広域怪異収容事例 Case1:納涼祭 第三幕
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【現"鈴鳴神社" 結界内】

石でできた階段を、一段一段登っている。
慣れない場所での活動や、今日一日の活動で疲労は確実に蓄積されていたが、その歩みに疲れは感じられない。
ゆっくりと、しかし確実に、踏みしめた地を確かめるような足取りで、応神いらがみは歩いていく。
 
社務所に人の気配はなかった。
鳥居をくぐった足は、そのまま本殿の方へと向かう。

壊れた金具、ぼろぼろの戸。
明らかに弱くなっている神気に、応神は据わった目で本殿を見据える。

少し考えたあと、応神はコートのポケットからがま口を取り出した。
ちゃりんと音がして、賽銭箱の中に五円玉が吸い込まれていく。

本殿から聞こえる声に、応神は手を合わせようとした動きを止めた。
 


 
本殿内。
高橋たかはしは敷地内に結界を張り、静かに座っていた。

目の前に置かれているのは、小さな青い手帳。
祖父の形見の一つだ。祝詞の文言が几帳面な字で並んでいる。

場には、サイトに用意されていたのと同様で、より正式な祭壇が設えられていた。いく箇所かに灯された蝋燭が、静かに対流する空気に揺れている。
内側から結界で閉ざしたこの空間に、外部の情報は入ってこない。どのみち、自分のような半端ものにできることは、ここで祈祷をすることだけだった。
 
祝詞を唱える声に混じり、ぐすぐすと、少女の泣き声が聞こえる。
 
「高橋。なんでいないの、高橋。来年もおまつり一緒だよって、言ってくれたのに」
 
ここにはいない人間を呼ぶ少女は、目の前の高橋のことなど見えていないようだった。

少女にかける言葉も見つからず、また言葉をかけることも許されず、高橋は必死で前を向きながら祝詞を唱え続ける。
お願いだから泣きやんで、と高橋は願った。
その泣き声を、自分は知っている。
 
ぶわりと、蝋燭の火が高く上がり、そして揺れた。
 
異変を感じる間もなく、高橋の背後に影がずず、と近寄ってくる、
 
「!」
 
ぐずりと、祭壇の榊が崩れていく。
まずい、まずいとぐらぐら頭が揺れる。一気に空間に穢れが満ちていく。
必死で祝詞を唱えようとしたが、口を開いた瞬間、吐き気を催すような瘴気に思わず口を閉ざした。

壁に貼られた札がみるみるうちに劣化し、破れる。
神酒を満たした盃が、がちゃんと音を立てて盛大に割れた。
 
ひどい悪寒を覚える。だが、それを振り払うようにして、高橋が大幣を持った瞬間、

木戸から、人影が飛び出してきた。
 
「────高橋さん」
「、あ」

なにかを言おうとしたのに、できたのは、はくりと息を吐き出しただけ。音にはならない。
なんで結界を破れた、とか、どうして貴方が、とか、言いたいことはたくさんあったが、その全て声には出なかった。

「チッ…高橋さん、そこの女の子守れ!」
「あ、僕、は、」
「ぐずぐずすんな!ここの神社の神主だろ!」

人影────応神が叫ぶ。だが、高橋が言葉を継ぐ前に、泣いていた少女はふわりと掻き消えてしまった。

「あ…」
「クソ、やっぱり怪異の進行がどんどん早くなってる!」

吐き捨てるように言った応神が、神主を守るように立ち塞がる。
 
「諸々の罪穢 祓い禊て清々し」
 
目は一点をじっと見据えながら、応神が静かに呪文を唱え始めた。
 
「遠津神笑み給え 稜威の御霊を幸え給え」
 
高橋を庇うように、手を後ろへ回す。
「三語拝詞」。祓詞、神詞、賀詞の三段からなる祓いで、悪鬼を鎮める呪文。
 
「天津日嗣の栄え坐むこと 天地の共無窮なるべし」
 
静かに目を開いた応神は、そのまま躊躇うことなく、すらりと刀を抜いた。
抜き身の銀が、蝋燭の炎に照らされて冷たく光る。

「応神、さ」
「…残念だが、高橋さん。俺はこいつに対してこの刀を振るえねえんだ。」
 
言葉の割に、応神の目はまっすぐに、瘴気が一番濃い場所──先ほど少女がいた空間を見据えている。
しばらく応神は刀を構えたまま動かなかったが、やがて部屋中に蔓延していた瘴気がゆるりとほどけ、静かに霧散していった。
 
「──行ったな。…大丈夫か?高橋さんよ。」
「あの、僕は」
「やっぱり、あの少女は怪異の根元じゃなかったってわけか。…ずっと、手がかりはあったはずなのにな。俺としたことが。」

黒陶さん風に言えば、「道を間違えた」ってやつか。
呟く応神を見ながら、高橋はすうっと頭が冷えていくのを感じた。
 

僕だって、やろうと思えばできていた?
でも、正直に言って、僕よりも応神さんの方がよっぽど強い力を持っている。
それでも確かに、僕はこのが言うとおり「神主」なのだから、本来怪異を退けるべきは僕だった。
もし応神さんが来なかったら、僕はきちんと神社を守れていたか?
わからない。
わからない。
だって、いつだって一番大切なことは、先代や、財団の人たちがやっていたのだから。
 

「ありがとう、ございました」
「何が、"ありがとうございました"だよ」

やっと絞り出した声に、返ってきたのは肯定の言葉ではなかった。
ひぅっと喉を鳴らした高橋に、応神がサングラス越しに冷たい目を向ける。

「一応聞くぞ。お前、真面目に神主やる気あるのか?」
「あっ…あります!だから、こうして祝詞をあげて、怪異を鎮めるお手伝いを」
「お手伝い?」

威圧するような物言いに、高橋が息を呑む。
何か言いたそうな顔で口を開くが、結局何の声も出ずに、またその口を閉ざした。

「──あのな。本来は、お前が主導になって怪異に相対すべきなんだよ。財団職員に寄りかかってどうする。」
「いえ、でも、怪異を収容する責任者は柳沢さんで、」
「あのな、お前、自分の立場わかってんのか?」
 
呆れたような。諦めたような。
先ほどまでとは違う、冷めた声音が、座り込む高橋のもとに降ってきた。
 
「どうせ財団がやってくれる、って思ってないか?」
「…」
「自分は神主なのだから最大限力を尽くそうとか、そんなこと思わないのか。家で継いできた仕事なんだろ。お前の役目なんだろ。」
 
果たそうとか思わないのか。
恐ろしいほど正しくて、目を背けたくなるほど眩しくて、膝を折りたいほど強い言葉だった。
 
「でも、僕は」
「期待されてないから、とか言いたいのか。ならば、期待をかけられるように努力をしようとか思わなかったのか。」
「…」
「やらない理由を、他人に押し付けてないか?」
「…」

応神の目が、じっと高橋を見ている。
 
見たくない。
聞きたくない。

知りたくない。
 

頑張ってたのだ。
頑張ってたのに。
どれだけ頑張っても、上には上がいるのだ。
どれだけやろうとしても、潰される意思はあるのだ。
どれだけ、やっても。
できないことは、あるのだ。
わからないことは、あるのだ。
できないことができないのは
わからないことがわからないのは
 

「…に」
「あ?」
 
「誰しもあなたみたいに、強くはなれないんですよ…!」
 
悲鳴のような声だった。
 
高橋は笑っていた。
笑いながら、泣いていた。
 
「僕だって頑張ってるのに」
「僕だって、頑張って」
「本当はこんなことやりたくなかった」
「でも、僕がやるしかないから、って」
「言ってることがめちゃくちゃだ。やれって言いながら、本当に大切なことは何も言ってくれなくて、」
「やれって言っても何も期待はしてくれなくて」
「でも、どうせ期待されたって僕は応えられない。そんな自分が、そんな、」
 
諦めたように。
疲れ切ったように。
力のない体で。
笑顔のまま、泣いていた。
 
怪異によって蹂躙された本殿の床に座りこみ、音もなく涙を流し続ける高橋を、応神は黙ってじっと見ていた。
だが、やがて高橋の隣にしゃがみ込むと、ゴソゴソとコートのポケットを漁る。

「あー…、あった」
「な、なん、です、か」
「ん?カロリーメイト」
「かろりー、めい、」
「プレーンとチョコ。どっちがいい?」
「あ 、」

グス、と袖で目を擦った神主が、少し考えて「チョコ」と言う。
コートの中から二本のカロリーメイトを出した応神が、その一本を高橋に渡した。

「食え」
「い、ただきます…」

ピリピリと、袋を破る音がする。
高橋がひと口をかじる間に、応神は棒の三分の一を食べ終えていた。

半分ほど棒を減らした応神が、視線を前にやったまま言う。

「なんというか…、なんかわからんけど、お前も大変だったんだな」
「…」
「同情はする。同情はするぞ。ただ、同意はできねえ。」
「でしょうね…」

あなたが強い人だというのは、今の今までで知っています。
高橋が自嘲の色を混ぜて呟いた。

「『財団の人たちがなんとかしてくれる』とか『周りにも期待されてない、だから自分も自信を持たない、責任を持たない』とか。そんなこと思ってなかったか。」
「…」
「自分の役目をしないことを、『それは、自分が役割を果たせるのを阻害する周囲がいるから』と思ってないか。」
「…」
「なにもわからないのは、なにも知ろうとしてこなかったからじゃないのか」
「…」
 
開け放された本殿の戸から、夏の夜の、生ぬるい風が吹いてくる。
 
「でも、僕は」
「言い訳ばかりだな、お前。取り繕うだけじゃなくて、少しは真面目に自分の心を直視しようとか思わないのか。」

応神の言葉が、真っ直ぐに、高橋の心を突き刺してくる。
思わず俯いて、カロリーメイトをかじった高橋の肩を、応神がおもむろに掴んだ。
 
「え」
 
あ、と思った瞬間。顔に激痛が走る。
デコピンされたのだと気づいたときは、もうおでこが熱を帯びていた。

「────っいった…」
「…」
「なにするんですか!僕が不甲斐ないのはもうわかりましたよ、でも、なにも暴力に訴えなくた、っ、て…」
 
高橋の言葉が尻すぼみに消えていく。
応神が苦虫を100匹ほど噛み潰したような顔で高橋から目を逸らしていたからだ。
 
「あの柳沢とかいうのだろ。それに、町のやつの反応。さぞや大変だっただろうと、俺も思うよ。」
「あ、え、と」
「環境のせいにしたくなるのもまあ、わかる。想像はできないが理解はできる。」
 
でもな。
応神がため息をついた。
 
「どう頑張ったって、環境は環境の方から変っちゃくれねえんだよ…。だから、自分が変わるか、自分を変えて環境も変えるしかない。」

アンタに足りないのはその気概だ、と応神は付け加えた。
 
「大丈夫だ高橋さん。きっとできる。なんせ、新しい環境ほっぽり出されて、あの柳沢とかいうのにも睨まれて。それでも今までずっとやってきたんだろ。だから大丈夫。」
 
「お化けも妖怪もモンスターもいる世界だぜ?」応神は自嘲めかして笑った。 
 
折れない思いがあるなら。叶えたい願いがあるなら。
最大限、人間が前を向いて、頑張ったなら。
それならきっと、少しだけ、世界がくれる奇跡があってもいいはずだろう。
 
応神はそう言って、少し照れたようにカロリーメイトを口に放り込んだ。
 


 

【サイト8135】

──その、少し前の事。
 

「薙くん。とりあえずその手を外して。少し話をしようか?」
  
痛いほどの静寂が下りていた。
 
応神は無意識にコートの下の日本刀に触れながら、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
 
落ち着け。
谷崎たにざき翔一しょういちは死んだ。死人は生き返らない。
ならば、目の前のこの男は、おそらく怪異が見せている幻の類だろう。
 
一度答えを見出すと、少し気持ちが落ち着くのがわかった。
本当にこれが谷崎でない限り、対処は如何様にもできる。人の心を読み取って付け入る怪異の類は珍しくない。対処も学んでいる。

刀を抜きかけた応神の手が、不意に止まった。
 
「薙くん?」
 
目の前の谷崎らしきものは、雰囲気を変えた応神に少し首を傾げた。

「てっきり、僕は君の一刀によってたちどころに消えてしまうのだと思ったんだけど」
「その言い方…やっぱりお前、俺に谷崎翔一を見せる気ねえな」
「ん?」

谷崎が軽く動くたびに、パーカーのフードについたうさぎの耳がぱたぱたと揺れる。
こんな動きをさせるあたり、怪異もうさ耳が物珍しいんだろうか。どこか見当違いなことを考えながら、それでも応神は油断なく谷崎を見据えた。

「僕は谷崎翔一とやらなんだけど、僕の本質は君がいう通り、僕じゃない」
「だろうな。俺が知ってる谷崎は前に死んでんだよ。ご丁寧に遺書まで残して。」
「君にはなんと説明すればわかってくれるかな。つまりだね、こうして喋っている僕は、君が今まで谷崎翔一を見てきて、感じて、記憶している存在を具象化したものなんだよ。」
「…」
「有り体に言えば、僕は『君の目から見た谷崎翔一の姿』というわけだね」

理解できるかい?
そう言った谷崎に、応神は明確な言葉の代わり、ひとつため息を返した。

「────あのな、死者を冒涜するような真似して楽しいか?」
「でも、君の中の強い意識としてあったのが谷崎翔一なんだ。つまり、君はまだ谷崎の死を受け止めきれていなくて、その思いがこうして、祭りを共に楽しむ僕という幻を作り出したんじゃないのかい。」

まあ、君に祭りを楽しむことなんてできないけどさ。
くすりと笑った谷崎に対し、応神はひどく冷静な目をしていた。

「そうだね。そもそも君に、素直に友人を見せる幸せな夢とか、見る資格はないんだ。」

ぞわりと背筋が粟立つのを感じて、応神は微かに緊張度を上げる。
 
はそう言っていたが、きっと、自分の意識が100%ではないはずだ。

存在する土地。
近くの物品。
混ざりあう、他の人間たちの意識。
そして、怪異の意思。

それらが混ざりあって、目の前の存在は形作られている。

それでも、先ほどまでよりも、姿が色濃く、そして会話もはっきりと成立している。
長々と会話するのはまずい。そう応神も理解してはいたが、なお、谷崎に相対することを止めることはできなかった。
 
「ここまで話したのだけど、君は刀を抜かないんだね。その刀、なかなかいいやつだろう?君の腕なら僕をすっぱりと切ってしまうことだって簡単だろうに。」
「そうだな」
「僕が知る応神家と、いつもの君の様子なら、まず躊躇いなく会話以前に消してしまうと思っていたんだけど。」
 
それともなんだ。
僕を切れない事情でもあるのかい?

ついと目を細めた谷崎の笑顔は、確かに、応神が知る彼のそれと酷似していた。
 
「ああ。俺はお前を切れない。お前に干渉できない。することが許されてないからだ。」
「へえ、君ならてっきり、そんなの無視して突っ込んでいくかと思ってたんだけど。」
「…御先祖さんからの決まりごとでな。この怪異にはあんまり踏み込めねえんだよ。」
「財団の上司には平気で反発するくせに、変なところで律儀だよね、君」

谷崎の声は至極落ち着いている。
思わず刀が音を立てそうになるのを、応神は精神力で抑え込んだ。
 
これは友人ではない。
 
「なあ谷崎」
「…やっと、名前を呼んでくれた」
「お前、本当に死にたかったのか?」
「それに答えようにも、僕はこんな存在だから。君の望んだようにしか話せないんだ」
「知ってる。だから、俺はそれが知りたい。俺は谷崎のことをどんなふうに思ってた?」
「そうだね」

少しだけ考えるそぶりを見せたあと、谷崎はにっこりと微笑んで

「言いたくない」

おそらく応神が聞いてきた中で、一番ご機嫌な声音で、そう言い放った。
 
「言いたく、ない」
「君がぼくを知りたいなら、ぼくは作為的にぼくを隠すよ。君にやすやすと踏み込まれるようなやわな精神は持ってないつもりだけどね。」
「ああうん、なるほどな…。お前、どうしようもなく谷崎翔一だな。」
「さっきと言ってることがなんか違わないかい?」
「いや?…うんまあ、ありがとう。おかげで踏ん切りついたわ。」
「おや」

小さく笑った谷崎に向かって、応神はおもむろに日本刀を抜いた。
つ、と谷崎の喉元に刃を当てる。
鋭い切っ先を向けられてなお、谷崎は狂ったウサギの顔で笑っていた。

「やっぱりこうなるんだ」
「あのな、谷崎。昔の話しようって言ったよな。」
「そうだね」
「ああ、俺な。お前の言ったとおりだって、今思った。」
 

「谷崎、あんまり無茶すんなって言ってんだろが。お前は大人しく椅子の上で頭回してればいいんだよ。」
「おやおや。ぼくのことが信用ならないと?自分で言うのもなんだけど、ぼくは結構悪運が強いタイプだと自負してるんだけどね。」
「財団職員が自分の命を運任せにすんな!クソ、いつか適当なとこでのたれ死んでも知らねえぞ。」
「おや。ぼくが死んだのなら、本当に動けなくなるのはぼくじゃなくてキミの方だと思うんだけどね。」
「うるせー。死体は動かねえし物を言わねえんだよ。前を向いて行けるのは生者の特権だ。」

 

「動けなくなってた、というか。どこかで諦めきれなかったんだな。谷崎が生きてるってこと。」
「そうなのかい」
「なんだかんだ言っても、そのうち笑って帰ってくると思ってた。死にそうなことやるけど死なないって。」
「…」

谷崎は笑っている。
笑いながら、応神の話を聞いている。

「お前が望んでる言葉じゃねえのかもしれねえけどな。ええとまあ、なんだ、ありがとう。やっと俺も踏ん切りがついた。」
 
死人は喋らないんだ。
話はできない。
伝えることも、伝えられることも、もうできない。
 
「ありがとな翔一。やっと俺も、屍超えて前に歩いて行けそうだわ。」

「そうか」
 
谷崎がぱちりと瞬きをする。
ハシバミ色の瞳が、一瞬、黒々と染まるひとでなきものの目になった気がした。
 
「ぼくも、キミと会えて嬉しかったよ、薙くん」
「はは。最後にそれ言うのかよ──最低だな、お前」
「キミには、祭りを楽しむ資格なんてないからね。せいぜい、ひとりで積んだ死体を眺めて生きていくんだ。」
 

────お前の先祖が、そうだったように!
 

最後に聞こえた声には何も答えず、応神の刃は音もなく、谷崎の喉を貫いた。
 


 

【参道近辺】

上波うえなみは内心冷や汗をかきながら、ゆっくりと金崎かなさきに手を引かれていた。
表情は分からない。なぜなら、全員がお面をかぶっているからだ。よくお祭りで見かける、プラスチックの安い面。

周囲には同様にして、様々なお面を被った人がフラフラと歩いている。この中で自我を保っているのはどうやら上波だけの様だった。
先頭を歩くひょっとこのお面を付けた男が突如立ち止まり、全体に声を掛ける。
 
「みなさーん、それでは次のシーンです!配置についてください!」
 
その声は調子が外れていて、奇妙に響いた。金崎も黙って指示に従っている。上波も、金崎の方をちらちらと気にしつつ配置についた。

──そう、配置だ。彼らは被った面ごとに役割を与えられ、即興劇を行いながら祭り会場をグルグルと歩いている。先頭の男は演出と自称していた。

「はい、ヒロインの立ち位置はそこ!ちょっと、そこの戦闘員!ダメですよ、前に出過ぎ!でも分かる、ヒロイン可愛いからね」

あの時、無理をしてでもアルプスマンのお面を被っていれば。上波は適当な三下のお面の下で唇をかむ。
金崎はヒロインのお面を被ったことで、この劇には主役で参加していた。
 


 
時は少し遡る。

「アルプスマン、握手してくれましたね!」
「後で楽屋を訪ねましょうか。流石にあの状態でお話は出来ませんでしたけど」

二人はイベントスペースで、ご当地ヒーローの舞台を見物した。その演者がどうやら、以前世話になったエージェントだったらしい。結局一幕を全部見てしまった。
小休憩の後、劇はもうしばらく続くらしい。上波は最後まで見たかったのだが、そっと袖を引く金崎に促されて、祭りの方へ戻ることにした。
 
「あ、お面だ」
「アルプスマンのお面だ。可愛い。」
「金崎さん、何か買いましょうよ!」
「そうですね!初めてだな、何にしようかな」

とは言え、今の金崎にはあまり多くの選択肢はなかった。ヒロインのお面を購入する。

「えっと、なんだか照れますね。えい」

頭にお面を載せ、金崎は赤面した。似合うと連呼する上波に、金崎はお面を引き下ろして顔を隠す。

「えっと、じゃあ僕は……。って、あれ、なんだろう。鈴?」

足元に落ちていた鈴を拾い上げる。古く小さい鈴。
金崎に見せようとしたところで、上波は金崎が激しく痙攣していることに気付いた。

更に、彼らの周りを幾人もの人間が取り囲んでいることにも。
 
「いやー、これで配役が揃いました。最後の一人、なかなか決まらなかったんですよ。じゃあ、行きましょうか」

男の呼びかけに、人々は移動を開始してしまう。金崎もその中に加わっていた。上波は慌てて追いすがる。

「待ってください!その人を離して」

ひょっとこお面がこちらを見る。お面に空いた二つの穴からは、その素顔を伺い知ることが出来なかった。上
波の背筋が凍る。

「困りましたね。もう役は全部揃ってるんですよ。どうしてもというなら、戦闘員を一人増やしてもいいですが。」
「わ、分かりました。お面を買います。」
「急いでくださいね!ご参加は歓迎しますよ。」
 


 
大丈夫だ、と上波は自身に言い聞かせる。
このサイトには沢山のエージェントがいる。H.E.R.Oの人も来ている。ただ、この劇を破綻させることだけが怖かった。無事に全てが終われば、すんなり解放されるかもしれない。
 
「じゃあアルプスマンと戦闘員!出番です。ヒロインはアルプスマンに、こう叫んでください。来ちゃダメ、とね。それでね────」
 
楽しそうに演技指導していくひょっとこお面の指示に従い、上波も配置についた。

「あ、パンチと蹴りは本気でやってくださいね!何事もリアリティが大事だから!でもお面に替えがないので、顔だけは狙わないで!」
「え?」
「本番スタート!」
 
合図と同時に、アルプスマンのお面が助走をつけて上波の腹に深々と拳を突き立てた。
身を折って苦悶する上波。ただ、涙だけはこらえる。事態はまだ、始まったばかりだった。
 


 

【公民館】

四宮しのみやはすっかりご機嫌斜めだった。情報を取ってくるとか何とか抜かして持ち場を離れた亦好が帰って来ない。その間、表委員会のまとめ役を不承不承ながらも完璧に行っていた。
職員達は最初こそ不審がっていたものの、ここに至っては全員手足の如く使役されている。

「四宮さん、町内会の方から連絡事項です」
「回せ。俺から返事をする。」
「四宮さん、たこ焼き3パックお持ちしました。」
「紅ショウガは抜いてきたな?よし、ごくろう。」
「四宮さん、サイトとはやはり連絡が付きません。自閉モードと思われます。」
「分かった。ひとまず斥候を送るぞ。桂木かつらぎがいるのと、あと仮眠室に飯沼いいぬまっていうバカがいるから叩き起こしてこい。」
 
仮設のデスクで指示出しと情報の処理を行っているが、全体像がつかめない。探索しようにも手が足りないのが現状。
──そう、問題なのは、祭り全体に異常が起こっていることだった。
 
「四宮さん、もう一軒でました!金魚すくいの屋台です。」
「被害は」
「まだ誰も。今田いまださんがうまく誘導してくれています。」
「よし、刺激するな。くそ、場当たり的なのはこの際しょうがないが。」

その顔は不満げではあったが、悲壮感はかけらもない。
隣室している宴会場でわいわいと騒いでいるのもあるが、それとは別にして。
ここで事態をコントロールしていれば、やがて反攻の手番が回ってくることを四宮は確信していた。
 
軽く舌打ちをしつつも、四宮の目はどこか楽しげな色を帯びていた。
ふと扉の方を上げると、男が立っている。肩に水色の生命体を載せて、首から方位磁針を提げた奇人。
一般人でないことを一目で悟り、四宮は手招きする。
 
「ようこそ、表実行委員会へ。ちょっと手を貸してくれ。」
 
しぃカウンセラーに動じた様子もなかった。地下の秘密通路を抜けてきた真北としぃカウンセラーは、一息ついてそれぞれ居心地のいい所に腰を下ろす。

亦好またよし飯尾めしおが入ってきた。どこから持ってきたのか、弁当箱を両腕で抱えている。
桐製の箱で、包装もしっかり。中々立派なものだ。

「なんだ、弁当箱が歩いてきているのかと思った」
「はっはっはっ!お前、面白いやつだな。俺は飯尾。名を名乗れ!」
「俺は四宮。弁当箱に負けてるくせにでかい態度取るな。」
「お前こそ弁当に負けそうな身長だけどな」

睨みあう四宮と飯尾の間に入り、亦好が両者を宥める。はいはい、とため息まじりに笑いながら、それぞれに弁当箱を渡した。

「…頂こう。で、亦好、お前は今までどこで何してたんだ」
「いやね、それが大変だったんだよ」
 
亦好が、現地で収集した情報を開陳する。

ステージの大工事。
周辺に現れた怪異。
閉鎖されたサイト8135。
 
「現状は大体わかった。んで、弁当の出所は?」
「柳沢っていう収容責任者が、弁当を注文してたんだよ。それで仕出し屋の指定地点に行ったらさ、入れないんで立往生してた。」
「それを俺らでかっぱらって来たってわけ」
「支払いは?」
柳沢ヤナギンに付けといた」
「飯尾とやら、大体お前の性格が分かった」

しぃカウンセラーは迷った末、真北に通訳を頼む。

「その柳沢さんですけど、どうも連れていかれたらしいです。サイト8135も多分その影響ですね。」
「連れていかれた?何に」
「例の少女です」
「そっか。通信が遮断されてっから全然分かんないんだ。くそ、物理的な力はないと踏んでたんだけどな。」

飯尾が悔しそうに言うのを、しぃカウンセラーが訂正する。それを真北が伝えた。

「いえ、それが。どうも違うみたいです。連れて行ったのは少女なんですが、なんていうか、脅威じゃないっていうか。」
 
表委員会に、少女と怪異、二種類の異常存在がもたらされた瞬間だった。
 
それを前提に、飯尾が解析をやり直し始め、ポニーテールを振り乱して叫ぶ。

「そうか、そうだよ!二種類、例外はこれか」
「おっと、意外とみんな気付くもんだな」
 
更に、追加の人員が到着した。黒コートの中にセーラー服を着込んだ少女、という見た目をした何かが、いかにも物騒な荷物を持って入ってくる。
何も断らずに弁当箱を一つ取って開け、歯でぱきりと割り箸を割った。満足のいく綺麗な割り方が出来たようだ。ニヤリと笑って箸を構える。

その後ろから、疲労困憊といった様子で入ってきたのは、民俗学部隊として禁域の調査に赴いていた田村たむらだ。
 
「調査の成果報告があります。…しかし、少し、休ませてください。」

その後ろから今田研究員が入室し、驚いて田村の介抱を始めた。
やや間をおいて、最後に、高橋と応神が到着する。
 
「よーし、じゃあここに表委員会改め、怪異対策本部を設置する!」
 
嬉しそうな亦好の横で、二つ目の弁当に手を伸ばしかけて手がぶつかり、四宮と飯尾が言い合いを始めた。
 


 
「よし、じゃあ方針をまとめようか」

亦好が、ホワイトボードに書きなぐられた文字を消して、上から文字を書きこんでいく。

  • サイト8135から職員を救出
  • 異界から職員を救出
  • 民間人の隔離と保護
  • 怪異の対応手順の構築

田村が手を挙げる。
 
「少女と怪異を分離する対応手順ですが、高橋さんを中心として策を練ります。加えて、サイトに呪術部隊がいた筈です。内部で抵抗を続けていると思う。彼らの手を借りたい。」
「救出には俺が行こう。ついでに、誰かひとり寄越してくれ。」

応神が名乗り出る。亦好がそれを受けた。

桂木そーま、いけるかい?」
「はい」
「いつかの約束が果たされるな」
「…光栄です」
 
続いて、亦好の発言。

「現有プロトコルの改訂をしていこう。となると、柳沢が必要だ。という訳で、真北まきたん、出番だよ。」
「は?なんで!ですか」
「今のところ、少女と明確に言葉を交わした人材で、現場要員は君しかいないんだ。相性いいみたいだしね。潜入の手順は田村さんに聞くこと!」
 
抗弁しかける真北を差し置いて、飯尾が最後の項目へ移る。
 
「幸い、後醍醐姉弟のステージ、あの周辺はマジで被害が少ない。ていう訳で、赤村修理工に突貫で避難所建設を依頼してある。」
「H.E.R.O組を中心として、エージェントを集中的に配備する。特に異常を見せている屋台から一般客を遠ざけて、そちらに誘導していくこと。」
 
腕組みをして聞いていた四宮が結ぶ。
 
「以上、四作戦だ。各進行状況はここに集約する。連絡を絶やさないように。総員、最善を尽くせ」
 
言葉と同時に、黒陶から細工済みの端末が配られた。
受け取ったものから、各々の持ち場へ散っていく中、桂木が四宮の元へやってくる。
 
「飯沼がやはりいません。いいんですか」
「残念だったな桂木。お前にはアレの世話を焼く暇はやらん」

桂木は沈黙する。若干の不審を察し、四宮は言葉を追加した。

「暇がないというだけのことだ。動いたのなら相応に考えているだろう。バカだが愚鈍じゃない。なにかしらの手土産を持って、そのうち戻ってくるだろう。」
「たいそうな信頼ですね」
「何があっても必ず帰ってくるようにと教え込んだし、あいつは元からそういう奴だしな。それより、ほら。」

四宮は小さく部屋の隅を指し示す。応神が待っていた。
 


 

【異界 お祭り会場】

そこは非の打ちどころのないお祭りだった。現実じゃないことは分かっていたけれど。
桜田さくらださんといった女の人。あの人は大丈夫だっただろうか。ふと考える。

屋台の照明がゆっくりとぼやけて見える。なぜだか、自分の体が自分じゃなくなっているような感覚がした。
遠い昔の記憶を思い出しているような。名前を失った子供になって、篝火の脇を駆け抜けていくようなイメージ。
 
そうだ。私にはやらないといけないことがある。
お祭りを楽しむこと。楽しんで、あいつになりきって、それを鎮めるお役目────。

私には、それがもう絶対に叶わない、既に破れてしまった夢の光景だとわかる。
 
「なんか違うこと考えてる?」
「ううん、大丈夫。ごめんね。」

慌てて、私は飯沼くんの方を向いた。我に返る。
飯沼くんが身に纏う、茶色の浴衣。誉めようとして、先を越された。

「浴衣姿、似合ってるよ」
「嬉しい。飯沼くんもだよ。」

言われたいことを言ってくれる人。
つないだ手には、オレンジのリストバンド。私の耳にも、同じ色のアクセサリーがある。

「あのね、飯沼くん。どうしてピアスをくれたの?」
「今なら、まだ間に合うと思ったから」
「そっか」

ずっと怖くて聞けなかったこと。今なら聞ける気がしたこと。
聞いてみたら、思ったよりも簡単なことだった。

ファーストピアス。一か月程度は付け続けないといけないとされるそれ。
飯沼くんがそれをプレゼントしてくれた日がいつだったか、私にはもう思い出せない。
 


 
おかしい、と神舎利みしゃりは思う。
なにかがおかしくなっている。

「叔父さん、こっちだよ」
「あ、ああ…」
「義父さん、なんかおかしいよ。大丈夫?」

足元に目を落とすと、愛らしい姪と甥の姿。
甥のまさるは中学生、姪の美紗姫みさきは小学生ほどの見た目をしていた。

美紗姫の髪色は病により銀糸に染まり、彼女が日に当たることを拒絶していたが、今日は普通に外に出ているし、纏っているのは愛らしい浴衣だ。
叔父さん、次はあっちで遊ぼうと、小さな手が神舎利の腕を引く。少し躊躇いながらも頷いた神舎利は、言われるがままにスーパーボールの屋台へと引かれて行った。
はしゃぐ妹をやれやれという目で見ながら、將が神舎利のあとに続く。
 
なにかがおかしい。
 
「おにーさん、一回お願い」
「あいよ」
「おい、袖が濡れる。気を付けろ。」
「わかってるよ!」

美紗姫がぷぅ、と頬を膨らませるが、すぐにきらきらした目をして金魚を物色し始める。
それを見ながら、將が他の客の邪魔にならないよう少し脇にずれた。
慣れない浴衣に落ち着かない様子の將に、神舎利が声をかける。

「將、お前もなにかやりたいことはないのか」
「あ、私は大丈夫です。義父さんこそ、こうして三人で出かけるのは久々ですし、好きなことして」
「いや…」

おかしい。

「────あっ、破れちゃった」
「残念だったなお嬢ちゃん。一匹くらいならやれるよ、少し待ってな。」
「わーい、ありがとう!」
「すみません」
「いやいや気にすんなって。ほらお嬢ちゃん、兄ちゃんにあんまり心配かけんなよ。」

無邪気に笑う姪、頭を下げた甥。
小さくて、可愛らしくて、大切な、

「かぞく」
 
誰にも聞かれないよう小さく呟いた言葉は、まるで自分のものではないように、頭の中に響いた。

「ありがとうお兄さん!ねー叔父さん、わたし次綿あめ食べたい」
「はいはい」
「…あ、義父さん、よければ私も」
「わかった」

ぐいぐいと腕を引かれて、祭りの奥へ奥へと入っていく。
 
誰に言われるでもなく、ふと遠ざかっていくスーパーボールの屋台を見る。
なんの変哲もないはずなのに、なぜかなにかが足りない気がして、神舎利は胸騒ぎを感じながら、腕を引く家族に従い歩いて行った。
 


 

【公民館 三階 呪術部隊会議室】

「さあて、どうしたものか」

公民館の中にある、畳張りの一室。
普段は町内会の人々が酒盛りをしているのであろう、背の低い座敷机を囲って。十名前後の財団職員が、めいめいに意見を交わしていた。
 
納涼祭、裏実行委員会。その中でも呪術・宗教的な作戦計画を立案するために財団の各所からかき集められた彼らは、櫓の造営や祝詞の作成といった祭祀の考証を担当している。
しかし。祭り当日になって委員会本部から彼らに通達された臨時の「任務」は、今までの仕事とは一線を画すものであった。

「あの女の子と怪異が別物、か。そうなると、何とかして怪異の方だけを叩かにゃならん、ということになろうよ」
「元々考えてた作戦だと、単にあれを祓う手順だけを作れば良かったのですがね。祓うべきでないものが怪異に取り込まれているということであれば、祓う前に──いわゆる除霊のような手順が必要になるでしょう。」

白い着物の少女は、怪異の本体ではないことが判明した。
そのため、怪異だけを鎮めるための、少女と怪異の分離作戦を構築せよ。

ふうむ、と老齢の男が呟く。彼は財団内で、民俗学研究を専門にしている職員として知られていた。

「儂は最初、あの子はヒトツモノの類型だと思うとったんだが──読みが外れたか」
「ああ、諏訪大社の伝承ですね」
「そうとも。白色の装束を身に着けて、祭りを楽しむと云われた、神の遣いの子供。実際、長野の南のほうでは、縁日になると白い着物を着た少女が何処からともなく現れて、吉兆だなんだという伝承が残っとるからな──だが、早計だった。委員会が出来た頃、白い着物の少女と言われたときに巫女装束を連想できなかったのは、我ながら恥ずかしい。」

その老人は、髯の多い口元を自嘲気味に歪める。

「神の遣いであったら、祝詞を唱えて異界に帰ってもらえばそれで良いと高をくくっていたのだがな。財団が出張る民俗伝承となれば、そう簡単にはいかんか。となると、ここからはお前さんの領分かな。」

そう言って、彼は自分の右側に座っていた二十歳前後の男性のほうを向いた。

「あなたにそう言ってもらえるとは、恐縮ですね」
「なあに。ここまで事態が大きくなっていれば、学派も何も関係ないさ。」

ここに集まっている人々の中では若い部類に入るその男は、心霊論スピリチュアリズムの研究者であった。

「では、私見を述べさせて頂くと……今までの、謂わば祓うだけの対処ではない作戦手順。通達されたように、霊の分離、或いは濾過のような作業が必要になるかもしれません。」
「濾過、か。まあ確かに、除霊みたいに人間から霊を弾き出すのとは訳が違うんだよねえ。御霊の中から、別の怪異を取り出さなきゃいけないんだから。」
「その通りです。ですので私がいつもやっているような、祝詞を奏上して一緒くたに祓う方法を行うだけでは解決できません。どうにかして少女の御霊の──存在の確度、というのでしょうか。それを上昇させて、一時的に少女だけを保護した上で、怪異を鎮める必要があります。」

あ、それなら。
机の端に居た女性が手を挙げる。

「古神道的には、禊と修祓を行えば少なくとも一時的には怪異の付け入る隙を無くせる筈です。
千座チクラの祓か大祓詞か、取り敢えず何処か一点に清められた場所を作って、其処に呼び出せば、少なくとも怪異は来れなくなって女の子だけが来てくれると思います。」

そこで、日本古宗教を専門とする研究員が口を挟んだ。
「大祓詞って、要は祝詞じゃないか。さっきも言った通り、無闇に祝詞奏上をするとその子の御霊までが祓われてしまうだろう。あくまでもあれらは別々に鎮めないと」

「その通りです。だから、さっき話に上がってたじゃないですか。存在の確度を高めるんですよ。」

ねえ、心霊学者さん。その女性は、そう言って軽く笑った。
軽く咳払いをして、その男性は答える。

「ええ。これだけ人文学者が集まっている会議で、私のような者が話すのは恐縮なのですが──ここは財団です。収容に必要とあらば、何であろうと使いましょう。」

彼の話は続く。
横にいる老齢の民俗学者は、面白そうに口元を歪めて話を聞いていた。

「先程提言して下さった案を使わせて頂きます。禊と修祓を行って、あれを誘き寄せることにしましょう。祝詞奏上の担当は……まあ、現場に任せましょうか。それで、肝心の、分離方法なのですが」

実体化装置。
これを使います。

「少女の御霊を、一時的に現実世界に肉付けしましょう。実体がありさえすれば、彼女の保護も可能ですから。」

霊の実体化。
現実感を欠いたその言葉に、驚きの表情を見せる者はいなかった。

老人は笑みを崩さないまま、青年に語り掛ける。

「──成程。財団だから出来る芸当だなあ。だが、そうなると別の問題が出てくるんじゃねえのか。」

あの子は、元々は巫女なんだ。それも、相当に腕っぷしの強い巫女さんよお。
何十年も何百年も、あの怪異を抑えつけていられるぐらいな。

そんな子から怪異を引っぺがすってのは。
あれが、ほんとうに自由になるってことよ。

青年は、当初の作戦立案時に老人から読まされた、この地の民俗誌を思い返していた。
あれを怒らせた後には。
空は荒ぶり、蠱物まじものが人々を惑わせ。
嘗ての村民は恐怖に慄いたという。

青年は、其処にいる職員らに向けて、言葉を継ぐ。
「ええ、その通りです」

今この部屋にいる、全ての職員は。
これまでの怪異の襲撃を遣り過ごし、凌いでいた。

「恐らくですが、これからが──」

「これからが、本番だよ」

青年の言葉に重ねるようにして、声が響いて。
がらがらと、部屋の扉が開いた。

黒色の草臥れたロングコートと、それよりもずっと黒い、豊かな黒髪。
嘗ては念術部隊に属していた、蒐集院の元研儀官──エージェント・黒陶が、扉の向こうに立っていた。

「どうやら、作戦の骨子も決まったみたいだね──急だとは思うけど、すぐに動いてもらうよ」

そう言って、彼女は天井を指す。

「君たちの予想通りだよ。どうやら、この祭りにも暗雲が立ち込めてきているらしい。文字通りのね」

その後ろから、何やら財団装備の分厚いカタログを抱えた今田が顔を出す。

「大丈夫です、打つ手はあります」
 


 

【異界 禁域 旧"鈴鳴神社"】

柳沢は慎重に駒を進めていく。
何度も夢見た盤面が目の前にある。もう少しで勝てるかもしれない。

「なあ、柳沢。俺たち、知り合って何年になるか。」
「引き延ばし工作には乗らんぞ」
「そんなんじゃねえよ」

盤から顔を上げると、高橋は髭を撫でながら空を眺めていた。その方向に、やがて花火が上がるだろう。

「そうだな、ざっと30年、いや40年か」
「柳沢、お前は面倒な奴だったよ。こっちは関わり合いになりたくないって言ってんのに。勝手に上がり込んでくるし、頼んでもないことをしてくるし。将棋を教えてくれなんて居座るし。」
「言うな。若かったよ。」

高橋は、先代神主は、柳沢に頭を下げた。

「投了か」
「違う。今まで済まなかった。あれのこと、お前にもっと早く頼んでおくのだった。」
「惟臣のことか」
「それもある。あいつには何も教えないまま、結局巻き込んでしまった。」
「待て、違う。それは私が勝手にやったことだ。」

口に出して、柳沢は混乱する。惟臣。高橋の孫の名前だ。
だが、彼は東京に暮らしていて、もう何年もこちらには来ていない筈だった。

「王将一枚では勝てない。駒にはそれぞれの役割があって、それをどれだけ生かせるかが勝負を決める。そう、お前には偉そうに教えたのにな。」

高橋が姿勢を正す。駒台に手を伸ばしかけて、
 

「────何をやってるんだ、あんたは」
 

声と共に、いつの間にか傍に立ってた男が、脚付きの盤を蹴り飛ばした。
 
「な、なにを」
「なにを、じゃないんだよ」

高橋の姿はどこにもなかった。たった今指していた筈の将棋盤も、駒台も、消え失せている。
代わりにやってきた男は、首から下げた方位磁針をちらりと見た。

「ふーん、東西が逆になっていないのか。ちょっとわかったぞ。」
 


 
真北まきたは、呆けていた柳沢──よく知らないが偉い人らしい──の腕をつかむと、無理やり立ち上がらせる。そのまま、神社の敷地を出た。
山を下るかは判断の難しいところ。

「えっと、柳沢さんでいいですかね。花火打ち上げる場所、どっちですか。」
「一つとなりの高地だ。行くのなら会場を横切ることになる。それで、なんだ君は。」
「面倒なので一回で失礼。僕は真北。助けに来ました。あなたが必要です。ここは例の少女が作ったと思しき異界で、脱出方法は不明。」

まあ見当は付けてるけど。真北は歩き始める。いつぞやとは違って、それなりに精確な世界構築だな、と独り言ちつつ。
早足で林を抜けていく真北を、柳沢が慌てて追った。

「この世界は結局、幻想です。あなたが醒めようと思えばいい。ところで、さっきの方は友人ですか?」
「あ、ああ。古い友人だ」
「故人ですか」
「そうだ。そうだな」
「ではまず、そこからでしょうね。一つだけ言うなら、原点を大事にすることです。」

真北は、祭りの会場が見渡せる場所に出る。夕方に、田村が待機していた場所だった。

「降ります。あまり時間がありません。」

手当たり次第に声を掛けていきましょう。
歩き出そうとする真北だったが、柳沢に引き留められる。
 
「降りるなら…こっちだが」
 
真北は初めて、少しだけバツの悪い思いをした。
 


 
基本的に、この世界に足を踏み入れるようなものは、理想と現実の差異に心を弱らせているようだ、と真北は分析する。それを誘発する為に少女は各々を揺さぶる存在に擬態していたのだろう。一時でもいいからと、夢を見ることを選んだ人々。ならば、自分の役割はほんの少し、冷や水を浴びせることだ。

手早く柳沢に状況を伝えると、真北はすれ違う人に積極的に話しかけていく。大半は作り出された幻覚の人間であり、真北が話しかけるとほどなく消えていった。
そうでない場合は、少しだけ立ち話をして、また次に向かう。

「いずれ気がつく人は気がつく。それを早めるのは嫌な役割だな。──あそこの女の人、行きましょう。すみません。」

浴衣姿の男女だった。茶色い浴衣の男は、多分本物の人間ではない。紫に花柄の浴衣の女性は、耳の上に髪飾りを付けている。オレンジのピアスが見えていた。

「オレンジ、浴衣にあってませんね」

自分でも、どうしてこの言葉が出たのかは分からない。
強いて言えば、オレンジという色は、茶色にも紫にもあっていなかった。

「えっと、どちら様でしょうか」
「名乗るほどのものじゃありません。ただ、ちょっと気になっただけで。」

やはり幻覚ではないようだと判断する。

「…失礼しました。どうぞそのまま。ただ、お気をつけて。」

背後で柳沢が女性に詫びを入れているのを聞きながら、真北は先を急いだ。
 


 
「連れが失礼を。ご婦人になんということを」

頭を下げる柳沢に、女性は慌てて手を振って言う。

「いえ、あなたが悪いわけでは」

そこで柳沢は驚いた。まだ男性が立っている。女性を気遣うようなそぶりを見せていた。

「私は平気、あなたがくれたものだから」

言葉とは裏腹に、女性は男性から一歩距離を取った。

「楽しくなかったとしても、私は本当の飯沼くんに会いに行きたい。」

男性の姿が崩れ、小さな少女の姿に変わる。
自分が見た時とは異なって、頬には赤みが差し、目には涙が光っていた。
 
「どうして。いっちゃうの?楽しくしてるのに、楽しくしないといけないのに。」
 
女性は膝を折り、少女をそっと抱き寄せる。
 
「そうだね。ありがとう、楽しかったよ。さっき見せてもらったのも、綺麗な夢だった。でもね、それは現実に出来るんじゃないかって、私はそう思うな。」
 
瞬きの間に、女性は消えている。後には泣いている少女が残されていた。

柳沢は少しの間躊躇った。自分のしていたこと。少女の収容という方針は、どうやら間違っていたのだ。
今更何が出来るかは分からない。だが、先ほど真北という男は自分が必要だといった。詫びの気持ちを込めて、柳沢は少女の頭に手を乗せる。

「私も、行かねばならない。あいつに会わせてくれて、ありがとう。」
 


 
真北が振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。

「さて、大体任務は終わったかな。あとは自分の脱出を考えないといけない。」

真北は少し考える。考えて、結局花火の打ち上げ台を改めて目指すことにした。

「まあ、大丈夫。話を聞くのは、今回僕の役目じゃない」
 


 

【イベントスペース近辺】

「お祭り、楽しい?」

その声に、背筋に冷たいものが滑り落ちていくのを感じた。
 
聞こえてはいけない声だった。同時に、ずっとずっと聞きたかった声だった。
ねえ、と継がれた声が、ぞわぞわと背を這い回る。

「楽しい、よ」
「ほんと?」
「ほんと…う」

声が震えてはいなかっただろうか。
なんとか肯定した声は、まるで自分の言葉でないように聞こえた。

「なんで?」
「なんで、って」
「妾見たとき、楽しくない、って顔したよ?」
「それは」

冠城は言葉を詰まらせる。

こちらを見つめる少女の顔が、語りかけてくる少女の声が、自分の妹にとてもよくにていた。
 
「ねえ、楽しいの」
「あ」
「楽しくないんだ」
「、ああ、」
「楽しくないんだね」
 
先ほどまでとは全く違う種類の悪寒が、冠城の首筋を粟立たせる。
ゆっくりと顔を上げると、くろぐろとした少女の瞳と目が合った。
 
「それは、だめ」
 
真っ暗な瞳に吸い込まれ呑まれかけるのを、ひどく耳障りな脳の警鐘が阻害する。
ゆっくりと伸ばされ、手首に触れられた手を振り払おうとしたとき、ぐにゃりと目の前の少女が歪んだ。

冠城が小さく、悲鳴のような声を上げる。
もう少し口をあげたら、血を吐くような絶叫がこぼれてしまいそうだった。

やわらかな手が、自分の手首をなぞる。
触れたかった。触れられなかった。
 
あのとき、妹の頭をなぞったのが、冷たい鉛の弾ではなく、己のあたたかい手だったらどれほど良かっただろうか。
両親を失った悲しみに暮れていたあの愛らしい妹に、拳銃の音ではなく、なぐさめの言葉をかけてやれたらどれほど良かっただろうか。
 
「どけ」
 
冠城が少女を、否、妹の方を向く。

「あの子は死んだんだ」
 
私が殺した。
 
はっきりと口に出す。
まっすぐ前を向く。
まっすぐに、妹の方へと、向き合う。

白衣の中に隠した拳銃を抜いたとき、ひとつ先に、自分のものではない銃声が鳴った。
 
三発。
弾丸は綺麗に妹の頭部を貫く。
 
妹は自分のほうに力なく崩れこみ、やがて音もなく崩れた。
 
微かに聞こえたうめき声は、自分が発したものだろうか。
ざくりと土を踏む音に顔を上げると、見慣れない顔が笑顔で立っている。
その手には、微かに煙を立てる射的の銃が収まっていた。

「ええと、多分それあんまりよくないものだろうから、撃ったんですけど…大丈夫でしたか?」

ギリギリと首を横に向けると、射的屋の主人が唖然とした顔でこちらを見ている。

「八岩さんに、様子見てくるようにって言われたんですが…いいタイミング、だったのかな?」

エージェント・飯沼といいます。
はじめまして、冠城検死官殿。

青年はにっこりと笑うと、立ち上がれない冠城に向かって手を差し出してきた。
 


 

【公民館 表委員会 一階 宴会場】

柳沢が気づくと、そこは見慣れた公民館だった。正確には、その外に延長して設けられた宴会場。
皆出払っているようだ。料理や飲み物を片付けた後が残されていた。
 
『柳沢さん、おかえりなさい!お待ちしていました。』
 
目の前に、小さな水色の生物が待っていた。ちょこんと机に座っている。

「君は、あの時の」
『ごぶじをお喜びします。実はいろいろとあって、みんなおしごと中ですけれど。』

しぃカウンセラーの声は深く静かに響く。
漂うミントの香りに、緊張していた心の険が取れていくような心持ちだった。

「真北君から少し聞いたよ。しかし、私は責任者失格だな。ここにきて、まだ迷いがある。やるべきことに確信が持てないんだ。」
『そうですか……。でも、みんな、あきらめていません。それは、柳沢さんの準備があったからでもあるんです』

しぃカウンセラーは勢いをつけて立ち上がった。目線をなるべく同じ高さに。

『柳沢さん、おひるはお役に立てませんでしたが、私の本業をごぞんじですか?』

その小さな体をぴんと伸ばし、小さな胸を張って名乗りを上げる。
 
『私はカウンセラー。財団職員の、しぃカウンセラーです。みなさんのお話を聞いて、少しでもお力になることで世界をまもる。それが私のしごとです。迷いがあるなら、お手伝いします。あなたのお話、聞かせてください』
 
そうだ、これ自体が答えなのだろう。
今この瞬間、多くの職員が働いている。怪異と対峙し、人々を守っている。それぞれのやり方で、それぞれの能力を生かして。

「そうか。そうだな。」

軽く目を閉じ、小さく口元に笑顔を作ると、柳沢はゆっくりと話し始めた。

「聞いてくれるかな、しぃカウンセラー。私と彼奴の、先代の神主との話を」
 


 
高橋と最初に出会ったのは、柳沢が新人財団職員としてサイトに配属されたころだった。納涼祭の原型は、およそ六百年前に始まっている。その中心的な役割を、代々と、それでいて細々と続けてきた末裔が、高橋邦臣。先代の神主だった。

何らかの怪異を想定した対応手順であろうことは、最初から分かっていた。蒐集院の関与を示唆する資料も、その長い歴史の中には散見される。それでも、この小さな神社に住まう神主とその一族は独立して、黙然と勤めを果たしてきたのだった。

当時、財団はこの祭りに何とか関りを持とうと躍起になっていた。蒐集院からの体制移行がようやく完了した頃。古くて若い組織の地固めが終わり、柳沢の先輩職員達も張り切っていたものだ。

それが、ある日を境にピタリと止まった。応神家の方面から出た話であるとか、蒐集院出身の有力なエージェントの差し金であるとか、日本支部理事会からの介入があったとか、噂は尽きなかった。ただ、実際問題として、末端職員である柳沢達が主として納涼祭に関わることはなくなった。

当然、腹立たしかった。関連業務がなくなるわけでは無く、祭りの準備や当日の裏方、片付けには、当然のように職員が動員されたからだ。サイト8135の一部では、柳沢の部署はお祭り部隊などと揶揄されていた。

そして、初年度の秋。初めて参加した納涼祭が始まる時を迎える。全ての灯が落とされた参道を、神社の方から高橋が歩いてくるのを見た。石段を一段一段降り、暗闇の中を歩いてくる。鈴の音と共に彼が通り過ぎたところから順に、篝火が焚かれる。光の先頭を歩き、闇との境界を描いて見せる高橋の姿を忘れることはないだろう。その日から、柳沢にとって、世界を守る象徴はその凛々しい横顔になったのだ。
 


 
柳沢は、神社に通い続けることにした。用もないのに、門を叩く。当然、高橋の反応は冷たく厳しかった。何の用だと問われて、まさか顔を見に来たとは言えない。かといって、財団の用だ等と言える訳もない。

困り果てていた柳沢に救いの手を差し伸べたのは、後に高橋の最愛の妻となる女性だった。名をセツというこの人は、柳沢が来るのを高橋に密告する代わりに、柳沢にこっそりと一冊の和本を貸してくれた。そこには将棋のルールと、短い詰将棋がまとまっていた。

最初、口実として覚えたその盤上遊戯に、柳沢はすっかり夢中になった。次の本を借りる目的が、高橋に会いたいという想いと釣合い始めた頃。柳沢がいつも通されていた部屋に、将棋盤とお茶が置かれているようになっていた。

本を読んでいるだけの相手に、高橋は駒を落としてまで向き合った。それほどまでに、友人という存在に飢えていたのだと知ったのは間もなくのこと。セツは、追って逃げるのなら好物を撒いて距離を取るのが肝要と笑っていた。私もそうやってお近づきになったのだと。
 


 
そうして、高橋との付き合いは続いた。お互いに立場が変わり、より重要な役職に登っても、関係は変わらなかった。祭りの運営について、少しずつ実務的な協力体制が築かれていったのも、この二人の関係を元にしてのものだった。

それでも、高橋は、彼の行う祭りの根幹部分については決して明かそうとしなかった。祭りの開始を告げた後、禁域にこもって出てこない。その間に何度訪ねても、これについてはセツも何一つ手助けをしてくれなかった。

そのセツが四十半ばで他界した後、高橋の態度は硬化した。財団との折衝でも気粗さを前面に出し、親族も遠ざけた。それでも、盤面を挟んでの会話だけは持たれ続けた。

柳沢は、時に高橋に詰め寄った。しかし、あの日に見た高橋の横顔が、どうしても目に浮かぶ。現在、彼が祭りを行う時の横顔は、あの日の記憶のそれから険が増し、代わりに生気が失せているのを、柳沢はよく知っていた。その胸中を、焦りと苦難が満たしているのも、分かっていた。怪異の活動する間隔が、年々短くなっていくことも、その様子から把握していた。どこかで片を付けようと、高橋が動くことも。

後継者を作らない怒り、自分にも財団にも協力を仰がない怒り。一方で、そんな彼を受け入れてしまっている自分がいた。この納涼祭を通じて彼が死んだというなら、自分もまた、そうやって死にたかったのかもしれない。
 


 
『柳沢さん、今のあなたは、どうしたいですか?』
「どうしたい、か。そうだな、もう一度やり直したい。惟臣に、いや、高橋に詫びたい。」

しぃカウンセラーはにっこりと笑った。柳沢の手から飛び降りると、天幕の外へ出ていく。
そして、高橋の肩に乗って戻ってきた。

「柳沢さん、大丈夫ですか」
「ああ。高橋、すまなかった。君には辛く当たってしまった。自分一人で何もかもをやっている気になっていた。」

高橋はゆっくりと首を振る。

「僕には力が無くて。足手まといで。僕も、先代を意識するばかりで大切なものを忘れていました。」
「聞いたよ。今、君が対策の中心に居るそうじゃないか。」
「応神さんのお陰です。教えられました。僕たちは、一人じゃないんだって。」

天幕が降ろされる。その場に並んでいる様々な職員たち。
作戦準備を終え、実行の指示を待っている。飯尾が進み出て来て言う。
 
「柳沢さん、指揮権をお返しします。準備は抜かりなく」
 
しぃカウンセラーが小さな胸を張る。
応神がキザに手を挙げる。
四宮が小難しい顔をしている。

 
「ありがとうみんな。では、始めようじゃないか。我々の祭りを。」
 
静かな決意を声に宿し、柳沢は分離作戦を発令した。
 


 

【禁域近辺】

何度、"公演"があっただろう。ゲリラ的に、場所を変えて行われるそれは少しずつストーリーを展開させていった。
基本的には単純な筋書きだ。攫われたヒロインを助ける為にアルプスマンが怪人と戦い、すんでの所で逃してしまう。

殺陣があるのも毎回という訳ではなく、やられると思った時にはうまく受け身を取ればよかった。幸い、金崎が傷付けられるようなストーリーでもない。
問題は、場所がだんだんと山の方へ移っていくことだった。物語は佳境に差し掛かっている。

上波は期待していた救援がないことに不安を覚えている。財団謹製の端末で救援要請を出しているが、応答がない。金崎を守れるのは自分だけだと気合を入れ直していた時、次の"公演"が始まった。

ひょっとこ男が、金崎を手招きする。次に、怪人役。

「ではいよいよ、クライマックス!ヒロインとこのアルプスの大自然を天秤にかけます!自然こそがアルプスマンの力の源!ヒロインを救いただの人間になるか、或いは、ヒロインを犠牲にして自然の守護者としてこの先を生きるか!では始め!」

開始の直後だった。アルプスマン役の男は逡巡する素振りもなく拳を固めた。金崎の元に走る。抵抗する素振りはない。

間一髪で、上波は金崎の盾となる。振り下ろし気味の右が、ブロックに掲げた左腕を軋ませた。衝撃で腰が砕け、金崎を巻き込むように倒れてしまう。金崎のお面が外れて転がった。

ひょっとこの男が怒号を上げる。

「ちょっとちょっと、雑魚が入ってきてんじゃないよ!ヒロインを犠牲にしてまで、みんなの為に戦おうっていうアルプスマンの決意を無駄にする気かい?」

上波は腕の状態を確認する。紫に腫れあがっていた。ただの人間ではない。

「ここまで積み上げてきた名シーンをよくも邪魔したな!もういいよ、クビだよクビ。」

アルプスマンのお面がゆっくりと腕を振り上げる。
必殺技の構えだ、と動かない頭で上波は考える。
 
「でも、君だけは守る。守って見せるからね、瑞希みずきさん。」
 
覆いかぶさるように抱きしめる。力を貰えるように。
すると、金崎はゆっくりと目を開いた。朦朧とした様子だったが、小さく答える。
 
「今、名前、呼んでくれたね。明日あす君、私だって、君を守りたい。」
 
上波は強く願った。
ここで終わりたくない。まだ、この人と生きていたい。
 
鈴が鳴り始める。
 
上波のポケットからだ。淡く光るそれを、苦労して動く方の手で引っ張り出す。
アルプスマンの紛い物が目を覆って苦しんでいる。近付いて、お面をはぎ取ると、あっけなくそれは無力化された。

上波の後から、ひょっとこの男が突っ込んでくる。金崎が足を伸ばして引っ掛け、転ばせた。
悲鳴を上げて逃げようとするお面の集団に、立ちふさがるものが二名いる。
 
「ちょっとただでは済ましたくねぇ、っていう気分ですね、先輩」
「奇遇だな、俺もだ」
 
H.E.R.O、ここにあり。

上波は、ようやく一粒涙をこぼす。物陰からその様子を見ていた少女が、ふっと姿を消した。
 


 

【特設ステージ近辺】

実体化装置の準備完了を確認し、応神は神主のほうを向き直る。

「それじゃあ、これからは──」
 
高橋。お前の仕事だ。
 
「今から、あの子を迎え入れる。一時的にこの場の邪気を祓って、あれを誘い込むんだ。ちゃんと儀式の場が清められていれば、怪異は来れずにあの子のみたまだけが此処に来る筈だ──それを一時的に実体化して、こちら側に引き入れる」

修祓。
儀式を行う場所や人々の罪、穢れを清める、解除ミソギハラエの儀式である。
応神が高橋にそれを行わせる理由は、高橋も何となく理解していた。

怪異に取り込まれたままの少女を、暗い禁域の中に何百年も閉じ込めてきた。

その罪を、今、ここで。
 


 
祭り会場の一角に、即席の祭場が作られた。
微かに、祭壇に作り替えられたステージで歌う後醍醐勾の声が聞こえてくる。
浄衣に身を包んだ高橋は、閑かに声を発し始めた。
 
「──高天原に神留まり坐す、皇親神漏岐神漏美の命以て」
 
屋外で声を出しているのにも関わらず、不思議なほどに声が響いた。
 
「八百万神等を神集えに集え給い、神議りに議り給いて」
 
それは、大祓詞と呼ばれる祝詞である。
神々に自らの罪を告げ、その穢れを祓うための言葉。
 
「我皇御孫命は、豊葦原瑞穂国を安国と平けく知食せと、事依さし奉りき」
 
神道では、全ての死者は神になると伝えられる。
僕たちが罪を告げる、神は。
 
「──天津神は天の磐戸を押披きて、天の八重雲を伊頭の千別に千別て、聞食さん」
 
田村さんに聞いたよ。
あの禁域の、狭くて暗い祠の中で、ずっと過ごしていたんだろう。
 
「──此く聞食してば、罪と言う罪は有らじと、科戸の風の、天の八重雲を吹き放つ事の如く」
 
ずっと、知らなかったんだ。
僕もずっと、知ろうとしなかった。
逃げるみたいに東京に出て、自分の家のことからいつまでも目を逸らして。
 
「──遺る罪は在らじと祓え給い清め給う事を」
 
こんな風になってから、漸く気付いたんだ。
寂しかったよな。ずっと。
 
「高山の末、低山の末より、佐久那太理に落ち多岐つ」
 
それなのに、今こうして、お願いです過去を清算してくださいって喚いてるんだから。
みっともないと、自分でも思う。
 
「早川の瀬に坐す、瀬織津比売と言ふ神、大海原に持出でなん」

先代みたいに、ひとりで何かに立ち向かうことも出来なかった。
君から見たら、僕は随分とみっともなくて、頼りないんだろう。
 
「──此く息吹放ちてば、根国底国に坐す、速佐須良比売と言う神」
 
でも。
すこしだけでも、君の頼りになるようなことを、させてくれないかな。
 
「持ち佐須良比失ひてむ。此く佐須良比失ひてば──」
 
かすかに、自分の声が震えている事に気付く。
やっぱり、僕は神主失格だな。

僕は。
固く目を瞑り、一息で、最後の祝詞を奏上した。
 
「罪と言ふ罪は在らじと、祓へ給ひ清め給ふ事を、天津神国津神八百万の神等、共に聞食せと白す」
 
しん、と。
辺りは静寂に包まれる。
 
僕は、目を開くことも出来ず、ただ俯いていた。
周りにいる職員の人たちも、口を噤んでいる。

水を打ったような、その無音の中で。
諦観のような、脱力感のような、そんな思いが、自分の心にどろどろと渦巻いていた。

はあ、と深い溜息をついて、目を開く。
 
目の前に。
鼻緒の赤い草履と、足袋が見えた。
 
言葉を失い、顔を見上げる。
長い黒髪を腰まで伸ばした、白い着物の少女が、僕を見下ろしていた。

驚愕の顔を浮かべて息を呑む、周囲の職員たちの視線の中で。
淡いももいろの唇が動く。
 
「たのしくなさそうなかお」
 
ちいさな巫女はとてもきれいな声で、そう呟いた。
 


 

【祭り会場 南西】

出店やステージ公演が盛大に開かれるという祭りを目当てに鈴鳴神社を訪れた、その青年は。
もうすっかり暗くなっている、祭り会場の隅に──見慣れない、屋台を見つけた。

「あれ、あんなところに屋台なんてあったっけ」
彼は夕刻から、その祭りに赴いていた。そのため屋台を含め、大抵の出し物には一通り目を通していた筈だったのだが。ひとが二、三人ほど前に立てば見えなくなってしまうような、その小さな屋台は、全く自分の記憶になかった。

今までは誰かが前に立って屋台を見ていたから、気付かなかったのだろうか。いや、だとしても屋台そのものの存在には気付くだろうし。
そもそもあの屋台には、人が見に来ている気配などはどこにも無かった。

青年は、周囲を見回す。がやがやとした、祭りの喧騒。
少し袖の短い浴衣を着て、ぶどう飴をなめている少女も、違う色のシロップが掛かったかき氷を互いに交換しているカップルも。其処にいる誰もが、この屋台には目もくれずに歩いていた。

他の屋台からは少し離れた場所にある、ちいさな屋台に──気付いていないというよりは、認識の外にあるような、そんな風に感じた。
だからこそ、なのだろうか。
何となく興味を惹かれて、彼はその屋台の前に立った。

それは、覗きからくりと言われる出し物であった。箱状になった台に丸い孔が開いており、そこから片目を覗くと、レンズ越しに見えるとりどりの絵が移り変わる。
屋台の中は暗く、向こうにいるのであろう屋台の店主の姿は見えない。しかし。
声は聞こえた。

「さあさ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。御代は決して頂きません、少しの時間を戴きまする」
胴間声というほどでもないが、妙に通る男の声である。
声質は少しばかり高く、何となく若い男だろうと思った。

「ええ、聞くも涙、語るも涙。今日の外題は皆様ご存じの大悲劇。罪無き娘が涙ながらに罷るに及ぶ、悲しや悲しの物語にございます」

その口上を聞きながら、少し思案する。
金をとらないなら、ちょっと見てみても良いか。暇つぶしにはなるだろう。
僕は。
左目を閉じて、孔の中を覗いた。

その、箱の中で。
生気の無い、誰かと、目が合った。
 


 

【会場北方 上空】

少女の実体化と時を同じくして。
怪異と呼ばれるものは、自らを縛っていた枷が大きく損なわれているのに気づいた。
歓喜の念と共に、黒雲に紫電を走らせる。仮初の器であるが、力を蓄えて猛威を振るわんとしていた。
 
掌握していた会場内のいくつかの点に、力を送り込む。
屋台を異界化していく。
 
いよいよ舞台が整いつつある。それからは己の時間だ。人に憑りついたり、異界に敵を閉じ込めたり、そのような小さな異常を捨て、物理的な手段で抵抗する人間共を根絶やしにする。
大気の状態を不安定化すると、強い風が吹き始める。

と、地上で何かが爆発した。風切り音がして、何かが打ちあがってくる。炸裂し、小さな粒を四方八方に撒き散らしたかと思うと、なんということだろうか。それらは周囲の天候変化を抑え込み始めた。

怪異は驚愕の念を抱く。人間風情が。怒りと共に、それは嵐に注ぐエネルギーを強めた。
 


 
「たーまやー、なんてな。しかし、よくこんな装備を知っていたな。」
「装備開発課の人間なので。気象操作に向けた予備研究の要請があったな、と印象に残っていました。」

三尺玉に偽装された打ち上げ式気象制御弾を装填し、今田は少し黒くなった頬を拭う。
 
「分かり易く強大な脅威には、それなりの対抗手段を持つのが我々ですから」
 
毅然として言い放った今田に、黒陶は少しぽかんとした顔をしたあと、やがて天を仰いで大笑いを始めた。
 
「蒐集院とはずいぶん違うが、お前たちは本当に面白いな」
「…というのは強がりです。原始的な仕組みだし、玉数も少ない。それでも、出来る限りのことをしたいと思います。」

打ち上げ台近くに座って今田の作業を眺めていた黒陶だったが、周囲から、怪異の制御下にある人々が近付いてくるのを感じた様子だった。「お客さんだ」言いつつ服についた燃えカスを払う。髪の匂いを嗅いで、盛大に顔をしかめた。
元から硝煙の香りがするだろうに、と今田は思う。
 
「ちぇっ、デカい癖に細かい対応してくるな」
 
脇に置いていた相棒を引っ掴み、黒陶は今田の方を振り向く。
 
「ま、気楽にやろう。護衛は任せろ、今田博士。」
「僕は修士です。どうぞよろしくお願いします。」
 
しまらんな、とぼやいた黒陶に苦笑を向けてから。今田はマッチを擦り、灯った小さな火を発射台に投げ入れた。

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