憎まれた皇帝
評価: +19+x

ゲオファ・ムンドゥスGeopha Mundus
データベース/エントリ#5371 - トビアス・バシリオTobías Basilio博士






プロフェッサコード: 4-K-6-3-T-5-5

クリアランス: 4

記録: 本名トビアス・バシリオ。トリニティ部門主席研究者。我々は彼の残骸をタイムライン23 - サブレベル7より回収しました。タイムライン23内部でのバシリオはηηη-0218(“歯車仕掛正教”)のエージェント(当該タイムライン上においてはメカニトと呼称)として活動していた経歴を持ち、その為バシリオの右腕には機械的増強が確認されています。

現在、歯車仕掛正教は事象ZK-(“ティンダロス・トリニティ”)の発生により混乱を窮しており、活動は小規模であると判断されています。よって、我々に直接的な影響を及ぼす可能性は極めて低いと推定されます。


return 0;

THE HATED CAESAR

収容手順に未知が生じた。

トビアス・バシリオTobías Basilio博士は暗い回廊の残骸を静かに渡っていた。彼を呼び込むサイレンが静かに高鳴る。緑の弱い蛍光が辺り飛び散って彼の目前に四散する。頭上の階層を生きた振動が駆け巡った。悲鳴が響いた。それを聞いた者でさえ、正常な意識のままに身を溶かされてしまうだろう。重力の存在しないように、彼の足取りは速くなる。比例して、彼の緊張と冷静も上昇するのだ。

空間に固定された弾丸を躱すように、彼の影はホールを横切った。裾の焦げた白衣がサイトの間隙を飛ぶ。不安を煽る、不安を煽る。物事は何よりも喫緊を要する。彼らの部門の不安定な予測と構想は、予兆もなく倒れた。そして倒錯した不可解な事実が反吐の中にそれを消化した。よって、彼らにとってこれは新たなるインシデントだった。彼が今からするべき試みは、要するに深夜のライヘンバッハの滝へ身を投じるようなことだ。

バシリオは太古のメカニトでもあった。彼の右腕は義手のように、簡易的な歯車と油圧シリンダの集合物だった。集合物であって、彼の一部ではない。そこには二人のバシリオが存在するように。彼の意思に反する重みであって、バシリオの右腕とは程遠くプログラムを遂行する。彼が如何なる因果によってここへ導かれたのか、タイムラインのみぞ知っている。

荒廃したサイトの角を曲がった。オブジェクトの唄が傍で聞こえた。その波紋が彼の鼓膜を揺らす度、余分な皮膚が左腕を覆った。途端に爆発音が聞こえ、唄は途絶えた──良い事だ。少なくとも時間軸の間に沸き出でる彼らにとってはの話だ。暫くすると、バシリオの視界に鋼鉄の扉が映る。緑の光が間隙から漏れ出ている。扉の間合いに踏み込む度、彼の脳が亀裂の顕れる程に傷むのだ。それでいて彼はタールの臭いに酔痴れていた。甘い香気に導かれ、バシリオは唱える。

「プロフェッサコード、4-K-6-3-T-5-5。クリアランス、フォース」彼は、確実に唱える。

音声認識プロセッサが身を震わし、我武者羅なセキュリティを切り開いた。煙の唸りが天を突き、バシリオを神経を刺激する。既に塞がれたスピーカよりモスキート音が漏れる、それは彼の脳髄へ。


『黒き月は吠えているか?』


「否、私は其を礎と呼ばず」バシリオは語義を噛み締めた。

隔離セルへの通路が繋がった。視線の奥で光が灯り、緑の塹壕が姿を現した。そこから先は崖だ。彼は意思を固める時間も、遺書を書き連ねる時間でさえ有していない。あらゆる媒介は彼の身には意味を持たないのだ。扉の枠を越えて、バシリオの影は緑の光に消えた。

THE HATED CAESAR

「お待ちしておりました、ドクター・バシリオ」

クレメンテ・レナトClemente Renato研究員はタブレット端末から目を外し、中性的とも呼べる顔で後から到着する博士を見た。彼はセル内部に恐らく存在しているはずの男の目付けであり、彼らの部門のオブザーバーの一人だ。泥のような長い髪が翻り、再びレナトは私情に従事した。

鋼鉄の境界線は、彼の背後で外部の騒音を完全に絶ち切った。セルに打ち付けられた研究室の一部屋は、まるでダストシュートのようだった。足跡の付いた資料は辺りに散らばり、ラックは押し倒され、床に四散したガラスの破片とケーブルが唸りを上げて熱気を放つ。しかし無音だ。それを上方からの緑の光が照らす。おおよそ彼にとっては理想のオフィスだった。

バシリオは数枚のレポートをドライブアレイに叩き付けた。そして鉛の歌を聞き、溢れ出た左腕の腫瘍を小型カッターで削ぎ落とす。彼の目付きはナイフのように鋭利である。「インシデントは何分前だ?」

「2分17秒前です」レナトは彼を見向きもせず応えた。

「トリニティ部門からの報告は?」辺りに血を撒き散らす。更にオフィスは洗練されない。バシリオは左手にゴム手袋を慎重に嵌める。抵機動性SRAを装着する。そして、彼は歯車仕掛けの義手を眺めた後、右手のゴム手袋を壁へ放り付けた。更にオフィスは洗練されない。

ネガティブNegative」彼は再び応答する。

バシリオは医療マスクを装着する。“トリニティ部門Trinity Division”。その完全化された存在は彼の右腕でさえ知ってはいない。第五次元伝達ホール、タイムラインマージ分析システム、ビショップコード。そういったフィクション的にアーカイブされたような技術が僅かながら確かにそこにはある。彼らの歩みは夢のような恩恵であり、悪夢のような歴史だった。

彼は金属トレイに散撒かれた錠剤を掴み取り、コートの内ポケットへ差し込んだ。そして床に散りばめられた数枚の資料を搔き集め、同様に差し込む。そのいくつかは、たった今レナトに印刷された許りの情報だった。しかしそれはバシリオにとっては既知である。彼の脳に強引に詰め込まれたレジスタは常識力を司る組織を焼いていたのだ。バシリオはもう一度右腕を見返した。それに埋め込まれたウェアラブルカントカルクは0.87を示している。「クソ」

幾つかの感情がバシリオの中で融合し、彼の右手はオイルを吐き散らかす。鮮烈な色彩は書き消された。更にオフィスは洗練されない。ドライブアレイをデスクへ叩き付けた。壊れた排気音が響いた。

「コードを切れ」バシリオは背後に怒鳴った。

またも彼は阻まれる。レナトは数本のケーブルの切断し、電力の供給を絶ち切った。扉はシャットダウンし、再び深い眠りに就く。バシリオは自身のアクチュエータを振り回す。内臓された冷却ファンのスイッチに触れた。バシリオは薬の一粒を摘まみ上げ、口へ放り込んだ。憎悪とテレキルの入口にそれを飲み込む。

「構わん、通せ」

レナトはゆっくりと確実に単語を唱える。「アイAye

それはバシリオの前に隔てられた扉の封を切り、収容セルから漏れ出る外気は彼に現状を知らしめた。深く見当も付かない未来が目を覚ます。幾つかの星辰は彼らの元へと帰るのだ。再び彼の影は暗い枠に落ちた。

THE HATED CAESAR

バシリオは檻に見入っていた。そうして彼は一室に立っていることに注意を向けた。収容セルには罅が入っている。背後のエレクトロニクスは常に強く幻惑を引き起こし、ガラスの内部には腐食の息が吹き込まれる。俄に取り付けられた生活の体系が目前の男を包囲していた。その地獄とも呼べる環境で、緑の蛍光にそれは照らされ、暗い個室に立ち上がった。右手の冷却ファンのスイッチを切る。彼の言葉が聞こえるように。そして彼の言葉が聞こえるように。

「やあ、財団管理者、フランク・ベルトレムFrank Beltrem殿」

バシリオが視線を送るのは、嘗ては管理者とまで謳われた呼ばれた男だ。そして現在は不死である。財団。それは3のタイムラインに拘束され、この世界の僅か一部分を構成するカートリッジへと成り下がった。それは更に膨張、拡散、消失を繰り返し、やがて平行線は存在しなくなる。刺激を全面に受け止めた異常は手に負えなくなる。データベースの時代は終わりを迎え、彼の発言を許すまでに至ったのだ。

「ようこそ、バシリオ。私は今に帰ったところだ。私の意識は更に上昇し、ここは更に廃れるだろう」古びた緑のスーツに身を包み、ベルトレムは叫ぶ。

バシリオは気にも止めず、隅の椅子を引き寄せる。それは汚いセルを一望できることを意味しており、彼にとっての暫定的な安寧になるのだ。不穏を軽蔑するようにそこへ腰を落とし、レポートを引っ張り出す。目前の男に最初の質問を投げ掛けた。「お前の観測した、未来とやらは何だ?」

管理者は大きく息を吸い、多くの咳に変えた。次に声を発するまでに多くの時間を要求した。どうやら彼は嘔吐物の上に立ち上がるのが経歴にそぐわないらしく、それはバシリオにケーブルの一本を捩じ切らせ、セルへの負荷を弱める結果を与えた。

「君は──君は財団を捕らえてなどいない。焦がされた蜘蛛の巣に右手を入れるように、離反した管理者の後始末を終えただけだ。しかし、それでも希望に満ちているだろう未来は続くのだよ。」管理者は語る。「ここから先は、ある種の終焉だ。断片的な歴史の終わり絶対的な衝撃であり、正常性の反逆でもある。刮目すると、それは単にメタフィクションの消失でもあるし、時として常ではない姿も持ち合わせている。3のタイムラインだった君達は転がり果て、あらゆるカノンを巻き込み惑星は膨張する。しかしバシリオ、事象は増大するのだ。全ての物語とやらに筋道が通った時、君はどうなると考える?」

バシリオは彼の言葉を聞き、静かに頷く。鉄格子の隙間を意味の通らない複数の単語が通り抜け、暫く彼はそれを切り捨てる作業に従じた。

「その多くは、オカルティリズム、バタフライエフェクト。そして、ティンダロス・トリニティ。猟犬共に手を触れるべきではない。それは未だに溢れていない。一つの事件が重なり、大規模な膜を張った世界は崩れる。未来は変わり、過去は皆でそれを称賛した。或いは単にシンプルだった時代に逆戻りしていただけだったのかもしれない。そして管理者はそれを知覚できるのだ。長老共に伝えておけ、ただ祈るのだ」

「終焉とは?質問にのみ答えろ」管理者に照明が当たり、バシリオは彼の全てを受け入れることになる。ベルトレムのスーツの右胸に、一点に集中する3のアローヘッドとシャフトを有したシンボルが見える。その裏側には無数の焼灼の跡が見える。

「君の部門は偉大だった。その気になれば、平行線を跨ぐことでさえ可能なのだ。打ち解けられたパラダイムのように。たった数枚のデータベースが為に、トリニティは幾つもの部門の破壊を命じた。打ち砕かれた。お願いだ応えてくれ、私はここにいるわけではない」

バシリオの右腕は微かな違和を検知する。しかしそれは彼の神経へ流れ出ることはなかった。「何故そこにいない?」

「暗い廃屋に君が得たもの全ては一体何だ?『黒き月は吠えているか?』。それでは未だ満ちて足りていない。タイムラインの残骸は未だに引き伸ばされ続け──全ての因果を掴んだ男の遺骸が必要だ。絶対的な存在が更なる境界を誘惑する」

「どうすれば彼を終了できる?」バシリオは管理者の傷を眺め、彼の機械仕掛けの精神を見透かした。それは干魃した大陸さながらであり、幾度となく血の大洋に命を落としたことを示唆する。しかし彼は健在であり、それが奈落へ落とす結果に成り得るのだ。「お前を、殺せるのだ?」

「確かにこれは痛い。時間の赦しを乞え。時間の赦しを乞うのだ、クソ野郎。プロジェクト・リーヴとやらはこの上ない程に苦痛を与えた。面白くないことではない。殻を破ることのできる気力があるのならば──トリニティがその手を離せば、私は生きて行ける」

収容セルが大きく打ち振られ、彼らの後方で二度の爆発音が響いた。確実に何かが迫りつつあった。不穏は先に着陸する。第二の余波は遅れてやって来るのだ。「いや待て──財団は悪なのか?」

「彼らの内は管理者を暗殺した歴史もあるのだ。君がそう思えば、そうだったのだろう」ベルトレムは言った。

「もう十分だ、ベルトレム殿」バシリオは全身から煙を排出し、彼の上半身は立ち上った。レポートを右腕で細断する。彼はベルトレムの一言を確実に刻み込んだ。頭部のレジスタが更にバシリオの脳を焼く音が聞こえた。彼は振り返り、立ち去ろうとする。「お前が死を迎えることを願っている」

僅か一瞬だった。

カントカルクが軋む。室内のヒュームが劇的な変化を見せた。全身の血液が沸騰し、バシリオの身体を強引に転回させる。彼に付随した意識が瞬時にそれに反応して、管理者の姿を視界に捉えようとした。「クソ、」バシリオは見た。格子が捩切られ、バシリオと男の間に区別は消失する。タイムラインのように。彼の予想の深淵で、ベルトレムは笑っていた。

それが最期だった。

長針が活動を止めるようなことは訪れない。それでもベルトレムは彼のみが全てを知りたることを面白がった。バシリオは無を直視し、管理者の存在しない銃口を認識した。存在しない弾丸の軌道が、そこへ存在していた。しかしそれは鈍い。鈍い。

バシリオの体に鋭く鈍い痛みが走る。彼の心臓をその事実が貫いた。内側から炸裂する。擦り合わされたゲノムを通過し、赤のオイルが穢した。固執した概念は消失し、それはもう生きてはいけない。彼の体は投げ出され、冷血な床の上に静かに横たわっていた。バシリオは夢を見ていたのだ。

「バシリオ、そこに悪はない。タイムラインは生きていて、相対的に拒否を促すのみだ。君が私の遺骸を手にすることはない。太古を探せ。私の意思ではない、しかし管理者の意思ではある──ああ、時の流れが赦して下さる。私はここにはいなかったのだと」ベルトレムは格子を跨いで彼の前に立った。「幕は上がるものであり──衝突は避けられないものだ。君は死ぬ、しかし君が死ぬことはない。君は存在しない、しかし大いなるヴェールが君と共にあるだろう。それは消え掛かっている、それでも誰もが君を神と仕立て上げるのだ。君は如何にして存在し得ない物事を見てみせるのだ?」複数のセルが重複し、物理的であり現実的な支障を来した。「バシリオ、君は如何にして動くのだ?」

収容セルの扉が開かれ、レナトが彼の元に滑り込んだ。「ドクターバシリオ?クソッ!まずい」レナトはここへ立ち入るに際して何のプロトコルも遵守していない、当然だった。如何なる存在も危惧されない部屋に立ち入る時、どうやったらそいつは何もない存在を恐れることができる?その答えはバシリオを大いに苦しめた。彼らを前にしてベルトレムは立ち尽くし、ただ男の輪郭は希釈される。レナトの網膜にそれは映らない。無辜であった彼は、今自身が何処へ入り込んだのかでさえも知ることはないのだろう。

バシリオは抵抗した。緑の霧が迫る視界で、管理者を見上げた。彼が意識を保持できないことは、即ち管理者との最期の記録を失うことを意味する。永遠なる消失。次元は何よりもそれを危惧した。彼は精神を研ぎ澄まし、意図的に頭部のレジスタを操作する。無限の時間があった。可能な限りのデータを右腕に転送し、彼は自身の身体構造に感謝した。そして本の些細なことだが、膵臓ガンのリスクが遥かに向上したことを妬んだ。僅かな意識を残し、バシリオは大部分をシャットダウンさせた。

次元の糸が解れ、彼らの元へと結び付いた。彼はそこにあったのか?管理者の存在は絶対的であった。事実は伝播し、トリニティ部門は再び彼を見失う結果を得たのだ。未来と過去は合致し、ベルトレムの存在はシュレディンガーの亡霊と化してそこへ佇む。


管理者は存在しない。


«憎まれた皇帝│coming soon…»

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。