ありすぎて、いない

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回転灯の赤い閃光が暗がりの通路を照らした。彼は間一髪でハッチへ滑り込み、梯子を伝い降りる。残りの段を飛び降りると、シェルターの閉鎖ボタンを殴った。ブザーが鳴り響き、天板はそれ自身が施設の一部のように強く接合する。向こう側からは、サイトの変形する嫌な音を聞いた。ハッチの向こう側からは異常な程に重圧がかかり、もう開きそうにない。しかし、看守が侵入者を許すほど、簡素には造られていない。つまり、ここは独立したサイトとなった。

少なくとも彼の知る内では、世界は終わってしまったらしい。

何があったのか、詳しい状況は飲み込めていない。

今日が彼の初日となる。ここへ勤めて小3時間、未だ名前を聞かれていないほどに無名の研究員だった彼は、こういった時の対処法を本能以外からは教えられていないのだ。理解を超越した上空からの一撃が、彼の初々しい瞬間を粉砕した。このサイトへ実際に足を踏み入れてから、第一に学ぶのが、コンテインのハウトゥと、財団の理念。そしてその双方よりも優先されるのが、このシェルターだ。

これでもまだ運の良い方だった。異常な事態を知らせるサイレンが、サイト中を引き裂いた。遅れて、緊急アナウンスが駆け巡った。ゼロ、スリー、ゼロ。そして、アナウンスの声が途絶える。職員たちは皆、一つの方向に走る。そして、暗転。衝撃。孤独。次に照明が弱々しく復帰した時、彼が最後に見た光景は、回廊の突き当たりを覆う虫擬き。そして、彼のすぐ後ろから漏れ出る微かな光は、この空間に続いていた。

彼は肩で息をするも、すぐに立ち上がる。シェルターはテニスコートの半分とない窮屈な一室だった。蛍光灯の一つが激しく点滅した。彼は室内を見渡す。デスクとラックの3セット。一つの部門が三ヶ月は優に生きていられるであろう携帯食料・水分・小型発電機、そして彼らが生きているのみにならないよう、何百枚の白紙のレポートと娯楽が詰め込まれている。彼は一先ず安堵した。次に、悲嘆に暮れた。この後に彼らにより齎される運命は、救いか死、あるいは永久的な手詰まりだけだ。

他に音は聞こえない。不穏の汗が額を流れる。きっと久々に走ったからだ。だが、彼は本当はそうは思っていないことに気付く。とにかく、彼は生きていられたことを幸運に思う。

デスクの向こうには窓があった。しかし、たった一つのそれは、虫擬きで覆われている。彼らを観察できる良い機会だ。それをより近くで見ると、生物学的に明らかな欠陥がある。しかし、呼吸をするように、自ら膨らんだり縮んだりを繰り返している。これを活動するところを見ると、ますます気味が悪い。彼は窓からは視線を外すことにした。

「ねえ、君、」

声が響いた。甲高い子供の声だった。彼はシェルターの内部を見渡す。まだ人が?でも子供だ。「君だよ。シェルターの中。」

しかし、それはアナウンスでもなければ人工音声でもない。その声はまるで新聞の切り抜きから作られた脅迫状のように、狭い個室ではっきりとしていた。彼は窓の外を見る。窓の中央に張り付く虫の一匹の、黒い瞳孔のような部分が広く見開いている。それは、小さな暗闇から彼を覗いた。「そう、そこだ。」

声の一文字ずつが、脳裏に焼き付き録音されるように鮮烈に聞こえる。違和感と彼の見据えた未来が重複し、吐気を催す。これが俗に言う、テレパシーだ。

「君の名前は?」それは尋ねた。

彼は押し黙る。この光景は、あまりに非現実的過ぎる。しかし、虫は自分とは違って全てを知っていた。彼の全てを知っていた。全ての因果を知り尽くしていたかのように。

「君は、何だ?」

彼は辛うじて声を出すことができた。彼の背筋を亜寒が引き裂く。

「僕らは"石油喰らい"。」それは答える。「僕らは、石油を食べて増えるんだ。石油じゃなければ、君らと同じ。」

「それなら、次は君の番。君の、名前は?」

彼の頭を、悪い予言が横切った。ここには彼と虫擬きしか存在しない。そして、その問いに答えられるのは、この場には自分自身以外に存在しない。全身を沸騰した血が駆け巡り、彼の手が震えた。自分に暗示を掛ける。しかし、これも将来的な出世のためなのだ。

「楓稀、」彼は答える。「研究員補佐、峰 楓稀。」

「そっか、フーキくんか。」

「君は、何だ?」彼の最初の疑問は、こうだ。

「君たちの閉じ込めたがる、"おぶじぇくと"。それも、一番危険な、"けてる"の。」

彼はオブジェクトの分類については多少は教わっていた。大きく判別すると、Safe、Euclid、そしてKeter。信号灯みたいなものだ。だが、それが赤でも黄でも、たとえ青だったとしても、君は避難しなくてはならない。そして現在、自分の目の前のショーケースに詰め込まれた虫擬きたちは、つまりはKeterだと言う。

「君が、これをしたのか?」彼の手は震えた。

「そう」

「世界は、どうなった?」

「なくなる。」それはすぐに答えた。「0匹の僕らに覆われて、何もなくなる。」

彼の中で悪い予言が適中した。後は時間の問題だった。

「それは…何だって?

「無限大というのは、0と同義なんだよ。」それは答えた。

「それがありすぎて数えられないのは、その個数を正しく認識できないのと同じ。つまり、それを0個数えたのと同じなんだ。」

「どういうことだ?」

「君たちは宇宙の体積は分かる?」虫擬きの目が一斉に細くなる。「君たちの組織でも、観測可能な範囲までしかそれはできない。たとえ、その一部を切り取っても、それは宇宙の体積じゃないんだ。」

彼は歯の隙間から声を漏らす。「違う。それは、少なくとも1はあるはずだ。」

「それなら、いくつで終わるって言うの?」

彼は黙って頷いた。背中に張り付いた汗が冷たい。奴の主張は、明らかに破綻している。なら、それは何処にある?何が欠落している?そこにあるのは、何もない。そこには何もない。

「それは、終わらない。それは無限。」

虫擬きは続ける。「これも同じ。君たちが繁殖を求める矢先に、いったい何があるの?そこには何もない。滅亡か、永遠の繁栄。そして、滅亡。僕らだってたった3週間後にはそうさ。だから、僕たちはその先で待っている。」

それらの瞳孔が一斉に広がり、彼を見る。彼の脚が一瞬、平衡機能を失った。意識を研ぎ澄ましていないと、その目に吸い込まれてしまいそうになる。

「つまり、僕たちは、存在しない。存在しないのが、たくさん存在する。それは、何もないの正確性を鋭く磨き続けるだけなんだ。0匹なんだ。今日は0匹。0匹の石油喰らいたち。」

その時、彼らに変化があった。虫擬きの向こう側から何かが押し出された。それは窓に当たり鈍い音を立てた。全貌が顕になる。多角形の物体。彼にはそれが分からない。虫擬きたちの目が一度閉じ、赤く光る。

「だから、僕たちは、だ。何かがある、が、何もない。ありすぎて、いない。ある、いない、ある、いない。さあ、君も、」

虫擬きたちは窓の外側をしきりに蠢いた。更に見開かれた赤い目は、光の軌道を残して窓の表面を這いずり回る。窓にヒビが入る。天井が軋む。それは彼を押し潰そうと、悲鳴を上げて落ちてくる。壁が音を立てて形を変えた。彼が悲鳴を上げる。そして、それはたった一瞬の内に終わる。

彼の視界が暗転し、その後には何もなくなった





微かにエタノールの匂いがする。彼はデスクの上で目を開けた。開放的な部屋に独りいた。どうやら眠っていたらしい。


白衣を濡らす汗が冷たい。悪い夢を見た。


大きく深呼吸する。全ては夢の中で終わった。何も起きなかった。何も起きなかったのだ。


奥のゲートが開いた、白衣を着た何者かが近付く。


「やあ、小さな研究員くん。」


彼は立ち上がろうとする。


男は講演台に立つ。「いいや、立たなくていい。座ったままで。」


男は大きく息を吸い込んだ。


「改めて、財団へようこそ。そんなに窮屈そうな顔をしないでほしい、皆君と同じだ。君がここへすぐにでも馴染んでくれることを願っているよ、フーキくん。」


彼は、小さな虫擬きの意識の中で悲鳴を上げた。


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