「……ほんまに、行ってもうたなぁ。」
誰に言うでもなく一人呟いた。こうなることは分かってたけど、やっぱり寂しいなぁ。
“普通の世界に戻るなら、これまでの記憶を忘れなければならない”
彼にそう言うたのはうちやし、大方、戻る選択をするやろなとは思ってた。
でも心のどっかでは、こっちに残ってくれるかもしれへんなんて淡い希望を捨てれんかった。
よくあること。今回は本人が異常性を解決するなんてかなり特殊な事例やったけど、普通は異常に立ち向かおうとする人なんておらへん。大抵は異常に関する記憶を消して普通の世界に戻ることを選ぶ。そう、ありふれた話。
だけど、今回はちょっと違ったから……中村君は最初戻るかどうか迷ってたように見えたし、フィールドエージェントとして充分やって行けるだけの素養もあった。何より実際に世界を救ったんやから。
でも中村君には戻る理由があった。弟、両親、友達、それに
「あーあ、ほんま妬けてまうわぁ。」
こんな時、大人は酔いつぶれるまでお酒でも飲んで忘れたりするんやろうけど、うちはお酒好きちゃうし……自分の体を大事にするって約束したから。
今日からは早く寝やんとね。
2017/04/26
今日から日記を書くことにした。
これまで日記なんて付けたことはないのだけれど、何故だか前からの日課のような気がして、書かなければいけない気になった。不思議だけれど悪い事ではないし頭の整理にもなるから、飽きるまでは続けていこうと思う。
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2017/04/30
今日、隣の部屋に新しい人が越してきた。伏見さんという屈強そうな壮年の男性で、仕事の都合で引っ越してきたとのことだ。仕事は忙しくあまり部屋にはいないとのことだが、わざわざあいさつに来てくれた。
とても気さくな人で、引っ越しの粗品に八つ橋を頂いた。これからしばらくは隣人として付き合っていくことになるだろうから、いい人そうで何よりだ。
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2017/08/08
夏休みと言っても、俺はサークルに入っていないし、友達が多いわけでもないから特にすることもない。東山さんとお出掛けしたりするくらいで、後はいつも通りだらだらと過ごしているだけだ。
そろそろ実家に帰る時期になる。帰省というのも初めての事で、家に帰るだけなのに何か変な感じがする。祥太は俺が帰ってくるのを楽しみにしてるみたいだから、あいつが好きな食べ物でもお土産に買って帰ろうと思う。
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2017/08/20
実家はやっぱり居心地がいい。慣れない一人暮らしで自分では気づかない間に溜めていた疲れが取れたような気がする。
それに、一人暮らしをする前よりも何か家族の距離が縮まった気がした。特に、弟、祥太と。
俺は今まで祥太の事を羨んでいた。あいつは優秀で、俺より勉強も運動も出来る。性格だって嫌味がない。それなのに、俺の事を兄ちゃんと呼んで慕ってくれる。不思議で仕方なかった。よくあいつと比較して、俺なんかって卑下していた。
でも、最近ようやく気づくことが出来た。あいつにもダメなところはある。注意力が散漫なところがあるからよく車にひかれそうになる。整理整頓も苦手だ。朝に弱い。
きっと、みんな同じだ。出来ない事は誰にだってある。だから、優れてるとか劣ってるとかじゃない、自分がすべきことを必死でやっていればそれでいいんだ、と。
あいつにとって兄は俺しかいないし、俺にとって弟はあいつしかいない。それだけでいい。そう考えると、今まで以上に祥太が可愛くなって、より自然に接することが出来るようになった。きっとこれは一人暮らしで成長したってことだろう。なんだか、少し誇らしくなった。
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2018/02/04
昨日は節分だったので、吉田神社の祭りに行った。吉田神社に行くのは境内で倒れて以来で、その時はボロボロだった本殿も奇麗になっていた。
境内には多くの出店が並んでいて、数え切れないほどの人が祭りを楽しんでいた。屋台は焼きそば、お好み、たこ焼きなんて定番から、水キムチ、きりたんぽ、湯豆腐なんて変わり種もあって目移りしてしまった。俺は牛串と焼きそばを食べて、東山さんはりんご飴やベビーカステラを食べていた。
食べ歩きの後、東山さんがやりたいというので小学生の時ぶりに射的やヨーヨー釣りをやった。俺はてんでダメだったけど、東山さんは楽しそうに景品を打ち落として、ヨーヨーを釣り上げていた。とても楽しかったので来年も行きたいと思う。出来れば、また二人で。
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2018/08/16
今日は五山の送り火を見た。鴨川デルタから見えると聞いたので自転車で出向くと、すでに多くの人が点火を待って、たむろしていた。しばらくすると東山に火がともり、大の字が見えた。確かに大の字は奇麗で、何か悪いものが取れた気がした。
五山の送り火を見に行く前、ついでだから下鴨神社に参拝した。閉門時間も近かったのであまり長居は出来なかったが、しっかり神様にはお祈りしたから、ご利益があると思う。そういえば吉田神社に行った時もお参りしたはずだから、そろそろご利益があるはずだ。何せ八百万の神様がいるんだから、一人くらいお願いに振り向いてくれるだろう。
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2018/12/17
早いものでもう大学生活が半分終わってしまう。そろそろゼミも考えなくてはいけないし、色々と悩むことも増えた。
そうした悩み事がある時は、鴨川に行く。流れる川を見ていると心が落ち着いて、冷静に問題と向き合うことが出来る、ように思う。
俺はまだ院に行くか就職するかも決めていないけれど、必死にやるべきことをやればきっと答えが見つかる。そう信じて頑張ろう。
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2019/06/17
最近はバイトもゼミもあって忙しい。発表の準備、課題、予習復習、バイトと日々を過ごすと、それ以外のことを気にする暇がなくなってしまう。
すれ違い、というのはこういう状況のことを言うのだろう。関係が壊れてしまう前に何とかしなければ。
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2020/01/02
正月は初詣に行って、色々なことを神様にお願いした。取り敢えず第一に、無事に大学を卒業できますように、ということ。次に、周りの人の健康と幸せ。まだ色々とあるけれど、長くなるので、ここに書くのはこの二つだけにしておこうと思う。
大学生活もいよいよ最後の年を迎えた。俺は入学が周りより二年も遅れたから、なんだか人一倍感慨深いものがある。もしかしたら一年延びるかもしれないけれど。
やり残しがないように、最後まで学生生活を頑張ろうと思う。
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2020/09/30
自分の将来について考えているとふと思うことがある。もし、これまでの人生で異なった選択をしていたらどんな俺になっていたんだろうか、と。
もし別の大学を選んでいたら。もし進学ではなく就職を選んでいたら。あの時ああしていたら、こうしていたら。俺はどんな人生を歩んで、どんな人間になっているんだろうか。今より立派な人間かもしれないし、ダメかもしれない。そこら辺のコンビニで働いているかもしれないし、世界を守る組織で働いているかもしれない。
そんなことを考えても仕方ないのだけれど、つい考えてしまう。でも、どんな道を選んでも、あまり変わらない気もする。きっと、どこでも必死で頑張っているだけだろう。
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2021/03/24
今日は卒業式だった。そこまで行くつもりは無かったのだが、家族が式を見に行きたいというので出席した。俺はスーツを着ていったが、周りにはちらほら仮装をしている人もいて、なんだか卒業式というよりはコスプレイベントに近かった気がする。
そんな締めくくりの4年間は長くて、短かった。小説やドラマのような冒険も恋物語も俺の大学生活には無かったし、大変なこと、辛いことも多くあったけれど、とても楽しかった。
明日から大学に行って講義を受けることも、夜遅くまで研究室に籠ることも、立て看板を見ることも無いと思うと少し寂しい。
でも、卒業したからと言って全部消えてなくなるわけじゃない。思い出も繋がりも、全部自分の中に残っている。
それでいい。
「八田先輩、頼まれてた作業終わりました。」
「そうか、ご苦労だった。……岩塚。」
そう言うて八田先輩は一枚の紙を渡してきやはった。そこに書かれてたのは、3000-JPの収容目標達成が認可されたっていうことと、それに付随して3000-JPがNeutralizedに再分類されたっていうこと。
「やっと、ですか。」
「あぁ、これをもって正式に3000-JPは無力化されたということになる。……5年間、よく頑張った。」
「八田先輩もお疲れ様でした。正式に無力化されたってことは、中村君の監視も解かれるってことですか?」
「そうなるな。」
この五年間、PoI-3000-JPの五人は一応の監視対象やった。うちら財団職員はもともと監視されとるようなもんやからええとして、中村君は民間人。やから、彼は財団によって監視されてた。それも今日で終わり。
「そうですか。それは良かったというかなんというか……。いつまでも見張るのも大変ですしね。」
「そうだな。……岩塚、3000-JPも無力化したことだし、休暇を取ったらどうだ。しばらく働きづめだっただろう?」
「まさか八田先輩がわたしの心配してくれるなんて。どういう風の吹き回しですか?」
「お前、俺を何だと思ってるんだ。部下を労うことも上司の仕事の一つだろう。」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。……色々、親に伝えたいことも出来ましたし。」
◆
「お父さん、お母さん、久しぶりやね。」
お墓参りなんて何年振りやろか。お墓は奇麗で、お寺の人が心を込めて掃除してくださってるのが分かった。
「ごめんね、ほんまはもっと早う来たかったんやけど、仕事の都合が中々つかんくて。ほら、その代わり、お父さんらが好きな大福さん買うて来たから。」
打ち水をして、お花を立てる。大福さんをお供えしたら、お線香をあげて、手を合わせる。
「……お父さんらは知らんと思うけど、わたし、世界救ってきたんよ。まぁ正確にはわたしちゃうけど……でも、少しは力になれたはず。そのおかげでやっと研究員まで出世できたし。……お父さん、お母さん。わたし、これからも世界を守るから、見とってな。」
お供え物を仕舞って、じゃあねまたねとお墓に背を向ける。またしばらくは来られへんかもしれへんけど、次来るときはまたいい報告できるように頑張るからね。
◆
夕暮れ。鴨川の流れはいつも通り緩やか。常世でも現世うつしよでも変わらへん。そんな鴨川のそばで黄昏色に染まっていく空を見てたら、なんか物憂げな気分になる。
もう5年。うちらが常世の国に閉じ込められてから、中村君が世界を救って、全てを忘れてから5年。あっという間やったなぁ。色んな事後処理と作業に追われて、いつの間にか時間が進んでたみたい。実際、ここに来るのもあの時ぶり。
常世が完全に無力化したのは嬉しいけど、本音を言うたらちょっと悲しい。もう二度と中村君と会う機会が無くなるってことやから。今日鴨川に来たのも、もしかしたらなんてところもちょっとあった。鴨川、カップルいっぱいおるし。
でも、運命の再会なんてドラマみたいなことはそうそう起こらん。それに会えんくて良かったと思う。未練残りそうやから。
「……幸せにね、中村君。」
うちが隣におる未来もあったんかななんて考えながら、どこか遠くの中村君へ言った。
◆
束の間の休みが終わったら、いつも通り仕事に追われる日々。
「よいしょっ……と。これでええかな。」
降りしきる雨の音を聞きながら作業するのも悪くない。でも、これまでの研究記録や関連書類を整理してファイルにまとめるって、こういう雑務はほんまに研究員の仕事なんやろうか。まぁ、常世関連やから仕方ないんかな。
ファイルを軽くはたいて、ホコリを落とす。手に持って、棚を開ける。棚に入れる前に、ちょっと名残惜しくなってペラペラとファイルを流し見る。あぁ、大変やったなぁこの計算、一日掛かったっけ。そうそう、常世におった時はヒューム粗密波の原点位置を解析するプログラムを組んで……
こんなこと思い出してたらキリが無いって気づいて、めくるのをやめた。この出来事はもう自分の一部になってるから大丈夫。この記憶も思いも、思い出せなくなるその日まで抱えて生きてくやろうから。
うちら4人だけは中村君が世界を救った英雄やって覚えとかんと。今があるのは、中村君のお蔭やって。
「ありがとう。それとバイバイ、うちのヒーローさん。」
一言呟いて、ファイルをNeutralizedと書かれた棚に入れ鍵を閉めた。
雨、しばらく止まんといて欲しいな。ちょっと濡れたい気分やから。