「チェックメイト。」
また負けた。
「あ、ありがとうございました。」
頭を下げる。でも、このまま顔を上げられる気がしない。きっとひどい顔をしている。
「またやろう。」
…
「うん。」
差し出された手を握る。細く、しなやかな指は官能的でさえある。
鼻声じゃないかな。視界がにじんでそっちまで気が回らない。涙は落ちていないかな。顔が熱くて頬を伝う感触がわからない。
握った手を放し、’彼’は席を立つ。その隙を狙い、どうにか顔を上に向ける。昇った血が引いていく。思考が冷静になっていく。悔しさはどこか爽快にも感じられ、二人の取り決め通りに共用のチェス盤を片付ける。
カチャカチャと駒同士がぶつかる音が小気味いい。普段は騒音だとしても、負けた後だからか少しホッとする。片付けていくうちに、しぼんでいた闘志は膨らみ、来週の対局への貪欲さが残った。
いつも通りに爪痕が付いた掌。そのうち手相にでもなるんじゃないかと昔茶化された。
今週の週末も、敗北から始まった。
フリーマーケットが近所で開催していた。段々と温かさが増してきた春先、少し薄めの寝巻目当てでぐるぐる冷やかしながら歩き回る。うららかな陽気が財布のひもを緩める。緩くなっていることは自覚できているし、家に帰ってほんのり後悔をする予感はしていた。しかし、それも許容できるくらいの陽気さが春の日差しと共に訪れた。春の陽気と麻薬はどちらの方が中毒性があるのかと下らないことに考えを巡らせながら、いくつか服を買った。
そろそろ帰ろうかと思う頃、やけに熱心に客を呼び込んでいる男を見つけた。
「おいあんた!そうそう、そこのだよ。こいつ買わないか?由緒あるチェスの道具だぜ。安くするぞ。おい、待ってくれ!せめて話だけでも聞いてくれ!おい!」
見るからに古そうなチェス一式を広げ、一人一人に執着するかのように声をかけ続けていたその親父は、頬がこけ、あからさまに苛立っているようだった。
「由緒あるってどんな感じのですか?」
「おおっ!座れ座れ!聞かせてやるよ!」
親父は目をむきながら興奮して、口を開いた。
「これはな、1700年ごろ、ヨーロッパから渡ってきた品なんだ。ちょうど戦国時代だった日本のどっかの大名渡って、今に伝えられてるんだがそれはどうでもいい。重要なのはヨーロッパでのこいつのエピソードだ。」
曰く、この一式は地方の貴族のものだったらしい。その貴族の子供はチェスの天才で負け知らず。子供のころから大人を軒並みぶっ倒し、その名を大いに轟かせた。しかし、噂には尾びれが着くもの。対戦したら魂を取られるだの、不幸が降りかかるだのがまことしやかに囁かれ始めたらしい。それからというもの、彼には一人も対戦者が現れず、たった一人でずっと”対戦”をしていたらしい。
そして、今でも稀に亡霊が現れ、対戦を申し込むことがある、と。
昨日の敗北からくる闘志と、春分からくる夕日の陽気がタッグを組み、財布のひもにラリアットを仕掛けてきた。あっさりと降伏した私のひも。最初は1500円と本格的な一式にしては破格の値段だったはずだが、財布から消えた野口は3人だった。それでも安いことに変わりはないが、解せない。
ちょっと値段を高く取られたとしても、自分専用の一式を安く買うことができた事実に変わりはなく、興奮はなかなかひかなかった。
早速広げて、駒をセットする。一人で対戦する。自分の思考を自分で見つめている。思考が読まれ切っている中、いかに自分を出し抜くかを考える作業は新鮮で、脳が焼き切れる気がした。1時間か2時間も過ぎるころには消耗しきって、眠気が侵略してきた。外を歩き回った疲れも参戦し、身支度を終えて布団にもぐる頃には半分寝ていた。
翌朝、知らない人が私を起こした。
「おはようございます。チェスやりませんか?」
「は?」
素っ頓狂な声を出した後、昨日の話を思い出した。
こいつが幽霊?しかし、どう見ても既視感がある。大体中世の貴族がこんないいスーツを着ててたまるか。どこで見たかと脳内を検索していると不意にそれは中断させられた。
「国文 峰雄、国文 峰雄でございます。市民のため、県民のため。ひいては日本のため、しっかりと勇敢に戦います。市民を代表し、我らが都市を引っ張っていくことをお約束いたします。」
考えている最中に邪魔してくる選挙カーには毎度毎度参っていたが、今回ばかりは助かった。この人、国文 峰雄さんに似ている。
「チェス、やりませんか?私、それなりに腕には覚えがありますよ?」
なんでこの人がここにいるのかよくわからない。そもそもさっき外で演説して回っていたじゃないか。ドッペルゲンガー?怪奇現象?何度も何度も考えた末に。
思考を放棄した。
「私、ちょうど対戦相手が欲しかったんです。是非とも。」
「では、早速始めましょうか。」
….
「チェックメイト、ですね。」
か、勝てた。やった。やったんだ!
「完敗です。素晴らしい打ち筋でした。機会があればまたやりあいたいものですな。」
…?ほ、褒められた?
「では、ありがとうございました。」
「あ、ありがとうございました。」
差し出された手を握り、目の前にいるのはしっかりとした生身の人間であることを確かめた。
ほとんどチェスで褒められたことがなかった私は、真摯に対戦相手に尊敬の念を抱いた。しかし、そんな余韻をぶち壊すような前兆が聞こえてきた。同じ国文 峰雄さんでも、目の前にいる人間と騒音を垂れ流すだけの壊れた拡声器がいることに強い違和感を感じていた。
「さて、明日にチェスで対戦したい方とかはいらっしゃいますか?」
「明日、ですか。」
「ええ、毎日私では飽きてしまうでしょう。代わりに誰かがあなたのお相手をいたします。」
少し迷った後、”彼”の名前を口にした。いつも握手はしてくれる。いつも胸を貸してくれる。でも、一度だって私を称えることは無かった。ここで名前を出せば、少しくらい私を認めてくれるのではないか、と淡い期待が内に芽生えたのだ。
「ふむ、了解しました。彼が明日、あなたのお相手を務めます。それと…」
…
少しぼーっとしていた気がする。しかし、外から聞こえてくる選挙カーの音ですぐにハッとする。目の前には誰もいない。あれは白昼夢だったのか。一度放棄した思考を拾いなおして考える。外から聞こえる悲鳴や途切れた演説には気にも留めずに。
ふと、自分の服装がきちっとしたスーツになっていることに気が付いた。これは間違いなく国文 峰雄が着ていたものだった。狐につままれた気分でいると、警察のサイレンが聞こえてきた。とりあえず、脱ごう。
…
結局、その日はそれ以上チェスに触ることなく、一日を過ごした。明日が楽しみでしょうがなかった。さっさと風呂に入って、日曜日を迎えることにしよう。
その日は早く目が覚めた。まだあのチェス盤の前には誰もいない。寝間着を脱ぎ、顔を洗ってまた部屋に戻ると、”彼”がいた。
彼との対戦が始まった。
「ありがとうございました。」
「した。」
湧き上がる悔しさは何度対戦しても変わらない。
いざ握手せんと手を差し出してきた”彼”。
こちらも手を差し出そうとしたその時、呼び鈴が鳴った。
インターホンから覗くと、警察。自分が何かしたかと焦る。
「この辺で起きた政治家の猥褻物陳列罪について聞き込みをしておりまして」と聞こえてきた。
なんだ、それなら私は知らない。こっちの’彼’を向かわせよう。
「おーい!接客頼んだ!」
「誰ー?」
「来ればわかるー!」
ちょっと待たせるのは申し訳ないけど、”彼”を待たせる方がはるかに申し訳ない。’彼’とすれ違いつつ、部屋に戻る。
「少し、待たせたね。」
「いや、別に。」
ぶっきらぼうに返答する彼の態度とは反対に、まっすぐにのばされた手を、しっかりと握った。
その後、自分が勝って、握手が終わるとすぐに退出する’彼’とは対照的に、”彼”から多くのアドバイスと、賞賛をもらった。もしかしたら勝つよりもうれしいかもしれない、と感傷に浸った。
「…これでアドバイスは終わり。またね。」
「ああ、またな。」
最後くらいカッコつけておこうとキリっと返答した。気が付くと、目の前には誰もいない。また、感傷に浸りなおりそうになると、下から悲鳴が響いた。
デジャヴを感じつつ、自分の部屋から客間へ。廊下を歩くと、微妙な違和感が。これ、”彼”が着てた服じゃないか?
何か立て込んでいるらしく、客間からはどたばたと床が踏み鳴らされつつ、怒声が飛び交っている。一体何だっていうんだ。