否決!否決!否決!
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夢を見ていたようだ。

それが本当に夢だったかどうかさえ定かじゃない。あまりにもリアルだった。夢の中で見た灰色のコンクリート壁のでこぼこした表面、夢の中でいつまでも鳴り続けていた金属の轟音……夢の中で脳を横切った鋭い激痛、夢の中で全身が沈み込んでいった耳障りな言葉……リアルすぎて、その詳細に至るまでハッキリとしていた。まるで、拡大鏡でコンピューターのディスプレイを構成する赤・青・緑の画素を観察していたかのように。けれど、不思議だった。私は夢の中で会った財団職員を知らない。私は夢の中で居たイエローストーンの部屋を見たことがない。私はSCP-2000が口を利くところだって──

SCP-2000は口を利かない。

やはり、あれは夢だったのだろうと思う。深く考えずに、心の底からあれは夢だったと受け入れれば、夢らしい部分もより明白に見えてくる。幼い子供が異なる色のインクをかき混ぜるように、それぞれの細部が混ざりだす。因果関係、時系列、夢の中では当たり前だと思っていた規則、それらが支離滅裂なものに変わっていく。最後には、夢の具体的な内容すら忘れてしまう。ただ漠然と、夢を見ていたような感覚だけが残って、その感覚さえも激務の中では全て放り捨てるように迫られる。

SCP-2000は口を利かない。その迷路のような廊下と部屋を往復する日々を続けて5、6年ほどになるけれど、いつ見てもその姿は変わらない。沈黙、静穏、休むことを知らずに働き続ける巨人。SCP-2000は口を利かない。無理難題の重責を背負い、ただそれ一つを背負い、その使命を果たすだけで精根尽き果てて、口を利くだけの力さえ残っていない。とうに傷だらけになっていても……関係ない、その問題を解決するのが私達の仕事だ。

コーヒーカップに残った茶褐色の液体を最後の一滴まで喉に流し込んで、昨日の夜のうちに整理しておいた書類を取り、過去5、6年間と同じようにSCP-2000の廊下を歩く。これは夢ではなく、現実だ。目に映るコンクリート壁の表面は相変わらずでこぼこしていて、幽かな機械の轟音も響いている。けれど、すれ違う財団職員の誰もが見知った顔で、今どこの道を歩いているかも分かっているうえに、SCP-2000は口を利かない。機械を人に例えるのは適切ではないが……つい想像してしまう。口元から血を溢れさせ、重荷に耐えきれず、節くれ立った垢塗れの両腕を震わせながら大きな球を持ち上げている巨人の姿を。たとえそうであっても、巨人は口を利かない。巨人は沈黙し続け、私は一枚の白絹で彼の顔に付いた血を拭い取った。

これが私達の仕事だ。これが私達、財団職員の仕事だ。仕事はしっかり遂行しなければ。

突然、ズボンのポケットに入れていた携帯が振動した。携帯を取り出して一瞥すると、1通の意味不明なメールが届いていた。文面の出だしは、「そんなことをする必要はない」。どういう意味だ?私はメールの送信元を確認しようとしたが、先に目的地のドアの前に到着してしまった。後で見よう。私は携帯をポケットにしまい、取調室のドアを開けた。

二人の警備員が今日の対象を金属製机の向かい側に座らせていた。男性、35歳、手入れされていない髪はボサボサだが、整える時間があればもっと真面目そうな外見になれるだろう。彼の右腕は金属製の椅子の側面に縛り付けられ、肩まで捲られた袖の下からは、血色に乏しい痩せ細った腕が覗いている。もう片方の袖は無気力に垂れ下がっていて、注意深く見なければ隻腕だと勘違いするかもしれない。私は机の反対側に座り、彼の顔を見た。彼は俯き、目玉を皿に投げ込んだビー玉のようにぐるぐる回していた。少し開いた唇は湿り、わずかに震えている。彼の気分はあらかた想像できる。それはきっと、とんでもない苦しみだ。頭はまだ苦痛を引きずっていて、抑制されていた記憶が脳の奥底から湧き上がったことで、水に落ちた子犬のように慌てふためいていることだろう。

私がこれから取る行動で、彼を岸へと引き上げられたらいいのだが。

たとえ、僅かな間だけであろうとも……

「2ミリリットル」私は警備員に言いながら、指を2本立てた。私はいつも、この量から始める。効果は強くないが、導入に適し、警備員にもよく知られている。私は彼らが滞りなく注射器の管を持ち上げて、ガラス瓶からわずかに黄味がかった液体を取り出すのを眺めた。クラスW記憶補強筋肉注射。使用にほとんど訓練を要さず、便利で敏速。対象は首をほんの少し回して、震える毛先を額に触れさせながら、徐々に近づいてくる注射器を見つめていた。彼は口を開いて何かを言おうとしていたが、その声が私に届くより先に、彼は抵抗を止めた。警備員たちはいつも良い仕事をし、ここに来る対象はいつも反抗の気力を持たない。彼らが対象の腕に針を刺す動作はあまりに気軽で、これと比べれば小学校の先生がオール5の生徒に赤い花のシールを貼る瞬間にさえ、もっと緊張感があるだろう。対象は全身を激しく震えさせ、痙攣を爪先から頭の天辺まで伝わせて、生臭い唾液を机の上に零した。可哀想に。だが少なくとも今からは、物事は解決に向かって動き出すだろう?

「お話をしましょう」私は言う。「どこか間違っているところに気づきましたか?」


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団地が1つ、建物は6つ、建物にはそれぞれ名前があり、小学校も併設されている。起伏のある歩道橋がそれらの間に張り巡らされ、道端の木々は散歩をするお爺さんとお婆さんに安らぎの木陰を提供する……恐らくは。実際どうだったかは分からない。それが問題だ。それが私達がここにいる理由だ。私達は分からない。私達は、この団地がどうあるべきか全く分からない。

区域全体のバックアップが破損しているからだ。

こんな事態は起こってはならなかった。SCP-2000のバックアップは完全無欠であるべきだった──私は同僚たちが満身創痍になった世界各地を歩き、極めて緻密なバックアップファイルから故宮太和殿を、エッフェル塔を、コルコバードのキリスト像を再構築したのを見た。真新しい宇宙ステーションを打ち上げようとさえしている。ただ、世界はあまりにも、あまりにも大きい。全ての場所がそのような幸運を持ち合わせてはいなかった。結局どこかしらに、不運は転がっているのだ。私達がバックアップの中身を覗き込んだ時、そこにあったのは一連なりの文字化けだった。微塵も意味を持たないデータは、まるで寝言から論理学を組み立てんとしているようにも見えた。SCP-2000はもはや完全ではなく、壊れてしまっている。それでも、私達は歩みを止めてはならない。破損は修復できる。間違いは補うことができる。これは私達が前に進むために、乗り越えなければならない障害だ。全てのバックアップが失われていたとしても、私達はこの団地を、かつて存在した美しいものを再構築する。

幸か不幸か、都市計画記録のバックアップは失われたものの、地域住民の生物バックアップが使用可能な状態で残っていた。もし破損したのが生物バックアップのほうだったら、面倒事は大きくなりすぎていた……人間社会はあまりにも複雑で、一人一人の運命が数え切れないほどの他者と絡み合っている。髪一本引けば全身まで動く始末だ。これは既に発生している問題で、多くの同僚たちが生物バックアップの破損による様々な問題を解決するため奔走しているのを知っている。私がそっちの担当じゃなくて助かった。もう一つの幸運は、人間の記憶だ……それ自体も記録バックアップの一部で、その中には失われたビル、街道、樹木、そして枝先に咲き乱れる花の姿を垣間見ることができた。それは私達の、再起動の使命を果たすための希望となった。

それは不幸でもあった。人間の脳は複雑かつ繊細で、変わりやすく不定でもある。忘れることに長けた人もいれば、覚えることに長けた人もいる。更に多くの人々がその中間にいて、忘れるべきことを覚え、覚えるべきことを忘れている。私達は銘記と忘却を上手い具合に弄くって、精緻なる薄桃色のタンパク質を玩ぶ。初な蕾に生えた一枚の花弁を揉みくちゃにしておきながら、それが元来の姿だったかのように戻しておく。

「抱き枕……」対象は喉の奥から声を絞り出した。

「抱き枕がどうかしましたか?」

「抱き枕……抱き枕だ……灰色の……」俯いた彼の唇から、涎が滴り落ちた。彼は涎を啜ったものの、数滴が彼の胸元に落下した。私はティッシュで拭き取りたくなったが、我慢した。

「今あなたの家にある抱き枕は灰色です」書類をめくり、写真を見ながら私は言う。「けれど、記憶にある抱き枕は灰色ではなかった。そうですね?」

「灰色……抱き枕は灰色……うう……」

椅子に縛り付けられた彼の右腕は震え、左手では頭を掻く。

「何か思い出しましたか?」私が尋ねても、彼は答えない。

「痒い……」彼はしきりに頭を掻き、唾液を啜る。「すごく痒い……ああ、痒いし、痛い……覚えてない……俺は言ったんだ、俺は……他に何が言える?俺には他に何が……やめろ……」

「私達が間違えたのかもしれません」私は続ける。「あなたの家の抱き枕は灰色ではなかったかもしれませんが、そこは重要ではありません。そんな細かい違いなんて範囲内ですから、無視するべき、どうでもいい部分です。なぜ、抱き枕の色の違いに気づいたのですか?」

「抱き枕……灰色……俺は……」

私は溜息をつく。このままでは埒が明かない。「もう一度、2ミリリットル」そう言いながら警備員へ2本の指を伸ばす。警備員は準備を始めた。「抱き枕の色は?」彼の注意力を逃さぬよう、私は捲し立てた。「問題に気づいたからには、その色には特別な理由があったのですよね。あなたが……2023年4月15日に買った抱き枕は、何色を選びましたか?あなたはなぜその色を選んだのですか?何かを思い出しましたか?」

「俺は……忘れた……忘れなくちゃ……思い出したら、うっ、痛い……」

2ミリリットルの液体が彼の右腕に注入される。彼は大きな悲鳴を上げ、左手を机の上で真っ直ぐに伸ばしながら、指を何か掴もうとするかのように曲げ伸ばしし続けた。

「忘れてはなりません」私は身を乗り出した。「抱き枕、抱き枕に関連する事です。あなたは覚えています。何でしたか?」

「ぐっ……あ……嫌だ……やめろ……」

強く曲げ伸ばした指は、関節が紫色に染まっていた。

「今、頭に浮かんでいるものを言うだけで構いません。何を思いつきましたか?」

「雪……」

「雪ですか?雪がどうかしましたか?」

「う……ぐ……あ……」

「言いなさい!」

「雪……雪……ユキ!ユキちゃん!」

彼は吼え、目から涙を溢れさせると、うな垂れて抑えきれない嗚咽を漏らした。書類のページをめくると、彼の言っていることが分かった。「ユキちゃんはあなたが以前飼っていたサモエドですね」私は記録を読み進める。「終末のずっと前、2020年に病死しています」

「あの毛……白い毛だ、ユキちゃんと……そっくりの……」対象は左手を握りしめ、開いた。「あれは……うっ……白くて、触ったらふわふわで……そうだろ、俺……忘れて……忘れかけてたなんて……ああ……」

苦痛に呻く彼の様子をなるべく見ないようにしながら、新品の紙に間違いのあった箇所を書き留めた。私達が間違えた抱き枕の色には意味があった、と。ズボンのポケットに入れた携帯がまた鳴ったので、取り出してさっと確認する。さっき届いたメールの続きだ。「彼はこんな目に遭う必要はなかった」。私は顔を上げる。彼は頭を机の上に横たえて、歯を擦り合わせながら、左手で頭を掻いていた。彼はこんな目に遭う必要はなかった……バックアップが破損していなければ、の話だ。

それでも薬の効き目が十分なうちに、私は自分の仕事をやり遂げなければならない。

「よく頑張りましたね」私は言う。「けれどこれが唯一の問題ではない、そうでしょう?」

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脳は言うことを聞かない。

ゾウのことを考えるなと言われたら、却ってゾウの姿を思い浮かべてしまう。元カノへの執着を忘れろと言われたら、却って元カノとの思い出を夜な夜な咀嚼してしまう。懐中時計でどんな暗示もかけてしまう催眠術師は実在せず、人間は操り人形でもパペットでもない。心の複雑さで迷路を作ったなら、誰だって百匹のミノタウロスを罠に嵌めることができる。細部、経験、回想、感情をなおざりにして人ひとりを私達の指令に従わせようとするのは、石塊にミロのヴィーナスの形へと自然に風化するよう頼むようなものだ。

私達は薬物の力を借りるしかない。それは「薬物」という呼び名さえも、まだ生ぬるい。一種の傷害、一種の侵略、人の脳への傷害、人の記憶への侵略だ。その名は、ENUI-5。SCP-2000が完全無欠だった頃の成熟したENUI-5は、人々から終末の一切を忘れさせ、繰り返される再起動の辛苦を忘れさせ、財団の存在を忘れさせる。再起動した世界は完璧で、今までと地続きで、せいぜい微かなエラーしかなく、更にENUI-5は小さな瑕疵など完全に覆い隠せる。そして私達はヴェールの後ろ側へと引っ込んで、使命を守り、暗闇の中で静かに人類の光を守る。

だが今はそうもいかない。バックアップは欠落とエラーに満ちているが、他に世界を完璧に再起動する方法があるとでも?特定の修正を施していないENUI-5をそのまま適用した場合、再起動後の世界と記憶バックアップの不一致に直面した時、脳の自動的な補完の成功率は70%にも届かない。

私達の使命は、合意を経た現実の連続性を保証することだ。成功率は90%を超えていなければならない。

100%に近いほど良い。

特定人員のバックアップを対象にENUI-5を調合することが、現在最も成功率の高い手法だ。石塊の一つ一つへ風砂がキューピットの顔を正確に彫刻するように、地域の状況に応じてその強弱をコントロールする。時間がかかることが欠点だ──バックアップ人員の記憶をどう操作するか、対応するパラメータをどう調整するか、結局まだ何一つ判明していないから酷く時間がかかる。ただ、今の私達に最も有り余っているものが時間で、その次が人だ。実験の成功は数え切れないほどのテストから生まれるが、私達には無限にも近いほどの豊かな資源と時間がある。世界が新生を迎える度に欠落した細部に対処して、不連続な細部を直視した人が出る度に、ENUI-5の粒度を調整し、試す。

机に突っ伏して痙攣する対象を見ていると、急にちょっとした恐怖心が浮かんできた。彼がここにいる理由は、ENUI-5のテスト中に再起動した現実の不連続性に思い至ってしまったからだ。幸いにもこれはテストで、特定の場面だ。もし、再起動後の世界で不連続性に勘付かれたら、その気づきは更に多くの気づきを誘発する。彼はある種の感染症患者になって、気づきを周囲の人へ伝染させる。周囲の人は更にその周囲の人へ伝染させる。頭にゾウの姿を思い浮かべだして。団地の住民全員がENUI-5の手抜かりのせいでヴェールの存在を察知し、覆い隠されていた終末を発見するかもしれない。

計画にタイムリミットがない以上、私達に敢えてリスクを取る選択はない。

私は立ち上がり、警備員へ指を3本立てながら、彼の隣へ移動した。3ミリリットルの液体が注入され、痙攣が爪先から頭へ伝う。私が彼の肩を掴むと、彼は顔を上げて、首筋を絞められたペットのように、丸く見開いた目から涙を流す。少し乱暴になろう。情を捨て、心を鬼にするんだ。私は私に言い聞かせる。

「これが唯一の問題ではありません」私は彼の顔を直視する。「抱き枕の色は始まりに過ぎなかった。あなたは間違いを認識し、別の間違いにも気づいた、それは何でしたか?」

「忘れた……忘れた……」

3本の指。液体注入。痙攣。

「彼らはあなたに忘れろ、忘れるな、思い出せと言いました」私は声を荒らげる。「あなたが他にも間違いを見つけたことは分かっています。今日は昨日の続きではない。脳が無視しろと言っていてもあなたは無視できなかった。どうしてユキちゃんを忘れていたのですか?どうして抱き枕を撫でた時の懐かしさと哀しみを忘れていたのでしょうか。不自然です。石を湖に投げ込み、波が湖底の汚らしい沈泥を巻き上げるように……あなたは不自然さに気づいたのです!」

「違う……違う……忘れた……覚えてない……」

4本の指。液体注入。絶叫。

「あなたは気づいている、そうでしょう!?あなたの脳には柵がある。柵の正面には棘があって、指ほどの厚さがあり、喉に引っかかった魚の骨のように刺さって痛い。柵の向こう側が痒くて、脳の指で柵を引っ掻いている。あなたは脳のどこに痒みの元があるかを見つけ出して、そこを掻かないといけない。私が許可します。私がその力を授けます。言いなさい!あなたは何を思い出したのですか?」

「ぐ……やめろ……あああああ……」

5本の指。液体注入。耳をつんざく叫声。掴んでいた手を離すと、彼は「ガシャン」と音を立てて椅子ごと床に倒れ、電気ショックを受けたかのように全身を痙攣させた。そして制御不能になった口から、柵の向こうにあった一切を吐き出した。

「抱き枕は白だユキちゃんの毛の色だ俺が抱きしめると舌を出して笑ったんだ覚えてる覚えてなきゃ2階の階段の最後の段に出っ張りがあって躓いた売店の隣りにあった東屋によく行った忘れるな覚えた覚えてる覚えてる覚えて覚えて覚えて覚えて雨宿りしてた女の子の身長は小学校の表札より高かった忘れさせろお前らが忘れろって言ったんだ白い抱き枕ユキちゃん女の子階段階段下の階の爺さん婆さんが茶を飲んでた鉄観音の良いやつかプーアル白い抱き枕思い出せ思い出せ思い出せ俺たちの白いユキちゃんと女の子と階段の出っ張りとそれとそれとそれと──」

彼の気づいた不連続性の全て、彼の潜在意識に眠っていた特に気になる場所の全て、これらの情報を私は書き留めた。もちろん、完全に彼が話した通りに修正する必要はない。建物側を修正してもいいし、ENUI-5側で修正もできる。それらは互いに関連していて、2つの異なるモデル同士だけれど、歯車を交互に噛み合わせる必要がある。私達は最も合理的な噛み合わせを探して、見つけ出す。ペンにキャップを被せ、今回のテストは完了だ。すぐに実験報告を提出して、改善を進めよう。ご協力に感謝します。私は対象に向き直って、そう言おうとしたが、結局言うことはできなかった。

対象は床に横たわり、痙攣し、嗚咽し、記憶の奥深くにあった細部を繰り返している。涎がひとりでに彼の口から漏れ出し、薄黄色の吐瀉物がオレンジ色の制服を濡らしていた。


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「俺は……どこへ行こうとしてたんだ?」

床に転がっていた対象が突然こう言った。私は彼を見る。体の震えと痙攣が止んだ彼は、どうにかして上半身を支え起こそうとしていたが、体と手を縛り付けている椅子を同時に支えることができずに、手を滑らせてまた倒れた。

「俺……俺は……覚えてるのか……それとも忘れちまったのか……分からない……」彼は深呼吸をして、私に尋ねた。「俺は今……どこへ向かってるんだ?」

正直、私にもその問題の答えは分からない。私の管轄ではないからだ。これほどの揺さぶりに、人間の脳はそう何度も耐えられない。だが、バックアップは十分だ。少なくとも今は十分だ……彼はもう一度ENUI-5のテストを受けるだろう。合格かもしれないし、不合格かもしれない。もし彼の状態がテストに適さなくなったなら、新しいバックアップが生成される。その時残された彼は……実際どこへ向かわされるのか、私は知らない。

私に何が言えるだろう?私は知らない。私はどんなことを言えば彼に少しの安心を与えられるか知らない。彼は濁った両目で私を見つめていて、まるで弁解の力もない無辜の囚人が裁判官の判決を待っているようだった。私は顔を背け、手を軽く振った。すぐに駆けつけた警備員が、彼の右手にぶら下がっていた千切れたベルトで両手を拘束し、部屋の外まで引きずっていった。

「俺は……俺は悪いことをしたのか……覚えてちゃいけなかったのか?俺……俺は……やめろ!やめろ!」彼は私に向かって喚く。「忘れるよ……忘れろって言うんだったら……忘れるからさ!頼む……ゲホッ……お願いだ!俺は何も覚えてない、俺は何も覚えてない!忘れるよ!忘れるから!ゲホッ……ゲホッゲホッ……お願いだ!お願いします!ぐあ──」

彼の声は廊下の奥へと消えていき、部屋には私だけが残された。私はぼんやりと机の上に散乱した書類を眺め、立ち上がり、黙って片付けを始めた。脳が両手を操っているような気がせず、紙を摘む指が自分のものではないように感じられた。これが今日私が担当する対象で、明日もあるし、明後日にはもっとある……繰り返される再起動には終わりが見えず、テストすべき損傷したバックアップは何百何千と残っている。いつまで続ければいい?もし私がこの仕事を続けられなくなった日が来たら、SCP-2000は新たな私を生成し、そして継続させるだろう……新生した世界の完璧な連続性を保証することは、本当に難しい。あれほど多くのものがテストされ、多くの細部が処理され、多くの人々が……犠牲に……

携帯がまた鳴った。取り出して確認すると、メールの新しい一文に気づいた。「あなたは止める方法を知っている」。メールを開こうとした時、自分の指が震えていることに気づいた。アドレスはなく、差出人の名前もない。たった3行の言葉だけがそこにあった。

「そんなことをする必要はない」

「彼はこんな目に遭う必要はなかった」

「あなたは止める方法を知っている」

私は知っている?

廊下からまた、対象の叫ぶ声が幽かに聞こえたような……いや、聞き間違いだろう。彼はもう遠くまで連れ去られていて、絶叫も動作するSCP-2000の轟音がとうに掻き消したはずだ。私が聞いたのは、自分の心臓が跳ねる音かもしれない。音は少しずつ大きくなる。それは思い出させようとしているのだ、私は答えを知っていると──

「世界を連続させようとしなければ、ずっと簡単だっただろうに……」私は気づかぬ内に、無意識にその言葉を口にしていた。

「君は正しい」

急に振り向いた私の目に、部屋に入ってくる集団が映った。集団は男女バラバラで、白衣を着た人、スーツと革靴の人、機動部隊の戦闘服を着た人までいる。彼らが財団職員であることは間違いないが、私は彼らの顔に見覚えがなかった。外見はそれぞれ異なっていたが、誰の瞳にも輝きが宿っているように見えた。あれは……信念、あるいは悟りの放つ光芒だ。

「もしリセットを繰り返す必要がなければ」先頭に立っている清潔なスーツの男性が言う。かなり高齢のように見えるが、その眼差しには揺らぎがない。どうやら上級メンバーのようだが、私にはいつ彼と会ったのか思い出せない。「終末を隠す必要さえなければ、我々はこんなことを行なわなくともよい」

「私の担当しているBZHRユニットは今日、3つのバックアップを破壊しました」白衣を着た女性が言う。「バックアップが破壊される度に、事故を設計し記憶を修正して、真実を隠すために奔走する人が必要になります。そんなことをする価値が、本当にあるかしら?」

「歴史を銘記することが、悪いことなはずないだろ?」若い男性が同調する。「どうして再起動なんかする必要があるんだ。俺たちは終末を乗り越えて、生き延びたんだ。どうして大量の資源を使って歴史を隠そうとするんだ?そんなの無駄じゃないか!」

「我々はイエローストーンにてこの機械を見つけた……」軽やかな声がした。顔を上げた私は、背の高い、皺だらけのスーツとボロボロのテンガロンハットを身に着けた男が部屋の角に寄り掛かっているのを見た。彼は細長い指でウクレレを弄っていたが、弦が音を奏でることはなかった。「我々はその機械が、世界の再起動を手助けしてくれることを発見した。バックアップを取り、指示に従った。そしてどうなった?我々はなぜこんなことをしなければならなかったのか?どれほど続けているのか?」彼はウクレレのヘッドを掴み、振り上げると、憤怒を込めて壁に叩きつけた。
「そもそも我々は知っているのか?!」

ウクレレの破片が床に散らばる。破砕音がまだ、部屋の中を反響していた。

「君も見ただろう」先頭にいたスーツの男性が私に近づいた。「全くもって不必要なことばかりだ。SCP-2000は既に壊れている。我々は決して叶うことのない、意味さえとうに失った目標を実現させろと強いられているのだ。我々であれば止められる」

「SCP-2000をシャットダウンすれば……」白衣を着た女性が言う。

「SCP-2000をシャットダウンすれば……」若い男性が同調する。

「SCP-2000をシャットダウンすれば、全ては終わる。世界はまだ再建できる。我々はまだ、輝く未来を、新しい歴史を、新しい物語を手に入れられる。歴史はただ記憶され、終末の存在は認められる。大したことはない」

スーツの男性が期待を込めた表情で私を見る。「君も賛同してくれるかね?」

彼らの言葉が私の脳内をこだまする。先程の実験対象の叫声と混ざり合い、交錯する。二つは正弦波のように重なって……

「そんなことをする必要はない」

「彼はこんな目に遭う必要はなかった」

「あなたは止める方法を知っている」

私は彼らの輝きを宿す瞳を見つめ、頷いた。

「素晴らしい」スーツの男性は微笑んで言った。「さあ行こうか──」

「我々はSCP-2000をシャットダウンするんだ」


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私はSCP-2000の内部を進む彼らを追いかけた。彼らが私をどこへ連れて行こうとしてるのかは知らない。ただ下へ、中へ、奥へと向かって行っていることだけは分かった。SCP-2000の巨大さは知っていたが、今の私には予想より遥かに大きいように感じられた……廊下の灰色のコンクリート壁のでこぼこした表面、建物の深部でひっきりなしに鳴り響く機械の轟音。角を曲がり、階段を登る。何度も繰り返されているような景色の中で、止むことのない足音と息遣いだけが時間の経過を教えてくれた。

私は集団に続いて深部へ向かう。見知らぬ人々との行動で、多少の孤独感に苛まれる。その一方で、考えを同じくしているおかげで、自分もこの集団の一員なのだという自覚が芽生えてきた。これが正しいやり方だ……私もそう信じ始めている。先程の実験対象に思いを馳せる。全てが終わったなら、彼も私達の仲間として、新たな未来を築くため汗を流すことができるだろう。きっと簡単なことではないし、楽な人生を送れるとも限らない。それでも、彼は自由を手に入れる。彼はまともな扱いを受けることができる。侵略されることのない記憶を太陽が照らし、彼は生きる希望と共に新世界を歩き出す。

そんな結末だって、美しいと思わないか?

あんなことをする必要はない。

彼はあんな目に遭う必要はない。

私達なら止められる。

どれほど歩き続けたことだろう。私達はついに、巨大な金属製の気密扉の前へ辿り着いた。床と扉の接触面に分厚く積もった埃が、足で踏まれる度に巻き上がり、渦を作っていた。スーツの男性は上着のポケットからカードを取り出して、扉の電子ロックにさっと翳した。あの光沢のあるカード、まさか……レベル5セキュリティクリアランスか?この人生の中で、レベル5メンバーにここまで近づいたことはない。

「恐れることはない」スーツの男性が私に言う。「入りたまえ」

私は中へ入った。壁も天井も見えないほどの、巨大な部屋がそこにあった。四方八方を夥しい数の配管、ディスプレイ、ケーブルと機械構造が埋め尽くしている。液体がシューシューと音を立てながらパイプの中を流れ、放熱していた。ディスプレイは白く点滅し、入り乱れた細切れのコードとデータが止むことなく瞬く。ピストン、歯車、そしてロボットアームが順繰りに動き、まるで異星の交響楽団が全く異なる美学で楽章を奏でるようだった。私は視線を下に向ける。半透明の床の向こうに、整然と並ぶコンピュータークラスターが見えた。一台一台が積み重なって、視界の果てまで伸びている。列をなすインジケーターランプの瞬きは、逆さまになった満天の星空に似ていた。果てしない機械の轟音が私を包む。けれど却って、自分自身に対する感覚が鋭くなり、呼吸も、鼓動も、脳が思考する音さえも聞き取れた。

私は理解した……それは知能を有している。それは意識を有している。それは聞いている。

「言いたまえ」スーツの男性が私の肩に手を置いた。「恐れることはない。大丈夫だ。我々の決定を、それに聞かせてやりなさい」

私は後ろに立つ仲間たちを眺めた。彼らの瞳は輝きを宿していて、揺らぐことのない光芒を放っている。こんなこと、もう止めてしまおう。破損は大きくなりすぎて、目標はもう達成不可能だ。今すぐに停止する、それこそが正しいやり方だ。これ以上の犠牲はいらない。終末を引き延ばしてはならない。私達は全てを終わらせて、光を阻むヴェールを取り払い、人類のため真なる未来を手に入れる。

私は顔を上げ、周囲の点滅し続けるディスプレイと動き続ける機械を見る。そして深く息を吸い、ゆっくりと声に出した。

「再起動の繰り返しを、終わらせましょう」

その刹那、世界は静穏だった。ディスプレイは一つ一つ消灯し、機械は動きを止め、部屋は次第に暗くなっていく。一緒に歩んで来た財団職員たちが、ゆっくりと私の周りに集まってくる足音が聞こえた。待ち望んでいた、全ての終わりがやって来る。その、僅かな刹那に……

瞬く間に、全てのライトが同時に灯った……血のごとく真っ赤な色に。全てのディスプレイが警告を表示し、パイプの接続部からは白煙と熱気が噴出する。大きくなっていく警報音が、全身の毛穴を急激に収縮させた。ネジと歯車が床にばら撒かれ、部屋全体が揺れだした。突然、周りの仲間たちが悲鳴を上げると同時に、鋭い激痛がどこからともなく私の脳を貫いた。赤熱した鉄の棒で、頭蓋骨の中身を撹拌されているかのような痛みが私を襲う。力の籠もった指が、私の頭蓋を強く押さえつける。口を開けて叫んでも、自分の声が聞こえない。機械の轟音が、激痛を除いた私の感覚の全てを沈めてしまっていた。

そして、私は聞いた。遥かな高みより降り来る、男の声を、女の声を、金属の声を、人ならざるものの声を混ぜ合わせた、聖堂の鐘の音にも似た響きを。音は煮え滾る瀝青になって、私達皆を溺れさせる。全ての声は同じ言葉を繰り返していた。

否決!否決!否決!


激しい痛みで思考もままならず、私は地に跪いた。焼けるように熱い液体が私の顔に飛び散った。必死に振り向くと、部屋にいた人々が、名前を聞く暇もなかった同僚たちが、頭を次々に破裂させていた。ダーツで射抜かれた水風船のように。宙に浮かぶ四散した頭骨と血肉が、絶えず点滅する警報灯の光を反射する。次から次へ、視界の中の彼らは一人また一人と処刑され、炸裂する頭蓋との距離がどんどん近づいて、次の瞬間には私の番が来た。

パアンッ。

溢れ出す鮮血が私の全身を濡らす。続いて床が崩れ、力の入らない体が幾千万のガラス片と、血液と、頭蓋と、名も知らぬ死体と共に、墜ちていく。深く深く墜ちていく──

そして、目が覚めた。


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夢を見ていたようだ。

それが本当に夢だったかどうかさえ定かじゃない。あまりにもリアルだった。夢の中で見た灰色のコンクリート壁のでこぼこした表面、鳴り続けていた金属の轟音、そして頭を貫いた激痛……リアルすぎて、細部まで真実味があって、生き生きとしていた。けれど、不条理だった。私は夢の中で会った財団職員を知らない。私はイエローストーンであんな部屋を見たことがない。私はSCP-2000が口を利くところだって──

SCP-2000は口を利かない。

それに、どうしてSCP-2000をシャットダウンしようなどと考えていたのだろうか?終末のもたらした暗雲は未だ晴れず、生き残った人類は恐怖の中で暮らしている。ヴェールを取り払い、壊れた世界を生かし続けることを選ぶなんて、できるわけないだろう?私達はずっと、こうやってきた。人類は特筆すべき歴史を4000年近く続けている。それならばなぜ、一つの厄災のためにそれを軽々しく中断せねばならない?これは私達の失敗に過ぎない。ただの不運、収容違反と本質的には何の違いもない。私達の使命は変わらない。「確保、収容、保護」。人類の歴史を続けることが最良の方法だ。私達には十分な時間と、十分な資源がある。ならば原状回復こそが、リスクを軽減する最善の選択肢だろう?

私はなぜ理由を考え続けているんだ?私は忠実な財団職員で、やるべき仕事がたくさん残っているのに、どうして財団が私に与えた使命を疑っているのだろうか?

やはり、あれは夢だったのだろうと思う。深く考えずに、心の底からあれは夢だったと受け入れれば、夢らしい部分もより明白に見えてくる。最後には、夢の具体的な内容すら忘れて、その内容さえも激務の中では全て放り捨てるように迫られる。

SCP-2000は口を利かない。

コーヒーカップに残った茶褐色の液体を最後の一滴まで喉に流し込んで、昨日の夜のうちに整理しておいた書類を取り、過去5、6年間と同じようにSCP-2000の廊下を歩く。これは夢ではなく、現実だ。これが私達の仕事だ。これが私達、財団職員の仕事だ。仕事はしっかり遂行しなければ。

取調室のドアを開けると、二人の警備員が今日の対象を金属製机の向かい側に座らせていた。男性、35歳、手入れされていない髪はボサボサで、口元には唾液と食べカスが付着している。吐き気がする。私は机の反対側に座り、彼の顔を見た。彼は俯き、目玉をぐるぐる回していた。頭はまだ苦痛を引きずっていて、抑制されていた記憶が甦っていることだろう。まさに私の求めていたものだ。

「2ミリリットル」私は警備員に向けて、指を2本立てた。



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