ある清掃員
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僕は財団という大きな組織に勤めている。『異常を人々の目から遠ざける』ため、日夜研究を重ね、また時には身を捨てて戦ってている、らしい。どこかで聞いたような企業のガワを被ったこのサイトの名前も、このサイトには誰がいてどんなことをしているのかも、僕は知らない。なぜなら、僕のクリアランスはレベル0だから。この大規模なサイトの、トイレ掃除を担当している人間だ。

ここに入る前に、スマホや財布といったものは没収される。僕が持つことを許されているのは、バケツに入った掃除道具と、「いままで使われたためしはないのだが」といって上司が手渡した記憶処理用の錠剤だけ。ほんの一瞬意識を失うだけで、直前の記憶を消去できるスグレモノ。僕がトイレという、生活に密接に関わるような場所で働いているから、万が一情報が漏れたときのために、ということらしい。

「よお、モップくん。調子はどうだ」
職員のひとたちはみんな僕を「モップくん」と呼ぶ。対して、僕は彼の名を知らないどころか、顔を見たこともない。

「ええ、おかげさまで」
「そりゃよかった。ところで今日はSCP-███を収容したんだが、これがまったく厄介な異常性でな」

ひと月ほど前からだろうか。僕に対して故意に情報を漏らす職員が何人か現れはじめた。本来であれば懲戒モノだろうが、僕がもつ錠剤のおかげで、というべきかせいで、というべきか。とにかく、僕も職員も処分がくだされたことは一度もない。

「悪ぃ、モップくんはクリアランスレベル0なんだったな。忘れてた」
「……知ってましたよね」
「いいからいいから、ほら」
職員は僕の鞄に手を突っ込むと、中から薬瓶を取り出した。

「はやく飲め」
まったく気が付いかなかったが、目の前にいる職員のほかにも、僕のふるまいを見て嘲う人間が何人かいる。黙ってうなずき、僕は否応なしに錠剤を飲まされた。少しふらつき、壁に背を当てて座り込んだ。

遠のく意識のなかで、シャッター音が何度か聞こえた気がした。



「モップくん!」

ひどい頭痛と高い声が僕を襲う。眼を開いて映った景色は、さっきと何も変わってはいなかった。僕の前にひとりの男が立っている。

「山さん」
本名だけは教えてくれない彼は、細腕を伸ばして僕の手を引いた。ぐわん、と世界が揺れて、自分の身に何が起きたか悟った。

「……また、やられたみたいですね」
「肩を揺すっても起きなかったから、心配したんだよ!医務室に連れて行こうと思ったんだけど、とりあえず、起きてよかった」

山さんは涙ぐんだ眼で僕を見つめる。そんなに心配しなくても、という言葉が頭によぎったところで、再び頭痛に苛まれる。山さんはそんな僕を見て、少しだけまごついた。

「やっぱり、医務室にいこう。それから、上のひとに相談しようか」
「僕は大丈夫です、体調も、職員のことも」
「でも、俺は見過ごせないよ」
「……僕、中卒なんですよ。高校で病気になって、そのまま退学になって。そんな人間を雇ってくれるなら、俺はどんな仕事でも大歓迎ですよ」
皮肉っぽく言ったが、山さんには通じなかったらしい。

「…..モップくんがいいなら、俺はあんまり口出しすべきじゃないんだけどね。研究員として、働かない?」
「え。」
思わず情けない声が出た。

「でも、僕なんかが」
「アシストをやるだけでいい。俺だって専門的なことは何もしらないよ。それに」
「それに?」山さんの笑顔の意味が分からず、反芻した。

「──なんでもない。ただモップくんと働きたいだけ。どうかな」
「それなら」
山さんのもとで働けるなら。大人になってはじめて、存在を認められたような気がした。

「ぜひ、働きたいです」
「オッケー。じゃ、上司には話通しておくから。よろしくね」

山さんが去り、トイレには僕ひとりが残された。でも、もうあんな思いをする必要はない。洗面台に無造作に転がる瓶を掴み、僕はごみ箱に向けて投げ捨てた。

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