獣道に光を灯す読解の作法
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いくつもの退屈な検査──ソファやら犬やらの画像をひたすらクリックするような──の末に、患者衣の男は扉の前に立っていた。身長は低めだが、服装に反して、体は健康的で筋肉質。グレーの髪は滑らかに白色灯を照り返していて、肌の血色も良い。ただその表情は曇り、目には力が籠っていなかった。事件の後、ずっと検査やカウンセリング、事情聴取ばかりが続いている。それなのに、男の心境も、男が置かれた状況も、ほとんど変わっていない。処遇も決定しないまま、不透明な未来への不安と、行く当てのない不快感ばかりが募る。男は息を吸い込んで、今日こそは何かが変わるのではないかとわずかに期待しながら、扉を叩いた。

「どうぞぉ」

しかし、ノックのあとに響いたのは、男にしてはやや高めで、間延びしていて、さらに気の抜けたような声。どうやらまた無駄な時間を過ごすことになりそうだと、男は小さく肩を落とした。

「失礼します」

扉を開けてまず目に入ったのは白い正方形のテーブルで、それぞれの角には透明な怪我防止のゴムクッションが貼り付けられている。オフホワイトの壁紙や天井の中にあって、その白さは一層際立ち、机の周りを一つの特異な空間として切り取っていた。机の向こう、正面には高い本棚が並べられていて、それが目隠しになって正面からでは部屋の奥が見えないようになっている。おそらく、向こうにはこの部屋の主の仕事場があるのだろう。それから、ちょうど机の真上にはプロジェクターが設置されていた。会議室を改造したオフィスなのだろうか。

「ちょっとお待ちくださいねぇ……わぁっ!」

本棚の奥から声が聞こえ、続いてバタッと、何かが倒れる音。音の方をみれば、白衣を着た眼鏡の男が床に転がっていた。

「いやはや、お恥ずかしいところをお見せしましたぁ。今日面談の予定の、白鹿はっかさんですね。それじゃあ、お好きなところへどうぞぉ」

白衣の男は立ち上がって、照れ隠しのように笑う。白鹿がテーブルの前の椅子に腰を下ろすと、男は壁に立てかけられていた椅子を白鹿の斜め前の位置に運んで座った。

「私は今回の面談を担当する、狩猪かるいといいます。本日はよろしくお願いしますねぇ」

狩猪は寝ぐせだか意図的なセットだかわからないブラウンのセンターパートを揺らしながら、緊張感のない笑みを浮かべている。白鹿はますます億劫になったが、漏れそうになったため息をぐっと飲み込み、「よろしくお願いします」と抑揚なく返した。そんな彼の様子も意に介さず、狩猪は白衣の胸ポケットをゴソゴソと漁って、名刺入れを取り出す。

「一応、連絡先をお渡ししますね」

興味のない情報。ざっと流し見するだけのはずが、所属の欄で目が留まった。研究部門心理学部──

──研究部門? 医療部門ではなく? 

こういうときは、医療部門の人間が出張ってくるものだと白鹿は思っていたし、かつて鬱になったときに受けたカウンセリングでも、担当者は医療部門の職員を名乗っていた。その定型的なカウンセリングも、結局なんの解決にもならなかったが。言われたことと言えば、人を殺すことがストレスになるだとか、当然で、しかし戦闘職の仕事上どうしようもないことばかり。あの時から、根本的にカウンセリングだとか認知療法とかいったものに、信頼を置いていない。

そういうわけで、医療部門に期待をしているわけではないのだが、不自然な所属は引っかかる。白鹿は目線を上げて、狩猪をじっと観察する。そして、まだ胸ポケットに膨らみが残っていることに気が付いた。

「あの、これ、出す名刺間違えてませんか?」

白鹿が胸元を指さすと、狩猪は驚いたように口を開き、小さく拍手をする。

「素晴らしいですねぇ。やっぱり機動部隊の方は観察眼が鋭い」
「……元、ですが」
「大丈夫です。すぐに復帰できますよぉ」

狩猪の言葉は白鹿の鼓膜を震わせもせずに通り過ぎていく。何人もの医者に無責任に投げつけられた気休めは、もはや彼にとって何の意味も持っていなかった。

「白鹿さんのいう通り、私には名乗れる役職がいくつかあります」

狩猪はポケットから色違いの名刺入れをいくつか取り出して並べる。

「こっちが収容技術アドバイザー、こっちが対話部門、で、こっちが医療部門……まあ、どれも臨時職ですよぉ。研究職だからと言って、研究ばっかりしているわけにはいきませんからねぇ」
「えっと、じゃあつまり、カウンセリングについては素人ってことですか?」
「いえいえ、ちゃんと専門知識は持っていますよぉ。勉強も訓練もしましたから。それに──」

狩猪は名刺ケースをしまいながら微笑みかける。

「出す名刺はこっち、研究部門であっています。今日はカウンセリングではなくて、白鹿さんには私の研究の参加者になってほしいんですよ」
「……参加者?」

訝し気に問う白鹿に、狩猪は頷く。

「はい。一種の事例研究といえばいいですかねぇ。事件の関係者の談話──お話を聞いて、そこから未来に活かせる知見を探す、という形の研究です」
「はぁ」
「はは、そう難しく考えなくていいですよぉ。白鹿さんは私とお話をしてくれればいいだけです。もちろん、無理にとはいいません。ただ、そろそろ意味のないカウンセリングにも飽きたころかと思いましてねぇ」

狩猪の眼鏡はときおりキラキラと虹色に、蜻蛉の翅のような生物学的パターンで照明を反射する。

「狩猪さんとの会話には、意味があるんでしょうか?」
「ええ。きっと楽しいですよぉ」

覚悟も緊張感も感じさせない笑み。それをやる気の欠如と捉えるか、余裕捉えるか、白鹿は少し悩んで、答えを出すのを諦めた。掴みどころのないものを掴もうとするだけ、体力の無駄だ。どうせ時間はある。退屈潰しになればそれだけでも儲けものだろう。

「わかりました。ご協力しましょう」
「わぁ、ありがとうございます! それじゃあさっそく、事件の振り返りから始めましょうねぇ」

狩猪はきらめきながら揺らぐレンズの裏側で目を細め、嬉しそうに手を合わせる。それから、テーブルの上のファイルを手繰り寄せて、ページを捲り始めた。




「白鹿! 良い知らせがあるんだ。聞きたいだろ?」

その日、年上の患者仲間は、個室にやってくるなり満面の笑みでそう言った。

「ええ……いきなりなんですか?」
「聞きたいのか聞きたくないのか、はっきりしろよ」
「まあ、良い知らせっていうなら聞きたいですけど」

軽中度認識災害療養院。感染可能性がなく、しかし日常生活に支障をきたす可能性のある認識災害被災者が収容されるこの施設で、白鹿は三年前から療養生活を送っていた。きっかけはある異常芸術家の捕縛作戦。彼の作品の中に仕込まれた、認識災害の被害を受けたのだ。それ以来、彼は発作的に発生する幻覚と暴力衝動に悩まされ、復帰に失敗し、機動部隊員として不適格と判断された。

緑色のカーテンが揺らぎ、病室に新鮮な風が吹き込む。財団の施設なだけあって福祉の質は高く、ほぼ不自由のない生活が保障されていた。ただ元機動部隊員であった白鹿にとって、あまりにも安全な毎日は、それが単なる繰り返しだと気づいたときから、白いマーブル模様の壁紙のパターンのように退屈なものに成り下がってしまった。

「それがな、さっき別の奴が診察室で小耳に挟んだらしいんだが──」

やけに、目の前の男の口の動きがスローに見える。

熊原くまばらが治って、退院するって話だ」

息が止まり、抗うように心臓が一際大きく揺れたのを感じた。

「お、おい、どこ行くんだよ!」

いつのまにか男の声が後ろに置き去りになっている。患者たちの驚いた顔が後ろに流れ、追いすがろうとする職員は引き離されていく。白鹿は、無意識に走っていた。

景色が流れていく。長い廊下を走り抜け、個室エリアから診療エリアに入り、彼の目は医師と話す一人の長身の男を捉えた。熊原だ。彼は、異変に気付いて白鹿に視線を向ける。

白鹿は、そのまま職員の制止を振り切って、熊原の首に手をかけ、力を込めた。ギッと、息が詰まる音がしたが、なぜか熊原は抵抗しない。白鹿は額に血管を浮き上がらせながら、自分が締めているその首を見る。そうしてそこで突然、白鹿の意識は途絶えた。




「結論からいえば、死者はなし。負傷者も熊原さんだけで、それもちょっと痣が残った程度でした。熊原さんも特に白鹿さんの処分は求めていません。大事にならなくて本当によかったですねぇ」

目の前の男は、事件の概要を確認する間、一切笑みを崩さないままだった。白鹿がそれに面食らっていると、狩猪は気付いたように、「あっ」と声を漏らす。

「そういえば、飲み物を用意していませんでした。緑茶は飲めますかぁ?」
「いえ、お構いなく──」
「遠慮しないでください。いっぱいお話すると、のどが渇いちゃいますからねぇ。コーヒーもありますよぉ」
「……では、コーヒーで」
「それじゃあ、少しお待ちくださいねぇ」

狩猪はパッと立ち上がり、小走りで本棚の裏へと消えていった。ガチャガチャと忙しなく何かがぶつかる音がする。

白鹿はどこか他人事のように、事件のことを思い出していた。確かに、一つ一つの景色はなんとか思い出せる。だけども認識災害の影響だろうか、熊原の首を絞める直前の記憶はぼやけていて、しかも感情の記憶に関しては完全に抜け落ちている。そのせいで、事件を自分事のように感じることができないのだ。友人の首を絞めたにもかかわらず、罪の意識さえきちんと持てない現状が、白鹿にとってひどく気持ち悪かった。

しばらくすると、2つのカップを持って狩猪が戻ってきた。行きとは違って、足元を凝視しながらゆっくりと歩いてくる。そして慎重に、カップをテーブルに置く。

「ブラックでよかったですかぁ?」
「はい。それにしても──」

白鹿は狩猪の手前におかれたカップを見る。カップの中の緑茶には、大量の氷が浮かんでいた。

「そんなに入れて、薄まりませんか?」
「火傷するよりはましですからねぇ」

微笑む狩猪をじっと凝視しながら、白鹿はコーヒーを口元に運び、飲むふりをして、カップを置く。この男はどうにも信用ならないと、彼は感じていた。それは人としても、専門家の技量としても。狩猪のやったことといえば、今のところ、ただファイルにかかれている情報をおさらいしただけなのだから。それに、専門家がしてしかるべき質問も、いつまで経ってもしてこない。白鹿は、半分苛立ちながら尋ねる。

「あの、聞かないんですか」
「何をですか?」

狩猪は全く心当たりがないという風にきょとんとしている。

「いやだから、なんでそういうことをしたのかとか、そういう話ですよ。それを調べるのが、あなたの目的なんですよね」
「ええ。だから、その答えを探している最中です」
「それなら、直接私に聞けばいいじゃないですか。なんなら今から言いますよ──」

白鹿が息を吸い込むと、狩猪が口元に人差し指を立ててそれを制止する。

「発作で精神が錯乱したから──そういう答えは、私が求めているものではありませんねぇ」

心を読まれたようで一瞬息が詰まる。──いや、おそらく他のカウンセラーに語った内容を知っているだけだろう。白鹿はそう思いなおして、強気で問い返した。

「なぜですか。体験した本人がこう言っているんですよ」
「ええ。白鹿さんは、そう考えていますねぇ。ですが、あのとき認識災害の発作が出たという、はっきりとした記憶があるんでしょうか?」
「それは、ないですよ。だって錯乱してたんですから、まともな記憶なんてありません。でも、幻覚をみて錯乱したことは過去にもありますし、それはカルテを見ればわかりますよね? きちんと覚えていないというのが、発作がでたことの何よりの証拠じゃないですか」
「いいえ、違いますよ。発作でなくとも、人は、きちんと解釈できないものはきちんと覚えられないんです」
「何を言っているのかよく──」
「白鹿さん、安心してください。大丈夫ですよ。ゆっくり、一つずつ紐解いていきましょうねぇ」

ゆったりとした口調にペースを乱されて、いくつものカウンセリングで定型化した回答を、思うように話すことができない。白鹿の苛立ちは、いつの間にか焦りへと変わっていた。さらに質の悪いことに、自分でも何に焦っているのか、よくわからない。

「紐解くって、何をですか。私のことは一番私がよくわかってますよ!」

狩猪は静かに頷くだけだ。

「あなたは何も知らないでしょう!」

また、狩猪は黙って首を縦に振る。

「さっきから黙ってますけど、真面目に私の話聞いてます? 反論とかないんですか?」
「聞いていますよぉ。うーん、そうですねぇ──」

狩猪は表情も変えず、顎に手を当てて少し考えるそぶりをした。

「療養院は、乾燥が酷いですか?」
「はい?」

想像もしていなかった問いに、思わず素っ頓狂な声が漏れる。

「なんですか。話を逸らそうとしてるんですか?」
「ほら、ここですよ」

狩猪が控えめに自分の口元を指さす。さっと白鹿が自分の唇に触れると、それは酷くひび割れてざらつき、剥がれかけの薄皮が指に引っかかった。

「私も療養院には馴染みが深いですが、乾燥しているというイメージはないですねぇ」
「これは……」
「どうして、唇が荒れているんでしょう?」
「そんなこと、知りませんよ」
「おや」

実をいえば、唇が荒れているなど、白鹿は意識もしていなかった。それゆえ、白衣の男が小さく首を傾げると同時に、白鹿は自分が自分に対して無知であることを突きつけられる。

「……疲れじゃないですか? ここ連日、退屈な検査ばかりだったもので」
「なるほど、そうなんですねぇ。それはお疲れさまでしたぁ」

それから、ゆったりと狩猪は頭を下げる。

「ごめんなさいねぇ。こういう風に、私は白鹿さんのことを、まだ全然知らないんです。だから、教えてください。そして、一緒に、まだ知らない白鹿さんを探していきましょう」

黙っている白鹿に、頭を上げた狩猪が微笑みかける。

「さぁ、深呼吸をしましょうねぇ」

狩猪に勧められるまま、白鹿は大きく息を吸い込んだ。気にしていなかったコーヒーの香りが、一気に鼻腔になだれ込んでくる。白鹿はこの香りを、どこかで嗅いだことがあった。

「何か、思い出せますかぁ?」

白鹿は、こくりと頷く。

「これは、私の好きな豆です」
「そうでしたかぁ。それはラッキーでしたぁ」
「そうして、熊原の好きな豆でもありました。購買の、一番安い豆」
「おお、熊原さんとの共通点ですねぇ。カルテにはないお話です」

氷でいっぱいのカップがカランと涼しげな音を鳴らす。しかしそれが、白鹿には酷く遠くに響いて聞こえた。コーヒーの香りを起点に、熊原に関する記憶が、重い蓋を持ち上げて少しずつ湧出し始めていたから。

「熊原さんについて、よければ他の話も教えてくれますか?」

白鹿は乾いた喉を潤すため、ちょうどよく冷めたコーヒーを口に含んだ。




療養院にいる人間の多くは、半ばキャリアを諦めている。初期の記憶処理で影響を取り除けなかった場合、大抵認識災害とは長い付き合いになるからだ。明るい個室とは対照的に、療養院全体には鬱屈とした空気の澱みがあった。患者たちは、表向きは気丈に振舞い、復帰のためのトレーニングは欠かさない。しかし、一度静かな夜が訪れれば、嘘であることがわかりきった平穏の中で、過去を忘れるように柔らかいベッドにうずくまる毎日を過ごす。

そんな療養院が少しばかり活気に満ちるイベントが、新しい患者の入院だった。それは院に新しい風が吹き込むということでもあったし、なにより新参者の世話を焼くことで、患者たちは無力感を誤魔化すことができた。白鹿の入院から2年後、熊原が入院した際も、患者たちは熊原を盛大に歓迎した。一方で白鹿は、そんな地獄への歓迎会染みた習慣にも嫌気がさしていて、初日は顔さえ出さなかった。

2日目に食堂で見た熊原は、一言でいえば大きな男だった。もちろん長身だったし、肩幅も広く、短く切り揃えられた髪が力強く立ち上がっていて、まさに熊といった感じだ。快活でよく喋り、周囲にたかる患者たちと笑いあってちっとも食事が進んでいなかった。やがて彼は白鹿に気づき、軽く手を振る。白鹿はそれが見えなかったふりをして、食事を掻き込み、そそくさと食堂に後にした。

しかし広くはあるものの、限られた狭い施設内。いつまでも逃げられるわけではない。次の日はちょうど雨だった。いつもは外を走る白鹿だったが、雨の日に合羽を着てまで外に出る熱心さはない。白鹿は個室の窓が雨粒に叩かれるのを聞き、ため息を吐いてジャージに着替え、トレーニングルームへ向かう。

まだ朝の早い時間だったこともあるだろうか。トレーニングルームから物音はしない。白鹿は伸びをしてから扉を開き、すぐに「しまった」と後悔した。トレーニングルームでただ一人静かにストレッチをしている、熊原と目が合ったからだ。

「ああ、やっと会えましたね! 初めまして。新しく入ってきた、熊原です」

熊原は立ち上がって歩み寄り、手を差し出す。白鹿はその手を仕方なく取った。

「白鹿です。よろしく」

熊原の手は、かつての仲間たちと遜色ないほど力強く、そして大きく、恐らく何かしらの"力仕事"に従事していただろうことを容易に伺わせた。白鹿の手は彼の手の中にすっぽりと収まってしまう程度だったが、それでもその握力は、熊原に彼の出自を予想させるには十分だったようだ。

「もしかして、戦闘職ですか?」
「ええ、まあ。機動部隊に所属していました」
「おお、そうなんですね。私は保安部門だったんですよ。同じ戦闘職のよしみで、よろしくお願いしますね」
「ここは元戦闘職だらけですけど」
「まあ、そんなこといわないでくださいよ。ね?」

なるほど、彼の周りに人が集まる理由を、白鹿は理解できた気がした。意地の悪い拒絶をものともしない人懐っこい笑みに、相手の懐に飛び込む大胆さ。明確に人に好かれるタイプで、そして白鹿の苦手なタイプだ。

実際、新入りに集まる人々は時間の経過とともに減っていくのが常だったが、熊原の場合、そうはいかなかった。彼の周りには患者が絶えず、彼は常に引っ張りだこだった。おかげで白鹿は意図せずとも熊原と接さずに済んだのだが、雨の日の早朝のトレーニングルームだけでは、そうはいかない。あるとき、ランニングマシンで汗を流しながら、熊原が尋ねた。

「白鹿さん、この施設の人たち、なぜか暗い気がするんですよ」
「はあ、そうですか」
「なんでなんですかね。こんなに環境は良いのに」

白鹿は適当にあしらおうと思ったが、ふと彼の意地の悪い心が湧きたつのを感じた。熊原はまだ入院で間もないから、自分の未来に希望を持っているのだ。その儚い希望を、自分が取り去ってあげようと。

「もう、自分たちに役割はないからじゃないですか」
「そんなことないですよ! 退院すれば、また業務に戻れるって話ですし」
「退院する頃には、体のピークなんてとっくに過ぎてますよ。現場の勘だって失われる。何人か出てった人は知ってますが、今じゃ事務職です。ここに来る前はどこかの部隊のリーダーでしたがね」

熊原は小さく唸って、言葉を継がなかった。トレーニングルームには、黙々と二人の足音だけが響く。白鹿は一足先にマシンから降りて、体を拭き、部屋を出ていった。




「それで、落ち着くと思ったんですよ。熊原の陽気さも。いい加減うんざりでしたから」

吐き出すように白鹿は言った。いつの間にか、カップは空になっている。

「だけども、そうはいかなかった、ということですねぇ。コーヒー、もう一杯いかがです?」
「……お願いします」

次の日、少しは静かになっただろうと思って向かった食堂で白鹿が見たのは、一層熱意を湛えた表情の熊原だった。隣に座る患者たちの顔からも心なしか影が減って、世話をしてやろうという下卑た欲よりも、熊原に何かを求めるような視線があった。

それから熊原が始めたのはなんとも単純なことだった。退院後、戦闘職に戻れなくとも新しい在り方で活躍しようと、キャリア教育を受け始めたのだ。もちろん、今までも施設内では元々そういう試みは散々行われてきた。だけども、患者たちの戦闘職へ復帰したいという思いや、新しい職への不安もあって、定着してこなかったのだ。

だが、それを入院してばかりの好青年が始めたことに意味があった。まだ戻れる可能性の高い若者が、それでも今までの職に固執せず貪欲に未来を求める。その様子は、蔓延していた諦めの雰囲気を徐々に払拭していった。最初は斜に構えていた白鹿も、いつしか暇つぶし程度だが、キャリア形成のパンフレットを開いてみるようになっていた。

「次は、こちらもどうぞ」

戻ってきた狩猪は、コーヒーと一緒に、ガムシロップと角砂糖の瓶を持っている。

「ガムシロップ一つに、角砂糖一つでしたね?」
「先生、一体どこまで……」

狩猪は微笑んで、ブラックのコーヒーにガムシロップと角砂糖を一つずつ入れる。

「熊原さんの影響力は凄まじかったですねぇ。私も大変参考にさせていただきました。ただ、このままでは私の知っていることと、うまく結びつかないんです」
「知っていること、というのは?」
「白鹿さんと熊原さんは、とても仲が良かったと聞いています。それこそ、施設の中で、一番といっていいほど。ですが、今の話だとどうしてもお二人が仲よくなる姿が想像できませんねぇ。もしかして、何かきっかけが?」

狩猪は軽くステアしてから、カップを差し出す。白鹿はそれを口に運んだ。熱いが、それでもわかる甘さが、口の中から鼻腔にかけてを温める。熊原の好きな配分だ。彼はあの風体にもかかわらず、どちらかといえば甘党で、そう、寒い日のランニング終わりには決まってこれを飲んでいた。




熊原について一向にわからないことは、彼のランニングコースだった。晴れの日に彼がトレーニングルームに現れないことは確認済み。ということは、晴れの日は毎朝外で走り込んでいるのだろう。しかし、白鹿は外で一度も彼に出くわしたことがなかった。

白鹿がその答えを知ったのは、秋のある日。朝の冷え込みでいつもより早く目を覚ました彼は、二度寝する気にもならず、すぐジャージに着替えた。受付を通って外に出ると、寝起きでなんとなく熱っぽい瞼を、吹き付ける風が覚ましていく。ふと、少し遠くに、見慣れた広い背中が見えた。白鹿は良い機会だと思って、距離を空けながらその背中を追う。

やがて男は、施設の裏の林の中へと入って行った。フェンスの内側ではあるものの、虫が多く、誰も入らない場所だ。これなら普段会わないのも合点がいくと、白鹿は一人頷いた。

つけていることがバレないよう、足音をなるべく立てないようにしながら、白鹿は林道を進む。草が生えっぱなしになっていて、土も柔らかく、到底ランニングに向いているとは言えない。樹木で遮られた悪い視界の中を慎重に進むと、ふと足音が止まっていることに気が付いた。さらに進むと、大きな背中を丸めて、熊原が道中でうずくまっていた。

「ちょっと、大丈夫ですか!」

発作か何かかと思って駆け寄ると、熊原がザッと振り向いて立ち上がる。口を大きく開いて、心底驚いているようだった。

「あ、ああ。白鹿さんでしたか。大丈夫です。ちょっと疲れて休んでただけです」

彼は手を頭の後ろに回して笑った。

「それならいいですけど……」
「それより白鹿さん、なんでここに」

白鹿は言葉を詰まらせる。後をつけた、とはいいにくい。とはいえ、たまたまというには無理のある場所。言い訳を考えようと視線を下にやって、白鹿は一瞬固まった。

「うわっ」

地面を、大きなカマキリが歩いていた。白鹿の声で熊原も気づき、その場を飛び退く。カマキリはその衝撃に驚いて、草むらの中に戻って行った。二人の間に沈黙が流れ、ぷっと白鹿が噴き出す。

「もしかして、熊原さん、虫苦手なんですか?」
「ええ……白鹿さんも?」
「はい。実は大嫌いなんですよ」

白鹿の言葉を聞いて、熊原も笑いだす。施設に戻ると、二人は朝食を共にした。そのときにはじめて飲んだのが、ガムシロップと角砂糖が一つずつ入ったコーヒー。その日から二人は毎朝一緒に林道を走りはじめ、そしてすぐに互いを呼び捨てに呼ぶようになった。




「熊原と仲良くなってからは、より一層勉強に打ち込むようになりました。資格もいくつか取りましたし」

白鹿は早口でそう言った。語れば語るほど自分のことがわからなくなっていく。

「感謝こそすれ、恨むようなことはありませんでした。だから、自分でもあんなことをした理由がわからないんです。それこそ、発作が出た、としか」
「大丈夫ですよぉ。まだ焦らないでください」

狩猪は何かを書き込みながら、ゆっくりと緑茶か水かわからないほど薄まったカップを啜る。

「彼が虫嫌いだとわかったとき、どんな気持ちでしたか?」

質問によって、自分の中でぐるぐると巡る疑問が中断され、白鹿は幾分冷静になる。それから、ぽつりと答えた。

「高揚感があった、ような気がします」
「それはどうしてでしょう?」
「多分、全然違う人間だと思ってた熊原と、共通点が見つかったから、だと思います」
「なるほど、いいですねぇ。他には、どんな共通点がありましたか?」

白鹿は指を折りながら、熊原との会話を辿り、共通点を数えていく。

「私も熊原も、小さい頃犬を飼っていました。飼っていた犬の写真を見せあったこともあります」

それから、幼いころから運動が好きだったこと、今は動物全般が苦手なこと、作戦では先鋒を務めることが多かったこと──一つずつ声に出し、それを狩猪が書き留めていく。その繰り返しの内に、やがて白鹿は気付いた。

「──意外と、多いなあ」

狩猪が「そうですねぇ」と頷く。白鹿はこうして思い出を辿るうちに、ある一つの考えに行きついていた。

「あの、先生」
「どうしましたか?」
「私、熊原のことがやっぱり、憎かったのかもしれません」
「ほう」

狩猪は興味深そうに、もしくは楽しげに話す子供を見守る親のように、紡がれる言葉を待っている。

「私と熊原は、結構似ていたんです。それなのに、私は治らなかった。もちろん、経歴が似ていたからって、全然違う認識災害に暴露したんだから、そこに差があるのは当然なんです。だけど──」

白鹿は、自分の記憶の空白を埋めるように、あったかもしれない心の動きを推測していく。

「部隊に戻れなくても他に居場所があるって、そういっていた本人がのうのうと自分が居た場所に戻っていく。彼の言葉に勇気づけられていたからこそ、彼が治って戻っていくことを、裏切りのように感じたかもしれません。だから、彼を引き留めるために首を絞めた──のだと、思います」

良い知らせと前置きされた内容は、白鹿にとってこの上なく悪い、裏切りの知らせだったのかもしれない。語り切った白鹿が伺うように狩猪を見ると、彼は小さく手を叩いた。

「素晴らしいですねぇ。考えることをやめず、自分の心と向き合えています。よく頑張りましたねぇ」

狩猪は満足そうに白鹿を褒める。ただ、これは白鹿の欲しい言葉ではなかった。

「あの、先生」
「はい?」
「これで、あってるんでしょうか」

自分の予想が、本当に正しいのか。白鹿にとってそれはわからない。ただ、欲しい答えに近付いている感触だけはあり、しかしそのための歩みは一歩一歩が重く辛かった。だから一刻も早い答え合わせを白鹿は求めている。

「そうかもしれませんねぇ」
「そんな、そんな適当な」

縋るような白鹿の表情に、狩猪は変わらない笑みを投げかける。

「適当じゃあありませんよぉ。自分がそのときどういう感情だったのか、人は常に後からそれを解釈して生きています。白鹿さんは今のお話を、正しいとすることもできるし、正しくないとすることもできる。ちょうど、先ほどまでの白鹿さんが、事件の原因を発作だと、当時心なんてまともに働いていなかったと、信じて疑わなかったように。過去の心は、今の白鹿さん自身が作るんです」

白鹿はこの部屋に入ってきたときを思い出す。狩猪の言う通り、あのときの自分にとって、「発作がおこった」ということが現実であり、それを疑いもしなかった。疑わないようにしていた。だが、今は違う。過去の自分が何を思ったか、そこに目を向けて、思い込みを疑って、かつての自分を取りこぼさないようにし、新たな可能性を発見した。

「過去の心は、今の私が作る」
「はい。だから、必要なのは向き合うことをやめないことですよぉ。私は、そのお手伝いをするのが仕事です」

じっと、空になったカップの中身を見つめる。漂う香りが、残った黒い雫が、ここにかつてコーヒーがあったことを教える。狩猪の手元にある空になったガムシロップの容器が、それが甘かったことを伝える。

「白鹿さん、今日は頑張って色々思い出して、疲れましたねぇ。続きはまた明日やりましょうかぁ」
「あ……はい」

実際、白鹿の頭は普段しないやり方で酷使され、限界が近かった。あとで時間の連絡をするとだけ伝えられ、彼は部屋を出る。そうして彼は、そのまま個室のベッドに転がって、深い眠りに落ちた。




「お疲れさまでしたぁ」

白鹿の背中へかけた労いの言葉に返事はなかった。無視しているというよりも、耳に入っていないようだ。彼がオフィスを出るのと入れ違いで、紙束を抱えた研究員が入ってくる。

「狩猪博士、実験の結果です。あと、頼まれた映像記録と画像資料はクラウドで共有しておきました」
「おやぁ、ありがとうございます」

狩猪は受け取った紙束をぺらぺらと捲っていく。

「まぁ、おおむね予想通りって感じですねぇ」
「はい。それにしても……」

研究員は背後の扉を振り返った。

「さっきすれ違った方、例の患者さんですよね?」
「ええ。ちょうど面談終わりで」
「かなり疲れているようですが、大丈夫なんですか?」
「ちゃんと倫理委員会には計画通してますし、問題ないと思いますよぉ」
「ならいいんですが……ただあそこまで疲労するなんて、一体何を?」

狩猪は紙束を整理して、一枚一枚ファイルに綴じていく。

「あなたは、臨床の方が専門でしたっけ?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、大変ですねぇ。言葉の解釈というのは」
「はい。クライアントさんのお話を聞くときも、こちらからお話しするときも。些細な言葉遣いが、いや、同じ言葉でさえ、大きな解釈の違いを生んで、信頼に亀裂が入ってしまうこともあります」
「彼がやっているのは、そういうことなんです。過去の自分が残した言葉を拾い集めて、解釈をしていく。大変な作業ですよ。人はすぐ楽な方に、そして自分にとって都合のいい解釈に逃げますからねぇ」
「はぁ」
「はは、婉曲的な言い方でごめんなさいねぇ。論文にするときに、もう一回説明しますから」

研究員は、いまいち腑に落ちないといった表情のまま部屋を出ていく。やっと一人になったオフィスで、狩猪は眼鏡をはずし、椅子に深く身を預けた。机に置かれた眼鏡は、レンズに刻まれた翅脈のような模様を机に投影している。

「白鹿さんは、何を選びますかねぇ」




郊外にある木造の寂れた小屋。内側から明かりが漏れていて、そのわずかな光を避けるように、白鹿を含む隊員たちは小屋を取り囲んでいた。隊長が準備の完了を確認し、突入の指示を出す。瞬間、静寂は破られ、隊員たちが小屋の中に一斉に飛び込んだ。窓が割れる音、床が軋む音が響く。

作戦の目標は異常芸術家の確保。隊員たちは認識災害対策の装備を着用し、準備に抜かりはないはずだった。しかし、白鹿は突入の直後に黒い空白を目にした瞬間、強烈な頭痛を覚える。それと同時に、突然周囲に見知らぬ人間が現れ、彼に向かって近づこうとし、そして何かを叫んでいた。意識がもうろうとする中で、白鹿はそれらを一体ずつ破壊していく。敵は次から次へと現れ、際限がない。一方で、どんどんと意識は薄れ、やがて白鹿はその場に倒れ込み──

「──はっ」

暗い個室の中で、白鹿は目を覚ます。強く噛み締めたのか、唇には血が滲んでいた。夢に現れたのは、自分が認識災害に暴露したときの景色。記憶処理のせいか、ベクターとなった作品の姿は思い出せないが、その後の展開は明確に覚えている。白鹿が目を覚ましたのはサイトのベッドの上で、自分が半狂乱のまま、対象を殺害したことを知った。つまり、作戦は失敗。事情が事情なだけに処分は下されなかったが、それから白鹿は、認識災害の影響に苦しめられることになる。

最初のひと月は特に酷かった。自分を取り囲むように人間の幻覚が現れ、それらは白鹿を罵倒しながら近づいてくる。そうしてそのたびに、それが幻影だとわかっていながら、それを殺す衝動を抑えられなかった。発作が出るたびに、周囲の備品は壊れ、酷いときには他人も傷つけそうになった。白鹿は半ば軟禁に近い状態で療養所に閉じ込められ、一日の長い時間を拘束されて過ごした。

やがて症状もかなり落ち着き、白鹿は任務に復帰する。しかし、さらなる失敗の後、彼は再びその任を解かれた。具体的に言えば、リハビリ代わりの軽い任務にも関わらず、確保対象を前にすると幻影の発作が起きて、対象を殺しかけたのだ。こうして、彼は療養院へと移ることになった。この場所では、月に一度程度の発作はあるものの、比較的穏やかに暮らせている。

白鹿は電気をつけ、手近にあったタオルで額の汗を拭った。まだ眠たかったが、動悸が酷く、二度寝できるような状態ではない。幸い、外出可能時間ではある。頭を冷やすため、手早くジャージへと着替え、白鹿は林道へ向かった。




「やっぱり、違うと思うんです。私は、熊原を恨んでなんていない」

白鹿は開口一番、昨日苦労して辿り着いた答えを一蹴した。

「どうして、そう思ったんですか?」

一方の狩猪も驚く素振りは見せず、ゆったりとした口調で尋ねる。

「何度考えても、今の気持ちをよく考えてみても、私は熊原のことを嫌いになんてなっていないんです。確かに、多少羨ましいとは思いますが──むしろ、許してくれるのであれば、また一緒に飯を食いたいと思っています」
「わかりました。それじゃあ、別の答えを探してみましょうねぇ」

昨日と同じように、狩猪は氷のたっぷり入った緑茶と、コーヒーを運んできた。白鹿はコーヒーを受け取ってブラックのまま口をつける。

「今日は、白鹿さんの症状の確認から始めましょう」

狩猪はファイルをぺらぺらと捲っていく。

「かなり戻れば、そもそも白鹿さんは、認識災害に暴露する以前に、抑鬱の診断が出ていますねぇ」

白鹿は頷く。機動部隊に配属されてしばらく経った頃から、少しずつ彼は精神がすり減っていくのを感じていた。日常で楽しめることが減り、食事もあまり美味しく感じなくなっていった。

「先鋒を務める関係で、どうしても相手の人間を殺してしまう機会が多かったんです。そのときの医者は、それが原因だと」
「そうですねぇ。訓練された軍人の中にも、いざ人を目の前にすると撃てない人が大勢います。例えそれが、殺さなければ殺されるような状況であっても、です。人は普通、人を殺せません。殺すことがストレスになるというのは、当たり前のことです」
「同じような説明を受けました。実際、標的を殺すときに、胸がざわくような、そんな感じもありました。ただ、その話を聞いたからと言って、一向に良くはなりませんでしたが」
「ですが、認識災害を受けて以降、抑鬱傾向は改善しているようですね」
「任務から離れたのが大きかったのかもしれません」

狩猪はペンを取り、メモ帳に情報を書き込んでいく。

「つまり、白鹿さんは、人を殺すことにストレスを感じていた。そして、そこから解放されて、抑鬱が改善された。そういうことですねぇ」
「はい。そうだと思います」

よくある事例だと、かつて医者は言った。白鹿もその言が嘘だとは思わない。紋切り型の診断は、向き合うことでなく逃げることでしか彼の暗がりを解決できなかったが、漠然とした解放感は確かに感じている。

「では次に、認識災害の方のお話に移りましょうかぁ。認識災害では、どんな症状がありますか?」
「まず、幻覚です。人や動物が周りに現れて、私を罵倒したり、襲ったり……」
「最初に見た幻覚は人だけ、という風に記録には書いてありますねぇ。いつ頃から動物の幻覚も見るようになりましたか?」
「大体療養院に入ったころからかと」
「衝動の方は?」
「幻覚が出ているときは、幻覚で現れたものを殺さないとという気がして、それに逆らうことができないんです。それに、日頃から衝動の方だけが出ることもあります。そういうときは、あまり強くないので、抑えられますが」
「現在もこういった症状は続いていますか?」
「頻度は下がりましたが、そうです」

療養院に入ってからは、頻度の低下に加えて、幻覚とそうでないものを見分けることができるようになった。症状への理解が深まったこともあるし、あまり変化しない環境もそれを容易にしているのだろう。おかげで発作のときは、正気を失う前にすぐ職員を呼び出し、周りになるべく迷惑をかけずにすむ──はずだった。しかし、今回の事件が発作のせいだとすれば、症状との付き合いはまだまだ不安定で、そしてこれからも長く続くだろう。

一連の"復習"を終えて、狩猪は開いていたファイルを閉じる。

「ちゃんとご自身の症状を理解できていますねぇ。特に記録との不整合はありませんでした」
「でも、それがわかっていても、私はこの通り、大切なことはわからないままです。どうしてあんなことをしたのか──どうして祝うべき親友の首を絞めたりしたのか」
「それらしく説明できることから、新しい説明を取り出すのはいつだって難しいものです。だけども、大丈夫ですよぉ。ちゃんと私がお手伝いしますからねぇ」

白鹿は目を瞑って、深く息を吐いた。目の前の研究者の間延びした声は、いつしか彼に安堵を与えるようになっている。むしろ彼は、そこに安堵を求めている。

「白鹿さんのお話で、二つ、気になるところがあるんです。一つずつ、確かめていきましょう」

白鹿が頷くのを確認して、狩猪はゆっくりと続ける。

「最初は、動物のお話です。動物全般が苦手だということですが、それはいつ頃からですか?」
「具体的には覚えていません。ただ、財団に入った後だとは思います」

ヴェールの内側で生きているうちは、動物を恐れることなんてなかった。暇つぶしにテナントのペットショップを訪れることもあったし、金が貯まれば何かしらペットでも飼おうかと考えていたほどだ。

「なるほど。それでは、犬についてはどう思っていますか?」
「犬、ですか」
「昨日の面談で白鹿さんは、熊原さんと昔飼っていた犬の写真を見せあった、ということを教えてくれました。だけども、嫌いなものを見せあうというのは、ちょっと変ですよねぇ」

確かに。白鹿はハッとして、そのときのことを思い出す。スマートフォンに映し出されたドーベルマンを彼は恐れただろうか? 否、そんなことはなかったはずだ。会話が楽しかったからではなく、今その写真を思い出したとしても、そこに嫌悪感はない。だけども、テレビ番組で走り回る小さなチワワが、これ以上なく、それこそ今思い出しても、不快に感じることもあった。

「苦手な犬と、そうでない犬がいる気がします。どこに差があるかは、ちょっと……」
「それでは、一緒に探してみましょうか」

狩猪は突然立ち上がり、本棚の向こうからB5サイズの膨らんだ茶封筒を持って戻ってきた。狩猪はそこから写真を一枚取り出し、白鹿の前に置く。

「見覚えのある写真かもしれませんねぇ」

そこに写っているのは一匹のマルチーズだった。狩猪の言う通り、白鹿はこの写真に見覚えがある。今まで散々受けてきた検査で使われていた写真だった。次から次へと現れる写真を、あらかじめ指示されたカテゴリに分類する、退屈なテストだったことを覚えている。

「この犬は平気ですか? それとも嫌ですか? 直感的でいいですよぉ」

舌を出してカメラ目線で写る愛らしく白い犬に、特に嫌悪感は覚えない。

「平気です」
「それではこれは?」

そういうと狩猪はその写真を右側に寄せて、封筒からまた別の犬の写真を出し、同じ質問をした。白鹿がそれを不快だというと、その写真は左側に寄せて、また新しい写真を取り出す。そんなことを繰り返すうちに、封筒の膨らみはなくなって、代わりに左右に犬の写真の山ができた。

「嫌いなものを見せてごめんなさいねぇ。なにか、気付いたことはありましたか?」

白鹿は右側の写真を手に取りしばらく眺め、それから今度は目を細めながら左の山を眺める。犬種も色も、写る角度もバラバラだ。重要なのは犬自体ではない? そうだとしたら何が──

「あっ」

声を漏らし、白鹿は右側の山をバラバラに崩して、その一枚一枚を指で辿る。彼の指が追っている点は、犬の首。

「首輪だ──首輪です。首輪があれば、平気です」

左側の山、彼が拒絶した写真は、反対にどの犬にも首輪をつけていなかった。狩猪は白鹿の言葉を聞いて、満足げに頷く。

「素晴らしい気付きですねぇ」
「先生は、知ってたんですか」
「そういうデータは持っていましたねぇ。検査のたびに犬に対しておかしな反応が出るので、調べていたんです。だけども、それがどういう意味を持つかは、私にはわかりません」

どういう意味を持つか。白鹿は、狩猪の言葉を反芻する。

「白鹿さんが、決めるんです。だから、もう一つ、あの検査から得られたデータをご紹介しますねぇ」

ここでも、自分のことを、自分で見つけなければいけない。自分の声を、自分で聞かなければ。

「この検査は、白鹿さんの中で、どんなものの結びつきが強いかを調べるものでした。不快感とは別に、実はもう一つ、首輪のない犬と強く結びついていたものがあります」

白鹿は静かに、続く言葉を待った。その貪欲な様は獲物を待ち構える飢えた獣のようであり、故に、その視線は助けを乞う祈り手に似た。彼に、狩猪は調子を変えずに告げる。

「それはあなた、白鹿さん自身ですよぉ」




鮮血が飛び散って、暗闇の中でその色彩を失う。続いて叫び声。影から飛び出した目のない犬が、目の前で同僚の腕を食いちぎった。ニッソから逃げた被検体だった。

異常現象に巻き込まれ、ぐちゃぐちゃになって打ち棄てられた子供の死体。その周りに猫が集って、その肉をざらついた舌で舐めとっていた。その子供に飼われていた猫だった。

点滅する電灯。悲鳴の代わりに残された血溜まり。壁を這いずり回る蜥蜴。開いた檻──

「白鹿さん、落ち着いてください」

柔らかな声色で我に返り、目を開ける。額には汗がにじんでいた。狩猪はいつの間にか眼鏡をはずして、じっと白鹿を見ている。

「少しずつ、近づいているみたいですねぇ。何が分かったか、教えてくれますか?」

白鹿は深呼吸して、再び目の前の犬の写真に目を遣る。過去の記憶と、この写真たちが、自分に語りかけてくる。

「獣が、恐ろしいんです」
「獣、ですか」

反復しながら、狩猪は白鹿の言葉をメモ帳に書き留めていく。

「獣は人ではありません。人の手から逃げて、理性の支配から外れた獣は、いとも容易くあらゆるものを害します。周囲のものを、大切なものを」

理の届かない場所で、獣たちは牙を剥き、理不尽に全てを壊していく。財団はそれを必死に収容室に閉じ込めようとするが、全てが上手く行くわけではない。白鹿が財団に入ってから目にしてきたのは、そういう類の無数の悲劇だった。

「だから、私は首輪をしていない犬が怖い。それは、支配を逃れた獣だから」

例えそれが小さく、一見可愛らしいものでも。それは人の世界の外にあって、予想も及ばず、だから恐ろしい。

「でも、わからないんです。どうして私が、首輪のない犬と私を結びつけるのか」

カップは空。カフェインの影響か、白鹿は自分の体内が不快に熱を持っているのを感じていた。

「大丈夫ですよぉ。一度この話から離れて、別のところを確認しましょう」

そういうと狩猪は立ち上がり、白鹿の前におかれたカップを手に取る。

「新しいの淹れますよぉ。ブラックでいいですか?」

白鹿が首肯すると、狩猪は本棚の奥に消え、やがて湯気を立てるカップを片手に持って戻ってきた。その脇にはノートパソコンが抱えられている。狩猪はカップを白鹿の前に置いて、椅子に深く腰掛けた。まだ熱いコーヒーからは絶えず湯気が立ち上っていて、液面を覗こうとする白鹿の視線を遮る。

「白鹿さんは人を殺すことのストレスで抑鬱になった、ということでしたねぇ」
「そう、医者に言われました」
「でもそれだとちょっと、おかしなことになっちゃいます。認識災害に暴露した後、抑鬱が改善したことの説明がつきませんよぉ」
「それは、現場から離れたから──」
「とはいえ、幻覚の中で人を殺していたんですよねぇ? 幻覚かそうでないかの区別がつくようになったのは、療養院に入ってからだということですし」

狩猪のいうことは、荒唐無稽にも、一方で合理的にも聞こえた。幻覚と現実の違いがどこまであるのか、自分がどこまで現実と幻覚を混同していたのか、実際に幻覚を殺す際に、どう感じていたのか。白鹿はそれらに対して、すぐに答えを用意することができない。彼の沈黙に、狩猪は小さな笑いで応えた。

「はは、ちょっと意地悪な質問の仕方だったかもしれませんねぇ。ごめんなさい。でも、ここは重要な部分ですよぉ。白鹿さんだって、いくら機動部隊員とはいえ、毎月人を殺していたわけではないですよね? だけども、資料を見ると、比較的平和な期間にも抑鬱のスコアは下がっていません。それが認識災害にかかった途端、なぜか下がった。これは不思議な現象です。もしかすると、白鹿さんの心の負担になっていたのは、もっと別のことだったかもしれませんねぇ」
「単純に、認識災害にそういった効果が含まれていたとは考えられないんですか?」

口に出してから、「そんなおかしな話があるものか」と白鹿は思いなおす。訳のわからない異常芸術家が、敵意剥き出しの幻覚を見せる作品を作っておいて、精神を安定させる効果を仕込んでいるなど訳が分からない。

「よい推測ですねぇ。では、後ろを向いてください」

白鹿の逡巡を知ってか知らずか、狩猪がリモコンで部屋の照明を消して、パソコンを操作すると、作動音が響いてスクリーンが降りてきた。やがてそこに、青い光が投射され、幾度かのノイズのあと、映像が始まる。

「……これは?」
「白鹿さんが暴露したアイテムの実験記録ですよぉ」




スクリーンに映し出されたのは、簡素な布団が敷かれているだけの無機質な部屋。部屋の中央には、オレンジ色のつなぎを着た男が座っている。Dクラス職員だ。彼はしばらく退屈そうにあたりを見回したり、指をいじったりしていたが、あるとき突然立ち上がって、扉の方に走り出す。

彼は何度も、後ろを振り返りながら扉を叩いているようだった。だけども。部屋の中には彼以外誰もいない。おそらく、幻覚を見ているのだろう。彼は虚空に向かって叫び、扉が開かないことを悟ると、部屋の隅まで走って行って、頭を抱えてうずくまってしまった。

「次の映像も見てみましょう」

狩猪がパソコンを操作すると、また別の映像が流れる。人は違うが、彼も幻覚を見て壁際に逃げ、部屋の中央へ一心に何かを叫び続ける。それからまたいくつかの映像が流れたが、起こることは概ね同じだった。彼らは一様に怯え、逃げまどい、どこかに固まって幻覚が消えるまで動かなくなってしまう。

スクリーンに再び青い光が投射されると、白鹿は狩猪に向き直って、ずっと抱えていた違和感を吐き出した。

「これ、本当に私と同じアイテムの記録なんですか?」

狩猪は頷く。確かに、幻覚を見て、そしてそれが恐らく敵対的なものであることは自分と共通している。しかし──

「何か、白鹿さんの想像と違っていたようですねぇ」

狩猪はいつの間にか眼鏡をかけなおしていた。それは、青い光を受けてその網目状のパターンをより鮮明に浮かび上がらせている。それが不気味で、白鹿は目を逸らした。

「彼らは、Dクラスは、幻覚を殺さない──」
「そうですねぇ。攻撃的行動に走った例は、ほとんどありませんでした。人以外の幻覚が出る例も」
「そんなの、おかしいですよ。私はこんなに、その衝動のせいで、苦しんでいるのに」

次から次へとわからないことが増えていく。疑念が頭を埋めていく。目の前の狩猪は、ただ微笑むだけだ。

「先生、教えてくださいよ。私は、これ以上──」
「頑張って、思い出しましょう」
「思い出すって、何を」
「白鹿さんが、忘れなければいけなかったことですよぉ」

突然部屋が真っ暗になる。プロジェクターが省電力モードに入ったのだ。何も見えない中で、一瞬、林道の風景がフラッシュバックする。

「振り返った熊原さんは、どんな表情でしたか」

林道の途中でうずくまった熊原。彼が驚いた表情を作る前に、一瞬見せた顔。今まで彼が他人に見せたことがない表情。口角が歪に上がった、優越感に満ちた笑み。頭の中で響く狩猪の問いに答えるように、記憶の解像度が増していく。いや、もともと覚えていたのだ。白鹿は、それを忘れたふりをしなければいけなかった。

「カマキリは、本当に茂みへと帰っていきましたか」

足元に落ちていたカマキリは、熊原が咄嗟に隠そうとしたそれは、動くことなんてできなかった。足と、その大きな鎌をもがれ、地面の上でもがくのが精一杯だったのだから。白鹿はそれを、そのぷっくりと膨らんだ腹を、踏みつぶした。熊原は、笑った。白鹿も、笑った。

「相手を殺すとき、あなたは何を感じていますか」

殺すことに躊躇いなんてない。ストレスなんて感じない。むしろ──

再び照明が灯る。白い光が照らし出された彼は、照明が落ちる前よりも、落ち着いた様子だった。

「先生、私は、首輪の外れかけた獣だったんです」

狩猪は微笑みながら頷いて、白鹿の言葉を変わらない調子で受け止める。

「人を、生き物を殺すと、胸がざわつくのを感じていました。でもあれは、恐怖なんかじゃなかったんです。高揚です。だけどそれは、人としておかしいじゃないですか。私はとっくに、人じゃなかった。でも、人でありたかった。だから必死に人であろうとした。そしてそれがずっと苦しかった」

白鹿は、自分さえ理解することを拒んでいた苦しみを捉えた。自らの獣性という認められない現実が原因であるがために、取り除くこともできず、輪郭を描くことも叶わず、発生源不明の毒ガスのように自分自身を蝕み続けた苦しみ。

「鬱がよくなったのは、自分の攻撃性を、認識災害のせいにできたからだと思います。だけども異常のせいで時折その枠を外れてしまうだけで、本質的な私は人なんだと思うことができたから」

白鹿はカップを覗き込む。視界を遮っていた湯気が晴れて、真っ黒な液面には歪んだ自分の顔が映っていた。

「それでも時折自分の本性に気づいて、そのたびに幻覚や錯乱を言い訳に、それを忘れようとしたんです」

苦しみから逃れるために取った手は、自分を騙すことだった。それは、ガンの発熱を誤魔化すためにわざわざ風邪にかかるようなものだ。このままではいつか限界が来て、きっと、周囲を傷つける結果になるだろう。だが、発熱の原因がガンだとわかったところで、どうすればいいというのだろう?

言葉に詰まった彼に助けを出すように、ここまでじっと話を聞いていた狩猪が問う。

「どうして、熊原さんの首を絞めたのですか?」

そうだ。どうして、あんな事件を起こしたのか。それがこの面談の本題だった。白鹿は、もう一度事件の日の記憶を辿る。自分でも目を逸らしたくなるようなピースが、今度こそ記憶の隙間にぴったりと収まっていく。そうして、一つの絵図を完成させた。

「きっと、可哀想だと思ったんです」

今考えれば、思い上がった感情。だけどもこれは言い訳ではなく、きっと咄嗟に、本気でそう思ったのだ。

「熊原は、私と同じでした。人になれない獣でした。でも獣は、人の世界では生きていけません。だから、どうにかしてあの場所に留めてあげたかった」

きっと熊原も、自身の本性が人の社会に認められるものではないことを、明確に受け入れていたわけではない。だが林道の一件で、白鹿と熊原は互いが同類であることを理解し、少々歪に通じ合うことができた。認識災害の影響という建前が、お互いがお互いの獣性を見透かしながら、それでいて自身の獣性には鈍感であるという特殊な状況を可能にしていたからだ。彼は本質的に獣だが、私はあくまで仮初めの獣にすぎないのだと、お互いがそう思っていた。

「でも、彼の首に巻き付いた自分の手を見たとき、それを受け入れ、抵抗しない彼を見たとき、私は──」

熊原は首を絞められながら、じっと白鹿を見ていた。もちろん、苦しかっただろう。それでも何かを伝えようと、苦しさを堪えて、白鹿から目を逸らさなかった。

「彼は飼われる覚悟ができたとわかったんです。それで、力が抜けて──」

彼は自分自身で、自身の本質を見つめ直し、新しい生き方を白鹿に示そうとしていた。それは、今白鹿が実感しているように、苦しい道のりだったに違いない。だけども。

「ああ、どうしてこんな大切なことを、忘れていたんだろう」

当の白鹿は、結局自分の安全を守るため、欺瞞に閉じこもるために、彼の伝えたことを忘れて逃げてしまった。

白鹿は手を目に当て、細かく肩を震わせる。漏れ出た涙が手を伝って、静かに袖を濡らしていた。




白鹿が落ち着き、二、三言葉を交わした後、狩猪はゆっくりと頭を下げる。

「これで、研究の方は終了です。研究へのご協力、ありがとうございましたぁ」
「こちらこそ、ありがとうございます。やっと、自分が見えた気がします」

久しぶりに泣いたこともあってか、白鹿の感情は幾分晴れやかになっていた。しかし、ここまでの面談でしてきたことは、自分がどんな人間だったかを読み解くことだった。これからどんな人間になるべきかは、何も決まっていない。

「でも、これからどうすればいいか──」

不安げな表情を見せる白鹿に、狩猪はファイルから一枚の紙を取り出した。

「これは白鹿さんにとって、良い知らせか悪い知らせかわかりませんが」

彼が差し出した紙には、数字や細かい文字が並んでいる。名前の欄には白鹿の名前が印字されているのをみて、彼はこれが今まで受けてきた検査の結果であることを察した。

「白鹿さんに、もう認識災害の影響は残っていません。検査の結果は、完全に正常ですねぇ」

狩猪の指さす部分には、他よりもほんの少しだけ大きな文字で「正常値」と書かれている。それは、白鹿がもはや認識災害という言い訳を使わずに、自分と向き合わなければいけないことを意味する。彼は、小さく息を吐きだした。

「なんとなく、そうだろうなと思っていました。幻覚も、きっと自分が見ていたいから、異常と関係なく、自分を守るために心が作り出していたんだと思います」

狩猪は何も言わないが、もしかすると異常がなくなったのはここ最近の話ではなく、ずっと前のことだったのかもしれない。それこそ、動物の幻覚を見始めたあたりから。きっと、施設の周りにいる小動物への攻撃衝動を正当化するために、そのころからすでに巧妙な自己欺瞞は始まっていたのだろう。

「私が研究部門としてお伝えできることはここまでですねぇ」
「……そうですか。いえ、なんでもありません。繰り返しになりますが、今までありがとうございました」

再び頭を下げようとする白鹿に、珍しく狩猪が驚いたような表情を見せて、笑いを零す。

「はは、忘れちゃったんですか、私には名乗れる役職がいくつかあるんですよぉ。希望されるなら、今後も面談は続けますから」

狩猪は胸ポケットから二つ名刺入れを取り出し、そこから一枚ずつをキョトンとしている白鹿の目の前に置く。

「ただ、これからどうするか、選択肢が二つあります」

最初に狩猪が指さしたのは、左側の名刺。

「これは、医療部門の名刺。殺害への欲求や攻撃性は、一般的な健康状態と照らして考えると、一種の認知の歪みや、パーソナリティの課題と捉えることができます。つまり、時間はかかりますが、治せる可能性があるということですねぇ」

それから、「こちらはあまりお勧めしませんが」と前置きして、右側を指さす。

「対話部門としての名刺です。この部門の立場では、白鹿さんの症状は確かに病的な部分もありますが、財団としては正常性の一部であるとみなします。認識災害の影響もありませんから。どちらかというと、攻撃性を戦闘職に活かすように考え方を調整するという流れになると思いますねぇ。一般的な健康からは、かけ離れてしまいますけど」

狩猪はじっと静かに口を結び、珍しく笑顔を消して真剣に答えを待っている。白鹿は深呼吸をして、手を伸ばした。

「こっちで、お願いします」

白鹿は右の名刺を手に取って、狩猪へ差し出す。熊原はきっと、例え飼われてでも自分を活かして、前へ進む道を選ぶから。それに、獣であることは、熊原との大切な共通点の一つだ。

狩猪はじっと白鹿の目を見つめてから、微笑んで名刺を受け取る。そして、本棚の奥から何か小さな箱を持ってきた。

「受け取って欲しいものがあるんですよぉ」

包装もされていない、無骨な白い箱。恐る恐る開けると、中には黒いチョーカーが入っていた。意図不明の贈り物に混乱していると、狩猪が説明を付け足す。

「熊原さんからです。『これでお揃い』、だそうですよぉ」

白鹿は思わず吹き出した。つまり、首に残した痣の代償として、これをつけろという本人からのお達しらしい。さっそく、箱から取り出して首に巻く。慣れない感覚だが、妙に心地よかった。

「今度こそ、今日の面談はこれでおしまいです。お疲れさまでしたぁ」

「ありがとうございました」と返し、白鹿は出口へと向かう。退出の直前、扉の前で彼は振り返った。

「先生はさっき、私が正常であることが、つまり、私が言い訳をなくしてしまうことが、悪い知らせか良い知らせかわからないと、そうおっしゃいましたよね」
「はい、そうですねぇ」
「私も、今はわかりません」

今日で得たものは大きいが、まだ自分を見つめなおす方法を理解しただけだ。あくまでここはスタートライン。ここからどう転ぶかはわからない。

「だけど、後から良い知らせだったと思えるように、頑張りますよ。それを決められるのは、未来の私だけですから」

これからずっと今日のようなことを繰り返し、自分を知り、そして自分で自分に胸を張れるようにならなければいけない。

「そのために、先生、これからもよろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いしますねぇ」

扉を開け、一歩廊下へ踏み出す。廊下の窓から差し込む光が、外の暖かさを伝える。白鹿は、歩きやすいリノリウムの床を抜けて、草の生い茂る林道を目指した。

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