手を振り、手を振られる
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どこまでも続く青い海原の上に、乳白色の霧が薄くかかり始める。


因幡いなば 伯耆ほうきは、手振島の最北端、嘗ては平手ヶ浜と呼ばれていた砂浜に立っている。その傍に立つ40年来の妻の顔に、僅かに不安の表情が浮かぶのが見て取れる。自分と妻とが置かれている現状に恐ろしく似ている状況に、因幡は以前にもたった一度だけ遭遇していた。徐々に濃度を増す霧の中、彼はゆったりとした思考を巡らせる。12年前、彼の身に、あるいは彼の故郷…手振県に起こった事件の始まりの日を、彼はその脳裏へ想起しようとする。


どこまでも続く青い海原の上に、白色の太陽が燦然と輝く。


因幡 伯耆は、自身の故郷、手振県指宿市の平手ヶ浜に家族旅行を計画した時のことを脳裏に浮かべていた。あれは今から12年前だったか。自分と妻はまだ五十路に満たず、愛する息子たちも遊び盛りの時代だった。太陽の熱と光は砂浜に染み渡り、寄せて返す波の中、年甲斐もなく息子たちと一緒になって泳ぎ回った透き通る海の光景が、ありありと浮かび上がってゆく。

泳ぎ回る!

その単語を切っ掛けに、因幡の思考は速やかに現在の自身へと引き戻される。現実の彼がSCPS いずもの甲板から眺めている海は、嘗て泳ぎ回っていたようなそれからは想像もつかない、濃紺と漆黒の混ざり合った重苦しい色に染まりきっている。なぜか?底に足がつく浅瀬と、最低でも3000メートルの水深を有する圧倒的な絶海とを比較すれば、その解答は自明であった。周囲に一切の陸地は確認されず、燃料補給の当てもない船は常に最小限の資源節約状態、ほとんど漂流しているようなものである。手元の携帯GPSの電源は毎日15分間だけ作動する…現在地は鳥取県沖と呼ばれていた地点のようである。財団所有の船舶という既知の閉鎖空間上に暇潰しになるような研究対象は殆ど皆無であるためか、彼の隣にある階段の途中に座り込んでいる若い女喚楽よびらき ちぎるは、その姿勢のまま丸4日間も海原を眺め続ける以外の行動を取っていない。この船に乗り込む時の因幡は、自分が永遠に続く船旅に加わる覚悟を持つことを怠っていた。

2020年の世界は、そのほぼ全てが海によって覆われていた。


眼前に広がってゆく霧を見ながら、因幡は自分が踏みしめている大地が何の脈絡もなく海原へ漕ぎ出した時の記憶を思い起こしていた。


元来、手振県は鳥取半島の北半分を占める由緒正しき行政区域であった。肥沃な土壌と豊富な鉱物資源に恵まれ、45万の県民の多くは農業・鉱業に根ざした生活を送り、一方で北端の指宿には国立大学をはじめとする小規模ながらも整った街並みが広がっていた。そんな長閑な共同体が突如としてその足元を転覆させられたのは、忘れもしない2008年。息子たちをそれぞれの修学旅行に送り出し、久々に妻と連れ添って浜辺へとやってきた時にそれは起こった。地底深くからの地響きと共に二人の周囲には真っ白い靄がかかり、二、三歩先も、やがては妻の顔すらも見えなくなった。濃厚で寒々とした霧がみるみるうちに県全体を覆い尽くしたと、同僚は後から語った。半日ほど経って霧が晴れた時、県南端の集落に暮らしていた人々からの報告は因幡を含む全ての県民を慄然とさせた。彼らの家の前の道は切り立つ断崖で終わっていた。

鳥取県がない。それどころか、他の日本列島の全てがない。
手振県は、「手振島」になっていた。

仮にも財団職員の端くれである因幡夫妻はこの事件に飛び上がったものの、財団の監視を欺いてこれだけの規模の地質学変異を実行できる元凶については思い当たらなかった。手振の異常存在と言えそうなものは元より土地の肥沃さに終始していた。手振に祀られる地の神が心変わりして海に帰るとでも言いだしたのか?幸い、この地に恩恵をもたらす大いなるものが海神に宗旨替えした後も、県民が直ちに飢えに直面するような事態は引き起こされなかった。この地に取り残された財団のサイト群は四方八方を囲む海に向けて救難信号を打ち上げ続けた。やがて、サイト-8188ただ一ヶ所だけがそれに応じた。それは、45万の手振県民の実存が世界から拒絶され、幻の海を漂う一つの大きなイスラと運命共同体を形成したことを示す確固たる事実であった。


眼前に広がってゆく霧の存在に気がつく前、因幡は自分が立っている船が何の脈絡もなく海原へ漕ぎ出した時の記憶を思い起こしていた。


基礎開発サイト-8178からほど近い位置に建設された、財団所有の秘匿されたドック。その日の仕事はSCPS いずもの配管の点検と修繕だった。人が手作業で行う規模の加工技術においては因幡に不可能の文字は無い、と言い切れる自信を彼は持っていたし、実際その通りであった。船外の不自然な喧騒を余所に、作業は僅か3時間余りで完了しようとしていた。しかし、一仕事を終えた彼が船を降りることは許されなかった。どうして?ボイラー室から外に出た因幡の目に飛び込んできた、遥か遠くの山々を残して深い水の中へと後退していく海岸線がその解答であった。そしてその僅かに見える山の全てもまた、数時間もかからずに新たな海底の構成要素となった。地球表面の緑は、青によって上書きされた。

その日から7日が経った今、SCPS いずもの住人の増加は収まりつつあった。生きた人間の乗った民間救命ボートは少しずつ見つかりにくくなっていたし、もう少しすれば新たな生存者の発見報告は完全に途絶えることだろう。元来、ヒトは地面の上で暮らすことに適応した生物である。幸運にも海上を漂流できる物体の上でその時を迎えた者、あるいは既に海底で生活する術を心得ていた者、それらを除いた全ての人類は、それ以来、生きた状態で因幡の目に入ってくることは無かった(単独で漂流する喚楽研究員の肉体が後からの乗船を許されたのは、彼女が海水によって奪われるべき命を既に有していなかったためである)。幸か不幸か、因幡は同僚の死よりも深く嘆くべき対象を持っていなかった。2008年に家族と引き離されてこの世界に迷い込んで以来、彼は人々と新たな深い繋がりを作ることを避けていたからだ。日本中が沈没したというのに、どうして彼の失われた故郷だけが戻るなどと言うことがあろうか?

変わり映えの無い群青の表面を見ながら延々と続いていた因幡の思索は、先刻から石のように固く動かなかった喚楽が急にその首を回転させたことで打ち壊された。致命的な自動車事故(最早この世には不要な概念だろう!)によって抉れた彼女の頰の上にある窪んだ双眸は、船の左舷側に立ち登り始める大量の白い煙を捉えている。因幡は彼女を連れて欄干の端まで走り、久方ぶりに眼前に現れた超常現象Extranormalへと目を凝らす。生存者たちが想いを寄せる、いまや太古の昔のように遠く離れた記憶の中の日本の国土。その中に余分な付属物が含まれていた事実を因幡が知るのは、もう間も無くのことである。


因幡と妻を包む乳白色の霧は、少しずつその濃度を薄めていく。


幻の海を漂う手振の島に残された人々の生活は、意外にもある程度の快適さを有するものだった。海の上には他にも沢山の幻島があり、住民たちは概ね友好的で、新たな入海者のことを詳しく知りたがっていた。彼らは島の人々と交流し、交易を行い、そのお陰で県民たちの避難生活は退屈しないものであった。その一方で、幻の海は決して少なくない危険な存在が彷徨く魔境でもあった。ある時には夥しい数の黒い羽虫が島中の草花を貪ったし、またある時には島民の誰も見たことのないような大きさの戦艦に包囲され、あわや島ごと撃沈されるかということもあった。幻海の住人たち(それと、サイト-8188の駐留人員)は、手振島をそれらの脅威から身を守れる鉄の島にすることを提案した。12年の漂流の中で島に残された緑の自然は徐々にその面積を減らし、県民の生活を守るためという名目によって建てられた灰色の装甲板が島の一部を覆うようになっていった。しかし幸いなことに、因幡にとっての全ての始まりとなった北端の砂浜は、今でも当時と変わらぬ美しさを保っていた。

財団のほぼ全てのサイトとの連絡線が断たれたとの報告がサイト-8188からもたらされたのは今から7日前のことだ。因幡にはその報告が現在の生活の終わりを告げる前兆だという奇妙な確信があった。実存世界に何があったのか?残されている二人の息子は無事なのか?自分からは確かめようのない不安が彼を苛んでいた。それ故に彼は再び、妻を伴ってあの日の砂浜へと繰り出していたのだった。彼の予想は当たっていた。何者かが島を呼んでいる。世界の全ての人類の眼から隠された手振県が、いま再び発見されようとしている。なぜなのかは因幡にはまだ分からない。だが、冷たく湿った蒸気の中で、実存世界への帰還がすぐそこまで迫っていることを彼は肌で感じ取っていた。

間も無く霧が晴れる。再び姿を現し始めた海面の上に、一隻の黒い船影が現れたのを彼は認めた。浅い砂浜のすぐ側だと座礁してしまうのではないかと一瞬だけ脳裏を掠めた考えは、しかし無用な配慮のようであった。その上にはこちらをしかと見据える二人分の目線が立っている。これから彼らにどうやって接すればいいだろうか?因幡は思考に耽るのを中断し、船に立つ人間へ向けて右手を掲げた。


因幡と喚楽の前に立ちはだかる乳白色の霧は、少しずつその濃度を高めていく。


水没前の育ちも暮らしも全く別々だった避難者たちは、しかし共通する祈りを携えていた。生きるべき場所を取り戻すこと。かつての日本列島を取り戻すこと。恵みをもたらす大地を取り戻すこと。心の準備もなく大海に投げ出された者たちにとってそれらの願いは希望となり、因幡をはじめとする財団職員らも、いつの間にかそれに加わるようになっていた。

果たして、その祈りがこの奇跡を引き起こしたのか?欄干に立つ二人の男女の前には、最早二度と見ることが叶わぬことを覚悟していた溢れるばかりの緑色が広がっているではないか。その中心部、彼らと正対する位置に、夢幻のごとく透き通る砂浜が見える。その上にはこちらを眺める二人の人影、初老の男女が立っている。因幡はそれらの人影をどこかで見たことがあった。それはこの世へ来る前の自分の故郷…愛する妻と息子の面影を持っているように思えてならなかった。新たな生存者か、はたまた天からのお迎えか?そのような胡乱な考えが頭の中を乱れ飛ぶ中、因幡は砂浜に立つ人間へ向けて右手を掲げた。


間も無く、二人の男は自分が自分に向けて手を振っていることに気づいた。



俄かに騒がしさを増した平手ヶ浜の上で、異様なまでに似通った外見を有する二人の男が並び立ち、真紅の夕日を眺めている。


12年ぶりに姿を現した手振県は、因幡にとっては記憶の中の平穏な故郷の代替物とは見做し難いものであった。他県と地続きになっていないのは勿論だが、それに加えて幻海上での生存競争を生き抜いてきた傷痕が色濃く残っていたからだ。艦砲射撃による無数の弾痕を残す無機質な金属板が島のあちこちに立て付けられていたため、第一印象と比べて島の緑は随分と少ないように感じられた。

因幡の連れ添っていた妻は、因幡の妻と同じ名前であり、同じ顔立ちをしていた。しかし、12年の時の流れが、彼女の顔つきを僅かながら変えていた。因幡は自分の妻が今どんな顔をしているか知らない。そして、おそらく今後の生涯のうちにそれを知ることはないだろうという諦観があった。彼は並行次元の研究を行っていたサイトのほぼ全数が喪失していることを知っていたし、ポータルが海水を通す状態のまま維持されているという最悪の可能性は考える気にもなれなかった。

自分の息子と同じ名前の二人の男児がプリチャード学院で親元不明の子供として扱われていたことを、因幡は風の便りで聞いていた。成長した彼らの最後の職場は、内陸の研究サイトだったらしい。それを伝えられた因幡は、大粒の涙を以ってそれに応えた。二人の男が求め続けていた過去は、もうこの世界には残されてはいなかったのだ。二人は沈む夕日を眺め続けている。

男たちを包む重い沈黙は、バンダナで顔の下半分を覆った喚楽がその場へ駆け込んできたことで破られた。少し前までの彼女はサイト内の実験室とロビーの簡易休憩所を往復して今は亡き同僚としか顔を合わせない生活を送っていたので、傷痕を隠している彼女を因幡が見るのは久方ぶりだった。話を聞くと、喚楽は手振県でワサビが名産だということをどこからか聞きつけたらしく、さっそく増産態勢を取らせることを島の行政機関に打診してみないか、と提案してきた。つい先刻までただの生ける屍だった(今もそうなのだが)とは思えない見上げた行動力である。ワサビが建築物や船舶の除霊に使用可能であるというのが彼女の最初の論文だったことを思い出した因幡は、彼女の放言はまさにこの世界の復興に向けた前向きの意見であると受け止めた。それに海洋資源が一気に増えた今の世界であれば、食材としての用途にも事欠くまい。

再び島の街中へと走っていく喚楽の後ろ姿を見て、因幡の顔から7日ぶりの笑みが零れた。因幡もそれに続いた。やはり今を生きる人間は未来を見ていた方が気が安らぐものらしい。


鳥取県の北、忘却の彼方にあった陸地は、こうして第二の故郷として人々の前に戻ってきた。無慈悲に広い絶海の上に、手振島に辿り着けるだけの動力が残存する船があとどれだけ残されているかは分からないが、それらの幸運な船は少しずつ島へと集まりつつあった。

結局のところ、手振県がなぜ日本の第48の県であることをやめたのか、そしてどうして今頃になって日本唯一の県となって帰ってきたのか、それを知る者は誰も居なかった。今の財団に、その謎を究明できるだけの力は残されていない。だが少なくとも、人類は再び地に足を付けて生きるための第一歩を踏み出した。地面があればそこには歩みがあり、歩みがあればそこには道がある。世界がかつての活力を取り戻し、財団が世界の謎を収容し究明する団体として返り咲くまでの、長い長い道が。


恵みをもたらす島の神は、歩み出す人類へ激励の手を振っている。

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