時は元和2年1月の春の頃である。
厳しい寒さもここ数日は和らぎ、穏やかな日差しに照らされたおかげで往来のいたるところが賑わっている江戸の街を一人の男が歩いていた。
この時代の日本では珍しい白い肌の体には濃いネズミ色のスーツを纏い、まげを結わない頭には同じ色の帽子をかぶっている。草履ではなく牛か何かの皮でできた黒光りする靴を履いて歩く姿は明らかに異様であるが、道行く人々は誰も彼のことを気に止めようとしていない。
異物であるはずの彼はものめずらしそうに周りを見回しながら、江戸の町の中心にそびえ立つ城を目指し歩を進めていた。
所変わって江戸城である。
暖かな日差しの降り注ぐ縁側では痩せた老人が庭の植木をぼんやり眺めていた。
日ごろこの時間であれば諸々の執務に気を煩わされているはずだったが、今このときだけは雑事とは無縁でいる事ができた。
「こんにちは、徳川家康。お邪魔しますよ」
どこから入り込んだのだろうか、気が付くと庭の片隅に濃いネズミ色のスーツを着た男が現れていた。
男はやや大げさにお辞儀をしながら挨拶を続ける。
「あなたのような著名人に、このようにお会いする事が出来て光栄です。神に感謝を……」
「おべっかはいい。お互い立場はわきまえているだろう」
そんなスーツの男を、老人……徳川家康はうろんげな目で眺める。
「SCP-990。お前が財団の前に現れた頃に私はアメリカにいて、その情報にアクセスする事を許されていたんだ」
「おや、それは失礼。では本来の名で呼んだ方がいいかな、エージェント・██」
「この時代では"まだ"誰も知らない名だな」
家康は悲しそうな顔をする。
「好きに呼んでくれ。どうせひと時の夢だ」
「悲しい事を言わないでくれよ。どうせなら楽しくやろう」
SCP-990が両手を大きく広げる。
「私もこれまでに何人もの財団職員と話をしてきたが、時代を遡ったのは今回が初めてなんだ。出来るとも思っていなかったからね」
「そうかい。……どうだった、"私"の町は」
「悪くないね。城を中央にして街が渦巻き状に広がっている。健康な者も病人もいる。商いで富める者がいれば貧しくて明日を迎えるすらおぼつかない者もいる。誰がどう見たって"徳川家康"の興した江戸の町だ」
「それはよかった。苦労した甲斐があったというものだ」
俯いた家康を見て、SCP-990は自分の唇を湿らせてから続けた。
「別に私はあなたをいじめに来たわけじゃないんだ。優れた身体能力と頭脳を持ち、オブジェクトの引き起こす片道切符の時間遡行に巻き込まれても絶望しない精神力、そして『より良い世界に変えたい』という欲望を抑えて"あるがまま"の時代を後世に遺そうとする自制心。財団のエージェントといえど全員が出来ることではない」
「まさか誉められるとはね」
不慮の事故により20██年から15██年に転移してしまった財団エージェントは、困惑しながらもどこかうれしそうに頭を掻いた。
「現実ではこんなことは誰にも言えないしそういうことも言ってもらえないからな。……お前は本当にSCP-990なんだな?老いた私が見るただの夢ではなく?」
「安心してくれていいよ。君は今でこそ徳川家康だが数十年前までは21世紀の日本の財団で働いていた職員で、そして私は確かにここに居る……という言い方も少しおかしいかな。まあ、ともかく安心していい」
エージェント・██は俯きながらも、今度はほっしたように大きく息を吐いた。
「最近よく昔の事を夢に見る。コンクリートで出来た背の高い建物に囲まれて、多くの異常存在に囲まれながらも、頼もしい仲間達と共に人類のために働いていた頃の事を。そして目を覚ますと今度は、影武者から本物になった徳川家康が老いさらばえて見た狂気の夢だったのではないかと不安で押しつぶされそうになる。……最近は体のあちこちが痛むし、私の知っている"徳川家康"と同じ結末が迫っているんだろう」
「君の事は気の毒に思うよ。私ももっと早くここに来ることができれば、力になることが出来たんだろうが」
「"早く"に?」
エージェント・██が噴出しながら続ける。
「君の本来の時代から考えると、これでも随分と"早い"んじゃないか?」
「それは、まあ、そうかな」
肩をすくめるSCP-990を見て、またエージェント・██が笑う。釣られてSCP-990も笑った。
「どうやら元気は出たようだね。良い傾向だ。このまましばらくおしゃべりを続けたかったんだけど……残念だな、君の目覚めが近いようだ」
「もうそんな時間か。来るのが少し遅かったんじゃないか?」
「すまない、珍しい物がいっぱいあったからね。……エージェントとしての君は気が咎めるかもしれないが、もし私が力になれることがあれば何でも言ってほしい、"家康公"」
「うーん、そうだな。お前の正体を教えてもらいたいところだが、知ったところで報告も出来ないからなぁ」
徳川家康はやや逡巡する。財団職員の心情としてオブジェクトの私的利用は許しがたいが、今は元和2年であり、それを罰する者はまだ世界のどこにも存在しない。
結局誘惑に負けてひとつだけお願いをすることにした。
「もしお前が平成██年の日本の職員の夢に出るようなことがあれば、私の顛末を伝えてもらえないか。今は、それでいい」
「了解した。必ず伝えよう。……他には何も無いかい?例えば君の好物の天ぷらを次に食べる事が出来る機会とか」
「もう知ってる。21日、つまり明後日だろう?」
笑いながら手を振る家康。
「さらばだSCP-990。これっきりもう会う事は無いだろうが」
「最期までお達者で、家康公。あなたの努力が報われることを祈っている」
20██/10/██: SCP-████-JPの異常動作が発生し、巡回中だった職員1名が異常性に巻き込まれる事件が発生しました。職員の現代への生還は絶望視されていることから、カバーストーリー"特定失踪者"の適用が予定されています。
このインシデントを受け、特別収容プロトコルは現在の形に更新されています。20██/11/██: 調査の結果、収容事故によって行方不明となった職員が15██年付近に出現したことが分かりました。該当職員は当時の[編集済み]に保護され、1600/██/██頃に当人と入れ替わったと推測されます。その後の足取りは一般的に知られているものと大きな差異は無く、1616/██/██近辺で終了したものと考えられます。
[編集済み]の子孫として伝わる複数の人物のDNAを検査したところ、この調査報告を裏付ける結果が得られました。
調査の過程に不審な点が見受けられます。この報告を追記した者は私のオフィスに来るように。 ――██博士