/* source: http://ah-sandbox.wikidot.com/component:collapsible-sidebar-x1 */ #top-bar .open-menu a { position: fixed; bottom: 0.5em; left: 0.5em; z-index: 15; font-family: san-serif; font-size: 30px; font-weight: 700; width: 30px; height: 30px; line-height: 0.9em; text-align: center; border: 0.2em solid #888 !important; background-color: #fff !important; border-radius: 3em; color: #888 !important; text-decoration: none!important; } @media (min-width: 768px) { .mobile-top-bar { display: block; } .mobile-top-bar li { display: none; } #main-content { max-width: 708px; margin: 0 auto; padding: 0; transition: max-width 0.2s ease-in-out; } #side-bar { display: block; position: fixed; top: 0; left: -25em; width: 17em; height: 100%; background-color: rgb(184, 134, 134); overflow-y: auto; z-index: 10; padding: 1em 1em 0 1em; -webkit-transition: left 0.5s ease-in-out 0.1s; -moz-transition: left 0.5s ease-in-out 0.1s; -ms-transition: left 0.5s ease-in-out 0.1s; -o-transition: left 0.5s ease-in-out 0.1s; transition: left 0.5s ease-in-out 0.1s; } #side-bar:after { content: ""; position: absolute; top: 0; width: 0; height: 100%; background-color: rgba(0, 0, 0, 0.2); } #side-bar:target { display: block; left: 0; width: 17em; margin: 0; border: 1px solid #dedede; z-index: 10; } #side-bar:target + #main-content { left: 0; } #side-bar:target .close-menu { display: block; position: fixed; width: 100%; height: 100%; top: 0; left: 0; background: rgba(0,0,0,0.3) 1px 1px repeat; z-index: -1; } }
リスカしたら空飛んでた。
もう少し詳細に語るべきだった。ということで順を追って詳細をまとめる。
自殺するためにカッターナイフで左手首を掻っ切ったら、傷口からありえない量の血液が噴き出してきて、何故か噴射圧で全身が押し上げられて。そんでもって今は地上6階?くらいの高さでなんとかホバリングしている。もちろん血液は出しっぱなしだから、そのせいで地上は文字通りの血の池地獄と化している。
ちゃんと言語化してもやはりワケが解らない。自分の血液でジェットパックっぽいことしているのか僕は。重心がギリ安定するように、立ったままパン生地を捏ねるときみたいな姿勢で。ほんの少しだけ時計回りに回転しながらフワフワと。全然「フワフワ」じゃないのはこの際どうでもいいとしておいて。
「……降り…降りられませんかね…?」
何にしてもまずは地上に降りるべきだ。痛覚がマヒしているのか、それなりに深々とぶった斬ったはずなのに痛みは一向にやってこないし、テンパったせいか自分の傷口に敬語で話しかけてしまったし、これだけ血を噴射しておいて貧血の兆候も覚えないし、いや本当にどうしよう。止まるように念じれば止まったりするものなのか。ダメ元で念じてみるしかないのか。
それ以外に今やれることなんかあるわけがない。ダメ元で念じてみることにした。これで駄目だったらまた別に打開策を立てればいい。
滝つぼのど真ん中みたいな轟音に鼓膜を震わせ、とりあえず堂々と、声に出して念じる。
「……止まってください」
瞬間、血液噴射の出力は目に見えて弱まった。徐々に高度が下がる。ゆったりと横回転しながら垂直に降下し、その場に着地した。ひとまずは助かったらしい。
クソデカ流血は収まっている。あれだけ盛大に撒き散らしたはずの血液は跡形もなく消滅していた。何なら手首の傷は綺麗さっぱり完治している。外見上は全身異常無し。軽い突風に身を揺らしながらフラフラと歩く。駅の方へ。
いつの間にか傷だらけになって街灯の下に転がっていたカッターナイフを拾い上げ、それとなく元来た方角を振り返る。遥か彼方でぽつぽつと、弊大学の簡素な明かりが揺れていた。
マジでどうしよう。
「昨日あの辺の道飛んでたのって君だよね」
「へぁっ」
マーーーーーージでどうしよう。早速名前も知らない同学年の女子にバレた。それも雰囲気が怖すぎて同学科の女子の中でも入学当初から一番警戒していた人に。思考が何度も停止しかけてその度に再起動をかけるのが精一杯だからロクな返事のしようもない。案の定その場で全身が固まった。1限の初回オリエンテーション開始までまだ10分近い猶予がある。
座ったままでも解る。169cmの自分よりも頭一つ分はデカい。あと無駄に体幹の座った立ち方と圧力マシマシな見下ろし方のせいか、いわゆる“覇気”というのが肌to肌で伝わってきて滅茶苦茶に怖い。無意識によるものなのか故意によるものなのかはてんで見当もつかないが。確か名前は──
「井門イド 先ハジメ」
「あっ、自分は花出テギ 改アラタで……」
「ここで話しても問題ないやつ?」
「めっちゃ問題あります」
「じゃあ場所変えよう」
……話が早すぎる。ついて来いとでも言わんばかりに先導され、気づけば断る暇もなくイドの背中を追随していた。横目で見る限り1限待ちの学科生でこちらに注視している者が現状誰もいないのは救いだ。この時期に面識のないはずの女子と同行していると嫌でも注目の的になるからありがたくはある。
無駄に距離を開けて追ってたせいで道中何度も振り返られたが、変に理由を聞かれることもなく学舎の裏まで誘導された。感覚的には追い詰められているのとそう変わりない。日に焼けて変色したプラ製のベンチにそれとなく促され、促されるままにその左端の席に座る。1席開けてイドも座った。目を合わせられずに数十秒を無駄にする。
「急でごめん。遅らせても良いことなかったから」
「いえそんな……」
やっと切り出してくれた。極力不自然の無い受け答えを心がけたいがそんなことを考える余裕があるわけもなく、徐々にぎこちない問答が始まる。
「事実確認からいこう。君は昨日の夜、大学から駅までのあの無人道を飛んでいた。間違いない?」
「ないです」
「ないならよかった。右手首から液体を噴き出していたみたいだけど、アレは君の血液に見えた。これも間違いない?」
「間違いないです」
「君はあの夜初めて自分の血液で飛んだ──」
「合ってます。自分もリスカして飛べることは知らなかったし、普通の出血はこれまで何回もしてきたけどあんな風には……」
シラくらい切っとくべきだったかもしれないが、あいにくシラを切った後の嘘が功を為した例を知らない。そもそもシラの切り方は昔からてんで下手なままである。会敵からわずか5分足らずですべて暴露せざるを得なかった。供述しているうちに段々と落ち着きを取り戻せてきたが、状況は微塵も打開できていない。そもそもなぜこのタイミングでこの話を切り出してきたのかということ自体が謎のままだ。このコンタクトには何の意図がある?
「ありがとう。今日はそれだけ聞きたかった」
「他何か質問とかありますか?」
「今のところは特に」
そんなわけあるか。あるわけがないだろ普通に考えて。目的が何であろうと情報の引き出し方があまりに中途半端すぎる。もっとこう、あるんじゃないのか?脅して金をせびるとかそういうの。
「1限あるからこれにて」
「一緒だと思いますよ1限」
「今から飲み物買いに行くから」
言い残すなり颯爽と立ち上がり、イドは元来た方向へと歩き始めた。本当にそれだけを聞きに来ただけだったらしい。
何も返せず、そして後を追うこともできずに、ベンチに座ったままイドの遠ざかる様をぼんやりと眺める。また1人になった。肺の中に空気が戻り、詰まりに詰まった呼吸が急激に再開する。
駄目だ頭が痛い。考えるだけですべてが嫌になってくる。だが今考えなれば今後この身が危うい。状況を整理しよう。面識が無いはずの同学科生にリスカして空飛んでたことがバレた。どこでどう見られたのかに関しては現状一切不明。このタイミングで聞き出すだけ情報を聞き出してきた理由も不明。今後どう接近してくるのか、或いは今後の接近の有無も一切予測不能。今日中にこちらから声をかけるガッツは持ち合わせていないため自主的な聴収も事実上不能。
今日はもうずっと胃痛に苛まれながら過ごす羽目になる。今日だけではない、今日以降ずっとだ。ボッチ生活が確約された大学生活に胃痛要素を追加されてしまった。本当にどうすればいいのだろうか。昨日からそうだったにしても真面目に笑えなくなってきた。世界中で僕と彼女だけが握っているのだ。それ以外の全人類が知り得ない巨大すぎる秘密を。
:
結局その日は何も手につかなかった。授業ガイダンスの内容をノートにまとめているときも、昼飯を1人で食っている間も、あの凶悪そうな顔立ちの高身長女の姿が脳裏にこべりついていて離れないのである。帰宅後も決してそれが収まることはなく、ただあの場所で自殺に及んで失敗したことを、今こうして生きている理由が他でもないリスカ飛行にあることを恨むしかなかった。
恨むしかなかったけど、たとえ何かを恨んだところで僕が落ち着けるわけもなく、夜中に何度も飛び起きるとか以前にそもそも一睡もできないまま──
──今日に至った。ふざけんなよ僕の肉体。あんな場所でドカドカ飛ばずにさっさと死んでくれればこんな思いもせずに済んだというのに。今度は眠すぎて何も手につかないんだぞどうしてくれるんだ。
「昨日の話の続き」
「ほぁッ!?」
そしてこの人である。我ながらアホみたいな声を上げてしまった。挙句びっくりして作業用のカッターナイフを取り落としてしまった。しかも二時間連続授業の中間休みに。同級生がみっちり密集してる教室の片隅で。若干の注目が集まってしまって早くも耳が熱い。
昨日の対面から既に24時間が経過している。まだ24時間しか経過していない。イドは昨日と同じように僕の背後に立っていた。
僕がこんな地獄に全身を漬け込んでいる真の原因は、僕が生きていることじゃなくて生きて彼女に出会ってしまったことなのかもしれない。ただ1度そう思い込むと2度と怒りの矛先を変えられなくなる気がして、結局いつも通り自分の非を悔やむだけ悔やむしかなかった。でも次の行動はなんとなく予測できる。イドはまた僕と2人で話し合うつもりだ。呼吸を整えろ落ち着け。これが的中したら一回落ち着こう。深呼吸して体を再起動しよう。自分を責めるのはそれが下手な方向に転がってからだ。まだ何とかなるかもしれない。
「……昨日の話の続きなんだけど、今いい?」
「ここで話すと問題あるので」
「昨日のとこで話そう」
「はい」
的中した。無理矢理深呼吸しながら立ち上がった後、昨日と同じように、しかし昨日ほどの距離は開けずにイドを追随する。改めて思えば全身真っ黒だこの人。黒ニット帽に黒いマウンテンパーカーに黒ズボン。特に下は足よりかなり太めのものを履いているせいか、何も知らずに後ろ姿だけ見れば男性と誤解しかねない程に男性的である。何もかもがデカい。威圧感の正体はこのデカさか。
「いきなり付き合わせてごめん」
「いえそんな……」
到着。4月の寒気に身を強張らせて、昨日と同じように学舎裏のベンチに横並びで座った。未開封のままコートのポケットに詰め込んでいた駅自販機限定の缶コーヒーを啜り、やはりこちらからは切り出せずに次の言葉を待つ。昨日と同じ凶悪そうな目つきではあったが、どことなくイドの覇気は薄れている気がした。眠気が完全に冷めきっていないせいかもしれないからか。
「昨日言えなかったことあって」
「あ、はい」
「動画撮っちゃっててさ」
「えっ」
「動画をね」
「動画って飛んでるときの……」
「飛んでる時の」
画面の端が細かく割れたAndroidを取り出し、イドはそれとなく距離を寄せてくる。こちらも反射的に画面に見入り、続けざまに絶句した。眠気も完全に吹っ飛んだ。真っ暗な路地の真ん中で血液ジェットパックしているアホンダラは紛れもない僕その人である。
本当に不味いことになってきた。脅しの材料としてはこの上ない15秒間の無修正動画ファイルまで握られていた。脅威度的には全裸を映された写真1枚を遥かに凌駕しているだろう。ちゃんと死んでおけばこうはならなかった。あの規模の大量出血で死ななかった僕の身体がやはり憎い。憎すぎる。この動画の行く末に応じて死にそびれたばかりの僕の人生は大きく左右される。
左右されるはずなのに、しかし何かがおかしい。イドはこれを勝ち誇るわけでもなく、むしろ心底申し訳無さそうな顔で俯いていた。人の顔を見ること自体が不得意なので横目にしか観察できなかったが、やはり昨日の覇気は完全に消えている。見間違いでも寝不足による判断不良でもない。昨日の圧力がない。むしろこっちの方が内圧で破裂しそうだ。
「言いそびれてたわけじゃなくて、言い出せなかったの、で、申し訳ないと思ってる。ちゃんと目の前で消すべきだと思って呼んだ」
「あ、え、消すんですか!?」
「本当にごめん」
消すんですかこれを!?
いや消す意味が解らない。振りかざすだけで人の人生をどうこうできるネタを今ここで手放すというのか。下手したら政府とかどこぞの研究機関とかから金貰ったりできるんじゃないのか。僕の人生と引き換えに。
「自動保存されてる全端末からもGoogleドライブ経由で一気に削除するから、その作業を君の目で見ていて欲しい」
「え、あの、脅すとかどこかに公開するとかそういうつもりなんじゃ…」
「そういうのできるんだろうけど別に興味はないかな」
思いっきりメンタルを抉られながらもようやく納得した。そうか確かにその通りだ。僕に圧をかけていいように扱ったところで何一つとしてメリットが無い。尻に敷いてどうこうするメリットが無い人間で申し訳ないと思いつつ、ついに心の底から安堵してしまった。一体何を勘違いしていたというのだ僕は。一気に呼吸しやすくなってきたせいで今に昏倒しかねない。まだ起きていなければならない。再び血圧が上がる。
やがてフォルダから動画ファイルのサムネが消え去り、「全端末からの削除が完了しました」という文字列が画面下部から浮き出てきた。イドは直ちにゴミ箱ファイルに移動し、復元を想定して3ヶ月近く保存されるよう処置されたファイルも完全削除する。本当に完全に消えた。夢ではない。この動悸は紛れもない現実そのものだ。
「……本題に入ろう」
今のが本題じゃなかったんかい。
「私は君のそれを研究したい」
「……飛行実験やりたいってことですか?」
「やりたいね飛行実験」
研究!?実験!?実験って言ったよな今!?確かに未知要素の多さに科学的探究心を唆られるなんてルートは予想できたかもしれないけど、普通こういうのは恐怖心のほうが勝って放置するのがオチなんじゃないのか!?
「解らないことだらけだ。まずあの噴射量についてだけど、今って体重何キロ?」
「あ、え、と……52丁度?ですね」
「血液は1L約1kg、人間の体内に存在する血液の質量は全体重の1/13程度とされているらしいから、君の身体の中には常時4L程度の血液が存在していることになる。その4Lの血液のみで52kgの質量を持つ君の肉体を……それもリュックサックやコートごと一気に持ち上げるのはあまりにも無理がある。この時点で君の肉体は物理法則を完璧に無視している」
「なるほど?」
「どこかで血液が精製されているのか、どこからか血液が新たに送り込まれているのかはまだ不明だよね。あとほら、君が噴射してた血液は飛行が終わった瞬間にすべて消失していた」
「アレ実は傷口も完全に塞がってて……」
「絶対に関連性あるやつじゃん。まあなんだろう」
もう一度イドの方を見やる。イドもまたこちらに目を合わせていた。何故かは知らないが不思議と恐怖を忘れる。あまりにも真っ直ぐな仮説提示だったから懐疑心が溶けかけている。こちらの疑心暗鬼を崩す策とも思えない。これでそのつもりだったら一周回って笑うしかない。
「一方的に喋ってごめん。でもこれが映像を公開しなかった理由の1つかな」
イドは改めてこちらへと向き直り、面と向かってそれを口にした。
「私は君のそれを独占研究したい。どこぞの研究機関に引き渡してハイ終わりなんてするつもりはない。私は君に惹かれたから」
長らく忘れていた。高校を卒業してここに逃げ込んでくるまでの18年間は外面やキャリアで取り繕うだけの人間にばかり触れてきたせいで、今のイドが──物理的に逆光を浴びてるせいでもあるけど──あまりにも眩しく見えてしまう。自分自身の欲求に限りなく真摯な人の目だった。ともあれこれで僕に接触してきた理由は判明した。映像の削除は先方の誠意と謝罪の両方を意味している。こちらがいかなる回答を行おうとも彼女は了承するだろう。これからの身の振り方を決めるのは彼女ではない。僕自身だ。
「だからこの件に関しては他言しないと約束する。そして君がこれに応じるか否かは君に決めてもらいたい。応じない場合は今後一切この話を持ち出さないと誓う」
「実験付き合います」
「わお即答」
脳死で答えたものだと思ってほしい。だがその実験とやらに付き合うつもりがあるのは事実だ。これも脳死なりにいくつかの理由がある。
第一に、まずこんな精神状態で信頼体制を確立すること自体がやはり危ういと判断したから。あまりにもリスキーすぎる。具体的に何が言いたいかというと、例えばこのままドモって「あ、僕そういうのはちょっと……」とか返したら最後、イドがいきなり豹変してどこぞの研究機関なんかに僕を売りつけたり、或いは「なら力づくでどうにかする」とか言いながら実力行使に乗り出す可能性が一切捨てきれないのである。故に一番相手を刺激しなさそうなこの選択がベストと判断した。これで駄目だったらやはり笑って誤魔化そう。その時が来たとしてもどうせそれくらいしかできなくなってそうだし。
第二の理由。元々死ぬつもりで手首を掻っ切ったのにこの力のせいで生き残ってしまって、挙句の果てには僕自身ですら一握りの探究心を抱いてしまったのである。そういった欲求や思考が完全に消え失せてからでしか自殺に手を出せない性格の都合上、僕はしばらく物理的にも心理的にも自殺には手を出せない。自殺という逃げの選択肢を奪われた以上は多少なりともマシな生き方をしたい。死ねないままの生き地獄は御免だ。
マシな人生。つまりは生き甲斐のある人生で時間稼ぎができるなら、付き合おう。生きる意味を散々失ってきたこの身が、今のところは死を拒んでいるのだから。
「交渉成立?ってことで、今日からどうぞよろしくお願いします」
「そんな畏まられても。……まあ、うん。こちらこそよろしく。暫くは付き合ってもらう」
「はい。……1限そろそろ始まりますね」
「飲み物買ってから行く」
「僕も買ってから行きます」
「安い自販機あるけど来る?」
「行きます。あと実験場所ってどこにしますか?人目に付かないようにやるべきかなって思って」
「ちょうどいい廃墟がS駅からちょっと歩いたとこにある。明日の放課後暇?」
「全日やることないです」
「今日中にやることまとめて明日実験行こう」
「了解です。ほんと話早いですね」
「こっちの台詞だなそれ」
「凄まれるとべらべら話すタイプのコミュ障なんで……」
「凄んで……」
「ました」
「凄んでない」
「凄んでましたって」
「凄んでないってば」
本鈴が高らかに鳴り響く。1限開始の合図。「安い方の自販機」とやらは未だに見えてこない。イドも僕もこれ以上の会話は重ねなかったが、踵を返して4号館に戻ることもまた無かった。
:
その日の授業を終えて、帰宅。交換したばかりのLINEを真っ先に開いて明日の実験内容を確認する。提示された実験場所はS駅から徒歩13分の地点にある廃墟だった。イドが幼少期に遊んでいた場所であるというが果たしてどんな場所なのか。
1区画が大きな吹き抜け構造になってて高さもそれなりにある。窓もないし立地的にも目立ちにくいし現地の人も滅多に立ち入らないから使えるかなって。
……都合がよすぎてなんだか非常に怪しいけど、まあとりあえず行って確認するしかないか。
あと対照実験のリスト作っといたけど、このほか試してみたいこととかあったらそっちのメモ帳で纏めといて。あとで読む
了解です。
──駄目だ頭が回らん。しょうもない徹夜が未だに響いてる。メモを追加できないことに関しては本当に申し訳なく思いながらも眠気に倒されかけてきた。
今日はもう飯食ってシャワーだけ浴びて寝よう。寝れる気がしないけど昨日よりは不安要素がなくなってる。日中にコンディションの状態を毎朝記録するように約束してしまったから、こんなところで体調を崩すわけにもいかない。肉体が実験材料である以上は明日からの実験にしっかり備えるべきだ。
というわけで第1回目の実験日がやって来た。つつがなくその日の授業を終わらせ、来週の授業までに提出する自己分析課題を至極雑に片付けた後、最寄駅から駅に直行。時刻は午後4時40分。下車後は北を目指し、例の廃墟へ徒歩で移動する。先週の金曜日にイドが話していた通りの構造だった。鉄筋コンクリート製の5階建てで、本館にめり込む形で1階から最上階にまで続く円形の吹き抜け部分がある。構造的にも地形的にも立地的にも、人は寄り付きにくいのが目に見えてわかった。市を管理する人たちも面倒くさくて手を付けていないのだろう。
恐らくかつては正面出入り口だったのであろう空間から内部へと侵入し、一応の全区画再チェックを終えて再び正面出入り口へと集合する。別行動から戻って来たイドは、いつの間にかやけに錆びた草刈り鎌を1本、それに竹箒を1本ほど携えていた。オレンジがかった木漏れ日に目を細めながら駆け寄る。
「それは?」
「最初に周辺の草刈りやっとこうと思って。悪いけど飛行実験するとこの掃き掃除って頼める?」
「やります」
「ありがとう。じゃあ一通り作業したら向こうで集合しよう」
颯爽と外に駆け出すイドを見送り、とりあえず例の吹き抜けへと向かった。正面出入口から入って左手に進めばすぐである。
直径20m、いや30m近くはあるのだろうか。何のための吹き抜けなのかはデザイン学科の自分でもてんで見当がつかない。建築学科の人たちなら何か解るかもしれないが、全員が知らない人だから聞き込みに行くとしてもだいぶ先の話になるだろう。というか入学したてホヤホヤな一般高校上がりが大多数を占めるような学科にそんなことを聞きに行ってもどうせロクな回答は得られない。……等と考えながら、枯れた落ち葉の吹き溜まりを竹箒で押しのけ、吹き抜けの壁にぽっかり空いた外部通用口へと一気に掃出す。意外とあっさり片付いた。ので、イドが合流してくるまで改めてこの吹き抜け構造を調査する。
一言で表すなら“異様”、ないしは“異質”の二文字が当てはまるだろう。気味が悪いほどに完成された静寂に全身を囲まれ、あちらこちらに注視しながら吹き抜け構造の底を歩く。排水溝を1か所のみ存在する白い正方形タイル敷きの床。窓の無い曲線形の内壁。その内壁に張り巡らされた金網状の足場は各階層ごとにドーナツ状に設置されており、これらの足場を螺旋状の階段が一繋ぎにしている。一応5階に至るまですべての足場を歩いてみたが、壁に埋め込まれた部屋や隠し扉が見つかるわけでもなかった。他にあるモノと言えば本館?とここをつなぐ出入り口と、外に通じる通用口のみ。見上げれば青空。屋根や天井といったものは存在しない。
「──草刈り終わった」
下を見ればイドがいた。マウンテンパーカーをピッチリ着こんだニット帽でこちらを見上げている。最初の威圧感が単なる錯覚に思えてきた。今なら単に目つきが怖すぎるだけの女性だと思える。本当に目つき怖いなこの人。
「実験できる?」
「できます。草刈りお疲れ様で……」
螺旋階段を急いで駆け降り、イドの元へと歩く。本日の実験内容……というよりは単に「今の段階で立証できそうな仮説」がズラっと陳述されたノートを取り出し、一つ一つの項目をチェックしていく。
「とりあえずリストにあるやつは今日中に確認するんですよね?」
「追加で仮説立てて時間あったらそれも立証したい、かな。カッターは?」
「こちらに」
「あれ以来出血は?リスカ飛行は?」
「どっちもしてないです」
「解った。じゃあこれが2度目の飛行か」
「今日の体調に関してはその付箋にある通りです」
「これ本当に助かった。定期的な実験をする上で一番大切なデータだからね」
「……多分1階は血の池になるので、できるだけ高いとこから見てもらったほうがいいかもです。押し流されて怪我したりするとシャレにならないので」
「じゃあそこの足場で観察してるわ。そっちも怪我は気を付けて」
イドは内壁足場の2階へと登る。一方の僕はとりあえず1階の中央部に立ち、昨日使ったものとは全く別のカッターナイフを構え、その刃を左手首に添えた。一応の対照実験である。実のところあのカッターナイフに秘密があるのか僕の体に秘密があるのかは未だ判明していないため、第1回目の飛行は昼に購買で買った新品を使うことにしていた。当然飛ばなかった時のために昨日のカッターナイフも一緒に持ち込んでいる。
初めてのリスカはそれほど怖くもなかったはずなのに、今は単純に自傷行為が怖い。馬鹿になりきれていない証拠だ。だが自傷しないことには実験が始まらない。馬鹿になれ。実験に付き合うと宣言した以上は、しばらく生きようと判断したならとりあえず切っとけ。昨日の通りに飛べるとするなら痛覚を麻痺させたまま飛べるはずだ。一度頭を空っぽにして機械的にぶった斬れ。
「……斬ります」
勢いよく斬った。初めてリスカした時と同じように、順手で深々と。太めの血管を複数本まとめて一直線に。途中で腱に刃を妨げられたりはしたが、何とかこれを乗り越えて傷口を作れた。さっそく赤黒い鮮血が直線の底から滲んでくる。刃の冷気はまあまあ感じたが激痛と呼べる激痛は全く来ない。斬る瞬間ですら無痛だった。そして血液が段々、段々派手に溢れ出て──
「──来た!?」
「来ました!行きます!」
尋常ならざる内圧を手首に覚え、反射的に傷口を下に向ける。手首の固定位置は股間の手前。昨日と同じように立ったままパン生地をこねる姿勢で、無傷の右手を出血真っ最中な左手の甲に添える。内圧、否、血圧は意志とは無関係に引き上がる。
あのカッターナイフではない。この現象の核心は僕の肉体が秘めている。対照実験の1つはこれでクリアした。僕の方が異常だ。今さらながら自分が人間なのかどうかすら怪しくなってきた。
そうこうしているうちに足裏から圧力が消える。エレベーターの上昇に似た重圧を覚え、もう一度足元を見た時点では2階で待機していたイドを見下ろせる程度の高度に達していた。1階は波紋状に激しく波打つ血の池地獄と化しており、イドはそんな下界のことなどまるで知りもしないように、驚きと探究心が混在した表情で僕を見上げている。キツい目つきはそのままだから怖いのに変わりはない。
今の高度は恐らく12mかそこらであろう。丁度地上4階と同じくらいの高さでホバリングしている。昨日よりは明らかに高度が足りていない。クソデカ流血の大音量が吹き抜け全体に木霊しているせいで鼓膜が常に踊り狂っている。音響だけを解りやすく例えるならかなり大掛かりな滝行に興じているようなモノである。滝行やったことないから正しい比喩なのかは知らないけど。
「……僕の声聞こえてますかー!?」
「────!!」
「何てー!?」
「──────ッッ!!!!」
イドの声自体は何となく聞こえるが、その内容までは判別できなかった。飛行中にイドと会話ができないのは中々問題あるんじゃないだろうか。
試しに初めて飛んだときの感覚を思い出し、噴射出力を抑え込むように念じてみることにした。念じるというよりは自転車のブレーキレバーを適宜調整するあの感覚に近いかもしれない。それもちょっと違うか。
徐々に高度が下がる。高度設定とその維持は、もう少し慣れればもっとスムーズにできるようになるかもしれない。手首の微細な方向調整を何度も行い、吹き抜け中央からイドの立つ足場へと接近する。
「声聞こえますか?」
「聞こえてる。一回整理しよう」
「仮説1に関しては“否”でした。カッターの種類に関係なく、何かで手首を斬って出血すれば血液ジェットの条件が揃うっぽいです。あと斬るときと斬った後の痛みが全くなかったです」
「他の自傷行為とかもやってみるべきかもしれないけど、概ねそんな感じっぽいね。んで少し飛んで仮説4。高度の調節やある程度の自由な移動も可能…可能ってことでいいのかな?」
「さっきやった通りです。慣れればもっと自由に……」
駄目だ、目の前を見ながらべらべら喋ってると姿勢制御が覚束なくなる。定期的に手元を見て手首の位置や肘の曲げ方、重心の乗せ方を見直さないとそのうち確実に事故るだろう。現に今一瞬重心バランスが危なくなっていた。
「……要練習ですねこれ」
「要練習ね」
紙のノートへ引っ切り無しに文字を書き込むイドの手を眺め、できるだけ体が回転しないように震えながら姿勢制御に神経を割いた。やはり安定させるのは難しい。向き合った姿勢を維持するだけで体力の消費量が跳ね上がる。
「…どした?」
「1点を見つめたまま姿勢制御できないかなって思ってノート見てました」
「その調子だと今から血圧測定は難しそうかな」
「やるだけやってみましょうか…?」
「柵がないからここで作業するのはちょっと無理あると思う。母が昔使ってた血圧測定機を辛うじて持ってきてるけど、これが壊れたら色々困るから」
「追々やっていきましょうか。」
「追々ね。……2と3やってみる?」
「そろそろ肘が限界なのでやります」
仮設2、「噴射終了後に自傷箇所は完治する」と、仮説3、「噴射終了後は体外に放出された血液が全て消滅する」の立証のため、徐々に噴射出力を弱める。やはり慣れが足りていない。念じれば出力調整は自由自在なのだが、何か妙に感覚的に操作できないというか、他人に命じて操作させているような感じがする。脊髄反射で自転車のブレーキを絞るアレとは明らかに違う。ノートの余白にまとめておくべき事かもしれない。
「……着陸いきます」
既に深さ20cm程度となっている血の池へと靴を沈める。跳ね返る無数の血液に安物のジーンズが鈍く斑に汚染される。
噴射全停止。重力に全身を委ね、膝のクッションにある程度頼りながら、紅の地獄へと着陸した。
血の池が音も立てずに消滅する。傷口が乾いた破裂音と共に閉じ切り、直後、僕の足元に収束する形で瞬間的な突風が吹き下ろされた。風音は血液の噴射音と同じように吹き抜け全体で木霊し、やがてここに訪れた当初のモノと同じ静寂が訪れる。仮説2はとりあえず立証完了。痛みは勿論のこと傷跡の一筋すら見当たらない。
「……この突風こないだも発生してました」
「あれかな。急に空間から物質が消えたせいで真空が発生して、そこに空気がなだれ込んだとか」
「あー辻褄合ってるかも。あっ」
「耳キーンってなった?」
「なりました。気圧急変の証拠か……」
「頭クラクラしてきた」
「同じく……慣れでどうにかするべきかなこれは……」
仮説3も立証された。ついでにこれに伴う副次的な現象が発生することも確認できた。噴射した血液の全質量が消失すれば、当然その質量が占めていた空間が真空状態となる。そんでもって周囲の大気が一斉になだれ込むせいで大きな気圧の変化が生じる。考えてみれば消失後無条件に大気が精製される方が奇妙という話でもあるが。
というかこの現象、物理学的観点から「どの辺がおかしくてどの辺が自然科学の範疇に収まっているのか」を比較できると考えればさほど怖くもないのか。言うて高校の頃の物理の成績は留年しかねないレベルで悪かったが、まあ、うん。解んないとことかあったらネットで調べよ。
「手首完治してる?」
「完治してます。2と3はこれでクリアですね」
「斬って治してとか繰り返してみるべきかな」
「了解です。そこ血飛沫めっちゃかかりそうですけど大丈夫ですか……?」
「どうせ傷閉じたら血液も消えるし問題ないんじゃない?」
「なるほど確かに……」
よくよく考えてみるとこの特性はかなり好都合なのかもしれない。仮に血液が消えてくれなかった場合は後始末に相当難儀する羽目になるし、そもそも血液による物理的な汚染というのは衛生的にも精神的にもかなりキツいものがある。血中に含まれる老廃物なんかの総合的な汚さで評価した場合、人間の血液は人糞と同じかそれ以上には衛生上最悪な代物であるというし、まあ何にせよ消せるだけでもありがたいことだろう。原理は解らないが。自動的に生成される真空に関してはちょっと危ない気がするから注意すべきかもしれない
いずれにせよ消そうと思えば消せる代物でよかった。人糞並みに汚い自分の体液を数mgでも異性の身体に浴びせることは憚られたので、誤ってイドに血液をぶっ掛けたとしてもすぐに消せるというのが非常に助かる。そもそも浴びせないことが第一なのは変わらないけど。
「しかし面白いな。とりあえずもっかい手首斬ってくみてれる?」
「はい。……やっぱここでやると絶対イドさん汚れるのでまた向こうに──」
「いやだからどうせ消せるんだしここでやっていいよ」
「消せはしますけどやっぱ血液汚いですし」
「だから最終的には消して解決すりゃいいんじゃん」
「いいんですかそんなんで」
「駄目ではないでしょ」
……まあ、本人がそう言うなら話は別だ。周囲への汚染を気にすることなく、今度は目の前で左手首を掻っ切る。手首は上に向けたまま。さっき得た感覚から少し試してみたくなったこともあるからだ。
「あ、できれば右でやってほしかったかな」
「やり直しましょっか?」
「このまま継続でいいよ。まだ出力上がんないのこれ?」
「最初は低出力で噴射するように意識してやってみました。血の気が引いたり痛覚を感じたりってのは全然ないです」
「なるほど」
「意識して少しずつ出力上げると……こう」
「おぉ……」
顔より高い位置まで血液の曲線が舞い上がる。やはり練習すればもっと細かい操作も可能なのか、ちゃんと噴射口を注視しながら出力調整をすれば意識高めの噴水みたいな芸当もできてしまうらしい。何度も出力を上下させて血液の最高到達高度を変え続ける。
「すげ。意識高い系の噴水みたい」
「意識高い系の噴水を意識して飛ばしてますから」
「力んだり緩んだりじゃなくてマジで念じただけで調整してるそれ?」
「あ、そこなんですよ。なんか他人に命令して自転車のブレーキ握らせてるみたいな違和感あって」
「メモっとくねそれ」
「ほかイドさんから見て気づいたこととかってあります?」
「んー、これ違和感つってもいいのか、あー……」
イドは両手を胸の前でワタワタしながらしばらく黙る。顔怖いのくせにこんな手癖あるんだなこの人。
「……なんかね、声が聞こえないんだわ」
「それ単純に噴射音が反響しすぎて何も聞こえなくなってるだけなんじゃないですか?」
「違う。私の声ってそっち聞こえてた?」
「まあ何言ってんのかは解りませんでしたけど聞こえはしましたね。聞こえは」
「私は一切聞こえなかった」
「声が?」
「声すらも。てか一回で血の池が波立ててるドドドドドドドって音しか“拾えていなかった”ってのが正しいかな」
「……?」
「まあうん。そんだけ」
「なるほど」
なるほど?ちょっとよく解らないが記憶はしとこう。後々新しい法則や性質が判明してくるかもしれないし。
「とりあえず右手斬りますね」
「あ、うん」
イドの目の前で右手を切り開く。問題なく出血できたし問題なく傷口も閉鎖できた。
「他の部位もこんな感じで治んのかなこれ」
「とりあえず全身切り刻んでみますか」
「止血用に救急箱持ってきてるからガンガン切っちゃっていいよ」
「了解です。刃の劣化の方が心配になってきたな…」
「一応替えの刃も持ってるから心配無用」
なら安心だ。何回か両手首を切ってその度に全部治す。同時に二か所切って同時に治す。手首だけにとどまらず、手の甲や足首にも切り傷を作る。全部問題なく治った。凡そ15分間もくもくと身体を切り刻んで治す作業が続く。
結論、僕の身体は外傷を与えても瞬時に回復する、同時に任意の出力で物理的には説明がつかない質量の血液を放出することができる。あとついでに判明したけど「外傷を与えないと能力が発現しない」というのも判明した。実験始まったばかりだけどいいのかこんなペースで解明できてしまって。
「どれだけ深く切っても治るか……」
「一回両断とかしてみましょうか?」
「いや、戻らなかった場合のリスクが大きすぎるしそもそも手首をぶった切れるような刃物がないから……」
イドは何かを思い出したかのようにカッターナイフを手に取り、唐突に僕の左手首へ刃を突き立てる。痛みはなかったがあまりに突然のことだったから思わず漏らしそうになった。
結局これもあっという間に治ってしまった。本当に唐突すぎてびっくりしたな。
「不意打ち御免。君以外が切っても発現するのかはちゃんと確認しておきたかったからね」
「心臓に悪いので次はちゃんと宣言していただけると助かります」
マジで心臓止まりかけたけどもう1個特性が判明したし良しとしておこう。と言っても他人に切ってもらう機会自体そんなになさそうだけど。僕自身の自傷行為でなくとも傷さえあれば治る。多分血液も噴射できる。駄目だ普通にびっくりしすぎて鼓動が加速しっぱなしだ。
「……何か?」
「何でもないです」
クソッタレ。実験のためとはいえ段々ムカついてきたな。何も悪びれないと来たかこの人。
「進行グダったな。限界高度は人目に付きかねないからしばらく計らないものとして、とりあえず次は飛行の限界時間計ってみよう。制限高度から上にはいかないようにね」
「もしかして後半ずっと飛びっぱなしですか」
「飛びっぱなし。門限いつよ?」
「無いですけど終電までには帰りたいですね」
「じゃあどんだけ長引いても7時くらいまでやったら帰るようにしよう。キツかったら好きなタイミングでやめて大丈夫だから。ここから市街地まで100mちょっとだけど山の中だからそれなりに危ないし早めに撤退したほうが安全ではある」
「了解です。……あと2時間か……」
「2時間近く飛びっぱなしだと本当に暇になると思うけど問題ない?」
「これ以外特にやりたいこととかあるわけじゃないので大丈夫ですよ」
言い終えて手首を切る。イドが事前に制定した「制限高度」とは即ち吹き抜けの高さに等しく、「この施設より高いとこまで飛ぶと近隣住民に目撃されかねないからやめとけ」という意見に基づいて制定されたものである。初めて飛んだ時の高度より身長一つ分くらい低めの高度である。若干モタつきながらも再度飛び立ち、
「2時間飛びっぱなしだと多分そっちも暇だと思うんですけどー!!!」
「────ッッ!!!」
「そっかこっちの声聞こえないのか」
「──、──、──、──ッッ!!!!!」
「……か、い、だ、し」
「──ッ──、──、──ッッッ!!!!!!」
「行ってくる。“買い出し行ってくる”?なのか」
コクコクと頷くと、イドも軽く手を振ってから靴と靴下を脱ぎ始めた。続けてズボンの裾をたくし上げてからタオルと靴類を引っ提げながら段を駆け下り、血液の波しぶきで混沌に染まった1階へと素足を踏み入れる。壁伝いにざぶざぶと歩きながら外部連絡口から街の方へと消えていった。駅前のコンビニにでも向かうのだろう。暫く孤独に空を飛ぶことになりそうだ。
とりあえずこの姿勢を維持する傍らで飛行の安定化も図ってみよう。まずは真下を向いたまま1分間静止する。慣れてきたら目の前や別の目標物を見ながらの姿勢制御もこなす。滅茶苦茶ダサい姿勢なのはいずれ改善していきたいものだが、なんだかんだでこの飛び方が一番安定するから打開策が思いつかない。
ふと空を見上げた、時刻は5時15分。滝のような轟音の中で数日ぶりの孤独を噛み締める。長らくこの静寂を忘れていた。脳裏にイドとこの能力のことがずっと居座っていたせいだ。試しに思いっきり空気を吸い込んで吐き出す。
潮風交じりの神奈川の空気だ。森の香りが染み込んで離れない茨城の実家を思い出す。出来の良い兄たちにどつき回されていた日々が懐かしい。どこにも馴染めずに終わった高校生活が無駄に恋しい。そのくせ僕の私物をまとめてゴミに出していた両親の顔は微妙に色褪せている。こっちに引っ越してから2週間近くしか経っていないが、好きでも何でもない実家に早くも哀愁を覚えていた。あの場所には孤独も存在しなかった上に拠り所も存在しなかったけど、神奈川の辺境なんかよりは色んなものに溢れていた。
今の僕には大学があって僕の部屋があって、この実験場があって。こんなにもふざけた能力があって。そしてイドがいる。それしかない。拠り所にしていいのかは解らないけど、少なくともイドは僕に期待してくれている。何も期待されないよりはマシだし、何の期待にも応えられないよりはマシだ。生きていてツラいわけじゃない。
今の生活が、イドとの実験の日々はそれなりに好きになれるかもしれない。少なくとも悲しくは無いし虚しくもない。何ならこんな実験と発見の日々がずっと続いてくれてもいいと思っている。デカい手でノートを拡げて熱心に発見した事項を書きこむイドが好きなのかもしれない。毎度のことながら顔は怖いんだけど。あと単純に飛んでると気持ちいいんだ。対抗気流でも横風でも全身を冷やせる。コートがそれなりに重いせいで肩にも首にも負担はあるが、夜風とも潮風ともつかないこの風を浴びている瞬間は純粋に好きになれる。純粋に愛せる。
「……ふははは」
人知れず笑いをこぼす。ようやく「死ななくてよかった」とか思えてしまったらそりゃ誰だって笑うだろ。生きてて当たり前なのに死ななくてよかったはあまりにも人間すぎる。馬鹿らしくも当たり前すぎてニヤけるしかない。パン生地を捏ねるときのクソダサポーズのまま口元を釣り上げてしまう。
生きててよかった。そのうち心の底からそう叫べる日が来るかもしれない。いつの間にかズレていたホバリング位置を修正し、藍に染まりゆく上空をもう一度見上げた。まだ初日だ。実験は始まったばかりだ気合を入れていこう。
:
──帰宅。初期の頃に感じていた肘の疲労はほとんど感じなくなった。感じはするが無視できるようになったと言った方が正しいかもしれない。結局あの後7時15分くらいまで飛びっぱなしだった。
血液は無尽蔵に溢れ出てくる。故に無限に飛べる。それらに加えて、買い出しに向かったイドはまた新たなる性質を発見していた。「僕から遠ざかる血液は一定距離に到達すると同時に自動消滅する」らしい。連絡口から漏れ出る血液が近隣住民の目に触れないか心配だったがこれも杞憂に終わりそうだ。外部に漏れ出る血液は連絡口から5m近く離れると消える。ホバリング時の高度をザックリ15mとしておいて、実験場の中心から内壁までが凡そ15mであると仮定しよう。血液の消失ポイントは連絡口から凡そ5mとのことだから横方向に+5mして底辺20m。三平方の定理によりこの“一定距離”が25m程度であると仮定できる。
今日は早めに飯と風呂を済ませて寝よう。体調の記録は忘れないように気を付けておかなければ。なんだかこっちまで面白くなってきている。既に明日の実験が待ち遠しいんだ。日よ早く登れ。僕はもう少しだけ飛んでみたい。限界高度があろうとも僕に飛ばせてくれ。
「おはよう。……ございます」
「おはよう」
同世代の異性とこういう挨拶を交わしたのは何年振りくらいだろうか。昨日と違う服ではあるが昨日と同じように全身真っ黒なイドの隣に座る。午後の2時間連続授業、その間の10分休憩の時間だった。初回授業だけあって内容と呼べる程の内容はない。実際「将来どんなデザイナーになるべきか」をA4プリント1枚に手書きするだけの作業に90分割いたわけで、授業1回につき2000円弱も払わされる身としては非常に遺憾でならない。
顔は合わせないまま日中の必要作業を行う。情報の交換と軽い打ち合わせだけなので数分もかからない作業である。
「これ、今日の体調データです」
「ん。……数値全然変わってないな?」
「普通に生活してるだけなのでそんな急激には変わんないですって。フィジカルに応じて飛行距離や高度が変わるかもしれないからできるだけふり幅大きくした方がいいんでしょうけどね」
「なるほど。食事抜いたり寝なかったりで色々試せるかもしれないな」
「徹夜はしばらく勘弁してほしいな……」
「?」
「なんでもないです」
「そうか」
徹夜だけはしばらく御免被りたい。心臓に悪すぎるよアレ。どっかの誰かのせいで脈拍バックバクのまま一睡もできずに8時間くらいぶっ通しで起きていなきゃならなかったんだから本当にしばらくは勘弁してくれ。飯抜きくらいならやってもいいけど徹夜だけは嫌だ。まだ新鮮なトラウマとして脳内再生されるからできる事なら徹夜の2文字すら見たくない。
「なんか顔色悪いけど今日実験行ける?」
「ええモーマンタイですとも」
「ならいい。実験内容はノートにまとめといたから、昼休み中にでも確認しといて。ここで長々話してると盗み聞きされかねない」
さりげなく手渡されたノートを瞬時にカバンにしまう。落としたら大事な代物だから絶対になくせない。背負ってるだけで一昨日までの胃痛がぶり返してきそうだ。胃痛ももう勘弁してほしいなぁ。
「……迂闊だった」
「?」
HBの鉛筆をくるくると回しながらイドは唐突に独り言ちた。これ僕に語り掛けてるのか?
「学科内で私たち2人が旧知の仲なのかと囁かれているの観測してね。この時期下手に注目浴びると行動しづらくなるから」
「ああ、構内での接触の機会は極力減らした方がいいかもですね」
「うん。昨日はその辺気にせずに声かけてごめん」
「いえいえ。……トイレ行ってきます」
「席移るから。何か連絡あったらLINEに送っといて」
結構重要な話だった。昨日のあの座席でデカめの声を上げてしまったのが割と響いていたのか。こちらに絡んできていきなり秘密に干渉してくるような輩が出てこないように注意する必要がある。十分気をつけよう。
そういえばあれ以来一度もLINEを介して会話していなかった。口頭で全部事足りてるから別に問題は無いんだが、そういえばイドが大学構内でスマホをいじっている姿というのは全然見たことがない。僕が飛んでる映像を見せて貰った時くらいしかなくないか?
『──はい休憩終了でーす。スマホしまってねー』
ノビた号令が上がる。どこを見ているのか解らない糸目で教室全体を見渡しながら教授は立ち上がる。後半90分の開始合図。完全にトイレ行く機会逃したなこれ。午後に体力測定控えてるし早めに用を足しておかないとな。てかこれ昼休み挟まずに始まるやつだったか?
:
廃墟に到着。実験第2回目。朝から曇ってるせいで気温もかなり低い。実験場も冷え込んでいた。そもそも飛行実験エリアが日光を通しにくい構造なのが良くないのだ。1階部分の出入り口と本館との連絡通路が開いているおかげで辛うじて換気もかなっているらしいが、今回はその風通しの良さも相まって余計に寒さが増していた。
「……この辺自販機とかありません?」
「ないかな」
「ないですかぁ」
「てか駅かコンビニまで行かないとトイレないし水分関係のアレコレは先に済ませといてほしい」
「それ割と重要なことなんじゃ」
「先に伝えとくべきだったごめん」
「あいや、大丈夫です。実験終わるまでなら十分耐えられます」
「OK。じゃあ昨日決定した通りに」
クッソ。大学の休み時間に引き続きまたトイレチャンスを逃した。まあ大学で食らった便意は出発前に片付けてきたから別に問題は無いんだが、小ならともかくここで大を催したら人生が終わりかねない。警戒しておこう。特に今みたいな時期は急性の腹痛なんかでいきなりウンコしたくなるケースもザラだから注意しておくに越したことはない。
「最初は上昇と出力調整の練習、次に定点ホバリングを5分。それが終わったら実験ですね」
「よーしレッツリスカ」
さっそくカッターナイフを取り出し、吹き抜けの中央へと歩きながら左手首を掻っ切る。最初の噴射出力は0(仮)。通常の出血とは違いそもそも血液が一滴たりとも外へ滲まない状態を維持している。あくまで独断で決めた数値づけだが、これに伴い通常出血の出力を1、通常出血よりも遥かに高いが自重(52kgと+α?)を持ちあげる程ではない出力を2、自重を浮かせるあたりから3と定義づけることにしていた。昨日寝る前にザックリ考えたモノなので後日しっかりと、できれば「1秒間に何L出せたら出力が何で~」みたいな数値基準を作っておきたい。これのための計測方法なんかはまた追々考えていこう。
出力2(仮)をすっ飛ばして一気に3(仮)まで引き上げる。一気に高度が上がった。
「あっ、なんか安定してきた」
「─────ッ!!!!」
「……ここまで飛ぶと会話できないんだった」
また忘れていた。イドの頭上より更に高い高度に到達すると、肉声での会話が困難になってくるのである。何か指示を貰う場合は一度2階あたりにまで降りないといけないのがシンプルに面倒くさい。
練習がてら、“アレ”をやってみるか。仮に空中で事故った場合に備えて練習もしておきたかった技だし丁度いい。
「今そっち行きます」
噴射出力を変更。3から2段階飛ばして一気に0へ。まず初めにこの惑星の重力に身を委ねる。直下で渦巻いていた血の池地獄が綺麗さっぱり消滅し、消滅したエリアへと周囲の大気が一斉になだれ込む。
「…っ!!」
今一瞬目が合ったけどめっちゃ驚いてくれたなあの人。全然驚かせるつもりはなかったけど、こうも綺麗に驚いてくれるとこちらも落下のし甲斐があるってもんだ。重力加速度9.81m/s^2に身を委ねて、飛行姿勢を維持したまま自由落下する。
自由落下開始から約0.5秒経過。“ここ”だ! 地面に激突する前に地上へ逆噴射してもう一度飛翔する! 相当の衝撃と圧力は来るだろうがこの高度ならまず……
……違うやっってしまった!出力0で固定するはずだったのに傷口を思いっきり閉じてしまっていた!!そしてカッターナイフを尻ポケットから取り出せない!!!一度完全に傷口を閉じたら再度自傷しないと血液は再噴射できない!!!!僕の大馬鹿野郎!!!!!こんな最序盤で事故る馬鹿があるか!!!!!!
「…馬鹿おま──!!!」
イドがキレるより一瞬早く両足が地に着く。全方位にかけて床の舗装がひび割れ、劣化したコンクリートに足首まで沈む、接地面から脳天にかけてとんでもない衝撃が貫通した。膝のクッションが効いてくれたおかげで足裏以外どこも打ち付けていない。
模試でほぼ同じ問題を解いたから何となく覚えている。地上約12m?あたりからの自由落下だから、空気抵抗を考慮しなければ着地直前の速度が大体15m/s。法定速度でかっ飛ばしてる車と同じ勢いで足から壁に激突したのと大体同じくらいの衝撃である。もう数m高い位置から落ちていたらこの威力が更に何乗かされてしまっていただろう。モロめの床が申し訳程度の緩衝材になってくれたおかげで今回こそ無傷で生き残ったものの、着地をミスって骨折しかねなかったのもまた事実である。本当に今回は骨折してないだけマシだ。マシというか奇跡だ。まだ尾骨がビリビリ震えてて立ってるので精一杯みたいな状態だが骨は無事でよかった。
「怪我は!?」
「してないです。ごめんなさい失敗しました」
血相を変えてこちらに駆け寄って来たイドを片手で制止し、呼吸が整うまで少し待ってもらった。呼吸と脈拍は徐々に収まりつつあったが今度は冷や汗がエグい。コートの中が異様なほど蒸す。
「何やろうとしてたのアレ?」
「そのなんというか逆噴射で地面にギリギリ衝突しない~みたいな……」
「あぁ……間違えて傷口全部閉じたでしょ」
「はい。すんません馬鹿で……」
「……ともあれ無事でよかった」
出力0の更に下に、傷口が完全に閉じ切った状態を表す記号を作っとくべきだ。ひとまず仮置きでNニュートラルとしておこう。飛行中のNへの移行はこの通り大変危険らしい。N化を誘発するような出力0への移行は極力避ける方向で飛ぶべきである。もしくは無意識にN化しないように出力0へ移行する練習を積んどくべきだ。
「死なれたら困るから気を付けて」
「はい。二度目は防ぎます」
「……本当に気を付けて」
申し訳なさでいっぱいになってしまった。こういう失敗は死ぬほど引きずる癖が治らない。昨日の「飛ばせろこの野郎」みたいな気概が一気に萎れていく感じがした。
「あ、えと、この話はここでおしまいだから大丈夫」
「了解です。……あとでもっかい逆噴射試していいですか?」
「もう少し低めの高度でならまあ、うん、やっていいんじゃないの」
出力調節と瞬間的なリスカの練習も兼ねた上昇訓練を何度もこなし、その後は5分間の定点ホバリングを行う。やはり手元が安定しない。まだ慣れてないだけだ。じきに慣れる。そこまで運動が得意なわけじゃないが継続しないよりははるかにマシだろう。ホバリングの終わりには必ず急落下と逆噴射で〆た。今度こそ狙った通りに成功してくれた。
「ナイス着地」
「今度は成功させました」
小休止を挟んでいよいよ本番である。実験というよりは特訓に近いかもしれない。旋回に斜め急速上昇に空中での急停止に急旋回、あと方向転換なんかも合わせて十種以上に膨れ上がった「理論上は可能そうな動き一覧」を全部こなすのが今回の飛行の目標である。
「安全そうなやつからこなしていこう。最初はホバリングしたまま前移動と後移動。できたら左右移動も」
「その後は内壁に沿って時計回りと反時計回りでそれぞれ一周ずつか。これくらいならまあ何とか……」
「次が難しいかもね。前移動中にピンカーブして180°回頭したり、あと斜め上昇下降系か」
「追々やってくしかないですね」
「追々やってこう。そっちには声届かないっぽいから中断の合図はこれにしとくね」
腕を胸の前でクロスさせる合図だった。見逃さないためにもたまに下の方に目を配っておく必要があるな。
「そんじゃボチボチ始めていこう」
「はい」
飛翔、そしてホバリング。飛行姿勢を維持したまま前方に移動する、内壁に激突する寸前で止まり、続けて後方に移動。着地をミスってぶっ壊した床を目印に再度飛行場中央へと戻り、今度は右へ、そして左へ。もう一度右へ、中央へと戻るなりまた前進。今度は内壁に激突する直前で体を左斜め前へと傾け、足の向きと噴射方向を連動させたまま反時計回りに回転させる。180°回頭できた。ピンカーブである。勢いそのままで反対側の壁へと突っ込み、時計回りのピンカーブも難なく成功させる。よし大丈夫だ。斜め上への上昇もクリア。斜め下への下降も同じくクリアした。イドの実験中止合図は無い。このまま全課題クリアしてやる。
:
本格的に問題が浮き上がって来たのは内壁伝いにカーブする類の訓練からだった。弧に沿って軌道を描くため必然的に軌道の外側に向かって血液の噴射方向も傾くわけだが、これがなんとまあ滅茶苦茶に難しいのである。一直線に放射された血液があまり距離を置かずに壁に激突すると無駄な推進力が発生するため、いきなり進行方向がバグって急加速したり、後は螺旋を描くように中心部へと近づいてしまったりするのだ。副次的に「壁に激突しかけた際に壁に血液を噴射して減速する」や「減速後に後方へ急加速して壁から離脱する」といった危機回避のための技術は身についたわけだが、結局スムーズなカーブはなかなか身につかない。
あと壁に血液をぶっ掛けながら移動する都合上、僕が移動すると同時にイドも足場を走って距離を維持しないといけなかった。仮に血液で汚染してしまっても一度N化すればどうにかなるとは言えど、この噴射をモロに食らったら最悪の場合足場から吹っ飛ばされて地面に激突してしまう。結構運動できる方なのか息は少しも乱れていないように見えたが、時折少し心配そうにこちらを見つめてくるので余計に焦る羽目にもなった。今ようやくコツを掴みつつある。
「──よし行ける。行けるぞこれ」
そもそも内壁に血液を噴射すること自体が間違いだった。壁に噴射して無駄な推進力が生まれるならそもそも壁に噴射しなければいいだけの話だ。内壁からある程度の距離をとったまま俯角60°で血液をぶっぱなし、壁と床の境界線目掛けて噴射したまま重心制御で移動すると上手くいった。反対方向のカーブも同様に成功する。これを掴むためだけに20分くらいは無駄にしてしまったかもしれない。上空は既に赤が消えていた。
カーブ中の急速上昇も少しミスりかけたがクリア。カーブ下降の過程でついにタイミングを誤って足から壁に激突したが、咄嗟の判断で壁に噴射して離脱したら足場に墜落する前に飛行状態を取り戻せた。視界の隅っこでイドがガッツポーズしている。アレは多分僕の飛行練習史上一番かっこいい技だったろうな。僕自身もそう思える。相変わらず飛行姿勢はクソダサいままだけど今のはかっこよくキマってくれた。
急速旋回も無事故で突破。その一方で何かとんでもない違和感を抱えながら飛び続ける。ズボンの裾も靴の中もコートの袖も自分の血液でダビダビになるが、どうしても不快になったら着地してN化して血液を一斉消滅させるだけで解決する。これまでにイドの全身に合計2回血液をブチ撒けてしまったが、こちらもこの対処法でどうにかしてきた。N化後は死ぬほど頭を下げて謝ったが、イドはどれだけ血液に汚染されても全く意に介していないようだった。そういう性癖の持ち主なのかと一瞬疑ったがイドに限ってそれはないか。
:
気が付けば2時間が経過していた。7時10分。休憩を挟まずに飛びまくってたから喉がカラカラだ。肉体的疲労は驚くほど軽微だったが、代わりに「事故ったらアカン」という意識を2時間近くずっと保ち続けたせいで精神的な摩耗はそれなりにある。
「お疲れ。まさか1日で大体クリアするとはね」
「まだ複合技みたいなのはタイミング掴めなくてできてないですけどね。どうですか今日の実験は」
「大満足かな。ナイスフライトだった」
真顔でそんなこと言われても怖いだけだけど、まあ嬉しそうだし良しとしておこう。
そういえば気になっていたことがあった。この実験の最終的な達成目標って何なんだろう。
「んー、その能力の“性質の全貌解明”はまあ第一としておいて」
研究者とは程遠い風貌の黒服でしばらく黙り込み、イドは再び口を開く。
「……あとは“飛行技術の向上”?かな。研究していたいのも山々なんだけど飛んでる君が好きだから」
ストレートに言い切りやがったなこの人。仮にニュアンスが違っても異性に「好き」とか言われたら返答に困るんだが全然そういうのを知らないらしいな。平静を装って手首を眺め、首を軽く縦に振りながら返す。照明も光源も存在しない薄暗い吹き抜けの中でイドに向かい合う。
「モノにしてみせます」
「頑張って。日も暮れてきたし今日はここで終わりかな」
「ですね。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。お疲れ様」
実験場から山中の公道に出て解散した。イドはここから徒歩5分の自宅に。僕は駅に。
──飛んでる君が好きだから」
何度も胸の内で噛み締める。飛んでいる僕のことを好きと言ってくれた。
「……うん。頑張ろ」
頑張ろう。飛行技術の向上は僕の課題だ。今はイドのために出来ることをすべきだ。
3日目。午後の2時間しか授業が無いため、午前中に確保できる空白の6時間を全て自主練に充てがうこととした。実験そのものは放課後に行う予定だが、昨日一通りこなしたような初歩的な動作は脳死でこなせる程度に慣れておかないと、今後のイドの実験スケジュールに響きかねない。練習はできるだけやっておいたほうがいいだろう。
昨日改めて自覚した。イドは僕の力に本気で期待してくれている。自分自身で招いた遅れや不足で期待を裏切ることは許されない。自分の不足は全力を以て埋めるべきだ。
「……さっぶ」
実験場は相変わらず寒い。この施設自体が小高い山の若干北西側に位置しているため、構造云々以前にそもそも日光に晒される時間が極端に短いのである。考えてみれば寒いに決まっている。朝7時なのにまだ夜明けみたいなまどろみに包まれていた。空の色だけは一丁前に真っ昼間なままなのに、この壁の中だけはまだ朝を知らない。目が覚めるような冷気を抱え込んでいるくせにうっかりすると眠ってしまいそうな、柔らかい空気が少し心地よい。
通常通りカッターナイフで左手首を掻っ切り、傷口を上に向けたまま出力0と2を交互に切り替える。昨日のような失敗……無意識のN化を防ぐために、0と2の切り替えはこれから毎日、約5分使って練習することにしていた。0から2へ2から0へ。出力1通常出血状態ができる限り短くなるように繰り返す。たまにN化完全止血を挟んで再度手首をぶった斬り、また同じように何度も出力を変える。
これまでと同じように、若干ながら思考から実行に至るまでのタイムラグがあった。やはり看過できない。高度12mからの自由落下ですら地上へ衝突するまで1.5秒しか猶予がなかったのだ。これから先もコンマ数秒の油断さえあれば簡単に大怪我を負うだろうし、最悪の場合はどこかに激突して死ぬ。油断は勿論のこと、こういった動作ラグは飛行における最大の敵だ。
一般的な人間の場合、外界の情報を検知した上での反射反応速度は最速で0.25秒程度。昨日ググって得た知識である。僕が一般的な人間であるか否かに関しては大いに議論の余地があるが、ぶっちゃけた話血液の噴射能力以外の性能は本当に普通の人間と変わらないのだろう。
昨日の午前中に体力測定を行ってきたわけだが、全10種目の内「明らかに異常」と言い切れる結果は1つとして生まれていないのである。同世代の日本人男性の平均値より少しばかり貧弱な数値しか出てこなかった。肉体の強度や性能はもちろんのこと、反射速度も普通の人間と大して変わらないだろう。衝撃を加えればダメージを負うし、そもそもカッターナイフ如きが簡単に切り裂けるくらいには貧弱だし、反応速度だって人並み……いや、その手の運動に慣れていないだけ人並み以下だ。スポーツマンレベルとまではいかずとも、事故防止の観点から単純な反射速度も徹底して縮めていきたい。
だからこそ出力調整の実行にこんなタイムラグがあってはならないのである。いくら反射速度を上げたところで動作そのものにこんな遅れがあったら意味がない。噴射出力2を維持したまま意識高い系の噴水を模した流血を眺め、無傷の右手で鼻の下を覆う。
厄介なことにこの能力、筋肉の収縮や拳の開け締めのような直感的動作に関係なく、本当に「出力を上げろ/上げたい/上げるべきだ」と念じるか思考するかしないと使えないのだ。できることなら拳や前腕の筋肉の膨張収縮である程度の調節がかなうようにコマンドを作りたい。何度でも言うが自転車みたいに直感的に操作できないと駄目なんだ。「ブレーキかけて」と命令してブレーキがかかってからじゃ何もかもが遅すぎる。あくまで操作するのが僕自身じゃなければ絶対に確実に間違いなく事故る。
……いっそのこと、作ってみようかなコマンド。思い返してみれば口頭で「止まってくれ」ってお願いしたら噴射出力をオート調節して安全に着地させてくれた相手?だし、仮に僕に命令されて血液を操っている“何か”が僕の中に存在していると仮定するならば試す価値は十二分にあるし。よしやってみよう。
「……ちょっと聞いてほしいんですけど」
だから何で自分の傷口に敬語で話しかけてんだよ僕は。他人とタメで話したことが殆ど無いからって流石に傷口にまで敬語使うのはやめようよ。
いや、無理だな。いざタメ口で話そうとすると喉に単語がつっかえてしまう。ここまでくると病気と言って差し支えないくらい深刻な症状だ。肉親と会話するときでさえ敬語を手放せなかったせいで僕の中の「タメ口」はあまりにも幼い。ニュアンスに不備の無い敬語で一言一句丁寧に願おう。結局落ち着いて話すのが一番だ。
「……血液操作のタイムラグを無くしたいので、もしよろしれば僕の筋肉の収縮でどうにかなるようにしていただけると幸いで──」
──瞬間、“何か”が変わった。
何かが変わったとしか形容できないが、具体的に言うなれば「感覚が変わった」というのが正しいかもしれない。全然具体的じゃないのは置いといて……そうだ、左手首に明らかな負荷が加わっている!前腕の負荷がさっきまでとは桁違いだ!
「……マジで?」
マジかもしれないから今すぐに試そう。噴射出力N。傷口を閉じ、服と周囲に飛び散った血液を一度完全に消滅させる。足元を吹き荒れる突風と破裂音をガン無視して再度左手首を切り裂き、カッターナイフをポケットに収納したのち飛行姿勢へと移行しる。拳を閉じきった状態で手首の中にのたうち回る内圧を押さえつけて……
……一気に手を開いた。足元から圧力が、左手首の中から内圧が消える。視界が縦にブレる。背中を日光が焼く。全身が左前腕を中心に時計回りする。横風が容赦なく全身を襲う。目の前が一瞬真っ白に染まり、数秒足らずでまた復活する。
前腕筋肉での出力調整、成功。高度は不明。ようやく視界が安定した頃には、飛行実験場は遥か下にあった。豆粒ほどではないが、開いた左手の指と指の間に丁度すっぽりと収まるくらい小さくなっている。
シャレになってないなこの高度。
「──うぉあああああああああああああああああ!!!!!?!?!?!?!?」
シャレになってない!!辛うじてコントロールは取り戻しかけたが横風のせいで全身が揺れる!!10階建てのマンションですら遥か下だ!!!!高度1kmの天井を余裕で突破しているかもしれない!!!!!!慌てんな落ち着け地上の状況を確認しろ駄目だ遠すぎて何も見えねえ絶対誰かのドラレコとかで映像撮られてるそれ考えるのは──
それを考えるのは、後でいい!!!!
受験期の泥沼を思い出せテギアラタ!!迷いに迷い負けに負け第一志望校を取り逃がし神奈川の辺境なんぞに流れ着いてようやく学んだはずだ!!昨日の落下事故でも学んだはずだ!!判断しなければ死ぬ!!!冷静に判断できなければ間違いなく死ぬ!!!ドラレコに記録されようが誰に観測されようが知ったことではない!!!!こんなくだらないところで死ぬことは許されない!!!!僕はまだイドに、イドの期待に応えきれていない!!!!!
「──出力0!!!」
横風に全身を冷やされ、飛行姿勢を辛うじて維持したまま、手首を内側に曲げながら拳を握りしめる。傷口は閉じ切っていない。鉛直上向きの ベクトルを完全に消滅させた。奥歯をガチガチ鳴らしながら一瞬の浮遊感を噛み締め、たった2つのキンタマをヒュンと縮こませる。
自由落下開始。仮にここを地上高度1kmと仮定した場合、地上までの効果時間は約14秒。残り約10秒と仮定する。落下直前の速度は100m/sを超える。何もしなければ新幹線よりはるかに速い速度で激突する。あくまで高度1kmと仮定した場合の話であって、もしかしたら既に高度10kmを越えているかもしれない。いずれにせよ何もしなければ死ぬ。判断と行動を誤れば死ぬ。だから今度こそ間違えない。
拳を開く。噴射出力が一気に上がり、僕の身長の数倍はある血の柱が手首から出現した。反動で腕が折れかけるが落下速度は著しく下がった。最初からこの逆噴射で降りればもう少し安全だったかもしれないが。こんなにも目立ちやすい都市郊外の空中でいつまでも自分の血液でジェットパックしていたら確実に誰かの目に入るし何なら動画だって撮られる。絶対にだ。絶対に動画が撮られないであろうシチュエーションで飛んで見事全身映像を保存されたからこそ言える。そういった撮影記録防止の観点から、最速で降りるには一部自由落下での高速下降が必要だったのだ。
更に手を開く。指の根っこが切り裂けるまで開く。逆噴射で減速こそ成功しているもののまだ地面との相対速度は相当なものだ。速度はまあ着地直前でどうにかなりそうだが、それ以前に大きな問題もある。考えたくはなかったが「飛行実験場を見失った」のがあまりにも痛手だ。人込みのド真ん中や人通りの激しい場所なんぞに着地したら不味い。まずは方角を確認しろ。7時台の快晴だ太陽なんざ一発で見つかる。太陽のある方向へと向き直れ。向き直った先がザックリ南東だ。
なんとか方向転換できた。次は地上の構造物からこの地域のどの辺を飛んでいるのか大まかに確かめる。この辺で僕が知ってる構造物といえば……
「……あっ!!!線路!!!」
太陽がほぼ体の正面にあって線路がその手前にあるってことは、飛行実験場のある山は恐らく僕のほぼ真後ろだ。噴射出力を更に高めながら死に物狂いで回頭する。そして視認した。例の山がある。あの雑木林の向こう側に実験場がある。直下の道路に通行者無し。通行人無し。高度はかなり下がってきたがまだ10階建てのマンションより高い。高度30mよりは確実に上だ。
上等だこのまま飛んで戻ってやる。飛行姿勢を前方方向に傾け、今度は左手の形を手刀っぽく変形させる。加速できた。指をすぼめてもっと加速する。更に加速できた上に今度は方向の調節が滅茶苦茶やりやすくなってる。指のわずかな変形で自分の身体が若干上昇したり加工したりしてるのが解る。空中での方向感覚まで一新されているかもしれない。
試しに目を凝らしてみたら飛行機の姿勢指示器みたいな表示が浮かんでいた。地平線と水平方向に一本の直線が表示されている上に、何となくの方角表示と高度表示まで完備されている。すべての表示が網膜にそのまま、赤黒い直線とブロック体っぽい文字で投影されている。原理は不明。いよいよ人間っぽさが薄れてきた。現在高度102m。目的地までの直線距離1014m。速度82km/s。周囲に比較物がないから解りにくいけど滅茶苦茶速いな僕?吹き抜けの最上部に到達する100mくらい手前でブレーキかけておかないとどこかしらに衝突して大怪我しかねないじゃないか。
と思っていたらあっという間に目的地が近づいてきた。出力0。空中で身を捻り、今度は足と左手首を前方斜め下に向けたまま拳を開く。タイムラグがない。狙ったタイミングで思い通りに操作できる。とてつもない反作用が全身を揺らす。徐々に減速しながら突入角度を深め。吹き抜けに突入した。
更に減速。安全な速度で肩から3階の壁に激突し、手すりの無い足場へと転がり落ちた。出力をNに戻す。重力で地面に縛られる感覚が妙に怠くて安心できた。
生きている。クソ高い場所まですっ飛んでしまったけど、無事地上まで戻ってくることができた。ぶっちゃけ車が通ってるのも確認できなかったしドラレコに偶然写ってたとかかもしれないとか考えるのはやめておこう。今生きていることを喜ぼうじゃないか。良い飛行だったぞアレは。
やっぱドラレコに偶然写ってるかもしれない。考えれば胃痛が発生するから考えたくなかったけど通報された後のことは考えておくべきだ。落ち着くために一回帰宅しよう。改めて思ったけどその手の人たちに囲まれた時に備えて逃走後の野宿を想定した装備も作っておくべきだ。仮に僕の能力が割れていた場合、いざ取っ捕まりそうになってから行動しても絶対に間に合わないだろう。
イドとの実験が始まったら諸々相談してみよう。昔と違って今は信頼できる相談相手がいるのだ。するに越したことはない。
:
「……Twitterにもインスタにもそれっぽい投稿なかったな」
「助かったんですかね僕……?」
「情報統制的なアレが敢行されてるかもしれないから何とも言えないけど。まあ大丈夫なんじゃない?」
イドは制限高度を越えた僕の飛行を咎めなかった。それどころか興味津々といった顔で飛行時の話を聞いてくれて、若干仕様が変わった血液噴射のシステムも一切の漏れなくノートに書き記してくれた。本当に僕の能力のこととなると熱心だ。
「……お騒がせしました」
「結果的には何も問題なかったから気にしなくていいよ」
「そんなもんでいいんですか」
「だって本当に問題なかったし」
デザイン学科生とはいえど工学部の人間がそんなんでいいのかと首を捻る。イドは意に介さず、というかそもそも僕の疑念に気付いてもいない様子でノートを畳み、しばらく熟考タイムに移行していた。
何かを思いついたのか、イドは唐突に僕の左手首を掴む。
「ッ!?」
「……」
「……ッッ!?」
「おかしいんだよな」
「何がですか……!?!?」
「一定高度以上に到達すると君の声が本当に一切聞こえなくなる現象と、近隣住民に一回も君の飛ぶ姿が目撃されていないのには何かしらの理由がある」
「あっ」
ヒンヤリと乾いたイドの肌が僕の手首を、手のひらを、手の甲をなぞる。童貞には辛い所業だった。一昨日唐突に切り裂かれた手首を事務的になでられて頭の中がバグりっぱなしである。
あっ、駄目だ。別に好意とかはないのに股間が痛くなってきた。やめろそれ以上触るな変な声が出る。あと股間が痛い。股間が痛くなってくるからちょっともうそろそろ──
「制限高度取っ払うか」
「……へ?」
「高度計?あるなら試しに高度100mまで飛んでくれる?」
「あ、実験ですかこれ」
「実験。10秒間高度をキープしたら急いでこっちまで戻ってきて」
何をしたいんだこの人は。若干前屈みになったまま左手首を切り裂き、飛行姿勢を作るなりとりあえず急速上昇する。高度115m。行き過ぎたので少し降下して100mピッタリに修正。眼下へと目をやる。
高すぎるな。昨日何であの高度であそこまで冷静になれたのか理解できない。これから10秒数えるだけでも結構億劫だぞこれは。
「──はち、きゅー、じゅっ」
数え終えた。出力0。自由落下で加速してから逆噴射で一気に減速をかける。安全な高度に到達したらN化してもう一度落下する。高度100mが無理なくせに2階くらいの高さから飛び降りても何も感じなくなってきている。膝のクッションを最大限生かして、昨日蹴り潰した舗装箇所のすぐ傍に着地した。
「飛びましたけど」
「消えてた」
「?」
「途中から血の柱ごと君が消えていた」
「えっ」
何か繋がってきたな。誰にも通報されなかったこと、一定高度まで到達するとイドに声が届かなくなること、そもそも一回目の飛行で爆音をブチかましておいて無人道の向こう側に住む近隣住民人に一切目撃されなかったこと。全部繋がっている。
「……ステルス性能」
「それも一方的な不可視化と音響遮断と来たか」
飛ぶ側にとってすればかなりおいしい能力である。一定距離離れれば僕から発せられる音声が遮断され、更に離れれば目視での観測が不可能となるらしい。一定高度以上なら好き勝手飛べると言われているに等しい。だが地上で僕を見上げるイドがそれで満足できるのかどうかは話が別になってくる。実験3日目にして早くも面倒くさい展開になって来た。イドが困ると僕も困るしかないのだ
「まあ双眼鏡使ってもスマホ使っても無理だったけど、そのステルス能力が無かったら多分とっくに通報されてるしいいんじゃない?」
「イドさんはそれでいいんですか?」
「よくはないな」
イドの表情がいつになく曇っていて少し怖い。元から怖かったってのはそうなんだけど余程堪えたのだろう。研究対象が研究者の手元から逃げ出したようなもんだし仕方なくはある。
「……ごめんなさい」
「謝る事じゃない」
「……」
気まずい。気まずすぎて気を紛らわせるために何となく手首を掻っ切ってしまった。N化してまた切ってをスムーズに繰り返しながらただ時の経過を待つ。
イドは空を飛ぶ僕を独占したいと言った。独占研究こそが僕に期待していた全てだ。その僕が外界からの観測を拒む存在であることが判明した以上、イドのモチベーションが危うい。いずれは僕への期待が無に帰しかねない。
期待を失わせるわけにはいかない。そのために僕にできることと言えば──
「──カメラ起動したままスマホ貸してください」
「は?」
これしかない。馬鹿なりに馬鹿でもできることをやる。困惑するイドに詰め寄る。
「え」
「貸してください」
「……ホーム画面にはいけないようにしてあるけど」
「構いません」
試運転もかねて携帯していたカミソリで左手首を切り、イドからスマホを受け取るなり録画を開始した。
「2分以内に戻ってきます」
「えっ、あ──」
出力5。今自分に許される最大出力で飛翔する。目の前に高度表示と飛行姿勢表示が浮かび上がる。10秒間の上昇で高度1745mに到達した。
右手を添えない完全片腕での飛行はこれが初めてだが問題は無い。直感的な筋肉の収縮で大体どうにかなるという強い確信がある。確信というよりは虚栄心に近い。イドがもう一度僕に振り向いてくれるように、僕から目を背けないようにするために貼り付けただけの虚栄心がここまで僕を飛ばしている。
原動力が何だろうが構わない。イドが僕に何かを期待してくれて、僕がその期待に応えられればそれでいい。それだけでいい。出力0。全身をほぼ水平方向に傾け、頭の血管をブチ切るつもりで腕の筋肉を張る。
右手にスマホを構えたまま全力で、徐々に高度を上げながら緩やかなカーブを描いて、飛んだ。初めて僕の思うがままに飛んだ。高度も人目も気せず、落下の危険性もそこまで意識せずに、僕が飛びたいと思えた軌道で自由自在に飛べている。対抗気流が最高に冷たい。コートが重い。Gのかかり方が滅茶苦茶なせいで尿意がバグる。クソ楽しい、楽しすぎてまた笑えてきてしまう。今は高さが怖くない。人目が怖くない。事故とスマホの紛失以外の何もかもが怖くない。
視界内の速度計は156km/hを表示していた。あまりにも高い位置にいるせいでそんな速度を出しているとは思えないが、やはり周辺に比較物が無いせいでどうしてもシックリ来ない。少し加速しても違いが全く解らなかった。240km/hらしい。対抗気流の「固さ」は確かに一気に増してきた。うっかり口を開けると頬の肉がズル剥けになりかねないくらい空気が重い。固い。何故か眼球だけは無事なままなのに。
およそ2分間。下界を映し空を写し、沈みゆく夕日を写し。急降下の主観映像を写す。特に夕日は念入りに。高度が高いせいで地上から眺めたときより更に眩しく見えるから。大学方面を写して朧げに霞む富士山も写して、多分横浜なのであろうデカい街も写して最後は実験場に帰還して発着地点に降下する瞬間までを写した。逆噴射の余波をモロに食らって軽く吹き飛んだイドが起き上がる。
「撮ってきました」
「……飛んでるときの映像?」
「飛んでる時の映像です」
撮りたてホヤホヤの映像を再生して、イドにスマホを返還する。暫くの静寂が訪れた。イドはずっと画面に見入っている。
今やった通りだ。地上からの僕の観測が叶わないというのなら、僕が地上のすべてを観測できるまで飛んでやる。別に解決策になるとは思えないしだから何だよって話だけど何もしないよりはマシだったろ。僕はまだイドに何かを見せることができるんだ。こんなところで見捨てられるわけがないのだから。
「凄い……な。これ」
「欲しければいくらでも撮ります」
「……ありがとう」
若干口元が笑っていたような気がする。イドはもう一周動画を閲覧した後、静かにスマホを収納した。
「目標を1個追加することになりそうかな」
「ほう」
「私と一緒に飛んで欲しい。私もこの景色を見たい」
「私と一緒に飛んで欲しい」、要するにアレだな。こう、イドを背負ったりぶら下げたりしたまま僕が飛べばいいんだな。地上からだと僕が観測できないけど0距離からだったら僕のことは勿論観測できるし、あと無料でお気軽にこんな絶景を楽しめるもんな。ひとまずの目標としてはかなりいいモノなんじゃないのか?
ちょっと待て「イドをぶら下げたり背負ったりしたまま飛ぶ」のか僕は!?!?
「背負ったりぶら下げたりすればいいんですかね!?」
「安定性を考慮するなら背負ったまま飛んでもらった方がいいんじゃないかな。1回試してみるか」
「今からですか!?」
「体重74kgあるけど大丈夫?」
「心の準備が!!」
「どしたどしたどした」
どしたどしたじゃねえよ童貞の気持ちを考えろ!!!お前が意識していなくてもこっちは胸やら腿やらが身体に密着すれば動転するもんなんだよ!!!頼むから自分の乳の重さを知ってくれ!!!
「……独りで飛んでる方が好きだったとか?」
「いえそんなことは。イドさんが満足するなら何だってやります」
「飛んでくれるかい?」
「飛びます」
「じゃ1回試そう。軽い上昇とかから徐々に慣らす」
断りづらい頼み方してきやがって。クソッタレ上等だやってやる。貴女の期待に応えられるなら何だっていい。乳だろうが尻だろうが何でも押し付けてきやがれってんだ。背中にドカッと飛び乗って来たイドを背負いなおし、決意新たに顔を上げる。74kgの巨体を力強く持ち上げ、そして
背中に固い乳を押し付けられながら重大な欠陥に気づいた。
駄目だこのままだと手首が動かせない!!!!
──続く