燻る南米、あるいは堕楽園
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終業時間をはるかに過ぎた21時頃、ようやくその日のタスクを処理した二人の男女は小さな会議室で密会していた。それは恋愛的な意味──ましてや90年代のロマンス映画──でもなく、ひどく面倒な事柄であることを男は予感していた。だらしなくネクタイを締めた男の方、ハンネス・ヴィラワイナーは話を切り出す。

「こんな時間に呼び出すってことはさぞハッピーなお話なんだろうな? ゴーストのケツを追いかけろって任務ならお断りだぜ」
「あら、なら安心して。あなたが追いかけるのは人間、それもとびきり汚いケツよ」

ブロンドヘアーを自慢気に揺らす女の方、チャンドラ・クロロイルは皮肉気味に返答した。彼女の微笑みの意図は掴みかねるが、おおよそ好意的な意味を孕んでいないだろうとハンネスは予想した。

「嘆かわしいことに、この頃学生を中心とした若者の麻薬汚染が急速に進んでいるわ。私たちはそれに何の対策も講じていない。その理由は御存じかしら?」
「単に理由がねえからだろ。強烈な陶酔感と依存性だけを与える捜査官泣かせの魔法のおクスリ、ロイド事務局長はすっかり頭を抱えているよ」
「法整備がされるまで私たちは指を咥えて眺めることしかできない。可哀想な彼らを正しく救えない。正しければ、ね」

そう言うとチャンドラは脇に置いた鞄の中を漁り、薄いファイルを取り出した。口外無用、いつものセンテンスを添えて彼女はハンネスに手渡す。

連邦記録法に則り、以下に電子コピーを掲載

UIUファイル2006-021: コードネーム "コロンビアン・ゴースト・チルドレン(CGCドラッグ)"

概要: 当該薬物は現存の検査では検出されない手法を用いて摂取され、摂取者に通常以上の薬物症状を引き起こす。

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ハンネスは机上に散らばった極秘情報から目を離さぬまま重い口を開いた。

「コロンビアの閉鎖、麻薬汚染、拡散。やれやれ頭がおかしくなりそうなステキな単語ばかりだ」
「ほんの少し注意深く観察すればソレが見えてくるわ。ウソっぽい観光ガイドブック、旅行者の帰還率、リストにない輸送船などなど……恐ろしいほどにはっきりとね」
「大方察しがついたぜ、チャンドラ上級捜査官殿」
「コロンビア政府の手垢がついた情報は最早あてにならない。私の見立てでは、数週間以内にコロンビア政府は閉鎖宣言を公式発表するはずよ。そうなる前にハンネス、明日の午前6時17分の便に乗ってコロンビアへ向かいなさい。目的は"コロンビアの実態調査"、薄汚れたヴェールを丸裸にして頂戴」
「親愛なるお仲間がここにいないってことは単独潜入か? 俺一人で?」
「隠密性を少しでも高めるためと……本任務を知る人物を極力減らすためよ」

チャンドラは、半ば倒れ込むようにパイプ椅子に深く腰掛けた。アメリカンスピリットを咥え、煌々と火を灯す。

ポーランドの一件から早8年、我々UIUはデカく強大な組織へと生まれ変わった。例え地球の果てにある小さな農村で発生した異常事件であっても、国益を損なうものであればあらゆる権利を行使し、必要であれば国家を制圧する程度にはね。だけどデカくなればも出る。隙間から侵入した、丸々太ったドブネズミを駆除するのは存外難しいものよ。分かるわよね?」
「……クソ溜めに浸かっているような気分だ」

ハンネスもまた、既に火が付いたラッキーストライクを咥え、煙を吐き出した。二人の煙は上空で混じり、ほどけるように霧散した。そして、しばらくの沈黙。

「後であなたの身体に超小型受信機を埋め込むわ。あなたが死んだ場所を知らせる、心強い"救難信号"よ」
「なんだって?──ああ、俺が任務を達成すればコロンビア政府に強気な姿勢を見せられる。俺が死ねば"連邦局捜査官の不審な死亡"を口実に堂々と未開の地を捜査できるって筋書きか。まったくクールだねそいつは」
「ふふ、そうでしょう。どこに埋め込みたい? ケツの穴以外だったらどこでも選ばせてあげるわ」
「なら中指で。コロンビアのクソ野郎どもとお前らをファックしてやる」

会議室に二人の笑い声が響く。ひとしきり笑った彼女は軽く咳払いし、ハンネスの目をじっと見つめる。

「明日を健全に生きるべき少年少女のため、頼んだわよ」
「オーライ。お互いやれることをやろう」

二人の男女は灰皿に煙草を押し付け、心を整える。チャンドラはその足でデスクに向かい、ハンネスはファイルを鞄に詰め込んで局を出た。

明日、彼は腐敗の理想郷ユートピアへ足を踏み入れる。


空港の敷地から一歩踏み出すと、こちらを見下ろす圧巻のビル群がひどく印象的だった。後方でさらに見下ろす灼熱の太陽はハンネスの影を強く焼き付け、その黒い影はこの先を暗示しているように思われた。長旅を終えて疲れた彼にまだ休みは与えられていない。

予想に反して賑わいを見せる首都ボゴタ。数時間前まで思い描いていたサイバーパンクな世界観はどこへやら、肺にこびりつく乾いたガムの香りと津波のように押し寄せる人波は以前と何ら変わらない。しかし、この町は賑わいすぎるとハンネスは見抜いた。今しがた横を通った青年はだらしくなく口を開けて笑い、居もしない隣人と会話をはじめ、視界の端に写った野犬は股下の老人にブツを咥えさせていた。ふと空を見上げれば、人間の顔をしたハゲタカが数羽旋回していた。バーの看板、捨てられた雑誌、新聞すらもローマ語とヒンドゥー語を混ぜ合わせたようなめちゃくちゃな文法で書かれており、文化がスクランブル状態だ。この町は、いやこの国は完全にイカれていると彼が判断するのにそう時間はかからなかった。青ざめた彼は逐一メモ帳を取り出し、視覚情報を丁寧に出力した。それは脳内を整理するのに一定の効果を示し、でなければ彼はとっくに狂っていただろう。

ハンネスは"ブラックハンズ牛の淫らな舌"専門店の日陰に腰を下ろし、渇きを癒すため250ml飲料水を一気に飲み干した。細胞一つ一つへ染み渡る感覚は、彼の正常な意識を繋ぎ止めるのに一役買ってくれた。明らかな生態異常、非人類の往生闊歩、全員が麻薬中毒者……事前情報を信じるならばこれは単なる麻薬汚染のみならず、所謂パラドラッグの流通も相当進んでいる。彼はメモ帳に"現地住民への聞き取り"項目を追加し、さらなる情報収集のためインタビューを開始した。

本来の性質なのか麻薬によるものなのか、現地住民はみな人当たりが良く、親切にインタビューに答えてくれた。ハンネスはメモ帳を改めて凝視する。特筆すべきことは3点。一つ目は最先端クラスのインターネットの普及。プロメテウス研究所の誇る高速データ通信システムは完全に整備されており、至るところにフリーデバイスが設置されている。二つ目は非人類の台頭。先進国でさえ非人類の保護体制はまともに整っていないが、ここの現地住民は実に寛容だ。そう考えると非人類がやけに多いのも頷ける。そして三つ目が公然とした麻薬の存在。コンビニの酒類コーナーの隣に大麻とコカイン袋が並び、商人はオシャレな注射器を売り渡り、宣伝カーが最新の麻薬情報を提供してくれる異常な環境。確かにここはある者にとって楽園なのだろうと彼は考えた。しかし、正常な世界に生きる彼にとってそれが幸福であるとは思えず、同時におそらくバックとその裏にいるであろう王様気取りの連中をひどく憎んだ。

ハンネスは大通りから400mほど離れた広場を訪れた。いくつかの屋台が並び、喧騒さの中心でトリップしたヤツらがださいダンスを踊っていた。その端で、スマートフォンを片手に楽しげな様子を見せる複数のグループが目についた。彼らは一様に画面を見せ合っては、恍惚とした表情と涎を周りに振り撒いていた。怪訝な表情を浮かべるハンネスに、近くのベンチに腰かけた陽気な酒飲みが勝手に答える。

「ヘイ兄さん。あのクスリはこの町のトレンドNo.4、お手軽ファックの"イジュンポゥス"だぜ!」
「イジ……何の言語だそれ?」
「知らねー。ブタ面したヤツがそう言ってたから。んであれのことだけどさ、スマホでお好みのクスリを選べて、コカインとかハッパとかMDMAとか何でも。それですぐに変な模様のコードが送られてきて、それをじっくり見ると脳がぐわ~ってなって、グルグルなっちまうんだ。なんだろ、脳ミソに直接ぶちこまれた感じ? とにかくそんな感じ。そんで配合カスタムとかもできるしヤバいね本当に」

いまいち要領を得ない酒飲みの説明だが、周りの状況と照らし合わせればハンネスが理解するのに十分過ぎるものだった。つまるところ例の薬物とアプリは、脳にインストールされるデータとその注射器というわけだ。手頃な端末があれば誰もが入手でき、驚くほど簡単に麻薬を摂取できる。余計な仲介人を通さない分、貧者でも買える低価格を実現できるのだろう。周りを見渡すと、公衆トイレの影で母親が痩せ細った子供にコードを見せているのが視界に写った。彼は舌打ちを鳴らし、煮えたぎる怒りと諦めの感情が体内で渦巻くのを感じ取った。コロンビアは既に堕ちていたのだ。

太陽が下降しはじめた頃、先の酒飲みもといGボーイと名乗った男に連れられて、広場から少し離れた屋台でハンネスらは食事をすることにした。白目を点滅させた女店員が運んだタコスもどきをハンネスが凝視していると、Gボーイが奪い取って自分の口に詰め込んだ。彼は満足げに笑みを浮かべ、不愉快な咀嚼音を鳴らしながら次の質問をするようハンネスに促した。彼が上機嫌であると確認したハンネスは、少々踏み込んだ質問を投げかける。

「さっきそのイジナンタラだとか、アンタは分からんだろうがこの異様さだとか、おかしなドラッグが誰かの手によって随分ばらまかれたみたいだな。Gボーイ、そいつらに心当たりは?」
「あーあいつらだね、みんな大好きカルテルの連中だ! さっきも言ったハエ面したバカもそれに所属していた。今はタコスと少しばかりのフランクフルトになっちまったけど」
「いや、まあそいつの話はひとまず置いて、そのカルテルの連中ってのはいつ来たんだ?」
「2、3年前だな。突然やってきて煩いヤツらを肉ジャムにして、すぐに支配者になったんだぜ。そのあとすぐに薄ピンク色の砂嵐がやってきてよーそれでみんな楽しくなっちゃった」

ハンネスは忙しく右手を動かし、Gボーイの細かい発言の一つ一つをそのまま書き取った。彼の証言は支離滅裂で突拍子もないものだが、テーブルの上を這いずる高笑いのゴキブリがそれを強く裏付けた。メモ帳に食い入るあまり、ハンネスは彼の少々不審な動きに気づけなかった。

「麻薬カルテルの名前は?」
「あいつらは絶対に名乗らないから、だからボゴタ警察が勝手に名付けた。"ジョン・ドゥ・カルテル"ってな」
ジョン・ドゥ・カルテル……名無しのカルテルか。南米らしいセンスの欠けるネーミングだな」
「そう言うなよ。そこの人たちはプライド高いんだから」

鈍い音ともにじんわりと感じる後頭部から背中にかけての違和感。ハンネスの視界は荒波のように揺れ、徐々に明度は下がっていった。Gボーイの耳障りな声がすぐそばで響く。

「アンタさ、靴がキレイすぎたんだ」


Gボーイはその日初めて本当の意味で笑った。そして、ハンネスの視界は血溜まりに暗く沈んだ。


バケツでたっぷりの水をかけられ、ハンネスの意識は呼び起こされた。朦朧とする意識は、直後頬に打ち込まれた殴打によってやや鮮明さを取り戻した。彼は口の中で何かが転がるのを感じたが、それを意識することを止めた。鋭い痛みに耐えつつ、暗くて小さな部屋、囲う数名の人間、椅子に縛り付けられた自分、絶望的な情報を余すことなく即座に把握した。口腔内に溜まった血を吐き捨て、目の前のやけに背の高い中年男性を睨み付ける。

「地獄に繋いでやろうと思ったヤツらが3匹もいやがる。てめえらはジョン・ドゥ・カルテルの下っ端か?」
「質問するのは俺だぜカウボーイ」

男はナイフを手に取り、ハンネスの左肩に突き刺した。ハンネスの低い呻き声が部屋に鳴り響く。

「騒がしいね、この程度は慣れたもんだろう」
「生憎どちらかというとデスクの人間でな。耐拷問の訓練は毎回サボってた」
「サボりは良くないよ、何事もな」

突き刺したナイフを左右へ揺らし、ハンネスの痛覚を厭らしく刺激した。ハンネスは反射的に下唇を強く噛み、痛みを誤魔化すため必死に耐えた。その様子に目を細めた男は手遊びを止めぬまま、尋問を続ける。

「メモ帳を読む限り、お前は一介の記者じゃなさそうだな。どこから来た? この国の情勢をどこで知った? 答えろ」
「てめえらこそコロンビアで何好き勝手遊んでんだよ。コロンビア政府もてめえらの言いなりみたいだが、一体何が目的だ?」

男は一際大きな舌打ちを鳴らし、ハンネスの腹部に蹴りをいれた。呻くハンネスを横目に、荒げた口調でさらに問い詰める。

「くだらねえ問答をする気はねえ。トーク料金が欲しいなら口に5セント硬貨を詰めてやろうか? さっさと答えろ、お前は何者で何を知っているんだ!」
「答えは"ファック"だクソッタレ」

男はとうとう激昂し、脇に控えた2人に暴行を命じた。部下は待ってましたとばかり笑みを浮かべ、ハンネスの顔や腹部に殴打や蹴りを複数回繰り返したが、彼の闘志は途絶えなかった。数分後、血の湿気が部屋に充満しはじめたところでハンネスはさらに血のゲロを吐いた。男は顔をしかめて部下を制止した。

「強情なヤツめ。まさか助けが来るとでも? 叶いもしない夢に希望を寄せるのは止めとけ。無駄だ」
「かの黄金の三角地帯ゴールデントライアングルの復活を目論んでるだが何だかは知らんけどな、てめえらよりかマシだぜ」
「……もういい。先にアクセル踏んだのはお前だ」

肩に突き刺したナイフを引き抜き、ハンネスの右手人差し指の側に突き立てる。木製の肘掛けは小さく軋み、ご丁寧にナイフの鋭さを伝えた。ハンネスは滴る冷や汗を悟られぬよう、下手な演技でクールを装う。

「で、それがどうしたよ。モノに当たっちゃいけないってママに教わらなかったか?」
「ジョークのキレが落ちてるぜ、カウボーイ。次の質問に移るぞ。この5本の指のうち、どれを落としてほしい?」

ハンネスの鼓動が一層高鳴り、危険信号を喧しく発する。噴き出た脂汗と加速する血流を無視し、激しくなる息遣いを整え、いつもの調子で彼は答えた。

「ファックができれば上出来だノープロブレム

直後、背の高い男は中指に目掛けてナイフを振り下ろした。皮、肉、骨、肉、そして皮。指の断層が切断される様を神経は脳に報告し、激痛となって表れる。こちらからは見えない刃の後ろがどうなっているのかハンネスは想像したくなかったが、感覚がそれを許さなかった。喉が擦りきれるほどの絶叫を響かせ、駆け巡る痛みが彼の意識をしばらく掴んで離さなかった。ひとしきり叫び意識が再び沈みかけた直前、彼はくつくつと笑った。

地獄で死んでろクソどもが


数時間後、今度はバラバラになりそうな全身の痛みがハンネスの意識を自然と呼び起こした。鉛筆の先を舐めていた若い隊員が彼の目覚めを大袈裟に報告し、慌てたメディカルスタッフがすぐさま駆けつけた。幾つかの質問を繰り返すうちに彼の意識は鮮明となり、鼻腔を刺激する硝煙の香り、2機あるうち片方の高速ヘリの中、ガラスに映るミイラのような自分が勝利を宣言していた。ガラスの奥からチャンドラが近づいてくるのが見えた。

「あなたがゾンビじゃないことを祈るわハンネス。あら、随分とお利口な右手ね。ご褒美はキャンディ製で良いかしら?」
「ああ、そりゃとびきりサイコーだね。はは、この国の連絡体制を舐めてたぜ、って痛つつ……」
「……。あなたの上司には主に給料のことで打診しておくわ」
「そりゃどうも。とはいえ"地元組織による連邦局捜査官への不当な拷問"だけじゃ理由として弱いんじゃないか?」
「何とかならないなら何とかすればいい。多少事実を盛ったって慈悲深い神は見逃してくれるはずよ」

神に釘を差しやがったとハンネスは思わず笑い声を漏らすが、肋骨に走る痛みがそれを中断させた。チャンドラは安心したようにため息をつき、まだ仕事があると言ってその場を離れようとした。

「連れないな、チャンドラ。今さら泣き顔くらいどうとも思わねえよ」
「何を勘違いしているのかしら。私が人生で泣くと決めた場面は2つのみ、愛しき家族が亡くなったときと"タイタニック"のラストシーンを観賞したときだけ。お分かり?」

チャンドラはそう言い残して立ち去った。目元の不自然な腫れが真実を物語っていたが、ハンネスはわざわざ指摘しなかった。チームの一人からラッキーストライクを受け取り、痛覚を刺激しないよう浅く吸っては吐いた。ゆらゆらと昇る紫煙は、夜明けを告げる光と相まって幻想的な光景を一時的に生み出した。ジョン・ドゥ・カルテルの殲滅、コロンビアの正常化……気が遠くなるほど積まれたタスクを一旦無視して、帰宅したらジントニックをたらふく飲み干そうと彼は決心した。

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