青、赤、青、赤、青、赤、灰色
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 飛行機で2時間、でもって船に30分ほど乗り、南太島に行く。この島では色覚に異常が起こる。空以外の全てが灰色に見えるのだという。原因が財団だと非難されてきたが、それも今は昔のこと。事件から数年経ち、大衆の興味は他の有象無象に移っている。

 観光というのは、ちょいとばかし話題が冷めた頃がいい。混まないからというただ一点の理由しかないが、それが最も重要だ。見たいものを見まくって、写真を撮って、宿で休んで何やかんや満足したら帰る。具体的なプランは決まっていないが、時間はある。好きなように回ればいいだろう。

 南太島に上陸すると、モノクロの景色が飛び込んできた。コンクリートの地面の灰色は、島の外とは明らかに違う灰色だった。大昔のカメラで撮ったかのような灰色だった。明らかに質感が違う。インターネット越しではなく、肉眼でこれが見れただけでもここに来た甲斐が有るというものだ。

 一方で空に注目を向けると、いつも通りの青空だった。船に乗っている時と同じ、雲ひとつない青空。底抜けの灰色の地面に、これまた底抜けの青空のコントラストが目の前に広がる。異常が一般に公開され、浮世離れしたものはメディアが毎日のように垂れ流している。慣れたと思ったが、いざ現実のそれを見てみると、ドスンとした重い衝撃が心の中で静かに響いた。空の色と地の色が混ざりあった、やや暗い空色の衝撃だった。

 ぼうっと立っている体をなんとか動かす。ここにはガイドブックに毎度のように取り上げられるような観光スポットはない。どこを歩いても観光足りうるからだ。宿に向かう合間に、どこか寂れた住宅街を通る。引っ越した家庭がかなり多かったのか、どこも空き家に見える。人の気配はほとんどない。開発途中に投げ出された建造物も見え、錆があちこちに見える。島全体を覆う灰色が、逆に街の錆の赤茶色を浮き彫りにしているようだった。スマホを取り出し、写真を何枚か撮る。フィルターや加工を通していないのに、写真に映るものも当然灰色になった。肉眼と変わらず、空だけに色があった。

 宿に着き、食事を摂る。本当はいくらか豪華な飯なのだろうが、やはりその全てが灰色だった。白米の白も、高い魚の煮付けや味噌汁の茶色も、漬物と茶の緑も、全てが灰色で上書きされている。島の外では、素朴ながらも魅力的な飯に見えるのだろう。だが、食べ物を食べる時の視覚効果とは恐ろしいもので、今日食べたもの全てが味気なく思えた。旅行先にもかかわらずここまで空虚な飯が食えた、という話のタネにはなるだろうか。悪くない土産話だ。

 2日目。特に観光資源のないこの島の唯一の観光資源とも言える美術館に足を運ぶ。小さな小さな美術館だが、この地に残り何かを創り続けている者の息遣いが作品全てから聞こえてくるようだった。島の灰色に呑まれることのない色。情熱は赤だ。灰色と空色しかない中での、唯一の赤色を見つけた。

 最も「赤」を感じたのは海の絵だった。近海の穏やかな様子を描いただけのその絵から、存在しない「赤」を感じ取った。元々何色で描かれていようと目には灰色に見えるが、描かれた海の中には真っ赤な何かがある。情熱かもしれないし、血かもしれない。島の灰色に隠された、正体不明の赤色。灰色どころか自分さえも塗りつぶされかねない、危険な赤色。表現出来たわけはこれを描いた異常芸術家の力か、はたまた単なる思い込みか、考えたところで答えは出なかった。

 まだ時間があるので、美術館での「赤」の正体を探る。滞在期間は街を散策しながら、あらゆる場所、角度から海を見た。だが、現実に「赤」は見つからなかった。ポストや信号など、物理的に赤いと思しきものは至る所にあるが、それらは全て灰色だ。「この島は空以外のあらゆるものが灰色に映る」という現実を叩きつけられただけだった。海は変わらず灰色だし、空も変わらず青かった。

 帰りの船に乗る。美術館での「赤」の感覚が抜けない。島外、船で見る海はたしかに青色をしているが、そこには絵の具を塗ったくったかのような濃い赤がちょくちょく、幻覚のように顔を出す。煙草の煙のように赤色が海から空に昇ってくるが、すぐにほつれた糸のように消えていく。海にはその「赤」の残骸が浮いている。海の青と混ざって紫色になることは決してない。波にさらわれ、どこでもない場所に沈んでいく。

 海の青とは対照的な、やや雲がかかった空の灰色を眺める。あらゆる色をごちゃごちゃに混ぜ合わせて作ったかのような灰色だが、そこに「赤」はなかった。

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