ワアァァァァ!
会場内、12403人の観客の歓声が東京ドーム地下の第超級秘匿空間、通称『ハチイチドーム』に響き渡る。
注意深く聞くと、その歓声に聞いたことがある声が多く混じっているだろう。世界的な歌姫、大国のトップ、国際企業のCEO!
そう、観客全員が世界の支配者層である。そんな彼らを熱狂させるこの祭典の主催者は一体何者、いや『何』だ?
端的に言うと、メン・イン・ブラック。この世の秩序を保たんとするヴェールの黒い防人だ。
ただし、宇宙人もUMAも捕まえていない。捕まえているのは、アブノーマルな人間だ。社会に大きな害をなすほどまでにアブノーマルな人間を確保し、一般社会から秘匿する。
そして、プロレスを行わせる。戦いのみが彼らを鎮め、収容せしめるのだ。
そうして成り立ったのが、
超常興行 “Special Contain Professional-wrestling”。
通称SCP。
これは瞬く間に全世界のヴェール内へと拡大し、日本もまた例外ではなかった。
SCPはリングのみで勝敗は決まらない。観客の投票によって決まるのである。その特殊なルールは、リングに個性を生まれさせた。
特徴的なコスチューム、派手な技、心を掴む演出。
だが、人類は闘争を求める。
圧倒的な強さ。只唯一それが真に人心を掴むのである。
そして今、人々の心を喰らう血戦が幕を開けようとしていた。
赤コーナーに立つは選手番号444、『緋色の鳥』。
山脈のような大胸筋と、異常に発達した腕部。体に刻まれた深紅の入れ墨はおぞましい文様を描く。彼の過度に発達した両腕から放たれる残虐必殺技は、見たものに心を脅かすほどのトラウマを与える。
青コーナーに立つは選手番号040、『ねこ』。
彼女は美麗である。純白の長髪、端正な顔立ち、F1カーのような流線美の肉体。だがしかし脚の筋密度が異常なほど高く、明らかに異質である。しかしそれは奇妙なバランスを生み出し、見る者全ての目を奪う。その脚は自らを相手の視界の端に捉え、決して目を逸らさせない神出のファイトスタイルを可能にしている。
ワアァァァァ!
歓声が収まる気配は無い。
「勝てよ」
ねこはセコンドである僕の言葉に静かに頷く。
SCP日本支部、超皇杯準決勝第一試合。
後の世に、『死屍累々』と語り継がれる最も血みどろの勝負である。負傷者、約12500人。ハチイチドーム内にいた全員であった。
熱狂惨劇のゴングが、今打ち鳴らされた。
リングでは、ゴングと敵の息遣い以外に何も聞こえない。
2人は正面から向き合い、聖永とも思える刹那の間見つめ合う。
「オオォォォォッ!」
先に緋色の鳥が仕掛けた。両手を前に突き出すアギトの如き構えで、小動物を喰らう大鷲のように飛びかかる。
この先制攻撃で、終始相手を圧倒しこの試合をワンサイド・ゲームに仕立てあげるつもりだ。実際その戦法で緋色の鳥は勝ち上がってきた。
だが、かろうじて避けられた。
すかさずカウンターを警戒。しかし反撃はない。
ならば追撃。2撃目、タイミングをずらして3撃目。どちらもかろうじて避けられる。
緋色の鳥は連撃を停止し、構えを解く。リング端に移動して相手の攻撃範囲を絞り、先の後を突く、カウンターの体勢だ。
リングの側で僕は舌打ちした。
「気付くのが早い…!」
サッカーでシュートを10連続で防ぎ、11回目でゴールされたキーパーは、11回シュートして1点を得た選手より目立つだろう。
日本支部最高峰と噂される緋色の鳥の必殺技、『噛み砕き』を避け続ければ必ず会場は沸き立つ。あわよくばそのまま時間切れまで保たせ、勝利まで持ち込みたかったが——
「ねこ!」
ねこが振り返る。避け切れなかった『噛み砕き』で体の各所に付けられた傷は痛々しかったが、相も変わらない無愛想な表情だった。
「僕らの夢を叶えよう」
枯れ井戸からここまで来た。ここからは、覚悟の時間だ。
「ブッ潰せ!」
リングへと向き直ったねこが、緋色の鳥を静かに睨み続ける。
ジリ…と両者は間合いを計る。両者は円状に動き、相手の間合いを計り期を伺う。
緋色の鳥が右足を踏み出そうとした瞬間、ダンッ、とねこが強く踏み込む。常人には到底捉えられない速度の踏み込みから、鉤爪のごとき脚刀が放たれる。
緋色の鳥は左肩を前面に押し出して手刀を弾き、すかさず右拳でカウンター。単純ゆえに、強い。
しかし拳は空を切る。ねこはすでにリング端へと跳躍していた。正確に言えば、蹴りは外れた訳ではない。素早い足捌きで拳の上に足を乗せ、跳躍したのだ。
リングロープへと着地したねこは膝を深く、深く曲げ、リングロープに溜まった力のタイミングに合わせ、膝を思い切り伸ばす。
膝を伸ばす瞬間に前に倒れることで、ねこは前方に勢いよく“弾き跳ぶ”。さっきの踏み込みよりも数段速い速度で緋色の鳥に肉薄する。側から見れば、白い砲弾が発射されたかのようである。
しかし流石は緋色の鳥。またもや弾く。
ねこはもう一度同じ事を繰り返す。緋色の鳥もまたもや弾く。跳ぶ。弾く。跳ぶ。弾く。
段々とねこの速度が速くなる。緋色の鳥のカウンター・パンチのエネルギーを膝のバネに吸収しているからだ。
増幅され、音も置き去りにするかと思うほどの速度に達した頃、遂に緋色の鳥の肩では受け切れなくなる。弾くタイミングがズレ、生半可なガードになったためか、後ろに大きくよろめき、背中をリングポールにぶつける。
その隙を見逃さないねこではない。体幹を大きく崩した緋色の鳥の上体に蹴りを叩き込む。蹴りの反動で後ろに跳び、リングロープをバネにしてもう一度。溜まったエネルギーの消費だ!
跳ぶ。蹴る。跳ぶ。蹴る。跳ぶ。蹴る。
エネルギーの消費によって速度が落ち、常人でも捉えられる速度になる。やがて連撃は止まり、両者の姿がマトモに確認できる。
ねこは身体中に擦り傷のようなものがあり、白髪はところどころ血に染まっていたが、軽傷。しかし緋色の鳥はそうはいかなかった。
上体はアザと裂傷だらけ、特に顔が酷く、グチャグチャとも言えるほど傷を負っており原型だけがかろうじて保っていた。リングポールにもたれてかろうじて立っていたが、呼吸が浅く、意識も混濁しているようだった。
ねこはフゥと息を整え、慎重に歩み寄る。止めの間合い、真に必殺の一撃を叩き込むために。手負いの獣が1番恐ろしいのだ。
一歩。極限の緊張が場を包む。
二歩。お互いの息遣いのみが聞こえる。
三歩。ゆっくりと腰を深く沈める。
四歩。次が最後。
五歩。緋色の鳥は未だ立たず。
バァンッ!!!!
電光石火。ねこは音も置き去りに跳びこむ。砲弾どころか、光である。白光が緋色の鳥に突き刺さった!
わずかに遅れて、とてつもなく鈍い音がドーム全体に響く。
渾身の致命的な跳び蹴りが緋色の鳥の胸のど真ん中に突き刺さった。ねこは脚を下ろし、無茶な跳び蹴りの激痛によろめきつつもゆっくりと下がる。
バタン、とあっけなく緋色の鳥は顔から倒れた。血溜まりが彼から広がっていく。致命の一撃だった。
まず連撃で鎖骨や肋骨、その他頭部を含む上半身の各部位が痛み、弱った。骨折や内臓破裂まで達しなかったのは流石である。だがしかし、連撃により朦朧とし、マトモな受けが出来ない状態でのねこの掛け値無しの文字通り全力の一撃。弱っていた鎖骨や肋骨などは軒並み折れ、肺や心臓は恐らく破裂。インパクトの瞬間、直接ではなくとも激しい衝撃が伝わった脳だって無事か怪しい。それに、頚椎も。
カウントが始まる。3カウント以内に立ち上がらなければ、この血戦は終わる。
「1!」
「2!」
「3!」
あの日、訪れた廃村にたむろしていた不良どもに絡まれて、殴られた拍子に枯れ井戸を覗き込んだのに理由はない。
深い枯れ井戸の底に、彼女を見つけたときから僕の理由は始まった。
底から僕の目の前まで軽々と跳んできた彼女の眼は、飢えていた。
認めろ、見ろ、忘れるな。承認欲求に満ち満ちていた彼女は僕を一瞥すると、ひと蹴りで不良たちを一網打尽にした。
消えようとしていた夢が燃え始めた。喝采が欲しい。認められたい。褒められたい。そんな誰しもが抱いたであろう子どもじみた夢を、彼女は今も持っていたのだ。だから僕の夢は蘇った。子どもの頃の夢。掛け値無しの純粋な夢である。
そしてどこからともなく現れた屈強な黒服の男たちが、僕らに夢へのチケットを渡した。
そうして僕らの道はここから始まった。
勝利のゴングが、鳴った。
僕とねこの目に会場の色が戻る。体がビリビリと震えるほどの歓声!この歓声によって、僕らの勝利は確定した。
ワアァァァァァァ‼︎‼︎
次だ、次で終わる。一歩進んだ。残り一歩だ。そのときにこそ、僕らの道はゴールを迎える。
僕はねこを見つめる。
「本物の歓声は、こんなもんじゃないぞ」
“彫刻”と“不死身の爬虫類”の決戦での何十万人もの歓声こそが、僕の夢の果てだ。
ねこが何を考えているかは今でもさっぱり分からないが、彼女は確かにこくんと頷いた。
その瞬間、彼女は空中に吹き飛んだ。
彼は傲慢で暴食で悪辣で…誰よりも飢えていた。
故に、勝利のゴングが、自分以外に鳴るのが死んでも許せなかった。
ただ、それだけである。
それだけの理由で、彼の感情は理屈を越え、止まった心臓を鼓動させ、潰れたはずの肺をも動かし、神経は再び体の隅まで巡り始めた。
異変に気づいた観客たちは、端的に言えば発狂した。
心臓も肺も脳も神経も壊れたハズの人間が、再び立ち上がる。受け止められることではない。故に発狂した。しかし狂いの悲鳴は歓声にかき消された。
ねこが吹き飛ばされ、運営が異常に気づいた時には、もう手遅れだった。
誰もが振り向いた。おぞましき再誕を。
心を喰らう、おぞましき不死鳥の再誕を。
視線を感じる。赤い視線を。
声が聞こえる。赤い言葉が。
風を感じる。あの原野を吹く風だ。奴の翼が起こす風だ!
———緋色の鳥よ、今こそ発ちぬ。
歓声は悲鳴と嗚咽に入れ替わり、会場はパニックに陥った。皆がリングから少しでも離れようと出口に殺到する。彼の恐怖がドーム内の全てを貪り喰わんと暴れ回っているようだった。先ほどまでの歓声はどこにもない。僕たちを称え、勝利を認める歓声は恐怖に塗り替えられた。
僕はリングの外へと殴り飛ばされ、最早誰も居ない観客席のパイプ椅子に埋もれているねこの下へ駆け寄る。
ねこは見るに無残な姿だった。血反吐を吐き、とっさに拳を受けた右半身のあちこちがおそらく骨折、神経にまで達しているのもあるかもしれない。醜く腫れ、流線美の肉体は見る影も無い。特にねこの要である膝は完膚なきまでに破壊されていた。
緋色の鳥はリングの中心で恍惚としていた。自らに向けられる恐怖を咀嚼しているかのようであった。しかし、いつこちらを向くか分からない。
早く逃げなければ。まもなく異常を検知した運営委員会が鎮圧に向かってくる。あとはそれに任せればいい。勝利判定は既に確定している。
「ほら、逃げるぞ」
ねこを担ぎ上げる。その体には寸分の力も入っておらず、ただただ重いだけであった。一歩ずつ出口へ向かう。緋色の鳥と目を合わせないように出口だけを見つめる。
重い。いくらSCP選手の中でも小柄とはいえ、一般人と比べると遥かに大きい体格だ。持ちきれず引きずりつつも少しずつ、少しずつ進む。
ダン
振り返らない。出口までは遠くない。
ダン
気のせいだ。そうさ、幻聴だ。耳に、耳に残ってるだけだ。ねこが吹き飛ばされた時の音が。
ダン
ねこを見る。まだ意識は戻ってない。あの1発だけでもう瀕死だ。全身が砕かれ、脳も危ない。早く医者に見せなければ…!
ダン
ねこでこれなら、僕はこれからどうなるだろう?死ぬんじゃないか?とても怖い。まだ何にも成し遂げられていない。放り出して逃げたい。一目散に出口へ走りたい。
ダン
……でも、ねこがいる。
ダン
井戸の底ではなく、この腕にねこはいる。
ダン
目を離すなんて、できやしない。
僕はその場にうずくまり、ねこを抱きしめる。
瞬間、自分が砕けて無くなってしまうような痛みと衝撃が僕の背中を焼き、そして全てを喰らい尽くした。
ねこです
ねこはいます
ねこはいまここにいます。
ねこがすきなひとはねこはいるといってくれました。
ねこはねこがすきなひとのそばにいきたいです。ねこがすきなひとがねこをりんぐにあげてかたしてくれます。みんながかっさいします。
みんながねこをすきになります。いどのそこにはもういません。かっさいのなかのねこですよろしくおねがいします。
こたびもねこはかちましたです。よろしくおねがいします。だのに、なぜねこがすきなひとがいないのですか。いどのそこではありませんはずです。
ねこはねこがすきなひとがそばにいます。いました。いまはもううごきません。ゆすってもおきません。
とりがいます。あかいかくかくたるとりがいます。ねこがすきでないひとです。ねこがすきなひとはもういません。
でも、ねこはここにいます。ねこがすきなひとがねこがすきになりました。ねこがすきでないひともすきになります。
「あなたの事ですよ」
あり得ぬ再起の筈だった。咄嗟に庇われたものの、牙たる拳は確かに貫通し猫の骨を砕き肉を混ぜ臓を潰した筈であった。
ならば、喰らい切れていないという事。
歓びが胸中を満たす。まだ喰えるというのか、この猫は。
恐々しく飢えたる目を向ける猫に赫赫たる鳥は咆哮する。人の心の緋い原野を疾る咆哮だ。
「第2ラウンドだ」
ねこと緋色の鳥はふたたび向かい合う。
ねこは四つ足になり、比較的軽傷な左半身を緋色の鳥に向ける。上半身のバネで砕けた膝のバネを補う体勢だ。
緋色の鳥は“噛み砕き”の体勢をとる。足腰が壊れたねこの速度なら捉えられると思っての判断か。
緋色の鳥が仕掛ける。踏み込み、大きく開かれた両手がねこの頭を砕かんと閉じる。ねこはローリングでかろうじて回避。その勢いのまま上体を支えにして左回し蹴り。緋色の鳥の側頭部を叩く、が、効かない。
脚を掴みねこをぶん投げる。背後はロープでなくポール!体を捻り左半身でポールに激突。明らかに体捌きのレベルが落ちている。
疼くまるねこの頭めがけ、緋色の鳥は脚を踏み下ろす。とっさに首だけで直撃を避けるが、髪が踏まれる。身動きができない!ねこは髪を踏む足の小指を掴み、思い切り捻る。
折れる寸前、足を引き抜きそのまま蹴飛ばそうとする。ねこは迫るつま先に手を合わせ、そのまま跳び上がる。連撃での吸収の応用だ。
しかしねこは反撃できず。今の蹴りで肘が痛み、ろくに受け身が取れず勢いよくリングに叩きつけられる。
緋色の鳥の口角が上がる。明らかに押している。ブラフではなく、確実に弱っている。が、油断は決してしない。勝利が自分以外のモノになる屈辱を2度も味わうわけにはいかない。喰らい損ねる事など、あってはならないのだ。
「動くな!」
ドームの出口から声が響く。装甲に身を包んだ屈強な男たちが続々と現れ、リングを取り囲む。財団の機動隊員だ。全員がスタンガンとスタンナックルを装備している。
「いいか!両手を頭の後ろに——」
床が跳ね上がった。
クラウチングスタートの体勢を瞬時に取り、そのまま“飛翔”したのだ。緋色の鳥は喰らい損ねない。外部要素が影響しない内に喰らい切らんとしている!
ねこは動かぬ足の代わりに両手で回避しようと手をリングにつく。鋭い痛みに苦痛を喘ぎながらも、渾身の力を込めて避ける。
ズルン
が、滑った。
そこは緋色の鳥が倒れていた場所で、乾き切らないぬめった血が広がっていた!
ねこはその場から動けず、己の頭に振り下ろされるプレス機がごときの緋色の鳥の脚を見ることしかできなかった。
そして、ねこの頭は、首ごと踏み砕かれた。
硬いモノを踏み砕く感触が足裏に伝わる。恍惚が背筋を伝わる。いつも、この喰らい切る瞬間が気持ちいい。
踏み下ろした脚を上げる。もう一度下ろす。肉を踏み千切る感触が伝わる。
もう一度。もう一度。もう一度。
リングを踏む感覚と変わらなくなった。
今度こそ喰らった。これでまたひとつ、巨きくなった。
余韻に浸っていると、バチと音がした。スタンガンを撃たれたのだ。だが、効かない。首筋に刺さった電極を引き抜き、投げ返す。電極はヘルメットのバイザーを貫通し、発砲者の両目を貫く。そして電流に焼かれる。声にならない苦悶の慟哭が響く。心地よい。
リングを取り囲む機動隊員を見る。怯え、竦み、かろうじて自分に向かっていた。
食後の甘味と洒落込むか。ねこには劣るが、いずれも優秀。煎餅ぐらいの噛み応えはあるだろう。
目の前にいた機動隊員に手を伸ばす。やぶれかぶれのスタンナックルは効かない。スタンガンはもう刺さらない。頭を掴み、持ち上げる。
そしてもう片方の手で下から顎を持つ。
ゆっくりと力を込める。機動隊員は暴れるが、振り解けない。己を挟むプレス機を殴って止められる人間はいない。目から血が滲み出す。鼻血が溢れる。
恐怖の風に、心を喰われ———
———既に心ここに在らず。
血で滲む目は緋色の鳥の背後を見てグリグリと蠕動する。すでに正気が失われていた。
手を放す。
ぴちゃ、ぴちゃ、と背後から水音がする。
何かが、居る。
目を向けざるを得ない。
背けられない。
……そこにねこはいた。
潰れた顔で、息も吸えぬ喉で、首が折れて支えられぬ頭をガクリガクリと揺らしながら、彼女は確かに言った。
「よろしくおねがいします」
瞬間、激突。血が迸る。砕けた足と潰れた顔面がぶつかり合う。
誰もが目を奪われ、心を喰らわれ、意識が保てない。しかし血戦を見ゆる。喰らい喰らわれ、ねこと緋色の鳥の喰らい合いだ。
ねこが手刀を振るう。緋色の鳥が弾き、神速のストレートを放つ。産毛を掠めるが、再び手刀。仕留め損ねた緋色の目を狙っている!
ヂッ、という大きい摩擦音が鳴る。緋色の鳥の左目近くが摩擦で焦げる。焦げ臭い匂いが漂う。構わず頭を振る。ヘッドバッド。
かい潜りねこの足が緋色の鳥の膝を叩く!もはや両者の距離は10センチもない。互いの息がかかり合う、側から見れば抱き合っているかのごとき距離!
スウッ、と同時に息を吸う。一瞬止まる。そして連撃。
ねこ、体を沈めてボディブロー。
緋鳥、筋を固め受け肘で顎を叩く。
ねこ、首をごきりと動かし掠めて回避し、足を回し踵を刈り取る。
緋鳥、わずかに跳び、ねこの足を踏み砕く。
ねこ、避けれず。ギッと歯を噛み締め踏まれた脚はそのままに緋鳥のみぞおちにワンインチ・パンチ。
緋鳥、避けれず。衝撃はゆっくりと体全体に伝わるが、胸筋で止める。肘鉄を振り下ろす。
ねこ、足を引き抜き体を全力で逸らし回避。
緋鳥、すかさず追撃。腕の軌道を変えそのままアッパーへ。
ねこ、拳の勢いに合わせ宙返り。消力である。その回転のまま、蹴り上げる。
緋鳥、両腕で防ぐがよろめく。酷使した腕が限界だ。粉砕した骨が見えている。
ねこ、もう片脚で回し蹴り。側頭部を叩く。
緋鳥、折れる勢いで首を曲げ、ねこの足を噛んで止める。
ねこ、逃げられない!
緋鳥、噛み千切らんとす!
ここで、ようやく両者は息を吸う。ここからは技も力も関係ない、意地の張り合いだ。
ねこはもう片足で緋色の鳥の側頭部を叩く、叩く、叩く!緋色の鳥は構わず、顎に力を込める!
叩かれ続ければいずれは頭が割れる。
噛まれ続ければいずれは倒れ喉を食いちぎられる。
二者択一だ!引き分けなぞ存在しない!
喰らうか喰らわれるか、どちらかだ!
ついに、緋色の鳥の側頭部が破壊される。中から血液ではない鈍色の体液が漏れ出した。しかし離さない!それどころか、力が強くなる!もはや緋色ではなく鈍色となりつつある鳥は潰れた目を見開き噛み砕かんとする!異音が鳴る!
ねこは奥歯を噛み締める。ビキ、と奥歯にヒビが入る。緋色の鳥は、止まらない。その鮮血さが失われても彼は止まらない。もはやとっくに噛みつかれている足の骨に歯が食い込まれている。亀裂が走る音が聞こえる。このまま食い砕かれれば自分は地面に倒れ、喉を食い破られる!
しかしこのまま頭を砕いても彼は止まらないだろう。必要なのは顎を蹴り砕き、そのまま彼を再起不能にさせる渾身の、必殺の、究極の一撃。
ねこは深く息を吸う。これが最後の呼吸になっても後悔しないように。文字通りの全身全霊、全てを賭けた一撃に備える。
全身の力を抜く。響く亀裂音は無視する。鼓動が聞こえる。自分のものと、緋色の鳥のもの。その心音は不思議なことに一致していた。
ここでようやく、両者は気づいた。
自分とコイツは、同じ存在。心を喰らわねば生きていかれぬ、人でなし。心の臓や肺、果ては脳さえ砕かれても立ち上がれるほどの“食欲”。
——なるほど、苦戦するわけだ。
瞬間、奇妙な友情が2人を繋ぐ。餌はいても友は居なかった。こんな形でなければ、自分達は無二の親友となれたはずだ。
しかし、ここはリング。決着の時だ。
ねこはより深く息を吐き、吸う。
緋色の鳥も深く息を吐き、吸う。
2人の息がかかり合う。血の混じった、鉄臭い息だった。
無限の一瞬が流れる。
ねこの足が振るわれる!
顎ごと頭を吹き飛ばさんとする絶対絶殺の一撃!
緋色の鳥は顎に最後の力を入れ——
ない⁉︎
顎を足から離した‼︎
緋色の鳥の噛みつきにより支えられていた一部の重力がねこにそのまま戻る!あまりに唐突な力の変化にガクンとねこの体勢が崩れる!
緋鳥、発つ‼︎
これを待っていた!ねこが渾身の蹴りを放ち、体幹が崩れるわずかな一瞬の隙を!
蹴りをかい潜り、喉元を食い散らさんと疾る!ねこ、空振った蹴りの慣性で体勢が戻らない!もはや回避も防御も間に合わない!
万事休す!
緋鳥の血みどろの顎が、ねこの首に喰らい付いた‼︎
鮮血が溢れる‼︎
万事休す。
ほんの僅かな力が加えられれば骨が砕けたこの首は喰い千切られる。そして力が加えられる。
歯が食い込む。
血管が裂ける。
気道が潰れる。自らの血に溺れる。
砕けた骨が更に噛み砕かれる。
激痛。
ねこの意識は消えようとしていた。
枯れ井戸に生まれ、承認欲求に飢え、ひたすら暴れ回ってきた。だが、もう、終わりだ。
走馬灯が駆け巡る。このリングで色んなものを見てきた。
『赫赫たる悪夢』緋色の鳥
『アメリカ行き地獄特急』ノースカロライナ
『騒音大怪人』シジマ
『皆殺シケイド』ショパン・ゴジラ…………
誰にも想像すらできないような人たちがいた。だが、そんな思い出も溶けて消える。
井戸に落ちた涙のように。
………
……
…
ぼやけた視界の遠くで、何かが動いている。
「ねこ!肩だ!肩でやれっ!」
いどのそこでは、ありませんでした
意識が覚醒する。ねこには既に、1人の友がいた。幼稚な夢を共にする、友がいた。覇を抱く緋色の鳥には決して有り得ない、凡人の友であった。
首から迸る血を無視して左手で緋色の鳥の頭を抱き寄せ、右肩をぶつける。2、3度ぶつけると、ガコンという外れる音がした。
既に彼の顎は限界だったのだ。筋を裂き、骨をも砕いた顎は、既に限界ギリギリだったのだ。
が、それでも外れた顎を首に押し付ける。悪魔的な執念だ。ねこは僅かにできた猶予で左肘を緋色の鳥の側頭部の傷口にぶつける。
鈍色の液体が飛び散る。ようやく顎が首から離れる。しかし声にならない叫びを上げて再び飛び掛かってくる。
刹那、息を吸い、吐く。
ドッ!!
緋色の鳥の側頭部に回し蹴りが直撃。
彼はよろめき、それでも尚前へ、前へと……
しかし、ついに倒れた。
3カウントも、10カウントでも起きなかった。
その後、ねこも倒れた。
SCP超皇杯準決勝第一試合後非公式戦
勝者・選手番号040『ねこ』
屍山血河の一戦、これにて終結。
ワアアアアアアアアアァァァァァァァァァァ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎
会場内、10503人の観客(その全てが政府高官・大企業重役・超一流学者などの世界的な有名人だ。)の歓声が東京ドーム地下の秘匿空間、通称『ハチイチドーム』に響き渡る。
SCPはリングのみで勝敗は決まらない。観客の投票によって決まるのである。その特殊なルールは、リングに個性を生まれさせた。
特徴的なコスチューム、派手な技、心を掴む演出。
だが、人類は闘争を求める。
圧倒的な強さ。只唯一それが真に人心を掴むのである。
そして今、1番強い奴が決まる。
赤コーナーに立つは選手番号040、『ねこ』。
彼女は美麗であった。純白の長髪、端正な顔立ち。流線美の肉体。しかしもはやそれらは存在しない。足が歪に発達し、首は今にも折れそうで、顔には無数の傷があり、爛々とした目が際立っている。しかしそれらは奇妙なバランスを生み出し、かつての彼女より見る者全ての目を奪う。彼女のファイトスタイルは、心食い。見る者全ての意識を食らう。
青コーナーに立つは選手番号280、『大ウツロ』。
彼は真の異常。トップ・オブ・ザ・JP。彼にこれといった特徴はない。大きさも、スピードも、タフネスもいずれも平均的。しかし、誰よりも強い。勝てそうで、いつの間にか負けている。押していたはずの自分が倒れる。後の先とは似て非なる、時空が澱んだような狂歪さが彼にはある。しかしねこと同様傷だらけであった。『大海原権現』海洋人間との準決勝で20時間もの大接戦を繰り広げた。この大会には接戦しか存在しない。
ワアアアアアアアアアァァァァァァァァァァ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎
歓声が収まる気配は無い。
『赫赫たる悪夢』緋色の鳥が
『アメリカ行き地獄特急』ノースカロライナが
『騒音大怪人』シジマが
『皆殺シケイド』ショパン・ゴジラが
『大海原権現』海洋人間が
『404』ノット・ファウンドが
『電子猟犬』伝書使が
『悪逆規則』シンボルが
『九十九ヘルヶ浜』ナンバー9が
『唯零無一』蝗レイが
その他3000、いや4000、ゆくゆくは5000の選手全ても観客と共に喜叫し、鯨の咆哮が如くドームを揺らす。
「勝て‼︎」
ねこはセコンドである僕の言葉にニィ、と不気味に笑い頷く。
SCP日本支部、超皇杯決勝戦。
……語るべきことはもうない。
栄光へのゴングが、今打ち鳴らされた。