照星、憧れを撃ちぬいて
評価: +70+x
blank.png

 大好きなものへの憧れなんて、持ってはいけないと思ってた。

この場所で生き残るためには捨てていくべきだと。そうしないと、きっと生き残れないと思っていた。

人智を軽々と超えてくる埒外のオブジェクトとの交戦。人の身で超人的な力を宿した要注意人物や、常人とは全く違う思想で動く要注意団体の構成員との接触。生か死かのボーダーラインを反復横跳びしながら、さっきまで普通に話していた同僚が瞬きの後には黒焦げになっていたっておかしくはないこの職場で。

私は、それなのに、今。ずっと夢だった、ロリィタを着ている。

 裾から伸びる苺の蔦の上を兎が踊る、腰に大きなリボンがついた赤いギンガムチェックのジャンパースカート。そのシルエットを内側からふわりと大きく膨らませる、夢とフリルが詰まったパニエ。

足を包むのは純白のタイツと、丸みを帯びたチェリーレッドのおでこ靴。手の甲を覆う白いレースのお袖留めについたリボンも、ショートヘアを彩るヘッドドレスも、ジャンパースカートとお揃いの赤と白のギンガムチェック。
少女性って言葉を形にしたような、コンクリートの屋上よりもカントリーな庭園の方がよっぽど似合いそうなファッション。誰が見たってエージェントだなんてそれこそ夢にも思われなさそうな、そんな服装。

 それでも私は財団職員だ。エージェントとして、目の前にいる黒髪の少女を止めるために、私はここにいる。ゆっくりと一歩、彼女に近づく。少女の長い髪がなびいて、昼下がりの空に黒く太い線を作った。

戦場に、風が吹く。私の意識は一瞬、数日前の昼下がりまで遡る。


「せ、潜入捜査?」

 晴れ渡る空を映したカフェテリアの窓ガラスに、友人の声がこつんとぶつかった。談笑の声に紛れる程度の音量で、私は出されたばかりの指令を愚痴る。

「そ。最近話題になってたでしょ、女子高生の間で広がってるって都市伝説」

「あぁ、あの……」

友人の指がスマートフォンを操作する。コーラルピンクのカバーに咲いたマーガレットを見て、私は本日何度目かのため息をついた。

「あれ流してる団体の調査に行くの。どうせなら、羽月みたいな子が行けばよかったのにね」

「そっ、それは駄目!」

ぶんぶんと両手を振って否定する羽月は、相変わらず小動物みたいに見える。ふわふわとした栗色のロングヘアが、高い背中に波打った。
180cmと少しある身長を微塵も感じさせない態度は、いつも私に小動物を思い起こさせる。彼女が纏う雰囲気故なのだろうか。

「ほら、私こんな感じだし研究職だし……」

「確かに、前線に出るのは私の仕事だけどね」

私たちは良い友人だ。財団で果たすべき責務も、体格も、性格も、何もかも正反対なのに。それでも、数年前に出会ってから今まで友達でいられているのが、その何よりの証だと思う。

「……ほーんと、なんで私なのかなー」

ないものねだりという言葉がちらついたのを無視して、私は羽月のスマートフォンを覗き込む。画面の中に表示されたプレアデス星団の画像で、また嫌なことを思い出してしまった。

 今回の潜入捜査のターゲットは、通称"プレアデスの照星たち"。
おそらく名前はプレアデス星団と、そこから派生したギリシア神話の7人の乙女たちだろう。
構成員はちょうど7人、全員東京都内に住んでいる女子高生だ。インターネットを介して都市伝説のような形で「大人のいない新しい世界を作る」という声明を広げている。

メインターゲットになっているのは女子高生。現代のおとぎ話に、ちょうどロマンを感じるお年頃。仲間内の結束のためのおまじないを必要としている女の子たちは、すぐに飛びついた。噂は噂を呼び、尾ひれがつき、気づいた時には一つの神話になろうとしている。

財団だって手をこまねいている訳じゃない。ウェブクローラを使った対応で、一応は何とかなっているものの、消しても消してもどこからか次々と、彼女たちに関する新しい情報が湧いてくる。インターネットから情報を消せても、アナログな噂話を誰かが伝えている限りは、その根元を絶たないと話にならない。
財団と彼女たちの情報戦はいたちごっこ、というより我慢比べのような状態になっていて、この現状を打破するために上から指示が出たらしい。

何せ、まだ被害が出ていない。これ以上、まだ何もしていない団体にリソースを割けない。
そんなことしてる暇があったら、危険なオブジェクトやら常識というカバーストーリーのヴェールを剥ごうとする要注意団体にあてた方がよっぽどいいから。だから、まだ対処できる今のうちに無力化させる。

そこまでは、良いんだけど。いや良くないけど。

 問題は、プレアデスの照星たちの構成員……それも設立当初からいる幹部の一人に、熱烈なロリィタ愛好家がいるということだった。構成員たちはその嗜好に賛同しており、彼女たちの集会のドレスコードは、甘くてどこまでも少女趣味なロリィタファッション。

 それもあって、私が選ばれたのだろう。身長は高校生の時から変わらず153.4cm止まり。成長期に柔道に打ち込んだのが仇になったのか、いくつになっても年齢確認と二度見から逃れられない低身長。なのに腕と足はアンバランスに筋肉がついて、薄着では隠しきれないちぐはぐさがずっとまとわりついている。
自分で言うのもなんだけどそれなりに童顔なのも後押しして、パンツスーツだとエージェントというよりもバイトの面接に来た学生に見えてしまう、とは上司の評。

「いくら高校生に見える女が貴重だからって、お茶会に潜入しろなんて無茶苦茶だよ」

ぼーっとしながら習慣で買ったサンドイッチを見ていても、食欲は湧いてこない。慰めるように、羽月が言う。

「でも、その、好きなんでしょ?そ、そういう服……」

「好きだから、なお問題なんだってば……」

サンドイッチの前に力なく突っ伏す。机の冷たさを額で感じながら、全粒粉のパンと目が合ったことに気がついて何となく逸らした。

財団という職場で生きていくためには、多かれ少なかれ何かを犠牲にする必要がある、と私は思っている。それは例えば家族だったり、恋人だったり。ささやかな余暇の時間だったり、人としての幸せだったり。

エージェントなら尚更だ。機動部隊の隊員レベルとまではいかないけど、現場に投入される私たちには肉弾戦に耐えうる力が求められる。何よりも正常を守るために。女だからといって、そこは変わらない。ここで生きていけるほど強くあらねばいけないのは、そのために何かを捨てなければいけなかったのは、誰だって同じことで。

 私が犠牲に選んだのは、憧れだった。

鍛え上げた両腕に、フリルとリボンたっぷりのお袖留めは似合わない。訓練と実戦で傷だらけの素足にはまるようなパステルカラーのパンプスなんてどこにもない。たとえ真っ白なタイツや夢の詰まったパニエで体型を隠せても、その中にあるコンプレックスは隠しきれないから、これで良かったのだと自分を納得させていたのに。

捨てたはずの憧れが、目の前に立ちのぼる。それは私を苛む大きな壁になって、未来まで暗い、暗い影を落としているようだった。

「着られるはずないじゃん、今更」

「ど、どうして?」

羽月が首を傾げると、ウェーブのかかった長い髪がふんわりと揺れる。任務には邪魔だからと切った自分のショートヘアのことを思い出して、自己嫌悪を誤魔化しながらも吐き出した。

「だってこの腕だよ、足だよ?あーあ、オートクチュールで仕立ててくれる妖精とかいないかなー」

冗談めかして言えただろうか。そう思いながらちらりと様子を伺うと、友人は何やら考え込んでいた。真剣な様子で。私の発言が気に障った、という風ではなさそうだった。

「そ、それなら……適任が、いると思う」

少しして、彼女がおずおずと、けれど確かにそう話してきて。私はようやく、ああこれはどうやら間違えたな、と理解したのだった。


「ごきげんよう!」

「ご、ごきげんよう……?」

第一印象は、花が咲くようにぱぁっと笑う人だな、だった。太陽の光を浴びて咲き誇る、向日葵の花のような。あるいは牡丹のような、晴れやかな微笑み。
財団服飾部門。幾つものトルソーや色とりどりの布や糸がずらりと並んだ仕事場の一角で、雨矢・ココ・憩技師は立っていた。ただそこにいるだけで、きらきらとした気品が見えるようないで立ちで。

 わふ、と得意げに、傍に控えていた犬が鳴く。雨矢技師の膝の少し下あたりで、キャラメル色の両耳がぴこぴこと動いている。一匹のジャック・ラッセル・テリア。両耳の色と首から下がぶち模様になっているところを見るに、彼女はエージェント・こはちゃんだろうか。

犬派でよかったとこれほど思ったことはない。緊張が少し和らいだような気がしたから。セラピードッグの実績は伊達ではないな、と思いながら、私は雨矢技師に向き直る。
この調子で本題を伝えられたらな、と思ったのに、

「さて、ご依頼は……潜入調査のためのロリィタを一式、誂えて欲しいとのことでしたが」

先に口火を切ったのは彼女の方だった。

改めて言葉にされると、すごく身勝手なことを言っているように思えてくる。財団の技術の粋が集まった部門に、こんなことを言い出しているというのは。しかも、よりによって。高い技術が必要な光学迷彩のスーツとかならまだ分かるのに、私は潜入捜査とはいえ、そんなの必要ない服の制作を頼もうとしている。

沈黙が、ただ怖くて。目を逸らして俯いた私の口から出てきたのは、聞き飽きた建前だった。

「上は何考えてるんでしょうね、いい歳して、似合わないってのに本当……」

言葉にする度に、幼い気持ちが音を立てて潰れていく。慣れたはずの思いをすり減らす感触が、今更のように胸にざらついた跡を作る。

「いいえ」
それを打ち消すように、雨矢技師はゆっくりと首を振った。

「この世に、似合わない服なんてきっとありませんわ」

けして大きくはない、けれどしっかりとした声で。世界そのものに宣言するような、光を宿した凛とした音で。

たった一言で、彼女は、私の不安を消し飛ばしてしまった。

「もう一度お聞きいたします。貴方が着たい服は、なんですか?」

「私、は……」

言うべきだし、言いたかった。それでも言葉にするのが怖くて、長年染み付いたコンプレックスは消えてくれなくて、私は最低限の予防線を張る。

「……笑わないで、聞いてくれますか」

雨矢技師は頷いた。似合わないなんて、きっと言わなさそうな、真剣な表情で。
この人なら茶化さないんだろうと心から思えて、コンプレックスはひととき姿を消して、

「かわいくて、夢みたいで、素敵な……ずっと憧れてたロリィタが、着たいです……!」

声は泣きそうな程に情けなく震えた。頬は際限なく熱くなって、握ったままの拳には痛いほど力がこもる。

「ええ!では、そのように!」

雨矢技師の表情がぱっと華やいだ。快諾する声まで、きらきらと輝いていた。

「改めまして、ようこそ、財団服飾部門へ。わたくしが貴女の担当技師、雨矢・ココ・憩でございます」

恭しく、雨矢技師は一礼する。ショートジャケットとお揃いの、葡萄色をしたベルベットのスカートが、それに合わせて花のように翻った。
……諦めたと、思っていたのに。

「似合うん、ですかね」

成人した時点で、幼い気持ちには踏ん切りがついたってことにしていた。どこかで聞いたような建前で心を覆い隠して、憧れを潰して、それが大人になったってことだと飲み込もうとしていた。していた、のに。

「似合います。わたくしたちは、そのような服を作っておりますから」

衣服とは武装。衣服とは矜持。衣服とは、どうありたいか。雨矢技師のしゃんとした立ち方からは、高らかにそう話す声からは、気品とプライドが滲み出ていた。

この人になら、任せても、いいのかもしれない。あの日捨てた憧れを、幼心に置いてきた夢を、そうなりたかった理想の自分を。
差し伸べられた手に、私は握手で返した。プロフェッショナルにはこうするのが流儀だと思って、躊躇いなく、その手を掴んだ。

「ときに、TPOとはどんなものだと思われますか」

 服飾部門の仕事場を、躊躇いのない足取りで雨矢技師は横切っていく。こはちゃんも迷いなくその後についていって、時折振り返っては小さな声で鳴く。ちゃんとついてきてね、と教えるように。

「……その場に合わせて着たいものを選ぶ、とかですかね」

カラフルな布や糸を納めた棚、服に仕立てられる前の布がかかったトルソーを過ぎていく。型紙と布を抱えた人、デザイン画らしき紙を何枚も持った人……財団服飾部門の職員らしき人とも、何人かすれ違った。

「ええ、それもTPOの一つです」

ミシン台が、等間隔でずらりと並んでいる。ひときわ大きな黒いミシンの前で、雨矢技師は振り返った。
「一つ、ですか」

例えば面接にはスーツで行くとか、社会人らしい格好をしろとか。私にとってのTPOはそういうものだったから、雨矢技師の言葉は意外なものだった。

「自分がどうありたいかを定めるのもまた、TPOでございます」

そう話す雨矢技師の微笑は、先程とは違ってどこか不敵に映る。仕立屋傭兵テーラードマーセナリー。サンドリヨンの魔女。彼女についた異名の所以を、私は肌で理解した。


「ところで、アフタヌーンティーのご経験はございますか?」

 何回目かの採寸の際。私の胴にメジャーを巻きながら、雨矢技師はそう言った。しなやかなメジャーは私をむやみに痛めつけることなく、するすると腰周りに沿って動く。

動きやすい服装とは即ち体にフィットするライン。潜入捜査での万一の自体も想定して、通常よりも多めに、細かく測っておかないといけない……らしい。そういう訳で、ここ最近の私の予定帳には訓練や潜入作戦の打ち合わせと共に、雨矢技師による採寸の予定が入っている。

「えっと……すみません、行ったことないです」

虚空を見つめながら答える。行こうか迷ったことは、何度かあるんだけど。ホテルのアフタヌーンティーなら、羽月を誘えば、私が行っても何も言われなさそうだし。

ただ。財団に勤める人間の宿命として、まとまった休日はだいたい潰れる。
働き方改革が叫ばれて随分経つが、世界の平和のためには休日返上の覚悟を求められるのがエージェントなのだから、そんなこと言ってはいられない。
友達と都合を合わせて、お洒落をしてせっかく向かった場所で。鳴り響く携帯、周りの人の目線、お開きになるお茶会、一切合切を放置して走り出す私……というのは、ちょっと、いやかなり避けたい事態だし。

「作法がありそうっていうのもあるんですけどね」

紅茶の銘柄なんて、ダージリンとアールグレイ以外知らない。好きだし飲んではみたいけど、職場ではコーヒーを飲んで過ごしてきたし。繊細なティーカップを持つには私は無作法で、この手はやっぱりごついと思ってしまう。

「では、少々付き合っていただいても?」

「いくら潜入とはいえ、そこまでやるんですか?」

内緒話をするように、雨矢技師が顔を近づける。コロンのパチョリが、ふんわりと上品に首元で香る。

「『プレアデスの照星』は、お茶会を情報交換に用いるとお聞きいたしました。ロリィタでの立ち振る舞いに慣れるためにも、一度赴くのが適切かと。それに……」

服飾部門での業務中に限り、雨矢技師のセキュリティクリアランスは本来のものより上になる、らしい。だからびっくりするかも、とは羽月の談だ。恐らく、それで潜入捜査のシチュエーションを知ったんだと思う。

「一生に一度しかない初ロリィタの初アフタヌーンティー、私ぜひご一緒したくって!もちろん、お嫌でしたら無理にとは申しませんわ」

私の耳元からぱっと、パチョリの香りが離れる。軽やかにそう言って、雨矢技師はにっこりと笑った。笑顔に点数があるのなら、躊躇うことなく百点満点をつけられそうな表情だった。

「……こんなのでよろしければ、ご一緒させてください」

思わず出てしまった言葉に、雨矢技師はしぃ、と右の人差し指を立てた。彼女が言うと、筆記体で綴られるような外国の瀟洒な言葉に聞こえる。

「自虐はいけませんわ。その心意気だけで、貴方はこんなにもロリィタの魂をお持ちなのだから」


 それから少し後。老舗ホテルの一角で、私は紅茶をゆっくりと飲みながら、座り心地の良いビロードのソファーに沈みこむように、雨矢技師の話を聞いていた。
有言実行、というべきか。お茶会の席はあっという間に整えられて、こうして平日昼間のアフタヌーンティーにやってきている。

「あなたのご友人とはもともと知り合いでしたから。縁あって、先にお話をいただいておりましたの」

チョコレートケーキを上品に一口分切り分けながら、雨矢技師はにこやかに微笑んだ。優しい瞳が何だか照れくさくて、紅茶に視線を落とす。紅白のギンガムチェックのヘッドドレスが、私の耳の端から端までをかわいく彩っている。

「それでかぁ……」

忙しそうな服飾部門に、やけにトントン拍子にお目通りがかなったと思ったら。変なところに気を使うし、あの子細かいタイプなんだよなぁ、と友人の顔を思い浮かべる。申し訳なさそうな戦友の、震える声まで聞こえてくるみたい。

「羽月と、何か共通の話題とかあるんですか?」

目の前の壮麗な仕立て屋と、小動物みたいなふわふわした友人のイメージがどうしても結びつかない。何となく聞いてみると、雨矢技師は微笑みを崩さないまま答えた。

「主に、ワンちゃんのお話を」

雨矢技師は二匹の飼い犬だけでなく、あまねく全ての犬をこよなく愛している。犬のことになると普段の麗しい立ち振る舞いはどこへやら、一心不乱に犬たちを愛し守りかわいがることしか考えられなくなってしまうらしい。その状態の技師を初めて見た時はすごく驚いた、というのは友人こと羽月の評だ。

「在原さまのお家で飼われているゴールデン・レトリーバー様、とても素敵でしたから」

雨矢技師の言葉に、羽月が見せてくれた飼い犬とのツーショットを思い浮かべる。飼い主に似た、どこかほんわかとした雰囲気の大きな、金の毛並みの犬だった。

「写真を拝見しただけで分かる手触り、素敵な笑顔、実に素晴らしくて……」

うっとりとした表情の雨矢技師が、ふと私を見る。先程までの空想のレトリバーにメロメロになった愛犬家とは違う、真剣な、仕立て屋としての眼差し。

「ところで横川さま、あまりご緊張なさらずに。時間はまだたっぷりありますから、まずは楽しみましょう」
「バレてましたか……」

何だかいたたまれなくなって、お袖留めのリボンを見る。ジャンパースカートとお揃いの、かわいいリボン。
当日の動きも合わせて知っておきたい、ということで、雨矢技師が着るのを許してくれた、赤と白のチェックに苺が踊るジャンパースカートは、見る度に私の視界から現実味を幸せな手つきでなくしていく。これを着て危ない場所に行くんだなぁと思うと、美味しいはずの紅茶もケーキも味が分からなくなってくる。

思ったよりも、不安だったのかもしれない。もしかしたら任せられた職務を失敗すること以上に。この服を汚すこと以上に。
まだ私は、憧れを着る決心がつかないでいる。

「横川さま」

恐る恐る、顔を上げる。雨矢技師のチョコレート色のブラウスのフリルが、パニエでふわりと膨らんだ深緑のスカートが、午後の光で輝いて見える。

「まだ、不安でしょうか?」

きらきらしたまま、雨矢技師はそう告げた。え、と間抜けな声が漏れる。彼女の眼差しは先ほどまでの真剣さを残しつつ、どこか優しいものに変わっていた。
私という依頼人のことを心から案じてくれている瞳に射抜かれたような気持ちで、思わず自分の両手を握りしめる。

「……すみません」

「謝らないでくださいませ。私の、ひいては服飾部門の力不足です」

「いえ、そんなことは……!」

そんな顔をさせたい訳ではなかった。それでも、やっぱり怖かった。よく考えたらめちゃくちゃな計画な気もしてきたし、何より、似合う保証なんてなかった。

午後二時半のホテルのレストランには、まばらだけど人がいて。お姫様のようなロリィタは、少しばかり、その人たちの目を引いて。
雨矢技師みたいに、上手く着こなせない。だって私には気品なんてない。この手に馴染むのは割れそうなティーカップじゃなくて、重々しい銃。少女の夢からはかけ離れた、制圧するための暴力。
どうしても視線を気にしてしまう。動きがぎこちなくなって、手が震える。

「今からでも、デザインを変えて縫い直しましょうか」

「いくら服飾部門でも間に合わないですよ、それに……」

ふがいなさが全身を切り刻む。こんなことを言わせるために、ロリィタを着た訳じゃなかったのに。

「それに、この服、すっごくかわいいですし……」

雨矢技師がそっと置いたティーカップに、飴色のさざ波が浮かんだ。

「デザイン画を見た時から、すごく好きだったんです。きっと、ずっとこんな風に、この服が着たかった」

本当は、もう少し違った色や柄の方が良かったのかもしれない。落ち着いたデザインや配色だったなら、もしかしたら、こんな不安なんてなかったのかもしれない。

でもそれは、きっと妥協だ。それだけは、したくなかった。

私が着たいという気持ちに丁寧に寄り添って、デザイン画を描きあげてくれた雨矢技師。デザイン画を見て思わず漏らしたかわいい、の言葉に、目を輝かせて喜んでくれた技師。
ヘッドドレスにはこの布使いましょう、と声をかけてくれたり、靴の履き心地を気にしてくれたり。訓練や潜入捜査の打ち合わせで私が非常識な時間に来ても、文句も言わずに付き合ってくれた、服飾部門の皆さん。
皆さんの士気向上のために、あるいは不安な私を励ますために、時折尻尾を振って作業場を見に来てくれたこはちゃんとわぶちゃん。

この一着に携わった人たちのためにも、私は胸を張らなければいけない。

「だから、似合う自分でありたいなとは、思ってるんですけど」

だってこれはこんなに素敵で、何よりもかわいくて、私が夢見たあの日の理想の形だから。

「……その気持ちがあれば、きっと大丈夫。今の横川さまは、とても素敵です」

にっこりと微笑む雨矢技師に、ロリィタはとてもよく似合っていた。チョコレート色のフリルブラウスに、深緑のパニエ。どちらも技師の気品を引き立てていて、私もこうあれたらな、という思いを強くする。

「そう言って貰えると嬉しいです……まだ、ちょっと怖いですけど」

潜入捜査の日取りが決まったのは、雨矢技師とお茶会の約束をした、その少し後のことだった。拠点で動きがあった、と、張り込んでいたエージェントが知らせてきたらしい。今から、ちょうど一ヶ月後。それまでに、形にしなければ。

「そうですか……では、次はどこに行きましょう」

「えっ?」

 思考がふっと引き戻される。雨矢技師は真剣で、そしてとても楽しそうだった。冗談で言っている、という訳ではなさそうだった。

「ご友人を呼んでのパーティーも良いでしょうし……そうですね、お買い物など行っても楽しいかもしれませんわ」

「あの、行くのは一ヶ月後で……それに、そんなに着ても大丈夫なものなんですか?」

「服飾部門の技術を用いて、とっても丈夫にしております。お手入れも簡単ですし、そんなにやわにはできておりません」

「そう、なんですね」

「何よりも、横川さまにこの服との楽しい思い出を作っていただきたいのです。一度良くないイメージがつくと、服を着る度に思い出してしまうということもございますから」

雨矢技師の言葉は重い。技師にオーダーの依頼が舞い込むことも多いと、服飾部門の人に聞いたのを思い出す。個性豊かな財団の職員に寄り添って、人生を過ごす服を縫い上げる。
技師にも、そういうことがあったんだろうか。今の私は、そうなっているんじゃないか?

せっかく縫ってもらった素敵なお洋服を、身の丈に合わないなんて聞き飽きた言葉で否定して、似合わないなんて蓋をして。これじゃあ、嫌な思い出と変わりない。

「……ありがとうございます、雨矢さん」

この服に、嫌な思い出なんてつけたくなかった。そう決心して顔を上げた頃にはもう、周りの目なんて気にならなかった。


「星は?」

 チョコレートの色をした扉の前で、幾度も脳内でシミュレーションした文句をゆっくりと告げる。初めてのお茶会に緊張している新人に見えていますように、と祈りながら。

「東に、すばる」

ゆっくりと、扉が開いた。ふわりと、かぐわしい匂いがする。白い薔薇、甘いお菓子。どこか懐かしい、紅茶の香り。

「ようこそ、新たなるプレアデスの乙女。歓迎するわ」

部屋の奥にいた長い髪の少女が、ワインレッドに咲く花たちの壁紙を背に、振り返って私に微笑む。

「新しい世界に、星々だけの楽園を作りましょう。私たちはきっと選ばれた星の連なり、一つの星団なのだから」

扉の近くから部屋の奥まで、真っ直ぐに伸びた長いテーブル。純白のテーブルクロスの上に、壊れそうなほど繊細な花柄のティーポット。お揃いの柄のティーカップが九つ、優美でクラシカルな椅子の前に並んでいる。

シュガーポットもお揃いの柄で統一されて、アンティークのドールハウスのようにかわいらしい。テーブルの中央に、色とりどりのケーキやマカロン、ボンボンショコラにメレンゲクッキー。お菓子の園の一番目立つところに、噴水のように、白と銀のケーキスタンドが自慢げに座っていた。

 華やかなのは、テーブルの上だけではなく。それを囲む彼女たちも、思い思いのロリィタを着こなしていた。

パステルカラーのスカートに、生クリームにも似た生成りのフリルブラウス。沢山のリボンで彩られた、お姫様のようなピンクのジャンパースカート。真珠のカメオがついた空色のヘッドドレスや、幾重にもフリルを重ねた波打つたんぽぽ色のシャーリングスカート。

くらくらするほど夢のような光景は、おとぎ話を聞いて思い描いた風景にも似ていた。一瞬目を奪われかけて、任務に支障が出ない速度で思考を戻す。

 場に呑まれるな。私がここに来た理由は潜入捜査。目的は、彼女たちについてなるべく詳しく聞き出すこと。
今のところ、財団は彼女たちとろくにコンタクトが取れていない。高校生らしからぬ超技術を使っているとかではなく、ただ単に彼女たちがこちらからの呼びかけを拒絶しているというだけだけど。

そもそも、彼女たちのメッセージはほとんどが一方的なもので、しかも何がやりたいのかは未だに不明。分かっているのは、

『私たちと一緒に、新しい世界を作りましょう』

という、動画の中の言葉だけ。目的はおそらくこれだけど、手段は何も見えてこない。というか、まだ何もしていない。今ならまだ、狂言で片付けられる程度だから。

事態が動いたら、現場のお前に指示を出す。こちらと連携して沈静化に当たれ、とは上司の言。この機に無力化させることを、上はきっと望んでいる。服飾部門の予算申請が通ったのも、そういう事情が絡んでいるのだろう。

何があっても対応できるように、ドアの一番近くの席に座った。アフタヌーンティーのマナーを、頭の中で復唱する。
最初は、サンドイッチから。ケーキスタンドに縦に並んで置かれた皿が三つあるなら、一番最初は一番下の皿、その次は真ん中……というように、下から取って食べていく、だったはず。

ティースタンドの一番下にあるサンドイッチを、ゆっくりと手に取る。上座にいたリーダーの女の子が、こちらを見て目を丸くした。

「もしかして、勉強してきた?」

『プレアデスの照星たち』のリーダー、冴島弓。資料の中にあった写真では制服を着て、むっとした顔をしていたのに、今の彼女は別人のように楽しそうにしていた。

流れるような黒髪の上に、真っ白なヘッドドレスが天使の輪のように輝いている。金や銀の糸で星々を縫いつけた夜空の色のジャンパースカートが、こちらの方を向くのに合わせてふわふわと揺れた。

「間違える子多いんだよ。上からじゃなくて、下から食べるの」

にこにこと親しげに笑いかける様は、普通の女子高生にしか見えない。彼女だけではなくて、周りの子たちも皆普通の女の子に見える。動画の中の怪しげな思想も、暗い雰囲気も、今隣にいる少女たちからは程遠い。

「本で読んだんです……こういうの、憧れてたから」

アフタヌーンティーの特訓が役に立った。当たり障りのないように取り繕いつつ、彼女たちに、ゆっくりと微笑み返す。あの日の雨矢技師みたいに、エレガントに映っていればいいな、と思いながら。

レトロな形の水色の電話から、かわいらしいベルの音が鳴り響いたのはその時だった。

ふわふわとしたお茶会の空気が、一瞬で変わる。緊迫感が部屋を満たす。一番近くにいた女の子が躊躇いなく受話器を取った後、小さく叫んだ。

「弓先輩、周り、見張られてるみたいって……!」

万一のことを考えて配置していた別働隊が、バレた。弓先輩、弓ちゃん、と渦巻いていく不安のさなかで呼びかけられて、彼女は躊躇いなく席を立つ。

「どこ行くの、弓ちゃん!」

椅子の間を器用にすり抜けて、そのままどこかに向かっていく。私も席を立って、彼女の後を追う。このままにしていい訳がない。

「ちょ、ちょっと待ってよ!どこ行くの!?」

「あなたたちはそこで待ってて」

ルートをいくつか想定しながら、重そうなドアを開け放つ。ここは雑居ビルの二階。逃げ道は、そんなに多くないはず。

「リーダー、今すぐ連れ戻してくるから!」


 駆ける。ただ、ひたすらに。眼前に迫ったドアを何度も開けた。クラシカルな扉が段々と無骨に、シンプルになっていく。

全ての扉を開けきって、私は突き当たりに出た。コンクリートの階段が細く伸びている。ここからは二つに一つ。上に行くか、下に行くか。
何度も見た見取り図と周辺の地図を、ざっと頭の中で描く。時間はない。一つだって間違えられない。

 『プレアデスの照星たち』は、二階建ての狭いビルの二階を、丸ごとぶち抜いてアジトもといお茶会の会場にしていたらしかった。二階の窓の傍にはだいたいキャビネットやテーブルがあったから、あそこから逃げる事はできない。第一そのつもりなら、とっくに私の目の前で飛び降りている。
一階の窓から飛んだって大したことにはならないし、下には待機させている別働隊がいる。

彼女の行動が答えだ。私なら、上に行く。

ヘッドドレスに手を伸ばす。耳の近くの生地に仕込まれた、小さな硬い四角を指の腹で探り当ててどうにか押した。
「バレてリーダーが逃げました、屋上に行って捕まえてきます」

雨矢技師発案、財団服飾部門謹製のヘッドドレスの機能に感謝、するのは後だ。了解の返事を待たずに私は駆け出す。処分も訓戒も後でいい。
窓から飛び降りられたらその時点で終わる。そんなこと、絶対にさせたくはない。

普通の女子高生のように笑う彼女の横顔と、不安そうな少女たちの表情が脳裏をよぎった。彼女たちは普通の少女だった。守られるべき市井の人々だった。

一人だって、失ってたまるか。財団エージェントの名が泣くぞ。

『了解、対象の確保最優先で動いてください』

聞こえてきた返事は私が切った風と混ざった。それでもはっきりと聞こえたし、それで十分だった。

「了解!」

灰色の階段を上に上に、とにかく上に駆け上がる。高いヒールがあるとは思えない履き心地の靴は、私の足と一体になって、羽が生えたように私を走らせる。

やがて、暗い階段の奥に、小さなドアが見えてきた。鍵もない。何かしかけられているかどうかは、肉眼ではちょっと分からない。躊躇っている暇も、ない。

万が一なんて考えたくない。そうはさせない。それでも、手札はできるだけ多く持っておいた方がいい。一つだって、取りこぼさないために。

「屋上に突入します、準備お願いします」

連絡した直後に、勢いよく扉を開けた。扉の向こう、長い黒髪が曇り空になびく。確信した正解も置いてけぼりにする勢いで、私は屋上に飛び込んだ。


 この靴を履いてなきゃできない、弾丸みたいな無茶な跳躍。パニエの骨組みとチェリーレッドの厚底が衝撃を受け止めて、私はその場に倒れずに済んだ。

「なん、で……」

「特注品なの、この靴。かっこいいでしょ」

屋上のコンクリートを踏みしめて、私は彼女と対峙する。かわいくてかっこいいおでこ靴の底が擦れて、軽く音を立てた。

 こうして、私はここに立っている。財団職員らしからぬロリィタを身にまといながら、財団職員として、彼女を引き戻そうとしている。

「だって、私たちと同じように、同じ気持ちで、ここに来てくれたんじゃないの……?」

彼女はまだ理解できていない。なら、これは好機かもしれない。事を荒立てることを望んでいるようには、見えなかったから。

「ごめん。嘘ついてた。本当はもうちょっと年上」

屋上から飛び降りられたくはない。誘導するように、回り込むように、ゆっくりと横に歩いていく。

「嘘つき……大人は皆、嘘つきばっか!邪魔ばっかりして……私たち、何も悪いことなんかしてないじゃん!」

彼女の声で、足を止める。弓ちゃんにとっての真実はきっと、大人の、そして財団の見ている世界では通用しない。

「あなたたちは悪くない。でも、あなたたちの作り上げようとしてるものが広まると、困る人が沢山いるから」

ぶれる彼女の瞳に、私は映らない。混乱と理性の狭間で、彼女は感情のままに叫んだ。

「時間に追われる灰色の大人になんかなりたくない!好きなものだけ集めた桃色の世界で、かわいいことだけしていたい!それがどうしていけないの!」

息を切らせて、吠えたてるように。全身を染めた絶望が、その声に滲みだしていた。

「こんな世界を作った側の大人たちは締め出して。少女だけの楽園で、私たち、プレアデスになるの」

「……それがいずれ、破綻するとしても?」

彼女の瞳に私が映る。思考が徐々に冷えていく時、人はそういう目をする。

「ねぇ、もう分かってるんでしょ。こんなこと、現実逃避以上の意味なんてないって」

家庭環境に問題もなくて、いじめなどの学校でのトラブルもなくて。そんな彼女たちが、ここまでする理由を。
 どこかで、知っていたはずなのに。喉が張り裂ける程の声で、弓ちゃんは叫んだ。

「酷いことされなきゃ現実逃避も許されない、なんて言わないで……!この世界に居場所がないなんて、思ったこともないくせに!」

……そうだった。懐かしい痛みが、心を苛む。大人になったふりをして忘れていた私への、だからこれは罰なのだろう。
子どもは大人よりよほど世界が狭くて、ストレスに弱い。傲慢に見えて繊細で、生きていく上で耐えるために鈍くなってしまった大人より、よほど鋭い時があるのだと。

「……ごめんなさい」

過去の私だってそうだったのに。そういう時期は確かにあって、こんな世界で生きていくのがひたすらに嫌だったのに。
大人になると、こういうところの配慮を忘れてしまう。潔癖さにも似た成長への否定と世界への不信感は、いつの間にか少女だった頃に、憧れと一緒に置いてきてしまったから。

「でも、この世界だって捨てたもんじゃないよ」

 口にすると使い古された説得文句以上の何者でもない。それでも、今日だけは実感を持って言える。

「だって、今日初めてロリィタを着た!大人になってやっとだよ!ずっと着たかった憧れの服に、こんな形で袖を通せた!」

 ここからは私に言わせて。大人だって怖いことは沢山あるし、まだまだ未熟なんだよって。

「怖かったけど、皆……弓ちゃんだって、私のことをかわいいって言ってくれた。こんなこと言っちゃいけないかもだけど、本当に嬉しかったんだ」

弓ちゃんは、ただ黙って聞いている。これは説得なんかじゃなくてただ話しているだけだけど、それで少しでも時間が稼げたならいい。彼女が、少しでも思いとどまってくれる隙ができたなら。

「見て分かる通り根っからの体育会系でさ。こんなの似合わないよって言われてる気がして、実際言われて、諦めちゃった」

おとぎ話の一ページのように飾られたショーウィンドウを通り過ぎる度に、そのガラスに理想からかけ離れた私が映る度に。街中で、おとぎ話から抜け出たような服に身を包む人達を見る度に。
夢と現実との剥離は私を指さして、責めて、きっと憧れよりも恐怖が勝った。

「だから、凄いよ。皆、すっごく似合ってる。いいなーって羨ましかった!」

誰かが決めた世間体なんかに負けずに一時の夢を思い切り楽しむ彼女たちは、私の捨てた理想だった。そうなれないと誤魔化した憧れだった。少女だったあの頃に置いてきた、甘くて優しい夢だった。

「こんな私だって、今更夢が叶うんだもん。こっちの世界、そんなに捨てたもんじゃないよ」

だから、と手を伸ばす。お袖留めの真っ白なレースが、ふわりと風に揺れた。

「……お姉さんみたいな大人ばっかりだったら、よかったのに」

弓ちゃんは絶望に灼かれた声と、煤けた黒い瞳をしていた。星の光も太陽の熱も届かないような、現実に摩耗しきったよだかの瞳。

「……もっと早く、出会いたかった」

伸ばした手は、きっと届かない。そう思ってしまうような、どこまでも昏い瞳。

 彼女の手に握られていたのは、拳銃だった。モデルガンじゃないとすぐに分かった。震える彼女の声と手が、確かに引き金にかかった指が、それを教えてくれていた。

「こんなに素敵な格好に銃なんて似合わないよ。それ、こっちに貸してほしいな」

どうやって手に入れたかは後で聞く。そのためにも、彼女の説得は最優先だ。説得で済むようにするのも、私の仕事なのだから。

「……似合わなくても、私がやるしかないんだよ」

顔を逸らして、一瞬吐き捨てた弱音を覆い隠すように。彼女の瞳に、決意の星が浮かぶ。悲しいまでに強い光を放つ、一つの星が。

「だって、動画も拡散されてすごいことになってるし!お姉さんみたいな人が来ちゃったし、でも今更台無しになんかできないし!新世界を作りたいなんて、皆本当に思ってるなんて、そんなの知らなかったのに!」

「新世界?」

「偉い人を撃てば、今の世界は新しく作り替わるんだって。それを知っている人だけが、新しい世界に行けるんだって、ネットで聞いて」

弓ちゃんの話した内容に、私は心当たりがあった。記憶の中から懸命に手繰り寄せて、脳裏にヒットしたワードを呟く。

「懐中銃、協会……?」

 弓ちゃんは自嘲するように薄く笑った。正解だと、すぐに分かった。

要注意団体、懐中銃協会。この世界はリンカーンの暗殺の時に放たれた銃弾で、いずれ地に落ちてなくなるものだと信じている人達。分派がいくつも分かれていて、それぞれに銃に関連する名前がついている。ここまでしか、私のクリアランスレベルには開示されていない。でも、それで十分だった。

「だから、照星なの?」

それが指し示すのは、プレアデス星団の星のことじゃなかった。エージェントとして与えられ叩き込まれた知識が、もう一つの意味を導き出す。
 銃の照準を合わせるための、銃口付近についた小さい機械。その照準器の一種、オープンサイトのパーツのことを、照星と呼ぶ。

「誰かの苦しみの上で作られた世界だから、その分きっと、皆が余計に苦しいんだよ。なら、その苦しみを一回、私が引き取って終わらせなくちゃ」

銃を持つ彼女の手が、ゆっくりと空に近づいていく。嫌な予感が、私の背筋を冷やす。

「それは、弓ちゃんがしなきゃいけないことじゃないよ」

「私がしなきゃいけないの!だって、その話を最初に皆にしたのは、教えちゃったのは、私なんだから!」

私の言葉を、少女の悲痛な叫びが跳ね飛ばす。彼女の懺悔は屋上の更に上、曇り空にまでこだまする。

「嘘みたいな話なのに、話した途端に皆は信じちゃって……それで、いつの間にかこんな風に」

 弓ちゃんにとっては、単なる世間話だったのかもしれない。それこそ、妙な噂話を聞いたという程度の。

「皆は悪くないの。巻き込んだ責任を、取らなくちゃ」

ただ、うっすらと死にたがっていた女の子たちにとって、それは甘い響きだった。噂は噂を呼び、それはいつしか真実になっていく。"プレアデスの照星たち"が、そうであったように。

「新世界に旅立つためのドレスコードは、皆が大好きなフリルとリボン。広がっていく噂の中で、私は新時代の救い手になる。たとえハリボテでも、新しい世界を作るための標的には十分だから。だから……もう、諦められないとこまで来ちゃったんだよ」

 頭の横に掲げた銃の引き金に、悲しそうに笑いながら、弓ちゃんは手をかけた。今すぐ止めろと、直感が囁いた。これ以上もたもたしてると、本当に彼女はあるかどうかも分からない、おとぎ話の新世界のために死ぬ。

「弓ちゃん!」

判断を置いてけぼりにして私は駆け出す。間に合うか?そんなこと言ってる暇なんかない、間に合わなくたって間に合わせるから、だから。

「ごめんなさい」

だから、間に合え!

「……さよなら」

 私の目の前で、ぱぁん、と、軽い音が響いて。銃弾は、あっけなく真昼の空に飛んだ。


「危、なぁ……」

 純白のお袖留めが、ギンガムチェックのリボンごと真紅に染まる。雨矢技師に後で謝りに行かなきゃな、と思いながら、じわじわと赤が広がっていくのを、どこか他人事みたいに眺めていた。

 ごめんね。こんなのに、着られたばっかりに。

「なん、で」

 私の手を掠めた銃弾が、曇り空を通り過ぎていく。流れ星のようなその光を、手の甲に走る熱い痛みの中で見たような気がした。

「……なんでだろうね、ほんと」

脂汗が額を伝う。笑っちゃいけない状況なのに、どうしてか、気が抜けたような笑い声が喉からこぼれていく。

「なんで……!手、怪我してるのに!」

「ごめんね、そういう仕事なんだ」

あぁ、こういうところは高校生だ。素のままの彼女らしいリアクションに、なんだか安心する。
もう、無理をしなくていいんだよ。命なんて、そんな簡単に投げ出さないで。

「もっと、もっと酷い怪我、するところ、だったのに……!」

ばらばらと降り注ぐ声に嗚咽が混ざっていく。私が息を吸う音も、大きく、早く、強くなる。
「確かに、怪我じゃ済まなかったかも」

 引き金を引いたのは彼女だ。その重さは、彼女自身がきっと分かっている。
苦しむ同志のためにありったけの素敵なものを飾った秘密基地を作り上げてしまえる子が、自らの命を彼女たちのために差し出せる子が、自分がしたことの意味を顧みられない訳がない。

「でも、一人の子どもを助けられた」

 それでも彼女は保護するべき子どもだ。こんな目に合わなくたってよかった一般人だ。自分で自分を裁くべきじゃない、ただの高校生だ。

「今はそれで……充分、かな」

だって、子どもが間違えるなんて、当たり前のことなんだから。

泣き崩れる彼女をどうにか支えるようにして、私は屋上にへたり込んだ。夢の終わりを告げるように、どこかから遠く、救急車のサイレンが響いていた。


「ど、どうして私の連絡先教えたの!」

 ベッドを囲んでいたカーテンを開けて、羽月は叫ぶように言った。病院であることを忘れない、ごく控えめな音量で。

「エージェント専用の病院に、一般人入れる訳にいかないじゃん。サイトの寮に案内もできないし、病院だとスマホ使えないし、親には仕事のこと隠してるし……消去法で、羽月のとこしかないでしょ」

ベッドの上で、チョコレートをつまみながら私は答える。さっきの濃厚なプラリネとは違って、こっちはオレンジピールが入ってる。舌の上で踊るチョコの上質な苦味と相まって、爽やかで美味しい。

「すーっごい気まずかったのに……あの子、人違いって顔してた……」

羽月はこの辺りで負傷したエージェントの治療担当でもあるし、持ち場として勤務してるフロント企業のオフィスも近い。羽月のいる場所に行くなり電話をかけるなりすれば自ずと私に会えるって訳、と思って選んだんだけど、人見知りの友人には荷が重かったらしい。

「ごめんごめん、ほら、これ食べて元気出しな」

羽月にチョコレートの箱を差し出した手は、微かに、だけど確かに震えていた。
とっさのことだったとはいえ、利き手を怪我したのは良くなかったな、と一人で反省する。せっかく持ってきて貰ったお見舞いのお菓子、今すっごい食べにくいし。

「あの子たち、今何してるんだろうね」

そう言いながら、別の箱に収められたチョコレートの一つをつまむ。ミルクチョコレートに刻まれた星のマークを見て、あの日真昼の空に消えた銃弾と、事の顛末をぼんやりと思い返す。

 Webクローラを使って、例の動画はどうにかなかったことにできた。流行病みたいな新世界へのおまじないは、こうして誰からも忘れ去られて、ひそやかに消えていく。もうちょっと広がってたら危なかったけど、今回は限定的な年齢への流行だったから大事にはならなかったらしい。

弓ちゃんたち構成員の身柄は、財団が保護している。
懐中銃協会については一応捜査が入るみたいだけど、今のところは辿り着けない可能性の方が高い、と上司が言っていた。弓ちゃんに懐中銃協会について教えたアカウントは行方知れずだし、銃の出処もはっきりしてないから。

 それでも、きっともう大丈夫。あの子たちは、光の中で生きていける。

「たぶん、大丈夫だよ……それでその、どうしたの?」

「どうって?」

 オレンジと茶色が二層になったチョコレートを口に運びながら、羽月が聞いてきた。薄緑の瞳から興味津々、って感情を隠せていない。私が言うのもなんだけど、これじゃ潜入捜査は無理だろう。

「ほら、あのドレス」

「あぁ、雨矢さんとこで預かってもらってるけど」

「も、勿体ない……」

羽月はがくりとうなだれている。なんだか、私より落ち込んでいる気がする。

「お袖留めとか汚しちゃったから、綺麗にしてもらってるってだけ。動けるようになったら、お詫びのチョコレートでも持って受け取りに行くつもり」

「本当?」

「だってオートクチュールだよ?せっかく私に合わせて仕立ててもらったんだから、これ限りにするの勿体ないじゃん」

捜査のために色々仕込んではあったけど、それでもあれは私にとって初めてのロリィタで、かけがえのない一着なのだから。雨矢技師からも、今後の私的な使用については許可を貰っているし。

 嬉しそうな羽月をよそに、チョコレート以外も食べよう、と病室のサイドテーブルに手を伸ばした。少し迷って、缶の中のクッキーを手に取る。苺のジャムが、つやつやと眩しく光っている。

服には人生が宿る。着る度に、記憶が蘇るから。

赤いギンガムチェックを、苺を見る度に。お袖留めを両手に着ける度に。私はきっと、あの夢のように素敵なお茶会と、真昼の空の下で泣き崩れた少女のことを思い出すのだろう。

「……じゃあ、今度、着たところ見せてね」

そう言って笑う、優しい友達のことも。

「うん」

世界にたった一着のロリィタを縫い上げてくれた、頼もしい技師のことも。

クッキーを口に運ぶ。さくり、という音と共に、生地は軽く口の中でほどけた。甘酸っぱいジャムが軽やかなクッキーを引き立てていて、何だか泣きたくなるほど美味しかった。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。