広域怪異収容事例 Case1:納涼祭 第四幕
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【サイト8135】

「あの神主に、なにを言ったのですか」

サイト側。
長刀「風切カザキリ」を携え、油断なく辺りを見渡している応神いらがみに、桂木かつらぎがふと声をかけた。

「…それ、今聞くことか?」
「のんびり話している時間がないのは知っています。…ただ、少し興味が湧いただけです。帰ってきた神主の姿は、一時間前とは明らかに異なっていましたから。」
「そうか」
「憑きものが、落ちたような。そんな印象を受けました。」

静かに視線を落とした桂木に、そういえばこいつは昔ここで働いていたのだったか、と応神は前に聞いた話を思い出す。
「軽く背中を押してやっただけだ」構えていた刀の切っ先を少しだけ下ろして、応神は言った。

「確実に力はあるはずだが、その使い方もわかっていなかったし、その自身のなさから、自分の中の力に向き合おうともしていなかった。」
「…」
「だから、背中を押した。──とは言っても、二人で甘いモン食って、あとは蒐集院に伝わる呪術をちっとばかり、な。」
 

甘いものというのは、人間の口の滑りを良くする。
カロリーメイトに次いで、応神が差し出した蕎麦クッキーを食べながら、高橋たかはしはぽつりぽつりと、自分の経緯を語った。
 
地元が好ましく思えず、東京に飛び出し生活していたが、祖父の死によって呼び返され、押し付けられるように神主を始めたこと。
結局、祖父の遺体は最後まで見せてもらえなかったこと。
柳沢との出会い。ずっと軽んじられていたことへの諦め。
今年の祭りが終わったら、好きにしていい。もう神主などしなくていい。そう言われたこと。
 
十枚程度のクッキーをさく、さく、とかじりながら、高橋は自分の今まで辿ってきた道と、その思いを話す。
話は時々二転三転し、飛び、飛んだ話題に言葉を継ぎ足し、お世辞にも整った話し方とは言えなかったが、時々挟まれる応神の相槌を受けながら、高橋は自分の思考が整理され、視界が静かに開けていく感覚をおぼえた。

そんな高橋を見ていた応神は、高橋が持つ霊力が、静かに高まっているのを感じていた。
 

「呪術と言ったって、俺が直接なにかするわけじゃない。あんまり俺が手を入れると、このあとの作業に支障が出るしな──高橋さんの霊力を少しだけ触って、より引き出しやすく、扱いやすく、そして質を高くしただけだ。」
「そんなことができるんですか。呪術というのは便利ですね。」
「お前にはやらねえぞ?下手にまじないかけたら、ソッチの力とぶつかり合っちまう。そんとき大変なのは俺とお前だけじゃ済まないしな。」

応神が、桂木の手元に視線をやる。
その先にあるのは、いつも彼が愛用する銃ではない。
 
刀。くろぐろと揺らめく光を放つ、日本刀がしっかりと握られていた。
 


 
日本刀がもたらされたのは数時間前。
公民館の一階で、表実行委員会の作戦会議が始まる少し前だった。
 
 
「桂木、客だ」

公民館の中で、実行委員会の面子に紛れて手伝いをしていた桂木は、不機嫌そうな顔でパイプ椅子に足を組む上司に呼び止められた。

四宮しのみやさん、ご存知の方ですか」
「いや?俺は知らん。ただ、桂木宗真を探して来たらしい。心当たりは?」
「あるような、ないような」
「会ってやれ。お前一人が少し抜けても、代わりの足なんぞいくらでもいる。」

腕を組んだ四宮に軽く一礼をして、桂木は客が待っているという、部屋の入り口の方へと向かう。
幸い、それらしい人間はすぐに見つかった。廊下で、憔悴した様子で立っている青年。
服こそ一般人と同じような浴衣を着ているが、目が違う。
 
それに加えて桂木の目を引いたのは、青年が持っている、刀と思しき黒く長い棒だった。
 
「ああ、こんにちは。桂木宗真さんでよろしいですか。」
「はい。エージェント・桂木と言います。…あの、私に何か。」
「よかった、やっと会えた…。俺、じゃなかった、私は、エージェント・山岸やまぎしといいます。エージェント・久賀くがさんから伝言を預かってきました。…あの、元々同じ部隊だったって聞いたんですが。」

山岸。そう名乗った青年の顔は蒼白で、声は微かに震えている。
なにかがおかしい。そう思った桂木はまず手を貸そうとしたが、山岸は力なく首を横に振ると、自身が持っていた棒を桂木に渡してきた。

「これを、久賀さんが、桂木さんに渡せって」
「…確かに私は久賀と同じ部隊にいましたし、これには見覚えがあります。この刀、現在はAnomalousに指定されていたはずですが、持ち出し許可が出たのですか?」
「俺だってもう何がなんだかわかんないですけど、とりあえず受け取ってください。俺はこの刀に認められてないからあんまり持っちゃダメなんだそうです。とりあえずさっさと触れるかなんかしてください。久賀さんがあなたに預けたんだから、あなたが使わなきゃいけないんです。」

山岸は憔悴した様子だったが、同時にとても混乱し、焦燥に駆られているように見えた。
言われるがままに、とりあえず刀を受け取る。自分が持った途端、ぞわりと刀が蠢いたような気がしたが、きっと気のせいだろう。

刀を持ち上げた途端、山岸の膝から力が抜け、ぐらりと揺れた。
慌てて刀を脇に挟み、崩れ落ちた体を支えてやる。桂木の肩に頭を乗せる形になった山岸の息は、ひどく浅かった。
桂木を探すためにそれなりに移動しただろうが、それだけではないだろう。

もし桂木が正常な皮膚感覚を持っていたなら、一瞬触れた腕が、生気の感じられない冷たさと硬さを持っていたことに気づいたのかもしれない。

「機動部隊の様子は」
「…私はわかりません。ここに来る直前、別の場所で待機していた先輩の隊員から連絡が入りました。ただ、明らかに様子がおかしくて。何か呪文のようなものが聞こえた瞬間、隣にいた久賀さんに通信機器を奪われて通話を切られました。それが、最後に聞いた実行委員の声です。…あれが本当に先輩だったのかは、私にはわかりませんが。」

ぐったりとしていた山岸が、桂木から体を離す。まだ体幹は揺らいでいたが、先ほどよりは顔色が幾分かマシになっていた。
確かめるように自分の首に触れていた山岸が、色のない目で桂木の双眸を見つめる。

「お察しかと思いますが、この刀、かなりまずいやつです。持ち主しかまともに使えず、許可なく触れた人にろくなことはない。ここまで来るまで、多分名をつけるとしたら生命力、のようなものが吸われて…自分の首を切り落としそうになったこともあります。────ただ、久賀さんはこうも言っていました。桂木さんならきっと、この刀の力を押さえ込み、正しく振るうことができると。」

どういうことですか、と山岸は聞かなかった。
ただ、桂木の肯定の言葉を待って、じっと沈黙を守っていた。

「…わかりました。この刀は預かります。」
「無我夢中で走ってきたので、あのあとがどうなっているのかはわかりません。俺が逃げ切れたのは、久賀さんがくれた神社のお守りがあったからです…俺はしばらく休まないと動けませんが、どうか冷静な判断を。──同じ部隊にかつていた先輩の力を、そして、今同じ戦場で戦っている人たちが生きていることを、俺は信じます。」

ありがとう、と桂木が呟く。
その言葉を聞き、山岸が役目を果たした、とでも言いたげに笑う。そしてそのまま、ふらりと床に倒れ込んだ。
 
ずっと前に失ったはずの神経の感覚が、刀の冷えた禍を伝えているような気がした。
 


 
どこかで、鈴が鳴る音がした。
風はない。
 
その音が耳に掠った瞬間、応神の体は動いていた。
 
斜め左。桂木が立つ方の反対側。そこに向かって、躊躇いなく刀を払う。
なにもないと思われていた空間は、刀が当たった瞬間確かに歪んだ。

確かに手応えを感じて、そのまま刀を押し切る。
ざあっと音を立てて、砂粒のような黒いものが、空気に溶けて消えた。
 
「今のは」
「怪異が呼んだのか、それとも祭りの気配に常じてノコノコやってきたのか──いずれにせよ、これを斬っていくのが俺たちの仕事だ。一体一体の力はそこまでじゃねえが、数が多いし、無防備な一般人にとっては十分な脅威だ。」
「私は、霊感とかそういう類のものは持ち合わせていないのですが」
「大事なのは、そんな名称をなぞって、枠組みに嵌めて存在を定義することじゃない。どこにいるのか、なにがいるのか、どう動くのかは、その刀とお前の感覚がわかっているはずだ。」
「…」
「ただ、あまり流れに乗りすぎるな。自我をしっかり保て。魔を斬り終えた刀が次に狙うのはお前の首だし、感覚に身を預けたお前が呑まれていくのは現実ではなく、もっとやべえもんだよ。」
「はい」
「いい返事だ。戦う覚悟も力もあるな。──刀を構えろ。日本刀の使い方の訓練は財団の方でやっただろう。基礎ができていれば、確実に動けるはずだ。」
 
応神に促されるままに、桂木も刀を構える。すると、先ほどまでずっと拒絶するように蠢いていた刀が、突然自分の手に嵌まった気がした。
それと同時に、体がぞわりと粟立つ。
存在しない、もしくはとっくになにかに浸食されていた神経。それが指の末端まで張り詰め、警戒の体制を取った。
 
後ろ。
 
意識と共に体が動く。刀はまるで自分の体の一部のように動き、振りかぶられ、空気を裂いたそこには確かに重たいものがあった。
途端、ずっと黒いものが蠢く。それにもう一刀を叩き込み、桂木は大きく息をした。

「わかったな。その力に従うんだ。ただ、絶対に甘んじるな。」
「…はい」
「過ぎた得物とは言えないところが、お前もなかなか、難儀な体してるんだなって思うぞ」
「…」

肩に力が入った桂木をほぐすように軽く言った応神が、もう一度刀を構え直す。
その視線は、見えず、ただしそこにはっきりと存在するものたちを、確かに見据えていた。
 
 
 
手応えがあった。
一度刀を引いてから、一気に突く。
重たい感触がして、ざあっと黒いもやが空気に消えた。

ふう、とひとつ息を吐き、刀を下ろす。
もう何体斬っただろうか。何体消しただろうか。数えるのも無意味だ。
体からじんわりと汗が出るのを自覚して、応神はもう一度、大きく息をついた。

横の桂木を見る。
少し疲弊しているようだったが、刀を握る手が弱くなっている気配はない。
桂木と目が合う。いつもと少し違い、射抜くような三白眼だった。
一瞬禍々しいような赤が混じった気がしたが、すぐに元の紫紺の色になる。

「あらかた終わっただろう。すまねえが、もう少しやることがある。付き合ってくれ。」
「はい」

桂木が小さく頷いて、刀を鞘に納める。
途端に軽く体が傾くが、咄嗟に足を出して体勢を整えた。
「大丈夫です。行きましょう。」応神がなにかを言う前に、先手を取った桂木が歩き出す。
 
目指すはサイト内。中央の社へ。
 


 

【特設ステージ近辺】

応神が何かしてくれたのだろうか。高橋は少女を呼んでから、体の調子が少しずつ良くなっているのを感じていた。霊力の流れがよくなっている影響。
 
少女の体は未だ不安定だった。支えるように高橋はその背に手を当てている。朧げだった幼少期の記憶が思い起こされた。
そうだ、気が付かなかった。あの時は少女の方が背が高かったのに。

高橋はかつて少女に会ったことがあった。友達などいない母の故郷で、二人で遊んでいたのを祖父も見ていたのだ。どうして忘れていたのだろう。

田村たむらが代表して、二人の前に膝をつく。

「お疲れ様です。無事に存在の確度を高めることが出来ました。でも、ここからまだ概念的に補強する必要があります。お嬢さん、高橋さん、お心当たりは」
「ゆみ。それと、すず」
「あとは、服でしょうか。我々にとって、着るものというのは重要なんです。心の持ちようといいますか。」

柳沢が引き受けた。

「手配しよう。ステージの裏に控室を準備した。弓と鈴か。」
柳沢やなぎさわさん、弓なら祭具の一つです。応神さんと持ち出してきました。」

高橋は即席の祭壇、その中心から細長い白木でできた箱を取り出す。見た目の割には軽い。中から鈴の音がする。しかし、少女は首を振った。

「たりない。あつめなきゃ」
「集めるといってもな」
「ふたり、もってきてくれた」

少女が指さす先、二人の職員がこちらに歩いてきている。
一人は、額に貼った絆創膏が痛々しい桜田さくらだ
もう一人は、左腕を包帯で巻き、吊っている上波うえなみ
共に胸に抱えているものがあった。

少女がやや覚束ない足取りで、そちらに駆けていく。二人は一瞬戸惑ったものの、運んできたものを渡すべき相手であると分かったようだった。受け取った少女が頭を下げる。

「ありがとう」
「いいえ、こちらこそ。ね、顔を上げてください。」
「僕からもお礼を言わせてください」

頭を上げると、ただでさえ長い髪がばらり、と伸びたものだから、桜田が素っ頓狂な悲鳴を上げる。心なしか、少女の顔色がよくなったようだ。

桜田のもとへ、しぃカウンセラーがとてとてと走り寄った。ようやくの再会だ。役目を果たして安堵のため息を吐く上波の背を、金崎かなさきがそっと撫でる。

様子を伺っていた四宮が一歩前に出た。空を見上げながら言う。

「移動しよう。天気がいつまでもつか心配だ。」

飯尾めしおが負けじと並ぶ。

今田いまだ黒陶こくとう組が天気を抑えているうちに。巫女殿の着替え、手伝ってくれる女性職員を募ろう。」
「当然、飯尾お前もやるんだよな?」
「は?俺は男だぞ」

まさか知らなかったのか、とでも言いたげな飯尾が腰に手を当てると、ポニーテールがゆらりと揺れる。
絶句する四宮を残し、飯尾はテキパキと役割を振っていった。すぐに、桜田を含めて何人かの女性職員が手を挙る。

「ちょうどいい、シャワーも浴びましょうね」
「髪も整えましょう。巫女さんの髪って切ってもいいのかしら」
「げんによりあわせる。やもつくらなきゃ」
「弓に詳しい職員、別室に集合だよ!」

いつの間にか戻ってきていた飯沼が声を上げた。

「俺、その鈴、屋台で見かけましたよ」
「自分も見ました。ただ、怪異の影響が発露していて、回収はできませんでしたが。」

気を取り直した四宮と柳沢のもとへ、素早く情報がもたらされるのを、二人は整理していく。亦好またよしが補佐に回る。

「桜田と上波の件からしても、力のある鈴を怪異が狙ってくるようだな」
「動けるエージェントを出しましょう。人員のリストがあります。」
「楽しく、がキーワードだ。徹底させよう。」

リストと聞いた柳沢が確認する。

「取り込まれた人員は?全員無事だったか。」
「それが、真北まきた研究員だけ、安否が確認されておりません」

柳沢は両眼を閉じる。無事を祈るしかない。

「大丈夫、真北ちゃんですから」

亦好の言葉に妙に重みがあったものだから、柳沢は少しだけ気が楽になる。そうだ、彼ならば、きっと帰ってくる。
 
建物へと向かっていた少女が腕を上げて、サイトを指さす。

「まだ、あれがいる。おやしろ。」
「大丈夫、応神さんと桂木さんが向かいました。彼らに任せましょう。」
「あと、高橋。来て。」
「は、はい!」

高橋の肩を、柳沢が軽く叩いてやる。頷き返した高橋が弓を収めた箱を抱え、少女の後を追った。
 


 

【サイト8135】

「こりゃひでえな」

瘴気に囲まれた社の前に立ち、応神が小さく呟いた。
 
本来、中で愛らしく美しい様相をしていただろう何十もの鈴はひとつの漏らしもなく砕け、社の周囲はひどく穢されている。
桂木でもわかる、「これはまずい」という様相だ。淀んだ空気、蹂躙された内部、禍々しい気配を放つ場。
 
「このままだと、今後のあれこれに差し支えが出る。とりあえずまとめて祓うぞ。」
「わかりました。──俺になにか、手伝えることは。」
「そうだな、もしこの近くに寄ってくる魔がいれば、そいつの相手をしてほしい。祓うのは俺に任せろ。」
「はい」

桂木が改めて刀を抜き、周囲を油断なく見据える。
それを確認し、応神は穢れた社に向き合った。
 
ここはサイトの中心であり、少女の祈りの拠点だ。怪異に制圧されている限り、取り込まれた職員が戻ることも、巫女が正しく祈りを行えることもない。
ただ、応神である自分があまり深入りできないのもまた、事実だった。
 
少し考え、応神はなるべく当たり障りのない呪符を取り出す。
それを社に押し当て、指先で六芒星を描く。パチリと空気が弾ける感覚があり、指を離したとき、札はしっかりと社に付いていた。
 
「祓い給え 清め給え」
 
口の中で文言を唱える。瞬間、呪符に描かれた六芒星が光り、その光は社全体に浸透していった。
さあっと、淀んだ空気が清浄な気に満ちていく。

「終わりましたか」
「ああ」

応神の横で、桂木が刀を収める軽い音がした。
自分のやるべきことを終えたことを知り、応神は大きくため息をつく。
 


 
飯沼いいぬまくんが、真剣な顔で目の前に立つ。やっぱり本物の方がカッコいいな、なんて思ってみる。俯いてしまいそうな気持ちを奮い立たせて、私は飯沼くんの目を見て言う。

「行くんだね。気を付けて。」
「うん。射的の腕にはちょっと自信もあるし。」

私、という仮面のままに振舞うこと。今の関係を保っていくこと。楽しいままでいること。それでいいと思っていた。

でも、きっとそれだけじゃないこともあるんだ。

「私も、あの子のお手伝いに行ってくる。それでね、もし全部終わったら、飯沼くんに言いたいことがあるんだ。」

飯沼くんは一瞬だけ厳しい顔つきをしてから、いつものように笑った。

「分かった。そっちも気を付けて。」
「ありがとう」

そして、私たちは走り出す。それぞれの行く場所へ。反対の方を向いて。
 


 

【祭り会場 参道】

ぐちゅりと、肉が潰れたような音がした。

(…!?)

波戸崎はとざきは焦った顔で振り返る。が、視界の中には祭りの風景が広がっているばかりだ。
 
明らかに異質な、歪んだ祭りの景色だった。
 
金魚が大きく、また凶暴になった金魚すくい。
ぐちゃりぐちゃりと、死んだはずの肉が蠢く唐揚げ屋。
水の底が見えぬスーパーボールすくい。
撃つと、発砲音と共に硝煙の匂いが鼻をつく射的。
蛸がびたびたと地をのたうつ、饐えた匂いのするたこ焼き屋。

視界の端に映ったお面屋の面が、狂ったように笑った自分の顔に見えた。
 
(これか…柳沢さんや、先輩たちが心配してたのは)

靴の底の違和感に下を向くと、ガラガラと氷の塊を吐き出すかき氷屋の氷が足元まで流れて、外気の暑さで溶け出しているところだった。
 
場違いなほど軽やかな音を立てて、鈴の紐がぶちりと千切れる。
しゃらしゃらと地面に転がった鈴は、やがて波戸崎の足にぶつかり、その愛らしい形にぱきりとヒビを入れた。
 
(違う…さっきの肉の音。あれは近くから聞こえた。そう、これは、耳元のあたりから────耳元?)

ギリギリと首を回す。
ぐじゅりぐじゅりと、薄手のシャツの肩部分が濡れていく。

「えん、りけ」

震える声で名前を呼ぶと、その肉の塊がこちらを向いた。
あたたかかった羽はぶつぶつに千切られ、肉がはみ出している。肩を締める圧迫感に少し目を下にやると、小さな足に鋭い爪が生え、おぞましく膨れ上がり、波戸崎の肩の骨と肉を圧していた。

「──い"た"ぁ"っ」

ぎちりと足が食い込み、波戸崎は小さくうめき声をあげる。そんな飼い主に構わず、エンリケは鳴き声ともつかぬ声を甲高く上げると、波戸崎の肩から飛んでいった。

「エンリケ!」

肩を押さえて、エンリケ──と呼んでいたなにか──が飛ぶ方を見上げる。
広げた羽がばきばきと広がり、鳩どころかまるで鷹のように大きくなっていく。引き伸ばされた羽を動かすための骨はあらぬ形へ曲がり、無理矢理に膨れ上がった体は羽毛が剥げて、やわらかだった肉がびたびたと地面に落ちていた。

ひ、と思わず声を上げる。
それはすこし前まで、自分が知っていたものだったはず。自分が使役していたはずだったものなのに。
すこしだけ、別のなにかの手が入るだけで、こんなにも。

「えんりけ 、」

鳥の被り物を上げる。名前を呼ぶ。
ぐちゃぐちゃと固まる鳥は、波戸崎の方を鑑みることなく、にわかに淀み始めた空の中を這うように飛んでいた。

なにかをしなくてはいけないが、何をしていいかわからない。
凍りついた体からひたすら浅い息を吐き出して、波戸崎は緊張を臓腑の下に押しつけようとする。

やっと震えた喉から微かに吐き出されたのは、たすけて、という、自分の立ち位置におよそ似つかわしくない声だった。

冷たいものが頬を叩いて、恐る恐る視線を横に向けると、やわらかい赤色をしたどろついたものが、自分の頬にへばりついている。
思わず口をついて出かけた悲鳴をなんとか飲み込んだとき、隣の街路樹がガサッと音を立てた。

「波戸崎さん!」
「…こ、東風浦こちうら、さん…」

ぱちりと目が合う。
無理やり声を絞り出したせいで、波戸崎の肺からおかしな音がした。

「落ち着いてください、波戸崎さん」
「あの、東風浦さ、すみません、エンリケが、あの、僕も運営なのに、なにも」
「大丈夫です。大丈夫ですから。落ち着いて。まずは深呼吸です。」

東風浦が波戸崎の肩を掴み、まっすぐ目を見つめて息を合わせる。
しばらく縮こまっていた波戸崎だが、数分経つとかなり落ち着き、瞳には正常な色が戻ってきていた。

「…ごめんなさい。あの、お見苦しいところを見せてしまって。」
「大丈夫です。落ち着きましたか。」
「はい。少し気が動転してました。──大丈夫。僕も財団職員です。この惨事は十分に予想がついていました。根本的な解決は僕はできません。今は、被害を最小限に抑える方法を考えるべきです。」
「はい」

しっかりと頷いた東風浦を頼もしく思った波戸崎だが、実際のところ、解決どころか一時的な処置の方法もわからないのが現状だった。
どうしよう、と思って、まずは上を見上げる。まずは、おかしくなってしまったエンリケを元に戻すのが先決だった。
おそらく怪異の仕業だろうが、自分にはそれを祓う力などない。頭を抱えかけた波戸崎の横で、東風浦がスッと立ち上がる。

「あれは──よくないものに取り憑かれていますね。この土地に入ったときから、この気配は感じていました。今は一層色濃くなっていますが──あれを祓えば、あの鳩は元に戻るはずです。」
「東風浦さん、お願いできますか」
「はい。──と言いたいところですが、かなり奥まで食い込んでいるようです。あの鳩がこの土地の生き物でなかったことが幸いですが…。」
 
やれるだけやってみましょう。そう言って、東風浦が静かに目を閉じた。
 


 

【祭り会場 "輪投げ" 屋台】

「────おっ、お前!」

聞き覚えのある声がして、船坂ふなさかは後ろを振り返った。

真っ黒いシルエットに、やたらと白く綺麗な歯が浮かんでいる。
「──エージェント、ヤマトモ、さん」船坂が呟くと、ヤマトモはニヤッと笑った。手には、おそらく屋台で買ったのであろう、ひょっとこのお面が握られている。

「来てたんですか」
「おーよ。差前さしまえのヤツがお化け屋敷やるって言うから、その手伝いにな。ま、俺は俺で好きに遊ばせてもらってるが。」
「へえ」
「お、神山サンも来てたのか」
「こんばんはヤマトモさん。お祭り、楽しんでいるようでなによりです。」
「ああ、そうだな。…いやまあ、ちっとばかし、素直に楽しめない状況になってきたが。」
「それは、どういう」

言いかけて、船坂は言葉を噤んだ。
祭り全体が、明らかにおかしくなっている──異常な屋台、おかしくなっている客、形を変質させた動物。
ひっきりなしに鳴り響く鈴が、体を揺らした側からぶちぶちと千切れ、地面に転がっていく。

行き場のない金の塊が、力なく転がる人間の頭に見え、船坂はぞくりと体を震わせた。

「ただの祭りでないことは、最初の時点からわかっていましたが。まさかこんなことになるとは。」
「言ってるわりには余裕そうな顔だな神山かみやまさんよ」
「いえ。私は財団を信じていますから。きっと最後はなんとかなりますよ。」
「そうかそうか。いや、俺としては、ちっとアンタらの力を借りたいんだけどな。」
「?…なんですか?」

船坂が問う。ヤマトモが頭を掻いた。

「異常化した屋台を収めるのに、今職員が奔走してる。ただやっぱり手が足りなそうでな、余裕がある職員はそっちも頼むように言われてるんだよ。」
「屋台の鎮静化…方法はわかるんですか?」
「ああ」

ヤマトモが大きく頷くと、身を乗り出す。同じように顔を近づけた船坂と神山に、ヤマトモは重大な秘密を打ち明けるような口調で言った。
 
「全力で屋台を楽しめ、だとよ」

「────は?」
 
船坂が目を見開き、神山がおやおや、という顔をする。
聞き返そうとした船坂に、ヤマトモが指を口に当てた。

「祭りだろ。あんまり野暮なことは言わねえで、とりあえずやれることやるんだよ。」
「そうですねえ」
「…それで納得しちゃうんですか、神山博士」
「異常化した屋台の具体的な範囲と、手を貸した方がいい部分はありますか?」
「話が早くて助かる。とりあえず、まずはそこの屋台から手をつけるのはどうだ?」

ヤマトモが刺した指の先には、禍々しいオーラを放つ、輪投げ家の屋台があった。
 
 
 
「200円」無機質な声に眉をひそめながら、きっちり小銭を渡す。
差し出された輪投げは六つ。その全てを、必ず輪に入れなければいけないとヤマトモは言った。

「一発で全部成功しろよ。ミスったらどうなるか俺にもわかんねえ。」
「というわりに、ヤマトモさんはやらないんですね」
「こういう几帳面なのは、アンタのが得意だろ。エージェント・船坂。」
「はいはい」

船坂が、輪投げの台を見る。
斜めに立てかけられた台には、ランダムに1から9までの数字が配された、棒が突き出した板がある。
だが、船坂が知る輪投げと最も違うのは、その突き出した棒に、大小の鈴が付いていることだった。

板は九つ。だが、輪は六つ。
残りの三つはなんなのだろうと船坂が思いを巡らせ始めたところで、店主と思われる黒いなにかが、三つの輪を出してきた。
しゃらん、と、輪についた鈴が軽やかに鳴る。

「…これは、どういう意味なんでしょうかね」
「おそらくですが、この番号の順番に輪を入れろ、ということなのでしょう。よく見ると、輪の色と板の色も連動していますね。正しい組み合わせ、順番で投げてください。」
「また無茶を言う…」

そう言いながら、船坂が板と真っ直ぐに向かい合う。
1の板。ピンク色の板は、3×3で配された板の、右端真ん中にある。

「いけますか?」
「いきます」

船坂が一度深呼吸をする。
迷いのない手つきで投げられたそれは、1番の棒に吸い込まれるように入っていき、ちりん、と軽い音を鳴らした。
 
 
 
はあ、と息を吐く。
手の中の輪は、残りひとつになっていた。

9、と書いてある板をじっと見た。
一番奥の板の、真ん中。下手をすれば板の外に落ちるか、別のところに嵌ってしまう。そうすればゲームオーバーだ。
手の中にじっとりと汗をかいているのを自覚する。が、船坂の目に恐怖や焦りの色はなく、むしろ楽しんでいるような色さえ見せていた。

ちりんちりんと、棒についた鈴が鳴る。
しゃらしゃらと、手の中の輪が音を立てる。

「残りひとつだな」
「そうですね」
「大丈夫です。私はあなたを信頼していますよ。」
「ありがとうございます」

ふ、と肩の力を抜く。

「その信頼で、俺は十分。財団職員として、目的を完遂します。」

一度目を閉じ、そして開く。
目はまっすぐ、板を見つめる。
ほんの少し口元を緩めると、船坂の腕が動く。

あるべき場所に落ちた輪は、棒の鈴を鳴らす。
空気を震わすそれはさざめきのように広がっていき、やがて板全体の鈴が鳴り出し、そして、静かに屋台の淀んだ空気が晴れていった。
 


 

【参道 "金魚すくい" 屋台】

柔らかいオレンジの電灯、回る扇風機。どこからか漂ってくる焼きトウモロコシの匂い。

「アイヤー、懐かしいアルな。屋台に並んでよく食べたの思い出すネ。」
「で、ここか。金魚すくいねぇ。」
「鈴を分捕って、とっとと戻るヨ。長居、嫌な予感しかないアル。」

意気揚々とその領域に踏み入ったエージェント・青青ちんちん。警戒しながら続くエージェント・剣持田けんもちだ

屋台は表面上はごく普通の金魚すくいの店だった。ただ、目の前の水槽がどんどん深くなり、中を泳ぐ金魚が棘や鋭利な歯を持つ何物かに変化しつつあるのを除けば。青青の細い目が更に細くなる。対面した店主と思しき人型実体の表情は読めなかった。

「主人、大人二名、頼むネ」

大仰な仕草で店主の気を引いてる裏で、剣持田はため息をついて服を脱ぎ始めている。

「役割分担ってなぁ。クソ、気軽にいいやがってよ」

言うが早いが、彼は水槽に滑り込んでいる。水を得た魚とでもいうのか、水槽の中をぐるりと泳いで見せる。外から見るのとは大違いだ。

金魚たちを追い回し、反撃を掻い潜り、適度に衝撃を与えて驚かせた個体を水面の方へと誘導。喉元に仕込んだ特殊なマイクと水中イヤホンで、青青とコミュニケーションを取る。

『ほら、とっとと減らすぞ。で、どうするよ。』
『見たとこ鈴は上にはないネ。そっち、どうアルカ?』
『あー、なんか怪しいのが来た。さては、飲み込んだんかね』

ひと際巨大な金魚が現れた。開いた口には不揃いなノコギリを思わせる牙が並んでいる。腹の辺りが何やら光っているのが目的の鈴だろうか。少しずつ弱まっているように感じられる。どの道、目はあまり良くないので確信はないが。

『素手だとちいとえらいか』
『しゃあないアルな。ほら、落とすから受け取るよろし。』

鋭い動きで投げ込まれたもの。暗殺用の暗器だ。巨大な針。物騒にも程があるが、今は有難く使わせて頂こう。音に従って無事に受け取る。

『おっと。さって、じゃあ掬っていくか』
 
 
剣持田は水上では生存できない。正確にいえば24時間以上の陸上行動が出来ない。エラやヒレが乾ききってしまうからだ。財団による試作品、超小型の保湿ボンベもあるにはあるが、時間の制限は厳しいし取り扱いも難しい。

そんなわけで、サイト外に出ることは稀だし、増してや異常存在と相対することがあるなんて、思っても見なかった。

足ヒレで水を蹴る。金魚は肉食ではなかった筈であるが、可哀想に、怪異の影響を受けてしまったのだろう。鋭角的に泳ぎ、喰らい付いてくる。それでも噛まれてやるわけにもいかなかった。

余裕をもって鼻先をいなす。オレンジの光が、剣持田の頬に浮いた鱗と手に持った針に反射する。背に回ると、ヒレは硬質化しているようだ。すれ違いざまに、光っている辺りを突いてみる。硬い手応え。この様子だと針を通すのも大変だろう。いや、そんなのは想像するだけでもゾッとするけれど。

剣持田は一計を案じる。目の前の怪物をなるべく傷付けずに無力化する方法。いや、鈴を回収できればいいのか。

『ところで、この武器、どれくらい大事?』
『え、大事アル。大事な相棒ヨ!ちょっと、何考え────』

剣持田は身構え、怪魚を待つ。歯に目をやりがちだが、コイ科特有の虚ろな口が見える。その奥に、淡い光。思い切ってその口に腕ごと針を突っ込み、つっかえ棒にしてやった。先が少し刺さって、ずぶりと沈んだのでひやりとしたが、却って口を固定する結果になる。素早く胴に足を回す。

暴れる金魚を締め付けながら、剣持田は笑う。自分がいつまで、この体を保てるのかは分からない。きっと遠からず、自分は水棲生物と化すだろう。それでも、自分は自分なりに、職員として生きていく。その先に幸せがなかったとしても、今この時には胸を張って在りたいと思う。さっきから耳元でうるさい声の主にも思いを馳せる。

自分の身を守ってくれている暗器を信じて。
伸ばした腕の先、何か硬いものが触れた。掴みだした鈴が、途端に輝きを取り戻していく。
 


 

【参道 "射的" 屋台】

飯沼は困惑している。射的の屋台。異常性のある屋台ではあるが、内容自体は穏やかなものだった。ぬいぐるみを狙い撃ち、落とす。それだけだ。

飯沼は目の前に並んだ安っぽい玩具のライフルの一丁を手に取る。射的でお馴染みのコルク銃と呼ばれるそれは、飯沼にとって生まれて初めて手にするものだった。深呼吸をする。射撃は特技の一つだが、風の中、こんな銃でどこまでの精度が出るかなど分かったものではない。彼の前職を踏まえた上でも相当に高難度の射撃だった。

その上、標的がまるで生きて動き回っているとあれば。鈴を首元に付けたウサギのぬいぐるみが、ステップを踏むように踊っている。時たまこちらを見て、まるで挑発するようにポーズをとる。早撃ちをしろとでもいうのだろうか。構えを取ると、直ぐにまた動き出す。三発撃ってみるが当たらない。冷や汗が出る。一度に店主から渡される弾は六発だ。ペナルティはあるのか。

考え込んでいると、音もなく背後に回っていた男が、ごく軽い調子で飯沼の肩に手を置いた。

「折角祭りの射的なんだから、もうちょっと楽しまないとだめですよ」
「射的屋か。よく分かったな、道明寺どうみょうじ。」
「ナビゲートはお手の物ですからね!」
「よく言う、探してたのは今田さんだろ。でもまあ、助けにはなれそうだな。」

後から屋台に入ってきた男は、柔らかな動作で飯沼からライフルを奪い取る。

「さて、あれを撃つんだな。一つ言っておくとしたら、君の構えは殺気を込め過ぎだ。しかしまあ、こんな玩具を必死に撃つ日が来るとはな」
「ちょっと待ってください、それは────」

最後まで言い終えることさえできなかった。闖入者はピタリと狙いをつけるや否や発砲。気の抜けた音と共に発射されたコルクがぬいぐるみを襲う。先程とは違い、避ける動作に余裕がない。まるでそうするように作られた機械のように正確な、即座の弾込めと発砲。重心の移動さえ見抜いているような照準。そして、一発目と二発目はきっと本命の為の崩しだった。三発目、ぬいぐるみが最も不安定になった瞬間に頭部を直撃する。たまらず落ちたぬいぐるみはもう動かなかった。

店主が手渡してくれるそれから鈴を取り外して、男はようやく名乗りを挙げる。

「申し遅れた。機動部隊ろ-8”祝祭の裏方”、隊長の佐竹さたけだ。ところで、報酬にこれは頂いてもいいだろうか?」
「おっと、それと道明寺っす。みなさんを支援しますよ。」
 


 

【祭り会場 "千本釣" 屋台】

その屋台には、細い紐で繋がれた幾つもの玩具や菓子がぶら下がっていた。
それは千本釣と呼ばれるものである。多くの紐の中からひとつを引き、そこに繋がった景品を得ることが出来るという屋台。押すと光るシリコン製のヨーヨーや、鳥をかたどった水笛といった子供用の玩具や、スナック菓子の袋に交じって──
黄土色の竹鈴が、吊るされていた。

「あの竹細工の中にある鈴を使う、と。──まあ、あの景品を取らないことには、使うも何も無いんでしょうけどね。」

数えきれないほどの景品が吊り下げられた眼前の光景を見ながら、戸丸とまる研究員はひとり、ぎこちない笑みを浮かべる。
屋台の天板を見ると、何十本もの紐が複雑に交差していた。
 
口元に手を当てて、考える。
この中から竹鈴に繋がる一本を見抜くというのは、中々に骨が折れますね。
まあ元々がそういう遊びだから、当然といえば当然か。

この祭り会場に散逸しているであろう鈴を回収するという臨時任務において、戸丸に任されていた業務は、職員の再配置だった。
屋台を精査し、鈴の回収にあたって特殊な技能が必要となる場合には適宜本部と連絡を取り、それに見合った特殊な人員を充当する。
異常性を持つ財団職員の研究を行っている彼には、即ち屋台と職員との仲介が任ぜられていた。
 
残された時間は少ない。速やかに報告を行って、最適な人員を探し出さなければならないだろう。
彼も、その事は十分に理解していた。
しかし。

「これ、異常性持ちの職員を呼ばなくても良いんじゃないかなあ」

一秒でも無駄に出来ないんだし、今は周りに止める人もいない。なら──
早めに鈴を取っておいた方がいい。
僕の能力を使ってでも、

ざり、ざり、と靴音を鳴らして、屋台の前に立つ。
人型の、黒く靄靄としたなにかが、屋台の向こうに座っていた。姿はぼやけているのだが、何となく、座っているんだろうなと思った。
千本釣を一回お願いしますと、一応、その靄に声をかける。
返答はなかったし、特に期待しているわけでもなかった。
返答があったところで、どうせ僕には聞こえなくなるのだろうし。

何十本という紐がうねうねと交わった屋台の天板を見上げて、ふうと一度だけ息をつく。

「さて、集中しよう」

誰ともなくそう呟いて、僕は。

視覚以外を、切り捨てた。

音も匂いも何もなく、ただ鮮明に見えるだけの空間が僕の周りを囲う。
「集中能力」──認識情報を必要な分だけ選択し、他を切り捨てる。
それなりに疲れもするけど、まあ仕方ないか。
五井さんに、いざとなったらがんばって銃を抜くって言ったのは、僕なんだし。

天板にあいた穴も、紐の重なりも、風にゆれる竹鈴の結び目さえも、ひとつひとつが精細に目に映る。
数秒間か、或いは十数秒間か。閑かな空間の中を、ぐるりと見回す。
そして僕は、右手を伸ばして────
天板の手前から三列目、右から十六番目の穴から伸びる、少しばかりたわんだ細い紐を掴んで、
 
一気に引く。
 
しゃり、り、と音を立てて、
竹鈴が引き上げられた。

途端に、切り捨てた認識ものを戻すと。
 
「よしっ────」
 
ずしりと重くなったような頭の中で、自分の声が他人事のように耳を伝った。
 


 

【祭り会場 参道】

ひょう、と風が吹く。
空には、不均衡な軌道を描いて、飛ぶ──というよりは宙を這うような姿の──エンリケがいる。
 
その姿を真っ直ぐに見据え、足を肩幅ほどに開いて立った東風浦が、朗々と言葉を唱え始めた。
 
「トホカミヱヒタメ」
 
祭りの喧騒を縫って、東風浦の言葉が静かに入ってくる。
 
「吐普加身依身多女」
 
その呪文は、波戸崎も聞いたことがあった。
昔、「蒐集院」に関係があったという自分の家のことが知りたくて、少し神道や文化を調べたのだ。
たしか、八神の頭文字を取ったまじないで、繰り返し唱えてまがごとを避けるものだった。
 
「吐普加身依身多女」
 
東風浦の声が静かに響く。いつの間にか、周りの声も、音も、思考の外に遠ざかっていた。

何度も唱えるうちに、エンリケの体がぐちゃっと歪み、口からは先ほどとは違う、悲鳴のようなものが溢れ始める。

先ほどから寒気が止まらず、ひっきりなしに脳が警鐘を鳴らすのは、波戸崎に流れた術師の血だろうか、それとも財団職員として、異常に接するときの防衛反応だろうか。
 
時にすればきっと10分も経っていない。だが、波戸崎にとっては長く長く、何時間も思える時間をかけて、やがてエンリケの異形の羽が崩れ、べちゃりと地面に落ちた。

「!」駆け寄ろうとする波戸崎だが、間一髪のところで踏み止まる。不用意に触れて、なにが起こるかわからないのだ。
ただでさえ相手は人間に害意を持つ存在である。東風浦によって中の怪異が退けられたことを確認してから、近づいた方がいい。
だが、波戸崎の心配は杞憂だった。嫌な音を立てて地面に落ちたエンリケは、しばしぐずぐずと肉を蠢かせたあと、さあっといつもの姿に戻っていったのだ。

中途のおぞましい姿を見ていた波戸崎にとっては、あまりに呆気ないと思えるような終わりだった。肩はまだじくじくと痛みを残している。
 
「…エンリケ!」

いつもの灰色の羽が伸びていることを確認し、波戸崎はエンリケを手の上に抱える。盛大な落下にしては怪我もなく、ぐったりとはしているが、体に取り立てて異常は見られない。
安堵したようにため息をつき、東風浦に感謝を述べようと後ろを振り向いた瞬間、爛々と輝く双眸と視線が合った。
そのまま、東風浦の腕が迷いなく伸びてくる。思わず体を庇いそうになった波戸崎だが、腕はその横をすり抜け、波戸崎の手の中にいるエンリケの首を絞め上げた。
 
東風浦の長い指が、小さな首に絡み、巻かれる。──その寸前、なにか黒いものが、エンリケの中からざあっと出てきたような気がした。
 
「逃したっ…!まずい!」
「こ、東風浦さん!なにやっ
 
────波戸崎は、その言葉を最後まで言うことができなかった。
なにかおぞましいものが、彼の体に入り込み、その喉を締めあげたからだ。
 
「!」
「波戸崎さん!」
 
声が出ない。──それどころか、息ができない。
はくはくと、酸素を求めて口を開閉するが、本来体内を通っていくはずの息は、いつまで経ってもやってこない。
 
死ぬ、と。
波戸崎の脳裏に、そんな言葉がよぎった。
 
その時、東風浦の指が、波戸崎の喉へと微かに触れる。
 
「ハライタマエ キヨメタマエ」
 
声がした瞬間、波戸崎の肺に、一気に空気が流れ込んできた。
一瞬、肺からいやな音がし、波戸崎は盛大に咳をする。

「エ"ホッ…ありがとうございます、東風浦さん」
「礼はいりません。それよりも、怪異はまだ波戸崎さんの体にいます。まずは、それを確実に消し去らないと。」
「東風浦さん、お願いできますか」
「…私はまだ、術師としては半人前。取り除くことはできるかもしれませんが、消し去ることはできません。完全にここで止めないと、今度は民間人を襲うかも…」
「そんな」

言った途端、肩に明らかに先ほどまでとは違う激痛が走る。
声は堪えたが、顔を歪め膝をつく。東風浦が目を見開き、心配そうに体を近づけた。
 
知らない痛み。これが、怪異の力だというのだろうか。
思わず昼食が逆流してきそうな感覚をおぼえながら、しかし波戸崎の頭はどこか妙に冷えていた。

怪異の力を見せつけられながら、思い返したのは、祖父に話を聞く幼いころの自分だ。
 

『いいか壕。もしも、すごく大変だとか、すごく苦しいことになって、もうだめだって思ったら、まずは深呼吸をする。そして、今から教える呪文を唱えるんだ。』
『じゅもん?』
『そうだ。どんな悪いものもやっつける、秘密の呪文。壕はじいちゃんの孫だからな、集中すればきっと使える。』
『ほんとー?すごい!』
『本当だとも。いいか、じいちゃんが言うとおりに覚えるんだ。────』

 

あのとき、小さかった自分は、どんなことを覚えたのだったか。
めまぐるしく動く財団生活の中で、記憶の片隅に追いやられた家族の記憶を、波戸崎は必死で掘り返す。
いつの間にか、肩の痛みは動き、今度は右の腿が悲鳴をあげていた。
 
「東風浦さん、手を貸してください」
「…、はい」
「僕は霊力が少ないし、こういうのは初めてだから、手伝いをお願いします」
「…なにか、案を思いついたのですか」
「案というほどでも。ただ、僕も元蒐集院所属、波戸崎家の一員です。きっとできる、…はず…」

最後は尻すぼみになってしまったが、波戸崎は気を取り直し、差し出された東風浦の手を取る。
目を閉じて、深呼吸。体の中になにがいるのか、体の中になにがあるのか。巡るもの、有るもの、消さなくてはいけないものを意識する。
 
タカマガハラ高天原アマツノリトノフトノリト天津祝詞の太祝詞
 
口に出してみると、曖昧だった記憶の糸がはっきりと形を持ち、奥から手繰るように記憶がほどけていくような気がした。
 
「持ちかが呑むでん」
 
一瞬、刃物を突き刺されたような激しい痛みが襲う。一瞬揺らいだ波戸崎だが、呼吸を整えて言葉を再開した。
きっと効いている。波戸崎一人ならば心許ないかもしれないが、今は東風浦もいる。

東風浦と繋いだ手から、先ほどから霊力が繋がれているのに、波戸崎は気づいていた。
目を閉じる。
 
「祓い賜い、」
 
目を開ける。
 
「清め賜う」
 
──今までで一番の強い痛みが襲い、波戸崎は思わず腿を押さえて体をよろめかせた。
…手応えは、あった。でも、やはり足りなかったのだろうか。

うっすらと目に滴が浮かんだ波戸崎の視界の端で、ず、と、先ほどの黒い影が走るのが見えた。
 
「…あ!」
「ありがとうございます波戸崎さん!あとはお任せを。──ヒトフタミヨイツムナナヤココノタリ一二三四五六七八九十フルベ布留部 ユラユラト由良由良止 フルベ布留部!」
 
東風浦が黒い影を真っ直ぐに見据え、強い言葉で呪文を唱える。
影はぐにゃりと一瞬大きく歪んだかと思うと、力なく空中に霧散していった。
 
「やっ、た ────」
「ええ、波戸崎さんが耐えてくださったからです。この後はゆっくり休んでください、治療も……、…波戸崎さん?」
「────」
「波戸崎さん!」
 
霞んだ視界に、焦った顔の東風浦とその肩に止まったエンリケを認め、微かに笑った波戸崎は、今度こそぐらりと地面に崩れ落ちた。
 


 

【祭り会場 参道】

頭がぼやけている。
気づいたら、参道の脇の地面に立っていた。
 
ああ、きっと、自分は戻ってきたのだ、と。神舎利かんざりは思う。
今自分がいるここが現実ならば、やはりあの世界は、現実ではなかった。
とても優しくて、とても美しくて、そしてひどく残酷な、夢の世界だった。

すまない、と心の中で神舎利は思う。夢の中の、愛らしい存在たちへ。
私は、お前たちと一緒に、立ち止まることはできない。
 
視界の端に、ちらりと何かが映ったような気がして、神舎利は横を見た。
 
薄く、小さい、幼い少女が、じっとこちらを見ている。
くろぐろとした目が、神舎利を見つめている。
なぜか、恐怖や嫌悪は起きなかった。静かに足を踏み出し、少女の影と対峙する。
 
『わたしはね、べつのところにいるの。だから、わたしはもうすぐきえてしまう』
「そうか」
『わたしは、おまつりをたのしめないひとたちを、たのしいところにいかせようと、しただけで』
「そうか」
『なのに、なんででていっちゃうの?…ねえ、さいごにおしえて。なんで、みんなはそんなにつよいの。たのしくないのに、こんなおまつりたのしくないのに。なんで、こっちをえらんだの。』
 
影の声は途切れ途切れで、声があがるたびに、輪郭が薄く揺れた。
そうだな、と神舎利は少し思案をする。
言葉を選ぶ。小さな子供にも、なるべくわかるように。自分の思いが、伝わるように。
 
「それは、変えなくてはいけない現実だからだ」
『げん、じつ』
「祭りは楽しくなければいけない、と思ったんだろう。ただ、現実は楽しくなかったんだろう?だから、変える。自分たちの手で。力で。他ならない、人間の力で。変えるんだ。」
『  、  』
「夢は楽しいかもしれない。だが、夢は結局夢のままだ。いつかは覚めるし、それで何かが変わるわけではない。だから、自分の足できちんと地面を踏みしめて、前を見て、現実を直視して、受け入れて、そしてより良く変えようとする覚悟と力が必要なんだ。」
 
どれほど苦しかろうと、どれほど辛かろうと、前へ進む。
自分は、そんな道を選んだ。
そんな道を選んだ者たちが、財団職員になった。
 
『  、    、おにいさんは、つよいね』
「いや?強くない。いっときでも、楽しい夢に溺れかけた弱い人間だ。辛い現実に首を絞められて、一生苦しみ喘ぐ弱い存在だ。」
『こうかいは、してない?』
「しない。これは、自分の意思で選んだことだからだ。」
『   、     、そっ、か』
 
影が揺れる。終わりの気配が近づいている。
神舎利は一歩近づくと、その影の頭を優しく撫でた。

実体はなかったが、確かに神舎利には、幼子のあたたかい体温がそこにある気がしていた。
 
『  、   。   、  』
「さようなら。一瞬でも、よい夢を見せてくれてありがとう。」
『    、     。』
「私はもう、行かなくては」
 
神舎利が一歩後ろへ引く。
ぼんやりと輪郭を揺れさせていた影は、やがてふわふわと形を変え、ぼんやりとした人のかたちを取り始めた。
その姿を見て、神舎利が一瞬息を呑む。
  
「  、    。   よく言った。それでこそ、財団職員の名に恥じぬ、私の立派な弟です。」
  
銀糸の髪を揺らして、やわらかに笑ったその影は、やがてぐにゃりと輪郭を揺らがせ、静かに空気に溶けていった。
 
 
「ありがとう姉さん。その言葉だけで、俺はずっと、現実に向き合っていける。この世界で戦える。」
 
神舎利は誰ともなくそう呟くと、踵を返す。足は、迷いなくサイトの方へ。
振り返ることなく立ち去った彼の後ろで、木々の梢が静かに揺れていた。
 


 

【ステージ控室】

鈴が集められてくる。職員たちの想いを感じるそれらを抱いた少女の体は二回りも成長したようだった。

少女は微睡の中で、これまでの長い時を考える。怪異に取り込まれた年月。名前を失い、誰でもなかった自分を塗りつぶしたもの。

その殆どの期間、はっきりした意識などなかった。ただ鈴の音と共に、楽しいお祭りだけを求めていた。それだけが立ち向かう術だった。

時として、あの高橋のように、少女に気付く者は存在した。手を伸ばしてくれた人々。試みは全て無残に破れた。少女自身が無力だったから。少女と怪異は、もはや同じ存在の二つの側面だったから。

けれども。

あれと引き剥がされて、体を得た今だからこそ、出来ることがある。歌うことができる。舞うことができる。今なら、姉たちから受け継いだものを思い出せる。遠い昔に、手を取って教えてくれた事柄。

鈴に込められた尊いもの。今の自分を支えてくれる沢山の人々。
 


 
「子供用の半襦袢ってどこに置いてたっけ」
「あ、隣の部屋にサイズ別で掛けてあった筈だから取ってきてくれる?膝下丈ぐらいにする予定だから、何個か持ってきておいて」
「巫女さんだし、軽い水化粧ぐらいでいいかな。そういえば、紅って目元にも差すの?」
「この辺は唇にちょっと差すだけらしいよ、さっき地元の呉服屋さんに聞いた」
 
少女の控室として急遽割り当てられたステージ控室では、女性職員による突貫作業が行われていた。
着付け、化粧、装具選び。実体化した少女のありとあらゆるお手入れを、名乗り出た職員たちが分担して進めていく。伸びに伸びた髪を切りそろえる職員。各部を採寸し、用いる巫女装束の検討をする職員。少女に巫女化粧を施す職員。それぞれの持つ化粧用具から適したものを手当たり次第に選んだのか、幾つものかご巾着が机の上にひっくり返されている。

小ぶりで整った顔立ち、しなやかな肢体。シャワーから湯が出ることに驚き警戒した他、少女はおとなしくされるがままになっていた。素材の良さもあってか、会議室は不思議と楽しい雰囲気に満ちていた。

切り揃えた髪は、水引で結わえられることとなった。簪や髪飾りは敢えて付けず、束ねた髪を簡素な熨斗で包む。
そして白衣も緋袴も、地元に在る呉服店や服飾店から職員らが総力を挙げて取り寄せた、新品のものが用いられた。肌着と襦袢の上から、掛け衿もない真白な白衣が、少女の身体を纏う。

金崎は紅を引いたときの少女の唇の感触に、妙に安心感を覚えていた。少し体温は低いが、薄いながらも弾力のある唇にはよく色が乗った。白い肌によく映えている。

襦袢姿の少女から仕切り一枚を隔てて、高橋が同席している。少女の要請によるものだったので、職員たちの冷ややかな視線を浴びつつ、存在を許されていた。正直なところ、居心地は大変に良くなかった。

「お邪魔しまっす☆」

ノックもそこそこに、ツインテールをなびかせて飛び込んでくる人物がいる。よく見ると、前髪と衣装が汗で貼りついていた。血色も良くない。休みなくパフォーマンスを続けてきた影響か。それでも、身のこなしからは少しも消耗を見せることなく、後醍醐ごだいごコウは高橋の元へ大股で近付いた。

「ね、あの子、この向こう? 入っちゃっていいよね♡」
「え、いや、僕は」

返事を聞くつもりは果たしてあったのか、勾は仕切り板を回り込む。

「ふーん、お人形さんみたいでベリベリ可愛い☆ でもちょっとスマイルが足りないぞ!」

少女は無表情で勾を見上げた。腕組みをした勾と目線を合わせる格好になる。緊張感に、室内が静まり返った。

「歌と踊りはできる?」
「巫女だから、どっちもやる」
「あなたいくつ?」
「分からない。たぶん500歳位。」
「あいつを何とかできる?」
「する」

つい先程まで、ステージによる対抗作戦の中核を担っていたアイドルの肩が、少し落ちた。

「あなたにステージを空けろ、って言われちゃってさ☆ ざけんな、って思ってたんだけど、アイドルの大先輩なら仕方ないか♡ コウも芸能界の人間だからさ、年功序列には弱いんだよね♪」

それでも、誇り高さはそのままに、彼女は背筋を伸ばした。短く息を吸い、空気を切り裂く音と共に決めポーズを取って見せる。少女にまっすぐ伸ばされた指先。数千、数万人を前に磨き上げてきた圧を、たった一人、少女は受けとめてみせた。

「たーだーし!これは貸しだから☆ マネージャー通して落とし前付けてもらうからね!」
「まねーじゃー?」
「面倒事を押し付ける人、略して付け人のこと♪ 外のあいつでいい?」
「うん。まご、高橋に任せる。」

言質を取った勾は、嬉々として高橋の方を向いた。その背に、少女が呟くように語り掛ける。

「あなたの声、あなたたちの歌、私にも聞こえた。だから、ここに来られた。ありがとう」
「当然だね☆ だって後醍醐姉弟は──」

聞いてくれる人に歌を届けるのだから。そう言い終える前に力尽き、ずるずると膝をついた勾を、弟たちがそっと支えた。

「じゃ、後はお願いするっす」
「姉がご迷惑をお掛け致しました。ご武運を。」

ステージを背負い切ったアイドルは、穏やかに寝息を立てている。支える二人の足も微かに震えていたが、三人はゆっくりとその場を去っていった。
 


 

【祭り会場 北東部】

民間人、そして職員らの避難が進められ、ひとけの無くなりつつある祭り会場。
煌煌と灯された屋台や提灯はそのままに、先程までの喧騒のみがぽっかりと消え去る。閑寂としたその光景は、何処か不気味さを喚起させた。

そんな中。
祭り会場の隅に繋げられた幾つもの長机を囲って、
十名程度の財団職員が、慌ただしく動いていた。

「どうやら、分離は上手いこと行ってたみたいだな」
「高橋さんを筆頭として、前線の方々が首尾よく女の子を迎え入れたようです。あの時は実体化装置の利用、なんて大仰な啖呵を切りはしましたが、結局は修祓を行う方々の技量に全てが託されていたので──正直、気が気ではありませんでした。」
「全くだ。優秀な神主だったようで、良かった良かった。」

納涼祭裏実行委員会、呪術部隊。
高橋や応神、そして白い着物の少女が怪異に相対するにあたって彼らに任された任務は、
怪異に対する防御と、後方支援だった。

「それにしても──」

臨時で部隊の統率を任されていた青年は、作戦状況記録用のバインダーから目を離し、その光景を見渡した。

「自分が言うのもなんですが、随分と、こう」

節操がないですね。

なあに、財団の呪術部隊らしいじゃねえか。机の上で、慣れた手つきで紙垂を折りながら、老齢の男性は笑う。

「これは、儂個人の現場感覚なんだがな。よく、細かいしきたりとかが違ったら祓いをしても意味がない、とか言われることがあんだろう?」

だけども。案外、そうでもねえんだよな。

「結局、あっちのもんに届く時には、あっちの言葉で翻訳されるんだよ。そりゃあちゃんと鎮めるんなら別だが、こっちは後方支援だ。なら、ここは数で押し切った方がいいだろ。」
老人の言う通り、其処では様々な方法で後方支援が行われていた。

厭鎮兇惡之鬼──陰陽道の靈符を作るべく、鞄から筆と硯を取り出そうとしている職員。
その横では、目を閉じて心経奉讃文を暗誦している者がいた。般若心経を唱える前の、精神統一としての意味合いであろう。
その後ろを歩くスーツ姿の男性職員は、聞き取れないほどの声でぶつぶつと何かを呟きながら長机の周囲をぐるぐると回っていた。手には細長い紙を何枚も持っており、時折職員の座るパイプ椅子などにそれを貼り付けている。
ステッカーの加工が施されているのであろうその紙は、角大師と呼ばれる天台宗の護符であった。

また、それら長机の隣には、四方を注連縄で囲った小さな焚き火が備えられていた。中では破れた御札や使い物にならなくなった呪符などが燃やされており、近くには雑な手書きの油性ペンで"だめなものはこちらに おれにはさわるな"と書かれた段ボールが置かれている。
その横に立つ金髪の若い男性は、時折甲高い叫び声のような呪文を発しながら火に向かって、手に持った大幣を振り翳していた。

「あ、ちょっと待ってくださいね!今、準備しますから」

突然にやや大きな声をあげたのは、靈符の清書に取り掛かろうとしている職員の斜向かいに座る、三十台前後の女性職員であった。彼女の前には一台のノートパソコンが開かれており、どうやらウェブ会議ツールを用いて誰かと通話をしていたようである。

女性は付けていたヘッドセットを外し、横にあった大きな手提げ鞄を持って、席を立つ。
そして、彼女は──
鞄の中から幾つもの小さなスピーカーを取り出し、周囲の至る所にそれを置き始めた。

長机にひとつ、付近にあったかき氷屋台のカウンターにひとつ、二人掛けのベンチにひとつ。果ては地面にも、それを配置していく。
用意していた分を設置し終わったのか、女性はふうと息をついて、先程座っていたところへ戻っていった。
左手で、ヘッドセットを持つ。

お待たせしました。準備終わりましたので、よろしくお願いします。
女性が言葉を発した、数秒後。
置かれたスピーカーから、
一斉に。
 
「しまつきんどのかぜあろうか」

「ふきやかえすんどお、ふきやはらゆんどお」

「これで、きかんときなればあ」
 
琉球の呪術者、祝女ノロの神歌が発せられた。
 


 

【ステージ】

少女がゆっくりとステージに膝をついた。正座で目を瞑る。
立ち上がり、真っ直ぐに前を向く。弓の端を片手で持ち、黒い雲に目掛けて鋭く突く。
体を開き、一度両ひざをついてから片膝の姿勢へ。手の内で鋭く弓を返し、射形を作る。
大きく息を吸い込み、少女が腹の底から声を上げた。
 
「ぃやあああぁぁぁ、おぅ!」
 
少し引いて離した弦が空気を切り裂く。結わえられた鈴の音が重なる。
それらが響き合う音が会場内を波打って伝わっていく。操られていた人々が足を止める。
サイト内でそれらと対峙していた応神がサングラスの奥で片方の眉を上げる。

極めて汚濁き事も 滞り無ければ 穢濁きは有らじ
どれほどけがれた思いでも 抱えこまなければ きたなくはないのなら

もう一度、射形を作る。小さく息を吸い、もう一度発声。
 
「ぃええい!」
 
もう一度鳴らした音が、空に届く。雷鳴が収まり、風が止む。

内外の玉垣 清し浄しと白す
たとえば美しい石をつみあげるように どうかいつまでも きよらかに

花火打ち上げ台。防衛していたところでゴム弾が尽き、仕方なく携帯式の薙刀を振り回していた黒陶は、既に手を止めて天頂を見上げている。

高橋は息を止めていたことに気付く。鈴を鏃に着けた鈴を抱え、控えている。
 
「高橋」
 
呼ばれ、慌てて歩み寄ると、少女の弓手が細かく震えていた。気を引き締める。少女に余裕があるわけでは無い。
 
「支えて。矢を」
 
高橋は、少女の小さな体に自身の体を寄せた。弓を握り、支える。少女が静かに矢を番えた。
途端、ずっしりとした鈴の重みが伝わる。これを回収した職員の重みだと知れた。少女に流れ込む思いがあった。
少女はゆっくりと射形を作る。張り詰めた弦が震える。狙うべき場所。北方の禁域の上空へ。
 
第一射。桜田千代の覚悟と共に。
 
涼やかな音を残して、矢が雲へ吸い込まれていく。
途端に、空を覆っていた分厚い雲の一部が掃き散らしたように消滅する。

今田の目に、再び星が写り込む。

高橋が次の矢を渡す。ただの一射で、何かを吸われた実感があった。だが、ここで尽き果てても構わない。
少女が、弓を引き絞る。
 
第二射。剣持田仁の誇りと共に。
 
のびやかに泳いだ矢が、空へと届く。
再び空を覆おうとした雲を払い除け、押し留める。

高橋の体に、少女が寄りかかる。
 
第三射。船坂間人の信頼と共に。
 
矢が雲を射抜く。空の半分が、怪異の手から解放される。

高橋の腕の中で、少女が苦し気に息を吐く。
背後で実体化装置が小さな爆発を起こす。
 
第四射。上波明日の恋情と共に。
 
雲が苦し気に蠢いている。まるで身体を削り取られていく手負いの獣のようだった。
煙を上げた装置に、職員たちがすぐに取りついて機能を保つ。呪術部隊の数人の手で、呪符による補強が行われた。
 
第五射。戸丸晴昭の好奇心と共に。
 
幾重にもなっていた束縛を振り払うように、残った雲が逃走を図る。だが、少女は既に矢を放とうとしている。
 
第六射。佐竹光の必中の念と共に。
 
空を駆けた鈴は最後に残った雲の芯を捉える。ついに空を覆うものが何一つなくなった。
数秒前は誰もいなかった筈の場所に真北が立っている。その目線の先に、第八の星がある。
 


 
残心の最中、高橋は崩れ落ちた。全力疾走を終えた後のように胸が痛む。少女が持ち切れず取り落とした弓がステージにぶつかって音を立てた。だが、少女の目には光が残っている。

ステージ上には、黒い霧が集まっていた。
少女は、高橋の方を向き直ると、それまで掛けていた襷を解いて高橋の首に回した。
 
「持ってて」 
「ああ」
 
高橋は、呟くように言葉を発した。
すこしの間、ふたりの視線が、重なる。

「なあ」

声をかけたのは、高橋の方だった。

これ。
弓を射る時には邪魔になるからって、僕が持たされてたんだけど。
今からは、必要になるだろうから。

懐から、きれいに畳まれた、うすい布を取り出す。
それは、千早とよばれる、無地の羽織だった。
透き通るほどに白く薄い、巫女のための羽織。
両方の胸元には、赤い飾り紐が一本ずつ付けられている。

少女は、なにも言わずに頷いて。
高橋に背を向けて、かるく両腕をひろげた。
高橋の手によって、少女は、ふわりと白い衣を纏う。
右腕、そして左腕に袖を通して。
飾り紐を蝶結びに結い、羽織を留める。


そして少女は、その黒い霧の塊に対峙した。
摺り足で、一歩一歩、霧に向かって近づいていく。

袖を振り接近する少女の姿を真似て、霧が黒い少女の形をとった。
羽織も、袴も、身に纏うものはすべてが黒い。しかしそれ以外の要素──肌や衣服の質感や大きさ、顔の造形までが全く同じであった。

二人の少女が、向かい合う。

少女が後ろ手に抜いた鉾先鈴を構えると、相手も同様の姿勢を取った。

少女は────
ゆっくりと謡い、そして舞いはじめた。
 
日孁女歌ひるめうた

嘗ては八咫鏡の前で謡われたという、その神楽歌は。
長年連れ添った神との別れを謡う、惜別の歌として知られている。
 
本歌。

いかばかり よきわざしてか あまてるや
ひるめのかみを しばしとどめむ しばしとどめむ
 
冷たいひかりのような声で、白い着物の巫女は謡いだした。
薄く透き通った千早が、やわらかな身体の上でふわりと流れる。
その衣の動きに呼応するように跳ねる濡羽色の髪は、ステージの照明をつややかに照り返した。

鏡写しに舞う二人を、会場にいる人々は身動きも取らずに、ただ見つめていた。
 
末歌。
 
いづこにか こまをつながむ あさひこが
すやをかべの たまざさのうへに たまざさのうへに
 
気息を整え、若い神主が謡を重ねた。
本歌と末歌、ふたつでひとつの神楽歌。

心得のある職員たちも、高橋の声に重ねるように続く。柳沢の声に、しぃカウンセラーが聞き入っている。

少女は、怪異に語りかけた。
 
わたしたち、ずっと同じだったね。
その表と裏。
ねえ。
わたしたちがもう、同じじゃなくなっちゃうとしたら、どうする?
 
怪異は、少女の声で応じた。
 
ならば、わたしが永らえるまで。
こんな好機を、逃すわけにはいかない。
 
少女は笑った。
いやだ。この身体はあげない。
でも。

一緒に過ごしていこう。
ずっとこれまでもそうだったんだから。
 
黒衣の巫女は、不満げな顔を隠さない。そして二人は、互いに距離を詰めていった。
舞の型は崩さないまま、少しずつ、少しずつ近付いていく。
もうすぐ手が届きそうだ。摺り足で前に進む。あと一歩。いや、もう少し。あと半歩────
 
ついに境界を越え、舞と共に二人の体が重なる。
その刹那。
短刀を振るうように、少女が鈴を鳴らした。
 


 
「終わったのかい」

高橋の問いかけに、少女は首を横に振った。
 
「まだ。今は私の中にいるけど、いずれまた外に出ようとする」
 
だから、と少女は高橋の袖を引いた。
 
「私も、あいつも、両方を祀って。私たちは同じ存在の表と裏。それで、きっと大丈夫」
 
掴む力が少しずつ弱くなっていく。いや、違った。その体の実体化が解けていくのだ。
少女はステージから見える範囲で会場内を見渡す。サイトの地上部分は崩壊しており、屋台の多くも被害を受けているだろう。それでも、弾けるように少女は笑みを浮かべた。
 
「惟臣。謡って。お祭り、しよう」
 
今度は怖くないから。みんなを、私の夢に招待してあげる。
 


 

【異界 祭り会場】

金崎と上波がベンチに座っている。上波の左腕には包帯がまかれ、布で吊られていた。だが、上波にとってはそれどころではない。金崎がタコ焼きを爪楊枝で刺して、上波の口元に運んでいたからである。

「はい、あーん」
「ちょっと金崎さん、利き腕は無事ですから!一人でも食べられます。」
「いいから、口開けてください。ほら」
「あ、あー」

アツアツのタコ焼きに顔を赤くする上波を、金崎は嬉しそうに眺めている。

「ねえ、名前で呼んでくれるのは、あの時だけだったんですか?」

上波は更に赤くなる。金崎は余裕のある笑みを浮かべている。何とか飲み込んで、上波は答えた。

「ふ、二人きりじゃない時は、金崎さん、で、お願いします」
「分かりました。期待してますね、上波くん」

上波は、考えるのをやめた。今度は金崎にタコ焼きを差し出してみる。悔しいことに、平然と食べられてしまった。けれども、その頬が少し赤いのに気付いて、上波は無性に嬉しくなった。
 
 
 
「邪魔しちゃ、悪いすかね」
「そうだな」

飲み物を四本持った二人組がそっとその場を離れる。

「真北さんと亦好さん、探しましょう」
「亦好さんはともかく、なぁ。宴会場の方、行くか。誰かいるだろう。」
 


 
花火が打ち上がる。飯沼くんと並んで眺める景色。飯沼くんはちょっと凹んでいるようだった。うまくいかないことがあったのか。ちょっと撫でてあげると元気になったみたいだ。

本当は言いたいことがいっぱいあったはずなのに。どうしてだろう、言葉が出てこない。あの女の子の姿を思い出してみる。

あの子に言ったことは嘘じゃない。このままでは居られない。

「あのね、飯沼くん。私ね、もうすぐお別れなんだ。」

ずっと決まっていたこと。フロント企業からの出向期間は来月で終わる。その時に私は記憶を処理されて、きっと全部を忘れて生きていくことになる。飯沼くんは表情を変えない。薄い笑いを浮かべたまま。今までは、この笑顔に何も言えなかった。その先に進むとどうなるのかが怖かった。

「黙っててごめんね。でもね、飯沼くん。もしかして、知ってたんじゃない?」

飯沼くんはそのままの空気で答える。

「知らなかったよ」
「嘘つき」

私は飯沼くんの手を握る。オレンジの腕輪。残りの一か月、私はこの人と過ごそうと思った。
 


 
宴会場で、ようやく仕事から解放された職員たちが飲めや歌えやの大騒ぎをしている。

四宮と飯尾はビールの飲み比べを始めようとして、本当に珍しいことに亦好がまじめな様子で止めに入っていた。座布田が目を丸くしてみている。

続いて、紅ショウガの大食いを始めようとするに至って、亦好は一旦事態を放置することに決めたらしい。小熊博士こぐちゃんに送っちゃえ、と呟き、端末のカメラを構えた。
 
 
 
長身の二人が向かい合って褐色の酒を飲んでいる。片方の奢りのようだ。

「紹興酒をありがたがって飲むのは日本人くらいアル。そりゃ地域にも依るけどネ。」
「悪かったって言ってんだろ。いいだろ、ちゃんと戻ってきたんだし。」

剣持田は一応正座をしている。青青は武器を良からぬ使い方をされたのにご立腹だ。

「頼むよ、折角ちゃんとした祭りに来たんだからさ」
「誠意を見せるアル」
「せ、誠意?」
「今度、一日付き合うよろし」
「いいけど?水だけちゃんとしてくれよな」
「言ったアルな。よし、じゃあ今日は飲むヨー!」
 


 
「よっし☆ 財団製の栄養剤は効果抜群だ♪ さあ歌っちゃうぞ!」
「ちょっと待ってくださいー!私、歌は────」
「お祭一夜限りのユニットだよ! シャイニング☆ガールズ」
「それってー、コウコウだからですか?安直だな、もー」
「しばくぞ☆」

後醍醐匂に手を引かれ、アームたちに背を押され、赤村あかむらがステージに上がる。上がってしまったからには、と歌い始める二人に、弟二人も演奏を合わせていく。
 
 
 
田村が黒陶を見つけて駆け寄る。助けてもらった礼を言う田村に、黒陶は請求書をチラつかせた。
珍しく慌てる田村に、腹を抱えて笑う黒陶。
 
 
 
「よし、次はらくがき煎餅行くぞ」
「はい」

桂木と応神は駄菓子の全店制覇に挑戦している。一口食べて、桂木は感想を述べる。

「味が…」
「安心しろ、俺にも分からん」
「あまりたくさんかけてるので、味が喧嘩しないかと思っていました」
「ぜんぶ味があったらそりゃあ大惨事だろうな…」

その様子を、遠巻きに見ている五井と久賀、山岸を見つけて、応神が手招きをした。

「聞いたぞ。桂木の後輩だって?せっかくならこっち来て親睦でも深めるか?」
「あ、ええと…こんにちは」
「初めまして応神さん。お久しぶりですね桂木さん。そちらで仲良くしている方がいるようで、なによりです。で、刀返していただけます?」

桂木は苦笑する。菓子を分け合うと共に、懐かしさが込み上げていった。
 
 
 
現実の祭りでは見られなかった、ビールの屋台が出ている。佐竹はノンアルコールビールと枝豆を持ってベンチに座っていた。見物しているのは射的の屋台だ。

佐久野さくの西塔さいとう、道明寺が的の早撃ちを競っている。通常、射的と言えば身を乗り出して片手で撃つだろうに、全員が異常に慣れた様子でライフルを構えている。

「っしゃオラア!ドロップ貰った!」
「暴れるとせっかくの浴衣が汚れるぞ」
「あーそうか…ったく、動きづらいな。浴衣って。」

射的の屋台だけではない。見渡せば、様々な屋台においてエージェントたちはそれぞれの技能を生かし、本気で攻略、制覇しようとしているようだった。

「佐竹さん、見て下さいよ!景品大量に貰いました!」

道明寺が戻ってきた。常日頃の訓練の成果を存分に発揮したらしい。

「よかったな。今田さん、無事だったそうだ。さっき知らせが届いた。」
「じゃあ、分けてあげないと」
「いや、いいだろ。ほら、お前も食うか?」
「枝豆だけじゃないですか!俺、唐揚げ買ってきますよ」
 


 
写真を撮って回る八岩はちがんに、なんとなしに冠城かぶらぎも共に回っている。
八岩は心配が半分、嬉しさが半分といった口調で、どうして自分に付いているのかを尋ねる。

「楽しいということが、分かるような気がして」
「そりゃあいいや。こんな写真だけ撮れる日も、たまにはいいもんです。」

どちらからともなく、顔を見合わせて笑った。
そこへ、甘梨あまなしが駆け寄ってくる。八岩と甘梨、二人のカメラマンが撮った写真を見せ合うのを、冠城も物珍しそうに眺めている。
甘梨が、予備の小さなデジタルカメラを渡してやった。手分けして、祭りを楽しむ人々の様子をファインダーに入れていく。
 
 
 
差前は気に入ったのだろうか、射的で当ててきたという玩具のピストルを振り回している西塔に声を掛けるべきか迷っていた。大騒動だったのだ。今なら、言いそびれたことを言っても許されるのではないだろうか。いや、怒られるのは目に見えてはいる。似合っているなどど言えば。

「良かった。どうやら、私の出番はないようですね。」
諸知しょち博士」

差前の後ろから、音もなく諸知の姿が現れる。

「どうやら毎年、記憶処理の担当をしていたようなのですが。まあ、このような記憶は、失われないことが一番です。」
「…そうだな」
「ところで、エージェント・西塔に、浴衣が似合っていると伝えたいのでしょう?直球で行くのも大事ですよ。ほら、行ってみなさい。」

諸知が笑いながら差前の背中を押す。
慌てる差前を見ながら、諸知は一瞬だけ、この思い出は自分も忘れたくないな、と思った。意を決して差前は西塔を呼び止める。

「おっと、差前サン。すまん、ちょっと電話だ」
「ん、ああ」

出鼻をくじかれた格好。電波の復旧も進んでいるようだ。

「あ、串間くしまサン。と、雨矢あまやサンか。いるよ、目の前に。あ、あれ忘れてた。」

そういえば、串間からの伝言があったと、西塔が言う。私の分まで楽しんで、と。差前は西塔と顔を見合わせて噴き出す。楽しむこと。それが一番大事なことだったのだ。

電話口から、串間が叫ぶ。

『兄さま、ちゃんと言いましたか!似合ってるって!!』
『そうですよ!西塔さまに選んだ浴衣ですわ!』

目を剥いた西塔に、差前は頭を抱えた。さてはて。諸知の姿はもうない。
 


 
桜田は青い髪の青年と共に屋台の通りを歩いている。少女の作り出した世界は現実の祭りとほとんど同じだったが、少々異なる姿で参加している者たちがいた。

「どうですか、しぃカウンセラー?人間の身体の具合は。」

青年はTシャツに半ズボンというラフな姿で、両手にはタコ焼き、フランクフルト、綿菓子の袋にベビーカステラと、通りで買ったものを一杯に持っている。それらを器用にも順番に食べつつ、おもむろに感想を述べた。

「サイズ感がぴったりです!人間用のご飯を食べやすいのは素敵だけど、一口が小さいのはちょっと。」
「よく噛んで食べてくださいね」
「はい。それに、自分の足で歩かないといけないのも不便です。誰かの肩に乗ってる方が楽でいいですね。」
「そんなこと考えてたんですか……」

桜田はおでこに湿布を貼っていた。その気になれば、この世界にいる間だけでも消せるのだろうが、なんとなくそのままにしている。しぃカウンセラーが痛ましそうに見てくるので、桜田は笑い返す。

「あ、でもね、桜田さん」
「なんですか」
「私は、こうして桜田さんと並んで歩けるのは嬉しく思いますよ」
「ええ、私もです」
 


 
「気づいたかい」
「──── あ、」

重たい目蓋が揺れ、視界におぼろげな光が見える。
なんとか目を開いてみると、視界いっぱいに、見覚えのある顔があった。

「…小沼こぬま、さん」
「よかった、頭は正常だね」

なんとか起き上がろうとして、波戸崎は呻き声をあげた。
ギシギシと体が軋む。全身を、倦怠感が包んでいる。
そのまま体が布団へと逆戻りした波戸崎に、小沼は小さく笑った。

「霊力を初めて使うとね、そうなるらしいよ。これは東風浦くんの言だけど。」
「そう、なんですか…。…東風浦さんは?」
「買い出しに行くと言って、出て行ったよ。そろそろ戻ってくる頃じゃないかな?」

そう言った小沼の後ろで、音もなく襖が開く。
両手に持った紙カップから、唐揚げとおぼしきものがはみ出ている。今回はちゃんと出入り口からの登場だな、と、波戸崎はどうでもいいようなことを思った。

「…波戸崎さん、起きたんですね!」
「すみません、間抜けに気絶なんかしちゃって…」

聞けば、波戸崎が気絶したあと、小沼がここ、公民館まで運んできてくれたらしい。
布団を敷いたのは東風浦くんだよ、と小沼が付け足す。

「東風浦くんから大体の話は聞いた。お疲れさま、波戸崎くん。」
「いえ、そんな、僕は」
「とりあえずゆっくり休むといい。ここからならきっと、花火も見られるだろうしね。──私は委員会の方にいるから、何かあったら連絡してくれ。」

そう言って、小沼が立ち上がり、東風浦と入れ替わるようにして部屋を出た。

「東風浦さん、本当、すみません。最後の最後で迷惑をかけてしまって。」
「いいえ。波戸崎さんが無事でよかったです…。」
「東風浦さん…」
「鳩もきちんと無事です。今は公民館周りにいるかと。」

あ、と言って、東風浦が手元の唐揚げを波戸崎に示す。

「醤油がおいしい唐揚げです。起き上がれるようになったら、一緒に食べませんか。」

出来立てなのだろうか。唐揚げからは、うっすらと湯気が出ている。
言ってから、少し恥ずかしげに目を逸らした東風浦に少し笑うと、波戸崎はしっかりと頷いた。

少しだけその顔が熱かったのはきっと、ピジョンヘッドを着けていないから、だけではない。
 


 
探していた二人を見つけて、柳沢はそちらに足を向ける。黒い浴衣に実行委員会で作った団扇を持っている姿は長身によく似合っていたが、まだどことなくぎこちない。仕方あるまい。柳沢にとって、純粋に楽しんでよい祭など、それこそ数十年ぶりである。それでも、しぃカウンセラーが笑顔で挨拶をするのに、柳沢もなんとか笑みを返した。

「楽しんでいるかね」
「ええ、それはもう!お祭りのご飯は珍しくていいですね!」

今は青い髪の青年であるが、仕草がしぃカウンセラーそのものといった雰囲気である。柳沢はおもむろに懐から財布を取り出す。

「では折角だ。私からも、何かご馳走しよう」
「あ、柳沢さん、それは」
「いいんですか!?」

両手が塞がっているのは杞憂であったらしい。しぃカウンセラーは手に持っていた料理を目にもとまらぬ素早さで平らげると、屋台を次々と回っては、気に入ったと思しき食べ物を抱えて戻ってくる。

「やなぎさわさん、ありがとうございます!」

苦笑して柳沢が支払いをしていると、そこに高橋と少女が通りかかった。少女はもう巫女服も、白い着物も着てはいない。鮮やかな朝顔をあしらった見かけ相応の浴衣姿である。

「よければ、君も何か欲しいものはないかね」

思い切って声をかけると、少女はじっとりんご飴を眺めている。買って手渡すと、一口食べた。なにかしら納得したように頷くと、それを返してくる。受け取って固まっていると、忍び寄っていたしぃカウンセラーが、では私が、等と言いながら引き取っていった。今更だが、どんな胃袋をしているのだろう。

「お祭り、楽しんでる?」

少女が尋ねてくる。柳沢は頷いた。と、高橋が何かに気付いたような動作をする。見ると、出店の切れ目、参道の端に老人とそれに寄り添う老女が立っていた。老人は顎髭を触りながら、こちらを見ている。思わず手を伸ばしかけたが、柳沢はそっとそれを下ろす。

「ああ、楽しんでいるとも。これからも、皆で祭りをしていこう。」

少女はにっこりと笑い、高橋の手を引いて去っていく。老人のいた方とは反対側へ。柳沢もそれを見送った。振り返ることは、もうないだろう。
 


 
落としたぬいぐるみを丁寧に紙袋に入れて、僕は参道をのんびり歩く。
一般人を避難させつつ、僕もサイトの中に一旦退避していたが、どうやら騒ぎは落ち着いたらしい。
せっかくだから、ぬいぐるみ以外に、自分用のお土産でも買おうか。
そう思って、立ち並ぶ屋台を見た僕の目に、ふと、きれいなものが映り込んだ。
 

雨霧あまぎりちゃん、楽しそうね」
「ん、ちょっと待ってください…」

僕の少し前で、二人の女の人が、屋台のものを物色している。
 
視界を埋めるのは、たくさんのおもちゃや小物類だ。

虹色に眩しく光るプラスチックのペンダント。
振ると音がするペコペコの剣。
わざとらしい笑顔をした、ビニール製の人形。
版権ギリギリの「変身セット」

並んで、吊られて、置かれたおもちゃが、じっと僕の方を見ている。
その中にいくつか、誰かの手製と思われる布製の小物や、和物の顔をしたチープなアクセサリーが置いてあった。
 
近づいて見ると、僕がきれいだと思ったものは、片方の女の人の髪の毛だった。
丁寧に結い上げられたポニーテールが、僕の前でゆらゆら揺れている。

片方の女の人が、僕の方に気づいて、白髪の女の人に退くように促した。
それを軽く手で制して、僕は女の人と、屋台を交互に眺める。
冷やかしの気配を察したのか、屋台のおじさんが僕を軽く睨んできた。

「あっ、千日せんにちさん、私のお土産、これとかどうですか?」
「ええと…その…それ、雨霧ちゃんにはあんまり似合わないと思うな、私」
「そうですか?」

白髪の女の人が持っているのは、虹色に発光するハートのペンダントだ。
そうですか、と少し残念そうな顔をして、その人はペンダントを置いた。

あの、と、僕は思わず女の人に声をかける。

「多分、これなんか似合うんじゃないでしょうか」
「──なん、ですか」

途端に警戒の色を見せたその人に僕は一瞬たじろいだが、それでもめげずに、置いてあるもののひとつを手に取った。

てらてらと光るおもちゃたちに混じって、僕の視界で控えめに存在を主張していた、かわいらしい髪留め。
赤いゴムには、紫色の花の飾りがついている。その人の、真っ白くて綺麗な髪にはきっと似合うだろう。

その人は警戒をしているようだったが、その隣の女の人は、明らかにほっとしたような、嬉しそうな顔を見せた。
「いいじゃない雨霧ちゃん。これにしましょうよ。」「…」白髪の女の人はもう一人の人に隠れて、僕に対してぴりぴりとした敵意を見せていたが、僕が渡したその髪飾りを見ると、少し警戒の色をゆるめた。多分、気に入ってくれたんだろう。

「んーと…じゃあ、これにします…」
「それがいいわよ。お幾らかしら。」
「300円」

ぶっきらぼうに言った店主に、白髪の女の人が財布を取り出す。
その口元が少し緩んでいることを確認し、僕は少し嬉しくなってから、そっと店を離れた。
 


 
「『踏ん切りがついた。やっと前に歩いて行けそうだ』ですか。さてはて、どこに続く道ですかね、あなたが歩むのは。」
「勝手に"共感"すんなっつってんだろ。つうかお前、俺たちが大車輪の間どこほっつきまわっていやがった?」
「ははは、俺が居たら居たで面倒だったでしょうよ。あ、あとね、これは単なる俺の想像なんですが、なんだかんだ言いつついつも世話を焼いてるし、今回も短くない時間留守を守ってるのだから、やっぱりお土産のひとつでもないと許されない……」
「わあってるよ。そのためにクッキーふたつ買っといたんだ。」
「それはそれは。そつがありませんねー。」

一体、いつの間に来ていたのだろうか。太郎たろうが笑っていた。
お土産であり、高橋の心の枷を外すきっかけにもなった蕎麦クッキーを買えたのは、太郎のおかげでもある。応神は感謝を述べた。ややぶっきらぼうになってしまったのは、まあ誤差の範囲内だ。

「なんか俺のお陰でいいことがあったみたいですね?お礼は帰ってからのラーメン奢りでいいですよ。」
「お前のお陰とか一言も言ってねえんだが──おい、勝手に共感使うな」
「やだなあ、そこまで無粋な神経してません。ま、いい感じにまとまったのならなにより。俺もせっかくだから、少し祭りを楽しんで行きますよ。」

そう言って、太郎が去っていく。その白い頬にうっすらと朱が差していたのは、アルコールのせいだろうか。
応神はひとつ息をつくと、太郎とは別の方向に歩き出した。

やれやれだ。結局自分は、いつも人の手を借りている。最後まで終わらせるには、自分ひとりではどうしても足りない。
まあ、それもいいか。応神は思い、雲ひとつない星空を見上げた。
 


 
型抜きに挑戦しているのは賞金目当てだろうか、あるいは美技の披露目当てだろうか。子供たちに囲まれているのは神舎利と戸丸だった。

「おじさん、すごくうまいや!」
「ね、ね、どうやるの?」

まとわりつく子供たちに、神舎利の手元が軽く狂う。だが、すんでのところで型が割れることは避けられた。
きゃらきゃらと笑う子供たちに、神舎利も思わず口元を綻ばせる。

その横で、もう一人の職員が、神舎利に負けず劣らずの技量を発揮していた。

「うわー、こっちのお兄さんも負けてない」
「コツはね、型をよく見るんです。よーく集中して────ほら。」
「すごい!ねえ、おれもすごく集中すれば、きれいにできるかな?」
「できるできる。ほら、やってみてください。」

戸丸が完成した型抜きをそっと持ち上げる。
その複雑な形にはヒビひとつなく、周囲の子供からは喝采が湧き上がった。 
 


 
「お前、どこかで見たことある顔と名前だと思ったらがいの家のか!」
「はい、波戸崎ごうと言います」
「そうかそうか!なるほど。いや、お前の大叔父とは昔色々あってな。」

ビールの缶を握りしめ、黒陶が愉快そうに笑う。その横で、波戸崎がなんとも言えない顔をしていた。

「ふふふっ…さっきからお前にぴったりくっついてるそこの娘も、東風浦の家の出身だそうじゃないか。ちょうど応神もいる、長野の土地で再びえにしが繋がれたな。」

けらけら笑ってビールをあおる黒陶の言っていることが、波戸崎にはよくわからなかったが、きっと、自分に取って悪くはない話なのだろうと思った。

横の東風浦をちらりとかすめ見る。怪異を退けられたのは、東風浦の力と、自分の中に流れていた術師の力だ。
帰ったら、多忙にかまけて中断していた自分の先祖のことを、もう一度調べ直してみるのも悪くないかもしれない。

波戸崎は黒陶に向かって腕を伸ばす。訳知り顔をした黒陶が、波戸崎に向かって未開封のビールを渡す。
今は少しだけ、祭りの空気に酔っていたい気分だった。
 


 
甲高い笛のような音。まばゆい光が弾け散り、遅れて音が響く。

祭りの喧騒からやや離れた人気の少ない暗がりで、今田は芝生に腰を下ろしていた。どのようにして見付けてきたのか、真北が2m程離れたところに腰を下ろす。しばらく会話はなかった。真北がふと思いついたように問うてくる。

「そう言えば、今田さんのとこには誰が来たんですか」
「誰も来ませんでした。ほら、我々は見破るのが得意だから」

それは真実の半分だ。何かが確かに今田を訪っていた。しかし、それは茫洋とした輪郭の影に過ぎなかった。例えマントを形どろうとしたのであったのだとしても、あの影は誰でもなかったのだ。

「ふーん。ひょっとして久しぶりに挨拶できるかなって思ってたんだけど、そんなもんですかね」

気付いたのか気付かなかったのか、真北はその長い足を放り出して花火を見上げている。

「真北さん、ライブはいいんですか?もうすぐ始まりますよね。」
「行きます。ただ、その前に話をしておきたくて。」

それはおそらく賢明な判断だ、と今田は思ったが口には出さなかった。

「大変なお祭りでしたね。真北さんも、お疲れ様でした。」
「皆がいたからこそですよ。結局、僕が帰って来れた理由もよく分かりませんし。」

真北の横顔が、赤や青に照らし出される。今田はこの相手と、もう少し話をしてみたいと思った。

「さ、行って下さい。真北さんの場合、迷う時間も考慮しないと。」
「今回は大丈夫ですよ!ていうか、正論だけに反論しにくいので、そういう言い方やめてください。それに、最後には辿り着くんだし。」

不満顔で立ち上がり、芝を払う彼に謝罪してから、今田は誘いの言葉を口にする。

「なら大丈夫ですね、今度セクター8105にお越し下さい。お茶か何か、お出ししますよ。」

真北が頷いて立ち去った後、今田はもう少しここに居ることを決めた。花火には、鎮魂の意味もあるという。
もう一度、あの声を聴くことがあるのだろうか。今田は心の内で呟く。世の中はこんなにも闇に溢れていて、自分はまだその中に存在している。

だが、死人は何も思わず、語る事もない

ひと際大きく、長く続く輝きが今田を照らす。黒いマントに包まれた身体の作る影が、長く伸びた。
 


 

【鈴鳴神社 本殿】 

今年も、祭りが開かれる。
長野県にある、鈴鳴神社。近隣の町民と協力して行われる、その納涼祭は、この地の毎年の風物詩となっていた。
参道を含め、神社の周辺には多くの出店が立ち並び、家族連れやカップルなど多くの地域住民が賑やかに祭りを楽しむ。参道近くの広場には、早くも集まった人たちの、ざわざわとした話し声が聞こえてきた。

その喧騒を、遠くに聞きつつ。
僕は──鈴鳴神社の神主、高橋惟臣は、神社の本殿に座っていた。
目の前には、榊の枝や大幣が立てられた、ちいさな台が二つ置かれていて。
それぞれの台の奥には、御神体としての鈴が、ひとつずつ置かれていた。

今から、ちょうど一年前。あの日の、あの祭りが終わった後。
僕は柳沢さんと、少しだけ会話を交わしていた。

高橋。これから、お前はどうするつもりなんだ。
屋台や照明が撤去された後の、暗い神社の参道の中で──あの人は僕に、ぽつりと話しかけた。
呟くような小さい声だったが、同時に、はっきりとした語調だったように思う。

周りの木々が、ざわざわと風にゆれる。
何処かの木に止まっているであろう蝉の、ぢりぢりという細い鳴き声が聞こえた。

「最初に言った通り、お前が東京に行くつもりなら、俺は止めん。この儀式を、財団をあげて行い続ける理由は、もう無くなった。だから、これからはお前も────」

柳沢さんの言葉を遮るように、僕は言った。

「来年も、お祭りに来て下さいね」

すこしの間、ふたりの会話が途切れる。
その時の彼の表情は、暗い夜の闇のなかで、伺い知ることは出来なかった。

「あの子も、あの子を取り込んでいたものも、どちらもうちの神社で祀ります。時々は会いに行かないと、きっと寂しがるだろうし──元々はこちらに災いを為すものであったとしても、それは此岸の人間の事情です。そもそも、怪異に良いも悪いもありませんから。この地にあちらの世界のものが訪れたなら、敬意を払って迎え入れるのが、神主の役目です」

だから、これからも楽しいお祭りを、続けていかないといけません。
どうせなら、出店の数も増やしたいですね。財団の皆さんにも、その日ぐらいは折角だから羽を伸ばしてもらいたいです。祭りを楽しむ人は、多い方がいい。

だから。来年も是非、僕の神社のお祭りに来て下さい。

僕がそう言うと、柳沢さんは一言、そうか、と言って。
それからは、ぽつりぽつりと、他愛もない世間話をした。

あの時のことは、今になっても鮮明に思い出せる。
記憶に刻みつくほど輝かしい思い出でもないし、消し去りたいほど疎ましい過去というわけでもないのだけれど──
だからといって、忘れることは無いんだろうな。
僕は、着ていた狩衣の皺を直しながら、そんなことを考えた。

祖父の死から四年、そしてあの祭りから一年。
僕は今も、祖父の後を継いで神主をしている。ふたつの御霊を祀り、彼らと共に祭りを楽しむお役目。残念なことに実力はまだまだ足りないけれど、世の中には超常的な脅威と戦い、何も知らない人々を守る存在がいることを知った。祖父もまたその一人だった。柳沢さんも、そしてその沢山の仲間たちも。
 
闇の中で異常存在を捜査収容する組織。僕も、財団の協力者になった。
あれは、そんな職員たちの物語だった。

「さて」

今年も。楽しいお祭りを、始めよう。
祝詞奏上の準備を始める。墨で祝詞が書かれた和紙を、眼前に広げた。

神社拝詞。自分やその周りの人々が加護を受けられるようにと、自らの拝する神を称えるための祝詞である。
悪霊を祓う祓詞でも、降りかかる災いを食い止める呪文でもない。
 
「掛けまくも畏き、鈴鳴神社かむやしろの大前ををろがみ奉りて──」
 
和紙を手に持ち、息を整え、そして祝詞を奏上する。
 
漢字で埋め尽くされた和紙の向こう側で、ふと、白と黒の着物が翻った気がした。
 
 
広域怪異収容事例 Case1:納涼祭 完
 
 

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