雪に夕日を落とすように
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「あら、いらっしゃい」
常夜と雪の、どこにもない街。忘れ去られたものだけの片道切符で辿り着く緩やかな終わりの風景に、今夜もまた誰かがふらりとやってくる。
酩酊の街にいくつも、いくつも立ち並んだ酒場。いつからあるのか誰からあるのか、空気中のアルコールが脳に染みて誰も気にしない、そんな酒場の扉を開いて。
暖かい空気と柔らかな色をした照明が、カウンターと座敷を備えた小さな飲み屋と、そこに迷い込んだ男を照らしだす。
「いらっしゃい、今日はお客さんが多い日だねぇ」
お好きな席にどうぞと笑いかけられて、男は少しまごつきながら扉を閉める。くたびれた灰色のスーツが、図らずともレトロな店内によく似合っていた。
店内を数分の間眺めていた男がカウンターの端に腰を下ろしたのを見て、ご注文は、と女将は声をかける。差し出されたメニューを見もせずに、男はどこか遠くを見ていた。
酩酊の街に突然やってきた人間にたまにあることだ。特に気にもせず、半分ほど席の埋まったカウンターの他の客に女将は穏やかな目線を向ける。スーツの男が来る前から飲んでいた若い女が、何か変わったのはないの、と話しかけてきた。
「それなら、たんぽぽ酒はいかが」
「へぇ、たんぽぽ。梅とかじゃなくて?」
「そう、たんぽぽ」
遠い昔、どこかで作り方を聞いたんですよ。そう笑いながら、酒場の女将は取り出す。果実酒用の瓶に浮かんだ白と黄色の花が、それがたんぽぽで作られた酒であることを示していた。
昔はあったのに、今は忘れられかけているもの。この雪と酒が埋める永遠に終わらない夜の向こうでは居場所を失いつつある、白い花の上に金糸を広げたような花。
シロバナタンポポを飲み込んだ褐色が、照明にあてられて夕日のような金色に染まっていた。
カウンターに座った女は変わり種を見て鷹揚に笑いながら、おかわりと言ってお猪口を揺らした。瓶の中に浮かんだたんぽぽを揺らす夕焼け空のようなきらめきも、酒の席の談笑に紛れて忘れられてしまうのだろう。この場では誰も気にしない。明るく寂しい、酒飲みが酔いに紛れて見る夢のようなこの街では。
外では雪が降り積る微かな音。賑やかな話し声に紛れてこの場には届かない、静かで美しい音。
お猪口に雪解け水のような清らかな日本酒をついでやりながら、女将はふと思い出す。雪の夜に話す二人を。永遠の酩酊による耽楽。酒と夜の幻に沈む誘いを断って、まだやる事があると示すかのように世界の裏側でストップウォッチを鳴らした人のことを。
永遠の安寧と夜とアルコールに沈んだ住民の誰かが、その後ろ姿によくやれるよ、と言っていたことも女将は思い出した。酒に焼けた声はさして非難するでもなくどうしてそんなに頑張れるんだろう、と言いたげな音色だった。その声には傷ついてもなお大空を目指して羽ばたく鳥を見上げる時のような、嫉妬にも憐憫にも似た身勝手な優しさが籠っていた。
「……それ、ください」
女将の追憶を移していたお猪口の水面に、注ぎ口からの最後の一滴でさざ波が立った。徳利から、雪解け水が途切れる。カウンターの端に所在なさげに座っていたスーツの男がここに来て初めて言葉を発した。喧騒に喉のどこかをかき消されたような、色々なものに掠れた声だった。
「白いたんぽぽって、初めて見ました」
この街に降り積もった雪と酒の匂いのせいか、頬は赤く瞳は微かに潤んでいるように思えた。どうやら、風邪ではなさそうだった。
女将は微笑んで、たんぽぽのお酒を瓶から汲み出す。小さなバケツに細い柄がついたような銀のカンロ杓子が、ゆらゆらと黄金色の液体を揺らす。思い出の中の西日が揺れるような風景だと男は思って、けれどそれがどこで見た夕日か思い出せないまま、誰かの追憶がコップに注がれていくのを見ていた。
「あちらでは珍しくなったらしいね」
ここにいると、冬以外は全て過去になってしまう。酒に沈んで遠のいて、雪に埋もれて温度を失くす。酩酊街の短い春に咲くたんぽぽはほとんどが白い。黄色い花が、向こう側で忘れられでもしない限りは。
「あちら、か」
振り切るように呟いて、男はカウンターへと手を伸ばす。女将の思い出の中の、どうしてそんなに頑張れるんだろう、とよく似た声音だった。陽の当たる場所で愚直に咲く花を羨ましがるようでいて、それでいて心のどこかで優越を覚えて日陰で笑うような声だった。ここに来てしまったからには戻れないのだと、まるで分かっているような諦念とそれに裏打ちされたほの暗い喜びが見え隠れしていた。
彼もまた、空を飛ぶ為の羽や太陽に向かって伸ばす葉をなくしてここに来たのかもしれなかった。今夜の酩酊街に降るのは牡丹雪だ。心の古傷も折れた決意も、翼がないことも隠して埋めてしまえる。この街が忘れていくのは、楽しい思い出ばかりではない。かといって、苦しい思い出ばかりでもないが。
麗らかないつかの春の日が、もう戻れぬほど小さくなった走馬灯が、手渡されたコップの中で揺れる。黄金の中で舞う白い花に後ろ髪を引かれながらも、男は一息にぐいと飲み干した。後悔も追憶も栄光も忘れて、永遠に終わらぬ夜に漂う決意を何かに示すかのように。
酒場の窓が微かな音を立てて揺れる。白い花びらを散らしたような吹雪が、夜の中でごうごうとその音を強めていた。酩酊に浸る男に、この街に、過去からの呼び声にも似たその音はしかし届かなかった。

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