、もう勝手に歩いて行っちゃ──」
娘を叱ろうと、視線を下ろして彼女の方を見やる。そこで。
ふと、娘が何かを持っていることに気が付いた。
それは、子供用のお面であるように見える。
母親の怪訝な表情に気付いているのかいないのか、娘は楽しそうに話しかけてきた。
「あのねえ、おんなのこがね、いっしょにあそぼうって、さそってくれたの」
その子がゆきちゃんにって、くれたんだあ。
白いお着物でね。とっても可愛かったの。
ゆきちゃんも、あんなお着物、着てみたいなあ。
娘は無邪気にころころと笑いながら、楽しそうに話している。
一体、何を言っているのか。半ば呆れながらも、娘が差し出したそれをちらりと見る。
おかめ、と言うのだろうか。娘の右手に握られた、女性をかたどったちいさなお面の顔が。
一瞬。
けたけたと目を見開いて笑う、私の顔に変化したように見えた。
【サイト8135 第三会議室兼『少女』収容作戦司令室】
真北は少女と向き合っている。
「『楽しい』ね。その言葉の定義をしないと、答えるのは難しいな。」
迂遠な答えをしたのは咄嗟の判断だ。情報を少しでも引き出せないか。それを受けた少女の反応は素早かった。
「真北くんは、もう少し素直になった方がいいよ。遠回りばっかりしてないでさ。」
茶髪に白衣の女性。小熊博士の姿をした女性が真北に笑みを向けている。二重の瞼の奥。真北が見つめることの出来ない瞳。いつだったか、人の目を見て話せと窘めてきた先輩。小熊月子。真北の苦手な相手だった。
「ね、真北くん。ここはダメだよ。もうすぐあれが来る。だから、私と一緒に逃げよう?楽しいお祭りに行こう」
真北は少し感動していた。小熊博士の目を観察する。真っ直ぐにそれを見るのは、初めての経験だった。もっと近くで見たくて一歩近寄ると、相手は警戒するように半歩下がった。
「あんたがどのくらい元を再現してるのかは分からないけど、それはどうでもいい。真贋は美の本質なんかじゃない。贋作だから触れられる美だってある。そうか、こんなに綺麗な眼をしてたんだ。」
真北は構わず距離を詰めて、そっと目の前の女性の肩に手を伸ばす。
「でもね、あの人はそんなことを言わない、絶対に。嫌になるくらい、あきらめが悪い人だから。」
手が触れる寸前、小熊月子は身を震わせて少女の姿に戻る。伸ばした手を降ろし、もう一度対峙し直す。何か話を続けようとした時、真北の脳裏に不思議な声が響いた。
『待ってください、そのまま』
振り向く。最初目にした時、水色のぬいぐるみかと思った。だが、それは自力で移動していた。短い手足を必死で動かして、しぃカウンセラーが走ってきていた。
今度こそ。対話を行うときだと彼の本能が告げていた。
『ようやく、お会い出来ましたね。ずっとお話したかった』
『なにもの?』
『むずかしい質問です。私はしぃといいます。あなたは?』
『妾は』
思わず答えかけてしまい、少女は慌てて首を振った。立ち去る素振りを見せる。
『あなたみたいなのは、危ないから。気を付けて。それと──』
少女は何かを囁くように伝え、消えていった。
「何だったんだ、今の。って、おい、大丈夫か。いえ、大丈夫ですか?」
真北は慌ててしぃカウンセラーを拾い上げる。全身がブルブルと震えていた。力加減が分からず、そっと手で包むようにしてみる。
『まきた、さん』
「ええ、真北です」
『しぃカウンセラーです。いっしょに来てた桜田さんが、お祭りに行ったまま帰って来なくて。それで探してたら、あの子を感じて』
「喋らない方がいいんじゃないですか。いや喋ってないけど」
『ありがとうございます。大丈夫、おちついてきました』
しぃカウンセラーは身をよじって、真北の上側の手を押しのけた。なんとかその足を踏みしめて、掌の上に立ち上がってみせる。
『まきたさん、お願いします。あの子に言われたこと、柳沢さんに伝えないと。あれ?でも、柳沢さんの波長がない。そんな』
小さな手で頭を抱え、少し青みを増して見せるその小動物を、真北はポケットへと導いた。頭を出す形で飛び込むしぃカウンセラー。
「ひとまず、関係者に伝えましょう」
言いかけて、警報音がそれを遮る。サイト8135の自閉モードへの移行を告げるアナウンスがけたたましく鳴り響いた。
「くそ、出口はどっちだ」
【サイト8135 第二会議室】
「あの。あまりにも性急ではないでしょうか」
「だから、事態は急を要するんだと言っているだろう────司令塔である柳沢さんも含めて、何人もの職員が居なくなったのであれば。私たちの作戦も変更しなきゃいけない」
緊急事態、の警報が発令されたとき。
その会議室の空気は、お世辞にも良いものとは言えなかった。
そこは、柳沢らが作戦を進めている司令室とは少しばかり離れた処にある、小さなホワイトボードと幾つかの机があるだけの、貧相な会議室である。
窓からは、機材の配線などを仕舞い込むためのテントや、この作戦のために作られた小さな社が見えた。
つい先程、柳沢をはじめとした作戦指揮要員の面々が会議室から姿を消し、一切の連絡がつかなくなったことを受けて、安全のために急遽場所を変更して行われた会議。
残っている分の運営担当の職員を出来る限り招集して為された話し合いの結果、作戦を担当する全ての職員に対して、緊急の警報を発令することが決定された。
しかし。
「場当たり的に警報を出したところで、事態はなにも変わらないでしょう。寧ろ、職員の混乱を生むだけです」
「じゃあ何だ、このまま柳沢さんの失踪を隠し通して作戦を続行するとでも?それこそ収容失敗の原因にしかならない」
何人もの職員が、口々に意見を出す。その声には、動揺と焦り、そして疲れが滲んでいた。
「そもそも、この収容作戦が強引ですよ。あれを無理矢理抑え込もうとしたから、こんなしっぺ返しを食らう羽目になったんじゃないですか」
「作戦指揮に対する御高説なら、せめて柳沢さんがいる時に言って欲しかったがね」
「そんなことを言いたいんじゃありません。つまりですね、収容手順を見直して、もっと根元の部分を解決しないと。またこういう事が起こったら」
「原因?今の私たちの任務は、あれを収容することだろう。尤もらしい研究や理由付けなんか、後で幾らでもできる。とにかく今は」
「だから、その収容のためにやるべきことがあるんだって話を────」
この作戦を指揮し、彼らを統率していた柳沢の失踪は、明らかに指揮系統に大きな軋轢を生んでいた。
苛立ち、焦燥、そして僅かな恐怖。それらを打ち消そうとするように、彼らは声を荒げる。
「ああもう、なんで俺たちだけが必死になってるんだ。しかも、それも全部無駄足になってる」
「全体の士気を下げるような無責任な発言は止せ。そんなことを言ったところで何の意味がある」
「見てみろよ、ほら」
そう言いながら、ひとりの職員が窓の外を指す。
機材の配線などを仕舞い込むためのテントや、小さな社。その向こうには、色とりどりの出店が見える。
微かにではあるが、祭りの喧騒も聞こえてきていた。
「みんな、楽しそうだよなあ。きゃあきゃあ騒いで、飲み食いして。その裏でさ、何になるのかも分からない事やってさあ」
何だよ、こんな。
たのしいおまつりの、人身御供みたいに。
彼が唾を飛ばして、そう言い終わるのと同時に、
窓の向こうの社から。
かり、ばり、と。
金属がやぶけるような、とてもいやな音がした。
「────っ」
其処に居た全員が息を呑み、そして。
窓の向こうの社に向かう。
社の中を開けると。
中に吊るされていた、何十という数の鈴が、
風に揺れて音を鳴らし、怪異の訪れを知らせる鈴が、
すべて、砕けていた。
【サイト8135 内部】
これより裏実行委員会は、警戒態勢に移行する。
財団支給の通信機器インカムでその連絡を聞いた小沼は、少しの違和感を感じつつ、やや速足で通信室に向かっていた。
警戒態勢への移行。それは即ち、収容の過程で何らかの無視できないインシデントが発生したことを意味する。
今回の作戦指揮を担当する柳沢をはじめとして──収容作戦に参加している要員多数と、連絡がつかなくなっているらしい。会場内でも幾つか不審な現象が観測されており、そこまで詳細な事情を知らされていない小沼でも、何らかの怪異が影響を持ち始めている事は容易に想像できた。
「映像班……確か、あの部屋だったと思うんだけど」
今回の収容作戦に際して、祭り会場の至る所には監視カメラが仕掛けられていた。サイトの一室に設置された幾つものモニタでその映像を逐一監視し、不審な影響が発生していないかを確認する。映像班と呼ばれる数名の財団職員が、交代でそんな業務を担当していた。
では、その映像にはなにも変化が無かったのだろうか。小沼が感じていた違和感は、そこにあった。
記録されている映像の何処かに、柳沢たちは映っていた筈である。彼らが「何か」に遭って消息不明となるまでの間に、何らかの変わった現象は見つけられなかったのか。
勿論はっきりと何かが映っている事は無いにしても、例えば映像が乱れていたり、或いは柳沢たちの足取りから彼らの居場所を特定しようとすることも不可能ではない筈である。
小沼は、数週間ほど前に配布された資料を再び確認する。数枚のA4用紙を留めていたホチキスは三日前に外れてしまっており、仕方なく紙の右上部分をクリップで束ねていた。
最終会議のために訪れた、一室。そこと繋がった廊下を少し進んだ先に、映像班の人々が常駐している部屋がある。コピー用紙に印刷された簡素な地図を指でなぞりながら進む。
警戒態勢のさなかである。てっきり人々が慌ただしく往来しているものと思っていたが、
通信を司る一帯は、やけに静かだった。コツ、コツ、という足音が耳を伝い、はっきりと響くほどに、ひとけが無い。
無人のパーティションを幾つも数え、その部屋の前に立つ。映像班、と書かれた紙が貼ってあるため、そこまで迷うことは無かった。
部屋の前に立ってもなお、静かだ。
こと、こと。自分の握り拳が扉を叩く音が、他人事のように鳴った。
「あの」
返事は無い。
「だれか、いますか」
人の動く気配すらしない。
「かくにん、したいことが」
なにも、音がしない。
誰も、
まさか。彼らも、もう。
勢いよく、扉を開ける。
繋げられた長机の上に幾つも並ぶモニタと、パイプ椅子。
その椅子には、三人の男性が横に並んで腰かけていて、モニタを眺めていた。
こちらからは三人が背中を向けているかたちで見えているため、表情などは確認できないのだが。例えば意識がなくなっていたり、ぐったりと背もたれに身を預けているといった様子では無いように見える。
ただ椅子に座り、業務に従って、連なった液晶画面を見ている。
ほう、と息を吐く。どうやら彼らは、つつがなく監視を続けているようだった。至る所に仕掛けられた監視カメラの映像を画面に、
画面にはなにも映っていなかった。
全てのモニタに砂嵐のようなノイズが走り、三人はそれらを注視している。
きし、きし。
ゆっくりと、部屋の中に入る。自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえた。
相変わらず彼らは聞いているのかいないのか、こちらに反応しない。
「あの、みなさん」
回り込み、彼らの顔を見る。
全員、画面を見て、嬉しそうに笑っていた。
思わず息を呑む。そこで、真ん中に座っていた一人が、初めてこちらに気付いたかのように、
立ち尽くす私を見上げた。
おお、小沼さん、だっけか。どうしたんです。
その声は、何気ない雑談をするような、普通の調子だった。
「どうしたって、あの、何を」
「何を、と言われましても。ああ、もしかして、この映像のことですか」
やっぱりねえ。お祭りに来たからには、楽しまないといけないと思うんですよ。ほら、この子もこの子も、みんな楽しそうでしょう。この屋台は、ああ、金魚すくいですかね。あらら、紙が破けちゃった。あれって結構難しいんですよねえ。いや、こうして見るのも中々懐かしくて、良いもんですよ。
砂嵐の映像を見ながら、彼は楽しそうに話している。
横にいる二人も、にこにこと笑いながらそれを聞いていた。
私は、その笑顔と画面を見ながら、何とか言葉を出そうとする。
「映像、って。なにも、ここには映ってない、じゃないですか」
途切れ途切れに声を発した、その瞬間。
全ての画面に。
自分の顔が、大写しに映った。
目を見開いて笑う、幾つもの自分の顔は。
一斉に、
「うつってるよお、ほらあ」
とてもおおきな声で、そう言った。
【祭り会場 "█████"屋台】
さあさ皆さん。
寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。
大人は十銭、子供は五銭、片目半額盲人めしいは無料、孕み女は二倍であります。
さあ皆さんがた、可哀想なのはこの娘でござい。
この娘の生まれは長野、小県ちいさがた。
信濃の国、禰津の村にて生まれまして。
その家の母さん、そのまた母さんと、神も悪霊もばったばったと祓っておりました。
すると、御霊みたまの執念子に報いまして。
出来ましたのが、この娘でござい。
当年とって、何歳だろか。十年百年何百年と。
自分に取り憑く悪鬼羅刹に。ただただ只管苦しみ喘ぎ。
怪異となりて、凶事まがごとを成すという。
さあさ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。
【祭り会場 北西部 進入禁止区域『禁域』深奥部】
田村は、目の前にある小さな祠を見つめていた。
この地の怪異を鎮めるために作られたという、石造りの祠。
今は亡き神主の墓──霊力を使ってでも封じようとした、怪異の小堂。
いつ作られたかも分からないほどに風化し、所々に丸みを帯び、苔生したそれは。異様なほどの不気味さを感じさせた。
現在の神主も、その扉を開けたことは無かったのだ。
怪異を鎮めるためのものだ、ということは記録されていても。
それが何を納めているのか、それがいつから在るのかは、どの文献を漁っても判然としなかった。
やつには絶対に近付くなと、多くの人々がそう口にしていた。
鬼神を敬して、之を遠ざく。
怪異を敬って、知ろうとせずに遠ざけることで、嘗ての人々は彼岸との境界を保とうとしたのだろう。
しかし。それも、もう限界が近付いている。
怪異との境界を侵してでも、あれに対抗しなければならなかった。
田村は────
粗末なつくりの、その扉に、手を掛けた。
観音開き、と言われる構造である。このまま指を手前側に引けば、扉は開く。
ふう、と。数歩後ろで見守る職員のうち誰かが、緊張を紛らわすように息を吐いた。
ちらりと、後ろを振り向く。不安と緊張の入り混じった表情が見えた。
それでは、開けます。
努めて冷静に振る舞いながら、そう声を出して。
指を引く。
ずず、と。重たい石が擦れる音がして、禁域の祠は開いた。
中には。
「────え?」
ぼろぼろに風化した、一束の髪の毛が入っていた。
私の様子を不思議に思ったのか、後ろに立っていた人たちが祠に近寄ってくる。
「何ですかこれ。相当古い髪の毛みたいですけど……遺髪?」
祠の中を覗いたひとりが、そう呟いた。
見たところ、それは女性の髪であるようだった。手首から肘くらいまでの長さの髪が、和紙のようなもので束ねられている。
「そのように思えますが……でもなんで、禁域の祠に、こんなものが」
「女性の髪?そういえば、この祭りに出る怪異って、女の子のかたちをとって顕れることもあるんですよね。もしかしたら、その関連とか──」
彼らは口々に呟く。私も、真っ先に思い出したのは『少女』の存在であった。
この地の記録を読む限りでは、鈴鳴の祭りには度々、白い着物を着た少女が現れるようであった。
あの少女が怪異の象徴であり、私たちはそれを鎮め収容する。この作戦はその共通認識のもとに動き、これほど多くの人員を投入してきたのだ。
やつには近付くなと、畏れられる怪異を────
ふと、
ひとつの考えが頭を過った。
祠の中にぐいと顔を近づける。
ちょっと田村さん、どうしたんですか。そんな声が後ろからあがったような気がするが、どうでも良かった。
その髪の束を注視する。
長い黒髪を束ねて一まとめにしている、その和紙。
その周りには、熨斗袋に使うような、赤と白の糸が散らばっていた。
水引と呼ばれるその糸は。
巫女の髪飾りとして、多く利用されるものである。
「そうだ。やつには、近付くな。────そうだよ、最初から言ってたんだ。」
「え、田村さん、どうしたん────」
「すぐに戻りましょう。柳沢さんに知らせなきゃ」
私たちはずっと、勘違いをしていた。
ここは長野県、鈴鳴神社。
長野県は古くから、巫女ノノウの里として知られている。嘗てこの地にあったという禰津村──ねつむら、やつむら、と呼ばれたその村は、巫女の家が立ち並び、厄払いや卜占を行う女性が多く暮らしていた。今でも、巫女のいた村として幾つもの史跡が残っている。
そして、長野に限らずその時代の巫女の多くは、神憑りの巫女である。
白い着物、すなわち巫女装束を着て。
神や怪異などを自らの内に取り込み、神の声を聞く者として、巫女という職業が有った。
では。
もし、あの少女が、被害者だったとしたら。
依り代として自らの身体に怪異を取り込み、そのまま命を落としてしまったのだとしたら。
私の話を、彼らは驚いたような表情で聞いていた。
「このまま、あの子を祓ったら駄目だ。怪異は、あの子じゃなくて、あの子の体の中に居る。どうにかして怪異を分離させて、本体を叩かないと」
最悪の場合、怪異そのものは、そのまま生き残ってしまう。
「そんな────取り敢えず、すぐ戻って皆に知らせないと」
「まだ仮説だけど、でも祠の中に髪の束があったって事だけでも」
戸惑いと、混乱が広がる。
私は、祠の扉を閉めて。
彼らの言葉を遮って、言った。
「とにかく、此処からすぐに離れましょう。散り散りに分かれて、誰か一人でもこの事を彼らに伝えるんです。どちらにせよ、私たちはもう禁域を開けてしまっていますから、ずっと此処に居るのは危険でしょう。」
だから。私が言葉を継ごうとした、その瞬間。
ざあ、と。
周りの木々や草花が、風もなく一斉に揺れた。
「急いで!」
弾かれたように、全員が走り出す。
田村は、息を切らしながら、暗く足元の覚束ない道の上を駆けていた。
先ほど通った道を散り散りに走り抜けて、ひとけの無い山道に入る。
あの祠を離れてから、数分が経っただろうか。
もう既に、他の職員たちも別々の道を見つけたのだろう。彼らの走る音も、息遣いも、すこし前から聞こえなくなっていた。
走りながら、この禁域へ向かう時のことを思い出す。
一呼吸に二歩、神のもとへ歩を進める時の歩き方。
しかし。ざり、ぱき、と、落ちている木の枝や落ち葉を踏んでしまうのにも、もはや構っている暇はなかった。
行きは良い良い、帰りは────。
静寂に包まれた、暗い山の中に、ただ私の足音だけが響く。
大丈夫だ、まだ何かが追って来ている気配もない。狭い山道の中ではあるが、確実にあの場所から距離をとれていることは感覚的に分かった。
そこで、突然に。
耳元で、
「どこいくの?」
女の子の声を、聞いた。
思わずびくりと肩が跳ねた。走る速度を緩めずに、後ろを振り向く。
誰もいない。ただ、暗い木々が広がっている。
ほうと安堵の息を吐いて、
そこで気付いた。
自分の目の前。狭い山道の先には、
石造りの祠と、墓石があった。
さっき離れた筈の禁域が、目の前に広がっている。
【公民館 三階 多目的室】
祭りの準備において、黒陶が読んできた膨大な数の資料。
その中に「応神いらがみ」の一文があったことを黒陶が覚えていたのは、決して偶然ではない。さて、いつ動くものかと思っていれば。
「吐け」
「なにをですか」
「なにもかもだ」
黒いコートと濡れ羽色の髪を翻し、少女のようなその女は、菩薩のような悪鬼の顔で笑った。
「知らないとは言わせないぞ?応神薙なぎ」
ぐい、と顔を近づけて、黒陶は応神の懐まで近づいた。
少し動けば鼻先が触れ合うほどの距離で、黒陶が薄く笑う。
それを正面から受け止めて、応神が小さく嘆息した。
「──素直に、情報が欲しいので何かくれ、とかなんとか言えませんか」
「しおらしく願ったらくれるのか?ならいくらでも頭下げてやるぞ?」
「喋りません」
「だろうな。──けち。」
「ケチで結構」
絶対に何か知っている。黒陶は思案を巡らせた。
この若く、未熟で、一歩思慮に欠けるが変なところで真面目な後輩を、どう扱うべきか。
ごちゃごちゃと策を弄する余裕もないが、正攻法でいっても落ちてはくれない。
軽くため息をつくと、黒陶は机に腰かけた。
「なあ薙坊。なんでこの祭りに来たんだ?」
「何が、って。誘われたからですが。」
「それだけか?」
「それだけですが」
こういうとき、奴がかけたサングラスは便利だ、と黒陶は内心で舌打ちをした。
嘘をついているとき、人間は必ずどこか違和感があらわれるものだ。しきりにどこかを触るとか、息が変わるとか、目が動くとか。
目を隠せば、表情は見えない。顔に出ないが目に乗る感情すら、表にうつらない。
(いやまあ、今の薙坊の格好は、小さい頃にやたらと任侠モノ映画見せたり、演武とかしてみたりした私の責任もあるか)
黒陶は少し申し訳なく思い、一瞬目を閉じる。反省。3、2、1。反省完了。
自分の分は反省したから、あとは好きなこと言ってもいいよね──!目を開いた黒陶は、そんな雰囲気で満ちていた。
「なんで動かない?」
「…」
「なんで働かない?」
「…」
「いつも部屋の隅で腕を組んでるだけだろう。柳沢が舌打ちしてたぞ。」
「別に」
「お前のことだから、受けた仕事は何があっても最大限こなすだろう、と思っていたのだが」
何か動かない、否、動けない理由があるのだろう、と黒陶は勘付いていた。
大量の記録の中にあった、わずかばかりの資料。応神に処罰を与えたという記述。
(これが院が与えた処罰なら、ただでは済まなかっただろう?応神)
末代まで伝わる呪いか。
死よりも恐ろしい苦痛か。
永遠に続くような呵責か。
「なぜ、ここに来ることを選んだ」
応神は答えない。
ただ黒陶の隣に立ち、じっと、実体化作戦が行われているはずの方向を見ていた。
正確には、行われていた筈の方角だった。
「私は動くぞ。今回の件、まだ知りたいことが色々とあるからな。」
予定時刻になっても連絡が来ない。禁域。流石に一筋縄ではいかなかったようだ。
よっと。声を出して、黒陶は銀のケースを持ちあげた。急がなくてはならない。
【サイト8135】
応神にとって、サイト内は心休まる場所ではなかった。
それでもこの時、自ら望んでサイトに足を向けたのは、きっと偶然ではなかったのだろう。
「やあ、薙くん」
まるで、前からずっとここに立っていて、応神を待っていたかのように。青年は笑っていた。
ハシバミ色の目、ぱたりと揺れた、フードに付いたうさぎの耳。
軽薄と形容できる声音で、青年は応神の名前を呼ぶ。
「────お前は…」
相手の名前を呼びかけて、応神は口をつぐんだ。今ここで彼の名前を言ったら、それに囚われてしまう。
そんな応神の心中などお構いなく、目の前の男はおや、という風な顔をして見せた。
「『お前』とはまたよそよそしいなあ薙くん。せっかく僕が来てやったんだ、前みたいに名前で呼んでくれてもいいんじゃないのかい?」
「…」
「だんまりか。やはりしばらく会わないと、あれほど深かった親交も薄れてしまうね。どうだい薙くん、こっちに来て、昔の話なんかあれこれしてみようじゃないか。」
「…」
「来ないのかい?」
応神の腕が、コートの下、日本刀に伸びる。
それを見ながら、男はゆったりと笑った。
「友人に手を掛けるなんて、ひどいじゃないか。僕はいつだって君のことを信じてる、のシンジテタノニになあ。」
「…」
「イラガミ薙くん。とりあえずその手を外して。少し話をしようか?昔のムカシ話ワスレタトハイワセナだ。」
ねえ?
エージェント・谷崎たにざきは、応神の記憶と寸分違わぬ、狂ったウサギのような顔で笑った。
【禁域 内部】
気が付けば、田村は元の位置に戻っていることに気付いた。
落ち着け、と言い聞かせる。これまでの仮説が正しければ、怪異にはまだ人に対して直接害を及ぼす力は無い筈だった。高橋の作った札を握りしめる。まずは彼岸花の道を辿ることだ。大丈夫、境界に咲く花を辿れば、いつか必ず。
「どこにいくの?」
耳元で声がして、田村は咄嗟に腕を振るう。鈍い手ごたえ。そちらに頭を向けると、ヘルメットに付けた携行電灯が作る丸い輪の中に、少女が尻もちをついていた。
紺の浴衣を着て、お面をしている。その周りから、彼岸花がみるみる内に生えるのを見て、田村は脱力した。周囲に、田村を揶揄う様に、幾筋もの彼岸花の直線が描かれていく。
「どこにいくの?」
「どこにいくの?」
「いかせない」
「もう出られない」
無駄とは知りつつ、田村は走った。尾根に出る。そうすれば下山の道も分かる。しかし、幾ら登っても登っても、視界が開けることはなかった。
「待ってよ」
目の前に男性が立ちふさがる。その顔面は赤く染まって、中央が陥没していた。
足がもつれる。
「伏せろ!」
空間を切り裂いた鋭い指示に、田村はうずくまって体を丸めた。刹那、連続して轟音が響き、周囲に百数十発もの弾雨が降り注ぐ。
まともに食らった人影は、斜面を転がり落ちて沈黙した。おっかなびっくり上体を起こした田村は、千切れて舞っていた赤い花びらが、次の瞬間には跡形もなく消えるのを見た。
「すまない、遅くなった」
「黒陶さん」
いつもは閉ざした黒コートの下にセーラー服をなびかせた少女が、回転式の機関銃を小脇に抱えている図は、このような状況下では涙が出るほど心強いものだった。
ありえないものにはありえないものを。いつ誰に聞いた言葉だったか。
「で、でも。あれはきっとまだ人間です!銃で撃つなんて、」
「安心しろ。これは法儀礼済みのゴム弾だ。イタリア製で一発5980円もするんだぞ。憑りつかれた人間なんぞ────」
ピクリと、打ち倒された男が身動きをした。立ち上がろうとしている。
黒陶は短くトリガーを引いた。もう一度吹き飛ぶ男性だが、先程散らされた分を補うかのように彼岸花が芽を出している。
木の影から、幾つもの人影が幽鬼のように現れた。
「うん、まずいな。完全に敵地じゃないか。ここまでとは思わなかった。」
「どうしますか」
「逃げよう。君を回収できれば、ひとまず満足だからね」
黒陶は弾帯をなびかせ、ガトリングガンを腰だめに構え直した。XM556と呼ばれる、小型の手持ち式機関銃。
「折角だ。試し打ちしてから次の手を考えよう。危ないから伏せろ」
黒陶はちらりと上を見上げて笑う。
「山の天気は変わりやすいというが、これはまた大変なことだ」
視線の先で、山の背からゆっくりと黒い雲が沸き上がり、厚みを増していく。
天気の荒れる気配がする。
「黒陶さん。実は、あの少女は、」
「怪異じゃない、とでも言いたいのか?」
「あ、知って…!?」
「知らない。ただ、この状況で出てくる言葉といえば、それだろう?」
黒陶が薄く微笑み、引き金を引く。
「いそがば回れ。激情に押され道を誤ったな、柳沢。」
【祭り会場 イベントスペース"お化け屋敷"内部】
桜田はパチリと目を開けた。
一瞬、意識が飛んでいた。頭をどこかでぶつけたのかもしれない。鈍く痛む部分に手をやろうとして、桜田は自分が地面に転がっているのに気付く。
更に、普段と異なることがあった。残った体の感触が、普段よりも遠いというか、感じにくいのだ。集中すると、どうやら鈴を握ったまま移動しているらしい。
チリン、チリン────
耳を澄ますと、音が遠ざかっていく。桜田は音を追って進み始める。
幸い体の動きは遅く、すぐに追いつけた。が、やはり独りでに動き続けているのは変わらなかった。
ひと際強く念じてみる。すると、思わぬことに何かがそれを押し返す感触があった。
ここに至って、桜田は頭に冷たい錐をねじ込まれたような感覚を味わう。何かが、彼女の体の中に入っていた。
「な、なんですか?なにをしてるんですか?」
思わず声に出して問いかけると、頭の中に、桜田自身の声で返事が響いた。
『鈴があると、やつが来ますから。やつは邪魔だから、持っていくんです。』
一歩ごとに、鈴が鳴っているのが、奇妙にひび割れていくように聞こえる。音が濁っていく。
『鈴は邪魔。やつは邪魔。あの童め、ずっと目障りだった。でも、もうすぐ。ああ、本当に長かった。』
桜田自身の声に、幾重もの声が重なって聞こえた。さっき見かけた少女のものでない。もっと別の存在が、嗤っていた。
行かせてはいけない。桜田は自分の体の足首を狙って噛みつく。僅かに狙いがそれるが、歯の端に靴下が引っ掛かった。夢中で噛み締める。
『どうして、人間の味方をする。お前はこちら側だろう。』
違う!
そう思ったが、頭だけでは足を止めきれず、大きく振り回された遠心力に負けて口を話してしまう。見下ろされるのを感じた次の瞬間、桜田は強烈な蹴りを喰らってボールのように吹き飛んだ。
壁にぶつかり、跳ね返る。視界がぼやけ、朦朧とする意識の中、再び声がした。
『それとも、まだ人間のつもりか』
再び歩き出す足音。耳がまだよく聞こえない。それでも桜田はもう一度飛び掛かる。
今度の狙いは違う。踏み出される足と足の間に頭を挟む。自分の転ばせ方は自分が一番よく知っている。経験の量が違う。
可能な限り派手なやり方で転ばせるつもりだったが、それは上手くいったようだった。もんどりうって倒れた体にのしかかり、立ち上がるのを阻止する。
『ならば、お前からだ』
急に圧力が強まったようだった。お化け屋敷の構造が変わっていく。取り込まれていく。
同時に、頭の中にも何かどす黒いものが入ってくる。桜田は歯を食いしばって耐えた。だが、限界はすぐそこだった。意識の中で自分の体を強く求める。真っ赤に塗りつぶされていく視界。
そして、歌が聞こえてきた。
【祭り会場 イベントスペース"特設ステージ" 控室】
「スピーカーも配線も全部死んでる。それでも歌うっていうのか。」
「当然♪ 幸いステージ周辺の機械はまだ生きてる。でしょ?」
「けど、それを外に出せないなら意味がないだろ」
「予備の建材があるんだよね?壁を取っ払って、この会場自体を拡声器みたいに改造すればいいって言ってんの☆」
匂の言葉に、赤村が頷いた。匂の弟、鏡キョウと剣ケンもそれに賛意を示すようにその場に立っている。
は、としばしぽかんと口を開けたあと、飯尾は我に返ったように「はあ!?」と大声をあげた。
「危険すぎる!今ここで、そんなことをしてどうなるってんだ!」
「知るか♡ それを考えるのは飯尾メッシーの仕事☆ 私は、今ここで歌うのが仕事なの。歌が、必要なんだ。必要としてる人がいるんだよ。」
飯尾は匂の剣幕に押される。隣の赤村を見ると、そこには決意の顔があった。
「私からもお願いします。やらせてください。難しい工事だけど、この子たちもやりたいって。」
激しく揺れるリュックを見て、飯尾は頭を掻く。
その様子を見ていた亦好が、あっけらかんと意見を述べた。
「まあ、やれることをやっていくしかない。諦めるよりはよっぽどいいでしょ。作業中のお客さん誘導なら任せてくれ。」
信じられない、という顔で亦好を見ている飯尾に対し、当の本人は涼しい顔だ。
「いいじゃん、音を響かせてこそライブだよ?」あっさりとのたまう亦好に、飯尾はしばらくあれこれ唸っていたが、やがて諦めたように、覚悟を決めたように顔をあげた。
「はー…しゃあねぇ、腹くくるか!ただし、構造計算と音響シミュレーションはやらせてくれよ。やるからには盛大に響かせようぜ。」
「ありがと、メッシー♡」
「ありがとうございます!がんばります」
亦好の指示のもと、会場に配置されていた人員が散っていく。
赤村は笑顔でリュックサックを解放した。巨大な三本のアームが生き物のように動作する。
「きぃ、くぅ、K!いくよー!」
飯尾からの指示に従い、ステージの壁面を引きはがしていく。接合部を断ち切り、組み換え、溶接。各所に増幅器を取り入れ、響き合う音がより遠くまで響くように。
ステージが姿を変えていく。
十五分ほどで、ステージの改造は終了した。巻貝のような構造をたった一人で作り上げた赤村に、見守っていた職員たちが喝采を叫ぶ。
────いや、違った。職員は、赤村とその忠実なる三本のアームを称えていると赤村は気付く。照れるように、あるいは驚いたように。それぞれの性格が垣間見える動きを見せて、アームがリュックサックに大急ぎで収まるものだから、赤村は何やらくすぐったい気持ちになった。
「ありがとう。あとは、コウが頑張るよ☆」
ハイタッチを交わして、主役が交代する。手に持っているのは、なんとか復旧が間に合い、電源が確保できた古いマイクだ。
コードを鞭のようにしならせ、匂は指定の場所に立つ。もう一度、歌を届けるために。
空を見上げると、先ほどまで見えていた星々を黒い雲が覆おうとしている。構うものか、と。匂はその分厚い雲を貫いて星に届くように、苦難の中で諦めない人々に届くように。そんな信念を込めてマイクを握る。
「聞いてください。"光を求めて"」
静かで、力強い歌い出しだった。
【祭り会場 イベントスペース"お化け屋敷"内部】
桜田は、締め付けられるような痛みの中で、意識を保っていた。
今気を失えば終わりだという確信はあったが、打開策が見えない。それは只の足掻きだったかもしれない。
そんな時、歌が聞こえてきた。離れている筈なのに、お化け屋敷の中まで浸透し、桜田の耳に届いた。
それは、こんな歌だった。負けそうなときも、仲間を思い出せ。相手が強大ならば、手を取り合えばいい。
一人ではどうにもならなくても、君は一人じゃない。協力することで、新しい道が開ける。
どんな人でも、誰かを守りたいと願うなら、きっと前に進める。前に進んだ先で、私たちは出会える。
『────歌だ!忌まわしい、なぜだ。』
怪異が苦悶の声を上げた。歌に弱いのだ。祈りを込めた歌。
最後の力を振り絞り、桜田は頭部を体の接合面へと移動させた。
「私の体を返せ!私だって、みんなを守るんだ。お前なんかの好きに、させるものか!」
強く鈴を握りしめている痛みで、桜田は我に返った。
体の中にいた異物は去ったようだった。身を起そうとして失敗する。
誰かが駆け寄ってくるのを感じた。受付にいた人だろうか。耳がよく聞こえなかった。ふと、掌が熱いのに気付く。そっと開いてみると、鈴が淡く光を放っていた。その光が照らした部分から、お化け屋敷の内装が、怪異の訪れる前の姿に戻っていく。綺麗な光だ、と桜田は思った。
「伝えなくちゃ」
小さく呟き、桜田は今度こそ意識を失った。
【祭り会場 公民館 内部】
「────ええ、こちらにいらっしゃいますよ。はい、────」
気絶した桜田を丁寧に寝かせた男は、端末で電話をかけていた。
「今は寝ていますが、はい、はい。…鈴ですか?持っていますね。古い。────ええ、そうです。」
断続的な通信音が零れる。
会話に合わせて男が小さく頷くたび、男の腰まで伸びた髪がわずかに揺れた。
通信が切れる。と同時に、入ってきたのは差前と、もうひとり。
「この嬢ちゃん任せてすまなかったな、諸知博士。」
「いいえ、エージェント・ヤマトモ。どうせ私の出番は後々です。このくらいなら、大したことありませんよ。」
「あー、それなんだが」
差前が困ったように頭を掻く。男────諸知がん?という顔をした。
「もしかしたら、今年はアンタの出番はないかもしれないんだ。諸知博士。」
「おやおや」
差前の手の中には、煌々と光るスマートフォン。
それを見て、諸知は何を感づいたのか、嫌味のない顔でにっこりと笑った。
「ああなるほど──それはそれは、大変結構です。実は私も、今年の祭りは、私が出るには些か勿体無いのではないかと思っていまして。」
「ほんとか?」
「本当ですとも」
後醍醐姉弟の歌が流れている。
「たとえ一夜限りでも。忘れられない思い、忘れたくない思いというのは、その価値において等しく同じなのですから。」
どうか、この祭りを、忘れられない一晩にしていただきたいものです。
そう言って、諸知は静かに目を伏せた。
【異界 禁域 旧"鈴鳴神社"】
「どうした、お前の手番だ」
声を掛けられ、柳沢は我に返った。
盤を挟んで、高橋がのんびりと茶を飲んでいる。形勢がいい時、露骨に楽観するのがこの男の癖だ。
「お、おう」
森を越えて、祭りの囃子が聞こえてくる。
「高橋、お前、祭りはいいのか」
「ん?俺の役目は祭りを始めるとこで終わりだよ。見てたじゃねえか」
怪訝な顔をした高橋は、何かを得心したかのように頷く。
「ま、この年になって祭りをうろつくのも何だしな。ここで、お前とこうしてるほうが楽でいい。孫もすっかり来なくなっちまったしな。」
そうか。柳沢は思い出す。もう、やつはいないのだ。怪異の脅威は去り、祭りはただの祭りとしての意味を取り戻していた。
「もう勝ったと思ってるだろうが、ここからだぞ」
柳沢は力強く、駒を盤に打ち付けた。もうじき、花火が上がるだろう。それくらいは見に行ってもいいか。
その意識は、もうこの偽りの平穏の中に溶け込んでいた。