第〇三二四番
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縫合線虫蒐集物覚書帳目録第〇三二四番

明治三十三年 陸軍軍医少尉 凍霧天いてぎりてん君発見。
以降、同様の蒐集物発見事例あり。現状を鑑みるに、日本人一般に今もなお潜伏している可能性あり。

此は、類別するに「サナダムシ」「条虫」などの愛称で呼称さるる寄生虫なり。尋常の寄生虫は人間の体腔内、主に胃腸に寄生し、人間より養分を奪いつつ、一種の共生関係を宿主に強いる事で生存せるものなり。当該蒐集物の特徴としては、先述のごとく宿主に寄生せる点では尋常のものとさほど違いは無し。然れども、当該蒐集物は胃腸はもとより、肺、脾臓、腎臓など寄生する臓器を選ばず。また、一般の「サナダムシ」は真田紐の如き平紐型の形状で知らるるが、蒐集物は直径0.1ミリから0.6ミリメエトルほどの、絹糸の如き径をもつものなり。

当該蒐集物の持つ異常性は、高い治癒能力をその宿主に付与せしむる事なり。宿主となった生物が蒐集物に対し生存に要する滋養分を提供できる限りに於いて、蒐集物は宿主の内臓及び筋肉、あるいは骨に到るまでを修復せしむる。また特筆すべきは、当該蒐集物の強靭な生存能力なり。当該蒐集物を宿主より取り出したる場合、瞬時に乾燥し、外見は絹糸と同様の形状となる。これに極微量の水分を加える事により当該蒐集物は蘇生し、生命活動を再開す。当該蒐集物が水分を揮発する機構については、複数回の研議を行うも明らかとならず。

当該蒐集の優れたる利点については、先に述べた凍霧天君が複数回に渡る医学的研究によって発見せり。
宿主の体内より採取された寄生虫を、縫合糸として用うる事により、傷創の治癒に絶大なる効果を認むる。
刃物などによる切傷(骨まで達する物を含む)打撲による内臓破裂、骨折、挫滅傷、銃槍(貫通銃創、盲管射創含む)、砲弾の破片による爆傷など、凡そ人体に発生しうる傷を治療せしむる効果あり。

なお、これらの連関せし事項については、別紙にて述べる。

明治四十年完封措置を決定
蒐集院関東傭人連総代 柳田國夫ここに記す


添付せし資料は、蒐集院本院に保管せられし日記・書簡の複写なり。


添付書類1 凍霧氏の日記

明治33年7月7日 軍医少尉 凍霧天 
午前東京衛戍病院にて緊急搬送あり。
呼吸が止まっているところを近隣の住民が発見し、東京衛戍病院に搬送さる。
しかしその時点で、彼の命は途絶えていた。搬送の時点で大量の吐血を確認す。

私は彼を看取ったが、返す返すも残念至極。
修行不足、己が力の至らぬことを痛感せり。

患者は永山教経なる傷痍軍人であった。
軍人手帳を参照したところ、出身は岐阜県。 
飛騨山脈は白山近傍の村の生まれとあり、齢は40歳ほどである。
彼は朝鮮半島の戦役で最後まで戦った老練の兵であった。

彼を搬送した人力車夫に、彼の生前の為人を聞く。
戦ののちは退役したが、奇妙なる事に軍人恩給をはじめとした恩典は、一切受け取らなかった。
晩年は浅草の貧民窟で、貧しく暮らしていたとある。
結核となったのちも、弱った姿を周囲の住民に見せず、また最後まで礼儀正しかった。

「軍人は禮儀を正くすへし」

軍人勅諭の雛形のようであったと、人力車人夫は語っていた。
強き人であった、だがこれが、症状の発見の遅れに繋がっていたのであろう。
また、彼の知己の多くが病院前に蝟集せり。
その多くは当道者、芸人、やくざ者、娼妓の類なり。
彼の死を告げた私に集まった、彼らの視線が忘れられぬ。

彼らは無言で私に告げていた。
「なぜ、彼を助けてくれなかったのだ」と。

此度の事は教訓であろう。
今日という日を忘れてはならぬ。

添付書類2 凍霧氏の日記


明治33年7月8日 軍医少尉 凍霧天

奇態なるものを認めたり。

始まりは、軍人手帳に永山氏の遺書を認むるところなり。

「葬儀は不要。我が屍は解剖し、後日の医療の發展に役立たしめるべし。
我が死については相模原の親戚筋に通知すべし。従弟の永鉄なる者なり」

この遺言に従い、私は相模原の親戚筋に通知の書簡を作成す。
また、彼の言い遺せし通り、彼を医療解剖することとした。

当日は人手少なく、助手もおらぬ中の検視となった。

同期の久能君は多忙の身とあり、不在であったのが残念である。

次頁に、解剖時の記録を添付す。

添付書類3 解剖記録

病体剖観
明治三十三年七月八日 午前十時
軍医少尉凍霧天 東京衛戍病院に於いて病屍を解剖す
[往歴]岐阜県幣乃村 農家 永山永康・フネ長男永山教経 四十歳
二月八日浅草松葉町 長屋に於いて教経氏が外出せぬ事を不審に思った
近隣住民が教経氏の居室に侵入せしところ 土間に横臥す教経氏を発見
本人が稼業とする内職の折り紙が室内に散乱せりところを見るや
発見者の近隣住民が脈を取るも 一切の脈搏を確認できず
本人が文机に置いていた軍人手帳から 東京衛戍病院に連絡 搬送さる
然りて搬送後、既に本人は死亡を確認す

解屍所見
屍体を望見するに体格隆々にして頑強甚だし 皮膚は劣化の痕跡が伺えず
体長を計測するに六尺四分の大身なり 此は日本人の標準値を超越せり
四肢の強直甚だしく 死後五時間は経過し居るものと推察す 喉頭部に死斑あり
毛細血管の圧迫によって生ぜしものと見ゆ また鼻腔部より血液・粘液の
流出した形跡あり これを清拭し患部と思しき咽喉部を切開す 咽喉部内に
血と体液の凝固塊を確認 凝固塊付近の血管を細見するに この血塊が塞栓となり
気道を塞いでいたものと思われる 肺塞栓による窒息の可能性あり 胸部を切開す

その結果は我が目を疑うべきものなり 肺は四つ確認できた

尋常の肉体ならば 肺は肋骨に守られた状態で 体腔の胸部に収まる
そして肺は右肺・左肺の左右に別れおりしものなり 

しかしながら永山氏の肺は左右両翼にさらに一つずつ 小型の肺が連結されていた
そのうちほぼ全てが結核菌の侵犯著しく 唯一無事であったのは 右肺に連結された
小型の肺のみであった 摘出して確認したるところ かの肺は健常そのものと言って
いいものであった 肺を切開したところ 肺胞内部より数百条の糸状の物が這い出す
この奇態なる物を望見せしところ 何らかの寄生虫と覚ゆ 極めて珍しいケエスなり
【中略】
胃腸を切開せしところ 内容物の一切を確認できず
永山氏は 長期の断食状態にあったものと思われる
【中略】
長期の断食による栄養失調により結核が悪化し 多量喀血による窒息を招いたものと推察す

添付書類4 観察記録

明治33年7月9日 軍医少尉 凍霧天
上官の来島大尉より、結核患者を解剖したため身体検査を受けるよう指示あり。
結果は良好であったが、結局しばらくの間、勤務差し止めるよう言い渡されり。

また、遺体の引き取り手であった永山氏の近隣住民諸氏の問い合わせを受けたり。
葬儀を挙げるため、遺体を引き取りたいとの由。

余はそれを受諾せり。

また、余は葬儀の費用の支払いを申し出たり。
代表のやくざ者は、憮然とするもそれを了承す。

なおその手続きの間、肺より採取せしかの寄生虫を保管せし。
これについては密かに人足を雇い、小石川の自宅へと搬送す。


葬儀は正午に行われた。
天気は、折悪しく曇天。

埋葬に際しては遺体の消毒、搬送などを要す。
これら全て、余が自らの手で行うこととした。

結核患者の遺体であるため、早期の埋葬を要す。
それが故に、棺の埋葬と同時に法要を実施せり。

伝通院より僧侶を招き、簡易ながらも法要を挙げき。

葬儀の参列者は余を含め、八名にのぼりけり。
その多くは、彼が歿せし日、余を冷眼視した者たちであった。

永山氏の遺体に手を合わせつつ、せめてもの冥福を祈る。

最後に、一人一人が菊花を棺桶に投げ入れん。
花の代金も余が負担せん事を旨伝えるも、彼らはそれを拒絶す。

余は、それに言うべき言葉を持たず。
医者の謝罪は、屍の前では無力なり。

故に、余は一抱えほどの菊花をあがないたり。
唖然とする彼らをよそに、余は棺桶に菊花を納め、場を辞せり。

永山氏の死を無駄にせぬためにも、かの寄生虫について考究せんことを誓う。

添付書類5 観察記録


明治33年7月10日 軍医少尉 凍霧天
肺より採取せしかの寄生虫を自宅へ持ち帰る。
九割はホルマリン瓶に保管し、一割を寒天培地にて飼育。
これより、かの奇態なる寄生虫の経過を観察するものとす。

明治33年7月11日 軍医少尉 凍霧天
ホルマリン瓶の寄生虫の蠢動を確認す、誠に驚くべきことなり。
ホルマリン溶液は死せる細胞を変質させ、生体にも有害なり。
しかしながら、かの寄生虫は溶液の影響の一切を受けていないように思われる。
寒天培地の寄生虫についても同様に生体活動を認む。かの寄生虫は何者なりや。


明治33年7月12日 軍医少尉 凍霧天
ホルマリン溶液内より寄生虫を一匹採取したところ、変化を認む。
採取した際は一匹につき5センチほどの長さであり、それが数百条にまとまっていた。
それが、今日確認したところ、複数の個体が一つの個体へと結合していた事が判明す。

あたかも、糸車から紡がれた一本の生糸の如し。
また、寒天培地の個体からも同様の変化を認む。
太さを計測したところ、径は非常に細く、0.1ミリメエトルほどであった。


観察雑感
かの寄生虫にミミズ(Oligochaeta)との類似点を多く認む。
強靭な生存能力は、その代表といえよう。

引き続き、寄生虫の調査を続行す。

添付書類6 実験記録

明治33年7月13日 軍医少尉 凍霧天
寒天培地の個体の生存能力を試験す。
寒天培地にて培養したる個体をア号ホルマリン瓶内の個体をイ号と付番す。

その結果は以下のようなものとなる。

張力
手順:ア号個体を万力で挟み 張力を加える。
結果:ア号個体は糸のごとく展張す。

切断
手順:ア号個体をハサミで二つに切断し二つのシャーレそれぞれ移す。
結果:切断した個体それぞれの蠢動を確認す。

耐熱
手順:二つに切断したア号個体の片方をマッチで炙り熱を加える
結果:個体から煙の発生を確認、瞬時に蒸発す。

乾燥
手順:ア号個体を棉包んで個体の水気を切り、火鉢の上に吊るして水分を蒸発させる。
結果:個体からの生体反応認められず。しかし、寒天培地に戻したところ再度の蠢動を確認。

個体間の連結過程の確認
手順:イ号個体をハサミで切断し、二つに切断された個体を同一の寒天培地に移して観察す。
結果:観察から5分ほどで、二つの個体は一つの個体に連結す。

成長過程の確認
手順:連結されたイ号個体にブドウ糖を与え観察する。
結果:一時間で10cmほどの成長を認む。

実験結果
寒天培地のア号個体、ホルマリン溶液内のイ号個体、共に高い生命能力を有す。
特筆すべきはその細胞の連結能力である。あるいは「再生」能力と呼ぶべきか。

仮説
解剖検体となった永山氏があそこまで重篤な病状となりながらも生き永らえていた。
この事実を考慮するに、かの寄生虫は永山氏の肺を修繕していたのではあるまいか。

永山氏の病状が悪化したのは、氏が断食状態にあったからであろう。
故に、かの寄生虫は養分を得られず、活動が滞り、症状が進行した。
そして症状は末期に達し、その結果永山氏は命を落とす事となった。

無論、これは実証を伴わぬ仮説である。しかし生物には、創傷を修繕する天然の機能を有す。
1842年にDonneとAddisonによってplateletなる細胞が発見されし事は周知の事実である。

これらの細胞は白血球または赤血球の前駆体であり、日本語では血小板と名付けられた。
また、これらの理論に頼らずとも、些少な切り傷を瘡蓋が塞ぐ事は幼子でも知っている。

そして、かの寄生虫もまた強靭なる再生能力を有す。

そのため、寄生虫は宿主と共生しつつ、自己治癒能力を代替していたのではあるまいか。
事実、摘出された肺(かの肺についても奇態なるものである)は、新品そのものであった。

先述の通り永山氏の肺は結核に冒されていた。
自己治癒能力は格段に低下していたに相違ない。

それにより寄生虫もまた、肺から養分を得る事能わず。
よって、寄生虫は肺の残存部分のみを修繕したのではないか。

しかしながらこれには、さらなる多くの検証が必要であろう。

今後の課題
寄生虫の細胞組成の調査
寄生虫の体内における作用の確認 その実証方法の確立

添付書類7 細胞組成調査


明治33年7月14日 軍医少尉 凍霧天

細胞の確認
手順:イ号個体を切断し、擂り鉢で摺り潰したのち顕微鏡で観察。
結果:何らかの繊維と思しきものを確認す。生糸のそれに類似を見る。

添付書類8 凍霧氏の日記


明治33年7月16日 軍医少尉 凍霧天
細胞の組成についてはこれ以上の進展を見ず。
取り急ぎ、電話にて朋友たる久能尚史君の消息を尋ねる。

これについて余は旧友の米津君を頼る事とせん。
米津君は、陸軍第五師団所属の騎兵少尉である。

幸い電話は繋がり、米津君は快く応じてくれた。

米津君曰く、久能君は現在、大陸にあり。
医療部隊の任務に携わっていると聞き及ぶ。

義和団の狼藉に対し、列強諸国は武力にて介入する事は、余も耳にせしところなり。
故に彼は、最前線に赴く事となっているとの事。余は彼を誇りに思い、かつ羨望す。

思えば久能君とは幼少の頃より、父が開きし生類塾と言う私塾で机を並べた仲である。
彼は幼き頃より溌剌なる学力を示し、大学入学までは塾頭を勤めていた程であった。

米津君もまた、ちょうど明日にも後続の部隊として大陸に赴くとの事である。
米津君、久能君両者の無事と武運を祈り、別れの言葉とともに電話を切った。

取り急ぎ研究結果を書簡にまとめる。

添付書類9 凍霧氏の日記


明治33年7月20日 軍医少尉 凍霧天

気分転換のため近所の散策に出る。
神田川沿いを歩くや、わらべ歌を耳にす。

来るか来るかと機織りやめて
あれは川瀬の音ばかり

切れた糸ならつなげばなおる
あの子と切れたにゃつなげない

その瞬間、我が脳裏にそのわらべ歌が脳裏に焼付きぬ。
まるで何者かが、ストロボを焚いたかのごとし。

生糸。

我天啓を得たり。生糸。生糸こそが鍵ではあるまいか。
かの寄生虫こそ、生ける生糸そのものではあるまいか。

イ号個体を縫合用の針糸に通す、口径長さ共に申し分なし。
張力試験は既に実施済みであるゆえ、使用に差し障りなし。

だが問題は、どのようにして献体を確保するかである。
医学の発展は多くの屍に成り立つも、人道に背くこと罷り成らず。

添付書類10 凍霧氏の日記


明治33年7月22日 軍医少尉 凍霧天
午後10時、小石川の自宅にて知らせあり。緊急を要す負傷者ありとの事。
余はそれを受諾し、負傷者の治療の受け入れを準備す。
知らせを齎すは、奇しくも永山氏の葬儀の参列者であった。

半刻ほどのち、負傷者搬送さる。
彼もまた、永山氏の葬儀の参列者なり。

搬送の人足を勤めた人力車夫曰く「有村の兄貴」との事。
車夫もまた彼の本名を知らず、だが有村なる名には聞き覚えあり。

父の代より有村は、関八州に悪名を轟かせた博徒の集団なり。
その名代の一人が、小石川に居を構えりとは父の言なり。

維新ののち、有村一家は離散せりと話に聞く。
おそらくこの男は、その生き残りであろう。

取り急ぎ患部を診断す。胸部右肺に至る切創及び、左腕部の切創。
特に左腕部の傷は深刻であり、骨にまで至れり。
どちらも刀剣類によるものなり。

出血が多く、搬送者より献血を求む。搬送者は快く引き受けたりけり。

そこで余は、かの寄生虫の効能を試験せんという内心よりの誘惑を受けり。
かの男はおそらく、相当な大喧嘩を行ったものと思わる。
この創傷ならば、助かる見込みもまた芳しからざりき。

故に余は、かのものに寄生虫の使用を決断す。
かの寄生虫を縫合糸の代用とし、患部の縫合を試みん。

添付書類11 凍霧氏の日記


明治33年7月23日 軍医少尉 凍霧天
深更にて、手術完了す、結果は予想以上のものであった。
イ号個体を用いて切創を縫合するや否や、瞬時に治癒したり。

己が仮説が確かなりし事、この時点で深く確信を見ん。

切断されし骨を錐を用いて縫合す、たちどころに治癒せり。
まさに驚くべき事なり。

この寄生虫が、医学に格段の進歩をもたらさん。

かの事例を元に、かの寄生虫を「縫合線虫」と命名す。

添付書類12 凍霧氏の日記


明治33年7月24日 軍医少尉 凍霧天
久能君の所在が判明す。彼は今、大陸は奉天にありとのことである。

今までの研究成果をまとめ、野戦郵便局宛に軍事郵便をしたためん。
また新聞は、八ヶ国連合軍の快進撃を伝うる。米津君は無事なりや。

ここで、凍霧氏に送られた書簡を掲載す。
書簡は前掲されし、久能氏よりの物なり。


添付書類13 久能氏よりの書簡


親愛なる凍霧君へ。

長々ご無沙汰してしまい、すまなく思う。

君も知っての通り、大陸の情勢は風雲急を告げている。
幸いこちらは勝っているが、死傷者が日に日に増える。

正直、猫の手も借りたい気分だ。
上官殿が君を内地に残したのは、まさに不明の至りだね。

だがしかし、今回の件に限っては、それが功を奏したようだ。
君からの書簡は読ませて貰った、非常に興味深い結果に思う。

君からの書簡を容易く信用したことについて、君は意外に思うかもしれない。
だが僕は、こういった物がこの世にあるという事例を、多く聞き知っている。

僕の帰国まではもう少しかかるが、その際には君の研究も進んでいるだろう。
その時には、是非とも成果を聞かせておくれよ。それから一杯奢らせて貰おう。

追伸 米津君だが、元気にやっているらしい。

明治33年7月28日 軍医少尉 久能尚史


久能氏は、帝国議会衆議院議員、橋詰数右衛門氏の係累に当たる。

その功績は明治開府より多くの元勲の知るところなり。
橋詰氏は京都の妓楼の主であり、幕末の頃、多くの志士を支援す。

また、氏は食品流通に多大なる利益を上げ、その功績大なり。
それをもって橋詰氏は議員に立候補、見事議席を得る。

尚、橋詰氏は我が国の超常機関と多くの関わりを持つ。
特に九十九機関なる機関とは設立当初よりの連関あり。

久能氏の「異常を多く見る」との発言も、此に連関せる処なりや。


添付書類14 凍霧氏の日記


明治33年7月31日 軍医少尉 凍霧天
上官より、任務への復帰の命令下る。
縫合線虫は現状、世には公表せぬ事にせり。

正直何やら、かの線虫が恐ろしく思えてならぬ。
あれは、この世に出してはならぬ物ではないか。

夢を見た。深い地の底で、何者かが呼んでいる夢なり。
女の声、この世ならぬ程の美しい声で、何かを呼べり。

また、か細き声で、別の女の声も聞こえたり。
しかしてあまりにも小さき声で、要領を得ぬ。

研究は続けるも、かの線虫の使用は控える事とす。

添付書類15 凍霧氏の日記

明治33年7月31日 軍医少尉 凍霧天
付記 寄生虫の培養についての覚書

将来、国家危急の事、あるいは大災害天変地異やあらん。
最後の手段としてかの寄生虫を必要とせし時やあらんか。

それに備え、縫合線虫を培養す。

ブドウ糖を手に入れ、縫合線虫を大瓶内に入れ、ブドウ糖を注ぐ。
かの培養方式や覿面の効果あり。即ち大瓶一杯の縫合線虫を得る。

添付書類16 凍霧氏の日記


明治33年8月31日 軍医少尉 凍霧天

ここ一月、多忙を極め日記を綴るいとまもなし。
ようやくここに、そのいとまを得たり。

余はかの線虫の使用を封ずる旨日記に記せし。
しかし、余の現状はその真逆のものとなれり。

アリムラなる男を治療せしのち、その評判がにわかに世上に広まっていたのだ。
その評判は、なんと我が上官は元より、医務局にまで伝わってしまったと言う。

陸軍と言うところは過酷な場所であり、調練の際には負傷者が度々出り。
あるいは、兵隊同士の揉事で刃傷沙汰になることも又、数多く発生せり。
更に、大陸より後送されし負傷者数多く、これらの兵も治療の必要あらん。

その度に余は彼らの治療に当たる事となり、東奔西走す。

それだけではない、有村は快癒したのち、同様の評判を浅草界隈に広めていた。
故に、我が自宅には重傷者が運び込まれる事幾十度とあり。それらを悉く治療せり。

これらの治療には全て、かの寄生虫を用いた。

此を持って余は、己が自制心の欠如を恥ず。
しかしながら、他に取るべき方式があらんや。

元より余は医者かつ学究の徒なり。さすれば、生存の可能性の高い方式を取らざるを得ず。

こうなってしまえば、後には引けぬと言う事となった。
かくなる上は、かの寄生虫の効験を試していく他なし。

公私共に多忙となるも、これでよかったのだと思いたり。

公では兵を助く。これは軍医の本懐そのものであろう。
私では庶民一般を助く。これもまた、医者としての本懐なり。

以降、数百回に及ぶ治療記録が蒐集されている。
凍霧天氏の医師としての声望、いやが応にも高まりぬ。


添付書類17 凍霧氏の日記


明治34年10月1日 軍医少尉 凍霧天
義和団の乱は完全に終息せり。
鎮定軍の参加者、悉く帰国す。

久能君、米津君の両君に再会す。
一年数ヶ月ぶりの再会であった。

二人共五体満足の帰国であり、余は大いに胸を撫で下ろす処なり。
久能君が「今日は僕の奢りだ」と言い、一路麻布へと足を運ばん。

三人で「風月堂」の珈琲を喫せり。
「奢る」と言うのは珈琲の事なり。

久能君は常にそうなのであったが、酒を期待していた米津君は若干不満であった。

大陸での事を二人に尋ねるも、米津君はただ一言「ゆめうつつ」とだけ言い置けり。
久能君からは「驚くべき物を多く見聞した」との事で、条約の調印式を挙げていた。

だがそれ以上は、二人とも口を容易には開く事なし。
軍機に関わる事やも知れず、余もそれ以上は尋ねず。

再会を約して別れた。

添付書類18 凍霧氏の日記


明治34年10月5日 軍医少尉 凍霧天
復員兵の中に重傷者多く、余は彼らの治療に追わる。
義和団の乱は終わりしが、その後の影響、芳しからず。

大陸情勢を鑑みるに、朝鮮半島北部の満州に、露西亞帝国の兵員未だ駐屯せり。
思えば明治開府以来より、露西亞帝国の南下は、常に我が帝国の懸念事項なり。

露西亞大軍を持って朝鮮半島を南下せば、我が帝国橋頭堡を喪失す。
かの地が次なる戦役を呼ぶやも知れず、世人の多く、これを懸念す。

しかしながら、余は一介の軍医に過ぎぬ。日々の任務をこなすのみ。

添付書類19 凍霧氏の日記

明治34年11月9日 軍医少尉 凍霧天
身辺に異変を感ずることしばしばあり。

余の立ち入る先で、奇妙な人影を認む。

其は、決まって余の不在の際に来訪す。

余の懇意にす古書店主人より、証言あり。
其の人物の着物に、このような紋所あり。

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麻の葉の紋所なり、家紋としては決して珍しき物にあらず。
しかし此は奇異なる事なり、かの紋所の人物は何者なりや。

かの寄生虫を発見してより、奇異なる事、我が身に数多し。
日記には研究成果を記録せり、安全のため暫し記録を止む。
日記に鍵をかけ、外出の際は肌身離さず持ち歩く事とせり。


以降、しばらくの間凍霧氏の記述は途絶えている。
再び記述が再開さるは、明治37年の時からなり。


添付書類20 凍霧氏の日記


明治37年08月10日 軍医少尉 凍霧天
大陸の戦雲止まず、ついに我が帝国は露西亞帝国と開戦せり。
久能君は第一軍、米津君は第二軍にて、既に出征せり。

余は内地にて彼らの無事を祈りつつ、出征の日を待てり。
遂に命令が下り、余は第三軍、第一師団所属・歩兵第二旅団第三連隊の野戦病院付き軍医として出征す。
余は、ただいま宇品港より出航せし輸送船の船上にあり。

我が司令官、乃木希典大将及び満州軍参謀総長児玉源太郎大将は必勝を期すと聞き及ぶ。
しかしながら、余が生きて内地の土を踏む事、能わぬやも知れず。

今はただ、任務を全うするを本分とし、多くの戦友の命を救わん。
今や国家危急の時なり。故に余は、密かにかの寄生虫を持ち出す。

余の医師としての本分と、かの寄生虫の効験、大いに試さんとす。

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補遺:日露戦役 状況図


添付書類21 凍霧氏の日記


明治37年08月15日 軍医少尉 凍霧天
我が第三軍の攻撃目標は旅順港なり。

旅順港こそ露軍艦隊の停泊地であり、我が帝国の喉元の刃と言うべき物なり。
かの港落ちざれば黒海艦隊跳梁せり。さすれば、我が帝国は速やかに亡滅す。

しかして敵軍は港を守るべく、かの港町を要塞化しけりと聞く。

相当の激戦となるは想像するに容易なり。
ならば余は、多くの兵士を治療せしめん。

添付書類22 凍霧氏の日記


明治37年08月25日 軍医少尉 凍霧天
旅順要塞への総攻撃、中止さる。

我が第一師団は水師営を占領せり。続いて南山坡山及びその北端の鉢巻山をも占領するも、死傷者多数。
第九師団は盤龍山保塁を占領、第十一師団は東鶏冠山堡塁を攻撃するも、猛射を受け退却す。

聞くところによれば、旅順各所には重厚なる防御陣が敷設されていたとの由。
敵軍はベトンで固めたトーチカより、機関銃と重砲にてしきり銃砲撃せり。

余は水師営にて野戦病院を設営せり、後送さるる負傷者数多あり。
その多くが到着の時点で死亡、生命ありしも眼球や手足を失えり。

余は患者のため短刀を振るわんと欲するも、軍規に背くこと能わず。
我が第一師団鶴田禎次郎軍医部長が著せし「戦地創法の大典」には以下の如し。

出征軍医の用意は手術心に動かされざるにあり
軍医は状況止むを得ざる時 初めて手術刀を執るべし

我ら軍医は、これらの大典を諳んじるほどに反復学習せり。
然れども周囲を見渡せば、横たわる負傷者数多くあり。

何を以って「止むを得ざる」と判断せんや。

せめて、第二軍の森林太郎軍医部長が提唱したトリアージュなる方法を以って区別すれば如何。
しかしながら、かの方式は差別的治療なりとして奇妙に歪められた形式でその名残を留めたり。

かのトリアージュは「分類すれども優先順位つけず」との方式で、運用されり。
故に、余もまたその方式に従わざるを得ず。

しかし、かの寄生虫をこの患者ら全てに用いれば如何。
彼らたちどころに恢復し、再び銃を握る事能うるなり。

然れども、余は軍医なり。医者である以前に軍人なり。
軍規に背くこと、これ軍人にあるまじき所業ならんや。

余は心の深奥で歯嚙みしつつ、戦友たちに包帯を巻いて回る事しかできず。
多くの戦友は包帯に巻かれた血袋となり、余は、その多くの死を看取れり。

添付書類23 凍霧氏の日記


明治37年08月27日 軍医少尉 凍霧天

日々、負傷者の治療に当たる。幸運な者は手術を受け、命を永らえて後送さる。
しかし、多くの戦友は夜戦病院のテントの中で、一人、また一人と息絶えり。

余も我が同僚も、日夜懸命に治療に当たる。
涙ぐましきは、赤十字看護婦たちの尽力なり。

だが、銃砲弾に意思はなく、容赦する事なし。
看護婦も又、その流れ弾で命を落とす事あり。

翻って我が軍は重砲弾の不足に悩みつつあり。
兵士は皆勇敢に前進するも、手持ちの小銃弾たちまち切れ、銃剣突撃にて多くが斃れけりと聞く。

添付書類24 凍霧氏の日記


明治37年08月28日 軍医少尉 凍霧天
野戦病院のテントに、奇しくも知己が訪れり。
其は、かつて余が治療した有村なる男であった。
予備役の三等兵として、彼も又招集された物と覚ゆ。

彼は戦友を抱え、余に告げり。
「凍霧先生に出会えたのは天佑、どうかかつての自分のように、彼を治療して欲しい」と。
患者を見れば、重砲弾にて手足は千切れかけ、下顎の右側が吹き飛ばされていた。
おそらく、休戦状態の合間を縫い、彼は前線より死に物狂いで戦友を救助せしものと見ゆ。

余はここで、己が所業の皮肉を痛感せり。
余が彼を治療せねば、彼に無為な期待を抱かせる事もなかったであろうに。

だが、その時は深更に近く、多くの医師が倒れ臥すように眠れり。
野戦病院の手術台は、問題なく使える状態であった。

故に余は、大典に背く決意をせり。
否、大典にもあるではないか。

「状況止むを得ざる時 初めて手術刀を執るべし」

まさに今、状況止むを得ざる時。故に余は執刀す。

重砲弾の破片を患者より取り除き、肉と骨の接合には縫合線虫を用いたり。
だが、患者の体内の滋養分、術後の出血性ショックに不安点あり。
故に余は、かのLandererに倣い、患者にブドウ糖を静脈注射せり。

結果は凄まじき効験なり。余の見ている前で、患者の創傷が治癒す。
其れどころか、喪失された右下顎の骨・筋肉・皮膚まで忽ち再生さる。

有村予備役三等兵は驚き、又瞠目し、手術を謝す。
余は彼に、分隊のテントへ戻り、眠るよう言いつけり。

有村、ただ頷きその場を去る。

添付書類25 凍霧氏の日記


明治37年08月29日 軍医少尉 凍霧天
朝、医療テントに多くの兵が蝟集す。

原隊に復帰した田中某という兵が、余の治療の噂を流したり。
アリムラ同様彼らも又、多くの戦友を救わんと、余に訴えり。

余の同僚も又、噂を耳にせり。再び後には引けぬ事となった。

余は、余の責任に於いて、本式のトリアージュを試さんとす。

患者を4段階に分類、優先順位の高いものから治療す。
縫合線虫の在庫は多く、培養のためにはブドウ糖のみあれば十分なり。

余と同僚は苦心するも多くの兵の命を救う。
夜半になり、突如憲兵テントに来訪す。

余は、軍法会議の被告となることを覚悟す。

添付書類26 凍霧氏の日記


明治37年09月1日 軍医少尉 凍霧天
余は、鶴田禎次郎軍医部長の査問を受けり。
尚、軍医部長殿の横には見知らぬ少佐あり。

軍医部長は余に「君は麻の葉の紋の係累にあたるものか」と問う。
麻の葉紋には覚えありしが、一体要領を得ず。ただ、否と答えり。

其を聞きし少佐、破顔せり。「それは大変に都合がいい」との由。
軍医部長は「非常時である、君の本分を尽くせ」と余に命令せり。
余は謹んで、その命令を受諾す。しかし、只々一向に要領を得ず。

添付書類27 凍霧氏の日記


明治37年9月20日 軍医少尉 凍霧天
余は多くの命を救えり。

此は天地神明にかけて事実なり。

多くの兵士より、感謝の言葉あり。
これこそ、医師としての御幸にて、本懐にあらんや。

然れども、彼らの快癒したるは、再びかの焦熱地獄へと舞い戻らんことを意味す。
9月19日より第二次攻勢開始さる。あまりにも多くの兵士の背中を余は見送れり。
その多くが戻らず。彼らは前線で弾雨の中にありや、或は屍の山に加わりし物か。

本日、第一師団は主攻正面を203高地に志向せりとの報り。
かの地点に、多くの友軍の亡骸、うず高く山積すと聞けり。

添付書類28 凍霧氏の日記


明治37年9月30日 軍医少尉 凍霧天
後送されし者の中に、露西亞帝国軍の捕虜あり。
我が軍の兵士同様、胸部に重傷あり。砲弾の破片が貫通せしものと見ゆ。
余は彼を治療せんと縫合線虫を用いしが、突如彼は起き上がり絶叫せり。

ロシア語で「ズロオイ」と叫び、口から一条の油を吐き、彼は息絶えぬ。
彼の貫通銃創より大小いくつかの歯車が転げ落ち、遺体は突如炎上せり。

幸い遺体をテントの外に放り出し、どうにか火事を免れたり。
しかして、彼がなんであったのか、余の理解は及ばざるなり。

添付書類29 凍霧氏の日記


明治37年10月26日 軍医少尉 凍霧天
第二次攻勢、一度の中断ののちに再開されり。
我ら軍医もまた、かの望台を見上げる狭地にテントを移設せり。
敵の機関銃の銃声、砲声、ますます盛んなり。

添付書類30 凍霧氏の日記


明治37年10月30日 軍医少尉 凍霧天
此は、余にとっての遺書になるやも知れぬ。
余は前線に於いて遂に、かの寄生虫の正体を見ゆ。

異変が起きたのは、正午の事であった。
余が治療を施せし兵士が、突如として飛び起き、テントを脱走す。
狂を発したものと思い、余は兵士を追いかけしが、兵士は流れ弾に頭部を砕かれり。

しかして、地に倒れ伏した兵士は起立せり。
更に、頭部の断面より大量の生糸を放出す。

かの生糸が穴という穴より吹き出し、糸は縒り集まり、綱のようになって地面に穴を穿ちぬ。
あたかも巨大な蚯蚓が、彼の腹の中に宿り、内部から彼を食い破ったかの如くなり。

その糸は土竜の移動せしが如き痕跡を地表に残しつつ、前線へと進んでゆく。
そして同様の異変は、203高地の麓や中腹でも発生せり。
余は双眼鏡で、確とその異変を確認す。

数多の亡骸が起き上がり、先ほど見た兵士と同じ変容を遂げつつあり。
数多の糸は地中に潜りつつあると見ゆ。水面を泳ぐ蛇の如く、蛇行す。
その様は地表を縫う生糸の如し、その運動は一定の方向を指向せり。

遺体の変容は、周囲の屍を巻き込んだものと見ゆ。
数百数千の屍、今や蘇るがごとくに起立せんとす。
我が軍の兵、露西亜の兵、その区別なく起き上がれり。

敵味方の兵、其を見て混乱す。亡骸を撃つもの、亡骸に話しかけ撃たるるもの数多あり。
かの糸の太さはもはや生糸にあらず、一本の綱ほどの太さとなれり。

彼らは八方向に列をなし、屍より噴出せし綱は屍同士を繋げり。
その円状の陣の中心に、もぐら塚の如く大量の土砂が噴出せり。

その時、203高知の麓、大きく地崩れを起こせり。
巨大な穴が開いたと見ゆ、深さがどれほどか分からず。
その穴は、ちょうど八方向の円陣の中央にあると見ゆ。

数多の屍は、自らに繋がった綱を手繰り、一斉に引き始めたり。
あたかも、地の底より何かを引きずり出さんとするが如くなり。

それより数分後、203高地を地響きが襲えり。
更なる変事に、敵味方の兵より一層混乱せり。

地響きが治ったのち、我が耳に奇妙な声が響けり。
かの寄生虫を見出せし時に見た、かの夢の声なり。
深い地の底で呼んでいる声、美しき女の声音なり。

その声は少しずつ、近づいてくるかの如く響けり。
何かが、地の底より這い上がって来るかの如し。

あの声が、余の耳に強く響きたり。
以下に記すは、その声の断片なり。


くやしきかな われをな みたまいそ


けしてゆるさじ されどいとしきかな


なせのみこと




203高地に、腐臭を含む風吹き來たり。
その風は、かの大穴からのものと覚ゆ。

奇態極まる事に、待機中に雷光走る。
円陣を成す死者の列、にわかに電光を帯び、穴より八つの光球出でり。

地より出でし光球、にわかに稲妻を放ち、敵味方の兵を焼く。
そして、我が視界は、穴の淵に手をかけし、真白き手を見ゆ。

その刹那、円陣の周囲で榴弾が炸裂せり。

我が軍の砲兵、狂乱しつつしきりに大穴に向けて砲弾を放ちたり。
露西亜の兵も又、トーチカより重砲と機関銃を撃てり。

我が双眼鏡の視界に映る死者悉くが吹き飛ばされ、榴弾の熱に焼け落ちぬ。
それと同時に再び地響きが發生し、雷球は砲煙と共に穴の中へ吸引されり。

かの声が遠くなってゆく、穴の底へ底へと落ちてゆくがごとし。
しばらくののち砲声は止み、砲煙晴れた後、かの大穴は痕跡を残さず消失せり。

余はにわかに狂を発し、しばしの記憶なし。
同僚に助け起こされ、余は後方のテントへと後送されり。
今、漸く意識を取り戻し、此を記す。

上述の超常發生事例について、当院より陸軍に出向せし者あり。
かの者よりの報告は軍事郵便を通じ、本土の当院に郵送されり。
以下に、その報告書を添付す。


戦地蒐集物詳報


報告 203高地に於ける異常事例發生について

發生地所 満州

概要
満州・旅順に於ける激戦に於いて、我が軍は甚大なる損害を蒙りつつも遂にこれを占領す。しかして、かの地に於いて恐るべき事態發生す。数多の死者が起き上がり、奇異なる儀式を行いしとの報告あり。小官も又、現地にてその有様を直々に見聞す。遺体群は何らかの異常存在を当世に呼び来たる物と覚ゆ。しかし、事が戦闘中に發生したこともあり状況混乱を極め、その現象の正体も見極めること能わず。

異常への対処
小官は今回の事態を見るや、素早く砲兵陣地へ騎行す。そこで小官は砲兵に異常事態を伝え、203高地への集中砲撃を命ず。結果、砲兵は重砲を連射し、辛くも異常事態は収束を見ゆ。非常時故小官も混乱を来たし折り、独断専行の謂れは避けざるところなり。児玉源太郎総参謀長は小官の独断専行を大いに追求せるも、乃木司令官の温情により、我が行動は事後的なれども許可されり。貴院への影響については考慮を要せず。


事後の対応
かかる事態の原因については、現状不明なり。さらなる研儀のため、休戦期間を利用し、遺体を回収す。死体からは生糸の如き寄生虫を回収したれり、これらの異常物品が何であるかは、本院にて研儀の必要ありと見ゆ。よって小官は現地より可能な限り多くの異常物を回収し、遺体を焼却処分せり。蒐集された異常物については、貴院が取り扱うべく蒐集物と認識し、小官が帰国の折り、本院へと持ち帰る所存なり。

回収については陸軍を通じ、葦船龍臣二等蒐集官に回収を依頼せる予定なり。


明治33年11月3日 陸軍少佐 蒐集院二等蒐集官 御幸秀清

日本異常事例調査局 検閲済

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添付書類32 凍霧氏の日記


明治37年12月8日 軍医少尉 凍霧天
任務継続困難と見なされ、本国へと後送さるる。
現状、余は自宅療養の名目で勤務を差置かれたり。
現在、小石川の自宅にてこの日記を記述す。

余が満州で見しかの現象は、一体何事なりや。
未だ、結論を得ず。今はただ、己が所業を悔やむのみ。

かの現象を發生せしめた原因、これだけは明らかなり。
かの寄生虫を用い、治療を行いし事。それが原因なり。

余は今でも夢枕に、多くの戦友たちの背中を見ゆ。
治療を施せし者達が、地の底から余を呼ぶ夢なり。

彼らはあの様な姿になるために、生きて来たわけではない。
余の所業は彼らを一時生かし、再び死へと追いやったのみ。

ならば余の治療に、一体如何なる意味があろうか。

添付書類33 凍霧氏の日記


明治38年1月3日 軍医少尉 凍霧天
年明けの寒気もあり、体調すぐれず。
床に伏せっておったところ、複数の郵便あり。

一通は、大陸よりの軍事郵便なり。
久能君よりの短信、まずは健勝との事。また、旅順の要塞は遂に陥落したりけり。
残すは北方の奉天に駐屯す、クロパトキン率いる露西亜野戦軍のみなり。

又、余を気遣う一文あり。国に帰ったら是非とも話がある故、軍籍は退かぬようにとのこと。
気を病む中、友人の手紙ほど心温まる物はなし。退役を検討していたが、ひとまず留め置く事とす。

問題はもう一通の手紙であった、封蝋がなされた何の変哲もなき封筒。
だが裏側に、余にとって忘れ難き紋が印されていた。

添付書類34 書簡



突然のお手紙、さぞや驚かれたかと思います。

かの麻の葉紋については、既にご存知かとも思います。
まず、度重なるご無礼に対し、謝らせていただきたい。

あなたがかの遺体から採取した寄生虫について、我々は存じ上げておりました。
あなたが出征なさる前、あなたの身辺を探っていたのは我々の手の物なのです。

あなたの身辺を探らせたのは、我らの存在を敢えて知らせ、連絡を取るためでした。
監視を続けるうちあなたは出征されてしまい、ご帰国を待つほかありませんでした。

誤解を解く間も無く、ご気分を害されたかと思います。大変申し訳ない。

我々が何であるのか、凍霧先生も気になるところかと思います。

端的に言えば我々は、古くからこの国に存在する機関であります。
かの寄生虫は元より、異常なる物がこの世には数多く存在します。
我らはそれを集め、研究し、それらを封印するのが任務なのです。

かの寄生虫が何であったのか研儀にかけましたが、実際お手上げでした。
ですが、あなたはそれを探り当てられたご様子であり、大変に興味深い。

我らも又学究の徒であり、凍霧先生を害する気は一切ありません。
もしよろしければ、かの寄生虫の研儀の成果を、私にお伝え願えないでしょうか。
そうして頂ければ、満州であなたが見た物事について、一つの仮説が見いだせるやも知れません。

是非とも、我らの研儀にご協力ください。
ご返事をお待ちしております。

蒐集院関東傭人蓮総代 柳田國男

添付書類35 凍霧氏の日記


明治38年1月4日 軍医少尉 凍霧天
思案し、かの書簡について考察す。

柳田の名は余も聞き及ぶところなり。
学生時代、帝大に大変な碩学がいるとの噂あり。
なお、余の記憶が確かであれば、現在は法制局参事官として勤務せりと言う。

また、彼は土俗文化に深甚なる興味を示し、その知見大なりとのこと。

だが、麻の葉紋、蒐集院なる者達は、我が国の一隅を占めていたと見ゆ。
ならば、彼のような人物が秘密結社めいた集まりに参加するのもむべなるかな。

事実、鶴田軍医部長は麻の葉紋を警戒していたではないか。
それならば、いっそのこと秘め置いた研究を、柳田氏に託すも一興。
研究結果の全てと、余が満州で見聞せし事を書簡にまとめ、投函す。

添付書類36 書簡


ご返事いただきありがとうございます。

あなたの研究は大変興味深く、我らの研儀に並ぶほどです。
私は此度の件について、一つの仮説を得る事ができました。

まず、あなたが解剖した永山氏についてお話しましょう。
永山氏は、極めて特異な体質をしていました。
彼の生国から察するに、彼は特異な集落の出身である可能性が高い。

飛騨山脈には「ばかたち・ゐおん」なる特異な集団が居住する村があると聞き及びます。
永山氏はおそらく、その「ばかたち」に連なる者達の一員だったのではないでしょうか。

蒐集院の資料庫にも、永山氏と同じような体質の者がかつていたとの資料が存在します。

問題は、あなたが採取した寄生虫と満州で見たと言う異常についてです。

ご了解いただきたいのは、かの現象を再現する事が難しいと言う事です。
故に私の仮説は、あくまで仮説に過ぎません。

まずあなたが聞いたと言う声ですが、あれは古事記に記された伊邪那美命の言葉です。
伊邪那美命は亡者となった己を覗き見られた事を恥じ、黄泉比良坂で伊奘諾と別れます。

これが一般的に知られる黄泉比良坂の逸話ですが、これには続きがあります。
それは「一書」と呼ばれる異説をまとめた文献に記述されています。

伊邪那岐と伊邪那美が黄泉比良坂で口論となった際、黄泉比良坂の番人泉守道者が仲裁に入ります。
そして、泉守道者の傍には菊理姫ククリヒメと言う神がおり、伊邪那岐命に何事かを申し上げたと言うのです。

何を言ったのか、詳しいことは「一書」には記されておりません。

なぜ私がこのような事を申し上げるかと言えば、永山氏は飛騨山脈の、白山近傍の村の出身と言う事です。
白山には神社があり、その祭神こそ菊理姫に他なりません。菊理姫は生糸と養蚕の守り神とも言われます。

東北は遠野の地には、「オシラサマ」と呼ばれる土俗神がおります。
これを菊理姫と同一となす俗説があるのです。

菊理姫は白山比咩とも呼ばれ、白山信仰には養蚕の守り手としての側面が存在します。
そしてオシラサマも又養蚕を齎す神とされております。

無論、私も確証を得らるるほどの巷説を集められてはおりません。白山の信仰には今でも謎が多い。

ですが、かの寄生虫は「ばかたち」よりも以前から我が国に存在していた可能性は高いと思われます。
そしてこの国には、驚くほど多くの異常が存在します。古事記の記述も事実である可能性すらあるのです。

それを考えるならば、かの寄生虫は菊理姫の御使であったのではないか。
その御使が、永山氏の先祖にいつしか取り憑いたのであれば、どうでしょう。

かの寄生虫は生ける生糸。ならば、まさしく菊理姫の御使と呼ぶに相応しい。

そしてもう一つ、あなたの証言のお陰で、私は「一書」の補足部分を埋める仮説も用意できました。

恐らく菊理姫は、このように言ったのです。

「いつか必ず、伊邪那美命を地上へお迎えに参ります」と。

事実、白山神社の祭神は菊理姫のみならず、伊奘諾・伊邪那美命も揃いで祀られているのです。

この仮説ならば、かの寄生虫が縒り集まり、綱となって地中に潜り込んだ事も説明がつきます。
あれは綱でありかつ「根」でもあったのではないか。多くの死者を苗床にして育つ「根」です。

それらの根がどこを目指したのか。日本の古代神話に於いて、冥界は「根の国」と呼ばれます。
ならば深く掘り進んだ「根」は、冥界へと続く大穴を開けてしまったのではないでしょうか。

八つの球電は、伊邪那美が引き連れていた八雷神に符号します。

しかしながらこれはあくまで仮説。ここでやめておきましょう。

科学とは再現性が第一なのですから。

凍霧先生、最後に一つお願いがあります。

当院は先生のような研究者を一人でも多く必要としています。
我が国の異常物品は連日発見が続き、手に負えるかわからないところまで来ています。
今回のように医学の志がある先生のような方の手に渡れば、それは人を救うでしょう。

事実、あなたは多くの兵士の命を救いました。

ですが、そうでない者達の手に渡れば、この世は修羅の巷と化すでしょう。
もしも先生が宜しければ是非とも、当院の一員となっていただきたい。

御一考、よろしくお願いしたします。

追伸

あなたの目前に現れた少佐ですが、かの者には極力関わらぬようご忠告申し上げます。
詳しくは申し上げられませんが、あれは不穏なる勢力の首魁、その手先なのです。
かの者たちは、あなたの人生を疲弊させ、いずれは破滅に追いやるでしょう。
何を言われても、あれらの言葉に従ったりせぬよう。

蒐集院関東傭人蓮総代 柳田國男

添付書類37 書簡


明治38年1月5日 軍医少尉 凍霧天
柳田氏の忠告を思慮す。

確かに、かの少佐は警戒すべきやも知れぬ。
だが、彼は我が軍医部長をも操る程の人物。
一介の軍医に過ぎぬ余に、抗しうる相手であろうか。

蒐集院なる組織についても懸念す。
かの組織に関わる事で、余は如何なる役割を果たしうるや。

添付書類38 書簡



親愛なる凍霧君へ。

奉天の戦は大勝利、僕の役割も終わったらしく帰ってくる事ができた。
だが帰国早々僕は雑事に追われる身となり、連絡が遅れて申し訳ない。

君は今でも自宅に篭っているとの事だが、そろそろ外の空気を吸おうじゃないか。
君が自分自身を責める気持ちもわかる、君の人道主義は僕も大いに知るところだ。

しかし僕は君のことが本当に心配だ。
風月堂で珈琲でも飲もうじゃないか。

それから、君に是非とも話しておきたいことがあるのだ。

返信を待っているよ。

明治38年3月16日 軍医少尉 久能尚史

添付書類39 凍霧氏の日記


明治38年3月17日 軍医少尉 凍霧天
麻布風月堂にて久能君と会う。
相変変わらず健勝である様子。

まず珈琲とゴオフルを喫す。
その間、余は一言も発せず。

珈琲とゴオフルを片付けたのち、久能君が口を開いた。
まず彼は、もうそろそろ軍務に復帰してはどうかと言った。

余はそれに踏み切れず、回答に窮すなり。
だが久能君は、信じられぬ事を言い出す。

「君がそれでは困るよ、君の働きぶりはもっと上まで届いているというのに」と。

それはどういう意味か、余は久能君に問うた。
その回答は、余の耳を疑う程のものであった。

「いずれ話が行くだろうが、君は陛下に拝謁する事になるよ」

久能君は事も無げに言い、女給を呼び、珈琲を二つ注文す。
余は混乱せり、何が何やらわからぬ。詳細の説明を依頼す。

だが久能君は「ああ、砂糖とミルクもいるね」などと掴み所がない。
陛下への拝謁よりも、今飲む珈琲の方が大事であるかのように。

事の次第はこうであった。

帰国した軍医部長達を陛下が下問した際、鶴田軍医部長が余の事を口にしたと言う。
又、第二軍の森軍医部長もそれをあらかじめ聞き、余を評価せりとの事であった。

評価の理由は、余とその同僚が行いし本式のトリアージュなり。
日露の戦役により、軍制には本式のトリアージュを用うるべしとの方針あり。

そのさきがけとなったのが、余の所業であったと言う。
正直あれは横紙破りも甚だしく、むしろ罪科を問われるべきものなり。

余はそう述べるも、久能君はそう考えてはいないようであった。
日本式トリアージュの矛盾については、久能君も疑問に思いし処であったと言う。

又、久能君はより聞き及びし処によると、これは麻の葉紋の後押しもありとの事。

「君が彼らに目をつけられた事は知っているよ、碩学に気に入られたそうだね」

久能君は、かの麻の葉紋の者達をあらかじめ知っていた口ぶりなり。
ならば、かの少佐は如何に。余は、久能君に改めて問いただすなり。

「それを話すのは少し早い気もするが、話そう。彼は、ある人の密使だ」

やはり要領を得ず、余はかの少佐を遣わした者の名を尋ねり。
久能君が言うには、ある人とは葦舟なる人物であるとのこと。

葦舟は麻の葉紋の係累の一人であり、軍内部に多くのシンパを持つとの事である。

そして将来的に、かの少佐は大規模な医療部隊の設立を企図しているとの由。
久能君はその準備のため、葦舟が主宰せる特務機関に参加する心づもりであった。
なお米津君もまた、陸軍内の超常機関とも言うべき部局に属し、かの少佐に力を貸すという。

「日露の戦役は猖獗を極めた、だが僕らは解決方法を知っている」と久能君は言う。
そして、久能君は我が帝国と言うものの無情さについても、余に問い質したり。

「君はこう思わなかったか、なぜ、あの兵士たちは死ななければならなかったのか」と。

「戦は無情だ、帝国は理不尽だ。だが僕らのような理学者が力を振るえばどうだ?かの寄生虫はまさに不死の存在だった。僕ら人間がそうなれないと誰が決めた?戦傷は元より、死を克服できれば戦の必要などあるだろうか?」

「理学は進歩する、暗闇の中に異常を押しやる時代はもう終わりだ。僕ら二人で人間を前進させよう、多くの人々のために、死んで行った兵士たちのためにも。僕らが異常を、超常をコントロールできるようにするんだ」

かの大佐が企図する医療部隊は、その来たるべき新時代の、さきがけとなる物であるとの事なり。

「これは全ての人のための事業だ。人間が前進すれば、いずれ全ての問題は解決できる。飢えも、病も、差別も、貧困も、身分どころか身長の高下も、肥満も、老いも、容姿も、水虫も、人間はそんな事に悩むべきじゃない」

そして、彼は最後にこう言えり。

「僕たちで、異常を当たり前にしよう。老いも、病も、死も克服しよう。一緒にやらないか」

余は決断す。

知ってしまった以上後戻りはできぬ。
余は、碩学の忠告に背く事を決意す。

そして、余は久能君と固く握手をかわしたり。

添付書類40 凍霧氏の日記


明治38年3月20日 軍医少尉 凍霧天
余は軍務への復帰を決意す。

そして、かの碩学へのけじめも兼ね、縫合線虫の標本を全て碩学へと郵送す。

添付書類41 凍霧氏の日記


明治38年5月30日 軍医少尉 凍霧天
日本海の海戦は我が連合艦隊の勝利に帰す。

添付書類42 凍霧氏の日記


明治39年1月10日 軍医少尉 凍霧天
日露の戦、翌年の12月に終戦となる。

余は小石川の自宅に帰りしが、街角に多くの傷痍軍人あり。
未だ尚、戦傷に悩む者多し。己が使命を改めて痛感す。

この時より凍霧氏の医師としての声望更に高まる。
噂によれば、彼は傷痍軍人度々治療せしとのこと。

不可思議な事に、治療を受けたものの多くは健常な身体となり、次々に軍務に復帰せりとの事。
この点について、当院は凍霧氏に問い合わせるも、かの寄生虫は使用せずと主張せり。


添付書類43 凍霧氏の日記


明治40年8月30日 軍医大尉 凍霧天
授爵の勅命下る。

士官の身の上で過分の光栄、恐悦至極なり。

辞退を考えるも、しかして余は今後のことを思慮す。
多くの人を理学で救うのであれば、爵位も役に立とう。

余は授爵を承りき。
授爵の儀は10日後に控えしとのこと。
知らせを米津、久能両君に打電せり。

添付書類44 書簡



親愛なる凍霧君へ。

授爵、大いにめでたく思う。
君はまさに、同期の誇りだ。

ところで、君の家の家紋は維新の戦の折焼失したと聞いた。
この際新たな門出も踏まえ、家紋も新調するのはどうかな。

実は現在出張で岐阜にいる、君が解剖した永山氏の故郷だ。
そこでは今でも養蚕が盛んらしく、非常に印象的な写真が取れた。

菊理姫は養蚕の守り神というが、人と人の縁をとり持つ縁結びの神でもあるという。
菊理姫は、運命を操る権能を持っているのだ。そもそも菊理は、括りくくりの意だという。

運命を、見えない糸で括り結ぶ。君の数奇な運命も、菊理姫の思し召しだろう。
まるで、ギリシャ神話のフォルトゥーナ、あるいはモイライのようじゃないか。

写真のお嬢さんは、フォルトゥーナのごとく糸を紡いでいたよ。
この意匠が家紋の参考になればと思い、急ぎ現像したので送る。
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明治40年9月1日 軍医大尉 久能尚史

添付書類45 凍霧氏の日記


明治40年9月9日 軍医大尉 凍霧天

余、今上陛下拝謁の光栄に浴す。

余は勲五等旭日双光章と三百円の終身年金を下賜さる。
数多の傷痍軍人を治療せる功績によるものなり。
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そして、余に爵位が授与さる。爵位は、男爵であった。

思えば余の祖父は、維新の乱世に動ずる事なく町医者を続けた。
そして父は、町医者を続ける傍ら、寺小屋の如き私塾を開けり。
祖父も父も、元老ら英傑の如き功績とは、全くの無縁であった。

その係累たる余が、華族に成り上がるなど誰が考えようか。

久能君の助言に従い、余は新たな家紋を考案す。

旭日双光章の略章は、奇しくも車輪型であった。

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故に、このような形を我が家の新たな家紋とす。

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添付書類46 凍霧氏の日記


余は記せし日記帳、書簡、研究結果を纏めし手帳、その一切を麻の葉紋に差し出す事とせり。
かの寄生虫について、麻の葉紋の者達は未だなお懸念せるところありと聞く。
此は彼らに迷惑をかけぬため、また彼らの捜索と研究に、我が記録が役立たしむるためなり。

敬愛する柳田先生へ。

道を違えたとは言えど、我らの志に違いはあらず。

貴方は異端なるものを愛し、研究し、闇に光を当てんとす。
余は医者なり、人体の、生物の暗闇より病根を発見せんとす。

我が帝国は未だ内省に乏しく、己が同胞らの扱いさえも粗略にすることあり。
しかしながら、斯様な時代は即刻過去のものとすべきであると余は愚考せり。

我らの学究は、その先触れとなるべきものなり。

現今は闇の中に押し込められし異常なるもの。
其はいずれ、日の目を見るべきものなり。

異常なるもの全ては、いずれ尋常に置き換わるべし。
異常なるものを考究し、福利を利用せざるべからず。

異常なるもの尋常に置き換わる時こそ、人類新たな暁を迎える時なり。

その時、天下万民己が生を只楽しみ、出自にて生死を左右さるる事なし。

余は、かくの如き時代をこそ望まん。

余はそのために、一生を賭す覚悟なり。

願わくは、我らの学究が、当世に、また後世に於いても有意義なものであらん事を。

明治40年09月11日
凍霧家第十代当主にして男爵 軍医大尉 凍霧天

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