海水の色-黒
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  私に投げかけられた言葉は
  冷たい殻だと後に気づいた
  岐路を知るのはいつも物語の終焉だった
  私は私を沈めた雨を待ち
  もう二度と溺れないように
  以前のように歯車は噛み合わなくなっていた

   -《歯車》 宋尚緯
 
 
 
【一人の海】

  淡い髪の色を持つ男は床で打ちひしがれ、力無くゆっくりと手を伸ばし、ギアーズの服の袖を掴んだ。壁に空いた六つの穴はたった今激しく衝突したばかりのようだった。研究員が膝をついた場所からは花のような雪の結晶が、薄い氷で覆われた床へと広がっていた。氷の上にリボルバーと空の薬莢が落ちていた。

  彼は眉根を寄せ、鼻を啜ったが、目の縁には微々たる涙しか溜まっていなかった。

  彼は頭を起こし、上司を見た。白衣をきちんと着て、変わらず直立している男を。背後の弾痕にも目の前の状況にも恐れは見られず、彼の表情には驚き、恐怖、混乱のいずれも浮かんでいなかった。

  

  その時、無気力なささやき声が聞こえた。

  僕の夢は……
  ……僕にとっては重要すぎる。

  「ギアーズ博士、僕は……僕は!……」

  全ての嘘と本音/陰謀と計画/成功と失敗が、その銃声でかき消された。






  彼らは、ギアーズ博士の研究するアイテムに割り当てられるのは、貧乏くじを引くのと同じことだと言った。それはこの十年間変わらず、末端職員で溢れる食堂で流布されてきた話だった。彼らは、ギアーズ博士は自分と同じ名前を持っていた者、さらには財団の伝説であったコンドラキ博士を殺し、アイテムに影響された職員を見殺しにしてきたと噂した。彼らのことを実験台だと考えていて、感情も愛も持たず、恐れもない人間だと。
 
  彼らは食事をしながら、果てしなく話し続けた。これが彼ら研究員の一日の中で最も楽しい時間だった。この時間だけは、彼らは実験の複雑なデータや、死に至る異常なアイテムから距離を置き、美味しい食事を味わうことが出来た。食堂の料理は誰もが至って普通だと言う、変わり映えしないものだったが、それでもこのグループに配属された研究員たちにとっては、記念すべきものに値していた。

  少なくとも空き時間を作って普通の食事を得ることが出来る。

  「あの人は多くの研究助手を雇ってきたけど、長続きした人は一人もいないわ。」

  「そういえば、ブライト博士の研究助手はしばらく一緒に仕事をしてる気がするな。」

  「そうだな。彼は人事主任だから、アイテムの管理はあまり行ってないんだろう。」話を継いだ人は肩をすくめた。「伝説的なシニアスタッフの中でも、ギアーズ博士だけがまだアイテムと関わりがある。アルトクレフ博士でさえ、人生の晩年には第二線へ退いて、新人教育の道を選んだというのに。本当に、当たり前だが、ギアーズ博士は毎日データを見ることに疲れないんだろうか?僕だって研究には大いに情熱を持っているが、他の趣味に支えられてこそだ。それにここの環境で70歳を超えて働くのは難しいだろう。」

  「おい!70歳まで生きられると思ってたのか!」隣の同僚は彼を肘で軽くつついた。

  「もちろん、転勤の機会はある。早くしないと、毎日ギアーズ博士の顔を拝むことになるぞ。心理的ストレスで押しつぶされちまうよ。」

  グループは久々に会って食事をした大学の同級生のようにはしゃいでいた。一人の髪の短い女性が話題を先ほどのものに戻した。「私、他に研究助手がいるって聞いたことがある。その人は長年一緒に仕事をしてたって。」

  「本当にそんなことが?」

  「ええ、間違いない。」女性は声をひそめる。「もう何年も前のことで、財団に職員として入ったとき、たまたまベテランの研究員から聞いたんだけど。彼のことを覚えてる人はほとんどいないだろうね。」

  彼女の行動に周りの人たちは思わず聞き耳をたてた。誰が長生きするかに賭けるのもつまらなくなってきていたのだ。もっぱら最近の流行りは、ギアーズ博士の研究助手がどれくらい在職していられるかだった。

  「その人が言うには、彼の名前はアイスバーグと言うらしいの。」

  「アイスバーグ?コードネームみたいに聞こえるな。」

  「かもしれない。彼らは八年以上一緒に仕事をしていたんだって。」

  「ハハ、彼はきっと変人だ、そんなことは不可能だ。今の研究助手は二ヶ月も保たなかったんだぞ。あの毎日の仕事量は人間がやることじゃない。それともギアーズ博士も彼の研究助手もロボットだったのか?」

  「さあ、アイスバーグに関する情報はすごく少なくて、誰も知らないの。ただ聞いた話によると、彼は最後離れたんじゃなくて、殺されたんだとか。」

  「殺された?一体、誰に?」側にいた髪の長い女性は髪にスパゲティのトマトソースが付いているのにも気付かず、興奮してたずねた。

  「誰って、ギアーズ博士に。」


  突然、凍りついた空気を壊すように、入り口の方から声が響いた。「午後の報告を時間通りに提出するように、メイザー博士。」

  聞き覚えのある声に、メイザーと呼ばれた女性研究員は思わず姿勢を正し、慌てて声のした方を向いた。「はい、ギアーズ博士、研究は全て順調に進行しています。」

  「あなたのことは信用しています、メイザー博士。私は必要だと思われる注意をしただけです。」彼は彼女と同じテーブルについている他の研究員達を見ながら、無表情で詫びた。「あなた方の食事の邪魔になっていなければ良いのですが。次の実験まではあと20分ほどあります。どうぞデザートも召し上がってください。」




  
  いくら研究助手が入れ替わっても、彼の生活は変わることなく、毎朝9時にはオフィスに入り、10時にそこを出た。毎日彼を待ち受けていたのは、SCP-106の収容方法とSCP-882の災害に関する、山積みの書類と評価だった。そしてその日に起こったのは彼の想定外の収容違反だった。

  「では、SCP-835の現在の状況を報告します。口腔内に変化は無く、現時点では財団にも、その他のものにも敵意を示してはいません。」研究助手は震えながら立って、手にした報告書を読み上げ、それを上司に手渡した。

  「また、今回与えられた餌の『ホモ・サピエンス』の詳細な経歴です。」彼はホモ・サピエンスについて話す時それを学名を使って呼び、微かに目を伏せて、履歴書の顔写真を一瞥するとそれを手渡した。ホモ・サピエンス、何と堅苦しい言葉だろう。食料としてのそれと自分達を区別するために、大多数の財団職員がこれらの憐れな人員を『ホモ・サピエンス』、『ホモ・サピエンス種』と呼んでいた。

  ギアーズ博士は書類を受け取り、簡単にそれを見ると、現時点で得られる全ての情報を確認した。収容サイトは大西洋のどこかにあり、彼らがそこへ向かうことは非常に困難だった。

  「現在のそちらの状況は?」

  「餌として与えられた『ホモ・サピエンス』は完全な咀嚼と嚥下が為されないまま、アイテムから逃げ出しました。今朝、この地区を航行中の貨物船がこのホモ・サピエンスの死体を引き上げたようです。」

  ギアーズ博士は頷いた。

  「感染していない人達の脱出を手伝い、貨物船を隔離しましょうか。博士にはもっといい方法がありますか?」

  「あなたならどうしますか?」

  「ええと、私は、私ならばですが、出来るだけ多くの人達を救わねばならないと思います。その後、船全体の消毒と検査を行い、その過程でデータを集めます。」

  「分かりました。」ギアーズ博士は無表情で言うと、細い指先で卓上の電話を取り上げ、慣れた手付きでキーを叩いた。


  『こちらギアーズ、会計室の主任に繋いでください。』

  『835が貨物船に感染、国際番号を送ります。』

  『ええ、またご協力をお願いします。』

  彼は電話を切った。その目は自身の研究助手のように見えた。「この仕事は終わりました、他の案件の進捗へ目を向けてください、ジョーンズ研究員。」

  「お疲れ、今日もようやく終わったな。」隣の白衣を着た研究員が肩を叩き、満面の笑みを浮かべていた。彼らは軽食を取りながら、職員食堂で休憩した。実際、一日に出来る仕事の量は限られているが、ジョーンズはいつも他の誰より仕事をこなしているように感じていた。しかし、自分がギアーズ博士の助手であることを思えば、それほど驚くべきことでもなかった。

  「そうだな、毎日やっとやっとさ。」

  「まだギアーズ博士からは離れたくないのか?」

  「彼はとても真面目で、寡黙だ。彼は僕に仕事をあまり任せてくれない気がするけど、僕の提案を多少なりとも聞き入れてくれる。今日も小さな収容違反の処理の方針について、救助の機会を設けてくれたよ。貨物船全体に大きな損害が出ることはないだろう。」

  「貨物船?」

  「そう、貨物船だよ、どうかしたかい?」ジョーンズ研究員は甘いプリンを口に運びながら、それがもたらす満足感を堪能していた。

  「何でもない、ただの偶然だろう。」黙っていた別の女性研究員が卓上のリモコンを取り、手当たり次第にテレビのチャンネルを変え、いくつかのニュースを回すと、あるところで止めた。

  「ジョーンズ、この船じゃないの?」

  年若い研究員が顔を上げると、そこには凄惨なニュースが映っていた。青い海に炎が上がり石油は黒く広がり、色とりどりのコンテナが転覆した貨物船と共に海中に没していた。彼は目を見開き目の前のニュースで流れる光景を見つめた。驚きのあまり何も言うことが出来なかった。

  隣の仲間が彼の肩に手を置き、軽く叩くと、ため息をついてテレビを消し、真剣な声で言った。「ジョーンズ、これがギアーズ博士だ。」

  常に財団を第一に考え、常に効率を第一に考え、常に実験を……
  そして、人類は、多くの生きている人間については、感情のない彼には重要ではなかった。






 
  「久しぶりに来てくれましたね、ギアーズ。」グラスはいつもの、春風のように暖かい微笑みで彼を迎えた。彼はその高クリアランス職員が見たことのあるリクライニングチェアにギアーズを寝かせた。それはこの何年かで、より快適な物になっていたかもしれないが、ギアーズとブライトを除いて、患者の半分も気づいてはいなかっただろう。前者は万物を観察する者であり、後者は単にここへ来る回数が多かった。

  「何から始めるべきか悩んでいます。」グラスは白い紙が何枚か乗ったカルテを取り上げた。大抵の人は本音を話さないのだろう。ギアーズ博士はそう思った。彼はとっくの昔にこの心理学者の患者リストから自分の名前を消していた。グラスに話を聞きに行くのはせいぜい日常的な事柄についてだった。

  「噂を耳にして、何か影響はありましたか?」

  「いいえ、全く。」ギアーズ博士は両手を合わせながら、無表情で財団の主席心理学者を見た。彼は変わらず、自分の患者全員に同じように関心を持ち、笑顔で悠々としているように見えた。「835-I5の感染を継続させないためにも、残骸が海底に辿り着く前に回収して破壊するためにも、船を丸ごと爆破したのは正解でした。」

  「確かに私の知っているギアーズ博士だ。」グラス博士はボールペンを何度か押し、顔を上げた。「しかし人の口は閉じられないことは覚えておく必要があります。」

  「それは明らかに問題外です。」彼は淡々と静かに言った。「私はその感情に応える必要はないと考えています、グラス博士。それに、対応したからといってオフィスや局全体が良くなるとも思えません。業務の効率化が図れるならば、それはまた別の話ですが。」

  「では、次の話題に移るとしましょう。」彼は眼鏡を持ち上げ、カルテを脇に置いた。「ギアーズ博士、目を閉じてください。」

  彼は目の前の男がゆっくりと目を閉じるのを見た。

  「あなたは今、人の海の中にいると想像してください。あなたの友人や親戚、家族、同僚が周りにいます。彼らは話をしています。何が見えたか教えてもらえますか?他の人から何か話していることは聞こえますか?」

  グラスは財団の博士達を見てきた。すぐに答えられるのは稀で、彼にとってはほとんど初めてだった。過去に行ったロールシャッハテストや他の心理学的実験において、彼はいつも最短の時間で標準的な答えを導き出した。

  協力的でもあり、非協力的でもある。

  「私が見えるのは……闇です。」彼の口から言葉が一つこぼれた。「誰も話していない、ただ海の音だけが聞こえます。」

  「それだけです。」グラスは目を見開いた。その青い瞳は真っ直ぐにギアーズを見つめていたが、その視線にも相手は何も反応しなかった。

  「業務に非常に良く適応しているようですね。」





  一定した足取りで、ギアーズ博士は会議の五分前に会議室へ到着した。真っ暗な会議室の中央には十三の長方形の石板が重力に逆らって宙に浮かび、中央の丸いテーブルがスポットライトに照らされていた。02、05、09、11と、長方形の石板に刻まれた数字が一つずつ光り始める。

  テーブルには何人かの経営権を持つ博士や職員が座っていたが、空席の箇所もある。参加していないのかもしれないし、遅れているのかもしれなかった。しかし、それを補うにはすでに遅すぎた。いずれにせよ、彼は出席者の中に見知った顔をいくつか見つけることが出来た。ブライト博士の胸にあるルビーはいつものように不吉な輝きを放っている。今は女性の身体になっていたが、こちらの視線に気付くと、彼も笑みを浮かべてこちらを見返した。コンドラキ博士はとうの昔に死んでおり、クレフも同様だった。最後に彼を見たのは……彼の最期については誰も知る者はいなかった。他に出席しているのは別のサイトのサイト管理官、会計主任、執行部の秘書や財団の内部審判員だった。

  01の石板が明るくなることが、正式な会議の始まりだった。彼らはいつもこうして集い、各部署の現在の状況を自分達の同僚に報告し合った。

  「これで解散です、帰ってもらって結構。」O5-12は言った。

  椅子を動かす音が静かな空間ではよく聞こえた。人々は列になり会議室を後にした。ブライトは眉をひそめてこちらを見ていたが、ギアーズがそれに反応しないでいると、嫌気が刺したように彼も会議室を離れて行った。その後に、共に仕事をしたことのあるサイト主任、更に会計部門主任……

  人々が歩み去ったのち、彼はやっと自分も立ち上がる番だと気づいた。

  「ギアーズ博士。」

  「こんにちは、ワン。」前方上部に01の立方体を見ることが出来た。

  「全て順調に進んでいるようだな。」

  「ええ、現在のところ全てのアイテムはコントロール下にあります。言い換えるならば、変化はありません。」他の長方形の数字は再び消灯し始めた。まず04と02が、その後に06が意味深なため息をついて会議を退出した。最後に会議室に残っているのはスポットライトの元に立つギアーズ博士とO5-1だけになった。

  「君は仕事を上手くこなしているようだ。」01の石板の光は、彼の穏やかな声の起伏に合わせて明滅していた。

  「おかげさまで。」

  「『計画』は進行中か?」

  「適切な候補者がまだ見つかっていません。」

  「分かった。」O5-1の口調には感情がこもっていなかったが、ギアーズ博士は変わらず動じなかった。緊張しているのか恐怖しているのか、その表情からは分からなかった。

  「一つだけ分からないことがある。」

  「話してください。」

  「Keterクラスの収容スペシャリストは自分の名前を選べるが、なぜ『ギアーズ』を使用した?」

  O5-1の問いに、ギアーズ博士は唖然とした。それは彼にしては非常に珍しい表情だった。それは多くのことが伝わる表情だったとも言えるが、すぐに元の状態に戻ってしまった。

  「『選択した』、と言うのは正確ではありません。」ギアーズ博士は瞳の色と髪の色と同じ、ブルーグレーのマフラーをたなびかせていた。「私はあなたから名前を『継承』することを選んだのです。」

  「しかし、なぜ。」彼は軽く頭を下げ、暗くなっていく石板を見ていた。蛍光の青色の光が完全に消える前に、最後の言葉を残した。

  「私は忘れていました。」

  「あまりに適応し過ぎてしまったのかもしれません。」






  「お久しぶりです、ワン。」男はゆっくりと扉を開き、大きな机の前まで歩いてきた。もしオフィスの様子がその人自身を表しているとすれば、この財団職員のそれは一般の職員のものとかなり違っているようだ。財団全体のスタイルとは異なり、彼のチェリーで出来た事務机と椅子には精巧な彫刻が施されていた。とは言え、机の上にはそれほど多くの私物が置かれてはおらず、書類の山とコンピューターが二台あるのみだった。

  「久しぶりです、博士。」今ではもう研究室に入る必要は無かったが、財団での長年の習慣が彼を現在の地位に導いた。未だ重い白衣は手放せなかったが、下に来ていた青いシャツはスーツに代わっていた。

  「暑くないのですか、ワン?」

  「大丈夫、私は適応しているので。」

  「分かりますよ。」目の前の男は職業的な笑みを浮かべ、美しい目を細めた。「あなたに任務を頼みたい。それと、個人的におめでとうを言いたかったのです。」

  彼は卓上に積み上げられた中からいくつかのファイルを抜き出し、それを渡した。

  「あなたの能力を信頼しています、ワン。あなたは下への割り振りに長けていますから。」

  「それから、『実験』成功おめでとうございます。」





  
  「油やら色んな化学物質やらで海が黒く染まったらしいけど、回復したのかな?」

  「あの船の話だな。」

  「財団が回復させたんだって、あまり大袈裟には関わってないらしいが。」

  職員食堂に集まった人達を見ると、過去の収容違反についてそれぞれが話しているようだった。彼はテレビを見上げざるを得なかった。今日は誰もテレビをニュースチャンネルに切り替えず、ただの観光番組が流れていた。司会者は青い海に囲まれた小さな島に居るようだ。おそらくマルタか、モルディブだろう。

  毎日食べるデザートを作って置いてあるコーナーへ皿を持っていく。マフラーは畳んで置いておいた。先ほどの話題は、彼にとって気になっていた問題を思い出さずにはいられなかった。

  海水は、何色だろうか?


  O5-1の返事は「透明」だった。

  しかし、彼は考え、この問いには特殊な答えが必要だと感じた。


  黒だ。







彼は枝分かれした物語の終わりに辿り着いた

ついに彼を溺れさせた海へと

しかし最早没することはない

以前のように歯車の間が噛み合うこともない。

何故なら彼が既にそうだからだ

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