第〇〇二五番
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蕃神蒐集物覚書帳目録第〇〇二五番

五三八年捕捉。百済の聖明王より釈迦仏なる金銅像一体、その装飾具、関連の書物数巻が欽明帝に贈られる。金剛像は髪の丸く耳の長き甚だ珍奇な相貌、未だ曾て有らぬ容姿であり、"蕃神"を象りし物と伝わっている。書物に記されているのは"蕃神"の敷く法であり、百済より西の国々はこの法に皆習うというが、その法は蒐集物第一番・"国津神"の怒りを招くものである。

蘇我大臣稲目宿禰は"蕃神"の法に習うべきだと帝に奏上し、帝は"蕃神"の金銅像を容姿端正であると評した。この事から"蕃神"には精神を汚染する効果もあると思われる。神と血縁の遠く、渡来人と関わりを深くする蘇我氏には殊だろう。帝は試みに稲目宿禰にのみ像を授けて信仰するよう命じ、稲目宿禰は向原の自邸に像を安置して祀ることとなった。早急な蒐集が必要である。尚、他の"蕃神"に関連した蒐集物は物部大連尾輿の邸宅に蒐集される。

五六九年、山城や筑紫を始めとして国中に疫病起こる。期間は長く死者も多数であり、"国津神"の怒りによる災厄である事は明らかである。物部大連尾輿、"蕃神"の信仰を止める事を奏上し、帝もこれを受け容れる。蘇我大臣稲目宿禰に授けられた"蕃神"の像を廃棄と見せかけて蒐集し、移動の能わない向原の蘇我氏邸は焼き払うこととする。これにより病は直ちに収まることとなった。

(記・中臣連鎌子)

添付文書・壱


壱 山城にて小規模な反乱。
弐 筑紫で地方豪族が納税を拒否。更なる謀叛の動き。
参 百済より伝わった像他数点を蒐集物に指定。現在は蘇我が所有。

以上問題を解決する為、物部・中臣の両部曲に令して呪術の儀を開始する。
三十年を目安に完遂、蘇我が服し次第終了の予定。


五八四年再度捕捉。百済の鹿深臣より"蕃神"の一種とされる弥勒という名の石像が齎され、蘇我馬子宿禰が"蕃神"の法を再興せんとする。また"蕃神"の重度汚染者とみられる恵便なる僧に部下の娘をつけ、汚染者を増やそうとしている。これは"蕃神"の精神汚染による行動と思われる。同時にそれはこの国に再度の災いを呼ぶ行動であるため、再び蒐集が急がれる。

翌五八九年三月、再び疫病が流行し、民衆はことごとく絶命、蘇我馬子宿禰も病に罹患した。物部弓削守屋大連は敏達帝に"蕃神"の信仰を止むよう再度奏じ、帝もそれに肯定を示す。先例に倣って"蕃神"の温床たる寺等は焼き払い、焼け残った像を蒐集した。病は収まったものの、"蕃神"に対する警戒をさらに強める必要がある。

(記・中臣勝海大夫)

添付文書・弐


馬子が再び百済より蕃神の像数点を持ち込んだ。神の血の浅い蘇我氏であるから、察するに蕃神を持ち込んで神威を落とし、自らの権威を押し上げたいのだろう。
祖霊神の御力によって支配している地方豪族もこのところ反旗の色が濃い。
蕃神が力を持てばさらに王権の基盤は揺るぐだろう。どうにか打開策を講じねばならない。
一先ずは先代の誂えた呪術の儀を再度用いることにする。そう時間は掛かるまい。

添付文書・参


民衆に蔓延り、吾身にも罹るこの病は父の代に流行ったものと全く同じだ。
妻の話では、物部は垂仁帝の頃より石上神宮の神宝管掌を担い、その内に神宝を蒐集・検校・管掌し、同時に呪術を司る事になったという。
疫病が氏の部曲によるものだとすれば、この障害を除かぬ限りこの国で仏法が広まり、我ら蘇我が権威を握ることは無いだろう。
次代の帝は血縁の近い大兄皇子だ。その代の内に調略を講じる必要がある。


五八七年、用明帝が病床にて、"蕃神"を受け容れる積りであるから、その如何について話し合えと詔する。直後に穴穂部皇子が"蕃神"の汚染者たる法師を連れて参じた。この事から朝廷の殆どは"蕃神"に精神を汚染されたとみられ、その感染経路は未だ不明である。警戒はさらに引き上げられる。

会議時、押坂部史毛屎より物部大連守屋に伝達が入る。群臣が反旗を翻し、大連守屋を謀殺しようと画策していると言う。この事例も"蕃神"の精神汚染による異常性かは議論の必要がある。

(記・中臣勝海連)

添付文書・肆


次の帝として立てる筈の穴穂部皇子が暗殺された。これでは何のために用明帝に呪術をかけたのか解らない。
馬子の仕業だろう。もしや疫病のことが漏れたのか?
中臣勝海も殺され、群臣の謀叛は愈々確実だ。忌まわしい…忌まわしい。


同五八七年七月、蘇我大臣馬子は丁未の戦に勝利し、物部大連守屋は滅んだ。これを以て呪術部の構成員はその任を解き、"蕃神"は蒐集物の指定を解除される。以降我等は一時的に蘇我部に編成されるが、後の職務については添付文書伍を参考とされたし。

(記・舎人迹見赤檮)

添付文書・伍


この国の社会は、最早祖霊神の霊力の分配を支配の柱とするだけでは統治の成り立たない段階にある。呪力と霊力に依存した体制は、昨今の地方豪族の反乱や、新羅など西国の脅威という課題を齎した。

君父に従わぬ原始的な習性を克服し、礼と秩序に立脚した制を打ち立てるために用いられるべきは仏法だ。在来の体制に無い統一的な身分秩序を土台に、集権的な新しい支配原理を仏法によって打ち立てる。近い内に厩戸王の口 ― いや筆から、その方が知らされる事だろう。

始めにこれまで物部の部曲であった諸臣らを、氏族ではなく朝廷に属する組織として編成の上、勤する為の施設を小墾田に造営。この施設とその組織を"蒐集院"と呼ぶ事とする。

蘇我馬子宿禰大臣

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