妙に呆気らかんとした女の悲鳴を聴きながら、リックは己の選択を呪って軽く下唇を噛んだ。午後の講義までの暇潰しに選んだこの映画は、ジャンルとしてはSFホラーであったが、まるで幼稚園のお遊戯会のようであった。本当にそうならまだマシなのだが、リックは"これ"に8ドル弱を支払っている。彼が映画マニアでなければこの拷問には耐えられなかっただろう。貸切かと違える程にガラガラな座席たちは彼の感性がごく一般的なものであることを保証した。リックはこの地獄に誘われたのが自分ただ一人であったことに嘆く。いつも上映後に開かれる同胞たちとの感想会は今回に限って開催されず、この苦しみを共有し合って偽りの絆創膏で傷を隠すことはできない。リックはエピローグとして彼らにどう「酷かった」と告げようか延々と考えていた。
病気持ちの蛸のような触手を揮う化物が主人公を追駆している。ガールフレンドはヒステリックに叫びながら脚に絡み付いた蠕動する卵を薙ぎ払っている。友人のボブ(なんと劇中で名前が明言されたのはこの男だけだった!)は意味不明に楽観的で、誰もが第一に頭から振り払うような荒唐無稽な打開策を主人公に提言する。──この展開は3回目だった。リックはこの暇潰しから逃れようと、入場前に購入したMサイズのポップコーンカップを弄ろうとして、止めた。暇潰しの退屈しのぎで消費したポップコーンは、上映の10分後には既に一粒も残っていなかったことを思い出したからだ。彼がこの小さな絶望に打ちひしがれるのは、奇しくも同じ3回目であった。
「一体どうすればいいんだ!?」
主人公が叫ぶと同時にリックは小さく舌打ちをした。この地獄はどれだけ続くのだろうか。恐らく上映時間の半分は過ぎ去っただろうと願うが、当然ながら映画館にシークバーは存在せず、彼の精神だけがすり減っていった。暫く右脚を小刻みに揺らしながらエンドロールを待ち侘びるも一向にその気配は感じられない。4回目だ。退屈さはピークに達していた。リックは深く息を吐く。連続する騒音は徐々に意識外へとフレームアウトし、環境音と区別が付かなくなる。幕の代わりに下りる瞼は彼の視界をモザイク調に変化させ、直ぐに暗闇と安寧を齎した。
リックは奇妙な息苦しさを感じて目を覚ました。それはまるで熱帯夜を丸めて口内に突っ込んだかのような湿気を孕んでいて、それでいて全身の肌は鳥肌が立つほどの寒気に覆われているようだった。彼は自身に被さった不快感で思わず声を発した。
「うぉっ」
一瞬、両隣の陰がこちらを見たように感じて、リックは気まずさを誤魔化すために軽く座り直した。寝ぼけ眼はまだスクリーンにフォーカスを当てられていない。ぼんやりと認識したその光る長方形は下部分が少し欠けていた。目を擦り意識を集中させると、それが人の頭であることに気づき、リックはようやく違和感を抱く。こんなに沢山の客がいたか?彼の視界のみで判断するなら、会場内は満席であるように思えた。
違和感の正体はもう一つあった。スクリーンには一人の男が部屋に掃除機を掛けているシーンを映し出しており、そこにボブやガールフレンド、化物に"主人公"は存在しなかった。この男──恐らく日系アジア人だろうか。時代や舞台設定がまるっきり変化しているのは明らかだった。
リックはこの不可解な事実に暫し首を傾げ、ある結論に辿り着いた。自分はSFホラーなあの映画が終わってからも会場内で寝過ごし、次に上映された別作品の途中で目が覚めたのだと。これなら客数と上映内容が変化している両方の事実に説明がつく。伏線を全て回収したリックは満席になるほどの面白い映画があったかと入場前に調べたタイムスケジュールを想起しながら、途中退場の準備を始めた。スクリーンの男はいつの間にかソファでくつろいでいる。変化の少ない絵面だが、ここから山場を迎えるのだろうか。若干の興味を抱きつつも、彼は映画マニアのポリシーに従って席を立った。
ぬちゃり、と音がした。
少なくない粘性を含んだ音色は、リックの動作を停止させるには充分だった。糸を引く液体から享受した若干の引力を人差し指に感じ取り、そこで初めて先刻の擬音が隣の客との接触によって奏でられたものであると理解する。彼は隣人が粗相でもしているのかと思ったが、スクリーンの光に一瞬だけ反射した"それ"を見るなりその馬鹿々々しい考えを捨て去った。
"それ"は触手だった──それも病気持ちのような気色悪い色をした!リックの瞳孔は暗闇の中で狭まる。既視感のある触手は彼が観ていた退屈な化物そのものであったが、4D映画以上にリアルな演出を体験したことが無い彼にとって、この事実は今まで観てきたあらゆるホラー映画以上に恐怖する根拠になり得た。伏線は回収しきれていなかった。
「席を立たないで貰えますか」
化物が口を開く。口と形容するのが果たして正しいのかは分からないし、暗闇で該当部分を確認することは出来なかったが、その忠告がリックに向けられたものであることだけは明らかだった。抑揚の無い声、というより抑揚を抑え込んだかのような不自然な発声は、周囲の湿度の高さも相まって、リックへ彼が幼少期に読んだ沼地に住む怪物の物語を想起させた。彼は不自然に自然さを装いながら自身のホームへと着席し、同時に背もたれのシートに冷汗を吸わせた。救いを求めるようにスクリーンに向き直り、そして絶望する。人間だと思っていた前の座席の住民が頭部を蠕動させていることに気づいたからだ。彼は込み上がる悲鳴を堪えながら化物の存在しない左の座席を見て、"化物の存在しない"が存在しないことを理解した。スクリーンの男は洒落たカップへと優雅にコーヒーを注ぐが、リックは気づかない。ただ自身の両膝を見つめながらシートに脂汗を吸わせた。
リックはこの危機的状況を脱するため、ポップコーンで摂取したエネルギーを全て脳髄に充てた。息苦しさが彼を脅かす。会場を覆う暗闇は彼が人間であることを隠し、スクリーンに映る映画は彼の寿命を表していた。映画が終幕し会場が照明で照らされた時、唯一の人間を見つけた化物たちがどうするかなんて、リックから言わせればクリシェな結末を迎えるだけだった。震える右足を押さえつけながら思案する。だが、化物に囲まれるリックへ与えられた選択肢はどう探したとて限りなく0であった。そのため、彼がこの陳腐でリアルなホラーをただの悪夢であれと祈るのは仕方のないことだったが、鼻腔に纏わりつく生臭さがその可能性を無慈悲にも否定した。
リックは半泣きだった。Rotten Tomatoesなら問答無用で緑のアメーバがつく作品の上映中に、居眠りをした罰としてはあまりにも重過ぎると嘆いた。別世界に飛ばした顔も知らない神を呪った。スクリーンの男を無意味に睨んだ。そして──ある仮説に辿り着いた。寝落ちによってこの地獄に堕ちたのなら、もう一度眠ることで元の世界に戻れるのでは?根拠に乏しい安売りの発光ダイオードのような希望だったが、身動きのできないリックにとってこれは最適解のように思えたし、映画館の暗闇の中では発光ダイオードが照らす輝きで充分だった。
リックはすぐさま目を瞑った。化物の横で無防備な姿を晒すことに抵抗を抱きつつも、意識を手放そうと積極的に無心を演じる。息を吐くも、湿度は依然高いままだ。微かに聞こえる生活音は映画の彼によるもの?雑音が聴こえないよう耳を塞ぐ。無心になる。心臓が高鳴る。一番煩いのはこれだ。息が荒くなる。シャツが背に張り付き気持ち悪い。何も考えるな。あぁ────。
まるで神に祈りを捧げているかのような姿勢でリックは硬直し、秒針が飽きるほどに分針と交差した頃、ゆっくりと顔を上げた。眠れない。リックは涙を流していた。夢の世界に没入しようとすればするほど、彼の意識は鼓動と共に体内で反響し、魚の内臓と遜色のない匂いで充満したこの現実に引き戻される。この映画はあとどれくらいで終わってしまうのか、リックは心中でスクリーンの"彼"に尋ねるが、彼は小説に目を落とすばかりでこちらを一瞥もしようとはしない。映画館にシークバーは存在せず、彼の精神だけがすり減っていった。リックは俯き、意味の無いように思える儀式を再開する。心臓の高鳴りはリックのコントロール下ではなかった。涙が頬を伝ってむず痒い。目を手で押さえる。ぐちゃぐちゃとした感触はリックに惨めさを与えた。粘性のある音が囁く。耳を押さえる。両脚が叫ぶ。脂汗は流れきっていた。
突如、落ち着いたクラシックがリックの鼓膜を叩く。戻れたか?現状からの脱出を切望したリックはそんな希望を抱きながら視線を上げて、すぐに苦悶の表情を浮かべた。スクリーンに映し出された男の身体に、いや映像全てに、下から上へとミミズのような記号が移動している。哀れな一人の映画マニアは、それが製作陣営の名前、つまるところエンドロールだと直感で理解した。残された時間はごく僅かである。リックは「ごめんなさい」と宛先不明な謝罪を零し、ハッとした表情で口を押える。化物たちは気付かなかったが、それで全ての幸運を使い切ったかのようにリックは感じた。クラシックはまだ続いている。早く戻らなければ明かりがついてしまう、暗闇が取り払われてしまう!リックは手についた鼻水を拭いながら、3回目の祈りに専念した。眼球を瞼越しに抑え、白黒テレビの砂嵐に似た景色を見つめながら、湿った息を吐き続けた。彼の行動は正しく最善手であった。にも拘らずこの危機を脱せないということは、回避不能な悲劇であったということ。──クラシックが止んだ。
ブザーが鳴り響き、幕が下りる。リックは顔を恐怖に歪ませ、無気力に両手を降ろしており、その様子はさながら電気椅子に着席した死刑囚のようだった。照明の明度がゆっくりと高まる。時間で表せばその遷移は一瞬であったが、リックにとっては長い時間だった。彼の恐怖心がそうさせたのかもしれないし、走馬灯のように未だこの危機を脱する一手を探していたからそう感じたのかもしれない。尤も、その一手は見つからなかったようだが。
粘り気のある物音が大きくなり、リックは反射的に目を開いた。久しぶりに再会した自身の身体は当たり前に肌色で、それはこの空間内では圧倒的に希少だった。紫色の触手が彼の手を握り、リックは導かれたかのように右を向く。初めて邂逅した隣人は自身の頭部を二方向に裂きながら、真紅の舌と黄ばんだ歯を覗かせつつ、親しみのある生臭さを撒き散らして、相変わらずの泣き虫に声を掛ける。
「良い映画だったね。君たちもそう思うだろう?」
リックは自身が想定したクリシェな結末を反芻しながら、暗転する意識に身を委ねた。
揺れる身体に眉を顰めながらリックは覚醒し、肩に置かれた手を払い除ける。
「お客様、上映時間は終了しましたよ」
白色が混ざった髭を生やす気の良さそうな丸顔がそこにはあった。チケット売り場の店主だ。リックが辺りを見回すと紺色の空席しか目に映らなかった。先程の冷気とは異なる冷えた空気が彼の鼻腔を擽る。シャツに手を入れるも汗は一滴たりとも見つからず、乾燥しサラサラとした清潔さのある手触りしか返ってこなかった。
やはり悪夢だったのか?会場から退出したリックは踵を踏んだ靴を履き直そうとして、小指に付いた淡藤色の粘液に気づく。不思議と恐怖心は無かった。寧ろ仕事終わりに夜風に当たるような、爽快感に似た心地良さがあった。悍ましい現実に対して抱くにはちぐはぐ過ぎる感情を疑問に思いながら、ふと記念品売り場のショーケースに目をやると、病気持ちの彼がいた。金属でできた小さめのフィギュアと視線を交わしながら、リックは彼の言葉を思い出す。
「君たちもそう思うだろう?」
リックは自身がその問いに答えられなかったことに酷く後悔した。映画によって与えられた感動を他者と共有できないもどかしさは、映画マニアのリックもよく知っているからだ。彼はリックを人間と認識し、そして映画を愛する同胞として受け入れた。対してリックは、あの時上映されていた映画の内容を一抹しか記憶しておらず、もし気絶しなかったとしても彼主催の感想会には参加できなかっただろう。金属特有の光沢で輝いたフィギュアの目は、リックに失望しているかのように思えた。リックは己の行動を恥じた。
「これ、おいくらですか?」
「12ドルだよ」
リックは財布を開き、溜息をついた。8ドル弱の鑑賞料に加えての12ドルは、貧乏の大学生にとって痛すぎる出費であった。店員に軽く謝罪し出口へと向かう。開放された扉から吸い込まれた冷たい空気が、リックの短髪を優しく撫でた。
ある映画好きの男が経験した奇妙な物語は、これにて終幕した。









