フォルクスワーゲン並みに大きな6番ボールが実験室内で穏やかに浮揚していた。焼却処分は非常に困難だと証明されていた。
ユリシーズ・ジャクソン博士はガラス越しにそれを見ながら親指を噛んでいた。勿論、居た堪れない気分だった。ほんの数秒前まで、室内には6人のDクラスが居た。そのうち1人が“プール”という言葉を口にするまで(水泳の方だがそれは問題ではない)、彼はある非常に興味深い、存在論的に重大なオブジェクトの回収中に読んだあれこれの殆どを忘れていた。強制的に忘れさせられていた。何度も繰り返し記憶からそれを擦り落とそうとしたせいで、ブローカ野に深い溝が刻み込まれ、今や自分にとって円周率piと焼き菓子pieがほぼ同じ意味になっているとジャクソン博士は確信していた。
しかし、彼の回想記憶はそこまで酷く損なわれてはいない。少なくとも彼自身はそうだと思っている。勿論、この特定のミームハザードに対処する時は、常に変則的要素オッドボールが付き物だった。
クラスA記憶処理の問題は、それが記憶を拭い去る(記憶処理は全てそうなのだが)点よりもむしろ、記憶消去がどれほど選択的かにある。例えば、その経歴を通して記憶処理薬を度々服用させられていても、ジャクソン博士は次に何が起こるかを非常に明確に思い出せた。
その1、保安警報が彼のセクターでイエロー・アラートを鳴らし始める。そして予定通りにそれが始まった。
その2、ドアを押し開けて飛び込んできた警備員がこう叫ぶ。
「いったい何が起きたの?!」 ケリー・マクドネル警備員はそう言って、実験室を覗き込み、トランシーバーに暗号メッセージを一言二言ほど吹き込んだ。
“その3”の流れを、山ほどリハーサルが必要だったが、ジャクソン博士は完璧に把握していた。「これは公式声明だ」 彼はいつものように、すぐ近くの保安カメラを見つめながら話し始めた。「私の名前はユリシーズ・ジャクソンであり、意図せずにSCP-609の収容違反を引き起こした。私は今から同席している保安職員の拘留下に公式に自らを明け渡し、手順オッドボール・ゼロシックスに則って記憶処理治療を受ける」 投降するのが最善の道なのだ。それ以外の場合は、ブーツと警棒と固いリノリウムの床と高額の歯科治療費が待っている。
ちょうどそのタイミングで、組み立て説明書の最後の欠片が正しい場所に嵌まり込み、隣室の巨大な緑色の球体は潰れて適切な大きさに変わり、重力の影響を受け始めた。幸い、6番ボールは出現時点で室内に居たDクラスのほぼ全てを呑み込んでいたので、清掃作業の手間はそれほどかからない。そこかしこに散らばる小さな血溜まりと置き去りにされた足1本は、ボールを何度か焼却しようとしたおかげで殆ど灰になり、完全に滅菌されていた。夜の眠りを妨げるほど不穏なものは無い。どの道、彼はあと数分でDクラスたちの顔も、彼自身が派遣を要請したことさえも忘れてしまうのだ。
しかし、何故かこの手順は忘れない… クラスA記憶処理は不思議だな、と彼は思った。
「やめてよ、ジャクソン…」 ケリーは鍵でアラームボックスを開き、イエロー・アラートを取り消した。
「すまない」
「そりゃ反省してるのは分かるけどね… もう。あの-」
彼女の文句はそれ以上続かなかった。別なボールが口の中に現れ、言葉を封じていた。
「…本当にすまない!」 ジャクソンは項垂れた。トリガーワードの畜生め。どうして彼女の目は緑でなければならなかったのだろう?
ケリーは少し呻き、冷たいボールをゆっくりと顎から引きずり出した。体調に問題は無さそうだが、顔面筋の痛みはしばらく残るに違いない。「どうして? どうしていつまでもこんな事を続けなきゃならないの?」
「分からない…」 本当は分かっている。彼のちょっとした… “発作”の後始末が低コストなのを考慮すると、優れた成果を3年間出し続けている終身雇用の研究員は大した重荷でもないからだ。その頃には他にも何人か(正確を期すならば7名)の警備員が到着し、ジャクソン博士を尋問室に連行した。何が回想記憶のトリガーとなったのですか、初期収容時の出来事をどの程度記憶していますか、再発防止のためにあなたの生活環境をどう変化させればいいでしょうか、さぁこれを呑んでください、そして
バーン。寮での覚醒。ジャクソンは不首尾に終わった実験と、忘却せざるを得なかったプロトコルについてぼんやりと知っていたが、拘留プロセス全体をはっきりと記憶していた。多分、何かの邪魔が入ったのだろうか? 分からない。ただ、2%の減給処分が下るだろうし、より多くの制限が外出特権に課せられる旨を通達するメールが今日にも届くだろう。ジャクソンは自分が何をやらかしたのか、これだけの処分に値するのかをよく覚えていなかったが、遅かれ早かれ同じ事件が再発すると知っていた。そして、自分の犯した間違いは、財団を今さら辞めようとすれば食事に摂取許容量以上の重金属が混入される類のものであることも知っていた。
ジャクソン博士は指を数えた。1-2-3-4-5-█-7-8-9-10。良し。1本残らず揃っている。今日はカフェテリアに行って、チョコレート味の3.141592を一切れ食べよう。仕事に復帰する前に、元気を出さなければ。