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無能の連中、魔法の騎馬警察
(原題: "Dead Dogs, Magic Mounties")
あのレイシストの間抜け野郎は、自分の飼い犬だけは本当に愛していた。

無能の連中、魔法の騎馬警察:
CLIO-4、AAG、OSAT、そしてサイト-43
ハロルド・R・ブランク, PhD
記録・改訂セクション 主席

生きている間の我々は、自ら語る物語だ。死んだ後には、他人に語られる物語になる。
- V・レスリー・スカウト、1972年
その創設当時、SCP財団は応答的収容のドクトリンを採用していた。我々は異常の発生を監視し、それを見つけ次第、原因を確保し、研究していたのだ。そうして我々の初動の遅れが、SCPオブジェクトについての噂話を生んでしまった。それは一般大衆から陰謀論が噴き出すという結果を招き、最終的には隠蔽工作の破綻にまで至った。我々こそが、現代のパラノイア狂信者のカルトを生み出してしまったのだ。地球平面論者も、月面着陸否定者も、パラウォッチも、我々の産物だ 先回り収容を行わなかったせいで。
1915年、この問題に対処すべく、プロジェクトCLIOが発足した。財団は、シンクタンク「シンプソン政策センター (Simpson Centre for Policy)」を通じて世界各国の研究大学と提携し、未解明の歴史的事件を調査することで、その背後にある未収容の異常オブジェクトを暴き出そうとしたのである。ギリシア神話の歴史を司るムーサ、クレイオー (Clio) にちなんだ名を冠したこの計画、プロジェクトCLIOとは、過去を武器にして現代の脅威に立ち向かう、我々なりのやり方だった。その最初の概念実証が、カナダの歴史調査グループ、CLIO-4だ O5はCLIO-1, -2, -3の番号を、より重要なアメリカ合衆国のために取っておいた。プロジェクトCLIOの創設者にして指導者であるカナダ人の毒物学者・歴史家、ヴィヴィアン・レスリー・スカウト博士は、この案をローリスク・ローリターンな自分の裏庭で試してみようと提言した。CLIO-4はカナダにある5つの大学 アルバータ、ブリティッシュ・コロンビア、ラヴァル、ニュー・ブランズウィック、フォルカナと提携した。そして、彼らの発見はカナダを永久に変え、収容科学の分野に新たな次元を持ち込むことになったのだった。
怪奇史と怪奇警察

CLIO-4はすぐに、カナダのアノマリーの多くが本質的に先住民族と関連していることを発見した。ヨーロッパ人による北米への入植はここ数世紀ほどのことだが、先住民族の歴史は何千年も前に遡る。そこでCLIO-4は、新聞や公文書の調査に加え、伝統的な口述歴史家たちへのインタビューを開始した。カナダのノースウエスト準州に住むイヌイットは、"アマロック" という巨大な狼が単独活動の狩人を殺して食べたという伝承を語ったが、これは、孤立した旅人の首を刎ねることで知られるイヌ科の未確認動物に関する入植者の話と繋がっていた。ブリティッシュコロンビア州に生息する、毛で覆われたヒト科動物 "サスカッチ" の報告は、ロッキー山脈の麓に住む先住民の口承と直接的に関連していることが分かった。オンタリオ州北部で発生した人肉食事件については、アルゴンキア神話に登場する、人に取り憑く精霊 "ウェンディゴ" との関係が見出された。この最後の発見をきっかけに、CLIO-4は世界最大の淡水湖である五大湖の周辺地域を調査することになったのだが、そこで彼らは驚くべきことを発見した。そこで彼らが聞いた話は、事実上全てが印刷メディアでも証明されていた。湖には歴史が息づいていたのだ。1
CLIO-4のセキュリティは厳重であり、シンクタンクの正当性に疑いが向くことこそなかったが、やがてカナダ政府の3層2全てがシンプソン政策センターに注目するようになった。地域自治体からの干渉はほとんどなかったが、州政府と連邦政府の高官は強い関心を示した。その中でも特に強い興味を持ったのが、連邦政府の民兵・国防大臣であったサム・ヒューズ卿だ。第一次世界大戦において、カナダ人たちは海外の戦場で戦い、欧州列強が既存の科学では適切に説明できない兵器技術を活用するのを目の当たりにした。シンプソン政策センターが掘り起こした情報が単なる迷信ではないのなら、それはカナダ軍にとって利点になり得るのだろうか? 敵のキャンプをウェンディゴに感染させ、共食いさせることはできないか? 夜襲部隊にアマロックの群れを組み込んで強化するのはどうだろう? しかし残念なことに、こうしたクリーチャーは、条約によって先住民に保証された土地にのみ出現していた。ヒューズは首相のロバート・レアード・ボーデンに対し、保護区に侵入して異常な標本を捕獲させてくれるように頼んだ。しかしボーデンは、その文化的優越主義のために、これを不要と断じた。3
我が国は、堅実な英国人気質の国であり、より広い世界の舞台で最初の確かな一歩を踏み出そうとしているのだ。モカシンなど履いてやるつもりはない。
- ロバート・レアード・ボーデン卿、カナダ首相、1918年

カナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングと初代パット、1940年
政府のこの姿勢への再評価を促すことになったのは、母親を亡くした息子の悲しみだったのだろう。ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングは、1921年から1948年にかけて断続的に、合計すると21年以上にも渡ってカナダ首相を務めた人物である。彼は自分のプライベートの時間を、母親の死を追悼し、全員がパットという名を襲名する3代のアイリッシュ・テリアたちを非常に可愛がってやりながら、先立った先代の2匹を悼んで過ごした。キングは、「死」というものに対して上手く向き合うことができないでいた。母親を亡くした直後から、彼はその亡霊と引き会わせてくれる霊能者を探し求め始めた。彼は水晶玉、ウィジャ板、その他ありとあらゆる種類の霊媒について調べ上げ、元カナダ首相ウィルフリッド・ローリエ、元アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルト、亡くなった2匹の歴代パットたちなど、複数の著名な故人との間で会話を交わした。孤独な男であったキングは、自身への肯定を熱烈に欲していた。そして、精神的な不安に対する解決策を探し求めて、より可能性の低いものにさえ手を伸ばすようになった。1927年、シンプソン政策センターについて知ってしまった彼は 閣僚や使用人たちはこれを阻止しようと懸命に努力していたにもかかわらずだ それに魅了されたのだった。そして、センターが先住民に焦点を当てるのを止め、その注意を入植カナダへと向け直すようにと要求してきた。ボーデン元首相が異常研究の扉を閉ざそうとした一方で、キングの方はむしろ、その扉をこじ開けて、その奥に先住民的でないものが存在する事を確認したがったのである。4
白人のカナダ人が、如何に慈悲深く洞察力に富んでいるとは言えど、ヨーロッパのユダヤ人のような、自らの伝統や性向とは相容れない異質な存在との交わりを発見し、精神的に打ちのめされる覚悟ができているとは思えない。これはつまり、未開の地の土人の幽霊のことだ。我ら自身の幽霊は、それほど劣っているのか?
- ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング、カナダ首相、1927年
シンプソン政策センターがこの男のご機嫌取りを断った一方で、連邦議会は1928年から1931年にかけて、ワッツ委員会 (正式名称、超常事物に関する王立委員会) を設立した。この委員会は、彼の行動を止めるために使われたカナダ議会の装置であった。つまり、大量の書類手続きを生み出し、実際の変化はほとんど発生させない、無軌道な事実調査任務だったのだ。首席委員長で元警察巡査部長のレイナルド・ワッツにちなんで名付けられたワッツ委員会は、首相にとっても国防省にとっても役に立たない、ほんの僅かな異常を発見しただけだった。5
一部のカナダ人政治家の間に存在する、アラスカがカナダ領であるという強い確信。彼らは存在しない立法議会の存在しない議員の名前を挙げることができた。
カナダの文学的規範を目録化し、分類しようとする感染性熱狂。1928年まで、カナダ文学は特筆すべき作品を生み出していなかった。
毎年9月13日、ケベック州立法議会で掲揚される旗のうち、フルール・ド・リスが描かれていないものが自然発火する現象。
SCP-457-D、オンタリオ州クイーンストン・ハイツに現れるアイザック・ブロック少将の亡霊。ブロックは1812年、米英戦争においてアメリカの狙撃手に殺害されたが、その亡霊は断続的に彼の死を再現した。この霊はブロックに関連する伝説に対して感受性があったようであり、時折、カナダの民間伝承においてブロックが語ったとされる実際にはありそうもない最期の言葉を口にした。財団の前身組織が、その場所に霊を隠すための印象的な記念碑を建てさせた頃には、ブロックの最期は人々の記憶から完全に消え去り、彼の存在は、倒れて消える前の「ううっ」という短い感嘆詞だけになっていた。1840年、蛇の手はブロックを解放しようと記念碑をダイナマイトで破壊したが、失敗に終わった。ワッツ委員会がこの場所を訪れたとき、彼の苦痛な叫び声のみが微かに聞こえ、それ以来、何も聞こえなくなった。
集団的記憶の存在。

マッケンジー・キングはこれに失望したが、王立カナダ騎馬警察 (Royal Canadian Mounted Police、RCMP) は違った。ワッツ委員会が偶然にも、シンプソン政策センターが異常現象の証拠を隠蔽していることを発見してしまったことで、カナダの事実上の国家安全保障組織である騎馬警察は、センターを潜在的な脅威とみなしたのだ。王立委員会の最終報告書がひっそりと仕舞い込まれると、RCMPはワッツ自身を雇用し、新設されたオカルト・超自然活動対策委員会 (Occult and Supernatural Activity Taskforce、OSAT) の責任者に任命した。ワッツは、財団の歴史学者や人類学者ほど繊細な調査ではなかったものの、CLIO-4の情報提供者だった先住民への聞き取りを開始した。いずれにせよ、財団発見の危機は間近に迫っていたため、スカウト博士はキング首相に接近し、シンプソン政策センターをアメリカ連邦捜査局 (FBI) のフロント組織であると偽って紹介した。スカウトはキングに対し、もし首相がOSATの活動を抑えてくれるのであれば、FBI案件についての相談に乗ろうと持ちかけた。財団が偽物だと判定した霊能者やコールド・リーダーを報酬として提供すると、キングはこの取引に積極的に乗ってきた。ワッツは首相に対する手紙で、不満を露わにした。
貴方は私ほどインディアンについて知らないようです。連中が何を考え、何を信じているのかを。もし奴らの話の半分でも本当で、それが明るみに出ることがあれば、我々の生活全てが脅かされ得るのですよ。連中は財産を理解していません。結婚という神聖な制度を理解していません。男女の間に必要な区別さえ理解していないのです。もし、あの湖に力があるのなら、それは我々が所有せねばなりません。奴らの手の内に残しておくわけにはいかないのです。
- レイナルド・ワッツ、OSAT監督長、1937年
ヨーロッパに大戦の魔の手が迫る中、キングは連邦国防省に五大湖地域での自由裁量権を与えた。ボーデンが人種差別主義のために、その潜在的な軍事的利点を否定した一方、キングの実利主義はその逆のアプローチを要求したのである。彼は、その後間もなく世界的な政策を決定することになるアメリカ・イギリスの政治家や軍人たちを羨み、いずれ自らもその高貴な仲間に加わるに当たって、何か自分を示すものを欲しがっていた。国防省は戦時措置法を発動し、異常活動が最も集中して観測されたヒューロン湖南岸のストーニーポイント保護区を接収した。州内の400エーカー近い土地を取り上げたことは、オンタリオ州政府の反発を招いたが、ジェームズ・ラルストン国防大臣は、これを国家安全保障の問題だと強弁した。6
私自身はゴーストも、グールも、ゴブリンも信じていないとも。だが、仮にそれらが実在するとした場合、その対処は連邦政府の管轄となる。BNA法7第91条の7番、11番、25番を確認してみてくれ。それぞれ、国防、検疫、在留外国人エイリアンについて書いてある。もしそれがインディアンのゴーストかエイリアンか何かしらの場合、24番に書いてある。それもやはり連邦政府の管轄だ。
- ジェームズ・ラルストン、カナダ国防大臣、1942年
キングはスカウト博士に対し、ヨーロッパの戦場における "FBI" の協力を要請したが、FBIは国際的には活動していないとして断られた。彼はこれに腹を立て、OSATが五大湖周辺で活動を再開することを許可した。国防省は、旧ストーニーポイント保護区に軍事キャンプ・イッパーウォッシュを設置し、OSATと協力して先住民の埋葬地を調査することで、潜在的な超常資産を探し出そうとした。この試みが失敗に終わった後、明け渡された土地の一部はオンタリオ州政府に譲渡され、現在のイッパーウォッシュ州立公園となった。OSATは、亡命したドイツ人スパイからの情報を元に、隊員に対する奇跡術の訓練を開始した。これは、ヒューロン湖のゲニウス・ロキに由来する大気中の潜在力を利用して儀式の効果を高めるものであったが、こちらもほとんど失敗に終わった。しかし、これほど多くの政府機関が、これほど狭くアノマリーの多い空間に密集する以上、ヴェールが捲り上げられる可能性は高かった。スカウト博士は監督司令部に、首相とその閣僚に対して財団の存在を明かす許可を求め、成功した。カナダは、この譲歩を余儀なくされた最後の先進国の一つであった。8
奇妙と湖のほとりの家

最初の一次異常が発見されて以来、その副産物である二次異常は、財団にとって深刻な問題であり続けてきた。我々は自らの務めを果たし、収容して保護する一方で、処分の方法についても学ばなければならなかったのである。1915年、CLIO-4の結成と同時期に、ウィン・リス・リゼレフ博士はヨーロッパにおいて、財団の新たな玄妙除却グループ (Acroamatic Abatement Group、AAG) を組織していた。AAGの任務は、あらゆる形態の深妙的排出物の目録を作成し、それらを制御するシステムを考案することであった。第二次世界大戦のために実験を行うことができなくなってしまうまでの期間のうちに、彼らは大きな進歩を生んでいた。リゼレフ博士は、ウェールズのカーディフ大学で机を並べた仲である、友人のスカウト博士と手紙を交わす中で、比較的平和な北米に歴史学と毒物学の両方を研究する専用施設を置くことで、両者のジレンマを解決できるのではないかと考えた。9

ヒューロン湖の土工を視察中のウィン・リゼレフ博士とV・レスリー・スカウト博士、1942年
1942年4月1日、スカウト博士とリゼレフ博士はラルストン大臣に、ある既成事実を持ってアプローチした。財団はキング首相に、キャンプ・イッパーウォッシュを、新しい地下施設である暫定サイト-43のための地上隠蔽施設として使用することの承認を得たのだ。こうしてOSATの活動は監督され、国防省が侵入者を監視し、CLIO-4とAAGは恒久的な住処を確保し、カナダで最も活発な異常地域は財団の管理下に置かれた。この計画は1942年から1943年にかけて実施され、ヒューロン湖畔に玄妙除却施設AAF-Aが建設された。この施設は地上にあり、最近発見された一連の地下洞にアクセス可能になっていたが、この地下洞のおかげで、サイトの地下部の建設はかなり容易になった。AAF-Aは、「ヒューロン湖 供給・管理・精製所 (Supply, Control and Purification)」という公共事業を装っていた。しかし、近隣の原住民はこの施設に納得しても、彼らの神話は納得しなかった。 湖底や地下洞に潜む水陸両生の生き物たちが、財団の存在に不快感を示し、作業員や研究員、MTF隊員を捕食し始めたのだ。10
この地球のどのような力も、私を湖や森へ導くことはできない。しかし、水と木材を持ってきて、私の酸と塩基に任せておいてくれ。そうすれば、私はその全てを君に支配させよう。
- ウィン・R・リゼレフ博士、1943年
この地域に住むアニシナベ族との広範な協議の後、スカウト博士はヒューロン湖周辺に位置する44の先住民保護区をネクサス-94として指定することを提案した。スカウトは国防省とOSATが認識できなかったことを知っていた。すなわち、CLIO-4によって特定された超自然的な特性や存在は、先住民にとっては有益だが、外部からの干渉に対しては激しく敵対的なものだったのである。加えてそれらは、1940年代当時の技術では収容することも制御することも不可能だった。Briarクラスのネクサスとして、この地域は人口が安定しており、他のコミュニティとの往来も少ないため、限定的な未収容の超常現象を、ヴェールを危険に晒すことなく維持することができた。各保護区の端には監視のための前哨基地が置かれ、アニシナベ族の長老たちは、AAF-Aからの清浄な水の提供と引き換えに非常勤の財団コンサルタントになってくれた。スカウト博士とリゼレフ博士は、キング首相に圧力をかけてOSATを撤退させようとしたが、効果はなかった。キングは自分が利用されたと感じ、それ以上の協力を拒否したのだ。11 その一方で、OSATは新たな課題に直面していた。
仮に "魔法" なるものが実在するとしても、共産主義者の想像力がそれを受け入れることはない。連中は発明の精神、自由な企業、そして家族愛を嫌うのと同じように、魔法を嫌っているからだ。魔法が奴らにとって忌むべきものなら、我々はそれを使って奴らを倒せる。
- レイナルド・ワッツ、OSAT監督長、1949年

レイナルド・ワッツ、1952年ごろ
レイナルド・ワッツは、特に第二次世界大戦から冷戦への移行期において、異常に関する研究がカナダに国益をもたらすことを絶対的に確信していた。加えて、彼は財団による妨害行為にもうんざりしていた。彼の騎馬隊は先住民の墓地を荒らし回り、儀式の遺物について実験を行ったが、これは政府から高いセキュリティ・クリアランスと給与を得ている人類学者らの熱心な支援によるものだった。OSATはまた、先住民文化を根絶し、そこから民兵組織の利益を引き出すことを目的として、宗教的工芸品の没収というRCMPの既存政策を強化した。CLIO-4からの古い情報を誤解したことで、ワッツは、国際的共産主義は実際には資本主義を破壊することを目的としたロシアの感染性情報災害兵器であり、同性愛は "核家族" (この反科学論を正当化するために作られた新しい用語) を破壊することを目的としたロシアの感染性生物兵器であると推測していた。改定後のOSATの任務がヴェールを突破する可能性はほとんど、あるいは全くと言っていいほど無く、カナダ先住民族に対する敵対的なアプローチのために、すぐに活動全体が国際的に恥ずべきものとして継続不能になるだろうということが分かった。OSATが成したいくつかの発見は、10年前のワッツ委員会の発見と比べて、印象的でも有用でもなかった。12
その内部で撃たれたあらゆる弾丸が銃器のフレームを通って後方に発射される、1エーカーの森林地帯。銃器は破壊され、大抵は使用者が負傷する結果となる。
先住民社会の宗教者が、先住民問題に関連した預言的なビジョンを経験する傾向。
五大湖の湖岸線のごく一部が、1920年から1933年にかけて活動したトロントのカナダ人画家集団 "グループ・オブ・セブン" による風景画に類似するように自然に変形する現実改変事象。
それはまるで、五大湖の神話複合体の全体が、ワッツを拒絶しているかのようだった。1964年、神経衰弱に陥ったワッツは休暇を取り、ケベック州の家族を訪ねた。モントリオール市内をハイキング中、彼はルー・ガルー (フランス系カナダ人の民間伝承における人狼) に内臓をえぐり取られて死亡した。彼の後継者たちはOSATによる民族的、宗教的、性的マイノリティに対する弾圧を拡大し、ほとんど無意味であったイッパーウォッシュ計画は順調に進められ続けた。
財団はこうした利益のない活動には干渉しなかった。この時折物議を醸す規則の唯一の例外は、RCMPのエセ科学である "フルーツ・マシン" (ポルノを見ながらバイオリズムを測定することでゲイ男性を発見できるとする技術) を偽物だと暴いたことだった。OSATが権限を濫用して非主流または少数派グループに害を与えた際には、介入を求めて内部で圧力がかかったが、それでも財団はカナダで政治を行うことはなかった。当時は、まだ。13
OSATは国防省と同様、我々にとって厄介なトゲであり、近づくだけでも後味が悪い。財団の使命は、我々が住む奇妙な世界がもたらす危険から、何も知らない人々を守ることだ。ワッツの近視眼が、最終的に彼自身の破滅を招くことは分かりきっているが、それが起こる前に彼が生み出し得る損害は相当なものだろう。私はしばしば、彼がその不快な行為を実行したとき、異常なテクノロジーを使って懲らしめてやることが許されて欲しいと思うのだ。いつか、もしかしたらその日が来るのかもしれない。だが、それは今日ではない。
- V・レスリー・スカウト博士、1958年
CLIO-4とAAGに雇用されていた研究者の恒久的な住居が確保されたため、両組織は解散し、それに代わる運営セクションが新設された。記録・改訂セクションは一次異常を求めて歴史的記録の探索を続け、応用隠秘学セクションが二次異常についての研究と実験を担い、玄妙除却セクションがそれらを分解するという具合だ。スカウトとリゼレフは、1965年に暫定サイトではなくなるまでの間、ヒューロン湖研究・収容サイト-43の共同管理官を務めた。その時点で、そこは広大な地下実験施設、7つの新規セクション、3つの大規模な収容棟を誇るものになっていた。その1年後、リゼレフ博士は跡形もなく姿を消し、スカウト博士が唯一のサイト管理官となった。リゼレフは、その後30年に渡るイッパーウォッシュ州立公園でのOSATの活動と、人道的活動を控えるという財団の方針が試される危機の訪れを、ついに見ることが叶わなかった。
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