反現実改変入門
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Prev:  ˈ꙰꙱҉҈ˈ꙰ঔৣৡۣ͜͡ৡについてお話しましょう

ティムは3時間にも渡って、カフェテリアでの有意義な時間を潰す作業に準じていた。次席研究員として雇われた身分であった彼は、自身の配属されるであろう部門についての知識を十分に与えられていない。刹那的なオリエンテーションが幕を閉じた後、司会者は数人の職員を相手にカフェテリアの所在を示しこう告げた。ここから24時間は、何もするな、と。

斯くして、ティムは罪悪感を感じるほどに合法的な休暇を、カフェテリアの隅で過ごすことになる。カフェテリアにはかなりの大勢の人々でごった返しており、彼らと十分に距離を置いたティムでさえ窮屈そうな表情を強いられた。彼は支給された端末を立ち上げた。液晶は幾つかの報告書を開示する。そのほとんどはジョークであるべき存在だ。

ティムはふと顔を上げると、カフェテリアの入口に立つ一人の男を見た。男はティムが彼を見たことを確認すると、歩み寄って来た。男のスーツは職員として有り得ないほどサイズが大きい。いくら世俗に鈍い人であっても、もう少しマシな装いをするだろう。要するに、それほど男は場違いな存在であった。

「緊張しているようだな。一日目は大変なものさ、」 男は手を差し出した。「アスタルテ・トリニダッドだ。姓の綴りは“E”のほうでな」

「ティム、」 彼は答えた。「ティム・ポーンです」

綴りは“E”だって?普通は“I”じゃないのか?ティムは彼への疑心を隠し、正面の男にまた一歩近寄った。そうすることで、ティムには彼がますます奇妙に見えた。

「貴方はサイト管理官ですか?」ティムは尋ねた。

「緊張しているようだな」ダッドは言った。

「はい?」ティムは戸惑った様子を見せる。「ま、まあ、当然じゃないですか?貴方もこれまでのオリエンテーションの様子を覗いてもらえば、同様の感想が得られると──」

「緊張しているようだな」ダッドは再び同じ言葉を繰り返した。

「ええと?」

「今の君は、」ダッドは語った。「まるで、野に放たれた一匹の子鹿だった。財団という大規模な施設に流れ込み、君の自信は萎縮した。それは名前のない何処か別の大陸へ上陸したように、緊張しているようだな」

ティムはこの時点で、ダッドがバッジを付けていないことに気付いた。かなり深刻な手違いであったが、不思議とティムはその事実を冷静に消化することができた。ダッドは不気味に口角を吊り上げ、依然としてティムの前に佇んでいた。彼はまるで壊れたブリキの玩具のようにも見えた。少なくとも、人間じゃない。

ティムは後退り振り返った。隅には彼が一人だけがいたが──いや待て、カフェテリアにいた人々は何処に消えた?ティムの背後にいるはずだった人集りは、立所に消え去っていた。カフェテリアが荒らされたような形跡もない。机や椅子は幾何学的に正しく並べられ、あたかも最初から人間の存在していなかったかのようだった。さっきまで声が聞こえていたんだぞ?!

彼は背後からの不穏な気配に気が付き、再びダッドを見た。ティムの思考は止まる。

正しく言うと、そこにいたのは彼であってダッドではない。彼の体は3mを優に越えた巨漢になっていた。全身の筋肉が限界にまで膨張し、彼の体を可能な限り大きく見せていた。ティムはスーツのサイズの件に納得がいった。実際ダッドのスーツは相手を切り刻めると思うほど鋭い。例えるのならば、アスタルテ・トリニダッドの頭を持つハルクだった。数年間の内でもあり得たことじゃない。しかし、実に単純な奴でもあった。

「彼らは君に反現実改変部門での立場を与えた。しかし君の方はそうではない。君は何もかもを準備できているはずだったが、彼らの部門はそれを嫌っていた」ダッドの声は低い。

ダッドは徐々に距離を詰める。彼が一歩を踏み出す度、タイルが弾け飛び、サイト全体で何かが爆発したように振動が起きた。今ティムの目前にいるのは、人の皮を被った化物だ。彼は更に後退るをえなかった。

「一日目は大変なものさ、」 ダッドは言う。

「一体、お前は何なんだ?」 ティムは尋ねる。

「緊張しているようだな」 ダッドは応える。

ティムは走った。無人のカフェテリアを突き破るように飛び出し、サイトの回廊に沿って走った。ダッドは相も変わらず歩いているが、彼の歩幅はティムの数十歩に匹敵していた。ティムは一度だけ振り返り男がまだそこにいることを確認すると、絶望的な状況でより自分がスピードを上げられるように催促した。

ティムは更に角を2回曲がり、可能な限り彼を遠ざけた。しかし彼はここまで走り回っているも、擦れ違うような職員は誰一人としていなかった。ティムの足音は収容セルへ向かった。しかし収容室は閑散としており、より足音が彼とダッドのものであると強調するだけだった。

「 ˈ꙰꙱҉҈ˈ꙰ঔৣৡۣ͜͡ৡのことを覚えているかね?」ダッドの声は彼のすぐ背後で聞こえた。

「知らない、」ティムは叫ぶ。「そんなことは聞いたこともない」

角をもう一度曲がったところで、彼は元いたカフェテリアに戻って来ていた。彼とダッドを除いてしまえば、ここにも生命体と呼べるものは存在しないらしい。

畜生、どうすれば良い?どうすれば良いんだ?

彼はダッドが言った、“反現実改変部門”という未知の単語が引っ掛かっていた。ティムは柱の影に飛び込んだ。ティムは精神を研ぎ澄ます。赤子のように小さく身を縮め、携帯を取り出す。“反現実改変”とタグ付けされていたページは──0件だった。

ティムは更に自身の感覚を頼りに精神を研ぎ澄ます。もしこれが周囲の人々に知れ渡っている事実であるのならば、彼らがするべきことはたった一つだ。最近作成された報告書のページを開く。最上部に見慣れない番号が並んでいる。9-3-7-4-1

アイテム番号: SCP-93741

オブジェクトクラス: [無効なエントリ]

特別収容プロトコル: 君は、緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだ緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張していろようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな緊張しているようだな

ティムは小さく声を上げ、思わず携帯を手から滑り落とした。画面はブルーバックに移行する。単なる子供騙しでも、こんな時に限っては最悪に心臓に悪いジョークだ。ティムは素早く携帯を拾い上げようとした。

その時、彼の背後から大きな影が伸びた。ティムがその主を眼中に捉えようとしたその時、彼の頭上を回転する鉄骨が掠め、柱を平行に断ち切った。柱の断層が生まれ、横にずれる。ティムは目標を定める猶予も与えられず、影の中心に携帯を投げた。1秒でも稼げれば十分だった。そしてまた走った。しかしダッドの手はそれを掴み取ることなく握り潰し、彼の脚はティムの跡を付けることなく継続して追跡していた。

畜生、誰があんな筋肉馬鹿と渡り合えるんだ?ここは頭を使うサイトなんだ。

ティムの経路はエレベーターへ向かった。彼の無意識のプランとしては、第一に地下にある軍事設備に辿り着くことだった。次に、そこで死を待つのか、あるいはもっと良いプランがあったのではないかと考えられるだけの時間が必要だ。振動はすぐそこまで迫って来ている。前方にエレベーターの扉が見えた。

途端に、扉が遠退いた。

その間に敷かれた通路が下へ湾曲し、彼の前に少しの空洞が形成された。そして空間は上へと下へと横へと引き伸ばされ、サイトに縦穴の空洞ができた。ステーションから宇宙飛行士が投げ出されるように、ティムの体は空間に引っ張られ飛び出す。そして、下から上へと流れる緩やかな重力の流れに倣い、頭上の暗闇へと落とされた。ガラス張りの外壁から覗いたサイトには、収容室やオフィスが隔てられたていたが、同僚になるだろう多くの職員の姿は誰一人として視認できない。ティムはさながらドクターストレンジの世界へと放り込まれた。

ティムは絶句した。彼は下を見上げる。目線の先には、ダッドが壁キックをすることでティムに迫まりつつあった。彼がサイトの外壁へと張り付く度、破片が砕け落ちて飛び散った。

「꧅꙰꙱҉҈꙰ঔৣৡ ͜͡ ৡのことを覚えているかね?」ダッドの声はサイトの外壁を跳ね返って響いた。

「聞こえない、」ティムは叫ぶ。「そんなことは想像したこともない」

ティムは無重力を泳ぎ、死に物狂いで散らばったデスクの岸に有り付いた。彼はダッドの現在の位置をわざと把握せず、周囲に浮遊するデスクを寄せ集め、少しでも彼の有利になる環境を作ろうとしていた。慣れない作業を熟し、ティムの体は限界を迎えていた。

しかし、ティムの計画はまたも捩じ伏せられた。彼の下で轟音が鳴り響いた。ダッドの巨体は外壁を蹴り上げ、彼の元に対空ミサイルのように迫っていたのだ。ティムはこの馬鹿げていて悪趣味なジョークの世界線で、本気で死を覚悟した。ダッドは光速でティムとの間に隔てられた距離を詰め、巨大化した彼の拳で足場を突き上げた。ティムの決死の大陸は破壊された。命綱は断ち切られ、再び彼の体は不自由なる空間へ投げ出される。

もう、お終いだ。

その時、サイトの片隅から男の声が響いた。

『それでは、お見せいたしましょう』

ティムの意識は、その後の想像を読者へ任せることを選んだ。



火花と瓦礫が飛び交うサイトの残骸の中に、ティムは目を覚ました。彼の体はキャパシティを優に超過しており、至るところが悲鳴を上げた。彼は気を失えたことを幸運に感じた。ティムは体を起こす。彼の目の前には一人の女性が立っていた。ティムの視界には彼女が三人いるようにも見えた。

「ええと、貴方は──」ティムの呂律は回っていない。

「バビヨン」彼女はティムに手を差し伸べる。「バビヨン・ゴリーラー」

彼女の細い腕とは裏腹の凄まじい力に縋り、ティムは立ち上がった。

「私は貴方の上司で、反現実改変部門の長よ」バビヨンは言った。「彼は貴方の事実を喰らっていた」

ティムはダッドの言葉を思い出す。君は反現実改変部門だったと語っていた。彼は僅かな知識を重ね合わせ、一つの仮説を導き出す。「つ、つまり、奴が私は反現実改変部門だったと言ったのは──」

「事実を急がないで、」バビヨンは彼の主張を遮る。「確かに反ミーム学は魅力的だわ。貴方も参考までに学んでいた。でも、それとは事象が違う。ダッドに改変されたことは事実だわ」

未だに彼の頭は爆発の衝撃と共にフリーズしていた。しかしバビヨンは続ける。「でも、想像してみて。反現実でもヒュームは大洋のようなもので、何処かが荒れても、波源が崩壊すると時期に収束する。安心して、あなたを元の立場に戻すことは時間にしてみれば造作もないことだわ」

「つまりは、何も問題は要らないと?」ティムは尋ねた。

「ええ」バビヨンは頷く。「でも、2つだけ言わせてくれるかしら?」

「貴方がこの説明を聞いたのは、はたして何回目だと思う?」バビヨンは意図の汲めない事実を並べる。「そしてもう一つ、アスタルテ・トリニダッドは人を消し去るほどの知性を有していない。精々自身の能力を格段に上昇させるところまでだわ。」

「どうしてそれを?」ティムは彼女に尋ねた。しかし彼女は彼の顔を横目に見てみるだけで、質問に応じることはなかった。

「とにかく貴方は運に恵まれなかっただけ。それでも貴方には多くのタスクが与えられる。SCPエントリの更新と、これまでのダッドの補食パターンの相違点、そして貴方が───」

それは恐ろしい疑問だった。ティムの両脚は平衡感覚を失いつつあった。バビヨンの姿が徐々にフェードアウトする。

「ええと、医療スタッフが必要かしら?」

そんなこと、有り得ない。

やけに傷の多い新人は、その場に倒れた。

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