キャスリング・バイ・ハンド
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故郷から途方もなく離れ、何十もの宇宙を通り抜けた先、血まみれの革命の中で暗殺が続発し合衆国が分裂したという常軌を逸した地球で、財団はなお存続していた。財団はなお持ちこたえていた。サイト-19はなお、社会政治的・建築的な論理にかまわずに存続していた。二階休憩室の蛍光灯はなお明滅し、ブーンと音を立てていた。


それがまだ彼女にとって何らかの意味があったならば、彼女を狂気に陥らせていただろう。


黒の女王は、彼女自身の地球で最後にこの場所にいたとき、その蛍光灯を見ていた。ジュリア・ビターフィールドもそれを見ていた。実際、ビターフィールド博士は、支給品クローゼットのドア越しに聞こえるあのブーンという音に気を失ったのかもしれない。黒の女王が彼女にテーザースパイクをくらわせたのも、そのクローゼットの中だったわけだが。


より注意深い黒の女王であれば、別のタイムラインに思いを馳せることなく、クローゼットの外の標的を待ち伏せしていただろう。より神経質な黒の女王であれば、その宇宙の発明品であり、身体の適切な箇所を狙えば数時間対象を行動不能にできる精密装置・テーザースパイクに誘惑されることなく、自分自身の装備のみを信頼して標的を気絶させたかもしれない。この黒の女王はそのような黒の女王ではなく、彼女はそれを証明するバッジを手に入れた。サイト-19所属、セキュリティクリアランスレベル3、ジュリア・ビターフィールド、工学博士。


彼女はジュリアの上着と眼鏡も身につけた。意識不明の体はまもなく発見されるだろうが(より賢い黒の女王などであればそのようなことにはならなかっただろう)、時間制限があることを彼女は好ましく思った。そのおかげで集中していられるからだ。


黒の女王は、ジュリアと同じ格好をして、工学棟までのシャトルカートに乗った。その施設の消毒臭は、少しオゾンと銅の匂いがした。匂いから記憶が呼び起こされる……そして彼女は眠っているビターフィールド女史のことを考えた。まもなく、彼女は目的のドアにたどり着いた。


研究室の中には一人の研究者がいた。彼はなよなよとしていてはげ頭で、彼の口は、彼自身の意思でなく重力のせいで少ししかめられていた。


黒の女王は口を開いた。「ギアーズ博士?」


彼女が呼びかけた男は振り向いた。「なんでしょう?」


「いっしょに来ていただきたいのですが」


「書類を見せてください、研究員。私は、サイト管理官の命令がなくてはこのプロジェクトをそのままに放っておけないのです」


黒の女王は、こう返されるとわかっていた。こうでない方が厄介だったろう。彼女は彼に近づき、ポケットの中のあるものを握った。そして腕を伸ばして彼を近くに引き寄せ、もう片方の手でテーザースパイクをくらわせた。


「ごめんなさい、お父さん」彼女は肩で彼を担いだ。「あなたを説得する時間はないの」



父ギアーズが目を覚まし身動きしたとき、黒の女王はスペースヒーターをいじくっていた。「一体何をしたのですか?」


「街の中に隠れたの」黒の女王は、この宇宙固有の発明品であるそのドーム型の器具を調べていた。「外に出るのは簡単じゃなかった。私の壁すり抜け装置は私以外の人を受けつけないし、シャトルカートはセキュリティゲートを出てすぐに止まっちゃったし。たくさん撃たれた。私、あなたをここまでずっと運んできたの」


「私には理解できません」ギアーズ博士は窓の方をちらっと見た。ぼろぼろのブラインドが下ろされていたが、彼は今が夜であることがわかった。


「ここなら比較的見つかりにくいだろうと思ったから、このアパートに隠れた。機動部隊に包囲されたら普通は罠にかかってしまうけど、それに対処するものならある」パックに入ったグロースティックのような何かは、どうやら使い捨ての電池であるようだった。彼女は、一本の電池に付いているつまみをぷつっと切り取り、プラスチック製ドームの平らな面にそれを差し込んだ。


「あなたは故意に要点を避けているようです。私は、あなたの動機を尋ねているのです」


黒の女王はドームをひっくり返し、むき出しの床の上に置いた。そして、彼が起きてから初めて、彼女はドームから目を離してその捕虜の方を見上げた。「私はギアーズ博士の……あなたの娘なの」


「いいえ、あなたは娘ではありません」


「どうやって……」黒の女王はその問いを飲み込んだ。「私は何年も父を探した。そして私が彼を見つけたとき、彼は……私の元からいなくなってしまった。永遠に消えてしまった。彼を失って、私は急に正気に戻った。その世界にもう何もつながりを持たないことに気づいたの。だから……そこを去った」彼女は手を一振りして、この言葉を強調しようとした。「私はこの地球を見つけた。この地球には財団があることがわかったから、あなたがいるに違いなかった」彼女はドームのスイッチを押した。内部のコイルがオレンジに光り出し、暖かさが部屋の中に広がった。「これは二度目のチャンスなの」


ギアーズ博士はしばらく沈黙した。そして彼は眼鏡を直した。「もっと聞かせてください」


その後彼らは互いに語り合った。会話は一時間ほど続いただろうか。黒の女王は時間を計っていなかったのだ。彼は彼女に、一つの宇宙から別の宇宙に移動するのに用いた方法を説明するよう求めた。しかし黒の女王は、博士の相似物との自分の子ども時代を説明することの方に気を砕いた。見たことや聞いたこと、感情の細部に至るまで。彼女は、父親とこの男の間に何か共通する土台を見つけたかった。彼女は父親と設計を共有するこの男を評価し、彼の「父親らしさ」を確かめた。


彼の論理的な質問を無視して、彼女は博士の人生について尋ね始めた。彼は答えを提供した。歴史の違いで彼の歩みのあちこちが曲がったところを除けば、彼の人生は彼女の父親の人生とかなり似ていた。彼には娘がいたが、財団で働き始めた時から彼女に会っていなかった。彼は彼女が生きているかどうか知らなかった。その問題は何年も彼の頭をよぎらなかったのだ。


彼は彼女に現在の彼女自身について尋ね始め、彼女はこれに答えた。彼女は、財団の父親への仕打ちの後、大きな価値と力をもつ様々な物品を財団から奪い取るために行った仕事を彼に話した。これらのうちのあるものを使って、彼女はコネと影響力を獲得した。あるものを民間企業に売り飛ばして、引き換えに世界の外につながる秘密の道の通行権を得た。あるものを彼女の一部にして、旅を確実に生き残れるようにした。彼は注意深く話についていった。黒の女王は、機械装置が学習しているように感じた。それが彼の今の愛情のあり方なのかもしれなかった。


彼らがこの全てを共有した後、ギアーズ博士は眼鏡を外し(わかったことだが、このギアーズは眼鏡をかけていた)、目をこすった。光源はヒーターだけの数時間(正確な時間はわからないが)に目が疲れてしまったようだった。


黒の女王は気がついた。「疲れてるでしょ」


「はい、そのようです。最後に食事をしたのはいつですか?」


「実は……朝から食べてないの」黒の女王は、ギアーズが彼女を思いやっているらしいことに驚いた。「下の階に自販機があったと思う。六年間補充されてないだろうけど、それぐらいは保つものがあるかも。見てこようかな……」


「いい考えだと思います」


黒の女王は彼の手をとり、引っ張って立たせた。今までそうすることを忘れていたことにがっかりしながら、彼女は彼を手錠でパイプにつないだ。そしてドアを通り抜けた。


廊下から、彼女はアパートの前後の通りを観察した。脅威と思われるものは何も見えなかった⸺彼女は視野が広いほうだったから、そのまま階段を降りていった。


この夜の出来事における何かに、彼女の首の後ろはむずむずしていた。階段を横切る間、その奇妙さが彼女を悩ませた。ついに、それはずいぶん前におさまったはずの心理状態であることに気がついた。良心の呵責だ。結局のところ、この男は彼女の父親ではなかった。彼女は彼を父親として認められるだろうか? そして彼の娘は? 黒の女王のような女がどこかにいて、同じ理由でこの男を探しているのかもしれないではないか。


あるいは、ギアーズの本当の娘は、オカルト連合の残党に襲われ、焼き払われてしまったかもしれない。真実は誰にもわからないだろう。


黒の女王は、食べられそうな食料を調べた。戦争が終わらないために、この社会にはポテトチップスは誕生しなかったらしい。すす汚い自動販売機には、あぶられたり乾燥されたりした海藻が色々に味つけされた小さなパックが貯蔵されていた。彼女はもってきた袋で手をくるんだ。そしてガラスを叩き割り、袋をそのパックでいっぱいにした。


父親の顔と声をした男が彼女を待っている。財団を二つも襲ってまで見つけようとしたものではないのか? 彼は彼女を育てていない、しかし……彼は、彼女を育てた男にそっくりだった。彼女は道を開いて、誰も自分たちを見つけられない、ここよりも平穏な世界に行くことができる。それは新たな門出となるだろう。


彼女は彼を「パパ」と呼べばいいのだ。



黒の女王は、放棄された部屋に再び入った。ギアーズ博士は、彼女が立たせた場所から動いていなかった。「夜ごはん、持ってきた」


「これでは食べられません」


黒の女王は保存食料を床に置いて彼の手錠をほどいた。彼の腕は身体の横に垂れ下がった。「好きに食べて」彼女は塩辛くあぶられたケルプのパックを引っ張り出し、そして彼の方へ振り返った。


一瞬、沈黙があった。ギアーズはまた、あの吟味するような目でじっと見つめていた。黒の女王は、彼を一人で残したときに自分が思ったのと同じことを彼が考えているのではないかと思った。


そして彼は口を開いた。「その、少しだけここに来てくれませんか?」ギアーズ博士は腕をこちらに伸ばした。「あなたが良ければ、今すぐしたいことがあるのです」非常にぎこちないやり方だが、抱擁を求めているのだ。


黒の女王はためらった。首の辺りのむずむずする感覚は、はるかになじみ深い別の感覚に取って代わられていた。本能が危険を警告している。全てが悪いものに感じられた。


彼女が動かないのを見て、博士はゆっくりと腕を下ろした。「そうですか、また今度、ですかね」


罪悪感が戻ってきた。黒の女王の目前で彼は手を伸ばし、そして彼女自身は危険本能に反応した。彼女は恐怖に屈しているのだ。どんな黒の女王でも、恐れに負けはしないだろう。だから、彼女は彼に近づいた。


彼は慎重に彼女の周りに腕をめぐらせた。静かな一瞬だったが、それが彼女が期待した全てであり、彼女がそのために努力した全てだった。


ギアーズのテーザースパイクが彼女の脊髄の付け根に突き刺さった。彼女が床に崩れ落ちると、彼はわずかに取っ手を離した。空気からは、オゾンと焼かれたプラスチックの匂いがした。ギアーズは眼鏡のレンズ上の表示盤に目をやった。「記録を消去してください」表示盤は赤から緑に変わった。


ギアーズの計測によれば、対象を無力化してから機動部隊が到着するまでにかかった時間は11分15秒だった。ドアが開いたときにも、対象はまだ無反応だった。ギアーズの見ている中で彼らは彼女をフィールド・チャンバーに収容した。エージェントに無事かどうか尋ねられたので、ギアーズは、彼女は一切自分を傷つけなかったと言った。彼は、妨害なしに連絡できるよう、十分な時間彼女の注意をそらしておけばよかった。


対象が回復した後の処置は必要以上に長く、過剰な人員によって行われたため、その件は今や博士の手の届かないところにあった。それでも、対象が運ばれていくのを見たとき、彼は、SCP-AATR、通称「宇宙外の女」の収容プロトコルを構想し始めていた。

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