歯車
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母へ

加藤林清


今年送った手紙はこれで3通目になります。前の2通は受け取れましたか?

私は元気にやっています。母さん、どうか心配しないでください。こちらの人は皆、私に良くしてくれています。食料も十分にありますので、安心してください。母さんはもっと自分をいたわるべきです。そちらの配給は少なく、一人分にも満たないでしょう。私のために残す必要はありません。こちらでの任務はもうしばらくかかりそうです。私が帰る頃にはもう、腐っているかもしれませんよ。

私たちは宜昌を占領しました。これからまもなく、石牌に攻め入る予定です。心配は要りません、神様が私たちを助けてくださります。私たちの隊には多くの巨人が所属しています。彼らの背丈は私2人分もあり、神がそばにいてくれるのか、銃を身の回りに浮かばせることができます。さながら、子どもの頃に御堂で見た、観音様のようです。何故かは分かりませんが、巨人のそばを歩くとしょっちゅう転んでしまいます。これは多分、神様には簡単に近づけないということなのでしょう。私たちはまた、多数の神職を擁しており、彼らは神を降ろして、私たちに助力させてくれています。こちらは至極安全ですので、母さんはどうかご安心ください。

石牌を落とせば、大河を渡れるようになります。支那はたちまち、大日本帝国のものとなるでしょう。大東亜共栄圏を打ち立てれば、一日中戦わなくても済むようになります。時が来たら、母さんをこちらに住まわせるつもりです。ここには一面の平原が広がっており、延々と続く大河まで存在します。帝国による統治の下、この地は極楽浄土に生まれ変わるはずです。その時になれば、母さんも身を粉にして働く必要がなくなります。私たちの仕事は支那人が代わりにやってくれるでしょう。

母さん。私はもうすぐ、戦場へと向かいます。私は人に頼んで、私物を故郷に送るつもりです。中には筆と赤帯、少々のお金と父の遺灰が入っています。母さん。どうか自分をいたわって、食料を残さないようにしてください。

どうか心配 私のことを想わないでください。あなたの祈りは十分に伝わっています。

1943.5.27


「……支那人が代わりにやってくれる」

最後の一文字を書き終えたものの、加藤は筆を仕舞えずにいた。腹の中がまたゴロゴロと鳴る。戦線を伸ばし続けたために、補給の維持は困難になっていた。石牌要塞へ盲進するのも、逼迫した状況ゆえ、致し方ないことであった。

加藤は遠方にある石牌要塞を凝視する。彼の瞳孔は銀色に変化し、虹彩には無数の銀糸が張り巡らされる。今まで通りの勝利を──加藤は鏡面のような両目を閉じ合わせた。

刹那、彼の脳裏に歯車という言葉が浮かび上がる。だがこれは、必勝の興奮にすぐさまかき消された。さながら、砂浜に書かれた文字を洗う波のように。あまりにも早く消えたために、加藤は言葉の後に続くと、誤魔化しきれなくなっていた失敗に注意することができなかった。


国軍第十八集団軍の第十一師団長・胡璉は、突撃してくる妖魔の群れを目にした。元より彼は、死を覚悟していたものの、駆けつけた援軍によって、一筋の生きるチャンスがもたらされた。

彼は身を翻して、兵士に呼びかける。「人生百年、死ぬのは一度きっかりだ。良い死に場所を見つけられて、たいへん嬉しく思うよ。この石牌での一戦に、天下の半分が懸かっている。諸君──」彼の視線は、援軍に同行する牧師の顔辺りで、数秒ばかり静止した。「死力を尽くすのだ!」


加藤はこちらに向かってくる歯車──歯車仕掛けの、巨大な機械──を目にした。無数のピニオンが高速で駆動し、轟々と音を発している。歯車の歯はどれも鋭利で、深い溝には暗赤色の血肉が堆積している。かみ合う歯車からは明るい火花が噴き出しており、演劇に出てくる火を吐く怪物を想起させた。

眼前にウィンチが迫り、加藤は目を瞑る。彼の眼球は涸れていて、チクチクとした痛みが走った。

歯車は血肉への憎悪を込めながら、加藤の燃え上がった魂を躊躇なく打ち砕いた。高天原から降りた神は彼を守りきれず、出征前に母がくれた祈りの赤帯も、彼の命を僅かでも長らえさせることはなかった。

帝国のため、共栄圏の建設に挺身する──加藤林清は熱狂の中、歯車の下に巻き込まれた。彼は判別困難な屑肉と化し、歯車の歯にこびりつく。勢いよく振り回されるその姿は、両親と帝国の祝福を背に中国の地を踏んだ、数万の日本人青年を彷彿とさせた。


1943年5月、中国軍は石牌防衛戦にて勝利を収める。中国戦線の転換点となったこの戦いは、日本軍による中国全土の占領計画を事実上、完全に頓挫させた。死傷者は中国軍が1万人余り、日本軍は2.5万人だった。

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