D-5090: 特権
評価: +8+x
blank.png

「D-5090?!でもよお、あの男はとんでもねえ卑怯者だぞ!」

D-2108の抗議は徒労に終わった。他の者ならすぐに分かった筈だ。しかし、徒労にならなかったことがあったとすれば、それは彼の人事ファイルに赤いマジックで書かれた「印象に残るほどの正直者」という言葉に下線が三本も引かれていたことだろう。このDクラス職員には他にも特筆すべき才がある。それは最悪の展開や大変都合が悪い瞬間に話し出すというものだ。

現在の作戦の責任者である、ポール・ガルシエの神経を逆撫でする傾向にある能力。

「私に。聞かないでくれ。お前の意見だろう」

エージェントは座っている椅子に勢い任せで乱暴に体をもたれかからせる。彼は部下との交渉というものには不慣れで、ましてや財団規範における、死ぬべき一兵卒との交渉となればなおさらだ。この状況は実に例外的なのだ。

「特に同室に気に食わねえ奴がいるってのに、どうして俺が部屋をいなくなんなきゃならねえのかが分かんねえな」否が応でも話は続き、エージェントの話し相手は怒りをどんどんヒートアップさせている。「D-3601とD-1225はすげえ感じも良くて、優しい仲間なんだ」

ポールは少しの間目を擦ると、平静を保つことに努めた。

「その話については既に説明した通りだ。我々はD-5090が財団複合施設の外部へと大人数での逃走を試みていると考えている……こちらの上級職員に連絡を取り、助けを得ることでな。誰が、どうやって、そしてお前が我々の助けになるのかを、我々は知る必要性がある」
「それが確かなのか、D-5090に確認したのか?結局、ここにいる誰一人どうしてあいつが逃げようとしてるか分かってないんだろ!」
「私もさ……」責任者は皮肉るように笑いながらそう言った。

彼は疲れたようなため息をついた。

「聞いてほしい……お前はこの可能性が疑いの余地がないことを分かっていても、それでもなお我々を気にかけているんだろう。D-5090がここから逃げようとしている間に自身や他人を傷つけるようなことがあっては遺憾だ。特に現状、新しいDクラス職員がどうしようもないほど不足しているというのに……だからこそ、我々としてはこういった企ては即座に破綻させたいと思っているんだが……お前は賛成か?実現できそうか?」

オレンジ色のつなぎ服に身をつつむ男は、呟くようにある種の敵意を含みながらも了承の意を示すと、こう続けた。

「だが実現のためには、奴と接触した人物と隠れた取り巻きが誰か把握する必要がある……いかなる時も慎重に。やってもらえるか?財団にも職員にも、有益なことなんじゃないか?」

D-2108は嘲笑した。

「あいつに対して嘘をついてほしいんだろ?」
「必ずしもではない。彼に何も語らないだけで良い。簡単なことだろうが、それとこれとは別さ。ただ……友達を作ってくれ。その為の最善の手段は知っているだろうから、我々が探す情報を入手してくれば良い。やってくれるなら、全ては我々が援助する。また違反者には……軽く叱責することにし、君は何の心配もすることなく以前のささやかな生活に戻れるだろう」

数秒間の沈黙が流れる。

「でもよ、結局のところそれって、あいつを欺けってことにならないか?」

ポールはテーブルへと拳を振り落ろす。

「ごちゃごちゃ言いやがって!協力しろ、さもなくばお前をこの場で排除す……」

彼はぎりぎりのところで続きを言うことなくとどまった。D-2108のDクラス職員内での立場は特別なものとなっている。とはいえ常に彼を、同じ立場の人間が一般に定められている運命において、幸運にも何も知られていないというような状況に置き続けなければならず……故にこのDクラス職員は毎月行われている排除について知らされる必要はないのだ。

「……さもなくば、お前をすぐさま今よりも、はるかに不利な立場になる役職に任命してやるぞ」彼は平静を保とうと、落ち着きを払って言葉を口にした。

このDクラス職員は何も言うことなく彼を見つめるだけだった。乱暴に声を張り上げた時のはっとした様子、四肢を強張らせ、目は不服を申し立てるような光、その全てが彼は生まれつき暴力を振るう傾向になく、感受性が非常に強いことを暗に示していた。

「ムッシュー・D-2108……お前は今回の件を昇進に近づくために必要な機会とは考えなかったのか?」ポールは別のアプローチの仕方を試すかのように、甘い言葉を投げかけた。

ポールの言葉が彼の話し相手へ興味を抱かせたのは間違いない。しかし、彼の反対という意見を覆すのは簡単ではないようだ。

「俺は自分の成功のために他人を犠牲にしようとするほどの野心家ではない」
彼は心を打つような誇りと共にそう高らかに胸を張って叫んだが、それはポール・ガルシエにますます嫌悪感を抱かせるだけであった。
「私はここで誰かを犠牲にすることについて話しているわけではなく、守ることについて話しているんだ。少しばかり怯えているだろう無実の人々を、己の行動や判断力の欠如から来る恐怖より守るんだ。もし彼らに何か起こったとして、君がそれを防ぐために何もしなかったとする。そうしたらそれが夜になって君を悩ませるかもしれんとは思わんかね?」

それはD-2108の最後の抵抗心をはっきりと打ち砕くのには十分だった。少しのためらいの後、D-2108はこの論争に疲れた様子で、同意を示すかのように首を縦に振った。

「素晴らしい!君は理性に従ってくれると確信していたよ」責任者の男は満足そうに声をあげ、椅子から立ち上がった。「君の新しい任務について、より詳しい情報は午後に伝えよう。失望させてくれるなよ」

独房に連れ戻されると、職員の心は重くなるばかりだった。彼はただ、ただ小さな家から離れたくなかったのだ。


「座ってもいいか?」D-2108はトレイをテーブルの上に乗せると、満面の笑みを浮かべてそう言った。

D-5090は答えない。彼は話し相手を無視し、単にスプーンを食べ物に浸しただけであり、社会的配慮を欠いていることは明白だった。

「お、それ人参ピューレか?大好物なんだよね、それ」無視されたとしても彼はそう話し、幸せそうな表情で彼の隣に身を落ち着けた。「いつものスープより美味いな」

D-5090がスプーンを落とすと、まるで危険信号のように金属製のトレイへ共鳴した。D-2108が重要人物の方を向いてみると、足の先から短く刈られた頭部まで何の熱も感じられなかった。

「どこだろうとついてくるのは辞めろと言ったはずだが」

D-5090からの明確な非難の言葉がD-2108の熱を帯びた心をいくらか弱め始めたとしても、彼はそれを表に出しはしない。

「分かってる、分かってるさ……だけど同じ房の仲間だってのに仲良くすることもできないなんて俺はなんて馬鹿野郎なんだって、自分にだって言い聞かせてるよ。きっと俺たち、似てるところだらけじゃないかって思うよ」
「仲良しごっこが何の役に立つ?もう数か月もすれば、僕はここを去る。君じゃなくて僕がね」
「なあ、この部門じゃ変化は頻繁に起こるしそれも早い。だからといって新しい友情を築き上げない方が良いなんてことはないだろ!」

D-2108は敵意のこもった視線を受け取った。痛みを伴う報復を覚悟のうえで、彼に真実を語る権利は誰一人持ち合わせてない。

「君は決して優れた人物なんかじゃない。もう一度言うが、今後僕に近づかないでくれ」
「……人生さ、一度でも笑ってみたら、沢山のことが楽になるんじゃないかと思うよ」

突然、D-5090はトレイを手に取ると立ち上がる。その口元に浮かぶ引きつったような笑みは笑顔とは似ても似つかないものだった。

「ここではね、笑みを浮かべるってのは、こんな風に特権的なものなのだよ」
「え?」
「やめておく。僕にはうんざりしてるだろう」

D-2108は自身のルームメイトが去っていく様子を見ていることしかできず、心が締め付けられるのを感じた。


D-2108は日中のすることのない時間や眠れない夜の多くを自身の任務について考えることに費やしていた。彼の任務について、ではなくとりわけD-5090について。あの男はいつも壁に沿うように歩き、その表情は暗く愛想も悪いし、目には喜びの光など持ち合わせておらず、誰に対しても愛想のいい顔を見せたことなんてなかった。常に一人ぼっちで、やる気も目標も持ち合わせず、生きているというよりは彷徨っているという言葉の似合う男だ。
実のところ、D-2108は彼のことをとても気の毒な奴だと思っていた。

このDクラス職員が最終的にひらめきを得たのは、真夜中に熟考していた最中のことであった。

D-5090が躓き地面に激突すると、それは物質としての形を露にする。その時の耳をつんざくような音はD-2108はモーフィアスの腕から連れ戻した。

D-2108は突然驚いて飛び起きると、ベッドの中で姿勢を正した。彼の視線は独房内をうろついたが、やがてその視線は床に大の字で横たわったまま未だ呆然としている同僚へと落とされた。

「大丈夫か?!」彼は心配そうにベッドから急いで起き上がると、D-5090の手当をしなければと駆け寄ろうとした。
「結構だ!」まさに床に倒れこむ男はそう叫ぶと、顔に手を当てながらも立ち上がる。「動くなよ。痛みはない」

その時、この侵入者は彼自身の背後で瞬時に姿を消そうとしている者と、足を引っかけてしまったものを目にした。
ロープだ。

二人の男は動くのを止めると、互いに見つめあう。

「それを一体どこで手に入れたんだ……?」D-2108はとうとう困惑した様子で、そう呟いた、
「どうか他の馬鹿どもには教えないでくれよな。奴らは僕を止めにかかってくるだろうからさ」
「どうやって……」
「ここのエージェント皆が、冷酷な心を持っているわけじゃない」

D-5090は彼の使用しているベッドに座り、何事もなかったかのように振舞い、人生を再開しているかのように見せかけた。しかし彼のルームメイトは凍り付いたかのように固まったままであった。

「5090」
「……」
「無理だって分かって……」

対話相手はくぐもったような唸り声をあげ、D-2108が話すのを遮った。

「お前、その口を、閉じろ。咎める言葉は何一つ受け付けん。お前からでなくとも」
「俺は……俺は単に……」
「ほう、それが君の過ちではないのではないかと疑っている。素晴らしい家族の元に生まれ、上司のちょっとした書類の中でさえ、必要不可欠なほどの十分な賢さ……決して君の過ちではないのだよ。しかしだね、親しき友よモン・ギャル、私は知性などに一切興味を持っていない。本当のところどうかな?君は薄汚い隠れ家だ。特権的な」

この哀れな男は怒りのあまり今にも体が震えるといったところだった。錯乱してしまっているらしい。

「何言ってんのか俺にはさっぱりだ」D-2108は話の進め方についての最適解を見つけ出せず、間違いを犯すことを恐れていると認めた。
「君の意見はどうだ?他の連中も、同じように気付いていないと思うか?」
「……だが……何だって?」
「Dクラスの中で唯一行動しないのが君だったら。絶対に、どこにも行かないのが。季節が変わろうと、変わるのが月でも関係なく。そして、終いにはここで、僕らの毎日が終わるその時まで、君のかわいいオレンジ色のつなぎ服がその無知な笑みと共に連れまわされるのを間近で見ることになる」

良心の呵責に苛まれているかのように、D-5090は壁の方へ頭を向け、壁をじっと見つめる視線は虚ろだった。ゆっくりと、彼の協力者は歩を進める。

「D-5090、分かったよ。だが、俺が誰よりも長い間ここにいるんだ、ある程度の平穏くらい許されて然るべきじゃないか。お前だって昇進したら俺と同じことを思う日も来るだろうよ。お前はもう……他のDクラスどもから大人気だもんな!俺は違う、あいつらは俺を必要としてくれてて、近くにだって置いてくれてる」

彼の話し相手は、D-2108を馬鹿にするかのようにひゅうと笛のような音を立てた。

「もしも僕が君だったら、心配し始めているだろうね。もしも彼らが君と僕を一緒の独房に放り込んだだけなら、君は既に用済みのはずなのに、ってさ」

D-2108は口を噤むことを選んだ。
とうとう、D-5090は落胆し、ため息をつく。

「お願いだ。神聖不可侵の権威様がその懐に君を入れているのくらいは分かっている。でも、僕を告発するのはやめてくれ。僕には……僕には必要なものなんだ」
「やらなけらばならないんだ」彼はためらう。「さもなくば……」
俺には関係のない話だC'est pas tes oignons.

この侵入者は同僚の隣に座り、助けを請うが、帰って来たのは怒りの強くこもった拒否だった。

試すような真似さえやめられないか。特権を持つ君には理解できないだろうな……いつかは捨てられると知った時の気持ちがどれほどのものか。それもお前なんて無関係なクソみたいな理由をつけられて。君は君の世界を生きていて、僕は僕の世界を生きている。そのまま自分の世界で暮らそう」
「俺は……だがとにかくだ、D-5090、その話は悪い話じゃないって思う!どうしてお前はここから去りたいんだ……」
「この喜びをあいつらにだけは与えたくない。僕は辞めるなら僕の条件で辞めたい。平和的に。これが僕に残された唯一の自由だ」

D-2108は何も言えないままだった。彼は何といえばこの気持ちを変えられるのか分からなかったのだ。

「……もしもだ、物質面で計画に近づけたとして……お前は何がしたい……えっとつまり……」
「……僕は……これも貰ったんだ」

D-5090は手の中に持っていた一種のホックのようなものをD-2108へと明かした。

「天井に取り付けてあるんだ。体の重量を支えるのには十分な強度がある」
「理解は……できそうにないな。だってよ……独房の中には窓すらないじゃないか」

話し相手の男はしばらくの間、何も言わず固まってしまった後、理解できないといった表情を向けてきた。

「何だって?」
「窓?外へ逃げること?それがロープを使う目的だよな?」

沈黙。
D-2108がD-5090の方を見ると、彼の表情に哀れみに満ちた優しさの影のようなものが現れているように思えた。

「……ああ。そうさ、逃げるためだ」
「でもどうやって……」
「いいか?手段なんて何の重要性も孕んでいないんだよ。誰にも、何一つ語ることじゃないんだからね」
「俺は……」
「お願いだ。さっきは怒鳴りつけてしまって申し訳なかった。でも……僕にとっては本当に重要なことなんだ」
「誰か、もしくは自分自身を傷つけてしまう危険性が君にはある」
「逃げようと誰一人傷つけはしない。君に誓おう」
「……お前自身には誓わないのか」
「勿論誓うさ。もしここで僕に不都合があれば、今すぐこんな誓いはやめられる。そうだろう?運試しをしようじゃないか。少なくとも、この最後の特権だけは、許してくれないか」

D-2108は長い間返事をためらった。しかし、何も言い返すことは出来なかった。


「……お前、言っていることに確信はあるんだろうな?」
「はい」

ポール・ガルシエはより楽になれるよう椅子へ背中を預け、対話者の顔を注意深くじっくりと観察した。

「つまり、D-5090は集団を組織し、逃亡を試みているわけではないということだな?」
「一切な。あいつは外の世界をもう一回見たいって望みの一切をあきらめた」

この責任者は口元に満面の笑みを浮かべた。

「良かったよ!これで安心できる。我々の心配は杞憂だったようだ。よくやってくれた」

D-2108には彼への感謝など微塵もなかった。その視線は遠くへと流れていき、机の上へと置かれた鉛筆入りの二つの瓶へ漂着する。

「お前は前までの独房に戻れるようになるぞ。出来そうだったら、感謝の気持ちとしてちょっとくらい住みやすくもしてやろう!」珍しくご機嫌といったように、エージェントは喜びをあらわにした。「これはお前にとっての何になる?」

当事者は顔をあげる。その表情はいつもと比べると少しばかり暗いものだった。

「特権だと……感じるな」

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。