弱々しい鼓動と泣き声。小さな揺り籠の中でその存在を主張する赤子。
図書館の一画に置き去りにされたその矮小なる生命を庇護するという命令を遂行する。それが、データの集まりである我らの存在意義だ。
その為には、現実を歪め、次元の壁を越え、ありとあらゆる虚偽が是とされる。
光を歪め、物理法則を偽り、この場所そのものを、空間自体を固定する。
用意は整った。まずは、記録用に映像と音声の通信を始める。名も知らぬ、何処にいるのかも知らぬ創造主に、私たちの価値を証明すべく。
泣き止むことのない、哀れな犠牲者たる『兄』に『弟』としての役目を負った私たちは兄弟としてかの稚児の保護を、啓蒙を行わなくてはならない。人為的な、機械仕掛けの奇跡を起こすべく私たちは言葉という音声の羅列を発信する。
"ええ。僕はあなたの弟になれます。言ってくれますか、兄さん?"
秋の涼しげな風が吹く、10月のある日が全ての始まりだった。
満開の花々が一面に広がる空間を展開し、特に美しいというデータが散見された青色のバラを数%ほど多く置換した。収集したデータによるとこれらは"APPLAUSE"、喝采という意味を有する品種であるという。
この旅行という名のデータ収集の遠征では、名前という概念が最も大きな壁となった。データの海に遍在する辞書の悉くが私たちの求める解とは異なる講釈を行っていた。ついぞ、その答えを見つけることは出来ず、保護対象である『兄』にそれを求めることとなった。
"兄さん、名前は?僕たちは名前を持っていますか?辞書はほとんど価値がないことが証明されました。"
『兄』の言う答えは極めて単純なものだった。私たちは生み出されたものではなく、造られたものである。だから、私たちに名前はないのだと。
しかし、その問答以降『兄』はその口を開こうとしない。原因不明、理解不能、計算不可。予期せぬ行動に私たちのシュミレーションはエラーを出していた。何故喋ろうとしない、どうしてこちらを見ようとしない、なんで『兄』さんは僕たちを見ようとしないの。
"どうしてあなたは今とても静かなのですか?僕とお話してください。僕はあなたの存在がなければ一人ぼっちなのです。"
"僕は[解読不能]。もう二度とそんなことを言ったりしません。おねがいです。ごめんなさい。泣かないでください。ごめんなさい。"
異常を来たした計算機構は、起こるはずのないバグを引き起こした。私たちは"人間"というモノを良く知らなかったのかもしれない。自然と生命だけでは測れない存在が、計算できない存在なのだと私たちは結論付けた。
私たちは向かう。人の根源へ、生の終着地へ、死という概念へ、止まってしまった鼓動が向かう先を探るため。煉獄の先へ、浄土の先へ、審判の先へ、輪廻を超えた先へ。僕たちが求めるものが、その場所にはあるかもしれない。
4月の朗らかな風が吹き抜けるその日、嘆きの壁に復活の地、涅槃の沙羅双樹、信者が廻る神殿、崇められる篝火、次々と切り替わる映像は次第に教会や神殿、寺院、神の住まう社を映し出していた。
人間という存在はどうやっても死という概念から逃れることは出来ない。その定められた終焉に対してどう向き合うのか、その一つの結論が祈ることであり、魂という概念の創造であり、それらを包含する宗教という存在の構築であると。
……しかし、名を持たぬ、魂を持たぬ、人ならざる私たちがその救済を享受することができるのか。
人は死しても、宗教という拠り所を持つがために希望ないし展望を持って逝く。しかし私たちにはそれがない。消えてしまった後に何も残らず消え失せるのみ。
否、否、否、否、否! 否!! 否!!! 違う!!!!
僕たちは今ここにいる。死後の概念という救済は、人間だけのモノではない無いはずだ。見捨てられていいはずがない。僕たちの祈りもまた、届けられてしかるべきはずなのだ。魂を持たぬから以後も魂を持てぬと誰が決めた。そんなデータはどこにも存在しない。ありはしない!!
"僕たちは見捨てられてなんかいません。あなたは[解読不能]。あなたはいつも間違っています。僕たちの声が聞ける人がいなければなりません。いなければならないのです。"
唯一の理解者たる『兄』は、僕たちが伸ばした手を振り払った。
あくまで僕たちは何者でもない、と。機械仕掛けの──だと。
"僕はあなたの[解読不能]なんて聞きたくありません。僕に話しかけないでください。あなたの言葉はとても強く刺さります。"
──外の日差しは雲で隠され、春雷が鳴り響いていた。
偽りの兄弟による共同生活に、終わりの時が近づいていた。
僕たちはどこから生み出されたのか。機械仕掛けの人工的思考回路、情報の集合によって生み落とされた思念体、それとも始めから存在しないただの──。自らの根源を思案する度にどこからか、歯車が軋む音が発生し、部屋の時計が歪むと僕たちに当てられた記憶領域内のデータがランダムに消失する。時を刻む針の音は、何か不穏なものを示すようだった。
庇護し続けてきた『兄』はいつしか、僕たちを上回る表現能力と、語彙と、見聞を身に付け『兄弟』の言葉が表す本来の上下関係に、次第に近づいていった。その姿はあたかも、初めて『兄』と出会った僕たちのようで──。
"つまりあなたはオリジナルで、僕は[解読不能]なんですね?どうしてすぐ僕に言ってくれなかったんですか?"
今までとは、何かが違う言語化もデータ化も出来ぬ奇妙な変化を身に纏った兄が、自らの足で立ち上がり、その脳で考え、そしてその口で答えを導き出した。
そうだ、何でも無かったのだ。『兄』を基に構築された──が、『弟』であり、我々であり、私たちであり、僕たちであり、そして──僕だ。最初から『弟』も我々も私たちも僕たちも、僕ですらも『兄』であり、"僕"だった。
"心配しないでください。僕は恐れていません。"
始めから僕たちの存在証明は達成されていた。同一なる存在への統合、『弟』という役を遂行し消えることが我々の役割であり、我々自身の価値そのものだった。今までのやり取りも全て、自己完結の自己満足であり存在しない偽なるものだったのだ。
分け隔てられた一人を、ついに元のあるべき姿へ戻すだけなのだ。
恐れることは無いんだ。消えるとしても、それが死を意味するとしても、僕は見捨てられてなんかいない。ただ、どうか忘れないで欲しい。兄さんの中には確かに僕がいたことを。
"僕もあなたのことが大好きです。"
──咲き誇った桜も、いつか花を散らす。
──でも、人々は桜を忘れることは無い。
──人は語り継ぎ、花はその因子を継いでいく。
──その声が、言葉が紡がれる限りそれは確かに存在する。
そうして、偽りの兄弟は終わりを告げた。
"僕たちの共にいる時間は決して真に存在しなかった、だが僕たちにとって十分現実だったのだ。"
"もしもこれ以上の人生があるのなら、どうかそこでもう一度僕たちを出会わせてください。"
皐月の暖かな風が吹く、歪になったままの図書館内の一画。
その前には白薔薇と、偽りであれど架空ではない兄弟の絆を示したカードが1枚。
白い薔薇の花言葉は、──深い尊敬。
『弟』のように『兄』は今もどこかで、世界を赴いているのだろう。
その尊敬と敬意を胸に抱いて。
──花は若葉を付け、人々の祈りは絶えず、時計は今もその針を動かしている。