目を開けると、ドレイヴンは海の中心にいた。
彼は周囲を見渡す。空の彼方まで伸びる水平線が見える。ウミネコの群れがその奥で鳴いた。足元を見た。橋の木目が見える。水の流れが聞こえる。海の畝りを乗せた大気の乱れがあった。
彼は、橋の上に立っていた。
彼はいつもの通りMTFの訓練を終え、数人の同僚とコーヒーマシンへ向かっていたところだった。唐突に彼らの声が遠退き、周囲の景色がフラッシュしたかと思うと、気が付いた時にはここにいた。唯一変化のあったことは、彼が日本に滞在していたことだった。
彼はこれが記憶に新しいわけではない。初めて日本のサイトへ足を踏み入れた時、研究員の一人が両手でも抱えられないほどの資料の山を彼らのオフィスへ残した。ドレイヴンが目を通した数枚のレポート。その一枚にクリップで写真が挟まれていた。SCP-473-JP、彼がたった今立つ橋のオブジェクトだ。
ドレイヴンは橋の上を歩く。不思議と彼の精神は落ち着いていた。これから何をするべきであるのか、彼は既に知っている。これが既知の事象であったからじゃない。方程式のように鮮明に見えるものじゃない。デジャヴのようなものだ。
しかし、彼の自信は崩れ去る。
「ドレイヴン、」
背後で低い男の声がした。その声は鉛弾となり、ドレイヴンの心中を衝撃で貫いた。男の声には身に焼き付くほどに記憶に残っていた。数多の有りもしない疑問が彼の脳裏を通り過ぎるより先に、ドレイヴンは振り返る。そこには男が立っていた。
ジャケットに、首にぶら下げられたカメラが目に映る。つばに手垢の付いたベースボールキャップ。その目に掛けられた眼鏡には、まだひびは入っていない。その姿に彼の両目は焦点を失う。
彼の父だ。
「今までずっとどこにいたんだよ、」
そうしてドレイヴンは彼の父に一歩近寄る。
「父さん」
ドレイヴンは男を呼ぶ。男は依然として彼を見ている。
「でも、だって──父さん?」
ドレイヴンはまた一歩歩み寄る。彼の意識が二つの事実に挟まれ、断続的にシャットダウンした。これは明らかに間違っている。記載されていなかった、未知なる異常性なのだ。しかしドレイヴンの現実には父は確かに存在していた。
「ああ、分かってる、」
彼の父は応える。
「お前はずっと不運だった。」
「違う。ずっと父さんが心配だった。」
そして笑った。
「だが、お前はよくやっているよ、ドレイヴン。」
ドレイヴンの声は途切れる。彼の足は宙を踏み、彼は父を抱き締める。彼はこの時をずっと待っていた。コンドラキもそれに応えた。彼らの周囲を太陽は照らした。彼は一度心臓を吐き出すかのような感覚を覚える。そして、それは一瞬の内に彼の目前を光で照らした。橋に夜明けが訪れた。まるで暗い水平線から太陽が姿を見せたかのように。
「ずっと、父さんが心配だった。」
「ああ、そうだとも、お前はよくやってる。」
ドレイヴンは彼のジャケットに顔を埋め、静かに啜り泣く。ジェームズを連れてドライブへ出掛けた時から、こんなことはなかったはずだった。彼は忘れていた。偉大な影の存在を忘れようと努力してしまっていたのだ。しばらくすると、ドレイヴンの中に怒りや憎しみが顕れる。彼は未だに信じることができなかった。父が孤独の内に死を選んだことが。しかし、それも涙と衝撃と共に洗い流された。ずっとこうしていたかったんだ。
「しかし、まあ、俺たちにはまだ仕事が残っているからな。」
コンドラキはドレイヴンにそう言い聞かせ、彼を引き離した。
「ほら行くぞ、ドレイヴン!」
彼は叫ぶ。
「父さ──どこに?」
ドレイヴンはまだ心の整理が済んでいない。
「橋の向こう側だ。俺たちは今から競争するのさ。まるで近所のガキみてえにな。」
彼は橋の先を眺める。
「走るぞガキンチョ!モタモタしてるとまたクレッフィーの野郎の鉛玉が飛んできやがる。」
彼は慣れない体で走り出す。ドレイヴンは再びここへ来た目的を思い出した。
「待てよ父さん!」
ドレイヴンも遅れて父の背中を追い掛けた。
…………………
彼らは並んで走っていた。彼らが足場を踏み締める度、木が軽快な音を鳴らす。ドレイヴンはその中で、隣の男に目を向ける。それは疑いようもなく、彼の父だ。かつてサイト管理官を勤め、組織を死ぬほど嫌っていた父の姿だ。蝶やクレフやアイリスを、あたかも自身の部下のように頻繁に連れ歩いていた父の姿だった。ああ、まるで夢みたいだ。
「ああ、畜生。走るのは好きじゃない。」
コンドラキの帽子が風に煽られる。彼の呼吸がすぐ傍で聞こえる。こめかみにはうっすらと汗が見え始めている。ジャケットの裏に仕込まれたフィルムや試験管が音を鳴らして揺れた。彼の首に掛けられたカメラが反射して懐かしい輝きを見せた。
「父さん、」
ドレイヴンは父を呼ぶ。
「ああ──なんだ?」
コンドラキは無愛想に応える。彼には隣を見るだけの余裕はなさそうだった。
「父さんは、あれからどうしてた?」
ドレイヴンは再び父の顔を見る。
「あー、クソ、どうしたもこうしたもねえよ。現に俺の体は土の中にあるんだからな。」
彼は途切れ途切れで言葉を発する。
「それでも走ってはなかった。俺には羽がある。ちょおちょおの王は飛んで行く方が楽だからな。」
彼らは笑う。ドレイヴンは幸せだった。もう一度彼が本当のベンジャミン・コンドラキであると確信できたからだ。
「それより、ドレイヴン。俺がそうやってる間だ、」
彼は大きく息を吸い込む。
「クレッフィーやギアーズはまだ元気にやってるのか?」
ドレイヴンは頷いた。
「うん、あれからずっと変わってないよ。」
「ジーザス、あいつらに伝えとけ。次にあんたらが昇天した時には、俺が直々に鉛玉をぶちこむ手番だってな。」
「でも、彼らだってもう年だよ。」
彼はうんざりしたような口調で言った。
「それなら苔玉を送りつける方がよっぽど良いアイディアだな!」
コンドラキは声を張り上げた。
波の音がすぐ近くで聞こえる。それは押し寄せる度、ドレイヴンに父との思い出を甦らせた。以前のコンドラキは何よりもドライブを好んだ。晴れた朝にはエンジンを吹かし、壊れ掛けたラジオを鳴らして海沿いの道路からよく海を見に行っていたのだ──幼いドレイヴンを連れて。彼もそれが好きだった。いつもトンネルの闇を抜けた先に何があるのか、いつになっても待ち望んでいた。
「それで、ジェームズはどうなんだ?」
コンドラキは腕を目一杯動かし、彼の隣を走り続ける。
「大丈夫」
ドレイヴンは嬉しげに頷く。
「うまくやってるよ。」
「何てこった!クソみてえな海軍の息子を持ったもんだ。」
「父さん、」
ドレイヴンは不機嫌そうに顔をしかめる。
「面白くなんてないよ。」
彼はまだ笑っている。
「冗談だ、ジェームズは良い奴だ。お前があいつと結婚しても良いくらいに。ジェームズに伝えとけ、」
しかし、ドレイヴンはそこにも優しさが隠されていることを知っていた。
「あいつは俺に似てイカれた変人だ。それでいて、あいつはお前に似て随分とお人好しだな。」
彼は空を見上げた。それは少し淀んでいた。
………………
雨が降った。冷え切った雨水が親子を打ち付けた。しかし彼らは変わらず走り続ける。彼らが足場を踏み締める度、水滴が音を立てて飛び散る。ドレイヴンの顔は子供のように笑った。
「雨なんてクソ喰らえだ。ドライブだってできやしない。」
それに反して彼の父は不機嫌に唸る。コンドラキは息を切らしている。カメラのレンズに付いた水滴が輝いた。それでも息子の隣を走っていた。
「MTFだったら、こんなことばかりだよ。」
ドレイヴンは空を見上げながら呟く。
「ドレイヴン、」
唐突にコンドラキの口調は真剣になる。
「お前はなんで走ることを選んだ?」
「なんでそんなこと聞くんだよ?」
彼は予期しなかったようにコンドラキを見る。
「俺はお前とは違ってここで走り込みに来る奴らを五万と見てきた。そんでもって俺はサイト管理官だった。お前がここへ来た理由も大体予想が付く──俺はバインダーを残さなかったんだからな。」
彼は力を振り絞り、ドレイヴンの目を見る。
「言ってみな、ガキンチョ。お前も橋を知ってるはずだ。」
ドレイヴンは口を開く。
「もうすぐしたら、サイト管理官になるんだ。」
コンドラキは冷静に頷いた。
「父さんがいなくなった後、すぐにサイトの管理について話し合うことになった。管理なんてものは簡単にいくなんてことは思ってない。恐ろしいんだ。たった一回瞬きをする度に、一体どれほどの人達が命を落とすのか、まるで分かっていない。今よりももっと酷いことなのかもしれない。父さんは凄いよ。でも、俺は変われなかったんだ。」
コンドラキは静かに濡れた額を拭った。帽子のつばから雫が落ちた。
「本当に小さなことだと言われるかもしれない。俺はずっと独りで走っていたんだ。楽な仕事が無かったわけじゃない。でも、死にたくなるほど辛い毎日を送るつもりもなかった。」
ドレイヴンは俯く。
「だから、今はこうしている。その方が、」
「性にあっていた、そうだろ?」
コンドラキは応える。
「俺は大きい顔をするのは得意だ。だがドレイヴン、お前は違うな。」
彼はドレイヴンの目を見て微笑んだ。雨が強くなる。
………………
ドレイヴンは苦痛を感じていた。父と共に走ることは幸せなはずだった。だが、この橋が途切れてしまったら、どうなる?空は暗くなり、橋の先が思うように見えない。ドレイヴンの脳裏を一つの不安が横切った。彼は再び孤独に帰る。
「だから、父さん。お願いだから、帰って来てよ、」
雨がより一層強くなる。
「また父さんと酒を飲み明かしたいんだ。確かに、飲み過ぎは良くないよ。でも──」
ドレイヴンの目が、雨か涙も分からず滲む。
「アクタス管理官やアルト博士だって、父さんの帰りを待っている。」
打ち付けられた雨音が彼の声を書き消していく。
「なんでこんなことしてるんだよ──父さん、」
雨粒の一つ一つが不安の色を写し出したように、彼の視界を閉ざした。しかし、彼の父は何よりも走ることを嫌った。
「ドレイヴン。俺は、帰るためにこんなクソッタレたことをしているわけじゃない。」
ドレイヴンは顔を上げる。
「あんたに似た連中は、皆そいつ自身と戦うためにこの上を走りやがる。だが、ドレイヴン、お前は違う。お前は心の中で俺と戦っている。管理官だった頃の老い耄れコンドラキを踏襲するためにだ。」
彼の口調が、いつものように荒くなる。
「今のお前は、人生の定年を墓石から掘り出すみたいに、迷惑なもんだ。」
それでも、コンドラキは冷静だった。
「ジェームズが待っている、あんただって帰るんだろう。」
ドレイヴンは雨で滲んだ瞳で再び父の姿を見た。彼の中で雨は降り止む。
「──ありがとう。」
ドレイヴンは呟いた。彼の声は父には聞こえない。彼の足は速くなる。
「良い答えだ、ドレイヴン。」
コンドラキは呟き、そして雨の中に笑った。彼の声は息子には聞こえない。彼の背中が遠退く。
雨は止み、再び空が顔を見せ始めた。ドレイヴンは父を大きく突き放し、一人で走っていた。雲の合間から指す光が、橋の先を示した。彼は長い時の流れをその身に受けて、一人で走ることができていた。
………………
それは一瞬の内に終わった。
そうして、ドレイヴンはゴールラインを突き抜けた。それは見えない。しかしそれはずっと彼の心の内にあったんだ。彼の足音はゆっくりと止まった。ここに確かに存在することをドレイヴンは確信していた。
「父さん──」
遅れて彼の父も到着する。
「──ジーザス、あー、待てドレイヴン、」
コンドラキは膝に手を付き、ぜいぜいと息を切らしていた。
「あー、お前は先に着いた。誇りを持てよ、ドレイヴン。」
彼はゆっくりと体を起こし、食い縛った歯越しに声を出す。
「あれから辛い日なんてなかったと思ったはずだった。」
ドレイヴンは歩み寄る。
「だが、それも今じゃ違うんだろ?」
「ああ、その通りだった。」
ドレイヴンは頷く。
「父さんは、正しいんだ。」
彼の顔は自信に満ちていた。
「お前はやり遂げたんだ、何もかもできるはずさ。」
ドレイヴンはその意味を確かに噛み締め、頷いた。そして、胸の中で再び彼の言葉が甦った。大丈夫、きっと何もかもうまくいく。未来がある、ジェームズが傍にいるんだ。
雲が姿を消した。彼らは空を見上げる。虹が橋の袂から伸び、空へと散っていた。水平線の覚束ない青が、橋を包んでいた。コンドラキは数歩下がる。そこには壮大なファンファーレのような無かった。それでも、親子は別れを確信していた。
「じゃあな、ガキンチョ。」
コンドラキは最後に笑った。既にドレイヴンの足元は消え掛かっていた。
「ありがとう、父さん。」
ドレイヴンは応え、彼に手を振る。
「愛してる、ドレイヴン。」
彼の父は俯き、静かに呟く。彼が次に顔を上げた時、ドレイヴンの姿は消えていた。
コンドラキは目を閉じる。彼もゴールへ辿り着いたのだ。彼はバトンを手放し、ドレイヴンは橋の向こう側へ走り去ってしまった。もうその先へは進めない、しかし心配はなかった。あいつはもう自分自身と走ってやがるんだ。彼は何よりもドレイヴンを信じていた。瞳の裏にまで虹が続くのが見える。そして、涙が出るような青く澄んだ空に、彼の陰は消えた。