蛾よ、汝なぜ蝶に憧れ蜘蛛を気取る。
評価: +25+x
blank.png

 小さい頃、まだ自分が何者なのか、大人か子供かはたまた生きているのか死んでいるのか、その境界を知らなくても生きていけるほどに無垢だったころ。それぞれの手で繋がれた両親と通りがかったショーケースの中にあったウエディングドレスに見惚れたことがある。

「ママ!パパ!わたしあれ着たい!」

「あら、どうして?綺麗なお洋服だったから?」

「うん!キラキラしてるくらい真っ白なの!」

「ですってパパ…ふふっ。」

「おいおい…今からこの子がお嫁さんになることを考えなくちゃいけないのかい?困ったなあ。」

「お嫁さん?」

「ああ。この服はね、大人になって大好きな人と結婚する時にしか着れないものなんだ。一生に一度しか着ちゃいけない特別なものなんだよ。」

「じゃあ!ママはあのお洋服、来たことがあるの?」

「ええ、パパが綺麗だーって泣きながら褒めてくれたわ。」

「えーいいな!わたしも早く大人になって結婚するんだー!」

「あらまあ!」

「おいおい、困ったな…ははは!」

 その日の夜、不意に私は目を覚ました。昔から私が夜に起きるときはお漏らしをする時だから起きた時から不安だった。布団を確認したところ粗相してはいなかったらしく、安堵して寝ようとした私を誰かが呼び止めた。

「ねえ」

「…?あなた、誰…?わたし、眠いの…」

「僕と 結婚 しませんか」

 それは大人になって言葉を覚えた今でも形容しづらい「存在」だった。わかるのは概念的なものではなくあくまでも物体として存在していて、何か私の家に来るのにいくつかの「境界」を超えてきた。そのような印象を無理やりにでも直感させる「存在」。

「結婚?」

「はい 僕は 貴女に 惚れました」

「僕の つがいに お嫁さんになってください」

「私のこと好きなの?…じゃあじゃあ、ウエディングドレス?っていうもの、私にも着れるかしら?」

 まるでいけないこと、夜更かししているみたいにこしょこしょと話す。頭に掛け布団をケープみたいにかけながら。

「分かりました 最高のドレスを 貴女に用意します」

「本当に?わかったわ…!」

「プロポーズ 成功して よかった では 改めて」





「私 ████████・████は 弧蝶 沙季子さんに 永遠の愛を 誓い その愛で 縛り続けることも 誓います」

「私、弧蝶 沙季子は旦那さんをあいしています!…縛る?って何───」

 全てが変わったのは一瞬だった。天と地が逆さまになり、パパとママは私達を祝福するかのように赤黒い肉と白い神経を吐き出しながら死んだ。家は液体になり崩れ波紋を作り、この家を形作っていた現実性の全てが崩壊した。血塗れで発見された当時の私に残されたのは花嫁衣装でも新しい家族でもなく、何かに貫かれたような跡だけだった。

 そして、今に至る。私の物語を話すにあたって最初に結末となるゴールを明言しておこう。

 私の名前は「弧蝶 沙季子」。O/Oアウターオーサカでは「ドクイト」の名称で通っている。

 この物語は、私がウエディングドレスを着るまでの話だ。それがどのようなデザインであれ、シチュエーションであれ。


2046/03/06 アウターオーサカ 娼館街サクラノミヤ 「呵呵廼笑」

「げぇ、あのオヤジ身分詐称してやがった!」

眩いネオンの光と汚く舗装された路地の境界コントラストに包まれているO/Oだが、サクラノミヤ一帯の建物では淡いピンクの照明が好んで使われるため少々雰囲気が異なる。この娼館でもまた、それは雰囲気作りのため例外ではない。

「何、あんたまたハズレ客掴まされたの?」

「勘弁して欲しいわホント、私の男を見る目ってアッチの方しか発揮しないのかなあ…」

「男なんてそんなもんよ。まあ違法服薬者ハイドジャンキーじゃなきゃ病気の心配もないしいいんじゃない?」

「それは違うけど…なんか大阪当局官マッポの下請け会社ぽいんだよね、電子名刺ハッキングしたら」

「えっ待って…あんたそれ大丈夫なカネなんでしょうね?」

「呵呵廼笑」のロビーで2人の娼婦がパソコンと睨めっこをしていた。塗装が剝げかけの招き猫を同じテーブルに置いて型落ちのパソコンを操作しているのは「アシナガ」、当局の単語で顔をしかめて画面を除いたのは「イラガ」という源氏名の娼婦だ。

「毛が生えた程度にハッキングスキル持ってる一介の娼婦が公僕最大のブラックボックスなんて言われてる当局の財源なんて知ってるはずないでしょー!?はぁ〜あ最悪…金払い良かったのは連絡交換しない口止め料かと思ったけど…」

「部分的に正解でしょ、それ」

「あの〜…おふたりの話聞いてたんですけどぉ」

ビニールのカーテンで区切られた奥の部屋からやってきた娼婦が会話に割り込む。彼女の名前は「セアカゴケ」。少し赤い頬にじっとりと濡れた髪から推察するにシャワーを浴びた直後であろう。

「何がいけないんですか?当局のカネが誰も知らない出自なら、私たちも知らぬ存ぜぬで通せばいいことじゃないですかぁ。誰も知らないってことは絶対バレないって事だし」

「…確かに!そりゃそうだ!ナイス新人、私のミスはどうにかなりそう…なってほしいなあ…」

「あー…まあそうね。娼婦やってる割に頭回るわねアンタ」

「それ、皮肉ブーメランも承知で言ってますぅ?」

セアカゴケは少し「ひだ」のある緑色の細い腕、その先に生えている3つの指のうち真ん中を発言主のイラガに向けた。

「いや、もちろんこの業界に飛び込んだ年数の割にはっていう枕詞もつくけど」

「…私の発言に落ち度があったってことですかぁ」

「落ち度っつーかさあ…」

イラガは用途不明の御札たちが無造作に張られたテーブルの上で頬杖を突いた。

「アウターオーサカの公務員の殿方が利用する店は基本的に安心できる大手なわけだ。んで、その大手の定義は何かというと…まあ単純に規模の話だったり、後ろ盾がデカかったり、政治が上手かったり?」

「娼館に政治?」

「相手方にあげる賄賂とみかじめが太っ腹な店のこと!」

アシナガが招き猫に縋るように抱きしめながらイラガの話を補足した。セアカゴケはその言葉を聞いて周囲を見渡した。

淡い青と桃色の照明でただでさえ見づらくなっている中で女の子を選んで下さいという受付、店の大事な商品である女の子たちに控室は与えられずロビーでたむろしており、辛うじて細長い更衣室が与えられているもののそこもロッカーに圧迫され、異常性のない標準的な人間がカニ歩きをしなければ移動もままならない。必然的にロビーは女の子たちの私物で溢れており、頭上には明らかに120cmはあるであろう般若や岡目八目のお面、誰が書いたか達筆で「呵呵廼笑」の4文字が男と女の情事を行うにはあまりにも場違いすぎる益荒男の息吹を感じさせた。

総括するならば自分が勤務している娼館は決して大きな店構えとも言えず、清潔さを保ってはいるがよくわからない装飾やもので乱雑である。

「…うちってそんな優良店でしたっけ」

「だから問題なんだよなー…」

アシナガが露骨に肩を下す。

「何の準備も後ろ盾も無くどんどん店がでかくなっていくと色々目をつけられちまうんだよ…競合他店やら、それこそマッポが妨害目的のガサ入れなんかするし」

「出る杭は打たれるってやつだね」

「…自分がこの業界の事知らないのはわかりました。でも納得いかないですぅ」

セアカゴケは疑問が解消されても苛々とした態度を崩さない。

「ウチらがそこまで人気店になったのはお得意様への賄賂でも力をチラつかせたわけでもないんですよね。単純に先輩方の頑張りで、正々堂々結果を出したのに真っ先に目を付けられるなんて…間違ってますよ」

いつの間にかその間延びした口調が取れるほどの熱弁、しかし先輩2人は希望に溢れながらこのO/Oの薄暗闇に入ってきた目の前の新人に対する態度を崩さない。

「はぁ〜あ…つくづくアンタ、この世界に染まってないから凄いわ」

「我々が皆男にとって理想の女だって自信持ててるわけじゃないっす。むしろ原因は…なんとなくわかってんだよね」

「え?一体何が…」

セアカゴケが言い終わらないうちにロビーの端に置かれたテーブルから

「やあっと出来たー!」

爆音が響いた。ただうるさい訳ではない、カタルシスや爽快感、そういったもの全てを内包しているのが分かるほどに快活で、しかし低めの女声であった。

「ブユちゃんこれ。アクセサリー系はポシェットん中入ってるから」

「ヒメツチちゃんは女児服だったね。はい、リアリティ出す為に少しピチピチに見えるけど激しく動く分には大丈夫」

「この赤紫のボンテージ誰?あっアオカミキリさん?相手の男趣味悪いね…すいませ〜ん、頑張ってきて」

彼女の手前に鎮座されたミシンはノートパソコンと見紛うばかりにパンクなシールでびっしりだが、明らかに10年単位で使用してきたであろう年季を感じさせる代物である。その主もまた、道具と同じように落ち着いた雰囲気を出しながらも言動はエネルギッシュ。「糸で縫い合わせたような」チグハグさであるが、同性でありながらも何か惹かれるものがあった。

「あれ…私と同期の?」

「…名前までは思い出せないか、源氏名ドクイトちゃん。新人娼婦兼服飾担当ですな」

「ある日突然転がり込んできて自分の洋服を皆さんに使って欲しいからここで働かせてくれってうるさくてさ…そしたらその光景を糞狸野郎ウチの店長が面白がったわけよ」

「ドクイトの作る服を着た奴には何かしらのバフが付くっぽくてな?多分本人の異常性なんだろうけど」

「バフって…?」

「もうなんか色々よ。男にとって魅力的に見えちゃったり、ナニとは言わないけど具合がよくなったりするんだってさ。本人曰く半日経たないうちに効果がなくなるからああやって来た服を布にバラしなおしてはもっかい糸で縫い合わせて…って忙しいらしいぜ~」

「…何それ、私たちが体張って男に抱かれたり雑用してる間のんきにお洋服づくりしてるってこと?」

「お、セアカゴケも嫉妬とかするんだ」

明らかに物申したい雰囲気を出しているセアカゴケよりも前にドクイトが気づいた。彼女達の勝負服を渡し終わった後に彼女はこちらのテーブルに近づいて

「貴女、私と同じタイミングで入ってきたセアカゴケさんだよね?」

照明のせいで色味は少しよくわからないが、いわゆるファッション雑誌から出てきたような「量産系」そのまんまといった印象を受けた。チークのノリからしてコーディネートだけではなくメイクも相当な気合の入りようだった。

「ドクイト…さん、私の名前知っててくれたの?」

「貴女だって!覚えていてくれてありがとう。それでね…」

先輩2人が名前を言うまで覚えてなかったことを隠し通せず、セアカゴケは周囲が気にしない程度にほんの少しだけ顔を歪めた。そうとは知らないドクイトは少々大きな手提げの紙袋を差し出した。

「これ。呪幸糸念じゅこうしねんは込めてない普通の服だから普段使いできると思う。お近づきのしるしに」

「え?いいの…」

「ああ、むしろここまで挨拶を先延ばしにしてごめん」

ドクイトはセアカゴケよりもさらに申し訳ないような表情をして話を続ける。

「私ってさ、ここで働かせてもらうまで特訓とか修行とかばっかしてたんだ。それで社会常識とかマナー?っつーのがよくわからなくて、二の足踏んじゃってた。でも仲良くしたいのは本当だからな!そこ分かってくれると嬉しい!」

セアカゴケは更に顔を歪めたが、それは目の前の純粋無垢な同僚に嫉妬していたのを恥じ入ったためか、はたまた単純にムカついたのかはわからなかったが

「別にぃ…O/Oにいる人達なんかあなたよりよっぽど礼儀がなってない人もいるわけだしいいわよぉ。それよりもその中途半端な、あー…男口調っていうの?何とかしなさいよぉ。そっちのほうがよっぽど変だからぁ」

ドクイトに背を向けて、いそいそとロッカールームへ駆け込みながら言ったその口調にはわずかながら氷解の兆しが見て取れた。

「おーいまだ勤務時間だから着ちゃダメだぞー!」

「いやロッカーに置いておくだけでしょ…多分」

「でもあの浮かれようよ?」

「うーむ…」

アシナガとイラガの呆れたような、少しほっとしたようなやり取りを後にドクイトはミシンの置かれたテーブルに戻っていく。しかし女の子たちの和気あいあいとした空間は長く続かなかった。

「いらっしゃいませお客様。どの子になさいましょうか?」

受付のボーイが新たに来店した客に話しかける。先述の通り控室など存在しない呵呵廼笑では来店した客に女の子たちが手を振ったり、わざと色っぽい表情をしてからかったりする。

「ここに…弧蝶沙季子さんが働いていると聞いたのだが」

姦しいロビーが、喧騒はそのままにいくらか警戒の色を示した。源氏名で働いている風俗嬢の本名をなんの躊躇いもなく出すのは、こういう店に慣れていないという点と身内であるという点、2つの厄介事を持っている。肝心の男の身なりは決して良いものとは言えないが、このようなどん底の吹き溜まりでは気にならない程度だった。むしろ仕立ての良い服で雰囲気も悪くない男が、ありていに言うなら「没落」したような。上から下に急に落とされてしまったような。そういった印象を受けた。

そして、本名を呼ばれた肝心の本人も彼の正体を知っているようだった。

「…吾蜂、君?」


2046/03/06 アウターオーサカ サクラノミヤ駅前メインストリート

「…店の方はいいのか」

「ああ、夜になるし繫盛するのはこれから。私がいる場所なんてないよ」

O/Oのネオンの輝きや街頭広告のアナウンサーの声量は駅前に近づくにつれて大きくなる。そんな世界から壁一枚隔てた違法雑居ビル38階の定食屋で弧蝶 沙季子ことドクイトと吾蜂 泰正あばち たいせいは十数年ぶりの再会を最悪な空気で分かち合っていた。

「…それで?なんで来たの。まさか中学卒業と同時に行方不明になった幼馴染を探しに来ただけじゃないでしょうね」

「そうだ。本当、本当に探したんだ。なんで…」

自分の声量の大きさに無自覚だった吾蜂は周囲の眼や幼馴染であるドクイトの睨むような視線で我に返った。

「じゃあなんでじゃなくどうやって来たの?「定期」か「帰り道」ぐらいの用意はあるんだろうね?」

ドクイトの質問に吾蜂はいまいち容量を得ないように思えた。

「噓でしょ、無意識にO/Oに来たっての?」

「無意識じゃない。君がここにいる事には確信があった。ただ…」

ふっと、持ち前の頑固さがそのまま飛び出して出ていたような吾蜂の顔が青くなり、俯いた。

「俺は財団職員だった」

「ああ、ここに来るための道のりを報告書で見たとかしたのか」

「いや、財団のO/Oに対する調査は牛歩を極めている。それに、もうやめたんだ」

「は?財団やめたの?つか財団ってやめれんの?なんで」

「自分が財団ロゴのバッジを外し、理念から解放されたときに、真っ先に君の名前が思い浮かんだ。好きだったし、今でも好きな女性、弧蝶沙季子さん。せめて生きているか死んでいるかを知りたくて、それでなけなしのコネを使って情報を」

「返答になってねえよ…つか、何?私の事好きって?」

ドクイトの質問を無視して吾蜂はそれきり黙った。少なくともこの件に関しては口を開きそうにない獲物を前に蜘蛛は呆れ、呪幸糸念がフルに編み込まれた「一張羅」ならば目の前の男を永遠の魅了に堕とし理由を問うことも可能だが、そこまでするほど冷血ではなかった。

「…あとでちゃんと言えよ。気持ちが整った時でいいからさ」

「すまん、蝶ちゃん…」

テーブルの上に乗った白飯と海老春巻きを挟んで気まずい沈黙が流れた。自分が女々しい態度で接したからだろうか。それとも小学校高学年でやめろと言われたあだ名を咄嗟に出してしまい怒っているのだろうか。吾蜂泰正はその若さで財団職員になれるほどに優秀であったが異性とのこういう会話にはてんで免疫がなかった。というか異性同性非人間に至るまで口下手だった。今この会話がメロドラマなどで見たことのある「男と女のラブゲーム」なのかの認識すらもわからない。

沈黙を破ったのは新しく店に入ってきた客だった。190行くか行かないかくらいの長身だが瘦せぎす。藁で編んだぼろ笠を雨も降らないのに目深に被り、風呂敷模様や出所不明の紫の布でチグハグにリペア補修された服装。極めつけは左手に勇者の盾のように大事に持っている赤提灯。耳なし芳一が如く文字がびっしりと書かれており、「この世全てが胡蝶之夢なら、どれ程人は苦しまなかった」と書かれているのだけは辛うじて吾蜂にも解読できた。

そんなO/Oでは特に珍しくもない確定変質者に対しドクイトは軽く手を振って自分たちのテーブルを知らせた。吾蜂は噓だろと目を見開いたままドクイトと変質者を交互に見比べた。

「情報屋のマヨネーズさん。O/Oの九龍城塞エリア…この辺のことならよく知ってる」

ドクイトはマヨネーズの格好が恐怖を想起させると知っていたのだろう。「情報将校って言うと喜ぶよ」と大袈裟に眉を動かして付け加えた。そんな茶々で警戒心が溶けるはずがないが、ズレたコミュニケーション価値観を持つ口下手の吾蜂は「どうも」と軽く頭を下げ、マヨネーズも立ったままで同じように下げた。案外話せる人かもしれない。

「そうだ、吾蜂も来る?この仕事が成功したら君のこと邪険にしないよ」

「仕事?…俺に風俗嬢の?」

「バァカ違うよ…私は人前で裸になれないから副業やってるの」

ドクイトは「これで痛い目に合えば懲りてくれるだろう」という感情をあからさまに声色で示して答えた。

「O/Oは無法者どもの集まりだけど秩序がない場所じゃない。その最低限の境界線すら理解できない奴らを懲らしめるお仕事」


2046/03/07 アウターオーサカ 九龍城塞居住区 艮区画8階 外廊下

九龍城塞はいつだって静寂に覆われている。繫華街で寝泊まりする住人が多いのと、ここに住む住人は夜に出歩くことがどれほどの自殺行為かを心得ているからだ。所狭しと並べられたドアの前にやや狭い廊下が隙間を縫うように、だがいくらかの秩序を残しながら敷いてある。

そんな人気のない廊下を、1人の女が歩いている。いわゆるファッション雑誌から出てきたような量産系女子。九龍城塞にはあまりにも場違いなその女の眼前の闇に、コトっと何かが落ちる音がした。

女はふん、と白けたような顔をあらわにして一歩進む。美麗な装飾が施された手持ちサイズの筒と折りたたまれた紙が廊下の真ん中に鎮座していた。まるでそこにあるのが当たり前かのように。

女はそれらを拾い上げる。紙にはこう書いてあった。

星屑の見える先に僕たちの居場所がある。

星空がなくなったこんな所を飛び出して、

僕らと一緒に万華鏡の世界に…

星屑の世界に行こうよ…

もう一方の筒を見やると、確かにそれは万華鏡だった。パラテクが発展した昨今では骨董品に扱われる遊び道具である。女は1回深呼吸の後、右目で筒の側面に空いた孔を覗き込んだ。

10秒、20秒、30。1分経っても覗いている。まだ見ている。魅入られている。このouterにはない星空に。煌々と輝く自然の明かりに。ああ、そこに行けたらどんなに…いや、星の光のみんなと同じになりたい。きらきらと輝いて。

パリン。何かが割れる音がした。ガラス?いや違う。女が立っている地面だ。亀裂の入った廊下は液体になる。あの夜のように。星空を遮る家を消したあの…

「…万華鏡の模様が形成する100通り以上の認識災害誘発型ミーム図形。なるほどね」

「!?」

女は、いやドクイトは正気を保ったまま眼前のお尋ね者に話しかける。廊下は溶けていない。お尋ね者は穴開きガスマスクの内側で苦悶の表情を浮かべ、なぜこの女は平気なのか一瞬考える。右目を閉じながら覗いていたのだろうとすぐに思いつく。問題は…

「何故僕の狩りのやり方を知っている。僕はちゃあんと毎回手を変え品を変えやっているんだぞ!」

「いや、あまりにお粗末すぎる。罠っていうのは目立たずに糸を張るもんでしょ」

その言葉が終わるか終わらないかのタイミングでお尋ね者の背後から衝撃が放たれる。吾蜂が繰り出した重い踏み込みによる発勁はお尋ね者にクリーンヒット…しなかった。その体の全身から様々な大きさの棘が生え出し、逆に吾蜂の掌を貫いた。

「痛…!」

「こいつに物理攻撃は効かない!どいてろ!」

ドクイトは黒いバッグから呪符を取り出し、右手の人差し指と中指の間に挟みながら五芒星の図形をなぞった。お尋ね者の周囲に電子ホログラムで形成された大きな金魚と藻草が現れる。

「よし!決まっ…え?」

不意にドクイトが目を見開いて右手を降ろす。呪符の効果は無くなりそれらも消える。

「なんだよ、こけおどしか…僕を脅かしやがって!」

勢いを取り戻したお尋ね者は踵を返し逃走する。吾蜂は負傷した手を抑えながらドクイトに駆け寄る。

「どうした!まさか万華鏡の精神汚染が…」

「…そうじゃない」

冷静さを取り戻した、それでいて怒りを込めた返事だった。ドクイトの視線の先。お尋ね者で隠れて見えなかった死角に人影が倒れている。おおかた先ほど仕留めた獲物だったのだろう。

その人影は、気絶していても尚紙袋を後生大事に抱きかかえていた。見覚えのある紙袋を。

「なんて偶然だろうな?なあ」

ドクイトが立ち上がり、数十メートル先闇に消えつつあるお尋ね者に話しかける。

「罠なんて野暮ったいことはしない。…正面から行ってやるよ」

そう言った瞬間に、吾蜂は奇妙なものを見た。彼女の背後にぼんやりとしたビジョンだが、彼女に傍立つように存在する人型を。

体格はドクイトとほぼ同じだが、ボロボロのベージュ色ドレスに身を包んでおり、顔面に相当する部分には翅を大きく開いた虫が止まって、いや顔面と一体化していた。張り付くように六足の足と一つの胴体は肌に沈み込み、翅の模様が不気味な黒目を彷彿とさせる。

拘束リング

ドクイトがポツリと呟くと、人型実体が手のひらを素早く目の前に広げ、何かを放出した。それは輪っかの形で遥か遠くのお尋ね者に絡みつき、それから漏れ出るプラズマ状の線を放出しながらその場に留めた。

「butterfly…きょうは…いままーでーの…」

弧蝶沙季子はまるで散歩道のような足取りで化け物まで距離を詰める。彼女の背後にいる人型実体が発しているプラズマの輪は徐々に狭くなり、内部の囚人を苦しませる。

「どんな…ときよーりすばーらしい…」

彼女がハミングしているのは昔「お嫁さんになりたい」という口癖と同じくらいの頻度で歌っていた歌。丸い電撃がお尋ね者の硬い皮膚を焼き、どれほどの熱さなのか語らずとも理解できる絶叫が響く。

「あかい…いとで…むすばーれてく…」

人型実体が小指から赤と黒、紫を混ぜたようなグロテスクな色の線を出す。その線は弛みながら軌跡を作り出し人型実体の小指と、お尋ね者の小指に絡みついた。

「ひかりーのわのーなかでー…」

弧蝶沙季子とお尋ね者の肌同士が今にも触れそうになるまで近づいた時、プラズマに互いの体を焼かれながら、

「"Butterfly"」

電撃の出力が最大になり線がドクンと脈動し、口を上に向けお尋ね者は倒れた。辛うじて人の原型は保っているが、焦げ付いた全身が強い毒に侵されたようにブクブクと泡を立てている。

跡の残った地面を見つめたまま固まっている弧蝶沙季子、いやドクイトに吾蜂は近づいた。

「大丈夫か!?早く焼けた部分を…え?」

「私はいい。それよりセアカゴケちゃんは?」

ドクイトの体にはプラズマで焼かれた跡も、毒に侵された形跡もなかった。

「セアカゴケちゃんは!?」

「とりあえず命に別状は無さそうだが───」

「いやあハッハッハ!実に素晴らしいものを見せてもらいました!」

突如として低い声を機械で無理矢理高く加工したような耳障りな賞賛が聞こえた。吾蜂とドクイトは即座に臨戦態勢に戻り、背後を見やる。

大体背丈が自分と同じくらいであることから吾蜂は175cmだろうと推測した。創作でよくある架空の宗教司祭が着るような無地白のゆったりした法衣に身を包んでいたが、一際目を惹くのはその異質な顔面。首から下は人間と遜色ないにも拘らず皮膚がつるんとしており、目に相当する器官が見当たらない。口は顔の真横まで裂けており不気味な笑みを浮かべている。その歯の形は常に口内を傷つけるほどに鋭利であり、舌は二又に長く伸びている。グレイ星人をさらに凶悪にしたような見た目だった。

「まさかこんなぼやけた境界の地でこれほどの紫煙使いに出会うとは!それも現地のチンピラと交流を深めた程度では止められないほどの実力者に!」

紫煙使い。その言葉を聞いた瞬間に吾蜂の知識がドクイトの力の正体に辿り着いた。

エーテル投射能力者。タイプ・パープル。紫煙使い。SW財団が管轄する人でなしども。眼前にいる長年行方不明だった幼馴染は、紫煙体と呼称されるエーテル体を操る局所範囲的現実改変者に成長していた。

「やっぱり技術協力者がいたか。初対面だけどあいつの知能であんなもの作れるとは思ってなかったよ」

「一体その力をどこで?「隕石」ですか?「矢」ですか?「遺体」「蝉神」「至天」もしくは…「奈落」であれば相当のレアものですねえ!」

ドクイトは臨戦態勢のまま服のボタンをはずし、無言で胸元をさらけ出した。下着に少し隠れてはいるが、あの日の何かに貫かれたような跡は残っている。

「あぁ~「矢」に貫かれて生き残っていましたか…あなたの紫煙体の形状と相まって、相当苦労されたようだ」

何が言いたい。あからさまにそんな表情をしたドクイトを見て闖入者は口角をさらに吊り上げる。

「紫煙体とは精神の写し鏡です。実体の外見や能力が紫煙使い本人の精神状態に大きく影響しており、本人の成長と共に紫煙体も成長する。ですがあなたのそれは…いびつだ。まるで別個の布を「糸で縫い合わせたように」チグハグだ!」

「それは美しく舞う蝶のようでもあり、毒の糸で罠を張る蜘蛛のようでもあり、蝶を羨む蛾のようだ。あなた1人の強靭な肉体に3つの精神が確固たる形を持たずに流体のまま入っている。固い殻の中で羽化を待つクリサリスのように!」

「あなたの大切な人…そうですねえ~…お父様とお母様辺りを紫煙体が発現した際に喪いましたか?そしてお二方の精神をあなたの肉体が生き延びるために捕食した、とか?」

「───!」

ドクイトは確信を持った。こいつは私に対して明らかな害意を持って接触してきた。今回の怪異騒動もこいつが呼び出したものだ。

そして───前以って掴んだゆすりのネタをさながら今考えたように発言する下種野郎であるということもドクイトは理解した。

「ああ私ばかり喋りすぎましたね。しかも自己紹介もなしに!申し訳ありません私エルマ外教の」

「「うおおおおおおおお!!!」」

「「えっ?」」

慇懃無礼な態度を崩さないまま名乗ろうとした相手に対してドクイトの背後から2つの影が飛び出して殴りかかった。顔面と鳩尾。見事な意識外からのクリーンヒットに闖入者はたまらず白目を剥いた。

「あがああ!?」

ドクイトは眼前への敵に対する警戒と自身の封じていたい過去が漏れ出ていた衝撃に気を取られて、吾蜂とセアカゴケが怒り心頭になっていることを察知できなかったのだ。

「ちょ、ちょい!つかセアカゴケちゃん起きてたの!?」

明らかに人間の体よりも筋肉の密度が違う緑色の触手を振りながらセアカゴケは馬乗りの態勢を取った。

「アンタねえ…何が目的か知らないけど、嬢とヤることヤらないで説教したり嬢の過去をほじくり返す客が私いっちゃん嫌いなのよ!!」

「き、貴様ら…ぐぅっ!」

「あの子が私に送ってくれたあの紙袋にはねぇ…私が着れる洋服が入ってた!この人外がうようよいるO/Oの中でも奇異の目で見られるほどに人間からかけ離れた姿をしてる私の服を、出会って間もない服を作ってくれたんだよ!?それだけで私はこの子の味方をするって決めてるの!」

「し、知らんぞお前の過去なんざ!ぎいっ!」

「ちょろい?ええその通りね、私もビックリしてる。昔から特注の制服しか着れなくて、それをなくすと困るからっていじめっ子に隠されて、服なんか嫌いで嫌いでしょうがなかった。だから自分のトラウマにずかずか入り込んでくるような気がして、最初は勝手にドクイトちゃんのこと嫌いだったし」

「セアカゴケちゃん…」

「でも、でもねドクイトちゃん。あなたが作ってくれた服、着てみたよ。サイズもピッタリで色合いも好みだった。私に合う服なんてパラテクを使っても一苦労なのに仕事の合間に作ってくれて…しかも冷やかしとか嫌がらせじゃない。純粋に私と仲良くなりたいから贈り物にしたんでしょ?」

「なら私はあなたが繋いでくれたその縁が例え毒の糸だったとしても、その力が凄惨な過去から生まれたものだったとしても、悪くないんじゃないって思うことにしたから。他人の超えちゃいけない境界を越えずに、違う形で近づいてくる人だから」

「…ありがとう。私も気合い入れて作ったから、どんどん使ってな」

「当たり前でしょぉ?むしろ助けてもらったんだしお礼を言うのはこっちぃ。泣くんじゃないわよぉ!」

「悪いがそこまでだ、お嬢さん。これ以上マウント取ってタコ殴りにすると命に関わる」

後半すっかり2人の世界に入っていたドクイトとセアカゴケは当初の目的を忘れていた。無意識に弾丸の左と黄金の右を喰らっていた黒幕の顔面は凹んだ金属のようにベコベコになっており、途中から殴るのをやめていた吾蜂がドクターストップをかけた。

「なあグレイ星人、このユニバースに在中しているエルマ教徒は東京を襲った大災の結果生まれた現実性崩落異常領域に閉じ込められた被災者たちの救助に全力を注いでるんだ。こんなところにいるわけないんだよ」

「…ククッ、そうか…あの内部は疑似的な終焉宇宙になっているというのに、ご苦労なことをする…」


2046/03/07 アウターオーサカ 九龍城塞居住区 巽区画の一室

「まあ気にするな、結局あいつは当局が回収した」

「ああ…」

「しょんぼりしてるけどな、そりゃ外の世界への「帰り道」を希望してなかった君が悪いわ」

「いや本当にすまん…噂程度の事前知識しか用意しないで飛び出して…」

「何とか「帰り道」はこっちで用意できそうだし、私に謝られても困る」

「だって!ここはその…君の…部屋だろう」

「んー?…ふふっ、うん、そうだね」

「やはりいい、宿なら自分で取る」

「ここまで来て何言ってんの。君さ、結局私目当てだったんでしょ?」

「ああ、そうだ。君にだけは嘘をつけない。俺は君のことが大好きだ。初めて会った時からこの瞬間まで変わっていない」

「…私の職業ご存知?娼婦ですよ?商売上体は清潔にしてるけど、その実汚いおっさんの手垢まみれ」

「ああ、知っている。それでも君に好きと言い続ける」

「…何も知らないくせに」

「ああ、俺は君のことを何も知らない。君の職場の人間よりも、あの宇宙人みたいなやつよりも、全く無知だ。だからこそ、これから全力で知っていく」

「そういうこと言ってんじゃねえんだよ!」

「…」

「吾蜂、私がどうやって標的を無力化したか…私の紫煙体能力知らないでしょ」

「男を魅了する能力ではなくてか?」

「古今東西人類が今日まで積み上げてきた「結婚」という文化を具現化する。それがあの日あいつに貫かれた時に発現した紫煙体。」

「…額縁通りに受け取るとそこまで強そうには見えないな」

「だよね。でもプラズマの指輪リングとか、花束に偽装した手榴弾ブーケトスとか、人外に娘を「嫁ぐ」という形で生贄を差し出して沈静化する逸話を再現することもできる」

「じゃあそれが…」

「私が今ここまで生きているのは、不条理な怪異からお目こぼしを貰っているのは、私が誰にでも好きって言って何度も白無垢を着回しているからなの。一生に一度しか着れない女の子の憧れを、まるで何も知らないみたいな子供みたいに…!」

「それが、許せないことなのか」

「日本民俗をちょっとかじっていればわかると思うけど、異形と契りを成すっていうのは自分が人間じゃなくなるのと同じなんだよ?それを私は何十回もしている。人と人ならざる者の境界がぼやけて、自分がどっちに所属しているのか…もう曖昧だ。曖昧なのに、私の外面はこうして人間の偽物を演じれている」

「…すまん」

「いいの、私も言い過ぎた。でもこれで今の私がどれだけ、私自身を嫌いになっているか分かったと思う」

「いや、そうじゃない」

「ん?」

「沙季子がそうなったとしても…俺は沙季子のことを諦められない」

「…は?」

「もし沙季子がこの先自分がやりたくないことをやって、自分の好きな姿からどんどん遠ざかって…そうなったら沙季子自身を愛してくれる人が誰もいなくなってしまうように思うんだ」

「…だから何」

「俺は絶対にそんなことはしない。化け物なんかにさせないし、化け物でも人間でも、蝶ちゃんを愛している。だから俺は…」

「だから俺は蝶ちゃんが前進したい道筋を、蝶ちゃんが1番なりたい自分になれる手助けを…全身全霊でしたいと思う」

「…何それ、ホント何?あいつも言っていたでしょ。私の外面は地味な蛹で、中にドロドロと溜まっているものが蝶か蛾か、それとも蜘蛛になるか、キメラにだって羽化する可能性のあるものだって」

「だから教えて欲しいんだ。蝶ちゃんがなりたいもの、羽化したい姿って何なのか」

「…ドレス」

「ドレス?」

「小さい頃に、パパとママが死んだ日に、3人でショーウィンドウ越しに見たウェディングドレス。あの時の衝撃が、初期衝動が、私の全部なの。服を作って、こんなどん底のどん詰まりに来ても生きていたいのは、あのウェディングドレスを着たいって思い出だけなの」

「…そうだったんだ」

「パパ…ママ…ごめんね。ごめん。あの時私だけが代わりに死ねたらって何度も思った。こんな女なんかウェディングドレスを着ても汚いだけだって思ったけど…ごめんなさい…!」

「そんなこと、誰だってわからない!」

「なんで…きっ、君が言い切れるんだよ…」

「俺が絶対に君に着せてやる、ウェディングドレス」

「…へ?」

「だからせめてその時までは生きろ。その時になって生きるか死ぬかは蝶ちゃんが決めていい。だから…」

「吾蜂…あの…」

「決めた!俺は絶対に蝶ちゃんが蝶ちゃん自身のことを嫌いになっても愛し続けるし、蝶ちゃんにウェディングドレスを、着せ…」

「…やっとわかった?自分が何言ってるか」

「あ…あ!あっ違う!俺はそういう意味で言ったわけじゃなくてただ額縁通りに…」

「ふっ…君といると退屈しないんだろうな、涙引っ込んじゃった」

「そ、そうか?いやそれは良かっ…」

「ねえ」

「うん?」

「私の事、脱がせて。本当に吾蜂が私の事愛せるかのチェック」

「…じ、自分が何言ってるのか分かっているのか!?意趣返しのつもりか!?」

「うん、半分はそのつもり。境界線を見極めないでズカズカ入ってくる、駆け引きのかの字もない可愛い幼馴染に。もう半分は…」

「もう半分、は…?」

「私の「矢」の傷痕見て、嫌いにならないかなーって…」

「あの時、グレイ星人に見せたやつか…」

「…なんか自分で言っててメンヘラ女ぽいな。やっぱ今のなし…!?」

「わ、分かった。俺も男だ。君の体が醜くないって、ちゃんと確認してから言ってやる」

「ったく、もう…ん…ブラジャー、外し方わかる?」

「ち、ちょっと待ってくれ…」

「んふふ…いーぞ…はい、よくできました~」

「…」

「実際に見て、どう?率直な感想をお願い」

「血が固まって、酸化した色じゃないな。赤紫色で、ちょっと黒っぽかったり黄色だったり…でも、凄く痛そうで、毒々しくて、同じくらい綺麗だ」

「───」

「君の生きた証だ。辛くてもやりきれなくても、生きたいって叫んだ毒。誰のものでもない、君だけの傷痕だ」

「そう、そっか…」

「ま、まじまじと見てしまった。ごめん、一発殴ってくれていい」

「…てっきり私、目の前にあるのが毒蜘蛛のワナだったとしても無視してずかずか入ってくるものだと思ってたけど?」

「というと?」

「続き…シないのか?」

「…え?」


2046/03/07 アウターオーサカ サクラノミヤ17番メインストリート

夜明けの───と言っても天地返しによるビルの空が形成されたO/Oは常に電気によって照らされるのだが───メインストリートを2人の若い男女が闊歩していた。1人は量産系ファッション、もう1人はスーツ姿。いかにも対照的でチグハグな組み合わせだが、道行くO/O住民の下種な勘繰りは当たっている。

「君さあ…なんで初めてなんだよ!?私てっきり財団職員になれるくらいのエリートは女をとっかえひっかえできるものかと…」

「ちょ、蝶ちゃんこそ!娼館で働いてるって聞いたからてっきりもう…初めてはその…済ませているものかと…」

「洋服づくりでそれどころじゃないっつの!良かったですねえ愛しの幼馴染がまだ初モノで!ここまで考えなしに女食いに来た甲斐あったなあ天下の財・団・職・員・が!!」

「や、やめてくれ…元だよ元…」

ドクイトと吾蜂は顔を真っ赤にして言い合いながらメインストリートから2本外れた人1人歩けるかどうか程度に狭い裏路地の前に立つ。太陽のないO/Oの細い闇を、蛾が撒き散らす鱗粉だけが照らしていた。

「いい?この蛾が飛ぶ方向を見失わないで。途中他の路地に興味本位で入ると戻れないから。そして蛾が止まった人間の言うことを聞けばあとは帰れるから」

「わかった。出来る限り早めに戻るから待っていてくれ」

「へいへい、楽しみにしてるわ…じゃまたね」

「ああ…ありがとう」

財団職員としてもう二度と会うことのないさようならは繰り返したが、好きな女とまた会おうの約束でまたねを言うのは慣れていない。気の利いた言葉も言えないまま蛾の誘導のままに路地に吸い込まれた。

人口の光であるネオンの届かない建物と建物の隙間。生ゴミに何らかのスクラップ、便所蠅がたかる吐しゃ物。ミーム剤が混入している空のスプレー缶を見つけた吾蜂は壁に描かれている落書きを見ないように心掛けた。照らされることのない不潔な道でもなお、蛾の羽ばたきは少しの鱗粉を伴い綺麗に羽ばたいていた。

何度も右折と左折を繰り返し、雑居ビルの外付階段を蛾は登るように飛んで行く。別に最後に合流すればいいかと思い中に入ってエレベーターを探そうかと吾蜂は一瞬思ったが、「見失わないで」という表現をした彼女の言葉に従った。

合計8階分。少し疲れるくらいに登り、屋上に着くと1人の人影があった。外で改めて会うとその巨体に一瞬ビビりそうになる。眼下と頭上にギラギラとした都市の光を湛えながらも、蛾はその人が持つ赤提灯の薄明かりにのみ止まった。

「……」

吾蜂の到着を待っていたマヨネーズは、長い前髪でその表情を読み取れないままに彼の言葉を待っていた。

「俺は吾蜂泰正という者だ。O/Oから外に帰りたくてその蛾を追いかけていた」

「知っている」

マヨネーズが口を開いた。声の枯れ具合からして思ったよりも高齢か?だがまあいい声であるという印象も同時に受けた。

「だが2つ聞かせてほしい。最初にどうして財団をやめた?」

「いや、だから弧蝶を探しに…」

「少し含みがある言い訳だと思ったんだが、違うのか?」

「…確保収容保護、その財団の理念がこの時代には合わなくなったと感じたからだ。1998年のポーランドより前には超常社会がヴェールの内側に隠れ潜む時代も昔はあったらしい。その時は財団も今よりも隆盛だったとは聞いている」

吾蜂がつらつらと理由を述べる前に、一瞬の間があった。マヨネーズは少しだけ彼の顔を見たが、これまでのドクイトに対する会話から見てとても腹芸のできる人間とは思えず、彼への追及をスルーした。

「そうか。ならば君はO/Oの住人になりなさい。次来る時までは最低限の荷物を忘れるな」

「いいのか?」

「何がだ、こんなどん底の吹き溜まりに許可を乞う相手なんざ存在しない」

「分かった、ありがとう」

吾蜂の顔が少しほころんだ。商品と会社の名前を交互に発音するアナウンサーの声がぼやけて聴こえる。ネオンサインは鳴り止まない。

「2つ目。君にはドクイトの背後に何か見えたか?」

「おぼろげにだが、ボロボロの女が」

「あれが紫煙体、精神の写し鏡だ。彼女のそれは幼少の頃に背負ったトラウマにより酷く不安定だ。ここでしか生きられないほどには」

「俺は、どうすればいい」

「君が望むのならば強く応えてくれるだろう。紫煙体のビジョンが見えるということは君にも素質があるということだから。あの子に寄り添える資格はある」

目の前の長身が持っていた赤提灯は依然見たものとは別だった。豪快な筆文字で「魔米津」と書かれたそれは急に発火し、止まり木にしていた蛾を燃やし尽くした。

「こんな異物も異物である私ですら受け入れてくれるO/Oという空間には恩があるからな。「案内人」の役割も買って出るさ」

火球と融合した蛾は勢い良く吾蜂の脇腹に当たる。

「がっ…!?」

その勢いを殺すことが出来ず吾蜂は屋上を転がり空中に放り出され、重力に逆らうことなく落ちていった。グシャだとかベチャといった落下音は聞こえなかったので、帰ることに成功したのだろう。

マヨネーズは漆の煙管を取り出し口に咥える。火すら点けていないのにブスブスと煙が怠そうに出始め、O/Oのいつもと変わり映えしない光を包むかのように天に昇った。

「ようこそ、前進をやめたはぐれ者たちが愛する空間、アウターオーサカへ。ここの住人なりの歓迎だが祝ってやろう、新入り…」















紫煙体名称: "Butterfly"

紫煙体の使い手: 「ドクイト」(本名:弧蝶 沙季子)

説明: 我々が意図的に生み出した紫煙使いの中でも殊更に攻守走ともに高水準の紫煙体であり、成長性も窺える。しかし特筆すべきは3つの能力を自在に操れる点にある。

1つ、異性(使い手から見て雄)への魅力。蝶の権能。洗脳や服従レベルではないが対象を魅力的に見えるように錯覚させる。範囲不明。前述の通り強い効果ではないがそのため他人からは紫煙体の影響に嵌っているか判断が難しい。

2つ、「婚姻」概念の具現化。蛾の権能。範囲こそ狭いが決まればまず対処できない。古来より伝わる婚姻譚から現代パラテク様式のウエディングスタイルまで多種多様に再現できる。プラズマリングによる「拘束」、穀物の催涙雨、果てはこの世ならざるものに対する婚姻申し込みによる「調伏」まで可能。間違いなく紫煙体のメイン能力であり、他2つが両親より受け継がれて「しまった」外付けの能力か。

3つ、毒が染み付いた糸。蜘蛛の権能。毒と言っても致死性のものに限らず、精神汚染等のミーム的効果まで観測している総合デバフ要員。「ドクイト」は1つ目の能力と組み合わせ、対象を自分ではなく他の雌に変更してなお強力な魅了効果を衣服に付与している。

総括: 間違いなく有用。最優先すべき案件。

現状: 回収のために信徒を送り込んだがこれを撃退。次の襲撃は現在画策中。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。