
命名: 人のいない世界
人間共がいなければ
星はどれだけ生き永らえることができるのだろう
嗚呼、存在しない者たち、私に教えてほしい
拉げたドムラの音色を聴いて、私の疑問に応えてほしい
人間共がいなければ
私にとって詩は、連続性のあるパターンだ。如何程の情報をそこへ詰め込むことができるのか、それについての思案が鍵となると考える。これは私が若かりし頃に手掛けた作品だ。当時の私は雪の降るウシンスクの路地裏を渡り、およそ文学とは無縁の生活を歩む孤児だった。筆を手に取ったことさえなかったと言うのに。
私は人間という存在がただ憎たらしいだけにある。私は本能的にも狷介であることを認めていたが──好んではいない。研究と芸術に没入したこともある。煙と星の宗派に身を埋もれ、意識を沈めることもあった。しかしそれを否定するには、自我を否定しなければならない。次の時代へ前進するごとに文明は退化するべきである。それは私の作品によるものではなく、単に私がそう望んでいたのだ。
ある時、私は夢を見始めた。それは大洋に身を溶かすように開放的であり、鈍く冷たい痛みのリアリティを伴った衝撃から通ずるものであった。そこ不自由なる壁や代償はない。身も蓋もない言い方をすると、煙の束に重心を剥奪され、第四の扉を肉体が通過するような法悦だ。
私は陸地に独り立っていた。それは、“人のいない世界”だ。かつての私の理想のそれだった。表現は陳腐ではあるが、私の可動域に、精神に限度はない。今の私は煙のようだった。蒸気の足では歩くことを諦め、人間の存在しない街を目指す煙だ。それはアスファルトの破片でさえ落ちていない木々と地維だけの街だ。私は力の限り声を上げた。私は大気の流れに身を委ね、その内に自由を全うした。人の見えぬ海を眺め歩いた。日陰に屈んで木の実を探し集めた。幼い日々を思い出して。
“何もない”とは一体どういった感覚であるのか。事実は常に客観的にあるものだが、それに限っては例外だ。不可視である、空虚の実体、或いは単に死と同義ではないかと私は問い続ける。この作品には当時の私には思いも寄らない憶測が秘められているのだろう。“人間のいない”ことは本来であれば何を指すべく状態か、今となって思い知らされることもあるのだ。
今思い返すと、私はそれ以上に感傷的になっていただけなのかもしれない。歯止めの効かない思想は恐ろしくも美しいアイディアを模索させることができる。私はそれに依存することで今の自我を確立しているように思えてしまう。肺を持たないこの身体で鉛の声を上げるのだ。人間共がいなければと若い頃は唄うが、長い年月を過ぎようとそれは変わらない。
暫くすると、地平線から夕日が伸びた。無限の時間が通り去った。それは血糊のように赤々とし、私の心中にまで及んだ。念望の幕は降りず、日常もまたパターンの連続であると嘆き、私は再び筆と鑿を手に取るのだ。人のいない世界は何処にも存在しない。しかし煙の境地は変わらず此処にあった。そうしてその3の憶測は行き交うことができたのだ。
私が叫びを止めることはない。手垢の付いたドムラを傍へ投げ、ここへ来なければならない。人間共の存在しない地を他に語り継がなければならない。文明を放棄する選択を迫られた、雄大な自然を訴えなければならない。盲目になれるような海洋へ辿り着き、水平線の見えぬ岸まで泳ぎ続けなければならない。
その時まで、私は叫ぶことを止めはしない。私がそう望んだのだ。