光なき海の其処此処、何万里泳いだだろう。サーカス団を離れ半世紀。研ぎ澄まされた五感をとことん使い、暗黒世界の僅かな凹凸すらも正確に脳裏に描いて、彼の像が現れるまでひたすらに泳ぎ続けて半世紀。
切欠は微かな匂いだった。それは不思議なことに、ある海面の一点からマリアナ海溝の深奥へ向かって一直線に続いていた。その先に彼はいた。彼は半世紀も前と殆ど変わらぬ姿で寝そべっていた。彼はこの星で最も深い海の底で生きていた!
1年後、私は再び彼の元へ赴き、一度は築いた親愛の関係性を確かめるため、彼に向けてボールを投げた。これは半世紀前、私たちがよくやっていた遊びの1つだ。彼は私が投げたボールを正確に口で捕らえると、私たちが史上最高のコンビであった時と同様、私の掌に投げ返した。そのとき、私の心はどれほどの喜びに満ち溢れただろう!
更に一年後、つまり今日は、私が彼と再び史上最高のコンビとなる記念日だ。念には念を入れ彼の大好物であるヌーの肉まで持ち寄った。そうなることは疑いようがない。不安があるとすれば、先ほどから私の周りを泳ぐ奇異なウツボの存在だ。此奴は先ほど岩陰から飛び出てきて、ヌーの肉を摘み食いしたかと思えば、唐突に私の眼前に躍り出て、低く落ち着いた老齢紳士のような声で喋り始めた。
「やあやあ、お主何処へ行くのかね?よければ我と少し話さないか」
人のものを勝手に食っておいて、図々しい奴だ。此奴にとっては残念なことに、私には呑気に話し込む時間がない。この海淵という場所は、あまりに過酷すぎる。
「ちょっと待て、もしやあの白獅子に用があるのか?食われてしまうぞ。止めておけ」
瞬間、私はあまりの衝撃に硬直してしまった。まさか此奴に図星を衝かれるとは!しかし止まってはいけないことを直に思い出し、潜水を再開した。もうすぐ彼に会える。私と彼の仲で食われる心配など不要だ。
「おお、友よ。我が言葉が分かるなら行ってくれるな。お主とはまだ共にいたいんだ」
ウツボは震える声でそう言った。長年付き添ったパートナーの最期を看取った芸者のことを思い出す声。だが、此奴がどんな悲哀を背負っていても構ってやる暇はないので、私はだんまりを決め込んだ。エネルギーを浪費することは出来ない。体温が徐々に下がってきている。あと6時間もすれば、私の体は心から凍え動かなくなるだろう。
「なるほど。どうしても行くのだな、我が友よ。ならば我は止めん。だが約束してくれ。お主が再び我と会ったときは、お主のことを教えておくれ。我がお主を覚えていられるように」
そう言うとウツボは姿を消した。唐突に、奴がサーカス団に加わればそれなりの集客が望めそうだ、などという呑気な考えが浮かんだ。フラーも人語を話すウツボには驚くに違いない。
私は彼の前まで到達すると、彼の大好物に手を伸ばした。私の長きに渡る深海への挑戦も遂に終わろうとしていた。