これを見ているということは俺の後任になったか、あるいはかつての俺より上の立場になったかのどちらかだろう。このデータベースがクラックされている可能性もあるが、もう俺にはどうでもいい。だが、少し俺の話に付き合ってくれ。そして、お前は何をするべきか考えてくれ。
まず、結論から言えばこいつの正体は、負方向の精神力を集め育てる概念上のミツバチだ。あの蜜のある場所は奴らの巣だ。今すぐに無力化しなければならない。
奴らの生態はこうだ。
まず、適当な人間の集団を見つける。そこの人間に働きバチが寄生する。働きバチは人間の持つ負方向の精神力を餌にする。だが、それだけならばすぐに餌は枯渇する。ならどうするか。
働きバチが自身で、正方向の精神力を負方向の精神力に変換していく。
こいつの厄介なところは影響が少ないところだ。
相対的に負方向の精神力を増やされ続けても、一般的な精神医学の範疇に収まるレベルにしかならないんだ。
だから、ストレスでそうなったのか、働きバチに寄生されているからなのか、判別が出来ない。
つまり簡単に言えば、こいつに寄生されれば、あらゆる物事に対して無気力になる。
ずっと抱き続けていた考えを放棄し、ずっとやり続けていたことを辞め、何もかもを諦め、ただただ惰性で現状を維持し続ける。そういう人間に変えてしまう。
財団に入るような奴なんて、余程の物好きか、ここしか居場所が無い奴か、確固たる信念や目的を持ってる奴しかいない。
少なくとも俺はそういう奴らしか見たことがなかったし、俺もそうだった。
俺にはやるべき事があった。でも、今はこれを残すのが限界で、もう何も出来ない。ハチに全て奪われた。
俺はただ二人の人間を救う為だけにここに来た。もう俺には出来ないが。
財団に入ったのは24歳のとき。オブジェクトと遭遇し、辛うじて生き延びたところをスカウトされた。
それはありきたりなミームオブジェクトで、見た人間を狼人間に変えるホラー映画だった。
未完成で、若干のミーム耐性があれば、何の効果も及ぼさない出来損ないだった。だから、俺には何も効果はなかった。
だが、そのとき一緒にいた、一番の親友の王子晴斗おうじはるとと、結婚を考えていた相手だった寺田響子てらだきょうこが、目の前で人間と狼が継ぎ接ぎになった怪物に変異した。
まず俺は、二人の治療を頼んだ。でもまあ、当然財団に俺の事を調べられた。そりゃそうだよ。俺だって財団職員としてそうするし、そうしてきた。それで、俺は職員適正有りだと判断されて入ったってわけだ。このときは国内でも上から数えた方が早い大学行っててよかった。と、思ったりしたけど、今では後悔している。結局俺は何も得られず、ただ失うだけで終わったからな。
あいつらは、研究対象として収容されて、様々な実験の対象となったと聞いた。当然ながら全く関わらせてもらえなかった。それは仕方ないのは理解出来ていた。感情的になって何をしでかすかわからないし、実際似たような事例が何件も起きていたからと、当時の先輩に釘を刺された。だから、あいつらに一切関わらないまま、キャリアを積み上げることになった。
ここに来てからは気が狂いそうな毎日だった。無残に死んでいく人間の姿を見せられ、あらゆる存在概念が信用出来なくなり、三度の食事は大量の精神安定剤の定食で、業務が終わればカウンセリングに駆け込む。一年目はその程度で済んでいた。
一通りの業務と研究に慣れてきた頃、配属が変わった。それまでアノマラスアイテム担当だったのが、オブジェクトの研究に関われるようになった。
その時、見せられたのがこのSCP-001-JPだった。そして、こんな説明を受けた。「こいつは日本で財団が結成されたときからあるものらしく、どういう代物か全くわからないが、害は無い。けれども、存在自体が異常だから収容している」と、新人職員への研修で、Safeオブジェクトの代表例として見せられた。
当時は気にも留めなかった。その後、致命的な害を及ぼすものを山ほど見ることになって、こいつの記憶も薄れていった。相対的にどうでもいい存在ぐらいの認識にまでになっていたが、それが間違いだった。こいつは財団が収容するべきではなかった。
レベル3ともなれば、格段にやれる事の幅が広がった。
部下も付き、研究チームを持てるようになり、閲覧可能な情報も増えた。
真っ先に確認したのは、二人が今どうなっているかだ。
何年も収容されているのであれば、何か進展があるはずだと考えていたが、実際は何も変わっていなかった。相変わらず、自我を失い、人間と狼が歪に混ざった異常存在のままだった。
それだけならば、まだ解決手段が見つからないだけだと納得出来た。
けれど、丁度そのタイミングで新入りに、狐や猫の耳を頭に生やしたアニメみたいな奴らがいることを知った。
そいつらの事を直ぐに調べ上げた。
そいつらは日生創によって異常性を付与された人間で、制御が効き、利用価値があると判断されたから雇用されたという。
響子と晴斗を何年も放置しておきながら、何故こいつらを救う必要があるのか。
財団に不信感を抱いたのはそのときが初めてだった。
その後、そいつらと顔を合わす機会があった。素直で気さくで良い奴らだった。
けど、俺には怒りしかなかった。
何に対してなのか、何故怒りが沸いたのかわからないが、ただ一つわかっていたのは、そいつらといると、いつか俺はそいつらを殺してしまうのではないかという怒りがあったことだけだ。
その場は、辛うじて表情を作りきることが出来たが、何度も堪えきれるものではない。
だから俺は覆面を被ることにした。短絡的な発想だが、表情が見えなくなるだけでも付き合い方は変わってくるはずだと考えたからだ。そして、それに合わせて、少しおかしくなったと周囲に思わせるようにした。今更覆面を被る理由付けは必要だから。
『レベル3に昇格した結果、機密情報を見て、不安定だった精神がさらに振れ幅の大きい不安定さを持つようになった』という俺だけのカバーストーリーを作り上げ、それ以降はずっとこれを徹底することにした。
ついでに、発散の為に訳の分からない無意味なことをするようになった。
最初は上手くやれてたんだが、つい欲張って、2人を助ける為に勝手にオブジェクト持ちだして使用したのは不味かった。
そのせいでレベル2に降格させられ、懲罰職員としてKeterクラスの潜入調査をやらされることになってしまった。
内容は、二度の機動部隊の派遣して失敗した、とある場所にあるKeterクラスに俺を含めて三人で潜入しろというものだった。
護衛役はたった二人。灰谷と城島。どちらもそれぞれ素行に難があり、俺と同じく懲罰対象になってた奴らだった。
名目上は被害を最小限に抑える為とか言ってたが、実際はここで俺たちを処分しても構わないというのは見え透いていた。
灰谷も城島も初対面だったが、境遇は同じだったおかげですぐに意気投合した。
俺たちをこんな場所に送り込んだ奴らを許さない。必ず生還する。それだけがモチベーションになった。
長い梯子を登った先で、俺たちは捕まって、法廷のような場所へ連れていかれた。
そこで、前任者の報告書通りの異常な判決文を言い渡され、俺の有罪が今にも言い渡されそうな状態になったところで、最後に裁判長から『何か意見はありますか?』と聞かれた。
原告席には、全ての生命力を失い、ただそこに生きているだけのような俺がいた。
俺は、俺にたずねた。「そんなに生き残りたいですか?」と。
俺は無表情に「はい」とだけ答えた。
声も表情も力がなく、ただそこに生きているだけ。もう一人の俺だけではなく、そこにいる奴らは全員そんな風に、死んだように生きているとしか思えないような顔をしていた。
だから、主張した。
何故俺が今ここにいるのか、俺は今まで何をやってきたのか、そしてこれからも、俺にはやるべきことがあると。
死ぬことは惜しくない。だが、俺には救わなければならない人たちがいる。これ以上、救われない人間を生まない為にも、この世界の為にも、目的を果たすまで、絶対に死ねないと。
長い時間をかけ、冷静に合理的に話し続けていると、死んでいる顔をしていた奴らが、少し驚いたような顔を見せ始めた。そのまま喉が枯れるまで、話し続けた。
言いたいことを全て吐き出した後、奴らは動揺したのか、妙な間が空いた。
そこで、俺はふとこれが裁判であり、さらにもう一言付け加える必要があると気がついた。
その一言を言った瞬間、奴らは無力化された。
何らかの理由で無効化されていた過去に派遣された機動部隊たちの銃弾が、そのときようやく届いて、俺たち以外の全員を貫いた。
俺たちは倒れた奴らを調べていった。俺はもう一人の俺を調べようと抱きかかえた。
すると、触れた部分から霧のように消えていった。消えゆくもう一人の俺に、『あなたはどこへ行くのですか』と聞かれたが、俺は何も答えられなかった。
さっきまで威勢よく啖呵を切っていたが、実際のところ、どこまでやれるのかそのときはまだわからなかった。
今思い返すと、ハチの影響だったのかもしれない。
もう一人の俺に「お前が行けなかった場所に行く」と言ってやれなかったのも、覆面を被り、怒りを抑えてでも、嫌悪している人型異常存在と付き合おうとするのも、響子と晴斗に何もしてやらない財団に大人しく従うのも。
少しずつ、花を枯らせないように蜜のみを吸いつくすハチが、俺に諦めと妥協という甘えを生み出していたかもしれない。
その後、俺はレベル4になってしまった。Keterクラスの無力化の功績と、人事のいろいろな都合でサイト管理官にまで昇格した。予想外ではあったが、これで響子と晴斗に関われるチャンスが来たとそのときは思った。
レベル4権限を使って、二人がどうなっているか調べた。
それでわかったのは、治療や実験の予定はあったが、一切行われることなく、二年前に死亡していたことだけだった。
何度も何度もしつこく事あるごとに問い詰めていた。「二人はどうなっている?」
返ってくる答えは決まって「今は様子を見ている。治療は行われている」ただそれだけ。
嘘だった。
なら俺は、何故ここにいる?俺は何をするべきだったんだ?
それでも俺は、ここに居続けた。蘇生する手段を考えることも出来たし、他にやることもなかったから。
灰谷と城島とはあれからも付き合いを続けた。この二人もそれぞれがそれぞれの理由と目的を持って財団に来た奴らだった。あのときの俺の演説を聞いて、奮い立ったと、恥ずかしげもなく言ってくるような、熱い信念を持った良い奴らだった。
あるとき急に、その二人が財団を辞めると言い出した。タイミングはまったく別で、灰谷が先に、城島はその三か月後。
家族と一緒に平和な余生を過ごしたいとか、全て忘れて静かに過ごしたいとか、そんな理由だった。
サイト管理官としてそれなりに仕事を続けていたから、こういう話はいくらでも聞くことがあったのもあり、お前らもそうなったかと思う反面、違和感もあった。
二人ともあの任務以来、懲罰対象になることはなくなった。むしろ仕事へのモチベーションは高まっていた。人事評価も悪くなく、精神面も安定していたはずだった。
ところが、ある共通点を見つけてしまった。
退職をする前に、それぞれが別な理由でSCP-001-JPと接触していた。
接触したのは、あの任務をこなしたしばらく後のこと。
それまでは順調だったはずなのに、接触以降、精神に不調が見られるようになった。
まるでなだらかな下り坂をゆっくりと下っていくように、長い時間をかけて少しずつ。
結局、灰谷と城島は必要なこと以外何もかも忘れて、平和な世界に希釈されるように、違う人生を歩み出した。財団のことも俺のことも、もはや思い出すことは出来ないだろう。
あいつらには帰る場所があった。
でも俺は、ここで踊り続けることしか、出来なかった。
正直なところ、俺も疲れていた。職務を真っ当することで、なんとか全てから目を背け続けていた。
ある日、SCP-001-JPの研究を始めることにした。
無効化計画の対象で、灰谷と城島のこともあってか、妙に気になってしまっていたからだ。
管理官業務の合間を縫って資料を集め、実験データを再検証した。
すると、どう考えてもおかしな状況になっていることに気づいた。
まず、収容から70年以上経っているというのに、資料が少なすぎた。
全ての資料をデータ化し、集積したが、サイズは僅かに8.1MB。異常な少なさだ。
次に、却下された報告書資料を集めた。全てとはいかなかったが一部を集めただけでも、474MB相当になっていた。
却下される報告書が多くなるのは当然だが、ここまで差が大きいものはそうそうない。
あからさまに何かあるとしか思えなった俺は、次に採用非採用問わず、報告書と資料の作成者を調べていった。
その結果、全員がSCP-001-JPと接触後に、精神的な理由で退職していたことがわかった。
時期はそれぞれ異なる。接触後数カ月で辞めたのもいれば最長で17年勤めあげた例もあった。
因果関係はある。それは間違いない。
直接実験をすることにした。
収容室内外に映像記録用のドローンを飛ばし、実験を行った。
精神汚染、現実改変、ミーム汚染、あらゆる対策を講じて臨んだつもりだったが、見当違いの発動条件ばかり対策していたせいで無駄だった。
準備を整えたとき、ガラスの割れる音を聞いた。それから微かに虫の羽音。
割れたのはSCP-001-JPそのもの。中に溜まっていた蜜が瞬間的に俺を飲み込み、蜜に溺れさせた。
蜜に溺れたとき、様々な光景が見えた。様々な時代の財団職員が、諦め、妥協し、現状に甘えることにした瞬間が、大量に見えてしまった。
俺の知っている奴も多くいた。その中には当時の響子と晴斗の担当者もいた。
彼女の事は知っていた。彼女とはよく話す仲だった。
彼女は人型異常存在を生成する技術をリバースエンジニアリングし、人間に戻す治療を提案していたが、悉く却下されていた。その光景がはっきりと見えた。オブジェクトへの影響が起こりうる実験は行えないの一点張りで、話は平行線のまま、何度も何日も問答している姿が見えた。
最終的には、職員として採用した日生創の改造人間を使わせろとまで、詰めていた。
俺は彼女が担当していたことを知らなかった。多分向こうも俺と関係があるとは知らなかっただろう。
ただ俺は、二人を救おうとしてくれていた人がいたことを知れたことが、救いになった。
だが、俺は彼女とその上司、両方の頭部にミツバチのようなものが入り込んでいるのが見えた。
上司が却下する度に、上司の中にいるハチは脚に何かを付けて飛び去り、また戻ってくる。
このサイクルをずっと見せられた。
灰谷もそうだ。
灰谷は新人研修の護衛としてSCP-001-JPと接触してしまった。
収容室外で待機していたときはミツバチは見えなかったが、室内に入ってしばらくすると、SCP-001-JPの中から数匹のミツバチが外へ飛び出してきた。
ハチはそれぞれ室内にいた人間に入り込み、寄生した。その瞬間を見せられた。
城島も別件でSCP-001-JPと接触していたが、やはり同じように寄生されていた。
それからも延々、過去の光景を見せられ続けた。
俺が世話になった人たち、した人たち、名前も顔も知らない職員たち、SCP-001-JPと接触した全ての職員たちの光景が。
全てに共通していたのは、その全員の頭の中にハチがいたことだ。
そして理解した。こいつらはすでに職員の大多数に寄生している。
収容されてから今までずっと、少しずつ諦めさせ、妥協させ、無意味に現状を維持させる。
こいつらが、救えていたものを救えなくしていた。俺たちを惑わせ、全てを手遅れにしてきたと。
心の底から怒りが沸き上がった。どんな手段を使ってでも、こいつらは無力化しなければならない。
その決意の瞬間、同時に溺れるほどあった蜜が一瞬で消失し、代わりに大量のハチの羽音が迫り、ハチの群れが俺の中に入り込んだ。
おびただしい数のハチが、俺の怒りを諦めに変えていく。怒りを蜜にして採集するために。
終わりも一瞬だった。大量に寄生されたとしても、一度の採集量は限られているのか、気づいた時には、俺は怒りを奪われ、諦めの蜜を大量に抱えることになった。
こうして俺は全てを失った。
俺にはもう何も残っていない。
あるのは、何もせず、このままでいたい。それだけだ。
カウンセリングの効果はない。記憶処理は奴らのことをこうして書き記すまでは、保留にさせてもらっている。
何故、資料が少なかったのか。おそらく、俺みたいに襲われて、残す力すら奪われたのだろう。
何故、これが新人研修用の教材なのか。
調べたが、これは長い時間をかけて出来上がった、ただの組織の慣例でしかなかった。
その結果が、財団がハチにとって最高の餌場になってしまった。
少なくとも、今すぐに実験観察に制限をかけるべきだ。応急処置でしかないが、日本の全職員の精神が、蜜漬けになる前にやるべきだ。
この程度の文章を書き上げるのに半年もかかった俺では出来ない。
もはや考えることすら、苦痛なんだ。
こうなった今ならわかる。どうしてもう一人の俺は死んだようにしか生きれなかったのか。
何もかもを諦め、生きる目的を失ってしまったから、生きる権利にすがっていた。
きっとあいつはそうなってしまったのだろう。
今の俺と同じ様に。
ここまで付き合わせて悪かった。だが、最後に財団職員として私の頼みを聞いていただきたい。
SCP-001-JPを無力化してくれ。私を諦めと妥協の蜜漬けにしたあれを破壊してくれ。
そして、出来ればでいい、響子と晴斗を生き返らせてくれ。
私にはもう何も出来ない。