「クソっ、まだ追ってくるのか」
常人離れした身体能力で非常階段を飛び降りる。
背後を追う足音が段々と小さくなっていくのを確認し、周囲を警戒しながら廊下を駆け抜ける。
しかし人相は割れているが為に、監視カメラを潰す必要性はない。
逃走の足枷が一つ消えたというのは不幸中の幸いだろう。
どこから情報が漏れたのか、あまりに追っ手が出るのが早過ぎる。
ある組織に雇われ、二人一組で諜報活動をしてこいと言われたのが数ヶ月前だ。
俺は目立った活動はせず、ペアの奴が集めた情報を本部に転送するのが役目だった。
あいつの方が能力が高かっただけだが、少し口惜しかったのを覚えている。
彼を追うエージェント達の後をつける。数人の職員が別の道に逸れていく。
ここは案外対応が早い、無論ザルであっては困るのだが。
しかし、身体能力では彼の方がここの職員達より数段階上だ。
みるみる引き離されていくエージェント達を目に、別のルートを通る選択をする。
彼は組織でも身体面において頭一つ抜けていた。
情報収集や偽造工作の面で私の方が優れていただけで、他の一つも彼に勝てなかった。
だからこそ、彼とペアを組むことになった訳だが。
非常口を開け放ち、非常階段の手摺を飛び越え夜の屋上に躍り出る。
じっとりとした空気が肌に絡みついた。
先程から後を追う足音は途切れている。培った身体能力に任せ、強引に屋上を走破する。
お互いの得意とする面が正反対だった事で、あいつとペアを組んだ。
自身の感情を抜きにすれば、俺たちは最高のペアだった。
そんなあいつと二日前から連絡が取れない。その次にこれだ。最悪の事態に陥った可能性がある。
最早あいつはここの奴らの手に落ちていると考えて良いだろう。
そう頭で処理しても、どこかあいつがそんなヘマをやらかすとは思えない自分がいた。
専用のGPSで彼が持っている端末の位置を追う。点滅する点がサイトを一直線に横切って行く。
この進路なら向かう先は一つに絞られる。それを確認した上で、ある番号に電話をかけた。
彼との任務は素晴らしいものだった。
もし情報が漏れたとしても、彼ならば追っ手から瞬時に逃走する事ができ、情報を掴ませることが無い。
そして私は彼の作り出した混乱に乗じて抜け出すだけ。
護身術、射撃術にも秀でた彼は一体これまで何人を返り討ちにしてきただろうか。
そんな最高の相棒の彼にも、欠点が一つあった。彼は人を信用し過ぎる節がある。
そろそろまた追っ手が来ても良い頃だが、サイトは明かりが点いているのみで静まりかえっている。
これまでにない異様な雰囲気に、嫌な悪寒が背筋を走り抜けた。
このままいけば、余裕で逃げ切れるだろう。だがこの静けさは妙だ。
いざという時の為に自決用の爆薬を胸のポケットに押し込み、反対に胸の内ポケットから取り出した拳銃を腰に下げる。
最後にヘマをする訳にはいかない。
点の動きを再度確認し、彼の目標が変わっていない事を確信する。
そこまでの最短距離を頭に叩き込んだ地図から導き出し、そこに向かって駆ける。
腰に下げた拳銃の重さを再確認しながら階段を飛び降りて行く。
これなら彼が逃走する前に合流する事が出来るだろう。この事態になったのは私に責任がある。
私がやり遂げなくては。
屋上を抜け、サイト裏のゲート前に飛び降りる。
そこには、もう敵の手に落ちたと思えた見慣れた奴が立っていた。
即座に逃げるようハンドサインで合図を送り、走り出したあいつの横に並ぶ。
視界が180度反転する。
何が起きたか理解する間も無く身体がコンクリートに叩きつけられた。
それと同時に辺りのライトが一斉に点灯する。
見上げた先には、俺を投げ飛ばし銃口をこちらに向けたあいつの顔があった。
ついさっきまでの同胞の顔を見下ろし口を開く。
「私はエージェント・██、ここの職員だ。そして、君のかつての相棒でもある。
頭の回転のいい君の事だ。もう理解出来ただろう。君は"嵌められた"んだよ。
君は人を信用し過ぎている。だからこそ、私がここにいる事に何の疑問も抱かなかった。
そして私にいとも簡単に投げ飛ばされた。普段の君なら無傷で受け身をとるか、逆に私を投げる事すら出来ただろう」
奴の口から紡がれる言葉に奥歯を噛む。
ここに来る前も、今もあいつの手のひらで転がされていたのだ。
組織にいる時から、あいつが狡猾なのは百も承知だった。だが、自身の敵であるとは夢にも思わなかったのだ。
制御しようにも仕切れない感情に任せ腰の拳銃を引き抜く。
──同時に肩に激痛が走り、一発も打つ事なく地に落ちた拳銃が乾いた音を立てた。
自身の銃弾が彼の肩に着弾したのを確認し続ける。
「私は諜報員として、君が命を受けたあの組織にいた。
そして君と組んで、またここに諜報員として送り込まれた。
…実に楽な仕事だったよ。君にはそれらしい偽情報を送るだけ。
そしてそれもここで君を捕まえて終わりさ」
「お勤めご苦労様」
手を振って、彼を捉えるように指示を送る。
茂みに待機していた職員が彼の元に走っていった。
ここまでか…まぁ悪い仕事じゃあなかったな。最後の最後まで遊ばれたのは不本意だが。
左腕であるボタンを探し、最早興味が無いと言った目でこちらをみるあいつに見えるよう"それ"を掲げる。
ここの職員達が腕に発砲するよりも早くボタンを押し込む。
彼が何かをライトにかざすのが見える。
それが組織で渡された在る物だと理解し、職員達に静止の声を投げる。
些か、時間が足りなかった。
夜のサイトに真紅の花が咲いた。