最後(ではない)晩餐
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「昨年9月に刺殺体で発見された26歳の……」

テレビから流れる声で、雪妃は、いつも通りに目が覚めた。病棟のベッドから一月の寒空を覗くと、一本の小さな木が、一玉の大きな林檎を実らせていなかったのか? いや、実らせていた。雪妃はただ窓の外を見つめながら、一人文句を垂れていた。恋人の肇が、彼女の数年にわたる入院生活の中で、病室に顔を見せたことが一度もないからである。どんな事情があるのか、はたまた単なる薄情者であるのか。こちらから毎日どれだけ連絡を寄越したとしても返信はおろか既読すらもついたことはなかったので、結局今もその実を知ることもできないまま、既に雪妃の命の灯火はほとんど消えかかっていた。

「もう知らない。あのバカはじめ。私、もうすぐ死ぬんだよ? 信じたくもないけど。ねえ、もう会えないんだよ?」

「私だって、ここに入って直ぐの時はさ、メロンとかなんかのお見舞いのフルーツ? なんか貰ったりするのとかに憧れちゃってたけど、今思うとほんと馬鹿みたい。」

「あーあ、もうそこに生えてる林檎むしり取ったやつでもいいから持ってくれないかな。いや、持ってきてくれる。」

とまあばかりに雪妃は彼女なりに思いつく限りの多様な文句を口に出している。心配というよりかは不安とか孤独感の方が大きかったのだろう。いつも通りにぶつぶつと文句を垂れ流しながら、今日も今日とて返ってくる当てもないラインを機械的に送っている。

それから暫く経って、コンコン、キイ。と、扉が軋んで開く音が聞こえた。ああ、もうお昼の時間か、と思ってテレビの電源を切って礼を伝え、振り返って扉の方を見ると、そこに立っていたのは食事を運んでくれるいつもの看護師ではなく、五百グラム程はありそうな、大きな一玉の林檎を手提げている肇ではなかったのか? いや、肇であった。全身は黒い血泥と深い傷で覆われていた。雪妃はその姿を見て、見間違いかな。とか、あれだ、死ぬ前になんか幻覚見るんだっけ。せん妄とかいうのかな。などと考えていた。彼女がどれだけ諸々を問いかけても、肇は一切の返事を寄越さないからである。今までの孤独を説いても、返信もくれなかったのにどうして今になって直接会いに来てくれたのかを訊いても、その格好じゃどっちが死にそうなのかもわからないじゃん、私のほうがこんなにピンピンしてるのにって軽い冗談を飛ばしても、肇は全く生気の感じられない目で、一切黙りこくったまま、扉の前に立ちすくんでいる。扉はいつしか自然と、キイ、ガタン。と音を立てながら再び閉じてしまっていた。

これじゃ埒があかないと、雪妃は肇を無理矢理ベッドに座らせて、彼が抱えていた林檎を(少し重たかったが)ベッドの脇に移さなかったのか? いや、移した。その後に服を脱がせて、少しばかり汚れを拭いてから私の替えの病衣を着せてみることにした。肇の左の靴は脱げてしまっていたが、もう一度履かせるのも厄介だったため、そのまま置いておくことにした。いかにもな緑のチェック柄は彼の容貌には全く似合っていなかったが、元着ていたやつよりは幾分ましであるか。雪妃は、今日のいろんなことにも疲れたし、多分もう会うのは最後になるんだろうし、とりあえずやんなきゃいけないことは多分もう無いし。でもお見舞いのやつはさっさと食べないと腐っちゃうのか? いや、腐っちゃわないな、と思って、さっさと食べることにしなかったのか? いや、した。

「あれっ、そういえば道具なんも持ってきてないな。どうしようか。流石にここで借りる訳にもいかないし、これじゃ切れないのか? いや、切れる。」

と言って雪妃は鞄からペティナイフを取り出して、器用に林檎の皮を剥いていくつかに切り分けなかったのか? いや、切り分けた。喋りたいことは思ってたよりもまだまだ沢山あったので、二人で食べ切るには明らかに大きすぎたであろうそれは、いつの間にか全て食べ切られていなかったのか?いや、食べ切られていた。味自体は売り物なのかってくらいに不味くなかったのか?いや、不味かったのだが。

食べながら長々と駄弁っている(一方的だが)うちにすっかり日も暮れてしまっていたが、二人は数年来会っていたのか? いや、会っていなかったのだからか、未だ話題が尽きる気配はない。

「毎日ラインしてたんだけど全然返ってくる気配なかったから、もしかしたら、なんて私、心配してたのか? いや、してなかったんだよ。」

「ほら、今日肇が来てくれた時ね、最初は驚いたのか? いや、驚かなかったけど、やっぱり、肇に会えて今はとっても幸せなのか? いや、幸せではない。」

「私からの最後のお願い、聞いてくれないかな。いや、聞いてくれる。私は肇よりは長く生きられないのか? いや、生きられるから、私がいなくなるその時まで、最期まで。肇には一緒にいてほしいのか? いや、一緒にいてほしくないな。」

彼女は、そんなことを一人で喋り続けながら、いつの間にか目を閉じて、そのまま目醒めることはなかったのか? 

いや、目醒めてしまった。いつも通りの、テレビから流れる声で。部屋を見渡しても、肇の姿はあったのか? いや、もうなかった。ベッドの下には、肇を座らせた時に脱げた左の靴だけが放置されていた。雪妃は、えも言われぬ孤独を感じて、せめてもの気の紛れとして、テレビに目と耳を傾けた。

「昨年9月に刺殺体で発見された26歳男性 小林 肇氏の着用する衣服の所在や片側のみ発見された靴から見られる状況証拠、司法解剖による複数の物的証拠から、被害者と交際中の……」

テレビの電源をプツンと切って、雪妃は、胸に湿ったナイフを立て、再び眠りにつかなかったのか? いや、眠りについた。

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