Creed & Greed: Traitor
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     気が付けば姿がいつも違う、地層が積もるように降りしきる雪の中、黒く変哲の無いバンは通勤者たちの車に紛れ込み、財団の追っ手を撒いていた。木を隠すなら森の中である。バンそのものには、特定の観測機器に対する反ミーム性を任意のタイミングで数時間だけ付与する刻印が刻まれているからだ。四輪駆動かつ素晴らしく凸凹なタイヤを履いたバンは、いつしか山道すら外れ、森を縫うように走っていた。谷崎が回収されてから数時間。奥多摩の某所にある山肌に丁重に隠された元蒐集院の施設に、彼らは隠れ住んでいた。

    「では、あたらめてようこそと言おうか」

     ロナルド・ハリガンは少し調律の狂ったコントラバスのような声で宣言するように言う。まるで軍隊の入隊式のようであると、谷崎はかすかに思った。いくらかのLEDが照らすそこは、ただ山肌を削ってできた洞窟のように見える。床には何本も赤と黒の太いケーブルが走っており、気を付けなければ転んでしまいそうなほどに湿っていた。ほの暗い奥側から流れる冷たい空気が、どうも何かのささやきのように谷崎の肌を刺す。

    「自己紹介は、記憶を定着させるついででいいだろう」
     
     ハリガンに案内されるままに、洞穴の向こうへと歩みを進める。素潜と名乗っていた男と、顔の良く見えない運転手はいつの間にかに何処かへと消えていた。割り当てられた居室に戻ったのだろうか。夢から覚めたばかりだからだろうか。谷崎は転がっているケーブルに何度も足をとられながら、トカゲが水面を歩くように進んでいった。何度か瞬きもしないうちに、彼の目の前には、乱雑に積まれた書類をひっくり返したような機械が横たわっていた。これが、半ば誘拐されたときに言われた『機材』だろうか。ハリガンに目をやると、しばし待てと言わんばかりに手で制止された。

    「応神が戻ったようだな。思ったよりも、速かったじゃないか。かつてのキミと彼は、結構いいコンビだったから、挨拶してきてはどうかね」

     こんどは自分の足で洞穴の入り口辺りまで戻る。そこには、ひときわ豊かな体格の男が体に着いた粉雪を振り払っていた。わずかながら排気ガスのにおいがあたりを煙のように漂う。応神薙の若く、しかし草原の獣を思わせる顔に谷崎は思わず目を吸い寄せられた。少しばかり藍色の意思を感じる顔は、これが実質的に初めて見るものとは思えなかった。

    「どうした?おれの顔になんかついてるのかい」

    「いや……なんでもないよ。トラックを見つけられて、幸運だったね」

    「なんで……ああ、いや。懐かしいぜ。この感覚はよ」

     応神薙はあからさまにいやな顔をして、手袋とコートをその辺りに放った後に、乱雑に、しかし計算されたようにきっちりと設置されている一人用ソファに体をうずめる。気味の悪い沈黙があたりを支配する。雪は音を吸い込むから冬は静かであると言うが、音を吸い込みそうなものがないこの洞穴ですら、冬よりも静かだった。

    「なあ、狩りにはよく行くのかい」

     壁に立てかけられた古めかしいショットガンを見ながら谷崎が言う。応神薙は、あたりのものを全部吸い込むかのような欠伸をしてから、眠そうな口を開く。

    「ああ、ここは人里からかけ離れているからな。おれか、素潜の奴が肉を狩ってくるんだ。鹿に熊に、結構豪勢な食事がとれるぜ。山菜もよく採れるし、近くには川もある。水と食い物には困りゃしない」

    「じゃあ、電気は?発電所を用意するわけにもいかないだろうに」

    「さあ。おれはよく知らんが、蒐集院の施設のナントカ生成機を使ってるみたいだ。聞いたところによるとな」

     フル電化だぜ、エコだなと彼は皮肉気に言う。目線でどこかに行けと伝えられたような気分がした谷崎翔一は、疲れている体に鞭を打ってもう一度洞窟の奥へと歩みを進める。今度は、しっかりと地面を踏みしめることができた。

    「随分と話し込んでいたようじゃないか」

    「すまなかったね。どうも、どこか親しみを覚えたもんで」

     ハリガンはその見た目にそぐわず、老獪な雰囲気を水滴のように纏っていた。谷崎翔一はそれに気づかないふりをしながら、さも親しみありげに軽口をたたく。この男に疑いをもたれている以上、谷崎はそうするほかなかった。演技は完璧だった。

    「……ともかく、我々には時間がない。キミの記憶は、ある種のカギなのだよ。このマシン アニマで、今一度キミの人生を再体験してもらう」

    「記憶データが改ざんされているという恐れは?」

     間髪入れずに聞く。谷崎翔一は彼自身が心理学のプロであり、この機械の開発に携わっていたことをおぼろげながらに思い出した。『アニマ』の名の意味するところは『魂』だろうか。ハリガンはわざとらしくため息を吐き、呆れたように言う。

    「プロトタイプとはいえ、開発者が覚えていないとは。いやはや。他人の記憶データは複雑怪奇で、改ざんなど到底不可能だよ」

     人間のゴースト、意志は言語で記述されていない。人間が無理やりそれを言語で四苦八苦しながら表しているだけだ。それを近似とはいえ、どうにか保存しているこの機械が、谷崎の目にはどうも不気味に見えた。マシンの横には、谷崎とハリガンの並んだ写真が貼ってある。この男も、開発に一枚かんでいるというのだろうか。

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       何やら病院の屋上に立っているらしい。谷崎は、自らの感覚と同期していない肉体を神妙な目で見つめる。静かに雪が降り積もり、東京をはるか遠くまで見渡せるそこは、墨東病院だ。遥か昔、谷崎がまだ何も知らなかった頃に、活動拠点としていた場所だ。懐かしい黒いフードの感触。指に伝わる、薄い布のざらざらとした感じ。

      「もう一度言う。最後の勧告だ。武器を捨てろ!」

       ハリガンのとは違う、どこか獣の唸るような声が背後から聞こえる。応神薙に違いない。ここは、ある種の舞台だった。雪が舞い、文字通りに血が沸いて肉が踊る舞台だ。谷崎は、腰に括り付けられているホルスターからキアッパ・ライノの6インチモデルを取り出し、地面に放った。複雑なメカを持つそれは、柔らかい雪に、まるでスープを掬うように受け止められた。

      「ぼくを殺す前に、すこし最期の告白というものを聞いてはくれないだろうか!」

       谷崎翔一は淡々と言い放つ。彼が死ぬだろうことは確定路線であるということができるこの状況だからこそ、このように堂々とふるまうことができる。財団には慈悲などない。応神薙にも、慈悲などなかった。しかしながら、応神薙に握られているベレッタ92のトリガーを引くだけの、木の葉を折るくらいの力を込めることができなかった。

      「……ああ!聞いてやろうじゃないか!」

       「あ」の音をどうにか絞り出すように言う応神薙。その声には水性ペンで何度塗っても均一な色にならないときのようなもどかしさが、確かに含まれていた。ゆっくりと、木の端材を挟む万力のような足取りで、谷崎翔一は両手を上げたまま後ろを振り向く。向けられている銃口の中身は、彼が知るどんな物よりも暗く見えた。そのせいか、世界から音が消え去り、応神薙と谷崎翔一とに、スポットライトが当てられている錯覚すら感じる。

      「信条だ!信条が変わったのだよ!」

       まるで台本がそこにあるかのように、観客に言い聞かせるかのように、腹の底から、口をはっきりと動かして、谷崎翔一が言う。目線は銃口から、サングラスに隠されている応神薙の目へと移っていった。二人の間を、シーツのような雪が遮る。

      「あの三条のほかに、なにがあるのかというのだ!」

       まるでサーカスのように言葉は回る。サーカスを見るときのように、二人はだんだんと興奮を覚える。それもそのはずだ。極限状況においては心拍数が際限なく上がって行く。応神薙の筋肉質な腕に血管が走っているのは、直接見なくても明らかだろう。

      「自由だ!応神薙よ!自由だ!キミには理解できるかい?自由だよ!」

       もう一つ、谷崎にライトが当たるような錯覚。彼は前から吹く風に逆らい、歩みを進める。フードが風によってはがされ、彼の乱雑なハシバミ色の髪の毛はさながら嵐に揺れる柳のようだ。手を広げ、武器を持っていないことをアピールする。語り掛けるように、自由を説く。

      「いいや、分かりたくもないな!自由とはただ、ひとを堕落させるものだ!」

       谷崎の手がシーツのような雪に触れる。その瞬間、谷崎の指の隙間から9ミリの弾丸が飛び出す。サイレンサーで見事に消音された亜音速弾が、シーツのような雪を貫き、谷崎翔一と応神薙の目線を遮り、谷崎は頭から爆発するような血を流して倒れた。


       谷崎の心拍が止まっていることを確認した応神薙が次なる任務を請けて、雪の隙間に消えてから数分後。墨東病院に現れたのは、21世紀にそぐわないカウボーイ装束の男だった。彼は谷崎に何か薬剤を注射し、頭に包帯を巻く。男がコイントスなどでしばらく時間をつぶしていると、谷崎は目を醒ました。

      「財団の内部協力者に頼んで、応神薙の銃身に細工を施したんだ。弾がまっすぐ飛ばないようにね」

       誰に話しかけているのだろうか。谷崎の意識は何者の存在も感じ取っていない。心拍を一時的にとはいえ止めてしまったら、自力で復帰するのは不可能だった。

      「ははあ、反ミームは感心しましたヨ」

       でしょ?といたずらっ子のようにこぼして、谷崎は立ち上がる。爆発するような血痕をまじまじと見ていると、点々とした血がある形をとっているのに気づいた。忌々しい、あの盾に三つ矢印の、あの「財団」を象徴する形だった。思わぬところから、いま最も見たくないものを提示されてしまった谷崎の視界は錐のように狭まっていった。


       わるい夢から浮上する感覚は、プールに長時間潜ってから、慌てて水面に向かうときのそれと似ている。視界は点のように狭まり、呼吸は荒くなる。谷崎の身体の異常を感じ取ったアニマは、遅刻寸前の学生のように記憶データから彼の意識を切断し、素知らぬ顔でそこに在った。ロナルド・ハリガンは怪訝な顔つきで谷崎翔一の顔を見つめていた。

      「どうしたのかね」

      「ああ……」

       ずきずきと痛む額に手のひらを当て、二度か三度ほど頭を振る。焦げ付いたような痛みは、そう易々と取れるものでもない。ロナルド・ハリガンのバリトンボイスが今はありがたかった。もし、いまが春で鳥がピヨピヨと鳴いていようものなら、谷崎は迷いなくリボルバーで辺りに弾をばらまいていただろう。

      「ちょっと、疲れているだけだよ。もしかしたら、神経に変調をきたしているかも。すまないが、今日はここまでにしてほしい」

      「……了解したよ。想定される副作用の範囲内だろう。厨房にはキミの趣味で集めていた茶が残っている。真空パックだから、香りも損なわれていないはずだ。飲んできたらどうかね」

       谷崎は目線で感謝を伝える。言われたとおりに、都合の良い形の岩が並んでいる厨房には、彼がまだレジスタンスにいたころに秘かに集めていた茶葉が残っていた。鉄観音だ。香りの特別良いそれは、十年経てども名に違わぬ威容を持っていた。やかんで水を沸かせ、手っ取り早く茶を淹れる。思った以上の熱さにびっくりしながらも、花のような香りは何よりも清廉で、確かな渋みは機械時計よりも複雑だった。

       安心したのだろうか。自らの肉体の疲れを強く自覚した谷崎は、水浴びもせずに割り当てられた居室に、初めて竹馬に乗る少年のような足取りで向かった。そして、吸い込まれるように固い玄武岩の床にただ一枚敷かれたマットレスに倒れこんだ。


       何やら、コンクリートむき出しの堅牢な壁に囲まれた廊下のような場所にいるらしい。自らの手に意識を向けてみる。そこには慣れた心地よい重みがあった。キアッパ・ライノの6インチモデルは、七つのパーツが芸術的なまでに連動する、革新的なリボルバーだ。マットな黒の銃身が、無機質な蛍光灯に照らされている。まるで、一つの生き物のようである。

       前に歩みを進める。そうしなければならない、と何かに言われているような気がした。直感的にそこが西であることに気づいた。啓示だろうか。木と木を踏みしめるような音が、足音がコンクリートの壁に何度も反響する。誰かが何かを引っ掻いているようだ。床がまるで輪ゴムのように柔らかい。沼に足がとられるように何度も転びながら、谷崎はいつの間にかに現れた蛇に照準を合わせていた。

       トリガーは驚くほど軽かった。雷鳴のような音とともに、サイのように弾丸は蛇に突進し、そして爆発するような血を流して蛇は二つに折れた。瞬きをすると、それは黒いパーカーを着た小柄な男に変わっていた。

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         結局未明に不明な原因で目を醒ましてしまった谷崎は、微妙な時間であったこともあり、そのまま日が完全に昇るまで徒然なるままに携帯デバイスをいじったり、思索にふけったりしようとしていた。朝の五時ごろ。もっとも寒い時間に細かだが、ハンマーのように大胆な足音を聞いた彼は、携帯デバイスから顔を上げる。応神薙に違いない。

        「なあ、鹿か熊でも狩りに行かないか?」

        「気晴らしにちょうどいいだろうね。誘いには乗ったよ」

         二人は足音を立てないように気を付けながら、洞穴の出口へと向かう。冬の名に違わず、空はどこまでも深い藍色だった。さくり、さくりと雪を踏みしめながら、近くに止めてあるバンに乗り込む。四輪駆動のそれは、力強いエンジン音を控えめに響かせながら、雪をえぐり取って動き出した。

         「静音モード」を有効にして、のろりのろりと。狩りの時にいつも使うポイントまでバンを転がす。二人の間に、会話はなかった。ほとんどすべてのことを忘れている谷崎翔一に、口下手な応神薙。二人は、ほとんど初対面のようなものだった。

        「さあ、着いたみたいだ」

         バンに搭載されているガンラックからアクションのライフルを取り出す。ライフルは.338弾を使用して、長距離の対人狙撃もこなせる仕様だった。むろん、熊でもなんでも抜けてしまう。その射程距離は一キロ以上にも及び、実際に応神薙は過去に財団の要人暗殺のために使用したこともある。

        「熊の巣穴からは、独特のにおいがするんだ。素潜のやつがいつもそれを辿って、弱めのスタングレネードか何かで穴から追い出す」

        「そして、キミが撃つって事か」

        「まあな。だが今日は穴から追い出すのはあんたにやってもらう……何、思いっきりグレネードを投げて、あとは伏せて熊に気づかれないようにするだけだ」


         言われたとおりに、におい というよりも独特の気配を辿ってみると、不自然にぽっかりと空いた穴を見つけることができた。通信デバイスで応神薙に連絡を入れ、狙撃の準備をしてもらう。狙撃とは本来、撃ちおろしなどの発射姿勢、風速風向、距離は言わずもがな、天気ですら弾道を左右するので、大変な高等技術だ。普通の狙撃手には観測手がついており、狙撃のためのあれこれをまとめた本を持って、狙撃の基本 ワンショット・ワンキルを成し遂げる。

        「応神薙、今からグレネードを投げるよ」

        『了解』

         耳元に装着した無線機から頼もしい声が聞こえる。応神薙は天性のセンスと、実家でやっていたという鳥猟、そして豊富な経験にモノを言わせて、我慢大会の象徴である狙撃を一人でこなしてしまうのだ。

         巣穴はおおむね横に開いており、その上には雪が深く積もっていた。谷崎翔一は巣穴に上り、その上から黒い円筒状のグレネードのピンを抜き、力いっぱい腕を振って投擲した。爆音と、閃光。視覚と聴覚が蹂躙され、一瞬だけ前後不覚になる。耳元から、やはり頼もしい声が聞こえる。

        『こいつは大物だな。もしかしたら仔がいるかもしれん』

        「もしかしたら、ぼくらの中に裏切者が」

        『何?』

         前後不覚になってしまったゆえにあらぬことを口走ってしまった谷崎翔一。応神薙の一瞬だけ動揺したような声を聴いて、はっと目を見開く。狙撃は失敗していないだろうか。恐る恐る目を開けると、眼下には熊の死体が頭から血を流して倒れていた。レースカーテンのような雪が、あの熊を覆う。


        「裏切者、と言ったな」

        「ああ。誰がやったかわからないけど、アニマのデータにどう考えても改ざんとしか思えないような痕跡があったんだ。少なくとも、ぼくだったら改ざんするね。一番効率がいいんだ。ぼくらを内部から瓦解させるね……ただ注意してほしい。ぼくは記憶をとり戻さなくってはいけないし、そのついでにもう一度潜って、確かめに行く」

         疲れた顔で地べたに座る谷崎をしり目に、応神薙はバンの後部座席を倒して、熊を詰め込むための場所を作っていた。存外にこのバンは良いものであったようで、後部座席を完全に平らにすることで、熊でも無理なく詰め込めるのだ。

        「ああ、わかった。気を付けてくれ。お前がやられたら、ゲームオーバーだ」

         熊にかぎ針のようなものをひっかけ、ウィンチで車内へと引っ張る。一部地域では神として信仰されている熊も、すっかりと車内に収納されてしまった。後輪がわずかに雪にのめりこむ。応神薙が運転席に乗り込むと、谷崎翔一も助手席に乗り込むべく、軽く作られたドアを開けた。


         どうやらそこは例の洞穴の中の、小さな談話室のような空間らしい。後ろから、車のドアが閉じるあの独特な音がした。谷崎翔一は小さな丸机の横に立っており、それを囲むようにして、ロナルド・ハリガンと応神薙が座っていた。応神薙の顔は、幾分か若く見えた。

        「なぜ……応神薙。ここにいる?」

         そうだ。この時はまだ、彼を説得していなかった時だ。谷崎翔一が思わず喉の奥から漏らした声を彼自身が認識して、顎を起点に体全体が酷使されるパソコンのファンのように震えはじめる。ロナルド・ハリガンの見た目は、いまとそれほど変わらなかった。

        「なぜって、変なことを聞くもんだな。あんたを撃った数年後、ぽっと沸いてきておれを説得したんだろうが」

         いや、そんなはずはと谷崎は自らの手を見る。そこには、しかと金属製の財団のあの忌々しいマークが握られていた。周りを見渡すと、マグカップにもあのマークが。丸机もいつしかその形に変わっている。いたるところのいたるものが、その形に変容していた。

         意味をなさない音が彼の口から漏れ出る。いつしか、何度も転びながらも、谷崎は自らの脚を激励し、洞穴の出口へと走っていった。そこには、ただ光があった。その光をつかもうとした瞬間、彼は静止する。ただならぬ浮遊感だ。次いで、強い力。バンジージャンプの時に感じるような強い風圧を受けながら、彼は光に溶けていった。

         気づけば、そこはあの蛇を撃った廊下だった。手にはやはりキアッパ・ライノの6インチモデル。やはり走らなければならない。廊下の先は、今度は東であると直感できた。遥か彼方に見える、薄っぺらな扉に彼の求めるものがある。走る。ただ、走る。彼の感覚は無限に引き延ばされていた。遥か後ろで銃声が聞こえようと、彼は歩みを止めることはない。

         幾昼夜経っただろうか。求めていた扉に、彼は触れることはなかった。いつの間にかに舞台に引きずり出された彼に、何本ものサーチライトが浴びせかけられる。そのどれもが、あの忌々しい形をしていた。この世にあるすべてのものを引っ掻いたような音がして、彼の意識はどこか別のところへと向かう。

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           応神薙は、この朝の狩りの興奮がいまだ冷めていないのか、なかなか寝付けないでいた。酒でも呷ってやろうかと、マットレスを蹴り飛ばして体を起こす。夜は、寒い。ささやきのような寒さに彼は一度身を震わせ、吐いた息の白さに改めて驚く。念のためにベレッタ92を一丁だけ持って、キッチンへと歩みを進めた。

           暗い中に、ぼうっと光るろうそくの明かり。それに照らされている黒い人影を見た応神薙は、思わず銃を構えてしまう。頭も、眠気でぼやけていた。

          「頼むから、その銃を下ろしてくれないか。撃つのはまた後にしてくれ。今度こそ、最後の告白を聞いてくれよ」

           軽薄そうな声は、谷崎翔一だった。彼は応神薙に背中を向けて座っていた。のろりと立ち上がった彼は、いつになく小さく見えた。別のどこかで会った彼がどこか持っていたような迫力は、すでに消え去ってしまった。

          「珍しいな。あんたがここまで遅く起きて、しかも酒を飲んでいるなんて」

           振り向いた彼の手は、震えていた。いつもは感情を抑制している彼自身だが、今はまるでその逆だった。笑えるだろう、とでも言いたげに、少し骨ばっているようにも見える肩をすくめる。フードをとった彼の顔は、流木のようにくたびれていた。

          「なあ、裏切者がいるって」

          「ああ、分かったのか?」

          「最初は、ハリガンだと思った。常にぼくを疑っているようだったし、あの機械、アニマの開発に何枚も噛んでいるみたいだったから」

           応神薙は、その場に立ったままだった。銃を片手で握りしめたまま、岩のような空気の中で固唾を何回も飲み、砂漠のように乾いた唇を、何回も舐めていた。

          「でも、違ったんだよ。彼には、動機がない。財団を常に憎んでいるようだったし、それならぼくに向ける疑いが説明できない……。どこかで見たことがあるんだ。『あり得ないことをすべて取り除いたら、最後に残ったものが真実だ』ってセリフをね。キミや素潜くん、そしてハレ―やアイランズは即座に違うと分かった」

           谷崎翔一は彼の持っていたコップを地面にわざとらしく落とし、応神薙に近寄って、その筋張った手を握った。そのまま、銃口を自身の額に向け、口を開く。

          「ぼくだよ。昔のぼくだ。ハリガンは、気づいていたんだということだね。はは、滑稽なことだよ。自分で言うけど、心理学などは人の何倍もできるから、少し苦心しつつもアニマのデータ改ざんはできたんだ……。他ならぬ、ぼく自身の記憶だったし」

           谷崎翔一が応神薙の、どこまでも黒い目を下から覗き込む。場は奇妙な静寂のみが支配していた。谷崎翔一は手をほどき、後ろに何歩か下がる。その間も、ずっと二人の視線は交差したままだった。

          「昔のぼくは、財団側の人間だった。このレジスタンスを内部から崩壊させるために送り込まれたんだろうね。切れ者が多かったから、そうするほかなかったのだと思う。そして、ある時にハリガンに気づかれたんだ。その直後にぼくはわざと自分の位置をきみに知らせて、墨東病院で撃たれたふりをした。あの時のキミの銃は、ぼくが上に取り合って、銃身をすり替えてもらったのだと思う。その時に、たぶんある種の記憶処理をしたんだろう。ぼくの信条はがらりと変わった」

          「御託はもういいぜ」

          「まあなんだ。推理というのは、かすかな情報から過去と未来を導き出すものだからね」

           谷崎翔一はハシバミ色の目を伏せて、空のビール缶のような笑い声を漏らした。再び上げられた彼の目は、ある種の覚悟に燃えていた。

          「過去のぼくは、これを予見したんだろうね。記憶データ改ざんによって今のぼくを狂わせてからこの素晴らしいチームを内側から崩壊させるんだ。ぼくにはもう、記憶を取り戻すすべはないよ。このまま狂うくらいなら、キミの手で死んだほうがましだね……どこかここではないところでは、ぼくらはいい友達だったのかもしれない」

           彼は、どこまでも冷静なように見えた、錯覚だろうか。レースよりも薄い布が両者の間にあるような感覚すら感じる。応神薙は、何かを思い出したような顔をしてから、躊躇なく引き金を引いた。






           おかしい。自らの意識はすでに消失したはずだ。谷崎翔一の意識は、自らの内側に積まれた大量の本を認識しながら、長い眠りから浮上する感覚を覚えた。それは快い目覚めの感覚に近く、確かに彼の瞼は陽光の存在を感じ取っていた。頭が何かに削り取られたかのように痛い。

          「おや、眠り姫が目覚めたようだ」

           調律の合ったコントラバスのような声は、ロナルド・ハリガンだろうか。疑いの感情が少し晴れたような気さえする。谷崎翔一が目を開けると、ハリガン含め、素潜、井戸田、そして応神薙が眼前に現れた。はっと気づく。記憶が、すべて定着しているようだ。応神薙が、おもむろに口を開く。

          「大昔に聞いた話なんだがな。あるピアノが大好きな女性の祖母の家のピアノは、いつも低いシの音の鍵盤が鳴らなかったそうだ。その女性は、いつもシが鳴らないピアノを遊びで弾いていた。いつしか彼女はピアノを習い始めたそうだ。そして、最初に弾けるようになったベートーベンの曲の、『悲愴 第二楽章』を大好きな祖母に聞かせようとして祖母の家に行ったら、祖母は冷たくなっていたそうだ。いつしか彼女は高校、そして大学を卒業し、会社員になった。その何年か後、事故で記憶をなくしたんだ。でも、手はピアノを覚えていた。たまたま立ち寄った祖母の家で例の『悲愴 第二楽章』を弾いて、低いシの音を叩いたその時、記憶が全部戻ったそうだ」

           応神薙は誇らしげに深呼吸をする。ロナルド・ハリガンは納得した顔つきで谷崎のことを見つめており、井戸田と素潜は、不思議な目でほかの三人を見比べていた。

          「それと、同じことをやった。あんたがあの屋上のシーンを再現してくれなかったら思い出さなかったかもしれん」

           応神薙の差し出した手を、谷崎翔一はがしりとつかむ。洞穴の入り口から差し込むのは、趣深い朝日。谷崎翔一の顔には、自信にあふれた笑みが浮かんでいる。彼等にとっては、いつも通りの朝が始まろうとしていた。

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            「昔、大昔からあんたがずっと夢見てきた自由を取り戻すんだろ。おれ達はここにいる。なあ、死ぬのはまた今度にしてくれ」

            Creed & Greed
            Traitor

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