彼女を継ぐ者
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 ──本日を以って私、マリー・ウィリアムレットは新たなO5-7として就任する。




 それは私が普段通りにミーム学の研究を進めている時だった。第一人者と財団内で持て囃されることは好ましいことでは無かったが、こうして誰もいない一人きりになれるオフィスを宛がわれたのは僥倖であった。天涯孤独の身になった私として、この環境は半生の投影であり、そして……。

 ミームと情報は切っても切れない関係にある。それと何か関係がある訳ではないが、個人的に噂話を収集することは好きだった。財団という特異な職場だったからか、その内のいくつかは真実であったと昇進する度に明らかになっていくのは、地位や権威に凝らない自分が昇進を欲する理由だった。

 差出人のないメール、手紙は管理者が一枚噛んでいるという曖昧な表現の噂。そして多くの職員が実際にお目にかかりたいと多種多様な感情を抱きながら思案する噂。それが私の下にも届いたのだ。比較的物腰柔らかな文体のメール。可能な限りのスキャンを行い、私は読んだ。



 どのような心持ちであったのかは覚えていない。しかし、この時高揚していたこと、そして畏怖していたことは間違いない。財団の頂点に君臨する人物、管理者。かの人物からこうしてメールが届いたのだ。ついにここまで来たのだという興奮。ここまで来たのなら引き返せないのだろうという恐怖。

 財団に入った段階では特に何を思う訳でもなかった。確かに、財団の外の人間と関係を絶たなければならなかったのは苦痛であったものの、家族はおらず精々数人の友人と恩師たる教師くらいで完結した関係。財団に入ってからの充実した環境、研究、人脈が埋めるには小さすぎる穴だった。満ち足りた日々が、私の飢えを認識させ、私の渇きを潤した。

 しかし、今回に関してはそれと違う。まだ決まったわけではないが、恐らく私の想像通りであればこれから私の虚無感を埋めるのは快いものではない。権謀術数が渦巻く、気の休まらない多忙の日々だ。財団への奉仕の日々だ。


 ──それでも、私の決断は最初から決まっていた。




黒き月は吼えているか?



 息を整え、メールに記されたコードを唱える。


「……否。咆哮は捻じ曲げられた」



 無機質な、認証しましたという機械音声が流れると暗闇が支配していた部屋に一抹の光が齎される。モニターの明かりだったそれには、ノイズ交じりの映像が流れていた。そして、一呼吸置いた程の時間だっただろうか。男とも女とも、若人とも老人とも取れる曖昧な音声が聞こえる。


『待たせてすまない。歓迎するよ、マリー・ウィリアムレット上級研究員』


 あらゆる情報が謎に包まれた管理者が、このモニターを隔てた先にいることを思うと自分が今置かれた環境の特異性に、希少性に慄かずにはいられない。だが、その理解ですらも間違っているかもしれない。そもそも、人間であるとは限らないのだ。霊的実体然り神的実体然り……、尤も私が考えているのは人工知能──財団的には、AICであるという可能性だが。


「……お招きに預かり、光栄であります。管理者殿」

『ああ。君なら来てくれると信じていた。そして、聡明なマリーならここに呼んだ理由も自ずと分かっているんだろうね』

「私でなくとも、……財団職員で要職に就いている者であれば、理解できる部類かと」


 語調はさながら上司に世間話をするかのような、どこか緊張感を持ちつつも軽いものだった。自分の額からは汗が流れ出ているというのに、口は饒舌そのもの。全く、管理者という単語にミーム的影響がないか調べたいものだ。


『ふむ、余計な話は不要と見た。では早速本題に入ろう』

『マリー・ウィリアムレット上級研究員、君にはO5-7の職を引き継いでもらいたい』


 想定通りの問い掛け。それに対する答えは用意済み。ただ、一つだけ問いを投げ返すことにする。


「……回答の前に、一つ質問をしても宜しいでしょうか」

『──ほう。構いませんよ』


 僅かな驚きを以って私の要望は許可される。


「……評議員が、世襲されることはありますか?」

『──ふむ、……禁止はされていない、とは言っておきましょうか』


 財団という場に溶け込んで間もなく、私は奇妙な点に気付いた。家族が欠けている職員が多いのだ。無論、そうではない人員も多く存在するが、大学まで一般社会に居た私から見て財団という組織が抱える歪みは明らかに大きなものだった。天涯孤独の身となった私のような例はそう多くないが、例えば両親がいない、例えば兄弟姉妹がいない、例えば養子縁組、例えば……。


 曰く、要職に就く人員はその出生、生い立ちが秘匿されていることがあるのだという。
 曰く、家族構成に特徴がある者は、要職に就きやすいのだという。
 曰く、記憶処理は収容時の関係者よりも、財団職員とその親族の方がよく使われているという。


 曰く、O5の評議員には……。



「──謹んで、お引き受けいたします」





「……ふぅ。どうやらお迎えが来たようね」

「ええ。死神ではなく、後継者が先でしたがね」

 O5-7は、老衰を理由に引退を申し出たのだという。それだけ聞けば自分の引き際を理解しているように感じるが、こうして椅子という生命維持装置に管を繋がれた老婆を見るとむしろ退くに退けなかったのだろうと思う。

「管理者も変なことをするものね。わざわざ前任者の下に後継者を呼び出すとは、私のイメージは文面でさっさと手続きを済ませて椅子から蹴落とすものだと」

「同感です。想像以上に人間味がありました」

 奇妙な温もりを感じる。今後満たされることはないと思っていたのに、口が弾む。

「何か、聞きたいことでもある?O5-7を務めた者として、大概なことは知っているつもりだけど」

 巡り巡る思考、溢れんばかりの疑問、零れだす言葉をせき止める唇が震える。
 聞きたいことはいくらでもある。情報に、ミームに携わった者として、頂点から得られる情報は喉から手が出るほど欲する物だ。


「──いいえ、何も。何も、ありません」

「……そう、用心深いわね。悪くない」


 口をついて出てくる言葉は実に、捻くれたものだった。ただ、これで良かったのかもしれない。情報は広がっていく。いかに完璧に防諜したとしても、漏れ出てしまうときは漏れ出てしまうのだ。だから、これで良いのだと。言葉にしなくとも、私の意思は伝わっている。そう信じる。


「すまないが、側にいてくれるかい? ──死に際くらい、人肌の温もりを味わいたい」

「……ええ、ご随意に」


 視界がぼやけて、声が震えているような気がするが気のせいだ。

 それよりも、前任者親愛なる母の手の温もりを逝くその瞬間まで、感じていよう。人としての、最後の温もりを、O5として失ってしまう前に、感じていよう。


 ──自然光の差さぬ暗室に、確かに、光が差したように、感じた。






ある親子の運命は、それはそれは、悲劇的なものである筈でした。

母は最愛の娘を守るため道を違え、娘は何もかもを忘れて尚、自らが背負った罪と分からぬまま相対しました。

しかし、この世界では、そうならなかった。

母が少しだけ冷淡だったのか、娘が少しだけ強かったのか。

私が引き継いだものの中には、そういった運命を捻じ曲げるような代物はありませんでした。

しかし、これは、驚くべきことでしょう。そして、尊重されるべきものの筈です。守られるべきです。

こんな束の間の幸せ、僅かに届いた愛、さりげない奇跡。

これもまた、ビックリすること、です。

そうではありませんか、コナー・クレイン博士?


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