D-5111
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1日目

D-5111は突然の衝撃と、そして割れるような頭痛で目覚めた。素早く瞬きすると周囲の暗闇に目が慣れてきて、彼女はゆっくりと辺りを見回した。身に着けていたのはオレンジ色のつなぎだった。2段ベッドと彼女以外に大体20人ほどの怯えた面持ちの女たちで一杯の、ある種の宿舎のように見える部屋で、ベッドの下段に彼女は横臥していた。部屋はもはやパニックを起こした声に、叫びに、そして泣き声に埋めつくされつつあった。D-5111はその騒音で、自分がだれであるかも、ここがどこであるかも見当がつかないということに気付いた。

過呼吸が始まり、目を見開いて、D-5111はこわばった直立姿勢になった。

ああくそああくそああくそああくそ……

D-5111の精神は現在地の把握を試みて逸った。

考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ

すると、まるでスイッチが入ったかのように手掛かりが現れた。

パトリシア・ウォーカー……

瞬きし、そして呼吸が遅くなった。

私はパトリシア・ウォーカー……

そんな精神のスターティングブロックから、さらにいくらかの断片が収まるべき所に収まった。

私は……38歳。生まれた場所は……ユージーン……いや……コーバリス、オレゴン州。公認看護師をやってた……15……16年間……

水が冷えて氷になるがごとく、彼女の精神世界の中でアイデンティティが凝固した。

結婚して18年……夫は小児科医……子供は2人……十代の息子と幼い娘……名前は……子供の名前は何……

パトリシアは目を閉じて集中した。次から次に名前が浮かんだが、どれも合っているようには思えなかった。

ジェイソン、ジョナサン、ジューン、マルコ、エミリー、テイラー、ビリー、セシル、ダレン、ミシェル、デレク、エリック、サシャ、ジェイコブ、ダニエル、トロイ……

部屋のPAシステムが耳障りな音を立て、心を流れる名前の川からパトリシアを引き離した。

「注目!」男性的な声がPAシステム越しに呼びかけた。「全Dクラス職員はオリエンテーションのために宿舎の休憩室に集まるように」

部屋の片隅では、1つの扉がしゅうと音を立てて開いた。1人1人、パトリシアの周りの様々な女たちが注意深く列をなし、隣室に入っていった。立ち上がり、群れと共に足取り重く歩んだパトリシアは、似たようなオレンジのつなぎを着た男女だらけの大きな部屋に辿りついた。

「あー、うん」50人近い混乱した群衆がつぶやき交わす騒音を超えて、部屋の前方から1つの声がした。パトリシアの目は前方に向いた。2人の無骨な警備員の間には、短いブロンドの髪の痩せた女が立っていた。隣には厚い眼鏡で目の隠れた、白衣のずんぐりとした男がいた。

「注目してください」女は再度呼びかけたが、ささやきは引き続き部屋を満たしていた。とうとう女は溜息を吐き、小さなリモコンに似た物体をポケットから取り出してボタンを押した。

部屋に甲高い金切り音が鳴り響き、すべての目を女に向けさせると、皆耳をふさいで口を噤んだ。女はまた溜息を吐いた。

「ましになりましたね」彼女は言った。「皆さんおはようございます。私はこのユニットのDクラス監視員であるモリソンです。隣はタナー博士、このユニットの医師です。ここまでで懸念と質問事項は沢山おありでしょう。ここはどこ? どうやって来たのか? これから何が起きるのか? これから30分ほどお付き合いいただければ、皆さんの疑問にお答えできると思います。これが皆さんのDクラスオリエンテーションになります」

熱意に欠けたささやかな笑顔を見せると、モリソンは続けた。

「まずは単純な点からまいります。ここはどこか? ただいま、皆さんは人類の存続を目的とした巨大な国際的研究組織により運営されている施設内、おおよそ2キロメートル地下にいます。このグループにより実施されてきた研究とフィールドワークは、世界中で数えきれない生命を救い、あらゆる科学分野で我々の理解を広げてきました。私が今ここで皆さんの疑問に答えているのもグループの任務の一部です」

「この組織により実施される研究は、折りに触れヒトの被験者や、研究対象とヒトとの相互作用を必要とします。そこで無差別抽選により、皆さん全員が選ばれてここへ連れて来られました。これから1月、皆さんはそれぞれ最低1つの実験に参加することになります。任期の終わりには皆さんの記憶は消去され、私たちは皆さんを元いた場所へお返しします。それまでの間、皆さんはここで、私の監督下で生活していただきます」

モリソンは眼前の群衆に目を走らせた。

「私はDクラスユニットを厳しく管理しますが、皆さんはきっと十分に融通がきくと感じると思います。私たちはともに任期を乗り越え、皆さんが無事ここを去り、元の生活に戻るまで尽力することになります。ここまでの話は分かりましたか?」

群衆は怒号がかった質問と要求の唱和で答えた。モリソンは目をぐるりと廻すと、ふたたび小さなリモコンのボタンを押した。甲高い金切り音が群衆を鎮めた。

「はい、それよりもうちょっとだけまとまってもらうことになりますね」モリソンが答えた。「今からタナー博士と助手が皆さんのオリエンテーション身体検査を寝棚で行いますので、各自戻ってお待ちください。そのあと私の同僚がここで皆さんの質問にまとまったやり方でお答えいたします、早い者順で」

「そんなら行かねえっつったらどうなんだ!」1人の男が群衆から離れ、前に進み出た。はげ頭で、モリソンより優に2フィートは高かった。「あんたらに俺らを拘束できる訳がねえ! 囚人じゃああるまいに、おたくになんの権利が……」

警備員の片割れがたちまち男と距離を詰め、スタンバトンで黙らせた。部屋が沈黙に包まれる中、警備員は素早く男を担いで連れ出した。

「まあ、そういうわけで」モリソンが答えた。「これで全員の見解が一致しましたね、では始めます」

様々な男女があるいは、モリソンの言うところのDクラスが自分たちの寝台へと帰路についた。パトリシアは道すがら、モリソンとタナー博士の方を振り返った。2人が既に彼女の方を見ていることに気付き、彼女はぎょっとした。モリソンは微笑み、親しげに頷いた。

「人類は君の奉仕に感謝するよ」タナー博士は言い、そして彼女に小さな注射器で……

束の間のイメージがパトリシアの意識をよぎった。瞬くと彼女は頭を振った。タナー博士とモリソンはまだ見つめていた。パトリシアは急いで顔をそむけ、寝床へと急いだ。


5日目:

パトリシアはDクラス仲間2人とともに、宿舎の休憩室でテーブルに着いていた。1人は前半の20代の若い男で、赤い髪は長く、左眉にはかつてピアスがあった痕跡があった。つなぎにはD-2960の印があり、舌っ足らずに喋り、名前はデレクといった。もう1人は背が低く、肌の色の黒い、40代後半の頑強な体格の女で、頭は剃っていた。つなぎにはD-3106と印されていたが名前はアネットで、時折あらゆるものを認めるように頷き、ずっと無言でいた。

パトリシアの目前のテーブルには紙があり、名前が書き連ねてあった。

夫: シド、セバスチャン、ショーン、ディーン、デレク、リック、リッチ、レイ、ロイ、ローランド、 ノーラン

息子: ジェフ、ジェイソン、 ジェイコブ、ジェイク、ジャック、マック、ミシェル、ミッチ、 モーガン
ブラッドリー、ブライス ブレイク、ボビー、ロビー、ロン、トム、 タッカー

娘: シーセル、シエラ、サラ、サシャ、サンドラ、サム、サリー、シドニー
ケイトリン、ケイティ、カラ、ララ、リサ、リリー、ラナ、レスリー
ダイアン、アン、アナ、アラナ、アリソン、エルシー、エリカ

パトリシアはペンの尻を噛み、溜息をついた。

「まだ記憶がおかしいの?」パトリシアのリストに目を通し、アネットが訊いた。

「まだ……」パトリシアはまた溜息をついた。「やっと夫の名前は思い出せた、それと息子のも絞り込めてきた……でも娘のはなかなか絞れなくて……」

打ちひしがれた笑いとともに、彼女はペンを置いた。

「もし知られたら、一生許してもらえないかも……」

「そのうち思い出すよ」アネットが答えた。「あなたならきっとできる。それはいいけど、他にすることなさそうね」

「うん……」

パトリシアはリストを眺めて眉をしかめた。彼女の記憶はまるで半分だけ仕上がったパズルのようだった。ノーランがどんなに自分の仕事を愛していたかも、子供を笑顔にすることでいつも自分も笑顔になっていたことも思い出せた、しかし彼がどんな顔をしていたかについては一切思い出せなかった。彼がどんなふうに自分を愛称で呼んだかは思い出したが、その名前が何だったかについてはからっきしだった。息子がハイスクールに通っていたことは思い出したが、学年については駄目だった。彼が劇場技術者だったことは思い出せたが、最後に参加していた舞台のことは思い浮かばなかった。娘がテレビゲーム好きだったことは分かっていたが、好きなゲームは分からず、音楽好きだということは覚えていたが、お気に入りのバンドのことは記憶になかった。パトリシアは自分が病棟看護師だったことは知っていたが、勤めていた病院の名前は頭から抜け落ちていた。

彼女の頭は腕の中へと滑り落ちた。そこでそれは10分近くも留まり、目に涙が溜まりつつあったという事実を隠蔽した。

そのとき休憩室のドアが開き、向き直った全員が入ってくるDクラス3人に目をとめた。後ろの1人があらゆる視線を避けてまっすぐ寝間に向かう傍ら、前列の1人はかなり茫然自失のように見えた。あの朝テストのために発ったグループは、元々4人組だったはずだった。

「おい待てよ……」デレクが囁いた。「ジェーンがいねえ……3人っきゃいねーぞ……あいつら何やってんだよ……」

「大丈夫、絶対無事だよ」アネットが答えた。「どうせちょっとしたこぶやあざ程度だと思う。科学は危ないことがあるって言ってたから」

「俺たちゃ全員ここで死ぬんだよ!」デレクが返した。「重曹で火山をつくるんに人を誘拐して手伝い強要したりする訳ねーよ。1人ずつ全員死ぬんだ」

休憩室の全視線は今やデレクに注がれていた。警備員が1人、騒動を終わらせるべく近づいてきていたが、自分が鎮めるという意思表示のためにデレクが片手を挙げると立ちどまった。

「あんたたちも今んうちに別れのあいさつしといたほうがいいぜ、テストリストに名前が出たら終わりなんだからな」デレクは囁くと歩み去った。

パトリシアは顔をしかめて彼が行くのを見守り、それから遠方の壁に張り出されている大きなテスト予定の方を見た。2日後には彼女とその他5人が参加する予定になっていた。パトリシアはメモ帳に視線を戻した。

「なんかいいことでもあったかい?」警備員が一人、温かな笑みを浮かべて訊ねてきた。パトリシアは首を振ることで答えた。

「そいつぁ残念」肩をすくめながら警備員が言った。「でもがんばんなよ、あんたなら行けるぜ」

また別のイメージがパトリシアの精神にひらめき、そして消えていった。微かにひるみ、それから彼女は目を開いた。溜息をつくとペンをとり、名前との格闘に戻っていった。


7日目:

せいぜい特別な種類の射撃場としか言いようのない場所で、パトリシアは金属製の折りたたみ椅子に座った。射撃場には10の凹室が並び、そのうち6つには椅子に腰かけたDクラスがいた。視界の外、レンジの反対側には的が1つあった。反対側の端にはセキュリティオフィサーの制服に身を包んだ男が1人いた。彼らの目前のテーブルには、2丁のリボルバーと18の弾丸が広げられていた。パトリシアは弱々しい笑みを浮かべると、目前の凹室のDクラス十代の少年、彼女の息子と同じぐらいのに手を振った。

「なんにも問題ないからね……」彼女は優しく語りかけた。少年は鋭い頷きで返した。「あなたの名前は?」

「ブ――ブレイク」彼はどもった。パトリシアは頷いた。

「私はパット」彼女は答えるとくすりと笑った。「ふふ、可笑しいね、ブレイクってうちの子と同じ名前じゃない」

少年にやわらかな笑みが浮かんだ。

「特になにも起こらないからね?」彼女は続けた。「大丈夫?」

「エージェント・ウィルソン」インターカムから男の声がした。「オブジェクトに最初の1セットの銃弾を装填し、的に発砲してください」

束の間沈黙が部屋に満ち、それからゆっくりと続けて撃たれた6発の銃声によって破られた。 目を開くと、パトリシアは不安定な息を吐いた。通路の反対側の少年は硬く目を瞑ったまま、不安げに震えていた。

「エージェント・ウィルソン」数分後、再度声が呼び掛けた。「2つ目の銃弾セットに書かれた印を読み、非異常性のリボルバーに装填してください」

「ガブリエル、サラ、セオドア、エミリー、ブレイク、パトリシア」エージェント・ウィルソンは読み上げた。

再び部屋は沈黙に満たされ、その後また、ゆっくりと6発が続けざまに撃たれた。パトリシアは息を呑んだ。向かいの少年は泣いていた。

「なにも問題ない」パトリシアは震えの中で声に出さずに呟いた。「なにも起こらないってば!」

「エージェント・ウィルソン」インターカムがまた鳴り響いた。「3つ目の銃弾セットに書かれた印を読み、オブジェクトに装填してください。もう一度的に向けて発砲してください」

「ガブリエル、サラ、セオドア、エミリー、ブレイク、パトリシア」エージェント・ウィルソンは再度読み上げた。

パトリシアと少年は沈黙の中見つめ合った。そしてリボルバーが射た。

バン。

くぐもった叫び。

バン。

絶叫。

バン。

鈍く重い物音。

バン。

鋭い悲鳴。

バン。

向かいの少年が頭に大きな穴をひとつ開け、後ろに吹き飛ぶのをパトリシアは見た。彼の椅子は大きな騒音を立ててひっくり返った。彼女は開いた口がふさがらなかった。

「ああ、うそ……」

バン。

まるでトラックが肩に衝突したように感じ、パトリシアも椅子から叩き落とされた。痛みは絶大だったが、声は出せなかった。代わりに彼女は、一体何が起こったのだろうかと思いながら天井を見つめた。

間もなく医療担当者が彼女と他の3人のDクラスを担架に乗せて運び出した。後悔と不安がないまぜになった表情を顔に浮かべ、数人の白衣の男女が他の凹室の内容物を調査した。中央の通路に血が滲みていった。

「大した問題じゃないですからね」チームがパトリシアを運ぶさなか、ひとりの救急隊員が言った。「ほんのかすり傷です、応急手当をしますね。

この思考はしばらくパトリシアの心に居座った。周りの救急隊員たちは安心させようとしているようには見えたが、その言葉は彼女の耳に届かなかった。とうとう彼女は目を瞑った。それから痛みのために叫びだした。


13日目:

パトリシアは早く快復し、テストを再開するのに医学面で適しているとみなされるやいなやDクラス区画に戻された。帰ってきた彼女は、当初は60人いたメンバーがいまや52人にまで減っていることに気付いた。アネットはなにかのテストの後、寝台で緊張病様の状態のままになり、名前リストを見直す最中もパトリシアとデレクはテーブルで2人きりだった。

夫: シド、セバスチャン、ショーン、ディーン、デレク、リック、リッチ、レイ、ロイ、ローランド、ノーラン

息子: ジェフ、ジェイソン、ジェイコブ、ジェイク、ジャック、マック、ミシェル、ミッチ、モーガン
ブラッドリー、ブライス、ブレイクボビー、ロビー、ロン、トム、タッカー

娘: シーセル、シエラ、サラ、サシャ、サンドラ、サム、サリー、シドニー
ケイトリン、ケイティ、カラ、ララ、リサ、リリー、ラナ、レスリー
ダイアン、アン、アナ、アラナ、アリソン、エルシー、エリカ
ジェーン、ジル、ジェス、ジェニファー、ジューン、ジュニパー、リリー、ラベンダー
マギー、ミーガン、マーガレット、メリッサ、マリア、メアリー
ソフィー、シンディ、キャンディ、リリー

小さく微笑んで、彼女はパッドと紙を叩いた。2つ完了、あと1つ。

バン!

銃創から爆発するDクラス少年の頭のビジョンが彼女の意識の表層に穴を射ち穿って現れ、そして同じぐらい急速に消えた。

パトリシアは激しく震え、一方の手ではペンをあやうく2つに折りかけ、もう片方では死から逃れようとテーブルの縁にしがみついた。ゆっくり目を開くと、彼女は思考が引いていくにつれてリラックスし、ずっとデレクが彼女に話しかけていたことに気付いた。

「俺ぁもう死んだよ……」デレクが話を終えた。

「どうして?」彼女は訊いた。

「なんだかんだで俺ら全員死んでるよ。あいつらがあんたに手伝わせた実験なんかカッコいい処刑じゃないか。ヘイリーは顔の皮融かされたし、ドナはアネットはほんとは壁の穴に分子1個ずつ吸われて部屋の反対で再構築されたっつう感じのこと言ってたぜ。60人も誘拐して、2マイル地下に監禁してさせることがただの……」

パトリシアはデレクの手を掴むと、強く握りしめた。

「みんな大丈夫だから」彼女は言った。「若干運頼りなだけだから。みんな外に戻れる」

デレクは冷やかに笑った。

「そりゃあんたん話だろ……」

「どういう意味よ?」

「俺らから6人実験に参加して5人が銃で、生きてても重傷になった。あんたは俺より運がいいんだろ」

デレクは疲れた目で彼女を見た。

「ちょっと……頼まれてくれないか?」

パトリシアは頷いた。デレクは彼女に畳まれた紙を渡した。

「もし外に出られたら……俺の彼に渡してほしい……一応、区切りをつけるために」

「いいよ」

「ありがとう」彼は弱々しい笑みを浮かべて答えた。それから彼は立ち上がり、伸びをすると歩み去っていった。パトリシアは哀傷に眉を顰めて彼を見送ると、名前リストに向き直った。疲れながらも、彼女は何度も何度も念入りに眺めた。しばらくすると笑みが浮かんだ。ついに娘の名前を思い出したのだ。

「とうとう?」週ごとのカウンセリングセッションの終わりに、タナー博士は小さく歯を見せてにやりと笑った。

「ええ」リストに丸がついたリリーの名前を見せて、彼女は興奮気味に答えた。「やっとできました」

「ああ……」この一番最近のひらめきが心から踊り出て、彼女は呟いた。瞬きし、彼女は辺りを静かに見渡した。タナー博士がテーブルに近づいてきていた。

「ごきげんよう、D-5111」彼は言った。「カウンセリングセッションに来ていただけるかな?」


19日目:

パトリシアは、他のDクラス2人と共におおむね空のテストチャンバーに立っていた。2日前に最後のピース群がマインドスケープの収まるべき場所に収まり、彼女は自分が何者であるか、それが自分にとってなにを意味しているかを思い出していた。

時折愛情をこめて彼女のことをパティー・ケイクスと呼んだ小児科医、彼女の夫、ノーラン・ウォーカー博士のことを思い出した。最近ステージマネージャーになった劇場技術者の息子、ブレークのことを思い出した。娘のリリーのことを思い浮かべ、いかに彼女が家の近くの公園で何時間もゲームボーイで遊んでいたかを思った。パズルは完成し、そして彼女は再びばらばらになってしまうだろうと怯えた。

「全Dクラスはテーブル上の飴を1つ取ってください」

インターカム越しの女性的な声がパトリシアの内省を打ち砕き、目の前の課題に注意を引き戻した。部屋の真ん中のテーブルには、明るいピンクと赤の飴が3つあった。パトリシアは他の2人を見た。1人は、警備員に監禁の初日に電撃を喰らわされていた、背の高い禿げた男だった。もう1人は痩せたブロンドの短髪で、両性具有的な人物だった。肩をすくめ、パトリシアはキャンディを1つ取った。残りの2人も同様に従った。

「飴を消費してください。噛んだり丸呑みしたりせずにしゃぶるよう注意してください」声がインターホン越しに指図した。3人のDクラスは気乗りしないながら従った。キャンディ自体の味には問題はなかった。描写の困難なベリーか何かの味。飴が全部なくなってしまうまで、パトリシアは口の中で転がした。仲間たちの困惑した表情からするに、他のDクラスも飴を食べ終えたようだった。

「なんだよ……これだけか?」男が訊ねた。彼は部屋の反対側の壁に張られた鏡を見やった。「おい? 次はなんだ?」

「ああ、やばい……」

パトリシアが中性的なDクラスの方を見ると、その人は恐怖に目を見開いて自分の手を見つめていた。赤い隆起が急速に体中で現れ始めていた。看護の日々と小児科医の夫をもつことが、パトリシアにそれを即座に認識させた。水痘。禿頭の男の方を見れば、彼も発疹を生じ始めていた。

「うお! なんなんだ畜生!」男は部屋中をマリオネットのように踊り跳ねながら、猛烈に掻き毟り始めた。中性的なDクラスは部屋の隅で自分の身体を激しくむしり、痛みによる叫びは恐怖によるそれと入り混じっていた。パトリシアは自分の手を見下ろした。まだ症状は現れていなかった。

「なんであんたは大丈夫なんだよ?」男が叫び、部屋の反対側から彼女の方に歩き始めた。「何やった? どうして平気なんだよ?」

彼に突き倒され、彼女は言った。「私、知らない」

警備員が部屋に入ると速やかに男を制圧し、おそらくは検疫のために彼と中性的なDクラスをテストチャンバーから連れ出していった。パトリシアを検分しつつクリップボードになにかを書きながら、白衣を着た女が入ってきた。

「免疫者?」警備員がパトリシアを助け起こす一方で、女は尋ねた。

「予防接種を、は、はい」パトリシアはもごもごと言った。

「興味深い……」女はクリップボードへ激しく走り書きした。それから警備員の方を見た。「彼女をタナーのところに戻して検査をするよう言って」

警備員は頷くと、ついて部屋を出るようパトリシアにジェスチャーした。

「あんたはついてるな、認めざるを得ないよ」彼女をDクラス宿舎に導く道すがら、警備員が言った。彼女はその前の実験の名残である、濃いペースト状の物質に覆われていた。

「立ってる場所が違えば、あんたも窒息してたろうな」

パトリシアは顔をしかめ、存在しない濃いペーストを手で払った。目を開けたとき、彼女は試験室の扉の前に立っていることに気付いた。警備員は小さく頷き、彼女が敷居をまたぐのを見守った。


24日目:

パトリシアとデレクは他の9人のDクラスと共に、見た目には緑繁る草原の中、透明なプラスティックの檻の内部に立っていた。彼らの大部分にとっては、これが今月最後のテストだった。誰にとっても、これが今月最初の太陽や生きた植物を目にする機会だった。目の前にはフェンスで囲われた野原が広がっていた。反対側には、似たような透明プラスティックの檻が1つ、口を開けていた。

「全Dクラス注目」檻の中のインターカムから男性的な声が呼び掛けた。「あと3分で、諸君らのエンクロージャーのドアが開く。そうしたらフィールドを横断し、反対側のエンクロージャーに入れ」

パトリシアは、デレクが彼女の手を強く握りしめるのを感じた。

「大したこたぁない……。よな?」

パトリシアは頷いた。「うん……何も起こらない」

エンクロージャーの扉が下に開き、Dクラスたちが草原を渡り始めると背後で素早く閉じた。かすかにそよ風が吹き、彼らの素肌には太陽の温もりが感じられた。パトリシアの顔に、小さく用心深い笑みが浮んだ。

「今のところ問題なし」

彼らがフィールドの中間地点を過ぎたとき、大きなピング音が聞こえるようになり、ついで丸鋸の動作音がした。11組の目が音の源に向いた――縁に沿って回転する歯の取りつけられた、空飛ぶ円盤に。デバイスの表面には、緑の目がひとつ彼らを見つめているのが見て取れた。この目の下には褪せたのエンブレムがあった。

「止マリナサイ」デバイスは機械的な声で言った。「来タ道ニ沿ッテ戻リナサイ」

Dクラスたちはナーバスに互いの顔を見合わせ、それからデバイスに視線を戻した。彼らの1人、せいぜい20の細身の娘が1歩後ずさりし、フィールドのもう半分に足を踏み入れた。デバイスの目は赤く変わり、高音のうなりと共に前方へ飛んだ。パトリシアは瞬いた。鋭く息を呑む音がし、それから血飛沫。少女の上半身と下半身が分かたれた。円盤は男の頭を1つもぎ去りながら上昇した。一同はたちまち叫び、ばたつき、めいめいが野原の果ての開いた檻を目指して蜘蛛の子散らし馳せる群衆になった。

パトリシアとデレクは離れず、時折振り返りながら野原をジグザグに駆けた。円盤に両足を奪われた男の上半身が、後ろへ流れるように倒れていった。その近くの女がひとり血に足をとられ、草の上に横たわったまま、機械によって縦に真っ二つにされた。素早く前を向き、失速を感じてパトリシアは息切れした。2人の目的地は近付きつつあった。

そのとき彼女とデレクの目の前で、檻へ戻る直前だった若い男が背後から襲われ、数ヤード引きずられると真っ二つになり、2人の足を止めた。それからデバイスは向き直り、目前に立つ5人の残るDクラスを見つめているようだった。

「あっちいけよ……」デレクが神経質に笑った。

円盤は再度勢いよく前進し、Dクラスたちは方々へと全力疾走を再開した。

檻に近付くにつれ、パトリシアの呼吸は乱れた。背後の叫び声が、仲間の少なくとも1人が少々ついてなかったことを教えてきた。視界の隅では、デレクが別の方向から駆け込んでくるのが見えた。円盤のうなり音が大きくなった。最後のひと押しの力を両足に込め、パトリシアはケージに向けて飛んだ。デレクも同じようにした。重い落下音と共に地面に落ち、振り向くとデレクの距離はわずかに足りず、彼は出来る限り速く這って進もうとしていた。パトリシアは片手を伸ばすと彼の手を掴み、引っ張り始めた。

激しい金属のうなり、そして大きな衝突音。

パトリシアはデレクの両前腕を掴んだまま檻の中へ後ろ向きに落ち、その若者も彼女と共に中へ倒れ込み、円盤は外で地面と衝突した。円盤はエレベーターエントランスの前に浮き、2人をしばらく見つめていた。それからその目は緑に変わり、穏やかに飛び去っていった。

午後の日差しの中に置き去りにされた9つの死体が見渡せる檻の後ろ側へ、デレクと彼女は這っていった。デレクはとうとう笑い出した。甲高い、神経質な笑い声だった。パトリシアが彼の方を見ると、身振りで目の前の大殺戮を示し、その目には涙が浮かんでいた。しばらくすると、彼女も笑い始めた。彼らを地中へ連れ戻しているエレベーターが高いうなり音を出した。

施設に到着すると、デレクとパトリシアは医者たちに群がられた。2人には話しかけられていることは理解できたが、彼らの笑い声が入ってくる刺激をすべてかき消してしまった。両者は担架に乗せられ、恐怖に打たれた様子の科学者の一団を―何人かは恐れで蒼白になり、1人は泣き、最後の1人は怒り狂った背広の男に怒鳴りつけられている―通り過ぎた。笑いの発作の合間で、パトリシアは「虐殺」「倫理」といった単語を聞きとることができた。

デレクとパトリシアは別の診察室に運び込まれ、最終的に笑いは涙に変わった。


31日目:

ちょうど終了前身体検査を終え、パトリシアは診察室で座っていた。彼女は床を見つめて、ややうつろな目をしていた。彼女のコホートに開始時には60人いたDクラスたちは、最終日にはたったの40人になっていた。そのうち、少なくとも20人が心身いずれかに深刻なダメージを負っていた。

彼女の靴の中にはデレクのメモが隠されていた。出ていくときに彼の身に何かが起きた場合に備え、彼女が持っておくべきだと彼は言い張った。この人たちがかつて彼女の記憶を消し去るためにやったことが何であれ、メモを隠し持っておけるものかどうか彼女は疑わしく思ったが、届けると友人に約束してしまった以上、試してみなければならなかった。彼女の膝の上には名前のリストが書かれたメモ帳があった。

クリップボードの上の大きなフォルダーを見ながら、タナー博士が部屋に戻ってきた。もう片方の手には、いくつかの小さな薬瓶がしっかりと握られていた。パトリシアはうんざりした様子で彼を見た。やがて彼はクリップボードをサイドテーブルに置き、彼女に向かって柔和な笑みを浮かべた。

「おめでとう、D-5111」彼は言った。「やったな。オリエンテーションで話した通り、君に記憶処理剤と呼ばれる化合物を注射する。この1カ月の記憶をすべて君の頭から消し去るよ。そうすれば君は自由の身だ」

パトリシアは頷いた。

「強い薬」

「とってもね」タナーが答えた。「これでも一番きつい種類じゃない」

そして彼は彼女にフォルダーを手渡した。パトリシアは興味深げにそれを見た。

「これは何?」

「デブリーフィングだよ」タナーが溜息と共に言った。「どれだけ短い間のことになろうと、我々は毎月末、Dクラスに参加した実験の結果の概要を提供するのさ。若干薄まってるし、当然全部は教えられないけど。でも、何に犠牲を払ったか知る権利はあるよ」

パトリシアはフォルダーの中身に一通り目を通した。学者ではない彼女にとってはかなりの分量が意味不明だったが、言わんとしたことの骨子は理解できた。「異常な発射体軌道」「自発的ウイルス疾患」そして「ラナーシリーズセキュリティドローン」の性能といった分野で重要な発見がなされていた。

「解放後の予定ある?」フォルダーを置くと、とうとうタナーが尋ねた。

「家族のところに戻る……」パトリシアは静かに言った。「このひどい1か月のことは二度と思い出したくない」

「そこは保証できるよ」彼女の膝からメモ帳を取り上げて、タナーが言った。「残念ながらこれは没収だけどね」

タナーが注射器を用意し、腕の1点を清潔にする間もパトリシアは黙っていた。まもなく色々な液体が注射され、タナーが傷口に包帯を当てた。

「で、これはどういう意味があるの?」パトリシアは1本指で刺された部位を優しくさすりながら尋ねた。

「1分から5分で君は眠りに落ちる。目を覚ましたときにはこの1月の記憶は消えてる。単純なことさ」

「じゃあ1つ聞いてもいい?」

「どうぞ」

「本当は家族のところに戻れないんじゃない?」

タナー博士は黙ったまま、何かを書きつけているクリップボードに注意を向け続けていた。

「私、分かってきた……」パトリシアは溜息をつき、テーブルに凭れかかった。

「人類は君の奉仕に感処するよ」タナーがとうとう答える傍ら、パトリシアは瞼が重くなるのを感じていた。

「ふざけないで……」不明瞭につぶやくと、パトリシアはついに眠りに落ちた。


タナー博士はモリソンと共有しているオフィスに戻った。脇には警備員が生き残ったDクラスから没収した品々すべてが収まったバスケットを抱えていた。自分の席に座って溜息をつくと、彼は様々な身の回り品を仕分け始めた。モリソンがその様子を部屋の反対側のデスクから眺めていた。

「変わり映えのしないコホートですこと」彼女はため息交じりにコメントした。「リサイクルはどうでした?」

「生存者は朝のオリエンテーションに備えて寝台に寝かせてあるよ」タナーが答えた。彼はD-2960のメモを小さなジップロックの袋に入れると「D-5111へのメモ」とラベルをつけた。さらに6枚のそうしたメモが袋に収まった。

「これで、えーと、5111は連続12カ月でしたっけ?」

「13……」

タナーはパトリシアのメモ帳を「D-5111リスト」と銘打たれた別のジップロックに入れた。

「他のDクラス管理者に聞いてみたんですが」モリソンが続けた。「彼女は5カ月かそこらで前の記録を破りました、本当に驚きですよ。倫理のレプの1人が後で立ち寄ります。実はあちらにはDクラスが1周年を迎えたときのためのプロトコルがありません。それって……ずいぶんと凄い話ですよね。せいぜいかすり傷ですか」

タナーは手を止めると頷いた。

「ケリガンの内線、まだ持ってる?」

モリソンは動きを止め、片眉を吊り上げた。

「ありますけど……どうして?」

「Dクラスを13カ月、せいぜいかすり傷。私が思うに異常人型アナ・ハムズの誰かが調査していい案件だ」

「でもそれって質問に対する答えじゃないですよね」モリソンが鼻で笑った。「今まで山ほど理不尽な運の持ち主のDがいましたけど、あなた、今回まで一度もケリガンのとこのスタッフに見てもらおうとしなかったじゃないですか」

「うーん、このままだとD-5111はちょっとしたDクラスのエナジャイザーバニー1になって、延々働かされることになるよ。ここまで誰かをオオカミの餌にしようと試み続けるのは非人間的だな……2児の母であることはもちろん。少なくともスキップになったんなら、数日おきに名状しがたい恐怖の口に追い立てられることはなくなる」

「D-5111にお子さんが?」モリソンが含み笑いした。「へえ……」

「やれやれ、Dクラスのファイル読んでるよね?」タナーの眉根が嫌悪で寄った。

「あなたはどうなんですか?」

「全部読んでるさ」タナーが鋭く言い返した。「あの人たちには自分の物語を1人ぐらいには知ってもらう権利がある。どうやらそれは君の役目じゃなかったみたいだね」

モリソンの表情が失せ、椅子に座り込んだ。

「ご高説は結構」やっと彼女が答えた。「この仕事をやって15年になるので。ここで2000人以上のDを見送ってきましたから。泣ける話。無罪。孤児。先立たれた夫に先立たれた妻。どれも山ほど。知りたいでしょう、どうぞ遠慮なく。言っておきますが、バーンアウトへの近道ですよ」

モリソンとしばらく見つめ合うと、タナーはかぶりを振って肩をすくめた。

「ケリガンの内線は?」彼は訊いた。

大声で数字を読み上げると、モリソンは肩をすくめた。

「あなたの時間でしょう、無駄になるのは」


1日目

D-5111は突然の衝撃と、そして割れるような頭痛で目覚めた。素早く瞬きすると周囲の暗闇に目が慣れてきて、彼女はゆっくりと辺りを見回した。身に着けていたのはオレンジ色のつなぎだった。2段ベッドと彼女以外に大体20人ほどの怯えた面持ちの女たちで一杯の、ある種の宿舎のように見える部屋で、ベッドの下段に彼女は横臥していた。部屋はもはやパニックを起こした声に、叫びに、そして泣き声に埋めつくされつつあった。D-5111はその騒音で、自分がだれであるかも、ここがどこであるかも見当がつかないということに気付き……

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