桜は夜に瞬いて
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鉛色の風が、彼女の顔を裂いた。
 
耳鳴り。
 
血飛沫。
 
人の崩れ落ちる音。
 
目の前に立っていたその背中は、あっけなく崩れ落ちて──
 
 
 
 
 
──次に面談で彼女を見た時、彼女の右目は開いていなかった。
彼女は、大したことはない、と渇いた笑いを浮かべている。
が無事で良かった、と。あそこから生きて帰って来れて良かった、と。
そう、彼女は私に笑った。
 
部屋に戻る。ドアノブにかけた手が、ひどく震えている。
玄関で、得体の知れない嫌悪が身体中を這い回り出して。
立って、いられなかった。
 
私を庇ったから、貴女が傷ついた。
あの状況で、私を置いて貴女だけが逃げた方が、見つかることも、貴女が傷つくこともなかったはずなのに。
おかげで、私は変わらない。でも、貴女は?
片目を失うのが、どれだけ貴女の業務に支障を来たすか。
顔の傷が、これからどれだけ足枷になるか。
 
 
そんな私の心配はどこ吹く風。貴女はただ、気にしてないよ、と笑う。
 
なんで。
 
なんで、笑っていられるの。
 
だって、仕事以前に、貴女のその青い目は──
 
 
 
 
 
貴女の唯一の拠り所だった、お母さんからの贈り物じゃない。
 
 
 
 
 
厳しい父親を嫌い、愛に飢えていた彼女を、唯一守っていた、そのお母さんが彼女に唯一残せたもの。
きっと、彼女は今も心の拠り所としていたに違いないのに。
それを、私のほんの少しの失態で奪ってしまった。
 
 
目の前の世界がぼやけて、喉の奥から嫌悪感が迫り上がる。
 
倒れた彼女を、私の力であそこから助け出した。
そう、ここでは言われている。
その行動力への賞賛も、人員の損失がなかったことへの賛辞も、全部必要なかったはずなのに。
私が霊体になれること。それさえ彼女に伝えておけば良かった。
それだけだったはずなのに。
 
 
朦朧とした意識と、止まらない涙の中で感情は連鎖する。
 
彼女は、目の傷を隠すために。前髪を下ろしていた。
私が、フードを下ろすように。
ただ、一つ違うのは、それが私のような恥ずかしさではない、ということ。
それが余計に悲しかった。
 
 
そして、彼女を助け出すために私の力を使った時のことがフラッシュバックする。
 
飛び散ったガラス片に写った、血の染みが広がり続ける包帯と、桃色の目。
彼女の形見の青ではなく、私の、恥ずかしい桃色の目。
そうしてあの時、残っていたもう一つの彼女の形見を奪ってたことに気がついて、全部口から吐き出してしまいそうになった時──
 
 
肩を、叩かれた。
 
 
ぐしゃぐしゃになった顔で振り向いたら、不思議そうな顔をした彼女が立っていた。
 
ドアの鍵は。どうしてここに。何をしにきたの。ごめんなさい。ごめんなさい。
私がなにも言えず、ただへたり込んでいると、彼女は不思議そうな顔をしながら言った。
 
「私の目のこと?」
 
うまく動かない首でこくんと頷く。耳を塞ぎたいほど怖かったはずなのに。
 
「まだそんなこと気にしてんの?馬鹿馬鹿しい」
 
彼女は続ける。
 
「私はこれ別に良いと思ってる。だってそんなに困ってないし」
 
そんなこと、嘘。なんで普段と違って気を使うの。いつものように罵倒し──
 
「それに、あんたと同じでしょ。同じなのは、別に、嫌じゃないし、ね」
 
私の思考を遮りながら彼女はそう言って、一度掻き上げた前髪を離して、私の涙と鼻水に濡れた顔を隠すようにフードを思いっきり下げた。
 
彼女なりのぶっきらぼうな気遣いに、罪悪感で溺れてしまいそうになる。
なんで貴女はそうやって笑えるの。私よりも、ずっと、苦しいはずなのに。
 
枯れない涙の中にほんの少しの嬉しさを感じながら、それでも自分を責めることをやめられない。
 
そんな私の心情を知ってか知らずか、彼女は、ただ私を抱きしめて、ずっと背中をさすっていた。
広い手から伝わる熱が、ずくずくと心臓を刺していた。

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