海水の色-その2
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【氷は雪より脆く】

  さらに数年が経ち、彼は様々な爆発実験を通して、自分の感情をゆっくりと回復する為に多くの方法を試した。

  「問題を抱えている」あらゆる場面で、彼は物事を解決する決断力と、問題解決の効率の良さを発揮した。

  何人かが「情熱的なアイスバーグ博士」の後ろにいくつかの称号を増やした。中には、以前の出来事のハイライトから「噂はアイスバーグ博士で止まる」と揶揄する者さえいた。他にも「財団の得難い従業員」「書類焼却場」といった呼称が増やされていった。

  ある日、彼はまた公文書を受け取った。彼の頭の中には、先ほどギアーズ博士が入室証を使って自分のオフィスに入ってきた時の表情がくっきりと残っている。

  それは数年前と同じ、相変わらずの無表情だった。

  「冷たくて冷酷な人だ。」

  彼は書類上のその一言を見て、ため息をついた。

  「アイツか……」またナッシュの一味が何か裏で喚いてるに違いない。いや、待てよ、ナッシュはSCP-10131でこの1年以内に死んでたんだった。

  そして、彼はこの文書を他の物と同じ様に片付けた。

  確かにあの日以来、ギアーズは彼の情緒的な問題には口を出さなかったが、時折今日のようにアイスバーグは上司から提出される苦情を受け取ることになった。彼は自分は変化していないのだと考え気に留めなかった。数年前には薬を止めることが出来たので、もう悪化することもないだろう。彼は今でも爆発物を抱えて現場を歩き回っていた。

  彼は女性への興味をもはや失っていたが、それは何を意味するものでもなかった。

  あれから感情を失ったとは言えないのではないだろうか? 何故なら彼は今でも仕事から離れられさえすれば女性と親しく出来るのを、喜びに思っていたからだ。

  自分の人生を悲劇だとも感じていなかった。ギアーズと共に実験を続ける内、いくつかのKeter級の異常にもアクセスし始めるようになっていた。これは彼が仕事をする上で、1つの節目と言えるのではないだろうか?

  時々、コンドラキ博士と一緒に武器の開発に取り組むこともあった。相手はSCPの兵器化、自分は新たな爆薬という形だったが、それでも彼らは協力出来た。

  いつか自分が彼の代わりになるのかもしれない。

  だから今はまだ、大丈夫だろ?

  

  「アイスバーグ博士、以前その薬のことを話してくれたよね。」

  何年かの時を経て、あの大人しいグラスは財団の主任心理学者になっていた。率直に言って、彼はもう特に患者を診る必要はなく、部下に仕事を割り振ればよかった。それでも、彼の元には数名のリストがあり、アイスバーグもその中の一人だった。

  いや、そうじゃない。

  数年前、彼は当時のグラスに自分の心理状況に注意を払ってくれるよう頼んでいた。薬を服用せずに、毎日自分の能力を超える量の仕事の負荷と向き合うためには、ベストな状態を保つ必要があったからだ。そのために、彼は自分を落ち着ける方法を見つけなければならなかった。1日中爆薬を持って人を追いかけ回すのは、間違いなく解決にはならない。そうだ、それは物事を解決する方法じゃない。

  だから自分はグラスの個別の案件であって、患者じゃない。

  「苦情の頻度がまた増えたようだね。」

  「そうかな、そうは感じなかったが。」

  「極めて危険なSCPの収容違反に直面したとき、君はまず何をすべきだと考える?」

  「"クールな顔"で爆弾を使って解決してみるのはどうかな?」

  「2年前の君の答えは、自分はただのレベル2の研究員で、生きること、逃げることが大事だというものだった。」

  グラスは心配そうな口調で資料のページをめくりながら、1番上に密集している情報を見ていた。

  「逃げる、これは通常低レベルの研究者がすべきことだ。」

  「あんたは収容スペシャリストなのか?それともエージェントか?」

  「君は違う、君は研究者だ。レベル2のね。」

  「だから何だ?」

  グラスは無力感を帯びた溜め息をついてから、持っていたアイスバーグに関するファイルを押しやった。

  「僕は君を患者としてではなく、友人として考えている。だけど助けられるのはこれが最後だ。これ以上は君に深入り出来ないし、手の届く範囲じゃない……僕の権限では。」

  「何が言いたい?」

  アイスバーグは分厚い資料を手に取り簡単に目を通すと、目の前の心理学者を淡い青色の瞳で見やった。

  「氷は雪と比べれば、人を簡単に殺せるだろう。軒先では透き通った氷柱つららが落ちてくれば人の頭に穴が開く。物を切ることにも使えるけど、氷は脆くて壊れやすい。何かにぶつかれば、バラバラの結晶になって地面に散らばってしまうだろう。だけど雪はそうじゃない。柔らかくて、何でも覆うことが出来る。」

  「それで、具体的に何を伝えたいんだ?」

  「君は氷じゃなく、自分を雪にする方法を探さなければならない。」

  

  アイスバーグは徹夜で手元にある全ての書類に目を通し、短いシャワーを浴びて寝る前に、ようやくグラスが纏めた資料を取り出した。記録には緑、赤、青のラベルが付けられており、終了方法を示しているところもあった。

 『……こういった状況を考慮して、私は提案する……』

  最終ページの最後の1行は、何かに中断されたかのように文章が完結していなかった。あの常に穏やかなグラスの仕事を遮るような物とは何だろう?

  彼は紙を引っ張りだすと枕にもたれ、枕元のランプに翳してそれをよく見てみた。そして、透明なインクで書かれた2つの文字列を見つけた。

  最初の数字の文字列は非常に単純で、一見すると何らかのファイルをエンコードしたものらしい。それは彼が何年も前から、毎日編集を加えてアーカイブしてきたファイルの中の、数字の羅列に似ていた。下の1行へと続く単語列の長さについては、彼の考えを少し超えるものだった。

  それでも小さな好奇心を抑えることができず、彼は引き出しからノートパソコンを取り出すと、電源を繋ぎスイッチを入れた。以前使った時から、かなりの時間が経っていた。グラスがこの数字の文字列を透明なインクか何かの特殊な物を使って書いたということは、一見して分からないようにするため、つまり、その内容はアイスバーグの権限を超えるものだという可能性を示していた。財団が支給するパソコンを使えばトラブルになるかもしれない。そうなれば自分だけでなく、グラスも巻き添えになるかもしれない。
  
  彼はこんな時に冷静に分析できることが、急に可笑しくなってきた。

  しかし、少なくとも彼は機械工学の博士号を取得している。博士課程時代、たまに教授のパソコンをハッキングして試験用紙を盗み読みしていた時のことを思えば、それ以下のことではないだろう。Cicada 3301イベント2においても彼は常に最先端にいた。そうやって世界の第一線で活躍するため、そのために彼は今ここにいるのだから。

  彼は単にホストコンピューターをハッキングして、ファイルを転送してきただけなのだ。

  この文字列は本当に暗号化されたコードなのだろうか?

  問題なく暗号はすぐに解読出来たが、現れた一連の単語は彼の想像を遥かに超えるものだった。

  辛うじて覚えているのは、震える手で一字一字を打ち込んだことだけだった。

  コンピューターの画面は真っ暗になり、様々な16進数の記号が実行されていった。コンピューターがまもなく過負荷に陥りそうだと思われた瞬間、財団の公式文書フォーマットに準拠した文書が画面に表示された。

  現れたウィンドウを、彼は信じられない気持ちで見つめた。

  
  

  午前9時、入室証をスワイプしてギアーズ博士はオフィスに入る。机の上のパソコンは午前8時55分に自動で電源が入るように設定されている。そうすれば、オフィスに足を踏み入れてからまず自分のメールボックスをチェックして1日を始めることが出来る。その後、いくつかの緊急性のある計画を確認し、9時30分にアイスバーグと会う。彼はこのような時間設定で毎日を過ごしていた。

  しかしこの日、彼がカードをスワイプして中に入ると、既にアイスバーグが着席して彼を待っていた。

  彼の顔に驚きの表情はなかった。いつものように着々と自分の机に向かい、座って、パスワードを入力し、コンピュータがログオン状態に入るのを待った。

  「計画は失敗したな。」

  アイスバーグの一言が彼の注意を引いた。

  「何の計画でしょうか?」

  「『継承計画』」

  アイスバーグは、その瞳に怒りを込めて言った。

  「僕は薬を飲んだだけだ、感情が無くなった訳じゃない、感情を押し殺してもいない。」

  「ええ、そしてあなたはそこから抜け出しました。」

  「君がやろうとしていることは、代わりに別のギアーズを作ることだ。」

  「あなたはそのプロジェクトにアクセス出来ない筈です。」

  ギアーズはようやく研究助手と正面から向き合う気になった。

  「理解する頃には、私の様にこの机に座っているのが当たり前になっています。」

  「あの時、研究を中止すると約束した時、中立の立場に立って欲しかったのに君はそうしなかった。体温を止めなかった。君みたいになる方法は無い!」

  彼は激情して、6発の弾が装填されたリボルバーを持って立ち上がった。

  「ナッシュの言う通り、君はEuclidレベルの収容スペシャリストの肩書きを持ってる。なのに何で、Euclidより数多くのKeterレベルのプロジェクトを担当しているのか。それはギアーズ博士、君はレベル5の研究者、Keterレベルの収容スペシャリストだからだ!」

  「そして、このタイプの収容スペシャリストは、実験や収容に影響を与えるため、感情を表現してはいけません。」

  「ああ。だから君は唯一のKeterレベルの収容スペシャリストなんだな。」

  「そして、君が2番目になるかもしれません。」

  ギアーズは冷静に銃口を見つめながら言った。

  「君は財団にとってあまりにも重要な存在なんだな。」

  「あなたもです、アイスバーグ博士。」

  「僕の体温は孤独に慣れるように設計されていた。孤独に慣れるのが一番難しいからだ。僕の仕事量は、ストレス耐性と書類の処理速度を鍛えるように設計されていた。全ての仕事は、将来起こりうる収容違反に対処出来るように設計されていた。そしてその文章を、僕の人事ファイルに追加したのは君だった!」

  「はい、私です。」

   ギアーズは落ち着いていた。

  「何故、どうしてなんだ? 」

  自分が泣いているのか分からなかったが、彼が感じていたのは自分を埋め尽くす溺れる程の悲しみ、信頼していた人に騙された感覚、胸が張り裂ける様な痛み、怒り、苦しみ、失望、喪失感、そして……

  しかし、彼は表現したのだろうか? それともいつも以上に冷静に目の前の男を見ていたのだろうか?

  自分の将来を計算できる指導者、実験で彼を導いてくれた上司、彼に寄り添い、明確な道に導いてくれた友人。

  『今の君は、かつての私のようだ
  今私があるように、君はいずれ……
  私の後を追うことになる、用意してくれ』

  墓碑銘の文章を見つけた時に感じたのは、ようやく自分が好かれたという感覚ではなく、いつか自分も一緒に高みに立ってこの世界を望む事が出来る興奮だったことを彼は覚えていた。

  自分さえ努力すれば。

  「私は普通の人間です、私はいつか死にます。」

  彼は平然と言った。

  「しかし財団は…1つの歯車を必要としている。」

  「だが失敗した!」

  それでも彼は引き金を引き、数発の弾を続けて撃った。流すべきだった涙の様に。壁に銃弾の命中する音が響いた。零れるべきだった涙が床に落ちて割れる音の様に。

  彼が実際泣いていたなら。

  「私の失敗です、アイスバーグ博士。」

  目の前の男は冷静に言った。3発の弾丸が全て外れたことも、ただ怒りを発散させているのだということも分かっていた。

  「あなたはつまるところ、私とは別の人間ですが、行動は全て計画の範囲内でした。阻害剤の件もそうです。あなたが薬を使うのを止めて、自分の力で感情をコントロールすると言い出したのも、計算の内です。」

  「でも君が気付いていないのは僕には方法が無いということだ。雪になる方法が。」

  「あなたがその例えをしたければ、そうです。」

  彼は言った。

  「感情を持つ研究員も必要ですし、同情する気持ちが全く無い訳ではありません。そして、あなたが中立的な立場でいる方法はありません。これは他の博士の計画とは違います。あなたが提案し、あなたが主導します。O5達は反対さえしませんでした。これはレベル2の研究員に昇進した際に開始されました。通常、私の判断がO5から反対される可能性はあまりありません。」

  「ギアーズ!」

  「すみません、私は適応が過ぎるのです。」

  ギアーズは言うと同時に立ち上がった。

  灰色の瞳は自分より少し背の高い、目の前の研究者を見上げた。これほどはっきりと彼の目を認識したのは、これが初めてかもしれない。

  「泣いていますね。」

  「僕の感情を奪わないと、約束してくれただろ!」

  彼は自分から落下する氷の結晶に気付いた。それはキラキラと輝きながら落ちて、床で目に見えないほど小さな水の粒に還った。

  「ええ。」

  ギアーズは頷いた。

  「その点については申し訳ありません。」

  「これは不可逆なんだろ!まるで……雪を固めれば氷になるが、氷は雪には戻せないように。」

  「はい。」

  ギアーズはもう一度、肯定的な返答を繰り返した。

  「その点についても申し訳ありません。」

  アイスバーグは左手を銃の尻にそっと押し当て、震える右手を安定させた。

  「僕は、僕はただ、もう一度君と一緒に歩いていた頃に戻りたい……」

  「ええ。」

  彼は穏やかに言った。

  「知っていますよ。」

  最後の6発目の弾丸はギアーズを傷つけたが、頬を掠めただけだった。傷口から、真っ赤な血が滴り落ちた。

  長い夢の後の様に、彼はようやく目を醒ました。

  リボルバーは地面へと落ち、心臓の鼓動のごとく重苦しい音を響かせた。震える手を見下ろした。それは血で汚れている訳じゃない。だけどもう何千人もの人間を殺したのと同じくらい不潔だ。おそらく、自分はサインしたんだろう。どの計画を実行し、誰が死に行くのか。

  ああ、きっと財団は彼を訓練していたんだろう。別の方法で人を殺せるように。

  顔を上げると、目の前の上司は変わらない表情で自分のことを見つめていた。足を動かしてゆっくりと自分の方へ歩いてくる。

  —やめろ、来るな、僕に近寄らないでくれ。

  心の中ではそう叫んでいるのに声に出す事が出来ない。二人の間に机の邪魔が無くなるところまで、上司は近づいた。

  吐く息が白い煙になるのを見た。ギアーズのそれも同様に。氷の結晶が机や本棚に這い上がってきている。もう長い間こんなことはなかったのに。いつからコントロール出来なくなったのだろう?

  いつから悲しみを感じなくなったのだろう?自分を埋め尽くす溺れる程の悲しみを、信頼していた人に騙された感覚を、胸が張り裂ける様な痛みを、怒りを、苦しみを、失望を、喪失感を……

  僕は人間だ、まだ機械じゃない。

  でも、もう気付いてしまった。普通ではないことに。

  「あなたはここを去ることが出来る。私は記憶処理を手配します。あるいは、転勤か。いずれにせよ今日中に全ての書類にサインして、明日から別の部署に行けるようになります。」

  彼の視線は助手をしっかりと捕らえていた。

  しかし、後者がそれに惑わされることは無かった。ただ、泣き笑う声が漏れただけだった。

  「人間の精神は、思考と記憶で成り立っている。これが全部無くなっても、僕は僕自身なのか?」

  「しかしあなたは生きている。」

  「いや、生きている必要はないんだ、ギアーズ。」

  再び彼は言った。

  「生きている必要はない。」

  彼は脆く、感情は氷のように壊れやすかった。1つは脱落してしまい、残りの多くの部分へと落下していった。しかし、それは結局のところ彼が彼自身である所以であり、彼自身が守りたいと思っていた部分でもあった。

  「君もスーツの中に銃を持ってるんだろ。」

  彼は言った。霜がギアーズの革靴に登ってきたのを見て、彼は自分を保とうとした。

  「頼む、僕を撃ってくれ。コンドラキと同じ様に。難しいことじゃないだろう。」

  彼はやっと目の縁が熱くなり涙が浮かぶのを感じた……いや、それは正確ではなかった。それはもう、結晶となって部屋中に散らばってしまったのだ。だから分かるのは涙の感触だけだった。そして、次第に自分の中から人間の部分が失われ、冷たくなっていくことだけを感じた。部屋の温度がどんどん低くなってきたせいもあるのだろう。

  目の前の男は答えず、ただ軽く頷いて内ポケットから半自動拳銃を抜いた。彼らが常に身に付けている、決して効果は大きくないが、いつか自分の命を救う可能性があるものを。最後の一発さえ残っていれば、より良い方法を選ぶことが出来るものを。

  彼の手は、何か別のことを言いたそうにギアーズの袖を引いた。

  僕の夢は……

  ……僕にとっては重要すぎる。

  結局、彼は何も言わなかった。

  「世界は火に包まれて滅ぶだろうと言う人もいれば、
  氷に覆われて滅ぶだろうと言う人もいる──」

  何故だかふと、こんな詩を思い出した。今の自分にはおあつらえ向きだな、という気がした。  

  「私は憎しみについてもよく知っているから
  滅亡の為には
  氷もまた偉大で
  十分だろう。」

  そう続いていた。

  

  そして、ようやく喧騒が収まった。
  

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