濁水
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ぽちゃん、と水音がすると、バイト先から持ってきた残り物を飛び跳ねた"それ"が食べる。

ここ数ヶ月、毎週のように餌をあげているが、その姿が何なのかは一向に掴めない。濁りきったこの溜池の中では、見えないのも仕方がないのだが。




それは、私がバイト先のレストランから帰るとき、たまたま立ち寄った裏道にある神社だった。
  もっとも、小さな鳥居と祠だけのそれを神社と呼べるかはわからないが。その祠の裏側を何ともなしに覗いてみると、小さな溜池があった。落葉の溜まった、酷く濁った溜池だ。珍しいものでもない。しかし何故か興味をそそられる。暫くその動きの無い池を眺めていると、じっと、下から何かが這い上がらんとするのが分かった。その瞬間、何かおぞましいモノが来ると感じた私はすぐさまその場を立ち去った。




その日から、バイト帰りには毎週その神社…いや、溜池に寄る様になった。前回は逃げてしまったが、やはり池の中のものの正体が気になってしまう。日中に1度来た時はただの溜池で、ザリガニが動く様子もなく、小さな昆虫やボウフラが蠢くだけだった。いや、もしかすると魚やその他の大きな生物もいたのかもしれないが、暗く淀み、塵芥の積もったそこには、何がいようとわからない。それでも何かがいると思うのは、先週の感覚によるものだった。

私はきっと大きな鯉か何かだろうと思い、レストランから捨てられたパンをそっと袋に入れ、溜池へと向かった。そして、袋の中で一口分に千切った餌を投げ込む。しかし軽いパンは沈まず、水面に浮かんだままだ。暗がりのなか、小さな波紋が広がって行くのを見ていると、また、先週の様に、下から何かが這い上がってくる感覚に襲われた。私は恐怖心から直ぐに溜池から視線を背ける。ーと、どぼん、と後ろから何かが跳ねる音が聞こえた。直後、それが直ぐに降りて行くのと、ふっと力が抜ける感覚が私を襲った。振り返るとパンは消えていて、細かな泡が点々と浮上しているだけだった。そっと身を乗り出し、スマホのライトで溜池を照らす。そこには永遠と奥底へ続く、溶け切らないような泥が渦を巻いているだけだった。




それから2週間後、次こそはと息巻こうと、私はあれを直接見ることは出来ないと悟っていた。そこで、新しく数万円程の暗視カメラを購入した。バイトで貯めていたお金だが、どうしても姿を確認したいという欲望に負けてしまったのだ。いつも通りバイトが終わり、溜池へと向かう。そして持ち帰った残飯を、投げ入れる  その前に、カメラをセットし、録画を開始する。よし、心を落ち着かせ、何処かもわからない鳥の廃棄部を投げ入れる。もう感覚には慣れてしまったが、それでも目を逸らさずにはいられない。水音がし、深淵を深く降りていく感覚を受け取ったら、カメラを停止させ確認する。そこには、

そこには、何も写っていなかった。上から私の投げた肉塊が溜池へ落ちると、水飛沫があがり、どぽん、とやはり何かが飛び跳ねる。しかし、そこにはなんらかの生物の影すらなかった。




それから何度も動画を録り直し、足を運んだが、やはりどの動画も写すのは飛沫と餌だけだった。しかし諦めきれない私はその動画を、動画投稿サイトやインターネット掲示板へと投稿していた。物好きな視聴者がきっと、分析を重ね、正体を解き明かしてくれると考えたからだ。また、同じ考えから私はその土地の住所を明かすことにした。



何コレ?住所だけ書いてるけど、池みたいな。なんか跳ねてる。

解読版はよ

ここ俺の近場だ。凸ってみようかな。

何が跳ねてるんだ?魚?だとしてもあの勢いで姿が見えないほど小さい訳無いしな…。

明るくしてスローで見たけど、飛沫の所になんもおらん。投げてるのは恐らくパンとか肉とか、餌っぽい。





書いてある住所のところ、実際に行ってみたけど、工場やら排水管やらが集まってるだけで、動画みたいなところはどこにもなかったよ。釣り確定。



そのまま動画を投稿し続ける日々が半年ほど続いた頃、1つのコメントが目についた。

██県ですが、似たような場所を知っています。そこはお寺の土地の中にあり、そこの住職の方に聞いたのですが、どうも話したがらない様子でした。祖父の話によると、河童だとのことでしたが、どうにも納得が行きません。だって、河童なら川にいるはずですし、何より、サイズ感が違いすぎます。きっと魚のような、でも、正体のつかめない、まさにこの動画のような感じです。因みに、今はその池は完全に干からびて、何もいません。当時私も不思議に思い観察していましたが、とうとう姿を見せることはありませんでした。

河童、私も何度か考えていた説だ。しかし、確かにあれを河童と呼ぶには既存のイメージと異なる点が多すぎる。 本当に、そんな物じゃなかった。

また、いつものように餌を投げ、下から何かが這いずり上がって来る。そして背を向けた。その時、私はそれを網で捕まえてしまえばいい、というなんとも簡単な事に気が付いた。そして同時に、それをすることであの正体不明の何かを確認できてしまうことに、恐れていた。しかし思いついてしまったものは仕方がない。何より、この好奇心を前に抗うことは出来なかった。それが恐怖や警告だったとしても。




釣り用の網を手に握り締め、じわりじわりと溜池へと近づく。今日は、録画ではなく生配信だ。先程確認した視聴者は30人程度。そんなのもだろうと思い、ポケットから餌を投げる。来てはいけないそれが、上へ、上へと向かってくる。そして、タイミングを見計らい、  思いっきり網を振りかぶった。


瞬間、轟くような絶叫があたりを覆い、響き、波打った。網の中から逃げ出そうと、ふるえ、泣き叫んだようにも聞こえるその声は、私の名前を叫んでいる。
網を置き、半ば放心状態でそれを見る。そして、直ぐにそれを後悔した。それは、人の顔をした、昆虫や泥や骨の入り混じった何かだった。私は、その定義し難い不安定な塊がこっちへ来るのを確認し、直ぐに走り出した。カメラはそのままだった。その塊は追いかけては来ず、溜池の中へとまた、落ちていった。

ここもいつか干からびる。


家について鍵を閉め、全ての電気をつけ布団へ潜り込む。と、風呂場から水音が聞こえた。もう想像したくもなかったが、最後の勇気を振り絞り、様子を見に行く。しかし異変はなく、ただの出しっぱなしであったことに安堵する。部屋に戻り金魚の水鉢を見た。そこはいつも通り濁っていたが、いつもなら顔を出し、こちらを見つめる金魚達の姿が見えない。その後私は、全身から力が抜け泥のように眠りについた。夢の中で、誰かに名前を呼ばれていた気がする。




後日、昼間に私はカメラを回収に行く。電池は切れていたが、データは保存されているようだった。私はその映像を確認することもなく、溜池へと投げ入れる。あの日から、毎日、私の中で何かが蠢いている感覚に陥ることがある。濁りきった水、暗闇、曇りガラス、全ての不明瞭な場所に、"それ"がこちらに這いずり出ようとせんとすることを感じるのだ。目を閉じ、理解した事に後悔する。今はとても苦しいが、もう少しだろう。細かな泡が点々と浮上する。
口から命を吐き出す。段々と私が空っぽになっていく。

溶けきれない泥の様に、沈んでいくんだ。深く、深く。都会の喧騒や鳥の囀りすら、誰かの好奇心さえも届かない塵屑の中へ。

ぽちゃん、と水音がした。



ぴしゃりぴしゃりと、

周囲から滲み出した油の入り交じる水溜りの外へ、異形とも言えるそれらが新たな番人と入れ替わるように、ぞろぞろと列を成し這い上がっていく。

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