したたかにアルコールを飲み干した前原博士が得意の琉球唐手をそこらへんのテーブルに試し始め、カフェがひどい混乱に包まれる中、そっとエージェント・カナヘビは会場を抜けだした。そろそろ、「刀」に頼んでいた仕事が仕上がっていることだろう。
ブンブンという羽根の囀りがゆっくりとスピードを落とし、そして消える。特製の、蜘蛛と蜻蛉を合わせたような形状の移動用水槽はそっと廊下に降り立った。ゴムにより脚の先端がキャップされているため、音はしない。そのままかなりのスピードで16本の脚を動かしながら、爬虫類を乗せた水槽は「要求セキュリティレベル4以上」と書かれた扉の先へと姿を消した。
鉄製の階段を水槽が音もなく降りていく。コンクリートがむき出しになった、薄暗い場所。殺風景な壁の、ちょうど人間の腰辺りにある、赤茶色い手形が小さな電球によりかすかに見えた。
ぁあ、少し前にここを通った奴は麻酔に耐性があったから途中で起きてしまったんだったな。爬虫類はそう思い出しながら階段を降るよう、操作を続ける。
名物エージェントである自分が会場にいないというのは、カンのいい連中に感付かれる可能性がある。この先で行われている仕事は基本的に、レベル4未満のクリアランスの連中には開示されない。「刀」――SM_Lは数少ない例外の一つだ。
裸電球に照らされた、鋼鉄製の扉が見える。先ほどの手形と同じようなサイズの手形、それと凹み、傷が、いくつかここにもあった。まるで扉の内側に連れ込まれないように、必死で扉にしがみつき、爪を立て、それが剥がれてもなお足掻き、とうとう力尽きて中に連れ込まれたような。
扉に付けられた電子錠にカードキーを差し込み、パスワードを入力してから、水槽の脚のうち何本かが鋼鉄の扉を押す。馬鹿馬鹿しいほど分厚く、重い扉――中に居る者が逃走しないように造られたものだ――がゆっくりと、軋みながら開く。
扉を開けるとすぐに、叫び声が響いた。苦痛に満ちた声。それと同時に、とても楽しい物に出会った子供のような、底抜けに明るい声がした。
「そんな悲しい声をあげないでくださいよ、何しろ……貴方、これから永遠に明るい世界が見えるんですから。瞬きによって暗くなるということはないんですよ?」
薄暗い中で、ちょうど裸電球と扉の位置の関係で影になっている、フックのようなものに吊るされた人の胴体くらいの大きさで、先から五分の一ほどがくびれている――ちょうど、手足を取り外したマネキンのようなものが、体をくねらせながら、叫び声をあげている。
その前に、こちらは電球の光りに照らされて逆さまにはっきりと姿を見せているのは、中肉中背の、おそらく男性――ちょうど、肉屋の上っ張りをそのまま黒いゴムに変えたような服と、蛇を模しているスペイン風仮面を付けて、右手に薄黒く汚れた小さな鋏を持っている人物だ。
「緊急の仕事を入れてしもてゴメンな、刀……今はSM_Lやったっけ」
カナヘビがそう呼びかけると、彼は振り返り、左手を挙げた。裸電球に手が当って、揺れた拍子に男の後ろにあった大きなトランクが見えた。口を開けたそれは、いつもエージェント・差前が中にたくさん詰めている様々な怪しげな民芸品だとか、妙ちきりんな魔術グッズだとか、或いはこの忘年会で誰かをおちょくるために用意した色々な楽しい品々の代わりに、ずらりとメスとナイフが入っていたし、それだけではなく彼の周りには、牛刀、分厚い鉈、刺身包丁、幾つもの剃刀と剃刀の刃、何本もの日本刀、野太刀、脇差、ギザギザの付いた肉きりナイフ、軍用の腕ほどの長さのナイフ、銃剣、裁ち鋏、壁に立てかけられた西洋剣――広刃剣や長い両手剣からごく短い投擲用のナイフまで――、そして薬品がたっぷり充填された幾つかの注射器と、使い終わりの注射器。その他、様々なよく手入れされた、ある用途のためだけに使用される幾つもの刃物が、黄色い電球の下で黒く染まっている。
「ん、ああ、エージェント・カナヘビ。短い時間でいい感じに仕上がってるでしょう? 彼はもう水虫で苦しむ必要もないし、この時期の手先のささくれに悩むこともない。ついでに腹黒くないことも分かったんですよ、ほら」
床に置かれたバケツから取り出したそれを、表情の伺えない小さな爬虫類ははちらりと一瞥して、それから全く感情というものを感じさせない声で言った。
「お楽しみなんはええけど、これは掃除や。さっさと終わらせるのがええと思うんやけどね。後、そろそろ戻ったほうが良いんちゃうの? あンた、ずいぶん人気ものになってるんやから。」
「お言葉ですがねぇ、掃除は楽しまなきゃあ損なんですよ。ええ、何しろこういう仕事を楽しめない奴はやらないでしょうから。せっかくの年の瀬、整理整頓を楽しくやるってのがいいと思いますよ?」
喜悦に満ちた声でありながら、蛇のマスクの向こう側の瞳は、喜びだけではなく、あらゆる感情というものを排除した、恐ろしく冷酷な目――普段とは似ても似つかない、深い涸れ井戸のような目であった。水槽の中の爬虫類と同じように。
「さいで。まァええけどね、そろそろ終わらせて戻らんと、片付けの仕事に感付かれるかもしれん。もう終わらせてもうて、サンタクロースの真似事に戻ってな。後はしとくさかい」
「うーん、勿体無いですね。まぁいいでしょう。クリスマスですし、慈悲ってものが必要です……そうでしょう? 聞き出すことはひと通り終わりましたしね、お陰でカオス・インサージェンシーのテロは失敗に終わりそうですよ」
SM_Lは無造作にトランクの中から剃刀を掴んで、吊るされたトルソーの、上部のくびれのあたりにあてがい、
「クリスマスの祝福&慈悲万歳!」
という声とともに引いて、終わらせた。
――――
カフェエリアは喧騒に満ちていた。天王寺博士が奇声を上げながら真っ裸で奇妙な踊りを踊っており、女子職員が悲鳴を上げている。ぶんぶん音を立てながら、そこにカナヘビが操作する水槽が飛んでくる。楽しい職場で、平和なクリスマスだ。来年は良い年になればいい。こんな日に面倒な掃除をやる羽目にならなければいいのだけど。
「わははははっ、クリスマスの祝福&慈悲万歳!」
笑いながら巨大なトランクを開き、中からプレゼントという名の妙な品々をカフェの人々に押し付けながら、素早くテーブルの上にあるごちそうをかっさらっているのはエージェント・差前だ。早着替えが得意なことだとカナヘビは改めて思いながら、机に近づき、ビールを注いで一口飲み、ふと窓の外を見た。
「雪降っとるわ。いつの間にこんだけ積もってたんやろ」
差前に反応して、賞金首をとっ捕まえようと職員達が彼の後を追いかけていく。その喧騒を背にして、エージェント・カナヘビはなんとなく天上の主に、地には平和を、と祈ってみた。