「こんばんは。こんなところで何をなさっているんですか?」
呼びかけたのは鈴を振るような声だった。蹲っていた男は、肩を震わせて振り向く。
月明かりさえ影ばかりを落とす閑静な路地裏で、街灯の光も届かぬ塀の傍に、彼女は佇んでいた。
「ここは良い所ですね。人も灯りも少なくて。隠れて何かを為すには、とても良い」
月光のように白い肌に、闇よりも黒い髪が、さらさらと靡いていた。
黒いセーラー服を纏ったその少女は、男の体越しに、彼が地面に描きつけている絵を眺めやっていた。
「……でも交通安全を妨げて明らかに邪魔ですし、一般人を巻き込むのは感心しません」
その言葉に、男は激しい怒りを覚えた。この絵は恋文にも等しい、男の想いの集大成だ。それを貶されるなど我慢ならない。
そもそもここは、彼が入念に人通りを調査して定めた地点だ。この少女が偶然訪れたものだとは考えられない。
「……てめぇ、どうやってここに現れた!!」
「夏の即売会の本がこんな感じでしたので。服も可愛いんですけど、またライブしていただく必要があるのかも」
少女は華やかな笑みを浮かべると、スカートを摘んでくるりと回って見せた。
男はニーハイソックスの太股に巧妙に隠されたガーターベルトと、そこに留められている大振りの包丁を見逃さなかった。
「てめぇふざけたナリして、財団のエージェントだな!?」
「財団のエージェント……?」
男が財団のサイトを去ってから数年は経つ。この少女は恐らく、その間に雇用された若手エージェントだろう。
少女は一瞬とぼけたような表情を見せたが、それはすぐに意味深な笑みに変わる。
「その認識、ちょっと嬉しいです。こんな行動に及んでも、まだあなたは財団職員――」
男はその瞬間、跳び退りながら素早くクラスA記憶処理剤を取り出し、微笑む少女へ噴霧していた。
猛烈な噴射音と共に、辺りに濃厚なゾルが立ち込める。男が事件の度に数々の追跡を振り切って来た手法だ。
しかし、その霧は即座に十字に切り裂かれる。
薄れゆく霧の中から、少女は包丁を手に微笑んだまま、ゆっくりと男の方に歩み寄って来ていた。
「な、なんで記憶処理剤が効かない!?」
「そんなものが効くと本当に思っていたのですか? だとしたら認識が甘すぎますね」
動揺する男に、少女は平然とそう述べる。最近の財団エージェントは、薬物の耐久訓練まで受けているのだろうか。
男は歯噛みして持参していた包みを破り、取り出した凶器を構える。
街灯の光が得物を鈍く照らし、少女は歩みを止める。
張り詰める緊張を破って、男は叫んだ。
「俺はこんなに愛しているのに、なんで邪魔をする!?」
「あなたが財団職員であり、財団職員であるまじき方だから、ですかね」
男は得物を突き出した瞬間に、その手に激痛を覚えて呻く。
彼の指は手の甲から弾け、握っていた凶器は真っ二つに折れていた。
取り落とされた柄が、アスファルト道路に乾いた音を立てる。
彼は少女の攻撃を知覚することすらできなかった。思うより早く、彼は振り向いて逃げ出そうとした。
しかし、彼の背後には、何もなかった。
そこには一切の感覚も無くしそうな、ただ茫漠たる闇が広がっている。いつの間にか彼は、地面の感触すらわからなくなっていた。
「私のこの在り方でも、多少なりとも財団の助けになるのなら、これ以上のことはありません」
闇の中で、歩み寄ってくる少女と、閃く包丁の刃だけが、いやにはっきりと認識できた。
月光のように白い肌に、闇よりも黒い髪が、さらさらと靡いていた。
彼の絵そっくりの真っ赤な瞳が、にっこりと細められた。
「あなたはこれから、財団への迷惑行為なんて一切できなくなります。大丈夫ですよ、痛みなんて感じませんから。それとも、痛い方がお好きですか?」
「へ、へひひひぃ……」
吸い込まれるような微笑みに、男は得体の知れぬ感情が背骨を駆け上ってくるのを感じた。
ぞくぞくと震えるような感覚に、いつの間にか男も口角を吊り上げ、笑っていた。
20██/██/██、██市██の路上にて、SCP-085-JP個体と思われる人型図形と折れたスナック菓子が、██女子高等学校に潜入捜査中であったエージェント・██によって報告されました。
当個体は大量の血液によって描画されており、これまでに発見されたSCP-085-JP個体とは異なる状態にあることから、SCP-085-JPを模倣した、全く異なる殺人事件の可能性も指摘されています。血液のDNA検査を初めとした、さらなる調査が進められています。
また、エージェント・██によって、今回の事件と、SCP-835-JPを題材とした夏季創作会の冊子の一部に類似点が示唆され、念のため該当冊子の回収が行われる運びとなりました。今後、SCP-835-JPを題材とした創作物は機動部隊く-3"篝火"の検閲を受けることになります。
なお、『SCP48-JP』メンバーより報告を受けたというエージェント・後醍醐勾によって、プロトコル・アイドル-835の確実化を期するために、『Are We Cute Yet?』及び『SCP48-JP』によるチャリティーライブの企画が提案されています。