海水の色-その3
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  「海の色は何色だろう?」ある人が尋ねた。
  ただ首を振って、目の前の海を見る。
  「世界中の95%の人があなたに青だと答えるでしょう、しかしそうではありません。それはただ在るように在り、彼がいるように在るのです。」

【光の方向】

  男は赤く染まった白衣を直した後、冷静に電話をかけ、人員が到着する前に素早く人事部長にメールを書いた。人事異動の必要は切迫していた。メールを送信すると間もなく、キーボードの横に置いていた電話が震え始め、それを手に取る前にディスプレイに表示された名前にしばし気を取られた。

  「迅速な対応に感謝します、ブライト博士。」彼はごく冷静にそう言って椅子から立ち上がった。「ええ、そのために新しい研究助手を必要としています。」

  「はい、多大なご協力、感謝します。」彼は床にえがかれた氷の結晶を見た。彼は人生において少なくはない回数の冬を過ごしてきたが、このように美しい結晶を見たことはなかった。「はい、お願いします。 」

  そして彼は次に話し出す前に、一呼吸おいた。

  「遺憾なことですが、アイスバーグ博士が、ついに自ら銃弾を飲んで亡くなりました。」
  
  
  彼らは地面に横たわる体に息がないことを確認すると、血に染まった暖かい体を白い布で覆い、目を閉じた。対策本部はアイスバーグのオフィスをすぐに片付け、書類の入った箱や書籍の入った箱、そしてごくわずかな私物を集めた。

  「何か残しておきたいものがあれば。」彼らはその様子を静かに見守っていたギアーズに箱を手渡した。

  アイスバーグが財団に入った経緯は彼の人事説明にあるような単純なものではないことを誰もが知っていた。業務を進める能力だけでなく、シケイダ3301の様々な課題を打ち破り、ついには世界から自らのありとあらゆる記録を抹消し財団に加入したという事実だ。そのために彼には家族と呼べる人はおらず、外の世界には親しい友人もいなかった。彼はアイスバーグとして生きており、それが唯一の生き方だった。

  従って、個人の日誌を含むこれらの遺物は、彼の担当者に渡されることとなった。

  ギアーズはごく落ち着いてこの私物の箱を引き継いだ。中には個人的なメモや本、同僚からの贈り物、フォルダに入った書類がいくつか収められていた。ギアーズはすぐに彼を認識した。彼がレベル2の研究者に昇進したときに書かれた記録やいくつかのキャンディー、折りたたまれた灰青色のマフラーもある。

  それから彼は空にされようとしていたオフィスの中でバラの花束に気づいた。

  それは窓の端に静かに置かれていたが、バラは透明な霜の層で覆われていた。ほんの数日前に購入したようだ。この事件はたまたま起こったので、今でも満開のままのように見える。

  男は箱を手に持ったまま、霜を掃除しているスタッフを迂回して窓枠にやって来た。アイスバーグが時々花を受け取ることは知っていた。彼はうんざりしつつも、それらをきちんと花瓶に入れていた。

  彼は無意識のうちにバラの花束に触れた。

  すると、クリスタルの花びらに小さなひびが入り、小さくひび割れる音を立て淡い白い粉になり、触れた手だけが宙に浮いたままになった。
  
  
  
  


  
  

  彼は以前アイスバーグの体温問題について、個人的な日記に書いていたことを思い出した。あくまで計算上だが、当時は「感情の起伏によって体温が変化する」と想定し、一連の実験を行っていた。

  しかしこの実験は、どのようにして計画に発展したのだろう?

  彼はその答えを知っている。研究助手が次の自分になれると気付いたからだ。唯一問題があるとすれば、彼が感情的すぎるということだった。

  それは第一に解決しなければならない問題だった。それ以外の部分については、研究助手は上手く適応していたと言える。

  最後に、彼はそのページを注意深く切り取り、残りをチームへと返還した。これらのアイテムは、後に地下の焼却炉へ送られることとなる。
  
  
  
  「毎週、SCP-106の手で1人か2人の人間が葬られている。」彼はしばしば部門の人々がこの様に言うのを聞いた。

  「我々は研究者のはずだが、モルモットにでもなったみたいだな。自分の人生のうちでもうどれだけSCP-106を研究してる?奴がどうやって封じ込めを破るか、どうやって獲物を仕留めるか。」

  部門の人々が集まると、夕食後の話題は常に彼らのプロジェクトと上司のことになった。

  「幸いなことに、SCP-682は当分の間いい収容方法が見つかったそうだ。」新任の研究助手は言った。「奴を塩酸に浸すらしい、この方法を思いついた天才は一体誰なんだろうな。」

  「絶え間ない消耗と再生で、奴は収容を突破することが出来ない。」

  「君が来る前の6回の封じ込め違反は、SCP-682に乗った人がいたのは言わずもがなだが、とにかく現場に甚大な被害をもたらしたんだ。」

  「どうも何か素敵なものを見逃したようだな。」新しい研究助手は、周りの気分を盛り上げるかのように大声で笑い、周囲の人々もクスクス笑った。

  時折、部門の人々が自分について話しているのも聞くことが出来た。彼は自分といくらか友好的な同僚たちから噂についての話を聞いたことがある。彼らは一人一人が、多くの噂を持っていた。彼自身の異常や能力は財団で広く噂されていたが、自分の心身の状態には関係なく、彼は噂に興味がなかったし、他人が自分のことをどう言おうとどうでも良かった。それでスタッフの精神状態が保てるならば、何故気になどするだろう?

  確かにこれらの噂は騒がしかったが、デマが自分に実際の影響を与えることはない。

  そして彼はドアの外に立って、心の中で彼の新しい研究助手に注釈を付け加えた。

  ──この人は適していないようだ。
  
  
  
  そうだとしても、彼の新たな研究助手は任務を遂行する際には変わらず信頼することが出来た。彼はエージェントであり、封じ込めの専門家であり、他人と様々な収容方法について語り合うことを厭わなかった。時折、彼はこれらの会話からヒントを得ることもある。彼は自分が全知全能でないことをよく心得ていた。

  ギアーズは研究助手の異動申請を拒否した。

  「あなたは今の立場で役に立っています。」彼は無表情でペンを置き、目の前の男を冷たい目で見た。ラメントは、自分は博士号を持っていないので、研究助手を務めるべきではないのではないかと釈明した。確かに、最後の研究助手は、シケイダ3301の謎を解ける人だった。しかし、ギアーズにとって博士号は問題ではなかった。問題が発生した時に問題を解決する能力があるかどうか、あるいはどの言葉が本当かを見分ける能力があるかどうかが重要だった。

  「しかし私は……」

  「あなたが担当するプロジェクトに責任を持つように、エージェント・ラメント。」彼の冷たい口調は万年雪のようだった。「効率的にSCP-106を収容する案を検討するために、どの部門に異動したいのかは問題ではありません。」

  彼は言い、研究助手のモチベーションを効果的に高められそうな提案をした。 

  それから静かにそれが起こるのを見ていた。

  彼の研究助手が財団の事実を認識し始めるのを。

  自分のいる部門について知り、彼は徐々にパニックに陥っていった。
  
  
  
  「ギアーズはそういう人なんだ、彼は誰の死のためにも涙を流さない。」

  「おそらく名前の通り、機械なんだろう。」

  「… SCP-882の方がまだ人間らしいだろ。少なくとも、ほら、奴が危険だって知ってるから俺たちは近づかないが、ギアーズ博士は…」

  「危険じゃない。」

  「それが彼の最も危険なところだ。」

  彼らは笑った。
  
  
  
  「発言が気に入らなければ、態度で示すべきですよ。」ギアーズはリクライニングチェアーに横たわっていた。心理学者のオフィスには、患者が快適に横になれるような椅子が常備してある。彼は患者として訪問した訳ではなかったが……要するに、この選択肢しかなかったので、屋内構成を簡単に観察した後、いくらか快適であろうリクライニングチェアーを選ぶことにしたのだ。

  彼はずっと前に心理学者の患者リストから除外されていた。
  
  
  「ギアーズ博士、すみませんが、方法に関わらず心理療法は適用されません。」心理学者は申し訳なさそうに言った。

  「あなたの問題ではありません、最善を尽くしてくれました。」ギアーズは机の反対側で平坦に応えた。彼は他の人のように感情を表現しない。それは自分が一番理解していた。彼は定期的にこの場所を訪れていたが、それは規則で決められていたからだ。上司が期間を守って心理検査を受けに行っていれば、スタッフは行かないわけにはいかない、そうだろう?

  「それらを嫌だと思う訳ではありません。」ギアーズは自身の考えを現実に戻し落ち着いて言った「ただそれらは事実ではない。」

  「しかし、彼はあなたに顕著に悪影響を及ぼしている。」

  「彼は何もしませんでした。」

  「人の口に戸は立てられない、知っているでしょう。」

  「分かっています、しかしこれらの噂が部門全体の雰囲気を改善し、さらには作業効率を改善出来るならば、何も悪いことはないと思います。」

  「ちょっと待ってください。」グラスは眼鏡を外して瞼を押さえたあと、眼鏡を元に戻した。「何を言っているか自分で分かっていますか?彼はすでにあなたに『影響』を与えたのです。」彼は影響という二文字を強調して大袈裟に示して言った。

  「もしかすれば、私は心に葛藤や不快感を覚えるかもしれませんが、それらは遠くにあります。」ギアーズはごく静かに言った。両手を胸の上に置いている姿は、まるでカウンセリングに来た患者そのものだった。

  「じゃあ、ギアーズ博士、あなたは何を話しに来たんですか?」彼はつばを飲み込んでペンを置いた。その紙にはギアーズの名前が丁寧な字で書かれていたが、それに続いて書かれているのは今ではごちゃごちゃとした線だった。

  「……グラス博士、なぜアイスバーグに許可を与えたのですか?」

  噂はますます深刻になっており、彼だけが人々の言うことが真実とは違うことを知っていた。おそらく彼の同僚たちもそれを知ってはいたが、彼らはこの問題を管理しようとはしなかった、自分の仕事と実験で手一杯だったからだ。

  彼は量子コンピューターではない。実際、ほぼ正確に未来の方向を計算することが出来る。ただ、運はあまり良くなかったようだ。この数か月で、彼は一部の収容違反を常に発生させる前に阻止してきたし、いくつかの実験についてはそれをリードして次の段階へ進めてきた。それは財団から感謝状を受け取るのに十分大きな成果だった。

  しかし、それは失敗した。

  彼の人生で最も重要な実験。

  が、彼はどのステップが間違っていたか分からなかった。

  アイスバーグ自身が適していなかったのか?あるいはグラスが機密を漏らしたのか?それとも本当に重要な部分で自分が計算を誤ったのだろうか。

  そのプロセスに間違いはないはずだった。細部まで慎重に手配し、投薬のタイミングも、薬を中止する時期も、最も正確だったのは食堂でアイスバーグが他の3人の同僚に出会った際に起こった喧嘩だったが、その後彼が自分で感情を抑制するに至ることも完全に計算の範囲内だった。彼は彼を引き継ぐことができる誰かを育てたかっただけだった。ただ自分の居場所を。

  これは完全に論理的だ。

  そして自分はそこを降りて、別の人間に代えて立ち、一つ先の次元に行くことが出来る。
  
  
  
  「収容されるべきなのはギアーズ博士かもしれないぞ。彼は毎朝9時にオフィスに入って、きっちり夜10時に出てくるんだ。」

  「そんな人間が居るはずない。」

  「いいや、彼が感染した研究員をどう思ってるかよく見てみろ、特定のプロジェクトに関してじゃない。全部のプロジェクトだぞ。感染したなら、もはや人間じゃない。ただ研究対象になるんだ。」

  「ハハハ、面白いな。アイテムの調査から我々の調査をするようになったのか?」

  「新任なんだな、何の学位を持ってる?」

  「生物科学、アメリカのコールドスプリングハーバー研究所だ。」

  「俺たちのほとんどがコールドスプリングハーバーで簡単に働くことが出来るが、それでもギアーズ博士を恐れるのか?」彼らの一人は軽蔑的な目付きで笑い返した。「アイスバーグ博士がいたなら、彼は間違いなく500ドル賭けただろう。君は次の実験で死ぬ。」

  「まさか!」

  「いや、きっとそうなる。」ずっと静かだったエージェント・ラメントが口を開いた。「君は死ぬだろう。」
  
  
  
  自分の最高責任者を畏敬の念を持って見ることは必要かもしれない。

  ギアーズは自分の部門に入った新しい研究者グループを見て、全員の履歴書を軽くめくっただけだった。そして、彼らの専門を確認すると、それに基づいてそれぞれを異なるSCP研究室に振り分けた。それは非常に効率的な分業だった。

  「以上、何か問題があれば質問してください。なければ、この場で解散します。明日、あなた方の担当部署に報告に行きます。」巨大な会議室には3つのテーブルがあり、6列の人々が机に寄りかかって座っていた。彼らはステージ上に耳を傾け、課題やブリーフィングを行う。ギアーズは最前で議長のテーブルに座っていた。これまで、この賢人らのグループは、自分達の業務のみならず、部門の運営に関する問題に対しても意見してきた。

  しかし、今回は手を挙げる者も、興奮を表す者も居なかった。誰もが畏敬の念を持って……あるいは、恐れを持ってギアーズを見ていたとも言える。

  「さて、質問がなければ、我々は解散するが……」ラメントの言葉はゆっくりと上げられた手によって中断された。「ええと、君は……アミティか。さて、何か質問があるかな?」

  女性は立ち上がった。彼女は茶色の髪と大きく重たげな眼鏡をかけていた。「ありがとう、すみません……異動を申請するにはこの部署で平均どれくらい働けばいいのでしょう?」

  「なぜ?ここに配属されたことについて何か意見があるのかい?」ラメントは冗談めかして尋ねた。「まずは上司に相談しないといけない。」

  「すでに相談しました。」反対側の男性が言った。彼らが発言したことで、周りの人間も小声で話し始めた。

  それから、隅に座っている者も手を挙げた。「だけど彼は私たちに冷たく言っただけでした。『これは運命です。今日の配分は入念な調査を経て、皆さんの忍耐力、仕事能力に基づいています。従って、自分の墓の穴を掘るようにいたって真面目です。』って。」

  「……それは確かです。」ギアーズは椅子から立ち上がり、ファイルを手から下ろして置いた。一瞬、空間全体が氷に包まれているように静かになった。誰も指一つ動かさなかった。彼らが受け取った通知は、目の前の人間がたとえ優しく親しみやすかったとしても同じだった。「明日は各部署に時間通りに報告しに行きます。皆さんも時間通りに業務に来てくれるよう望みます。」

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