静穏の終わる朝
rating: +31+x
blank.png

snow-933223_1280.jpg

いつもどおりの朝だった。

谷崎翔一はクッションのくたびれた椅子に座り込んで、ぼんやりと窓の外を眺めていた。季節外れの降雪が首都圏の交通をほとんど完全に麻痺させていて、満開の桜並木は枝上に積もった雪の重みに耐えかねて頭を垂れていた。5センチばかり積もってしまえば、グラウンドは一面の銀世界になる。時折響くどさりという雪塊の落下音を除いては、その部屋に音はまったくなかった。静寂の中で彼はただじっとして、あてどなく何かを待っていた。

チャイムが鳴った。間の抜けた電子音声が耳朶を叩き、彼はのっそりと腰を上げた。日が昇ってまだ1時間も経っていない。プレハブ建築の狭苦しい用務員室は暗く、冷え切っている。ストーブの火はとうに落ちていた。マッチは昨夜のうちに切らしている。さざ波のような小さな不快感に、彼は小さく喉奥から唸り声を漏らした。

「どうぞ」

心持ち張り上げた声に応答はなかった。

ゆっくりと扉に近寄る。この時勢にあってはお目にかかることも難しくなってきた、アルミサッシにすりガラスを嵌め込んだ簡素な横開き戸だ。三和土に放り出されたサンダルは冷たく強張っていて、つま先を差し込めば厚手の靴下に溜め込まれた体温が逃げていく。すりガラスの向こうに朧気に見える人影は彼より10cm以上も背が高い。この学校にはそれほど長身の人間は勤務していなかったはずで、彼は少しばかり困惑する。

戸を引き開けた瞬間、冷気とともに人影が押し入ってきた。黒のコートを着込んだ男はがっちりとした肩幅で、全身に雪を被り、荒い息は獣のようだった。不躾な行いに抗議の声を上げるより先に、谷崎は男が左脚を引きずっていることに気付き、次いで男のコートの右脇の僅かな盛り上がりを目に留めた。そして最後に、目深に被った警帽の下にある、どこか覚えのある顔をまじまじと眺めた。

「以前、会ったことがあるかな」
「ああ、もちろん」

男は言って、後ろ手に扉を閉めた。

「こんな寒い部屋で何をしてやがる。凍死するぞ」
「マッチを切らしたんだ。配給券を紛失して」
「時代遅れな奴め」

隠す気もない舌打ちをして、男は懐から銀色に輝くライターを取り出す。思わず受け取ろうと伸ばした腕を革手袋の手で掴まれて、谷崎は擦り切れた畳の上に転んだ。闖入者のぎらぎらと光る双眸が彼を見つめている。歯をむき出しにした品性の欠片もない笑みが、奇妙な既視感を与えてくる。眼球の裏側がずきりと痛んだ。

「会ったことがあると言ったね」
「そうだ」
「良縁とは言い難いものを感じる。帯銃は違法だと知っているかい」
「知ってるが、守る気はない」
「そうかい。ぼくはここの用務員をしてるんだ。きみはぼくに用があるんだろう」

ああ、と息を吐いて、男は谷崎を開放した。ライターを受け取り、ストーブに火を灯す。恐ろしく旧式の石油ストーブがオレンジ色の光を放ち、冷え切った部屋の中にひとかたまりの暖気を生み出した。谷崎は男を見る。ブーツを脱ぎもせず土足で部屋に踏み込んできた男は、うっそりと上がり框に立ち尽くしている。左腕はコートのポケットに入っている。深いポケットの中に握り込まれた凶器の存在を感じて、彼は少しばかり困惑した。

「何かを修理してほしいってわけじゃなさそうだ。ぼくは最近、そんなことばかりやっている。なんで用務員なんかになったんだか自分でもわからないけれど」
「そりゃあそうだ。アンタには到底似合わないね」
「そう思うよ。それで、ここには何を?」
「俺はアンタに会いに来た」
「何のために?」

男は首を傾げ、何ともいえない表情で谷崎を見ていた。彼の左腕はゆっくりとコートのポケットから抜き出された。彼が拳銃だと思っていたものはそうではなかった。それは小さく折り畳まれた新聞だった。彼が昨夜読んだものと同じ、全国紙の朝刊だった。

「これを読んだせいで、眠れなくなったんだろう」

彼は頷いた。奇妙な感覚があり、それは何度目かのものだった。数ヶ月に一度、そういうことがある。新聞、雑誌、ラジオ放送、あるいはバスの中吊り広告。数秒間、彼はそれから目が離せなくなり、そしてそれが何でもないただの無意味な広告であることに気づいた後、決まって不眠症に陥るのだった。彼は可能な限り、それを忘れないようにしていた。何かが喉の奥、あるいは眼球の裏側に引っかかっていて、いつも彼の眠りを妨げた。

「俺の仲間が昨日死んだ」
「お悔やみを」
「いいんだ。奴にとっては最後のチャンスだったから」
「何をしたんだい」
「報道管理局のデータベースにちょっとした細工をして、ミームを忍ばせた。目覚まし時計みたいなものだ」
「それは……」
「この新聞さ。この地域は配布差し止めが間に合わなかった。だから来た。アンタが読むのは分かっていたし、俺にも時間がない。監察局は猟犬を放ったから」

男は新聞を広げた。24面は全面広告になっていた。見慣れた三本矢印と盾の印章が真っ白な紙面の中央に染め抜かれていた。それはいつもの光景のようでいて、どこか違っていた。何かがおかしかった。彼は奇妙な切迫感に駆られて、その威圧的な図形を眺めていた。何かが浮かび上がってきていた。白地に黒の紋章は揺れて歪み、その裏側から何かが滲み出すのを彼は感じた。こめかみが両側から押し込まれるような感覚があった。平衡が失われ、立っているのか座っているのかも分からなかった。彼はただ図形の裏側から流れ出す何かを待っていた。

「きみは財団職員なのかい?」

息も絶え絶えに谷崎は尋ねた。それしか彼にできることはなかった。彼はそこで目を見開いて、隠されていたものが顕わになる瞬間にただ立ち会っていた。

「今は違う」
「では何を?」
「旧交を温めにさ」

男は厳粛に宣言した。

「俺は思い出させに来たんだ。アンタに、使命を。かつてアンタが思い描いた通りに、やりかけの仕事をこなす時が来た」

天宮麗花は憂鬱だった。担当医師から渡された錠剤の副作用でこのところ偏頭痛が続き、4度めの転属申請はすげなく却下され、上司にも同僚にも恵まれず、おまけに久しぶりの休日の朝から呼び出されて機動部隊の任務統括に充てられていた。

『アグロ11よりアグロリーダー、チェックポイント通過。妨害なし。対象まで200』
「アグロリーダー了解。対象はこちらでモニターしています。狙撃地点まで迅速に移動なさい」

彼女にとって、この任務自体が唾棄すべきものだった。反逆者の排除、それは確かに財団への貢献として申し分ないものだろう。配置転換で突然言い渡された観察局勤務。失敗を避け、点数を稼げば統治局のポストに返り咲ける。そう信じて業務に邁進し、数多の機密書類と事務手続に埋もれ続けてきた。しかし厳然たる事実として、監察局の業務はとんでもない貧乏籤だ。

『こちらアグロ13、3階に進入。少数の民間人が校舎内に存在します。避難させますか?』
「不要です。避難の動きを気付かれるリスクがあります」
『了解。交戦時に誤射する可能性がありますが』
「許容できる犠牲です」
『しかし、彼らは職員候補生で』
「どうせレベル2止まりの連中でしょう、私の権限で対処可能です。隊の責任にはなりません」

心配性な部下を黙らせ、通信を切る。人工知能徴募員AICによる自動化が進み、作戦管制用の指揮車輌は工作担当監督官を除けば2名の管制要員だけで事足りるようになっている。報道用のバンに偽装された指揮車両は暖房の効きが悪い。足先の冷え込みはただでさえ最悪に近い気分を苛立たせる一方で、彼女は親指の爪先を噛んだ。

ふと疑問に思う。いつまでここにいるのだろう? 幹部職員採用試験を最優秀の成績で通過したのが遠い昔のことのように思える。これまで多くのポストを転々とし、その度に成果を挙げてきた。組織の歯車として働き続ける傍ら、対抗ミーム接種の被験体としても奉仕した。他人に数倍する成果を残した自覚がある。だというのに今、くだらない仲間割れで組織を離れた裏切り者を処刑するために、彼女はくたびれた街の片隅で凍えている。

「おおっと、怖い顔ですな。熱いコーヒーはいかがかな?」

低い落ち着いた声が彼女の思考を中断した。すいと差し出されたコーヒーカップは湯気を立ち上らせる黒黒とした液体に満たされ、無言で受け取り一口啜れば、渋味と苦味が口内に広まる。いついかなる時も笑みを絶やさないいけ好かない上司の顔を思い浮かべ、彼女は小さく舌打ちした。あのイカレた女狐め、いつも泥水みたいなものを飲んでいる。

「ここがプリチャード学園と呼ばれていた頃のことをご存知ですかい? 天宮博士」
「知らないわね、そんな名前は」
「貴女もここの卒業生だったはずでしょう。それも主席の。あの校舎で貴女は学んでたはずだ」
「記憶にないわ。何か勘違いしていないかしら」
「そりゃあ失礼」

くつくつと笑う声が腹立たしい。プリチャードという名前にどこか聞き覚えはあるが、それだけだ。どうせ財団の内報かなにかで読んだのだろう。教育局が幹部候補生学校を所掌するようになって長い。自分もそこの出身だ。こんな寂れた校舎で学んだことなどあるものか。腹立ち紛れにコーヒーをカップの半ばまで飲み干す。ちくしょう、舌がおかしくなりそうだ。

『アグロ13、配置に付きました』
「了解。そこから何が見えるかしら」
『プレハブ建築の用務員室です。壁面素材からみて貫通射撃可能。内部の様子は不明です』
「対象は確かにそこへ入ったと?」
『アグロ16が確認しています。彼は裏手に』
「よし。各自の判断で射撃を許可します。確実に対象を無力化。止むを得ない場合は終了しなさい」
『内部に用務員がいます。一般人か協力者かは不明』
「対象と同様に処理なさい。拷問室に送って確かめれば済むことです」
『コピー』

これで一息。どうやら職員候補生を巻き込まずにすみそうだった。ただでさえ敷地内への部隊進入許可を得ていないのだ。教育局は伝統的に監視部門嫌いで、反逆者はそれを知ってか監察局が手出しをしにくい場所ばかり選んで潜伏していた。とはいえいずれは尻尾を出すもので、財団の優秀な監視ネットワークは即座に裏切り者の足跡を炙り出し、担当者である天宮のチームを多摩丘陵の人里離れた教育施設まで誘導した。

狩りの時間だ。獲物は食い千切られ、地下室に送られる。苦痛を武器にするプロフェッショナルは、容易く反逆者から言葉を引き出すだろう。天宮は点数を受け取り、サイト-8181に舞い戻る。教育局の抗議があるだろうが、跳ね除けるのは容易いことだ。

そこまで考えたところで、ぶつりとモニターの電源が切れた。コンソール上では通信の不具合を示すアラートが輝いている。お決まりの整備不良だろうか? 人類防衛部門の各局が優秀な技術者に引き抜きをかけるせいで、監察局を始めとする監視部門の現場要員は常に機材の稼働率低下に悩まされている。

「ねえちょっと、この」

モニターを代えて、と言おうとして、呂律が回らない事に気づいた。舌先が僅かに痺れている。立ち上がろうとして、筋肉に力が入らない。体重の移動を制御できず、ずるりと椅子から滑り落ちた。バンの冷たい床に頬を付け、埃を吸い込んで盛大に噎せる。取り落としたコーヒーカップが割れ、黒い液体がカーペットに染み込んでゆく。目の焦点が合わない。薄暗い車内で2人分の人影が折り重なるように倒れている。部下の管制要員たち。そういえば、ずっと声を聞いていなかった。存在を意識できていなかった。

ぬるくなったコーヒーが床を伝い、頬に触れる。すべてのモニターが消えている。埃臭さに混じって芳香が鼻につく。

何かを混ぜるなら、匂いと味の強いもの。誰がこれを淹れた。誰に渡された? 今まで私は誰と話していたんだ? この車輌には私と部下2人。では4人目は一体誰なんだ?

「残念だなあ、天宮博士。今度こそ気づいてくれると思ったんですが」

誰かの声がする。それを認識できない。意識がその声の意味に集中し、発声者に向くことがない。構造的な意識の死角に能動的に存在し続ける特性を、彼女は知っている。それを行う人間は限られている。少なくとも日本列島からは財団が絶滅させたはずの能力だ。徹底的に刈り取ったはずの。反ミーム。

「何十年前のことだか知りませんが、貴女は確かにここで学んでたんですよ。記憶処理される前は随分と恥ずかしそうに話してくれたもんです。本体が忘れちまったもんで、複製体の貴女も──ああいや、それもご存知ないんでしたか」

複製? 何のことだ。何を言っている?

「貴女が何十人目か分からんのですけどね、申し訳ないとだけ言っておきます。俺だって何度も顔見知りを相手にするのは性に合わないんで」

足音はない。僅かな車体の軋みだけが、誰かが歩き去るのを彼女に教える。バンの後部扉が開き、そして閉まる。彼女は藻掻く。力が入らない手足で、呼吸もままならず、まるで魚か虫のように。任務失敗への恐怖と彼女を罠に嵌めた存在への怒りが綯い交ぜになり、無形の圧迫となって彼女を突き動かす。奇妙に暖かい車内で、弱々しい抵抗が続く。

屈辱と焦燥に駆られ、結局天宮麗花の38人目の複製体は最期の瞬間まで、投げかけられた言葉の意味を反芻しようとはしなかった。バンのエンジンは燃費の悪い旧型のガソリン式で、排気筒から伸びたホースは窓の脇に差し込まれていた。催涙ガスにも耐えられる高い気密性を保つよう改造された指揮車の中で、排気ガスは静かに、そして速やかに充満した。

カウボーイハットを被った中年の男は、黙ってそれをただ見ていた。いつの間にか肩の上に雪が積もっていて、男は苦笑してそれを払い落とし、懐から取り出した古臭い携帯端末に一言メッセージを入力して、身震いしながらその場を去った。街路に備え付けられた監視カメラはその姿を克明に捉えていたが、監視要員は警告表示がなぜ消えないのか分からなかった。上席エージェントが反ミームの痕跡に気づいて警報を発したとき、彼はもうその場所から消え失せていた。

深々と雪が降る。東の微風に煽られて。それを綺麗だと思っていた頃もあった気がするが、今や煩わしいと感じるだけ。高所から見ていると、ただの氷の粒を有難がっていた幼少期が奇妙に思えてならない。ライフルのスコープ越しに銀世界を眺め、アグロ13は口元を歪める。

『アグロ11よりコマンド、配置完了。攻撃許可を』
《────》
『コマンド?』

隊長の呼びかけに指揮車両は答えず、ノイズが続く。いつもの割り込みだろうか? 上位クリアランスから現場指揮官への無体な要請は毎度のことだ。権力を私物化する上級職員の専横は今に始まったことではないけれど、最近はとみに酷くなっている。本来それを取り締まるべき監視部門、監察局の実働部隊がこれなのだから他部署での実情は推して知るべしだ。

『コマンドとの連絡が取れない。現場指揮官としての判断で攻撃を開始する』

何度か呼びかけて、コールへの応答がなかった時点でアグロ11は許可申請を放棄したようだった。個人的には同意見だ。反逆者狩りなど、どうせ上司の点数稼ぎに付き合わされているだけ。中央から目を付けられている大物なら、もっと上位の部隊が相手をする。場合によっては極東軍の特務部隊が動員される。自分たちに回ってきた時点で上のやる気の無さが伺えるというものだ。とはいえ副官としては、一応釘を差しておく義務がある。

「こちらアグロ13、独断専行になりますが。今回の担当監督官、癇癪持ちですよ」
『知ったことか。肝心な時に上とお話中のお嬢ちゃんに現場のことが分かるかよ』

同じことは何度もやってきたんだ。ぶっきらぼうな反論に、隊員たちのおざなりな笑い声がさざ波となって無線に乗る。どうやら方針は決まったようだった。校舎の5階窓からプレハブ建築の用務員室を狙う視界には、反時計回りに射角を取りながらゆるゆると接近するアグロ11以下隊員たちの姿が映っている。配置よし、環境よし、彼我の戦力差は絶大。

『VERITASオン、チェック』
「チェック」

最近やっと監視部門にも行き渡り始めたVERITASは、解体されたGOCから奪い取られた技術のひとつだ。不完全な設計図と聞き取り結果からコピーされたせいで触媒の効果時間が短く、デバイスがやたらに大型なので不便極まりないが、それを補って余りある能力を秘めている。液晶ゴーグルの視界に小屋の中の2人分のEVE放射が克明に浮き上がる。椅子に座り込んでいるらしき1人、立っている1人。余計な反応はない。オールグリーン。

『外から一斉射、その後突入しAAF攻性記憶処理ガスで無力化、効力如何によっては終了する』
「コピー」
『カウント10から始める。アグロ13、お前がやれ』
「カウント受領しました。10、9、8」

スコープを覗き込み、小屋の入り口に狙いを定める。カウントは無心に。意識は視界の中央に固定される。楽な任務だ、後ろを気にする必要もなく、ただ追い立てられた兎を撃ち抜くだけでいい。子供を撃つのは多少寝覚めが悪くなりそうだったが、このぶんなら心配なさそうだ。

「7、6、5」

VERITASによって色付けられた2つの人影が動き出す。包囲に気付いたのか? だがもう遅い。部隊は小屋を半包囲し、ライフルの安全装置を外した。アグロ16がガスランチャーを構えているのが視界の端に映る。カウント終了と同時、数十分に渡って意識を混濁させる有毒ガスが窓から投げ込まれ、射角を綿密に計算された弾丸が小屋全体を薙ぎ払う。どこにも逃げ場はない。

「4、3、2──」

警報が鳴った。それが自分のVERITASから発せられた、異常なEVE放射の接近警報だと気付いたとき、彼には2つの選択肢があった。カウントを継続するか、止めるか。ほんの少しだけ迷い、彼はカウントを放棄して振り返った。振り返りながら、ライフルを置くかどうかでまた迷い、それを放り出して、腰の拳銃に手を伸ばした。

黒色の靄のような気体が彼を飛び越え、狙撃のために開いていた5階の窓から飛び去った。ごとりと重い金属が落ちる音がした。リノリウムの床の上に転がったモスグリーンの塊を彼はVERITAS越しに見つめ、それから刹那、彼の年老いた両親について思いを馳せた。

炸裂があり、彼の意識はそこで永久に止まった。

爆発があり、こちらに向いていた意識が逸れた。そう感じたときには既に手を引かれ、冷気の中に飛び出している。サンダル履きの足に雪が触れ、痛みにも似た感覚がある。突然明るい場所に放り出された視覚は一面の白に突き刺され、眼球の裏側が鈍く痛んだ。

「走れ、3号棟の裏に行け」

そう叫ぶなり、男は発砲した。二丁拳銃はまるで曲芸のように2人の兵士を撃ち倒した。首元から血煙が上がり、白い雪の上に赤い華が咲く様はどこか美しく思えて、思わず谷崎は脚を止めた。

「おい、早くしたほうが良いぞ」

そう話しかけてきたのは黒い煙だった。谷崎は目を丸くしてそれを見た。風に乗って上方から滑り落ちるように降りてきたそれは、見る間に凝集して黒いコートを纏った男の姿になった。見るからに乗り気のしない顔で拳銃を構える男の腰には、いかにもその格好に不似合いなベルトホルダーにモスグリーンの手榴弾がいくつもぶら下がっていた。

「俺はこういうものだ」

叫び、男は銃を撃ったが、谷崎が見ても分かる程度には見当違いの方向だった。後退を始めた兵士たちが応射し、男は再び煙のような姿になってそれを避けた。流れ弾が谷崎の頬を掠め、彼は思い出したように小屋に背を向けて走り出した。幸いなことに、背中に弾丸がめり込むようなことにはならなかった。種類の異なる断続的な射撃音が建物の間に木霊し、おそらくは両者ともに生存者が撃ち合いを続けているはずだった。振り返ることは躊躇われたので、彼は走り続けた。

3号棟の裏に停車している車は見慣れない車種だったが、何の変哲もないバンに見えた。息を切らしながら恐る恐るそれの脇を通過しようとした瞬間、素早くバンのスライドドアが開き、力強い腕が彼を車内に引き込んだ。猛烈な勢いでエンジンを吹かし、バンは素早く発車した。

混乱しながらも、谷崎はとにかく両手を上げることを忘れなかった。閉じたスライドドアにもたれかかり、肩で息をしながら無抵抗の意思を表明する彼に、車内の数名が微笑みかけた。焦りと安堵を織り交ぜた、どこか尖った表情だった。

「エージェント・谷崎の回収を確認」

彼の腕を掴み、車内に引き込んだ大柄な男が言った。浅黒い肌の、日本人らしくない彫りの深い顔立ちの男だった。彼の体格に不似合いな袖口の黒い汚れを目に留めて、谷崎は小さく首を傾げた。

「よく帰ってきてくれた。記憶がまだ戻りきっていないはずだから、混乱していることと思う。ステーションに帰ったら専門の機材が用意できる。じっくりと定着させていこう」
「エージェントなのか、ぼくは」
「少なくともここの用務員なんかじゃない。大昔のカバーストーリーだ」

そう言って男は皮肉げに笑った。どこか昔を懐かしんでいるような表情だった。

「財団職員が身分を隠す必要があった頃の名残さ。これまで猟犬どもが誰も気付かなかったのは流石の腕前としか言いようがない。イケス、3人は回収できそうか?」
『井戸田は勝手に帰るそうだぜ』

鉄板を引っ掻いたような声が響いた。その不快な音がバンの助手席に積まれた古臭い無線機から響いていると、谷崎は少ししてから気付いた。

『素潜は戻ってくる。40秒後、ポイントC2-FZ9。応神は……駄目だな、出ねえ』
「損失か?」
『違う、電波妨害だ。監察局の生き残りが工作してんだろ』
「成程。君との回線も影響を?」
『財団割当の帯域に寄生してるうちは平気だ。そのうちグリッドごと閉鎖されるがな』
「ではエージェント・素潜を回収し次第離脱する。車輌コードの偽装を引き続き頼むよ」
『アイサー』

それきり通信機はぶつりと音を立てて動かなくなった。バンが急停車し、谷崎は派手に助手席の背もたれに頭をぶつける。半開きになった窓から先程の黒い煙が入り込み、谷崎の隣で人型に変わった。大男が天井を拳で2回叩いたのを合図に、バンは再び発進した。

「うへええ、ひでえ目にあった。身体を派手に削られちまった」
「ご苦労だった、エージェント・素潜。傷は浅いかね?」
「どうにか。二度とやりたくねえ」
「元気そうで何よりだ」

呻いている素潜と呼ばれた男を尻目に、浅黒い肌の大男が微笑む。

「歓迎しよう、エージェント・谷崎。10年ぶりになる。また会えて嬉しい」
「ぼくは今のところ、エージェントじゃない。まだね。記憶が混乱してるんだ」
「エージェント・応神は君の記憶を呼び戻そうとしたと推察するが、違うのかね?」
「おそらくそうだろうけど、まだほとんど戻ってない。ぼくは本当は学校の用務員じゃなく、あそこに隠れ住んでいた。なにかから、恐らくは財団から逃げて。なにかの役目があった。でもそれだけなんだ。彼は名前さえ言わなかった」
「おいおい。自分の立場も教えなかったのかね」
「財団職員かと聞いたら、違うと。それだけ」

あくまでも上品に、大男は小さく舌打ちした。あの口下手め、という声が後部座席から聞こえてくる。顔の見えない運転手が急激にハンドルを切り、谷崎は慌ててシートベルトを締めた。スモークガラスの窓越しに、バンがバイパス道路に入ったことがわかる。遠くにサイレンの音が聞こえる。

「そういうことなら仕方ない」

大男は気を取り直したようだった。茶色の輝く瞳が谷崎を見据えている。どこか見覚えのある気がした。否、車内にいる全員に、彼はどこかしら既視感を感じていた。それは喉奥に、また眼球の裏に引っかかる、彼が常日頃感じ、そして忘れようとしていた違和感そのものと相似だった。何かが元あった場所に戻ろうとしているのを彼は感じていた。つい先程襲撃に遭い、命の危機に瀕し、そして今はどこへとも知れぬ場所に向かって誘拐されているにも拘らず、彼は不思議なほどに安堵していた。

「ぼくは谷崎翔一。今のところは学校の用務員だ」
「私はロナルド・ハリガン。かつては財団の博士だったよ」
「今は違うのかい?」
「そうだね、今のところは」

差し出された右手は大きく、ペンだこが目立っていた。握手の瞬間、彼は考えていた。意外にも柔らかい手のひらの暖かさと、ハリガンの左手が常に添えられている腰のホルスターの関係性について。彼は数年ぶりに誰かと触れ合っていたし、そのこと自体はさして嬉しくもなかった。

彼は間違いなく警戒されていた。ハリガンの人の良さそうな笑みの裏側に紛れ込んだ猜疑心を、彼は過不足なく察していた。だから少しばかり長い握手が終わった後、一睡もしていなかった昨夜の分を取り戻すように、彼は寝息を立て始めた。どうせ彼は丸腰で、記憶はチーズのように穴だらけで、どこに向かっているのかも知らなかった。結局、彼は状況に流される他になかったし、それを楽しむつもりでいた。

奇妙な一行を載せたバンは、次第に通行量の多くなる方向へ向かっていた。雪の降りしきる中を。朝方の早い時間だった。都市は動き始めたばかりだ。人々は何も知らず、ただ一日を過ごすだろう。

薄暗く、煙草臭い部屋だった。この部屋の主は、なぜいつも人を呼びつけるときに部屋の電気を消しているのだろう? 柊にはそれが不思議でならなかった。

「以上で報告を終わります」
「これで全てなのかしら」
「全てです、局長」

部下の死を報告するのにこれだけの書式の報告書が必要だというのは、柊にとってはまったく不都合だった。なぜ無関係な管理部署や駐留サイトに対してこれほどの書類を提出せねばならないのか? 実際のところ、職員の死など日常的に起こっているというのに。世界最大の官僚組織がこれほどの非効率の極みによって運営されていることは、彼女には理解の埒外にあった。

「天宮博士の死亡事案に関して、反乱分子の関与を認めると、そう言ったのよ、貴女は。違う?」
「違いありません、局長」
「財団が公的に反乱分子によってその上級構成員を害されたということです。そうね?」
「違いありません、局長」

人型異常存在による攻撃。肉体を霧のように変化させる変身能力者タイプ・イエロー、自身の存在認知を歪める反ミーム。監察局の一部隊が壊滅し、柊は部下を失った。使い勝手の良い駒だったのだが、補充要請は滞りなく受理されている。頻繁ではないが、偶にはあることだ。さして問題はないという彼女の認識は、上司の一言で覆された。

「面倒事になる前にかたを付けましょう。上級監察官を派遣します」
「……………それは」
「なにか問題が?」
「いえ、局長」

お目付け役に職掌を侵されたくない、という中間管理職の悲鳴は鋭い一瞥をもって黙殺された。舌打ちしたい気分を噛み殺し、柊は静かに頭を下げる。プラスに考えれば良いこともなくはない。監察局長直属の上級監察官が派遣されるということは、即ち実働部隊が大幅増員されることを示す。臨時予算も付くだろう。極東軍に舐められ続けている監視部門の機動部隊だが、駒が増えれば出来ることも増える。

短い書類のやり取りと申し送りを終えて、柊は退出する。濃厚な紫煙を吸い込んで咳をしないだけでも苦労した。苛立ちに口元を歪めながら、足音高く彼女は去る。部下の不手際のせいでとんだ貧乏籤を引かされた──彼女の想いは、奇しくも死んだ部下の相似形だ。

部屋に残った監察局長は、部下の退出を確認してから専用の卓上端末にひと繋がりのコードを入力した。データベースは迅速に反応し、登録されている数名の上級監察官の中からある人物のプロファイルを読み出す。男の人事ファイルは特筆するべき点もなかった──ただ一点、男の顔写真を除いては。

烏天狗の面を現代風に仕立て直したかのような、口元を除く顔全体を覆う面。海野一三、という電子タグ。その下に記された数多くの事案ファイルの中に、未解決事案に関するいくつかの特記がある。それらはどれも高レベルクリアランスによって封緘され、ほとんどの職員は閲覧どころか存在を知ることすら叶わない。

そのうちのひとつを呼び出して、監察局長は口元を歪める。10年来の懸案事項がひとつ解決するかもしれないのだ。部下に任せておけるはずもなかった。柊は概ね優秀な監察官だが、本業は内部監視であって保安業務は専門外だ。この案件が彼女の予想通りなら、柊の手に余るだろう。

「10年前、サイト-8181。カナヘビ管理官暗殺未遂に続く、幹部級職員の連続襲撃」

レベル4以上の特殊クリアランスで埋め尽くされた事案報告書がホロディスプレイに浮き上がる。針の穴を通すような芸術的な手腕によって立案された計画が、財団のセキュリティの裏を掻いて多くの幹部級職員を殺した。根絶されたはずの複数の反財団地下組織が結託し、総力を上げて日本支部の土台を揺るがしにかかったのだ。結局、反乱は未然に防がれ、ほとんどの反乱分子が粛清された。しかし立案者を含む数名の身柄拘束に失敗し、財団からも離反者が出た。

「記録上は終了されたはずの異常性職員が蘇り、あるいは収容を脱して襲撃に協力した。異常性の合致。旧財団施設の利用。こちらのシステムで捉えられない──」

偶然だろうか? 否、財団に歯向かう存在が世界から駆逐されて久しく、もはや正常性の守護者に敵はない。新たに発見された反乱分子の特性が10年前の重大事案と部分的に一致したならば、何かの繋がりを疑ってしかるべきだ。監視部門は財団を護り律する憲兵であり、全てを疑い、全てを制さなければならない。

少しばかり考え込んだ後、串間小豆監察局長は天狗面の部下を呼び出した。


いつもどおりの朝が終わろうとしていた。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。