クレジット
タイトル: D-5090: 特権
原語版タイトル: D-5090 : Privilèges
訳者: buta_otoko
原語版作者: DrCendres
原語版ソース: http://fondationscp.wikidot.com/d-5090-privileges
参照リビジョン: 10
「D-5090だって?! あれはマジモンのクソだぞ!」
ここにいるDクラス職員以外なら、誰もがすぐに理解できたことだろう。D-2108の抗議は何の意味も為さないと。しかしながら、彼の人事ファイルに赤いマーカーで書かれた「驚くほどの世間知らず」という言葉。ここに3本も下線が引かれたことだけは、意味のあることと言えるだろう。また、このDクラス職員はもう1つだけ目覚ましい才を持っている。発言するときが、最悪の状況や都合の悪い時である、という才だ。
現在、作戦の責任者を担っている、ポール・ガルシエを苛立たせることがある能力と言ってもいい。
「君の意見をくれ。私に聞くな」
このエージェントは背中を、乱暴に椅子へと押し付ける。彼は部下と交渉することすら慣れていない。財団において、「砲弾の餌食になって死ぬような一兵卒」chair à canon
と定められている者相手となれば尚更だった。この状況、極めて異例。
「どうして俺が引っ越す必要性があって、しかも気に入らん奴がいるところに行かなきゃならねえんだ?」ポールの話し相手であるDクラス職員は、全てのことに対して、腸の煮えくり返る思いで話を続ける。「D-3601もD-1255も、すげえ親切で、その上仲良くしてくれるダチなんだぜ」
ポールはしばし目を擦ると、平静を保つことに努める。
「話した通りだ。D-5090は特定の上級職員と接触し、助けを得ることで……財団の施設からの大規模な脱出計画を企てていると考えられる。誰がどうやって、この計画を行うのか、我々は知らなければならない。お前は我々の助けになると思っている」
「D-5090に確認はしたのか? 念のためにさ。結局、ここにいる連中は、奴が逃げ出したい理由なんか分かんないんだろ!」
「分からないさ……Moi non plus…」責任者は皮肉めいた笑みと共に言った。
この男の溜息は、疲れを帯びる。
「聞け……我々を何よりも悩ませている可能性を、お前も理解できるはずだ。D-5090が脱出しようとして自分や他人を傷つけるなんてことになったら、残念に思うだろう。特に、新入りのDクラス職員は圧倒的に不足している現在……こうした企てはすぐに中止される方が望ましい。お前も、中止が妥当と思わんかね? やれるか?」
オレンジのつなぎ姿の男は、少しの悪意を込めて小言を呟きながらも了承を示し、話を続ける。
「だが、そのためには、D-5090の接触相手や取り巻きは誰なのか知る必要性がある……完璧かつ秘密裏に。お前にはできるのか? このことが財団、そして職員のためになるのか?」
D-2108は顔をしかめた。
「つまりさ、奴に対して嘘をつけってことだよな?」
「絶対ではない。簡単なことだ。何も語らなければいい。同じようで違うことだろう。ただ……対象と友達になってくれ。お前がよく知っている方法で。そして我々の求める情報を手に入れるんだ。そうしたら、あとはこちらが全て処理する。首謀者は……軽い叱責を受け、お前は落ち着いて元の生活に戻ることが出来る」
数秒間の沈黙。
「でも結局、根本的には、奴に嘘つかないといけないんじゃねえか?」
ポールはテーブルへと拳を叩きつける。
「ごちゃごちゃと!Bordel ! 協力しないなら、いますぐお前を排除してや……」
ポールはとっさに我に返る。この階級社会におけるD-2108の立場は例外だ。彼のようなDクラス職員に本来待ち受けている運命。これについて、ポールはある種の好都合な無知状態を保たなければならない……つまりは、毎月行われている排除行為については、決して口を開いてはならないのだ。
「……協力しないなら、お前を今よりもっと不利な立場に、すぐにでも選出してやる」彼は冷静さを保とうと、より落ち着きを払ってそう告げた。
Dクラス職員の男は、言葉を失ったままポールのことを見つめる。突然激しく爆発したポールの感情に強張る手足、目に秘めた非難の色。これら全てが、彼に暴力的な傾向が無く、極めて繊細であることを示唆していた。
「ムッシュ・D-2108よ……この件が自分の出世における出発点として必要かもしれない、とは考えないのか?」ポールは、他のアプローチを実験するつもりか、甘ったるい言葉を投げかける。
この発言が会話相手の興味を惹いたのは間違いない。しかしながら、彼の反対を凌ぐ要素にするには、一筋縄ではいかないらしい。
「俺が大志を抱く男に見えんだろう、成功の為なら誰かを犠牲にするような」D-2108は誇らしげに胸を張り、堂々としてそう言った。しかし、この心を打つような威厳ある姿は、ポール・ガルシエをますます不愉快にさせていくばかり。
「私は犠牲の話をしているわけではない。守ることについて話している。無実の人々を、自身の行動や未熟な判断力に由来する、ちょっとした恐怖から守ることについてを。もしも彼らに何かが起こって、お前が何もしなかったとする。夜になって、お前はこの判断に頭を悩ませずにいられるかね?」
この言葉がD-2108最後のあがきを打ち破るに不足はなかった。彼は少しためらうと、やがて疲れた様子で首を縦に振る。
「素晴らしいよ! 君がこの理論に耳を傾けてくれるのは分かっていたとも」やっと満足した責任者は、椅子から立ち上がってそう叫んだ。「新しい任務の詳細については今日の午後伝える。我々を失望させないでくれよ」
独房内に戻されたDクラス職員の心は雨模様。彼はただただ、自分の小さな住処から離れるのが嫌でならなかった。
「ここ、座っていいか?」D-2108はトレイをテーブルに置きながら、微笑んでそう言う。
D-5090は答えず、話し相手を無視して食べ物の中にスプーンを浸すばかり。社会的な配慮など気にしていないのは明らかだ。
「おっ、人参ピューレか? 俺大好きなんだよなあ」D-5090が何も答えなかったにも関わらず、D-2108は彼の隣に腰を下ろすと、嬉しそうな表情を浮かべて話す。「スープよりは美味いだろ?」
D-5090の落としたスプーンが、金属製のトレイに当たって音を立てる。まるで危険信号のように。D-2108はこの侵入者の方を振り向く。だが侵入者の丸刈りにされた頭から足のつま先までは、少しの温かみも宿っていないかのようだった。
「言っただろう。着いてくるなと」
きっぱりとしたお咎めの言葉が、仮にD-2108の熱心な心持ちを削いだら。それでも、彼はそのさまを表に出すことはしない。
「知ってる知ってる……でもよ、今は俺たち同じ独房内。なのに仲良くすることも出来ねえなんて、アホらしいとずっと思ってんだ。俺たち結構似てるだろうに」
「何のためにだ? なんにせよ、数か月以内で僕は去るだろう。君はここに残るだろうが」
「なあ、Dクラスは急かつ頻繁な異動があるよ。けどさ、だからって新しい友達を作らない理由にはならないだろ!」
D-2108に向けられた顔は、陰鬱なものだった。誰一人として、彼に真実を告げることは許されない。罰として痛みを伴う報復を受けることとなる。
「君が光だなんて全く言えないな。もう一度言おう。今後は僕に近寄るな」
「……人生1回でも笑ってみたら、色々上手くいくかもしれないぜ」
D-5090はトレイを手に取ると、突然立ち上がる。その唇に浮かぶひきつったような笑みは、笑顔と言えるものではなかった。
「ここでは、笑うとは特権的なことだ。君みたいな人にとっては」
「はぁ?」
「忘れてくれ。君にはうんざいだろう」
同室の者が立ち去るのを見て、D-2108は胸の奥にある心が締め付けられるのを感じた。
昼の暇な時間や眠れない夜になると、D-2108は自分の使命について考えこんでいた。使命、特にD-5090について。D-5090はいつも壁の側にいて、暗くて不機嫌そうな顔をしていた。そのうえ、目には喜びの光のようなものが宿ることはない。加えて、誰かの注意が惹けるような愛想のいい顔すら見たことがなかった。常に孤独で、常に気力も目的もなく、いつも生きているというより宛もなく彷徨っているかのよう。
心の底で、D-2108はD-5090に同情していたのだ。
深夜、熟考の最中。Dクラス職員はとうとう閃いた。
この閃きは、耳をつんざく衝撃音と共にD-5090がつまづいて地面に倒れた、という物理的な状態として出現した。モルフェウス夢の神の腕からも引き上げられて。
D-2108は気を動転させ、突然ベッドの上で飛び起きてしまう。彼は自分の独房内に視線を泳がせるが、しまいには床に倒れたまま、呆然としている同胞へと視線を合わせた。
「大丈夫かよ?!」D-2108はD-5090を心配して、急いでベッドから起き上がり、彼の救助に着手する。
「大丈夫だ」当事者の男は、顔に手を当てながらも立ちあがってそう叫ぶ。「動くな。助けは要らない」
侵入者は急いで、隠れるように姿を消そうとした。その時、この侵入者は自分が何に躓いたのかに気付いた。
縄だ。
二人の男は動きを止める。そして、視線を交わした。
「これは一体どこで……?」D-2108は驚きのあまり、とうとう呟く。
「他の無能どもには言ってくれるなよ。邪魔しに来る」
「どうやって……」
「ここのエージェント全員が、非情なわけではないのだよ。今見たことについては、口を噤むんだ」
D-5090は何事もなかったかのように振舞うと、自分のベッドに座る。そして自分の生活を再開するかのように見せかけた。しかしながら、彼の同室は固まったままだった。
「5090よお」
「……」
「出来ないことくらい……」
D-5090はくぐもったような声で、話を遮る。
「その汚い口を閉じろ。非難の言葉なら聞かない。誰からでもな」
「俺は……ただ……」
「おっと、君は悪くない。良い家族に恵まれ、上司にもよく思われて、自分を必要不可欠な存在に出来るほど賢い……この事は決して君のせいではない。だがね、親しき友よmon gars、理由なんて何でもいい。本当かって? お前は汚い脱走兵だ。特権持ちめ」
この可哀想な男は実際、怒りのあまり身を震わせていた。まるで錯乱状態に陥っているかのように。
「一体何を言ってんだ?」D-2108は話をどう進めれば良いか分からず、そしてミスをすることも恐ろしかったことを認めた。
「君はどう思う? 他の者達も気付いていないとでも思っているのか?」
「……でも……何なんだ?」
「君は動かないDクラス職員だ。一度動かない、ね。去ることもない。季節や月、君の参加した実験も関係ない。けっきょく、君のその愛くるしいオレンジ色のつなぎ服が、間抜けに笑いながら、我々の鼻先で動き回っているさまをずっと眺めつづけることになるんだろうな。一方僕たち……僕たち全員に、そうなるチャンスは訪れない」
まるで後悔に打ちのめされたかのように、D-5090は首を動かし、壁の方を見つめる。ゆっくりと、彼の同室である男が、近づいてくる。
「分かったよ、D-5090。けどな、俺は一番長くここにいるんだ。少しは安定が許されたっておかしくはない。昇進すれば同じ待遇が得られるよ。お前はもう他のDクラス職員たちに……大人気みたいだからな! だが俺は違うんだ。あいつらが俺を側に置いてくれるのは、俺が必要だからってだけ」
D-5090は、話し相手を馬鹿にするかのように口笛を吹いて見せる。
「僕が君なら、まず不安に思うところからだ。もしも彼らが君と僕を同じ独房に放り込むだけなら、とっくに君は要らない存在なんじゃないかってね」
D-2108は言い返せるほど勇敢ではなかった。
ついに、D-5090がついたのは落胆の溜息。
「頼むよ。君が神聖で不可視な権威様sacro-sainte autoritéのポケット内なのは分かっている。だが密告するのだけはやめてくれ。必要なことなんだ」
「やらなければならない」躊躇う。「でないと……」
「関係ない話だなC'est pas tes oignons」
侵入者は同僚の隣に座って、助けを請うた。だが返ってきたのは怒りのこもった拒否。
「試すこともダメなんだな。君の特権的な立場では理解できないと思うが……いつか捨てられると知った時、どんな気持ちになると思う。それも君とは縁がないようなくだらない理由のせいで。君は君の世界を生きて、僕は僕の世界を生きる。そのままにしておこう」
「俺は……いや、でもその、D-5090、そんなに悪いもんでもないと思うぞ! どうして逃げたいのかどうかも……」
「喜ばせたくないんだ。終わりの時は僕自身で決めたい。平和的に。これこそが、僕に残る唯一の自由なんだよ」
長い間、D-2108は躊躇いを見せる。しかし、彼は何も言うことが出来ないままだった。
「……それで、その報告に間違いはないのか?」
「はい」
ポール・ガルシエは椅子に座りなおす。大変心地が良いと言いたげな様子だ。彼は対話相手の表情を注視し、観察していく。
「結局、D-5090は集団脱出を試みていない、ということだな?」
「全く。あいつは何もかも諦めたんだ。再び外の世界を見たいという希望すらもな」
責任者の男は唇に大きな笑みを浮かべる。
「分かった! これで安心だ。心配ごとは杞憂に終わってくれたようだね。良い働きぶりだ」
D-2108からありがとうは無かった。その視線は、机の上のペン立て二つの間を通り抜け、遠くへ流れていくのみ。
「これで君は元の独房に戻れる。運があれば、ちょっとくらい改装することも出来るぞ。感謝しているよ!」このエージェントが上機嫌に喜びを露にするなど、実に珍しい。「お前はどう思っているんだい?」
この件の関係者の男は顔を上げる。その顔はいつもよりも陰っているように見えた。
「特権……だなって」









