人類は二種類に分けられる。一神教と多神教でもなく、白色と有色でもなく、男と女でも文系と理系でもない。「新人類ニュー」と「旧人類オールド」。それがこの時代の常識。
そして残念なことに、オールドは少数派マイノリティである。
サイトへと向かう自動運転車の中で、根本は窓越しに外を眺めていた。薄暗い空、無彩色の建物の群れ。ぽつ、ぽつ、と車窓に雨粒が増えていく。朝から曇天で嫌な予感がしていたが、とうとう降ってきてしまったか。
手持ち無沙汰な指先で、自前の長髪の先をくるくると弄ぶ。ブリーチで傷んだ白い髪。そろそろ切るべきかな、と思う。
『……続きまして、<芙蓉>機利用の普及に関するニュースです。今月からついに、国外長距離移動の交通手段として40%以上のシェア率を達成しました。50年代の通信革命により実用化されたこの技術は──』
相変わらず、車内のモニターには気の滅入るようなニュースばかりが流れている。
──嫌な時代になったものだ。
芙蓉は、近年急速に利用人口が拡大している日本産のテレポート装置だ。空港よりも多く、駅よりも少ない数の転送港が全国に分布しており、芙蓉はそこに設置されている。人々の言葉の使い方はいい加減なものだから、人体の転送サービス自体のことも芙蓉と呼ぶことがある。ヨーロッパの<タラリア>機やアメリカの<タイガー>機などと連携して世界中の転送ネットワークを形成している、日本の最先端技術の一つ。
けれど、あんな転送装置を躊躇なく使えるのはニューだけだ。これでまた、オールドとニューの間の分断が深くなる。技術面の分断は、今後もきっと大きくなるばかりだろう。無神経な明るさが溢れるモニターから目を逸らすように、根本は車窓を見続ける。
雨の日の長距離移動ほど気の滅入ることはないが、あんなものを使うことに比べれば、自分はこちらの方がいい。
窓ガラスは結露で曇っていた。車の外はさぞかし寒いのだろう。指先で一本線を引くように結露を拭えば、そこだけが切り取られたかのように鮮明になる。窓の外には、遠く、埋立地の上のサイトが見えた。サイトは細い海を隔てて孤高を保っている。そこは根本の職場であり、今の住所でもあった。
このサイトと職員の居住施設は、全て埋立地の上に建設されている。従業員のほぼ全てがオールドだから、こちらとあちらの岸を隔てる細い海は、さながらニューとオールドの分断のようだった。彼岸と此岸は、死後の世界よりも遠い。少なくとも、根本にとっては、そう思えた。
車が角を曲がると、隣の席に置いた紙袋が軽く揺れた。それにちらりと目を向ける。
──おそらく私は、里帰りする最後の世代のオールドなのだろう。
紙袋の中には、手料理が満杯に詰め込まれたタッパーが入っている。唐揚げと、卵焼きと、砂糖をたっぷり使った南瓜の甘煮。十二歳の頃の自分が好きだったものだ。今も嫌いではないけれど、昔ほど甘い味付けが好きなわけではない。
「ニュー」の家族たちは帰省のたびに、子供の頃に好きだった料理を作って迎えてくれる。常に変わらぬ笑顔と共に。十二の頃に家を出てから、ずっと。
会話や物語と違って、味覚や嗅覚、触覚は、感情や文脈を必要としない。だから、ニュー・オールド間での差異が少ない。私と家族が共有できる、数少ないものの一つが料理だった。
あの家族の血を引く人間として、半年に一度、顔を見に行っている。見ているだけだ。まともな会話などできていない。
言葉は通じる。同じ日本語を話している。だが話が通じない。まるで不揃いの歯車を無理に噛み合わせようとしているかのように、時に空転し、時に詰まり、まともな会話は成り立たない。事実の共有はできても、それにどんな色を見ているかが、根本的に異なっている。
そうして、里帰りの度に、彼我の間に横たわる断絶を実感するのだ。
私は家族が苦手だった。彼らの笑顔が苦手だった。彼らもきっと、それをわかっていたのだろうと思う。
窓ガラスに映る自分の顔は、目元も口元も家族によく似ていた。あの薄ら寒い笑顔以外の全てが。
◇ ◇ ◇
紙袋を片手に寮に戻る。寒さのせいで吐く息が白く曇った。味気ない色の壁が続く廊下の先に、知り合いらしき姿が見えた。足音が聞こえたらしく、その人影が振り向く。
「──あ。根本さん、おかえり」
彼女はこちらを見た途端に、ぱっと顔を華やがせた。佐倉佳織。今年度から入ってきた、同じ階に住む隣人。この寮の人間の中でも、最近よく会話する相手が彼女だった。
私たちが話すようになったきっかけは、些細で、少し奇妙なものだった。部屋が隣だったわけでも、仕事内容が近いわけでもない。オールドであることは共通しているが、職員のほとんどがオールドであるこの財団では、それは共通点と呼べる代物ではない。
「ただいま」
「実家、行ってたんだっけ」
「そう。作り置き、もらっちゃった」
紙袋を軽く挙げて見せて、「すぐ戻るから」と言って自宅に入る。狭い自宅の中に鎮座する冷蔵庫の中にタッパー全てを押し込んで、すぐに廊下に戻った。根本が部屋の鍵を閉めるやいなや、佐倉はすぐに話しかけてきた。
「今朝のニュース、見た? 芙蓉の」
「見た。シェア率が30……いや、40%だっけ」
「あんなの、ニューにしか使えないのにね。……あれがスタンダードになったら、どうしよう」
スクラップ&ビルド。あのテレポート装置の原理を端的に表現するとそうなる。
物質を高速で運ぶのは難しい。まして、人体のような脆いものならば尚更だ。しかし、情報を高速で伝達する技術ならば既に確立されていた。
恐怖を持たないニューが、時空を曲げるワープ装置ではなく、このテレポート装置を開発したのは、必然だったのだろう。
「送信地点」で人体をスキャンしてデータ化し、「転送先」で再構築する。
自分を破壊して、目標地点に別人を作るのだ。昔から「スワンプマン問題」と言われていたはずのそれを、ニューたちは合理性ひとつで軽々と飛び越えてしまった。
ちなみに、スキャンの過程でオリジナルが破壊されてしまうのは、技術的な理由と、同一人物が二人になることによる問題を避けるためという、二点によるものらしい。転送前の自己の死は気にしないのに、同一人物が二人いることにいる問題は気にするという、ニューの感覚はやはりよくわからない。
「今の勢いだと、……信じたくはないけど、そうなるかもしれないよね。本当に、嫌だけど、ね」
家族の元に戻って、その言葉に耳を傾けて、あのテレポート装置を使えてしまう彼らの感性を理解しようとしてみたけれど、やはり、今回も理解はできなかった。
言葉はわかる。けれど、感情がついてこない。理解できたなら楽だったのに。
「まあ、コスト的な面でも、すぐに飛行機がなくなるなんてことはないだろうし。少なくとも私たちの生きている間では、両方使えるままなんじゃないかな、って、……まあ、願望かもしれないけど」
「──何の話?」
背後から降ってきた第三の声に、根本は驚いて振り向いた。その顔を見て声の主を認知する。同じ階の住人の秋山だ。
「……例の芙蓉についての話をしていました」
佐倉は曖昧な笑みを浮かべながら、秋山の問いに答える。
「あれがスタンダードな移動手段になったら困るねって話してたんですよ、秋山さん」
根本はさりげなく、彼の名前を呼んだ。
秋山のためではなく、佐倉のために。
「ああ、その話。随分話題になっていたからね。嫌な時代だよ、全く」
秋山はそう言って、するりと脇を抜けていった。少し高めのその背が遠ざかっていくのを見送る。
「……ありがと」
いつものように、小さなお礼の声が聞こえた。佐倉の声。
彼女は相貌失認だ。人の顔の区別ができない、失認の一種を抱えている。
◇ ◇ ◇
移動で疲れたから、と言って別れ、ようやく自室に腰を落ち着けた。ベッドに座り、そのまま横に倒れ込む。ブラウスが皺になるかもしれないな、と頭の片隅で思った。
寝返りを打てば、長く伸びた自分の白い髪が視界に入った。美容院に行くのを先延ばしにしていたせいで、状態が悪い。色もくすみ、元は綺麗な白だったはずなのに黄ばんできてしまっている。少し前に髪色について上司から苦言を呈されたことも思い出された。
目を閉じ、嫌なことを忘れようと、ふう、と息を吐く。
ときに鬱陶しいほどの長さのこれが、佐倉と話をするようになったきっかけだった。
単純な話だ。
佐倉は顔を覚えられない。昨日会話した人間が誰なのかわからない。けれど、このサイトに、白い長髪の人間は一人しかいない。白い髪に鮮やかな赤いスカートという色彩は、きっとよく目立っていたことだろう。
だから彼女は、簡単に見分けがつく根本に話しかけてくるのだ。
悪い気はしない。人と人の距離が狭まるのに、そんなきっかけもあるのか、と、少し珍しく思っただけで。
目を開ける。合理性を尊ぶ財団らしい、柔らかさのかけらもない色の壁と天井。
昔は、財団とは一般市民から秘された存在だったと聞く。人々が耐えられない恐怖、危険の予兆を、ひっそりとベールの向こうに閉じ込めていたのだという。恐るべき現実から人々の目を塞ぎ、この世に科学で照らせぬものなど何もないと、そう言い聞かせていたのだと。
けれど、時代は変わった。
人類が恐怖心から脱却したならば、パニックなど起こりようはずもない。隠蔽のコストとメリットが崩れた結果、財団の存在は公のものとなった。だから根本の家族は根本の職場のことを知っているし、彼らに話せない情報すらもさほど多くはない。
今朝方、別れを告げてきた家族の顔を思い返す。のっぺりとした同じ笑顔を浮かべた、あの幸福そうな人々。
オールドは遺伝しない。だからオールドである根本の両親も兄弟も、全員がニューだ。根本だけが旧世代の世界に取り残されている。
ニューの彼らは幸福しか有さない。
ニュー。正式には定型感情保持者。歴史の教科書によれば2052年に出現し、瞬く間に世界中に広がったという、新しい特性を獲得した人類。──否、古い特性を捨て去ったと言うのが正しいか。
その全てが起こったのは、根本が生まれる30年以上も前のことだ。2052年── 一般に「更新年」と呼ばれるその年に、人類は大きな飛躍を遂げた。この世界の大半の人間は、怒りや恐怖、憎しみといった「負の感情」を持たなくなった。この飛躍の原因もまた財団が関わるような「異常」である。詰まるところ過去の財団は失敗したのだ。
それが結果として良かったのか悪かったのかについては、判断する人によって異なるだろう。けれども、大半の人は、良い変化だったと捉えているらしい。
更新年の前、この国の若者の最多死因は自殺だったらしい。この世に倦んで命を絶つ人間がいたのだという。この時代のオールドと同じように、息苦しさや辛さを感じられた彼らは、自ら死んでしまっていたらしい。
狩猟採集をしていた時代では、人間を殺すのは外敵だった。その後の時代には、人間が人間を殺す時代もあれば、病が猛威を振るった時代もあった。しかしそれらは文明や科学の発展の中で消えていった。
最後に残った死因が、人間に内在する『苦しさを感じられる能力』だったのだ。更新年直前の若者の自殺率は、それを如実に表している。
不幸を感じやすいこと、不幸を感じ取れてしまうことは、近代化されたこの社会では不要な、むしろ生存に悪影響をもたらす性質になった。今ではもう、ほとんどの市民に危機を感じる能力は必要ない。安全は人工知能や技術が保証してくれる。発達した人工知能に、リスク管理能力も責任も外注できてしまう。かつては生きるために必要だったはずの「負の感情」は、文明や社会といった急激な環境の変化によって、今や無用の長物に成り果てた。
だからあの更新年は、人類が高度な科学文明社会に適応した記念すべき年なのだと──そう、学校では教えられている。
最大多数の最大幸福が、ようやく完成されたのだと。
自分がニューでないことを恨むべきなのか、人類が進化してしまったこの世界を恨むべきなのか、今もわからないままだ。
小さい頃は家族と同じになりたかった。どうして自分だけがあの笑顔を浮かべられないのだろうと思っていた。転べば泣き、弟に玩具を取られては癇癪を起こす私を、家族は扱いかねているようだった。怒りも嫌悪もしなくとも、困ることや悩むことはできるらしい。感情ではなく、思考の状態であるからだろう。その上でやはり、その「悩み」の思考は深刻さを欠いてもいたが。
思春期に片足を突っ込み、益々孤独感や自己嫌悪を募らせていた頃に、政府は新しい政策を打ち出した。『オールド児童の健全な育成のため』という名目で、オールドのみを集めた全寮制の学校を作り、全てのオールドの子供をそこに収容せよと言った。
オールド──「負性感情保持者」は、障害の一種として指定されている。公的に配慮を受けられる立場だ。同時に社会にとって、ある意味では資源でもある。恐怖心を持つオールドでなければならない仕事というものは、この現代にも僅かながら残っている。その筆頭が現場で働く財団職員なのは、言うまでも無い。
そして資源であるオールドたちが、ニューに囲まれた生活の中で時に自死してしまうのは、彼らにとっても大きな問題であったらしい。
私はそこで救われた。
あの学校で、初めて、他人が「共感できるもの」なのだと知った。古い本の中のキャラクターではない、生身の人間の他人を、自分と同じ生き物だと思えた。
他人の目から涙が流れるのを見た。恥ずかしさで赤くなる顔を見た。意見の食い違いで怒る同級生がいた。そこにいたのは私と同じ感情を共有できる人々だった。
私の頭がおかしいのではないと、ようやく、自分を肯定できた。
人と話すのが楽しかった。あれが人生の絶頂であったようにも思う。
オールドは人口の約1%弱。中学校だけで、全国各地に約50校。高校もほぼ同数、ただしこちらは出身地ではなく学力や適正による振り分けがなされるため、同じ中学出身者はほとんどいなかった。
中学と高校の6年間は、ずっと仲間に囲まれていられた。級友や先生だけでなく、教科書やニュース、図書館の蔵書からも、ニューの要素が丁寧に排除されていた。あれはオールドの最後の楽園だった。
あの環境にずっといられていたら良かったのに、と思う。
専門性の高くなる大学では、さすがにオールドだけを集めることが不可能なため、根本たちは「一般社会」へと放たれ、ニューの学生たちに混じることになった。就職後はまたオールドが過半数の環境に戻れたものの、大人になって遠くまで見えるようになった世界の中では、オールドがいかに少数派なのかを日々痛感する。
平等を実現するシステムの完成によって、怒りも人類にとって不要になった。自らの手で、自らの命を、権利を、守ろうとする必要はもうない。余分な感情だ。
それらを捨て去ったのが今の正常な人間の姿だ。
向こう岸の人々はあまりに遠くて、個々の判別すら難しい。彼らは互いの個性を認識できているらしいのだが、こちら側からでは、あまりに大きな隔たりのせいで、どれも等しく区別がつかない。個性なき無数の人影にしか見えない。
◇ ◇ ◇
年末の帰省からもう一ヶ月が経つ。新年の余韻などとうに失われたサイトでは、今日も慌ただしく一日が過ぎ去った。
定時を過ぎた空は、もう、こんなにも暗い。
「もう、新作出ないと思ってたのにね」
「うん。まさかこんなところでファン仲間に巡り会えるとも思っていなかったし」
「私も。……趣味が同じ仲間が近くにいるのって、新鮮な感じ。嬉しいな」
佐倉と二人、サイト内の空中廊下を歩く。窓の外には、住宅地に灯る明かりがよく見えた。
空中廊下は第二北棟に接続している。サイトの中でも比較的新しく、吹き抜けの綺麗な建物だ。吹き抜け部分に面した通路には、肩までの高さの柵と強化ガラスの壁が張り巡らされている。誤って人が落ちることのない構造。そこから伸びる階段も同様に、確実すぎるほどの安全が保障されている。
この社会からは事故という現象が丁寧に取り除かれている。
通路、建物には柵や壁があるから、高所への恐怖は必要ない。
自動運転のおかげで、交通事故はなくなった。恐怖がなくとも道でうっかり死ぬことはない。
安全な社会では、恐怖は不要だ。それとも、恐怖を持たないからこそ、システム面での安全を重視しているのか。
始まりは前者だったのだろうが、今は後者なのだろう。
北棟の2階、食堂を通り過ぎたところに、目当ての書店があった。
「今回のは館ものなんだってね。このジャンル、実はあんまり詳しくなくて。有名どころ、読んでおいた方が良かったかな?」
「『そして誰もいなくなった』とか? ……ちょっと古すぎるか。まあ、あの人の作品なら既存作品を知らなくても楽しめると思うけれど」
「でも、オマージュとか好きな人でしょ。小ネタ、せっかくなら全部理解したいし」
「確かに」
こぢんまりとした店だ。一般書、漫画、旅行ガイドブック、画集、専門書。限られた数の棚の中にそれらが隙間なく収められている。電子書籍全盛の時代ではあるが、紙の本にも一定の需要があるのだ。特に一般書や画集に関しては、収集という側面から紙を好む人間はニュー・オールド問わず一定の数がいるらしかった。
少し足を伸ばして、大型ショッピングセンターの本屋に行った方が、よほど品揃えが良い。──けれども、ここの書店には、そこにはない特色があった。
「あった」
入り口のすぐ近くの棚に平積みされていた本を手に取る。棚の上部には「オールド」というジャンル名が書いてあった。
オールド向けのコーナーがあるのは、サイト内店舗のようにオールドの利用者が多い書店ぐらいなものだ。
映画も小説もゲームも歌も、物語という要素を含む娯楽の文化は完全に分断されている。物語とはつまり、人格を持つ存在の話だ。オールドはニューの感覚を解せず、ニューもオールドの感覚を解せない。故にお互いの紡ぐ物語もまた、お互いの理解の範疇の外であり、そして当然に「面白さ」の範疇の外でもあった。
感情の起伏の乏しい物語、苦悩なき者が書いた物語をどう楽しめば良いのだろう。
たまにならば珍味として良いかもしれないが、それしかないのでは話は変わる。自分は人間の物語が読みたかった。喜怒哀楽の全てを有する、同じ人間の物語が。
各々、一冊ずつ手に取って、支払いを済ませる。
オールド向けの作品は消費者が限られるため、発行部数が少なく、そのために割高になりがちだ。それでも、それがあること自体が大変に嬉しいことだった。
片手の中に収まる、こんなにも小さく軽い本が、今はとても鮮やかで貴重なものに見えた。しかも今は、同じ本を読む友人までもいる。
「読み終わったら、感想聞かせてね」
「うん。お互い、ネタバレには注意で!」
そう言ってはにかむ佐倉の顔も、同じように、眩しいほどに輝いて見えた。
◇ ◇ ◇
三月。少し暖かくなってきた風を感じながら、二人で街を歩く。お気に入りの臙脂色のコートを軽く羽織るだけで十分に快適だった。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
隣を歩く佐倉が沈んだ顔をしていることに気づいて、思わず声に出してしまった。
「ごめん、体調は平気。ちょっと悩み事……次の出張先に、知り合い、がいるらしくて。昨日名簿を読んだら、見覚えのある名前があったから。全然関係ない考え事しちゃってて、ごめんね」
罰の悪そうな顔をした佐倉は、大丈夫、とでも言うように、顔の前で軽く手を振った。
「そんなに苦手な人なの?」
「ううん、いい人。ただ、私はあの人の顔を覚えてないから……気づけないし、もし話しかけてもらえたとしても、自己紹介されるまでわからないのが、申し訳なくて」
「なら、相貌失認です、って最初に言っておけば大丈夫だよ。それで怒る方がおかしいのだし。それに、もし話したいぐらい気の合った人なら、いっそ先にメールで伝えて『見つけたら声かけて』って言ってみるのもいんじゃないかな」
「……そう、だね」
佐倉は眉尻を下げたまま、力ない笑顔を見せた。この友人は気の良い人だけれど、遠慮がちというか、妙に自信なさげなところが玉に瑕だった。
「……ん、いい匂い」
目当ての食事処に近づけば、食欲を唆る香りが鼻の中を満たした。ハンバーグ・ステーキ専門店。溢れ出る肉汁を幻視するほどの煙の匂いが、脳髄に突き刺さる。
昼時よりも少し早めの時間に着いたおかげで、店の中は空いていた。待つことなく奥の席へと案内される。
今どき珍しい木の床板とテーブルは、肉の油が染み込んで光沢を持っていた。スカートに皺がつかないように、気をつけて座る。
対面に座った佐倉の表情も、肉の香りにあてられたのだろう、先ほどの暗さが抜け落ちていた。それにほっとする。
「実は、朝ごはん軽めにしてきたんだ。昼のお肉が楽しみすぎて」
「私も」
待ちきれないとばかりに、卓上に置かれている紙のメニュー表を見る。目当てはもちろん、看板メニューの特製ハンバーグだ。サイズ表やトッピング欄、その他のオプションを眺めれば、どれも美味しそうだと目移りする。
ここはサイトからほど近い繁華街だ。客や店員の顔ぶれは全て、判を押したような笑顔。オールドは他に誰もいない。けれども、ニューとオールドの味覚はさほど変わらないから、ニューが高評価をつけた店は、大体が私たちにとっても「当たり」である。
メニュー表は紙質からして、急拵えで印刷したことが見て取れた。予約時にBMIユーザーではないと伝えておいて正解だったようだ。でなければ注文に苦労したことだろう。
「チーズトッピングにする」
「私はガーリックライスつけちゃおう」
「いいね、それ」
腕のデバイスから手早く注文を送信して、椅子に深く腰を落ち着ける。ふう、と深い息を一つ。
今日のメインディッシュはもちろん肉だ。けれども、きっかけと主目的はそこにはない。
赤いフレームの伊達メガネを、くい、と目元で押し上げる。
「……読み終わった、んだよね?」
「勿論」
佐倉の顔に浮かぶ満足げな笑みは、あの幸福者たちのものとは全く違う形をしていた。
「あのワインセラーのトリック凄かったよね……! あのミスリードに完全に引っかかっちゃってて、終盤はもう、……完敗、って感じで」
「本当に! 私も最終章読んでて『やられた』って思った。伏線張るの巧すぎるよね!? 佐伯さんって本当に同じ人間!? あんなトリック思いつくなんて、頭の構造違うと思うんだけど」
新刊のミステリの核心にも触れる話だから、一応の配慮として、声は潜めている。一応だ。ここにはニューの客と店員しかおらず、オールドの書物を読むはずがない。そしてニューたちは「ネタバレに怒る」という感情も持ち合わせていない。
「心情描写も、佐伯さんの作品だから信頼はしてたんだけど、特に橘さんの独白が刺さって」
「わかるわかる。解像度高すぎるよね。年齢性別問わず、色んな登場人物をあの細やかさで書けるなんてさ、佐伯さんって実は一人じゃなくて数人のチームなんじゃないかなって疑ってるもん」
「ありそう。というか、そうであってほしい。じゃなきゃ、AIって言われても納得できるかも」
話が弾む。共感できる喜び、新しい視点から解釈する楽しさ。最初の興奮を通り越すと、より細部への言及へと話題が移っていった。根本からは出てこなかった感想、見えていなかったメタファーが、佐倉の口から飛び出してくる。予想外のそれらは、けれど、納得できるものばかりだった。昨日よりも物語の奥行きが見えるようになった気がして、とても嬉しくなる。同じ本について語り合える友人がいることは、なんと幸せなことだろう。
店の奥から、肉を焼く音が聞こえた。
この店は、内装も、ホームページのデザインも、いかにもニューらしい雰囲気でまとめられている。鮮やかなのにどこか平坦な印象を抱かせる、独特な色使い。
今話している小説がそうであるように、ニューとオールドの違いが最も顕著に表れるのは、小説や映像作品などの物語を含む作品だ。しかし、その他の創造物やデザインなどにも、オールドとニューの感性の違いは歴然と表れてくるものだった。
ニューが描く絵とオールドが描く絵は、同じ画材、同じ技法の延長線上にあるはずなのに、どこか違っている。その違いは、神話や小説の一部を切り取ったような物語性のある絵だけでなく、単純な図形から構成されるチラシなどのデザインなどにも存在していた。
オールドとニューとの間には、かくも超えがたい断絶がある。同じ形、同じ仕組みの体の中にいるのに、たった少し、脳の機能の一部が異なっているだけで、こんなにも隔たれている。
作品を作るという文化は共有していても、オールドとニューは決して交わることができない。
──それでも、数少ない、共有できるものもある。
店員が運んできたプレートの上には、余熱でぱちぱちと弾けるハンバーグが載っていた。その上でとろける濃い黄色のチーズと、艶のあるデミグラスソース。熱く柔らかな肉にナイフを沈み込ませば、泉のように肉汁が溢れ出す。
一口の大きさに切り取ったそれを、軽く吹いて冷まして、そっと口の中に含んだ。
──ニューの作る食事は、私でも美味しく感じられる。
◇ ◇ ◇
調理台のつまみを捻って、コンロの火を調整する。青白い火が程よい大きさに窄まる。
クーラーが強く効いた部屋の中で加熱調理をするのは贅沢なことだと思う。窓の外の蝉の大合唱を聞きながら、根本はぎこちない手つきで食材をフライパンに入れた。玉ねぎの破片がひとつ、フライパンの外に落ちる。
左隣では父がラタトゥーユをことことと煮込んでいる。健康的で食欲をそそる、酸味のある匂いが鼻腔をくすぐる。
この盆の帰省で一緒に食事を作ることにしたのは、多分、気まぐれだ。
根本はあまり料理が得意ではない。昔から、キッチンで親の隣で調理を手伝うのが苦手だった。隣に立っている間は、噛み合わない会話から逃げられなかったから。
この家のキッチンは綺麗に整理されている。使いやすく並べられた調理器具、小さな棚の中にぎっしりと詰まったスパイスの瓶。根本が帰るたびに彼らは、子供時代の好物をたくさん作ってくれる。大人になった今では、唐揚げを沢山食べると胃もたれしてしまうのに。
それでも、何故か、「いらない」の一言が言えなかった。自分でも理由がわからないまま、きっと今回もまた、大量の唐揚げが入ったタッパーと共にサイトへの帰路につくのだろう。
自分は家族と過ごした幼少の日を懐かしんでいるのだろうか。わからない。
わからないけれど、否、多分、わからないから、家族と料理を作ることにした。味覚は数少ない、家族と共有できるはずの感覚だから。
もし、この世を快・不快の物差しで測るとするならば、彼らにはそもそも不快の概念が存在しない。その一方で、快の多寡の概念は存在している。今までの自分はきっと、彼らにとってさほど快い相手ではなかっただろう。自分にとってニューが理解不可能な異物であったように、彼らにとっても自分は異物だった。ニュー故に嫌うこともしていないのだろうが、積極的に招きたい客だったとも思えない。
だからせめて、自分が理解できる、相手とも共有できる幸福として、料理を作ってみようと思った。
鶏肉が焦げ付かないように、菜箸で適度に動かす。桜色から不透明な白へ、肉の表面の色が熱により変化していく。不可逆な変化。
財団の学者曰く、複数の世界で同時多発的に、異なる要因によって、「負性感情からの脱却」が起こったらしい。
並行世界の専門家ではない根本は、詳しいことは知らない。ただ、この世界が極めて幸運かつ特異な例であったらしいことは知っている。不幸中の幸いとでも呼ぶべきか。観測事実によると、そもそも、人類が負性感情から脱却した世界の方が少数派なのだという。そしてそのほとんどにおいて、文明・社会と呼べるものは崩れ落ちたらしい。
この世界が崩壊を免れた要因は複数あるが、主たるものはたった二つであるという。一つは、技術の発達により高度に安全が確保されており、生存のための恐怖心が不要になっていたこと。もう一つは、彼らが至った幸福の境地に、わずかながらも勾配が残っていたこと。
特に後者が、他の世界ではあまり見られなかった現象であるらしい。
快の多寡が存在するゆえに、「最大多数の最大幸福」という功利主義の原則がこの社会にも残っている。人類の更新の前後でも維持されている数少ない概念の一つ。これがきっと、現在まで曲がりなりにもニューとオールドが同じ土地で共存できている大きな理由なのだろう。家を離れるまでの、私と家族のように。
「7月にフランス旅行に行った。話したっけ?」
お玉で鍋の中をかき混ぜながら、父はふと思いついたかのように口を開いた。
「ううん、聞いてないよ」
「観光する場所がたくさんあって楽しかった。里帆も行ってみるといい。オールドにも人気らしいからな」
「時間ができて、気が向いたら、行くかも。今は仕事が忙しいから。父さんは何を見てきたの?」
そう尋ねると、父はすっと視線を壁へと向けた。遠くを見ているかのような目で、何もないはずの一点を見つめている。
父が見ているのは壁ではない。BMIを介して、網膜にも映っていない画像データを見ている。
「そうだな……一言では言えないぐらいに、色々見て回った。良い写真を沢山撮れたから見せよう。……里帆はまだBMIを入れていないんだったか?」
「うん。……苦手だから。壁に投影してもらえる?」
「オールドは不便だな」
キッチンの壁に、両親がパリで撮ったらしい写真が投影される。根本はフランスに行ったことなどなかったが、エッフェル塔は写真で見たことがあるからすぐにわかる。これをフランスの象徴のように感じるのは、ニューも同じらしい。
脳-機械 接続技術Brain machine interface、略称BMIは十三年前に爆発的に普及した。
BMIは文字通り、脳と機械とを接続する技術だ。脳波によって機械を動かしたり、あるいは脳に直接刺激を与えることで感覚器を通さずに文字や画像を読むことができる。前は頭部に外装するタイプのものも存在していたようだが、精度の低さから主流になることはなかった。今は侵襲型──脳の内部に直接埋め込む形式のものを大多数の人類が使用している。
彼らの脳は直接、この高度に情報化された社会のインターネットと繋がっている。料理店の注文システムすらもBMIを前提に作られている有様だ。
BMIのユーザー間で使用される脳同士の通信は、言語よりも遥かに高効率だ。映像、音、図形イメージを、瞬時に相手に伝えることができるらしい。
加えて、BMIは外部だけではなく、体内の分子機械とも複雑な情報網を形成している。体内に常駐する分子機械群は、病気の監視・治療に使われるほか、個人の識別タグとしても機能し、クレジットカードの代わりにすらなっている。
オールドの多くは、この高度な情報化社会についていけていない。
理由は恐れだ。
自分の体を不可侵の聖域にしたいという欲求。それが私たちの中に深く根を張っている。オールド学校時代に恐怖による慎重さを殊の外奨励されてきていたのも、それを助長しているのだろう。
BMIや肉体の改造に抵抗を示さないオールドはごく僅かだ。導入したオールドもいなくはないが、大抵は、平均的なニューよりもその改造の程度は有意に低い。
私たちは時代に取り残されている。
「角膜内分子機械アイ・モルぐらいは入れた方が便利なんじゃないか」
「……ごめんなさい。でも、体をいじるの、苦手だから」
初期はコンタクト型の拡張現実用デバイスもあったらしいが、現在では旧式すぎて、とうに多くのシステムで対応範囲外になってしまっている。
それに、もし恐怖がなかったとしても、この技術を受け入れたかは疑問だ。この体を情報の海に繋げたとしても、どうせその海はニューのためのものなのだから。広告もデザインも歌も物語も、全てが私たちのためのものではない情報の洪水に飛び込んだところで、余計に疎外感が増すだけだ。不快さが便利さを上回るだろうことが目に見えている。
身の回りのもの全て、文化的なものの全てが、ニューのために作られている。
私たちのためにではなく。
私たちは想定されていない。
この社会は私たちのためにはできていない。
技術も文明も、多数派が作り、多数派が利用する。
古い本には「持つ者と持たざる者」という言い回しが出てくる。
この現代では逆だ。負性の感情を「持たざる者」であるニューの方が遥か遠くへと飛べる。感情という重しをくくりつけたままのオールドたちを置き去りにして、彼らは高く遠くへと飛び立っている。
私たちは貴重な人的資源だ。死を忌避できる私たちは、ニューがこなすことのできない危険な業務に割り当てられている。だから私たちは、多感な思春期にニュー社会での異物感で死なないように保護されている。
けれど、文化と文明を享受する「人類」ではない。
ふと、思考が一つの恐れに行き当たる。
「……あのさ、父さん。フランスには何で行ったの? 飛行機?」
「今話題の芙蓉テレポートでだよ。便利な時代になったものだね」
壁の写真から、手元のフライパンに視線を落とす。どうしても顔を上げられなかった。写真の中の、そして隣に立つ父の平坦な笑顔を見ることができなかった。数秒前まで、平気で見ていたはずのものなのに。
ニューの父ならば使うだろう、ということは頭ではわかっていた。
けれど、目の前の人間に平然と「使った」と言われることの意味を、自分はまだわかっていなかったらしい。
「……高かったんじゃないの?」
「まあ、多少はね。でもほら、年末の時に言ったかもしれないけど、最近は腰が痛くて困っていたから」
あの悍ましいテレポート装置は、最近は医療にも使われるようになったと聞く。
骨折などの負傷の治癒、欠損部位の復元、癌などの切除、毒物や病原菌の除去など、病院との連携によって様々に利用され始めている。原理からして一から体を作っているわけだから、ついでに悪いところを治そうというのは、至極当然の発想だったのだろう。
もはや転送前後の同一性が失われているようにも思うのだが、ニューたちは全く頓着していない。
隣の人間は私の知る父だろうか。この前の帰省で会った人間と同一人物なのだろうか。そう言ってしまって良いのか。
スワンプマン問題。哲学的な思考実験は、子供の頃は好きだった。けれど、思考実験だったから良かったのだ。隣に立つ存在に当てはめて考えるものではない。何故、現実が仮定に追いついてしまったのだろう。
軽く目を瞑り、息を吐く。これ以上は考えたくない。
興味深いことに、法律上の理由で、病院に装置自体を設置することができないそうだった。治安の面からすると瞬間移動装置というものに慎重にならねばならないという理屈はわかるが、あの幸福な頭の人間たちを警戒し続けている行政AIの頑固ぶりが少しおかしくも感じられる。
ちなみに負性感情症オールドは治すべき疾患ではなく、社会にとって貴重な資質であり人材であるため、他の精神疾患を併発でもしない限り、「治療」の認可が降りないそうだ。これを喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、よくわからない。少なくとも今の自分が使う未来は見えないが、将来的に欲する可能性もある。
「おかげで体も楽になって、旅行を満喫できた。素晴らしい技術だよ、あれは。里帆も今度、使ってみたらどうだい?」
満足げな口調で父は言う。
「良かったね。旅行、楽しめて。……でも、オールドは、ああいうのも苦手だから。私は多分、使えないかな」
「生活補助AIバトラーも安全性が高いって評価してるのに?」
「嫌なものは嫌なの。……どんなに安全だと言われても」
オールドにとっては、芙蓉は死へ繋がる装置でしかない。けれど、将来のニューにとっては電車や飛行機と同じような当たり前の交通手段になるのだろう。BMIやナノマシンを利用した身体改造のように、当たり前の技術に。
◇ ◇ ◇
「佐倉さんは多分、これも好きだと思う」
サイト内のカフェテリア。チョコクロワッサンのお供にコーヒーを飲みながら、根本は向かいに座る佐倉にタブレット端末を見せた。サスペンス映画のパッケージ画像が表示されている。更新年の前に制作された、だいぶ古い作品だが、根本のお気に入りの一つだった。
「うーん……ごめん、実写映画は苦手で」
「そう?」
「ほら、顔の区別がつかなくて、誰が誰だかわからなくなっちゃうから。髪型とか体格とか服装がよほど特徴的ならいいんだけれどね。アニメならデフォルメが効いてるから私でも楽しめるのだけど」
「ふうん」
オールド向けの作品は数が少ない。それに、作者がオールドであったとしても、必ずしも自分の好みの作風であるわけでもない。だから更新年の前の作品群は、私たちにとって重要な娯楽だ。
同じオールド、同じ年齢だとしても、各個人の感性は違う。根本が好んだ作風がマイナーだったためか、中学や高校時代には同じ熱量で話せる相手がいなかった。
けれど、今は違う。
「時代劇とかは特に地獄だよ。みんな同じような髪型してるから。シーンの切り替えで服が変わったらもう、誰が誰やらって感じ」
「へえ。……それなら、ええと、これとかどうかな。ちょっとマイナーだけど、この前好きだって言ってくれた本の著者が脚本書いたアニメで」
「あ、面白そう」
タブレットを受け取った佐倉は、興味深げな顔であらすじを読み始めた。
佐倉とは驚くほど趣味が合った。年の初めにミステリー小説を一緒に買ったのをきっかけに、お互いに作品をおすすめし合うようになった。月に一度か二度、カフェで作品のプレゼン会をするのが恒例行事になった。ジャンル、メディアは問わず、お互いに「昔好きだった作品」や「最近読んだ面白い本」などを思いつくままに紹介しあっている。佐倉の提案する小説やアニメ映画はどれも根本の好みに合うものばかりだった。逆にお勧めしたものへの感想や分析には鋭いものも多く、次の回に「どうだった?」と聞くのがとても楽しみでならない。月にたった一度か二度の食事会が増えただけなのに、灰色のサイト生活が一気に色鮮やかになった気がした。
サイトでの生活は、色味が乏しい。視覚的な色彩と、精神上の両方の意味で。平日は狭い埋立地の中から一歩も出ることなく、職場と寮を往復している。無機質で無個性な研究棟、収容棟。同じ形、同じ色のドアが続く寮。「近代的で綺麗」と言えば聞こえが良いそれらは、「独房のよう」とも形容できた。
このサイトでの生活が陰鬱に感じられるのは、それだけではない。
危険の予感が常に壁の向こうに感じられるのも、厄介な点だった。文字通りの意味で、分厚い壁の向こうに死が待っているのだ。普段は感じないが、ふとした瞬間に、それをまざまざと感じさせられる。悲惨な死の息遣いが耳元をかすめていく。
つい最近でも、大陸の方のサイトで、収容違反が起きたらしい。顔が潰れた遺体が量産され、胴体も半壊していないものの方が少なく、個人の識別すら困難だったという。
このニュースは一般社会にも流れたらしいが、幸福な人々はおそらく気にも留めていないのだろう。
悲惨な話だ。けれどもその業務災害は、この職場ではありふれた話でもある。
財団に安全な職場はほぼない。程度の差こそあれ、異常の隣に身を置く業務は、常に死が付きまとう。研究職であっても、警備員であっても、在庫管理の事務職であったとしても。ここは人の世にあるべきではない異常を封じているサイトだ。危機を回避するための恐怖心が必要だからこそ、自分たちオールドが雇われているのだ。数少ない、ニューよりもオールドの方が向いている仕事。
──「顔が潰れた遺体」。
職場で聞いた噂話での言い回しを思い出す。
もし誰か大事な人が首切られたとして、私はきっと体ではなく首の方に駆け寄るだろう。人の在処を脳だと思っているから、自己矛盾はない。ではもし、こぼれ落ちた脳と生首があったとして、どちらを故人として認識するだろうか。脳の方が本質だと、頭ではわかっている。けれども、顔のある生首の方に、きっと故人を見出すのではないか。
顔は情報の塊だ。人は顔で人を識別する。顔の動きで感情を表現する。人が人と関わるときに使う最重要のインターフェースの一つであり、己を示す名刺でもある。
人間の情報は顔に結びついている。「開発室の橋本さん」と言われて、真っ先に思い出す情報は顔だ。続いて、細かな仕事内容や肩書きやら上司・部下の関係やらの情報が、付属して思い出される。
──であるならば、と思考する。
顔。相貌失認の佐倉は、人の顔がわからない。人の情報の核であるべきものが欠けた認知とは、どのような世界なのだろう。
向かいに座る佐倉を見る。彼女はコーヒーを啜りながら、まだタブレットで映画のあらすじを読んでいるようだった。
彼女との間にあるテーブルの上には、チョコクロワッサンとコーヒーのセットが2つ並んでいる。片方は根本で、もう片方は佐倉のもの。もはや馴染みとなったこの店では、自分も佐倉も注文する品物が固定化していた。チョコクロワッサンは佐倉のおすすめで食べ始めたものであり、今では根本のお気に入りにもなっていた。いつも同じ食感の、いつも同じ美味しさの商品。区別のない、規格化された食べ物。彼女にとっては、人間もそうなのだろうか。
「……人の顔の区別がつかないって、どんな感じなの? 視力が悪いのとはまた違うんだよね」
す、と佐倉が顔を上げた。
「そうだなあ……私は見分けられる人の感覚の方が理解できないのだけど。だってみんな、目が二つ、鼻が一つ、口が一つでしょう。……敢えて言うなら、黒猫とかスズメを見分けろって言うのに近いのかなあ。せめて猫のように毛色の違いがあれば見分けがつきやすいのにね」
「私は毛色が違かったから見分けられたんだっけ」
顔の横に垂らしている白い髪の束を摘む。
「うん。わかりやすくて、とても助かる」
「私もこの色、結構気に入ってるんだ」
摘んだ指を離せば、ぱらり、と艶のある白い髪が胸元に落ちた。
知り合ってから一年以上が経っているのに、彼女は私の顔を知らないのだ。改めてそれを実感すると、とても奇妙な気分になる。
「……でもやっぱり、イメージしにくいな。顔のない世界で、どう人間を覚えるか、というの。私にとっては、顔と名前のセットが人間の情報の最小単位だから、全く想像ができない」
「そんなに奇妙に感じる?」
うん、と頷けば、佐倉もまた奇妙な質問に答えようとするかのように小首を傾げた。
「SNSでは顔を晒してない人、多いと思うんだけど」
「でも、代わりにアイコンがあるよ。あれが私にとっては顔の役割になってる」
「そうか。例えが悪かったね」
佐倉は眉根を寄せて、根本から視線をそらした。カフェの中の客を見渡すように、視線が動く。
「……じゃあ、小説かな。多分、私の中で人の情報の中核はエピソードなのだと思う。どこでどう出会って、何を話したか。根本さんも、名前が出てこなくたって、どこそこのシーンでほにゃららしてた人、っていうのは覚えていたりするでしょう」
「それなら、ちょっとわかるかも」
「うん。多分、そんな感じ。附属的な情報として、名前とか、席、所属、体格、髪型、声、服装とかの情報が加わってくる。あなたの白い髪とかね。──それにほら、たとえば、あれとかも。あの後ろ姿、宮本さんでしょう?」
佐倉がカフェテリアの洒落た窓の外を指す。その先に視線を向ければ、確かに、男の後ろ姿があった。根本の上司の宮本に似ているように見えるが、これと言った特徴のない背格好をしている人なので、断言しにくかった。
「なんで、わかるの?」
「歩き方。あの人の歩き方、結構特徴的なんだよ」
◇ ◇ ◇
また、別日の夜。
自室の湯船に身を沈め、目を閉じる。頭上で換気扇が重低音を立てていた。
今日のは多分、7回目の食事会だった。もしかすると8回目だったかもしれない。数はもう、数えていなかった。佐倉との食事会はもう、特別なことではなくて、習慣になっていたから。
少し熱いくらいの湯船に浸かりながら、今日の佐倉との会話を反芻する。友人と共に過ごす休日というのは、どうしてこうも充実感があるのだろう。
一つだけ、まずかったな、と思い出されるのは、例の芙蓉についての話題になった時のことだった。
どういう文脈であの話題になったのかは覚えていない。二人ともSF作品を好んでいるから、もしかすると昔のSF作品の話題から飛んで芙蓉の話になったのかもしれなかった。
──「どう思う、あれ。医療方面まで進出しちゃってて、本当に嫌になるよね。どうして、あんなものを使えるのかな……」
佐倉は憂鬱そうな顔で、コーヒーカップを揺らしていた。くるり、くるりと黒い液体が円を描くようにカップの中をゆるく回っていた。
──「そうだね……」
根本は帰省中に父母と交わした会話を思い出しながら、相槌を打った。ちょうど、あの実家の食卓でも、テレポートの利用が話題になったのを思い出していた。メリットとデメリットと感情論が両親の手料理の上を行き交って、やはり感情論だけは彼らと共有することが叶わなかった。
実際にフランス旅行の行き来で芙蓉を使った彼らは、口々に私に芙蓉を勧めた。痛みはなかった、特別なことは何も起きなかった、目を開けたら目的地に着いていた、便利だった。だからお前も使ったらいい。
彼らは嘘は言っていないだろう。主観的な体験の中で、オールドが恐怖を感じうる現象は起きなかったと言っていた。一時期はオールドである私と共同生活をしていた彼らは、普通のニューよりも、恐怖という感情に対して理解がある。痛み、落下、高所、虫、刃物。彼ら自身の実感として持ってはおらずとも、オールドが何に恐怖を抱くのかというリストを知ってくれている。その上で彼らは「テレポートの過程で恐怖を感じることはないはずだ」と言った。
私はあれを使うことができるだろうか。そう、何度も自問した。
使いたくはない。けれど、使えてしまいそうな気もする。
敢えて何も考えず、頭を空っぽにしていれば、あの死の穴に入ることはできるかもしれない。死の意味から目を逸らして、前だけを見て、崖の淵から一歩、足を踏み出すように。
意味を考えさえしなければ、一歩を踏み出す行為自体は、刃物や銃を使った自殺よりもよほど抵抗なくできてしまうだろう。意味と動作を頭の中で切り離すことは、案外と簡単にできてしまえるものだ。
──「……でも、案外、眠るようなものかもしれないよ?」
だから、私はそう、言ってしまったのだ。
あの発言には多分、自分の家族と自分が別の生物であると認めきれなかった、私自身の未練もあったのではないかと、今になって思う。同じ人間、同じ設計図で作られた脳の中で起こっている思考なのだから、違いすぎるということはないのだと、そう信じたかったのだろう。
愚かなことだ。この二十数年間、何度も彼我の違いを見つめ続けてきたというのに。
──「連続性を気にするなら、私たちだって既に毎晩の睡眠で日毎に断絶しているのだから。実はそんなに気にするようなことではないのかもしれないし。一回使ってしまえば、踏ん切りがついちゃうものなのかも……」
一度言い始めてしまえば、言葉はすらすらと口から滑り出た。今までに何度も考えてきた言葉が、その時初めて自分の声になっていた。
やはりあれは、オールドの自分が軽々しく口にすべきではないことだった。
──「嘘でしょう」
信じられないものを見るような、佐倉の目。
──「本気でそんなこと思ってるの? オールドなのにあんなものを使えるの?」
──「まあ、私も自分から使おうとは思えないけど。もし……もしも、の話だけど。たとえば辞令で月面サイトに飛ばされることになって、旅費がテレポート利用でしか経費で降りないんだったら、使えちゃうかもしれないな、って」
その瞬間の佐倉の表情は、筆舌に尽くし難いものだった。愕然。失望、あるいは絶望。ニューにはない豊かな表情。
佐倉は震える声で言った。
──「……ほら、私の仕事、出張が結構多いでしょう? 飛行機代が経費で落ちなくなったらどうしようって、怖くて。芙蓉、どんどん安くなってきてるから……」
彼女の口ぶりを聞けば、その恐怖が本物で、かつ、彼女自身の身に差し迫ったものだと考えているのがわかった。
──「いや、流石にそんなことはないと思うけど。財団の職員はオールドばかりだし」
──「でも、現場から遠いところにはニューもいるでしょう。予算を握ってる部署にニューがいないとでも?」
──「それは……そうかも、しれないけれど」
薄暗い佐倉の表情には、相変わらず、恐怖、怯えが見てとれていた。オールドの顔にしか表れない色。佐倉に申し訳ないと思いつつも、その顔色に、少し、安心もしてしまっていた。
この人は話の通じる相手。同じ感情を共有できる相手。
同時に、自分の無神経な発言に、反省もした。
──「ごめん。さっきの言い方は軽率だった。もしも本当に、そんなことを上が言ってきたら、その時は一緒に抗議しよう。きっとオールドのみんなで連帯できるはずだから」
あの時は、そう言って話題を終えたはずだった。
──「案外、眠るようなものかもしれないよ?」
自分の言葉を反芻する。私はこの主張を信じきれているのか。
芙蓉。佐倉が恐れていた転送装置。ニューにしか使えない代物。オリジナルを殺す死神。
何も考えずに目を逸らし続けるならば使えてしまうだろうという自認も、嘘ではないのだ。
では、あれを使うことの意味については?
私は魂の存在を信じない。人間というのは物体ではなく現象だ、と考えている。意識とは物質そのものではなく、物質が取りうる状態だ。水ではなく、水面に立つ漣。体を作る物質は入れ替わり続け、いずれ死んで朽ちる。人間は変容し続ける物質が取りうる形の一種だ。
水の同一性を論じるのは簡単だ。ペットボトルの中の水は、十年経って賞味期限が切れようが、同じ水だ。その一方で、一秒前に水面に立った波の同一性は、一体どう定義すべきか?
波の同一性を考えることは無意味だ。
頭でそうわかっていて尚、嫌悪感は捨てられない。複製されたスワンプマンは自分ではない。もし転送前の自分が破壊されなかったとしたら、新たに作られた存在を自分だと認識するはずがないのだから。
やはり別人なのだ。この体の死が自分の死。転送先で生き続ける人物は、自分とは異なる存在。あれは転送ではなく、ただの破壊と複製。
そもそも、芙蓉という名前からして、転送装置の利用が死そのものであることを示唆している。
装置に「芙蓉」という名をつけたのは、転送装置の開発研究を長年牽引していたオールドの研究者だ。彼女は転送対象が人に拡張される前から──おそらく、人を転送することなど視野に入っていなかったほど前の時代から、再構築による物体転送技術の開発に携わっていたのだという。人を転送する装置の開発を余儀なくされた時、彼女は皮肉をこめて、輪廻転生を象徴する花の名を装置に与えたのだ。
ニューたちは、「極楽の花だなんて、縁起がよくて洒落ている」と、芙蓉の名を好感と共に受け入れた。けれど、私たちは知っている。開発者が名に込めた意味は、ただ一つ、「転送は死出の旅である」だ。
これがきっと、ニューとオールドの違いなのだろう。
ニューであれば楽だろうと思う。でも、ニューになりたいとは思えない。
◇ ◇ ◇
ロビーの片隅の椅子に腰掛けて、資料の再確認をする。視察の人々が来るまで、あと一時間強。膝の上のPCはBMI非対応のものだが、根本にとってはむしろ使い勝手が良かった。スライドの内容を目で追いながら、情報の順番を変えた方が良いだろうかと思案する。
ふと、足音が聞こえて、顔を上げた。エントランスから、見覚えのある人影が入ってくる。
佐倉さんがここに来るのは珍しいね、とそう口にする前に、彼女が口を開いた。
「あの、根本さんを見かけませんでしたか? 白くて長い髪の──」
「──ごめん、私」
人間の表情とは、こうも目まぐるしく変わるものだっただろうか。
「──ど、うして」
驚愕と困惑と納得のマーブルが、時間をかけて均一化されていくさま。声で根本だと理解したのだろう。佐倉は顔の見分けがつかないが、人の声をよく覚えている。
今の根本の髪は、「白い長髪」ではない。「肩までの黒髪」だ。週末にカフェで話した時と違い、ウィッグを被っていない。上司の宮本から、今日の視察では身だしなみに十分気をつけろと言われていた。服装も、いつものスカートではなく、地味なスーツで身を包んでいる。
「ごめん、あれ、ウィッグ」
「え……でも、去年はブリーチで染めた、って」
「上司に釘刺されちゃって。特に今日は、お偉いさんが来る日だし。……それに、あの長さだと痛みやすくて手入れが大変だったから」
言い訳をするように、早口で答える。
随分前、夏に入る前に、根本は髪を切っていた。それからずっと、佐倉と会う時にだけ白いウィッグを被っていた。彼女が白い髪で自分を覚えてくれているのを知っていたし、自分を見つけた時に佐倉が嬉しそうな顔をするのも知っていた。だから言い出せていなかった。
「それより、なんで探してたの? 緊急の用事?」
「あ、──うん。宮本さんから、伝言。通信繋がらなかったらしくて。今日の予定、1時間繰り上げ。もう、査察の人来てるって。今は宮本さんが一人で応対してる」
「──嘘」
PCを閉じて、慌てて立ち上がる。腕のデバイスに表示されている時間は、もう、元の予定の1時間前──変更後の開始時刻を示している。
「すぐ行く。ありがとう。また今度!」
逃げるように佐倉の前から駆け去って、階段を駆け上がる。今日使う予定の会議室があるのは三階だ。二階を過ぎたあたりから、心臓が悲鳴を上げ始める。
視察団がエントランスを通るのを見ていないが、裏口を使ったのだろうか。今更後悔しても遅い。
半開きのドアを、半ば体当たりするように開けて、入室すぐに深々と頭を下げる。視察団の人々の視線が、自分の頭に針のように突き刺さるのを感じる。
「遅れてしまいまして、申し訳ありません。お気分を害してしまったことと思いますが──」
沈黙。誰も何も言わない。視察団と共にいるはずの上司すらも。奇妙な空気を感じて、顔を上げる。
「……なるほど、これがオールド流のジョークというやつか」
「面白い」
「『気分を害する』という言い回しが、この時代にも生きている場所があるとは」
「古典作品の中にいる気分だな」
──そうだった、彼らはニューだった。
彼らの顔を見た瞬間に、そこに思い至った。喉の奥で息が引き攣る。
普段の仕事仲間とは違うのだ。職場ではオールドにばかり囲まれていたから、忘れてしまっていた。
八つの異なる顔が、根本からは区別のつかない同じ笑顔を浮かべて、じっとこちらを見つめていた。
◇ ◇ ◇
きっと来てくれないのだろうな、と思っていた。
秋も半ばの今は、カフェから見える景色の色合いも変わってきていた。コンクリートの地面を暖色の落ち葉が覆っている。ここでの小説交換会を始めたのは夏よりも前だったから、初回からおよそ半年が過ぎたらしい。長く続いていたものだな、と小さく息を吐いた。
軽やかなドアベルの音と共に、カフェの入り口が開く。
そこに、期待していなかった姿を見つけて、根本は目を見開いた。白い髪を目印に、佐倉は真っ直ぐに根本の前の席まで歩いてくる。
根本は、その顔を直視することができなかった。あの時の佐倉は、ニューではない佐倉は、どう感じたことだろうか。俯いて、テーブルに視線を落としたまま、声を絞り出す。
「……ええと。その、ごめん……なさい。髪を黒くしてたこと、もっと早く言うべきだったのだろうけど。タイミング、見つけられなくて……失礼、だったよね」
「──そんなに気にしなくても、大丈夫だよ」
予想外に平然としていたその声に、恐る恐る、顔を上げる。
「私でもわかりやすいように、ってウィッグしてくれたんでしょ。根本さんが謝る理由はないから」
だから、この話はおしまい、と佐倉は言った。
「それよりも、本の話をしよう。お薦めしてもらった『星を継ぐもの』はちゃんと最後まで読めたよ。やっぱり科学者たちが議論してる話って面白いね。中盤の展開のスケール感も好き。ちょっと学者勢が鈍く感じられた部分もあったけど、それはまあ、時代による常識の違いもあるのかな。それとも作劇の都合かも? 最後のオチは予想外だったし──」
彼女は何事もなかったかのように、少し早口に話し始めた。
ああ、許されたのか、と拍子抜けて、彼女の感想に応じる。自分が初めて読んだ時のこと、その衝撃、そして佐倉が好みそうだと思ったシーンについて。
これが好きならば、とまた何冊かのタイトルを挙げる。佐倉も数冊、根本に提案する。今までと変わらない、カフェでの読書会の雰囲気に戻っていた。ゆったりとしたBGMの中で、好きなものについて語り合う時間。
「次の出張の飛行機のお供、さっきの本とどっちにするか悩むな……」
「往復で両方読めばいいんじゃない?」
「時間的に足りるか怪しい。機内で寝なきゃ体が保たないし」
悩ましげな顔つきで、佐倉はデバイスに表示した二冊の表紙を見比べる。一つはディストピアSF作品、もう一つは古典ミステリの傑作。
その顔を見ていると、言わねば、という気持ちが強く湧いてきた。
あのね、と口を開く。
「……最近は少しだけ、佐倉さんの気分がわかる気がするんだ。ニューの家族と話すこともあるし、この前もニューの人々と接する機会があったから」
自分たちがニューを理解し切れないように、彼らもまたオールドを理解することができない。
きっと佐倉が「普通の人」との間に感じている壁も、似たようなものなのではないかと思えた。だからこれはきっと共感で、これを示すことは歩み寄りになるはずだ。
オールドへの共感は、同じオールドにしかできない。そのためかオールドの間では、相手への共感を示すことが、習慣、あるいは礼儀に似たものになっている。
「ニューを相手にしているときは、私も同じような世界を見ている気がする。この世界はオールドのためにはできていないけれど、きっとそれと同じように、顔の区別ができない人のためにもできていないのだろうから」
似ているのだ、オールドと相貌失認わたしたちは。
オールドの自分がニューの娯楽を楽しむことができないように、相貌失認の佐倉は実写映画の大半を楽しむことが難しい。私たちが小説を好むのは、小説の中の世界にはオールドが沢山いるからであり、読書に顔を覚える能力は不要だからだ。本を読んでいる間は、私たちは普通の健常な人間でいられる。
免許証、電話帳、パスポート、その他の身分証。人の名前や属性と共に、常に顔が表示されている。「普通の人」は顔で人を認識するものだから。私たちはその常識の中で生きている。言われれば気づけるが、言われねば気にも留めない、自分たちのための常識の中で。
恐怖心について、ニューの彼らに説明することはできる。死やそれに繋がる危険が至るところにあった場合、理屈を介さず反射的にそれを避ける形質を持っていたならば、その個体の生存率は上昇する。ゆえに、危険を避けさせる情動として、ニューも恐怖という感情の存在意義を理解することができる。一瞬の判断が生死を分ける機動部隊などでは、理屈ではない感情による直感が有用であることも、話せば彼らは理解するし、そもそも財団職員のニューならば説明するまでもなく知っている。
ただし、彼らは知っているだけだ。そこに実感はない。そういうものがあるという知識を持っているだけで、根本的なところで恐怖という感情を理解していない。
だからあんなことを言えるのだ。──「転送装置の利用を推進していきたい」、などと。
あの視察団のうちの誰かが言った言葉、誰が言ったのだとしても同じ響きになっただろう言葉が、耳の奥に蘇る。かつてしきりにBMIを勧めてきた父と、同じ質感の声。
頭の中の声を掻き消すように、言葉を続ける。
「正直、私にもね、ニューはみんな同じに見えるんだ。顔貌かおかたちは違っても、みんな同じ人間のように思える。彼らからすれば個々人の違いは明白なのだろうけれど、大きく隔たったオールドの側からすると、例えばカラスの群れを見ているように、どれも同じように見えてしまう……」
佐倉の顔から表情が抜け落ちていることに気がついたのは、手遅れになった後だった。
「……区別する意味がないことと、最初から区別がつかないことは、全く違うよ」
透明でまっすぐな佐倉の視線が、じっとこちらを見ていた。人の顔を区別しない、けれども人の本質を見透かすような視線が、意識までも貫くようにこちらを見ている。
「違うんだよ、根本さん」
どうしてか、その目は少し泣きそうにも、怒っているかのようにも、無表情であるようにも見えた。その表情の意味の全てを理解できた気がしなかった。同じオールドであるはずなのに。ただ、自分が何か酷い間違いを犯してしまったらしいことだけが、ひどく嫌な手触りの確信として胸に突き刺さっていた。
「……髪を切った時にすぐに気づいてくれるのは、隣の席の山本さん。私の好物を知ってくれているのは日替わりでイヤリングを変えてる水野さん。紫の眼鏡の永井さんは、いつも食後のコーヒーに誘ってくれる。みんなニューだけど、……私にとっては、同じじゃなかったよ」
カップから立ち上る湯気だけが、この冷えた空気を知らぬかのように軽やかにゆらめいている。
「──私は」
佐倉の口から、絞り出したような小さな声がこぼれる。
「私はね、中学に入った後の方が、辛かったよ」
中学。佐倉は根本と同世代だ。政府がオールドの生徒の隔離を始めた年代。私たちは中学入学の前後で、急にオールドしかいない環境へと移された。
「ニューと話している時の方が、よほど気が楽だった。私が顔を覚えていなくても、彼らは怒らないし、気分を悪くすることもないから。高校時代のオールドの知り合いたちといる時よりも、ニューに囲まれていた大学の方が、自然に笑えていた気がする。オールドの人たちは確かに、悩みや苦しみに共感してくれるよ。でもそれは、自分が経験したことがある痛みにだけだから」
佐倉は目を伏せた。
「今までずっと、オールドの友達、いなかったんだ。自分の顔を覚えられない友達を、欲しがる人なんていなかったから」
己を恥じるような声で、彼女はそう言った。
「根本さんがね、SNSじゃなくて現実世界でできた、初めてのオールドの友達なんだ。舞い上がってた。……馬鹿みたいって、笑っていいよ」
佐倉の口元が引き攣ったように歪む。
全身の関節が錆びついたようで、指先一つ、動かなかった。
「……仕事も、全然、うまくいかなくて。職場では席に座ってる人にしか話しかけられなくて。話しかけてくれた人が誰かわからなくて、いつもわからないままなんとか話を合わせるしかなくて。職場の人には相談できても、出張先での会話相手に毎回言うことなんてできないから、いつも失言するのが怖くてたまらなくて。定期的に他サイトの初対面の人と会話せねばならない程度には広くて、また同じ人に会う可能性があるぐらいには狭い。そんな場所だと知っていたら、来ようなんて思わなかったのに──」
堰を切ったように、か細い声が佐倉の喉から溢れ出す。力のない声なのに、何故か濁流のように聞こえた。近くにいるのに、佐倉の姿がひどく遠く感じられる。
またも理解できていなかったのだ、私は。ニューがオールドを見るように、オールドがニューを見るように。憶測と想像で歩み寄った気になって、けれど実際には全て自己満足だったのだろう。他人の苦しみなんて、同じオールドだったとしてもわかるはずがなかったのだ。
片方は、少なくとも財団の中では公然のものであり、求められている少数者であるのに対し、もう片方は知られておらず、自ら主張しなければ配慮もされない少数派。ただ生活しているだけで「失礼」のレッテルを貼られる障害と、感情面での差異による障害は、どちらも集団中での疎外感につながるものだけれども、その質が異なるだろうことに、何故思い至れなかったのだろう。
「──社外の人と取引するような仕事も、部下を複数持つような仕事も、絶対にできないって、もう最初からずっとわかってたから色んなことを全部諦めて、残った中でどうにかやりたいと思えた仕事を見つけて、……大学の専攻だってこのために決めたのに、ここの技術職ですら人脈は大事だって散々言われて、人と人との繋がりがって、オールド同士の連帯が連携がって、上司も関係者も口を揃えたように言ってきて。私には相手が誰かもわからないのに」
苦しかった。そして怖かった。抑揚の薄いこの声の裏にあるのだろう、悲嘆と悔しさと、そして怒りが。それが見えず、掴み切れないからこそ、怖く感じられた。佐倉の言葉は自分に向けていると言うよりは、まるで独り言かのようでもあった。この怒りの大半は社会へと向いているのだろう。そして、その一部はきっと根本にも向けられている。沸々と見え隠れするそれは、突発的な激情と言うよりも、燻り続ける熾火のように聞こえた。
職業選択に制限があったのは自分オールドも同じだ。だから財団に雇われている。──同じ。『同じ』と言う表現は、本当に正しいか。たった今、安易な重ね合わせをして誤ったばかりだというのに?
「……必死に髪型と服装の好みを覚えても、少しの気分転換やちょっとしたTPOの変化でまた一からやり直しで。いっそ最初に毎回相手の名前を聞けるニューの社会に行ければ良かったのに、財団から出ることなんてもう許されないし、どうしてこんな、こんな大規模な組織に来ちゃったんだって、両手で数えられる人数の声を聞き分けられればいいだけの仕事なんてどこにもなかったんだって、もうずっと──」
表面上では抑制されていた声に滲む感情が、崩れていく。
相槌など打てるはずがなくて、根本はただ、浅い息を繰り返していた。
「あなたに言っても何の意味もないって、わかってる。……わかってるよ。オールドのみんなは優しいってことも。排他的だけど、仲間と思ってる相手にはちゃんと優しくて、……そして、ニューと同じくらいに無神経な時だってある。困ってると言えば数秒で考えたアドバイスをくれるよ。私は人生でずっと、この相貌失認と付き合ってきていて、どうすべきかを考えてきたのに、その思いつきが役に立つって本気で思ってアドバイスをくれるんだ。……そんな簡単に解決することなら、こんなに悩んでないし、私の手でどうにかなる解決策なんて存在しないことも、身に染みてるのにね。……でも、どうにもならないってわかってたって、笑顔でなんでもないように振る舞い続けるのも、難しい時がある、から」
自分も、彼女に助言をしたことはなかったか。
──「なら、相貌失認です、って最初に言っておけば大丈夫だよ。それで怒る方がおかしいのだし」
あの時、あの初めての食事会の時に。
──「それに、もし話したいぐらい気の合った人なら、いっそ先にメールで伝えて『見つけたら声かけて』って言ってみるのもいんじゃないかな」
あの時の彼女の顔が浮かない色をしていたのは、悩み事だけが原因だったか。──それとも。
「……でも、そんなことより、一番辛いのが。……この前の出張、国際便で、乗り継ぎトランジット先の空港で急な欠航になって。初めての経験で、ホテルの確保にも手間取って立ち往生していた時、助けてくれた老夫婦が、いて。翌朝、同じ便に乗るはずだったから、お礼を言いたかったのに、見つけられなかった。一泊する間に、群青色のシャツを着替えてしまっていたから。私にとってはそれが唯一の目印だったのに。私は恩人にお礼を言うどころか、きっとその隣を素通りした」
ああ、そうか。この焼けるような怒りは、何よりもまず、彼女自身にも向けられている。腹の底を焦げ付かせる、行き場のない怒り。
憤るような、吐き出すような、その声に対して、何も言えなかった。充血した佐倉の目元が潤んでいるように見えるのは、きっと錯覚ではない。
「先月だって、お世話になってる職場の先輩に、別の場所で初対面のように話しかけた。私は取り立てて優秀ではないから、せめて誠実であれ、実直であれと思って生きてきたのに、大事な友人の顔すら覚えられない。……なんの苦労もなく顔を覚えられる人たちが憎いほど羨ましくて、……申し訳なくて、たまらなくて、……根本さんのことだけは、絶対に間違えたくなかったのに、……どうして、どうして、私だけ」
そこで佐倉はようやく、口をつぐんだ。膝元を彷徨った左手が、彼女の唯一の持ち物である小ぶりのバッグを掴む。
「ごめん、せっかくの読書会なのに。……ごめん、なさい」
そのまま立ち上がった彼女は、逃げるようにカフェから出て行った。
◇ ◇ ◇
その次の読書会は、佐倉が出張から帰ってきた直後の週末だった。「この前は非礼なことをまたしてしまった」、「申し訳ない」、と詫びるメッセージを送ったが、佐倉からは「大丈夫」と、何も気にしていないかのような明るい文面が返ってきた。「次は再来週の土曜に話したい」という文と共に。
移動で疲れているだろうから、別の日にした方が良いのではとも尋ねてもみたが、佐倉は断った。持ち帰りの仕事や長期出張が立て込んでいるため、この機会を逃したら、次は随分先になってしまうだろうから、と。
当日、またも先にカフェについていたのは根本の方だった。二人分のチョコクロワッサンとコーヒーをオーダーして、窓際の席に腰掛ける。
湯気の立つコーヒーを片手に、ゆったりと文庫本を読んでいた時に、彼女が現れた。被っている白いウィッグが見えやすいように、入り口の方へと少し体を傾ければ、彼女はすぐに根本の存在に気がついた。早足に、こちらへと歩いてくる。
「ああ、わかる! わかるよ、根本さん。これが貴方の顔なんだ。もう絶対に間違えたりしない」
感極まった声。──その言葉の意味に気づいて、根本は身を強張らせた。
品の良い仕草で腰を下ろした佐倉は、テーブルの上のチョコクロワッサンに目を留めて、嬉しそうに「ありがとう」と言った。焼きたてのそれを齧って、美味しそうに目を細める。いつもの佐倉と変わらない、この表情、だけれど。
「……ねえ、佐倉さん。……機内で、本を読めた?」
「ううん。まだ、読めてないんだ。時間がなくて。移動時間が掛からなかったものだから」
何故。
その回答はもう、彼女は数秒前に口に出している。
吐き気がした。
喉の奥にコーヒーの苦味と酸味が込み上げる。
これは佐倉なのだろうか。これを佐倉と認めてしまってもいいのだろうか。それは死への旅路に身を投じたオリジナルの彼女への冒涜のように思われた。
けれど、この彼女を否定するのは、正しいことなのだろうか、とも思う。目の前の彼女は、佐倉と同じ記憶、同じ感情を持った存在だ。ただ顔が認識できるという違いしかない。同じ本を愛し、同じ映画を好み、同じ過去を覚えている。その彼女を佐倉と別物扱いすることは正しいのだろうか?
おそらく彼女は、私の顔を覚えるためにあの悍ましい装置を使ったのに?
──「案外、眠るようなものかもしれないよ?」
──「一回使ってしまえば、踏ん切りがついちゃうものなのかも」
そう言ったのは自分だろうが。
それに、そもそも自分は別人と認識することができるのか? 同じ顔で同じ言葉を話す存在を?
顔は個人と最も強く結びついている情報だ。私は佐倉とは違う形の世界を生きている。顔で人を認識する私は、顔と人格の結びつきから逃れられない。
佐倉と同じ顔のそれは心底幸せそうに、朗らかに笑っていた。