猫と煙とミュージシャン


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収容房を抜け、猫は独りだった。

彼女は普通の猫だった。人の夢に化けて出てくることもなければ、人間を理解し積極的な共存を歩むような生物ではない。猫という特徴を除いてしまえば他に何も残らないように、彼女はただここへ辿り着いただけの猫であった。

彼女は常に孤独だった。それでいて、彼女は飢えていた。幾度となく雨の降る路地裏を孤独に過ごした。幾つもの怪我を見過ごし、苦悶を経験した。網膜には寿命の砂時計が映るほどに、彼女はたった今を苦しみの中に生きていた。

そして遂に、彼女は匂いのベールを見つけた。それは彼女の望む形ではない。しかし野生の内に研ぎ澄まされた感覚が、それが彼女の最後であると教えた。そうして猫は墓石も建たぬ砂場を探しに出る。彼女はこの場所へと有り付いたのだ。

目前には重い扉がある。猫である彼女にとって、そこを通り抜けるのは容易い。彼女は直ぐに排気口の入口を見つけた。そしてまたそれが目的へ至ることを確実に予期していた。人間の死角は勿論、狭い通路であれば如何なる構造でも網羅していたかのように、セキュリティの間隙を小柄な毛玉の塊がするりと通過した。

排気口の暗がりを出て、猫は蛍光灯の光を仰いだ。彼女は目の前に立ち塞がるロッカーを見上げる。匂いの筋は最上段より伸びている。

猫はデスクの足場を飛び移り、ロッカーの上に降り立った。少し屈んで床に視線を落とす。手慣れたように爪を隙間に引っ掻けた。扉を静かに開け、素早く中に飛び移る。彼女は一連の行動を僅か10秒足らずで遣って退けた。

猫は小さな暗闇の中に焦点を合わせた。お香だった。視線の先には、塒を巻いたお香が見える。それは酷く場違いのようにも見える。

彼女はゆっくりと近付く。それは独りでに火が灯り、匂いの主張が強くなる。煙が静かに立ち上った。

“やあネエチャン、また尋問のお時間かい?”

彼女の耳に男の軽快な声が飛び込んだ。突然飛び退き、取り乱したように声の主を探す。

“アンタの胸はいつだって居心地が良いからな、もっと鼻を寄せても良いンだぜ”

視界に煙が入り込む。紛れもなく、彼女の両耳はそれだと彼女に教える。煙はそれを感じ取ったかのように、彼女を相手に揺らして見せた。

“ナンとか言っておくれよベイビー。俺もアレからちょいと学習したのさ、アンタらがわざわざライターをブラ下げなくて良いようにな”

彼女はゆっくりとそれに近寄った。お香の端を少しばかり前足でなぞる。金属に引き摺られ、低い音が響いた。

“おっとネエチャン、今日の野郎はまた小柄そうでな。でもコイツは手荒に扱うモンじゃねぇぜ、アンタの頭ん中にスピリチュアルの魂が宿ってる限りな”

猫は鳴いた。

“ンー…… あ

ここに来て初めて、煙は客人の存在を知ることになる。

ネコa cat……?”

動揺を隠せないように、煙が一度激しく揺られた。

“……ハ!ソイツはマジでキュートだな。そンでもって、アンタは一人ボッチでココに乗り込んだワケかい、お嬢ちゃん?”

煙は軽蔑するように揺れた。

猫はそれに興味を唆られたらしく、狙いを定め、煙の間を引っ掻いた。それは単に手を伸ばしただけのようで、何かを得ることはなかった。

“よーく分かるぜ、お嬢ちゃん。そうやってアンタは俺の体をズタズタに引き裂こうと張り切るだろうな。でもアンタはネコなのさ、自慢の鋭い爪は俺の体をウネウネとしかできねえのさ”

煙は更に揺れる。猫は諦めたように前足を引いた。代わりに彼女は鳴いて見せる。

“2ィ?ソイツは随分とイカれてやがるぜ。何と言うか、アンタと俺はソリが合わねえようだな。試してみたけりゃ、5пятьと鳴くんだぜ”

猫は再び鳴いた。煙の声は聞こえず。

“そうやってアンタはずっと鳴くンだろう。でも、俺には体がねぇように、目ん玉も心臓ナンかもあったりしねえんだ。姿を見せておくれよ、坊や”

猫は再び、次は弱々しく鳴いた。

“アンタはそのミジンコみてえな脳ミソで煙のことを考えるのさ。しかしソイツはムダなこと、物事とやらをもっとユルやかに見たりしてみるンだぜ。少なくとも俺はそンで生きたり死んだりしてきた”

暫くして、彼女は鳴くことを止めた。

“アンタはネコであることが憎ったらしい?”

煙は聞き手が猫であることをよく理解した上で尋ね、そして笑った。

“俺にもまだ手が足が肌白い猿の時代があったのさ。ミュージシャン。顎が外れて魂が飛んじっちまう前のな。そンな感じになっても、ネコはいつでもメンコいもんだぜ”

猫の息は荒い。

“しかしアンタの胸はスッカラカンさ。俺には手に取るように分かるぜ、ブラザー。アンタがどうやって忍び込んだかまでは分からねぇが、アンタの鼻は相当鋭いモンだぜ”

彼女は更に空気を吸い込む。煙である彼にはそれが自身のことのように分かる。

“俺の煙がウマいのか?そりゃ勿論嬉しいが、止しておいた方が身のタメたぜ。俺の歌には……アレだ、トリカブトだか単なるドブだか知らねえ毒が仕込んであるからな”

しかし彼女が呼吸を止めることはない。彼女が最後に探し出した匂いを逃すことはなかった。

“しかし、アンタからは俺と同じ匂いがする、フィーリング、感じるのさ。俺は今まで色んなバンドのヤツらを見て回ってきやがったが、アンタほどにワイルドなヤツはニュージャージーにもいなかった”

煙の彼は何かを思い返したように、彼女に語った。

“なあアンタ、俺は今からトンでもなくムダなことをするぜ”

煙は猫に尋ねる、今度は素直に。

“俺がバンドから手を引いちまった時、ナニが起こったと思う?”

彼女は何も答えない。煙は当然のように笑った。

“さっきのアンタが煙から手を引っ込めたみたいに。雨の降ったシケた日にはよーくお願いしたモンさ。路地裏でだ、暗い夜の現実さ。独りはいつだって寂しいぜ”

しかし猫はそれを感じ取ったように、煙に一歩歩み寄る。

“もっと寄り添っておくれや、ネコチャン。俺たちはいっつも煙の中で、人肌が恋しいのさ”

彼女は何処か弱々しい。最後の時が迫っていることは、煙でさえも知っていた。

“ネコチャン、俺は歌が歌えるぜ。俺に手が生えてた頃の最後に書いたヤツさ。コイツはツカえる、そンでもってアンタはツいてる”

煙の男は言った。

“俺もアンタと同じような時代を生きてきたのさ”

彼女はまるで安堵したように、更に煙に近付いた。

You and me ──

煙は歌い始める。彼女は目を閉じる。

猫は有りもしない煙の筋に凭れた。彼女は歌を聞いている。意味も知らない単語とメロディが鼓膜を通過する。彼女は今、出会ったことのない男に身を委ねている。それも人間がどうかも不確かなミュージシャンに。猫と煙とミュージシャン。まるで全てが現実でないように。

それは、暗いロッカーの内側でひっそりと。

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